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†††十字軍の歴史†††

1 :世界@名無史さん:2005/05/30(月) 23:54:00 0
について語ろう。
ビザンツ史やイスラーム世界の歴史にくわしい人、
フォローよろしこ。


2 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:19:12 0
>>1
映画「キングダム・オブ・ヘブン」観たきゃ?

3 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:24:43 0
ドキュンフランク人も二百年かければそこそこ人間らしくなってくることが
証明された貴重な例

4 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:28:38 0
聖王ルイの率いた十字軍は、日本では気の毒なほど取り上げられないな。


5 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:42:41 0
第一回十字軍がコンスタンティノープルに到着したとき、使者たちが
なかなか帰ってこないので、仲間がビザンツ皇帝の人質に取られて
しまったと思い込み、すべてを掠奪すると脅して城壁の上を歩き回った。


6 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:47:53 0
キングダム・オブ・ヘブンってどこまで真実なんだ?
投石機ってあんなに石が飛ぶんかいな?
本当にあんな事実あったん?

7 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:49:00 0
定金伸治「ジハード」を読んだだけで十字軍どころか中世全般に詳しい、と豪語するオタがうちの大学にいます。

8 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 00:59:51 0
>>6
400mぐらい飛ばすことができるそうです。
ttp://www.cathares.org/dessin-trebuchet-1.gif
↑あの映画で使われていた投石機は「トレビュシェ」と呼ばれるタイプ
です。


9 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 02:08:34 0
十字軍、レコンキスタの始まった11世紀末辺りが徐々にキリスト諸国とイスラム諸国のパワーバランスが逆転する端緒なのかな。
15世紀、大航海時代が始まってスペイン・ポルトガルなどが海上からイスラム支配下の要所を攻撃・占領したり、
かなりもう力関係がひっくり返りつつあったように見えるが
オスマンのふんばりでしばしおあずけとなったようだ。
18世紀に入ってやっと決定的にキリストのイスラムに対する優位が確立されたようだ。

10 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 09:20:12 0
>>9
確かに、11〜12世紀のヨーロッパは大きな転換点を迎えていたと思う。
この時期に現在の西欧社会の原型が形作られたというか…

いわゆる「教皇革命」(聖職叙任権闘争、グレゴリウス改革)が起こるが、
これなしには十字軍もありえなかった。

11 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 10:48:06 0
ケンブリッジ大学のジョナサン・ライリー=スミス教授は、
中世ヨーロッパのキリスト教徒が十字軍を派遣したのはイデオロギー面
からみて正当であった(もしくは、いずれにしろ避けられなかった)と
主張しているそうですが、
この学説についてくわしく知っている方はいらっしゃいますか?

12 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 16:00:29 0
ttp://www.ncn-t.net/ridwarn/other.html
攻城兵器



13 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 16:23:17 0
塩野七生氏の本でおなじみの、第5回十字軍を率いたフリードリヒ2世
だが、彼は即位するとまずシチリアのムスリムを大量虐殺し、彼らを
イタリア東部のルチェラに移している。
彼はエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの娘イザベルと結婚したが、
ジャンがまだ生きているにもかかわらず、約束を破って自分が
エルサレム王になった。

14 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 19:58:26 0
当時のシチリアのムスリム虐殺って山賊退治みたいなもんだったんじゃないの?

15 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/05/31(火) 20:14:44 0
十字軍史は個人的にあんまりお勧めしないテーマだよ。
アンティオキア近郊マアッラの町の惨劇とかグロすぎ。

16 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/05/31(火) 20:25:31 0
>>13
フリードリヒ2世の十字軍は第6回だよ。
それから、塩野七生なんてここでソース引用したら笑われちゃうからおやめなさいね。

17 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 20:35:18 0
ほんとDQNだよな・・・キリスト教諸国って
異分子ともまたーり共存がデフォなイスラムにとっては
宗教が違うってだけで悪魔のような所業を嬉々として行う彼らを理解できなかったろう。
ヨーロッパでナチスのような勢力が現れたのは必然だよ。

18 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 20:35:56 0
>>14
グリエルモ2世の死後、各地でキリスト教徒VSムスリムの暴動が頻発した。
多くのムスリムは北アフリカに亡命するか、シチリアの山岳地帯で抵抗を
続けた。
フリードリヒ2世がシラクサの自治体制からジェノヴァ商人を排除すると、
彼らはムスリムを煽って対抗しようとした。フリードリヒ2世が山岳地帯に
いたムスリムを大勢殺したのはこのため。
その後降伏したムスリムをアプリアやカラブリアに移し、土地を与えている。

19 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 20:38:41 0
>>17
マターリ共存というか、共存しないと国が成り立たなかっただけの話なんだけどな。
もちろん異教徒でも寛容に扱ってたのは凄い事だけど。

20 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 20:50:19 0
>>16
数え方による。
ジャン・ド・ブリエンヌらのエジプト攻略を入れない説もあるから。

21 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 20:57:43 0
>>18
ありがトン。
ジェノヴァってこのときからムスリム食い物にしてたんだね・・・
このあとイタリアに移住した彼らは皇帝親衛隊になったって話を聞くけど、
イタリアのムスリムって何世紀ぐらいまでいきてられたのかなあ?
なまじ教皇様のお膝元ってだけに現地のキリスト教社会との軋轢が凄そう。
>>19
イスラムが寛容というか、単にもとからキリスト教圏内だったところにムスリムが増えたって事情があったから
殊更に憎しみ合わずにすんだってだけじゃないかな?
スペインのキリスト教もレコンキスタ完了前まではムスリムの扱は悪くなかったし。
ドイツとか北フランスとかのムスリムと交流のない輩が、
教皇の言うことを間に受けちゃった所に十字軍の悲劇があると思う。
>>3の言う通り、200年も聖地で過ごせばフランク人だってマトモになってくるし。

22 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 21:00:12 0
>>21
アンジュー家の支配下に入ったときに、ムスリムの居留地は絶滅。
>>19
イスラームでもムラービト朝やムワッヒド朝はわりと狂信的で、
ユダヤ教徒やキリスト教徒を迫害した。

23 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/05/31(火) 21:01:44 0
>>20さん
カニバリズムの詳細な描写が避けれないからさ、
…グロすぎて読めないの、わかってよ。

24 :14:2005/05/31(火) 21:07:32 0
>>22
アンジュー家って二百年かそこらかあ(;´Д`)
やっぱフランス人はドキュンかも
>>19
イスラム国家って迫害するときとしない時の差が激しいよね。
君主がドキュンだともう悲惨でしょうがない。

25 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/05/31(火) 21:17:52 0
確かにムラービト朝やムワッヒド朝の虐殺は有名で、
多くのユダヤ人がイベリアから亡命してるよね。

有名なところではエジプトに亡命した哲人マイモニデスや、
ローマに亡命した詩人イブラヒム=イブン=エズラがいる。

26 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 21:35:39 0
>>24
>>25
ファーティマ朝のアル・ハーキムもお忘れなく。

ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、十字軍とくにロベール・ギスカール
の息子ボエモン・ド・タラントを警戒していた。


27 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 22:21:53 0
>>22
ルチェーラのムスリム居留地が滅ぼされたのは1300年のこと。
シャルル・ダンジューの子のシャルル2世(カルロ1世)の時で、
ホーエンシュタウフェン家からアンジュー家の支配に変わって
すぐ滅ぼされたわけではない。
シャルル・ダンジューもフリードリヒ2世やマンフレートと同様に
バルカン半島での戦いやシチリアの晩祷の後のアラゴンとの戦いに
ムスリム弓兵らを動員している。

28 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 22:32:02 0
>>21
騎士が何であんなに過激になったかというと、祖国にはもう居場所が
無かったというのも大きかった。
既に分割相続から一括相続へと潮流が変わってて、相続者の数を絞る為に
長子以外の十字軍遠征への参加を強制した家系も多かった。
これで家系が断絶する場合も多かったのは皮肉だけど。

29 :28:2005/05/31(火) 22:39:29 0
補足。
特にフランスね。ドイツだと騎士階級はまだまだ発展途上だったから。

30 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 22:46:15 0
>>28
過激なのは騎士たちよりも貧民だったのでは?
聖地に向かう前に各地でユダヤ人を虐殺しているし、民衆十字軍の
大部分はヨーロッパを横断する旅の途中で姿を消したが、シリアや
パレスチナに到達して、流浪者の一団となったものもいた。
この集団は「タフル」と呼ばれ、傷だらけで不潔で、木の根や草や、
ときには敵兵の死体を焙って食料にした。
彼らが通過した土地はすっかり荒らされてしまうほどの凶暴な集団で、
ムスリムたちは彼らのことを、「フランク族ではなく、生ける悪魔」
と呼んでいた。
十字軍に参加した諸侯たちですら彼らを恐れていたほどだった。

31 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 22:50:40 0
>>30
それは何だか話の観点がズレてる。

32 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/05/31(火) 23:12:01 0
家事道具を売り払い豊かな土地の略奪に一攫千金の夢を馳せ、
馬が持てないので一匹の馬に二人乗りする“騎士”の姿には、
コンキスタドーレスと同じ人種なんだ〜って、既視感がある。

33 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 23:19:54 0
正解はどっちも過激

それにしても今は史劇ブーム、第一回十字軍の映画を見てみたいな。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルしそうだが。
初期の十字軍は精神的にグロい、なんというか狂信者怖すぎ
しかも目的達成してしまうんだもんな。
悪が栄えてしまうバッドエンディングにしかならんな。
ジャンルは史劇というよりホラーだな

34 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 23:47:22 0
>>33
>ジャンルは史劇というよりホラーだな

ムスリムの密偵が十字軍の厨房に潜入すると、串に刺されて回転
しているいくつかの死体があったとか。

35 :世界@名無史さん:2005/05/31(火) 23:54:37 0
第一回十字軍の主な顔ぶれ

ゴドフロワ・ド・ブイヨン
その弟ボードワン
ロベール・ド・フランドル
ユーグ・ド・ヴェルワンドワ(フランス王の弟)
エティエンヌ・ド・ブロワ
レイモン・ド・サン=ジル
ボエモン・ド・タラント(ロベール・ギスカールの息子)

36 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:04:07 0
>>28
テンプル騎士団などの騎士修道会に入ったのも、
貴族の次男坊・三男坊が多かった。

37 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:16:36 0
そういう次男坊連中に対する見返りみたいなモノってあったのかな?
家督は継げない、入っても何もないじゃ役立たず扱いされてるってわかりそうなもんだけど。

やっぱ「将来どこそこの領地が手に入ったらそこをあげますね」みたいな
確約でもされてたんだろうか?

38 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:22:27 0
>>37
多分そうだと思います。十字軍に参加して活躍すれば、領地や富を
手に入れることができたのでは?
そもそも諸侯にしてからが、ゴドフロワ・ド・ブイヨンはエルサレム
王に、ボエモン・ド・タラントはアンティオキア公に、レイモン・ド・
サン=ジルはトリポリ伯に、ボードワン・ド・ブローニュはエデッサ伯
にと大出世してますから。

39 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:27:12 0
>>38
成る程。具体的に参加者がどんな役職に就いたのかまでは知らなかった。
dクス、勉強になったよ。

40 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:36:19 0
>>37
第一次十字軍で諸侯になった連中ってのは、配下を抱えてるれっきとした
フランスの諸侯。
次男以外の口減らしってのは、一族から信仰で強制されてやむなく・・・というケースが多かった。
本人にしてみれば神聖な任務とでも思い込まなきゃやってられないだろうと思う。
とはいえ上手く行けば喰うには困らなかったけど。(領主付きの騎士になれるから)

41 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:47:23 0
>>37
かなりの数の巡礼者たちもまた開拓者になったようです。
パレスチナの農業人口のうち、大半がキリスト教徒またはムスリムの
シリア人でした。
もちろん教会参事会員たちも多くの土地を持っていました。

42 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:55:15 0
聖地に定着して長いことたつと、西欧人の中にはシリア人・アルメニア人・
キリスト教徒のアラブ人女性を妻に娶ったり、現地人の義理の家族と
同居したり、複数の言語を操るようになる者があらわれた。
またボードワン1世も、妻のゴトヴェア・オブ・トスニーが聖地に
たどりつく前に死んでしまったので、アルダというアルメニア人女性を
妻にした。
またボードゥアン2世・ド・ブールも、アルメニア人メリタ領主ガブリエル
の娘モルフィアと結婚している。

43 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:07:10 0
>>40
信仰心ってのはすげえよな・・・。

>>41
ということは遠征して土地を奪ったらあとは思ったよりも楽に領土に
出来たんだろうな。少なくとも俺がイメージしてた大変さはなさそうだ。



44 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:19:50 0
>>43
ローマ教皇ウルバヌス2世は、十字軍に参加した者に対して贖宥を
約束している。殺傷を生業とする騎士にとって、これは魅力的だった。
何しろ当時は、罪あるままに世界の週末を迎えるならば、「火と硫黄の
燃える池」で「第二の死」を迎えると考えられていたのだから。

人々がもっとも気を使ったのはやはり水だったようだ。水路や貯水池
や水車をつくった話がよく出てくる。

45 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:29:55 0
>>44
へえ、じゃあ十字軍の遠征でいくら殺しても罪は赦されるって事か?
俺はてっきり殺しても罪にはならないって考え方が蔓延していたと思っていた。
第一回の頃には一応、罪としていたんだな。

・・・やべ、少し楽しくなってきたな十字軍の話。

46 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:32:45 0
>>45
罪じゃないし、十字軍に行く事で永久贖罪が約束されてた。
でも妻などが止めたら、留まるべきだとされた。

47 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:37:36 0
>>46
また楽しそうな話が出てきたな
>妻などが止めたら、留まるべきだとされた。

ちょっと興味出てきたから今から調べてみるわ。おまいら色々とdクス。
読まなきゃいけない論文がまた増えそうだw


48 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:43:21 0
>>46
十字軍に多くの女性たちが参加していたということは、あまり知られていない。
例えばアプリア公ロベール・ギスカールの妻ジッヘルガイト、
ブルゴーニュ侯ユード1世の娘フロリンダ、レーモン・ド・サン=ジルの
妻エルヴィール、ボードワン・ド・ブーローニュの妻ゴドウェアなど。


49 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 01:51:38 0
クレルモン公会議は、聖職者・修道士に対しては、直属の上長の許可が
なければ十字軍に参加してはならないことを命じ、
世俗の人々の場合でも、聖職者の意見を聞かずに参加することはできず、
また若い夫は妻の同意が必要であった。
もちろん、上長の許可があれば、聖職者・修道士もエルサレムに行く
ことができた。

50 :46:2005/06/01(水) 01:55:34 0
>>47
だって教会法違反だからな。グラティアヌス教令集を読むと良い。

51 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 02:18:46 0
1097年7月1日に、ドリュラエウムで十字軍はセルジューク朝の軍隊と
初めて戦ったが、彼らはトルコ人の戦法をまったく知らなかった。
猛暑の平原で、キリジ・アルスランの軍隊に突然包囲された。
敵は波状で前進し、はるか遠方から投槍を放ち弓を引き、あらゆる方向
からフランク人を取り囲んだ。
ヨーロッパ式の、重装備の騎士の突撃は相手には通じなかった。
ムスリム騎兵は、遠距離で戦い、決定的な攻撃を避けようとして散開
することを不名誉だとは思っていなかった。

52 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 08:36:24 0
>>33
>初期の十字軍は精神的にグロい、なんというか狂信者怖すぎ
>しかも目的達成してしまうんだもんな。

十字軍の成功の原因として、当時のイスラーム世界が分裂していたことが
あげられると思う。
セルジューク朝はマレク・シャーの死後、ケルマン・シリア・ルームに分裂し、
エジプトにはファーティマ朝があった。


53 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 10:13:11 0
十字軍って第二次世界大戦の旧日本軍を思わせる。
「聖なる十字軍に敗北はない」と信じきってるところとか、
補給や兵站のことをまったく考えずに突き進むところとか…

54 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 10:44:05 0
そうか?

55 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 10:54:44 0
>>43
>ということは遠征して土地を奪ったらあとは思ったよりも楽に領土に
>出来たんだろうな
んなこたあない。第一次十字軍でムスリムを殺しすぎてしまったせいで、
大勢のムスリムが死亡、逃亡してしまった。
この問題を解決するために十万人ほどの開拓団がヨーロッパから送られることになったが、
そのほとんどは小アジアでトルコ人に殲滅されてしまう。
土地はあっても労働人口が足りないのでは話にならないので、
結果として十字軍領主達は現地ムスリムを優遇(といってもそれまでと比較して多少いいだけに過ぎない)
して、彼等が逃げださない様に気を配ったり、ヨーロッパからの巡礼者に土地を与えたり、
スカスカになった領土を維持するためにあらゆる努力をしなければならなかったのである。

56 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 11:07:58 0
ボードワン2世は、エルサレムの町の入り口で徴収していた主要食品
(小麦・大麦・ソラマメ・ヒラマメ・ヒヨコマメなど)に対する課税と
通行料を一切廃止した。
この恩恵はムスリムに対しても与えられた。

57 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 13:21:30 0
ttp://www.uraken.net/rekishi/reki-sekai011.html
十字軍関連年表

58 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 14:18:40 0
トルコポールって十字軍撤退した後はどうしたんだろう

59 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 16:53:26 0
>トルコポール

???

60 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 18:14:11 0
>>33
>それにしても今は史劇ブーム、第一回十字軍の映画を見てみたいな。
>(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルしそうだが。

第一回十字軍を映画化するなら、隠修士ピエールが聖地からヨーロッパに
帰ってきたところからはじめるのがいいかも。
クレルモン公会議での教皇ウルバヌス2世の演説、
「神がそれを欲したもう」と絶叫する民衆、
隠修士ピエールや文無しゴーチエ、家鴨と山羊を先頭に立てて、
景気づけにユダヤ人を虐殺しながら進む民衆十字軍。
バルカン半島を南下する間にハンガリーやブルガリアでもトラブルを起こし、
最後は小アジアでトルコ人に撃滅されて白骨の山を築く。

でもラブロマンスの要素がないよな〜
ビザンツ皇女アンナ・コムネナがボエモン・ド・タラントに恋していた、
という設定にする?


61 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 21:05:11 0
ttp://ccr2.blog9.fc2.com/blog-entry-20.html

十字軍に関する権威で著名学者のジェームズ・レストン・ジュニア
[James Reston Jr.]がキングダム・オブ・ヘブン[Kingdom of Heaven]は
2001年の彼の学術書『Warriors of God』の一部を剽窃していると非難、
訴訟も検討していると述べた。配給会社のFOXは根拠のない話だとコメント。

62 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/06/01(水) 23:13:35 0
セルジューク朝の当主セルジュ=アルスランが、
アルメニアのダニシメンドへ遠征してる留守に、
第一回十字軍が重なったことが痛いね。

63 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 23:41:16 0
ttp://www.atlastours.net/jordan/ajloun_castle.jpg
ヨルダンのアジュルーンにあるカラート・アル・ラバド。
十字軍からこの地を守るために、サラディンの甥が築城したもの。
これを見ると、ヨーロッパの城が十字軍後に様変わりしたというのが
よく理解できる。


64 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 23:58:25 0
映画見てきた。

スタッフロールでサラディン側のキャストを確認したかったのだが・・・
それっぽいと思えたのNasirってのだけだったorz

もしこれがサラディンの親族でレゴ王子と懇意になってた風味の人物だったとすればだが、
1176年にサラディンからヒムス(アレッポとダマスクスの丁度中程の主要都市)の
イクター保有者に任じられた人物に、サラディンの弟トゥグテキーンの息子の一人である
ナースィルッディーン・ムハンマドというのがいるが、もしかして彼がその人だったかも。

スタッフロール全部見るにはやっぱり米国の本サイトの方見ないとダメなのかねえ・・・
シャーベットのこととか20万は無理があるだろと思ったけどだいたい良かった・・・かな?(w
字幕はやはり微妙に分かりづらかった(汗

65 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:16:14 0
>64
キングダム〜のフルクレジット(登場順)↓
http://us.imdb.com/title/tt0320661/fullcredits

66 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:26:52 0
ttp://www.imdb.com/title/tt0320661/fullcredits
↑レゴ王子と懇意になってた風味の人物、ここではNasirという名前に
なっているが、公式ガイドブックではイマドという名前。

映画の中に出てくるイマド(アレクサンダー・シディグ)は、架空の人物
で、サラディンの懐刀にして騎馬隊の隊長という設定。
モデルはムスリムの歴史家イマードゥッディーンらしい。
もう一人のムラー(ハレド・ナワビー)は、サラディンの顧問を
たばねている。
ルノー・ド・シャティヨンが隊商を襲ったことを証言した
ムスリム高官の役はナセル・メマジア。



67 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:36:30 0
>>62
エルサレム王国建国後も、エジプトのファーティマ朝の宰相だった
シャーワルは、ディルガームに宰相の座を追われた後、
ヌール・アッディーンの援助を受けて復権するが、
その後エルサレム王のアモリーと組んだりしている。

68 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:54:56 0
ふと思ったんだが、映画の中でサラディンが黒い服を着ているのは、
彼がアッバース朝のカリフ(スンナ派)を奉じていたからだろうか?
アッバース朝の色は黒、シーア派であるファーティマ朝の色は緑
だったはずだが…

69 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 00:56:20 0
>>62
元々セルジューク朝は、名祖セルジュークの息子達を核とするオグズ系トルコ人たちの寄り合い所帯で、
しかもその後ルーム・セルジューク朝の流祖となるセルジュークの長子アルスラーン・イスラーイールが
1025年にガズナ朝のあのスルターン・マフムードにとっ捕まって事実上廃嫡され、かなりの波乱含みで
イラン入りしている。

このことに絡んで一時イランの北側は騒然となるけど、基本的には次男ミーカーイールの息子達チャグリー・ベクと
トゥグリル・ベクがセルジューク朝の覇権を握ることになり、ミーカーイール家がセルジューク朝本家の地位を得た。
十字軍がやってくる以前にも、そのミーカーイール家内部でも対立が起きている。チャグリー・ベクの息子のアルプ・
アルスラーンが死ぬとその後継を巡り、ケルマーン王家の祖となる兄のカーワルドとアルプ・アルスラーンの
嫡子マリクシャーのとの間で内戦となり、カーワルドの敗死でマリクシャーの即位が成った。

おかげでという訳でもないが、マリクシャー生きてる内はまだなんとかなったけど1192年に彼が死ぬと、
ケルマーン王家は本家の後継争いをそっちのけで、自領土の拡大を計りカーワルドの子トゥーラーンシャーは
ファールス地方の奪取に成功している。実はカーワルドが死んだ後ケルマーン王家も彼の息子達の家系で
後継争いをしていたりする。



70 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 01:25:38 0
>>65-66
おお、サンクス! そおかあれは『シリアの稲妻』(一番最初のサラディンの伝記)の作者の
イマードゥッディーン・イスファハーニーがモデルなのか!

でもイマードゥッディーンはサラディンより7〜10歳も年上で当時は50も後半・・・
ちょっと設定がキツイな〜(汗
むしろリチャード1世との交渉に従事したもう一人の伝記作家バハーゥ・ッディーン・イブン・シャッダードが
1145年生まれだからそっちの方がまだ良いような(w

それよりもサラディンは兄弟や甥っ子達が か な り 沢山いるのでそれらが設定に活用
出来た気が。サラディンの後ろに控えていた人物はアーディル弟者or息子のアフダルか?!
と思ったのだけどやっぱり違ったのか。うーん、ムッラーって誰がモデルなんだろう(汗

71 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 01:34:56 0
この時代のアナトリアには、ルーム・セルジューク朝のほかに、
ダニシュメンド朝、アルトゥク朝、クルド系政権などが乱立していた。
ルーム・セルジューク朝は、十字軍にニケーアを奪われた後、首都をコニア
に移す。
ゴドフロワ・ド・ブイヨンの弟ボードワンは、セルジューク朝のもとで
エデッサのキリスト教徒の統治を認められていたアルメニア人僭主トロスを
殺害して王位と財宝を奪い、エデッサ伯領を建国するというエゲツナイことを
やっている。

72 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 02:19:01 0
>>62
当時ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はマリクシャーの死によって
本家から独立してスルターンを名乗っていた。マラーズギルトの戦いの後冊封された
父スライマーンが保持したルームの支配権を本格的に獲得しようと周辺の諸勢力と抗争していた。

マリクシャーによってアナトリア地方を安堵されていた有力アミール、ダーニシュマンドを初めと
するトルコマーン・アミールたち、さらにコムネノス家のビザンツ帝国が目下の懸案だった。

クルチ・アルスラーンが、ダーニシュマンドの本拠地マラティアを包囲中の1097年6〜7月頃、
首都のニカエアが十字軍に襲撃されているとの一報が彼の陣営に届いた。急遽引き返したときは
既にニカエアは陥落した後で、その後数年は本拠地を失って減退した勢力を盛り返すべく、シリア
アナトリア一帯で苦闘し続け、何とかコンヤに本営を置くことで一時体勢を立て直すことが出来た。
1101年、マラティアを拠点にカッパドキアを支配していたダーニシュマンドと協同して初めて
十字軍勢力と本格的な戦闘を行い、これを破って主将ボヘモンドを捕縛することに成功する。
これが十字軍戦争での最初の勝利となった。

73 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 02:29:19 0
十字軍が侵攻してきた頃、イランの東方でも、西方でもシリア・アナトリア方面でも、
セルジューク朝の諸王家はそれぞれがそれぞれでマリクシャー死後の混乱に乗じて地方の覇権を握ろうと
内紛を繰り返し十字軍どころではなかった。しかも間が悪いことにその数年前、ファーティマ朝との
シリア争奪戦の前線を担っていたアルプ・アルスラーンの子トゥトゥシュが、マリクシャー死後の
後継争い喧しいイラン方面の内紛に関わって戦死してしまっていた。

当時はまだ十字軍戦争はシリアの北方の出来事でファーティマ朝の方では殆ど手が下せなかった。
戦線が南部に拡大し始めた頃には今度はファーティマ朝の内部で権力闘争が激化して、エジプト側
でも対応が出来なくなっていた。

結局、十字軍勢力がシリア・パレスチナ一帯に領邦を樹立できたのは、ファーティマ、セルジューク両朝、
特にセルジューク朝の諸勢力がことごとく内紛のために戦力の余裕が殆どなかったことが原因だったという
ことが云える。

そのためザンギー朝のようなアタベク政権などが地域ごとの覇権をとりあえず確立していくと、次第に
十字軍側の領邦は縮小していくことになる。その代表がヌールッディーンであり件のサラディンであった。

74 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 02:36:45 0
>>68
サラディンはエルサレムを占領すると早速バグダードの
カリフ・ナースィルの名前でフトバと貨幣を発してるから
多分そーいうことで黒い服着てたんじゃないかな〜と思った。

でもアイユーブ家の旗は黄色だったそうなので黄色い旗が
全然目立って見られなかったのはふと疑問に思った。

75 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 12:13:44 0
>>73
>結局、十字軍勢力がシリア・パレスチナ一帯に領邦を樹立できたのは、ファーティマ、セルジューク両朝、
>特にセルジューク朝の諸勢力がことごとく内紛のために戦力の余裕が殆どなかったことが原因だったという
>ことが云える。

サラディン没後の混乱で十字軍国家は延命することになった。サラディンには
17人の息子+2人の弟+数多くの甥がいた。
結局長子はダマスカスを、次男はカイロを取り、三人目はアレッポを取った。
その後9年余り経って、サラディンの弟の結局、マリク・アル=アーディルが
アイユーブ朝の主要な版図を支配するようになる。
マリク・アル=アーディルはフランク人との平和共存を望み、イタリア商人に
特権と保証を授与したので膨大な経済的利益を得た。

76 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 13:26:39 0
>>59
フランク人と現地人の混血のキリスト教徒。トルコ式の軽騎兵として戦った。
サラディンの捕虜になったとき背教者と間違われて処刑されたりした。
>>69
ミーカーイールってひょっとして「ミカエル」のペルシア語版ですか?

77 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 13:54:54 0
>>76
テュルコプル(タークポール)のことですか。
フランク人と一緒にキプロスへ逃げたのか、それとも現地にとどまったのかは
不明。

78 :朱由檢 ◆MfD.4zQt1. :2005/06/02(木) 20:57:05 0
テュルコプルは基本的にイスラム教徒みたいだから残留したんじゃないかな?
テュルコプルのような傭兵がいたからこそ十字軍は持ちこたえたんだろうね。

79 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 22:06:36 0
>>76
ミーカーイールはミカエルのアラビア語形。イスラーイールは旧約聖書のヤコブのあだ名イスラエルのこと。
セルジュークの息子たちは長男イスラーイール(イスラエル)を筆頭に、
ミーカーイール(ミカエル)、ムーサー・ヤブグ(モーセ)、ユースフ・イナール(ヨセフ)、ユーヌス(ヨナ)と
云った具合にユダヤ・キリスト教的な名前だけど、これらは全てアラビア語形でしかも全員コーランに
出てくる。ただムスリムの名前としてはやや珍しい感じ。(ちなみにヤグブやイナールはテュルク語)

80 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 22:44:56 0
1144年12月23日、ザンギーはジョスラン・ド・クルトネからエデッサを奪回。
しかし彼は1146年9月15日、側近の小姓たちに暗殺されてしまった。
エデッサのアルメニア人たちは街の中にトルコ人の駐留部隊が少ないことに
気がついて、ジョスラン伯に軍隊を連れて戻ってくるように頼んだ。こうして
ジョスラン伯は再度エデッサを獲得。
しかしザンギーの息子ヌール・アッディーンが街を封鎖し、飢えた人々は
パニック状態になって街から出ようとした。ヌール・アッディーンの軍隊は
アルメニア人を殺戮し、生き残ったものは奴隷にされた。
この報せを受けて西欧では第二回十字軍が計画される。
呼びかけたのはクレルヴォー修道院長の聖ベルナールで、彼は相手が異教徒で
あれば、それがどこであれ、これを殺し土地と財産を奪うことは許されると
説いた。


81 :世界@名無史さん:2005/06/02(木) 23:03:33 0
映画『キングダム・オブ・ヘブン』で「シリアの大公」という台詞が
出てくるんだが、「大公」だとどうしてもヨーロッパの大公を連想
してしまう。
この時代のイスラーム世界だと、「アミール」や「アタベク」や
「ムクター」になるのか?
イスラーム圏の称号にくわしい人の降臨キボン。


82 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 00:29:01 0
59 :世界@名無史さん :2005/06/02(木) 22:05:54 0
バイバルスはイスマーイール派の残党を雇ってエドワード一世の暗殺を試みたことがある。
これは嘘みたいな実話。


60 :世界@名無史さん :2005/06/02(木) 23:22:06 0
>>59
イスマーイール派の一人がキリスト教の洗礼を受けたがっているサラセン人の
ふりをして近づき、エドワード1世を暗殺しようとした事件ですな。
ちなみにイスマーイール派は同じ方法でコンラッド・ド・モンフェラートを
暗殺することに成功している。


61 :世界@名無史さん :2005/06/02(木) 23:27:55 0
>>59
同じくバイバルスは、ティルスの領主フィリップ・ド・モンフォールも
イスマーイール派を使って暗殺。

83 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 03:16:52 0
>>81
その部分は自分も聞いた。「彼は〜のハーキムだ」といっている部分を字幕では
「シリアの大公だ」と説明していた。 حاكم h.ākim という言葉が当時具体的にどういった
身分を著す単語なのか説明するのは難しい。多分スルターンから地方の広い領土の監督
を任されるような身分ある役職・人物のことを指すのだろうが、これだけでは何とも。

>この時代のイスラーム世界だと、「アミール」や「アタベク」や
>「ムクター」になるのか?

今は亡きカリフ・イマームスレで同じ話題があったので既出になってしまうが、
取りあえず説明すると・・・

○アミール・・・
 امير amīr アラビア語の字義的には「司令者」の意味。この当時だと「スルターン」がカリフを奉じるか
 否かに関わらず一国で唯一無二の独立的な支配者であるのと違い、カリフやスルターンに臣従して
 下位の戦闘集団を単位ごとに束ねる部将のような立場の人たちをいう。日本の戦国時代で云えば、
 織田信長がスルターンであれば、羽柴秀吉や柴田勝家みたいな人たちがアミールと思って
 差し支えない。

 セルジューク朝やモンゴル帝国では、王朝を支える譜代の各部族の首長たちを「アミール」と呼んでいる。

84 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 03:25:34 0
○アタベク
 اتابكatābek 本来はテュルク語で「ata(父)+bek(君侯)」の意味。セルジューク朝で使われたもので、
 君主から王子の後見・養育を任された有力な人物の称号で、少し前の本では「王輔」とか「父侯」など
 の訳語を当てていた。史上有名な宰相ニザーム・アル=ムルクのような文官もアタベクになることも
 あったが、大体はセルジューク朝君主の子飼いのトルコ系有力マムルークが王子の後見役として君主から
 アタベクに任じられた。父親に代わって子息に対して全権をゆだねられ、子息に与えられたイクターの
 の管理も任せられいていた。

 やがて王朝内部の後継問題がこじれると有力なアタベクやその息子たちが地方で独自の勢力を持つよう
 になり、父や先祖にならってアタベクを名乗り続けるようになったりした。
 ザンギー朝のヌールッディーンも父イマードゥッディーン・ザンギーがアタベク位を与えられたのに
 引き続いて自らもアタベクと名乗っている。

○ムクター
 مقطع muqţa' イクターを授与されそれを保持する人物をいう。身分の上下に関わらず君主からイクターを
 与えられればその人物はムクターといえる。スルターン(君主)からイクターを与えられる人物には
 スルターンに対して果たすべき義務を課せられている。とりわけ重要なのが軍事奉仕であった。
 この軍事奉仕は絶対的な義務であったため、これを拒否すると反乱者と見なされた。

他にも当時の用語にはファーリスとかワーリーとかサーヒブとかあるけどそれらは今回割愛。

85 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 04:24:04 0
アンティオキア公女と結婚したレイモン・ド・ポワティエは、1149年
6月29日、ヌールッディーンと戦ってマアッラで斬首される。
その首はバグダードのカリフに盃代わりに送り届けられた。
ちなみにレイモン・ド・ポワティエはルイ7世の王妃アリエノール・
ダキテーヌの叔父にあたる。
彼の綽名は「アンティオキアのヘラクレス」だった。

86 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 20:41:25 0
>>79
少なくともユースフはムスリムに多い名前だぞ。

87 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 23:36:44 0
ホラズム系トルコ人は、モンゴルに追われた後、アイユーブ朝の支配下に
入ったの?

88 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 23:45:29 0
>>86
ああ、言葉足らずでスマソ。イスラーイール、ミーカーイール、ムーサーと来てユースフ、ユーヌスと
来る名前の付け方が、ムスリムの名前の付け方としてやや珍しいなと。

「ユースフ」はコーランの説話からイスラムでも美男子の代名詞となるくらいポピュラーで、
サラディンの名前などがこれ。
「ユーヌス」はコーランに神の召命を拒んだヨナが大魚に飲み込まれた話が載せられ、また彼の名前で
一章割かれてるほど有名で彼のあだ名ズーンヌーン(大魚を持つ人)は神秘主義の聖人の名前にも
出てくるくらいわりと人名にも使われている。ちなみにサラディンの父アイユーブは旧約聖書のヨブ書の
主人公ヨブのこと。かれもイスラム以前の預言者としてコーランに出てくる。

でも、大抵ムハンマドとかアリーとかウマルとか、マフムード、マスウードとかいった、
預言者ムハンマドとかアラブ征服に関わるような、いかにもなアラビア語の名前をつけるのが普通。

テュルク系やイラン系の武門に生まれた人物ならばトルコ語やペルシア語の名前が付くけど、
名のある在地の貴顕の家に生まれた人物はムハンマドとかアリーとかハサンとか名付けられている。

89 :世界@名無史さん:2005/06/03(金) 23:52:38 0
>>87
モンゴルに破れたあと、ホラズムのテュルク人はマーワラーアンナフルやホラーサーンに留まって
モンゴルの傘下に入るか、西方に逃れてアッバース朝やルーム・セルジューク朝や
エジプトのアイユーブ朝などの庇護を受けていたそうだ。
アイユーブ朝のスルターン・カーミルの時代に東方から逃れてきたホラズムのトルコ系
部将にイクターを与えた記事が『完史』などに出てくるとのこと。

90 :世界@名無史さん:2005/06/04(土) 00:48:31 0
アイユーブ朝やルーム・セルジューク朝はモンゴル軍に追われて
アゼルバイジャンに本拠を移したジャラールッディーン率いる
ホラズムシャー朝の軍勢と激しく戦ってますが。

91 :世界@名無史さん:2005/06/04(土) 01:52:28 0
ああ、>89 はジャラールッディーンの軍勢に加わらなかったり敗戦後離散した人たちの話ね。
>87の内容がジャラールッディーン以後のことを聞いてるように思えたから端折った。

ジャラールッディーンがディヤールバクルで殺害されたあと、1236-37年に、残余のホラズム勢の一部
1万2000騎がルーム・セルジューク朝のカイクバード1世のもとに身を寄せたらしい。
その後息子のカイホスロウ2世に疎まれて、シリア一帯の太守でカーミルの弟サーリフの
もとに逃れた。そこでカーミルの勅許を得てジャズィーラ地方のイクターを与えられたと
イブン・ワースィルなどは伝えてるとのこと。『完史』の方にも載ってたかと思ったが
記憶違いだったか orz

92 :世界@名無史さん:2005/06/04(土) 02:26:58 0
1244年7月11日、エジプトのスルタンはイェルサレムにホラズム系テュルク人
の軍隊を差し向けた。
彼らは聖墳墓を去るのを拒否した司祭たちの首をはね、行くところすべてを
破壊した。
1244年10月17日、ガザ近くのラ・フォルビーでフランク人はヒッティーン
の会戦に匹敵する惨憺たる敗北をなめる。

93 :世界@名無史さん:2005/06/04(土) 15:18:02 0
イスラーム圏における「カーディ裁判」は、どのような手続きをとって
行われたのですか?
カーディ裁判は、賄賂や有力者の恣意によって左右されることが多かったと
いうのは本当ですか?

94 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 13:46:32 0
>>78
混血民の「プラニ」はキリスト教徒だったみたいだけど
それはテュルコプルとまた違うの?

そういえばドイツ騎士団にもテュルコプル部隊がいたらしい。
バルト系民族の弓騎兵だったそうだが。

95 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 15:20:38 0
>>94
テュルコプルの場合、「軽騎兵」であり、かつ「フランク人と現地人との
混血」である人々のことなのでは?

ttp://www.teardrop.to/balto_bbs/11.html
一般に騎兵とは、騎士のような重装備の騎馬に乗る兵士と私は解して
いまして。代表的な騎士団であるヨハネ騎士団によれば、これらの
いわゆる騎士のほかに軽騎兵(タークポールあるいはテュルコプル)
と呼ばれる騎兵が存在します。
この軽騎兵(タークポールあるいはテュルコプル)は兵の不足から
現地で雇った騎兵のようで、その分騎士団を構成していた騎士らより
軽装であるがゆえに軽騎兵とよばれたとようです。また騎射を得意と
するトルコ人の騎兵の戦術をとり入れ、主武器も弓矢だった為、
トルコ式騎兵ともよばれたようです。

96 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 15:32:45 0
騎馬弓兵って長期間の訓練を積まないとなれなかったみたいだが
そうしたテュルコプルって生まれた時から兵隊になることに
決められてたのか。

97 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 21:31:53 0
ジョン・キーガン『戦略の歴史』(心交社)より引用

十字軍の兵士たちは辛抱強い努力を積み重ねて、彼ら自身の戦法とは相反する
戦法の効果を高めていった。つまり騎兵とかなりの規模の歩兵との共同作戦
である。歩兵は鋭利な武器と弓、最終段階では石弓をもつようになるが、
獰猛な顔つきを軽騎兵にさらす彼らは騎兵部隊と遭遇するとつねに殺到して、
兵士一人ひとりを狙い撃ちした。(中略)ところが聖地では、歩兵は真価を
発揮した。とくに輜重部隊の防御で真価を発揮し、彼ら抜きでは十字軍は
遠征ができなかった。また戦闘隊形に入ったときにも、攻撃されやすい
騎兵の側面防御に欠かせなかった。

98 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 22:35:34 0
その野蛮さでムスリムやビザンツ人を呆れさせたDQNフランク人だが、
ときには彼らを感心させることもあった。

十字軍がアラブの地を支配していたときのことを、
「その野蛮なフランク人たちを嫌ったアラブの知識人の一人、イブン・ジュバイル
はまた、ムスリムがフランクとともに安楽に暮らしていることを伝えている。
これは、驚くべきことだった。ムスリムの『家屋は彼らのものだし、財産も
手をつけられることがない』。ところが、同じムスリムのもとではそうではない。
『事実、フランクは平等を旨として行動するのに、この同胞たちは同宗の者が
行う不正に苦しんでいる』。
この記録を紹介したアミン・マアルーフはいう。これは重大な事実の発見である。
「フランクにおける正義についての見解が、・・・『野蛮』と形容できる側面を
もっていたにせよ、彼らの社会は『権利の分配者』であるという長所を備えていた」。
「封建諸侯、騎士、聖職者、大学、ブルジョワ、そして『不信心』の農民でさえも、
十分に確立した権利のすべてをもっている。東アラブでは、裁判過程こそフランクより
合理的であったが、領主の専制権力にはいかなる歯止めもない」

99 :世界@名無史さん:2005/06/05(日) 22:42:18 0
またラテン帝国のボードワン1世がブルガリア人に敗れて行方不明に
なったとき、ラテン人がボードワンの死を確認してアンリ1世が皇帝の
称号を名乗るまで1年以上かかった。
ビザンツ人たちは彼の行為を誰にもまねのできない美徳と賞賛した。
ビザンツ帝国では、皇帝の一族や臣下が空位の瞬間を捕捉ないし先取り
するのに躍起で、西欧のような相続の法規は存在しなかったのである。



100 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 10:59:36 0
よぼよぼの爺さんとマッチョな壮年の鍛冶屋を決闘させた十字軍の裁判について
平等な裁判などとたわけた評価はないがな

101 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 12:25:31 0
>>100
でもその場合、爺さんが決闘裁判を望んだわけで。

ところで、Might is right という英語のことわざも、決闘裁判と
同じ発想からきたものかな。

102 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 12:42:13 0
人種的に不器用なフランク人は騎射でき中田が結論でいいな

103 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 12:45:16 0
イスラーム圏では今でも血讐(家族単位や氏族単位の仇討ちの風習)が
残っている。
中国の「械闘」も有名。

104 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 12:54:14 0
>>103
イブン・ハルドゥーンのいうアサビーヤでつながった部族社会だね。

105 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 20:14:55 0
預言者ムハンマドはアサビーヤをイスラームによる精神的絆に対立するものと
して非難したらしいね。
今でも、アラビア半島のアラブ人は、「我々は純血の、いわばサラブレッドの
アラブだ」という意識が強くて、シリアやエジプトのアラブ人を見下してる。
アラビア語で「混血する(هجن)」という単語には劣っている、とか卑しい、
とかいった意味がある。

106 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/06/06(月) 21:28:01 0
イスラムにはアドル(公正)とズルム(不正)という概念があって、
それが統治者の良否を判断するものではありましたが、公正を徹底させるシステムは構築できなかったと言えるかも。

法学者間のネットワークがかろうじてその役目を果たしていたと考えるべきでしょうか?
結局は統治者しだいであったのでしょうか?

107 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 22:22:46 0
>>100-101
当時のムスリム騎士(ファーリス)の騎士道(フルースィーヤ)の精神から言えば、
裁判なら裁判で決裁し、決闘なら決闘で勝負を決めるのが常道だとおもう。

当時の規範からすれば、王が決闘を申し込める相手は王クラスでないと身分的に釣り合いが
取れないと見なされてたので、レゴ王子ではサラディンとの決闘なぞは無理ではないかと。
ボードワン4世やリチャード1世だったら身分的に申し分ないが、ボードワンは病人だし、
サラディンの方も実はヒッティーンの戦いの前後、リチャードの上陸あたりまで何度か高熱を
出して寝込んでるから、どっちにしろ厳しい。ルノーの場合はメッカ・メディナの近くまで
掠奪・殺人を犯しもした大悪人だったから、決闘とか何とか以前に成敗と考えて良さそう。

アラブ社会の慣行では受けた辱めはきちんと報復するのも美徳とされた。
ムンキズが語るところによれば、ある騎士が戦場で鑓で不意打ちされたが、
余りの悔しさにムンキズに泣いて訴えその不意打ちした騎士に復讐を誓った。
気持ちを落ち着かせると、直ぐさまとって返して一騎打ちを申し出て、互いに
鑓で突き合い見事相手の騎士を討ち果たしたという。

騎士・武人であれば決闘の話は武功の話として誉れの一種として語られるだろうが、
庶民のうちでは、よほど同族意識の強いところでないと陰惨な血讐の報復合戦という
事態は起こらないそうだ。清算がされない報復は周囲のムスリム社会から見れば美徳
などとは全く思われないだろう。

108 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 22:40:55 0
頼むから、その「レゴ王子」つうのは止めてくれないか。
まったく別の映画なんだから。

109 :世界@名無史さん:2005/06/06(月) 23:23:36 0
カリフは、イスラームの教義やシャリーア(法)の分野に介入する権限は
持たなかった。また、カリフは有力者の選挙によって選ばれるのを原則とし、
その地位はムスリム全員による「忠誠の誓い」によって正当化されていた。
さらに、各地の都市や農村のムスリムにはこの誓約を取り消し、金曜日の
フトバで「カリフの名を切る」権利が留保されていた。


110 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/06/07(火) 23:24:39 0
しかし下記のようなエピソードをみると、やはりウラマーも基本的には権力者には逆らえないのだなあと思ったりします。

10世紀後半になるとアッバース朝カリフの権威は衰え、カリフはアミール・ウル・ウラマーの称号を与えた実力者に担がれることでなんとかその威光を保つことができた。
そして24代カリフ、アッ・ターイーが、時のアミール・ウル・ウラマー、アドッド・ウッ・ダウラ(イラン系、ブワイフ朝の君主)と対立したとき、首都バクダードをはじめ多くの都市で一斉にフトバからカリフ、アッ・ターイーの名前がはずされた。
この状態はカリフがアドッド・ウッ・ダウラに屈服するまで2ヶ月も続いた。

参考 河出書房新書 前嶋信次著 『生活の世界史7 イスラムの蔭に』

111 :世界@名無史さん:2005/06/07(火) 23:58:29 0

アミール・ウル・「ウマラー」(امير الامراء)とすべき所を、
アミール・ウル・「ウラマー」(امير العلماء)?としているし、
言いたいこともよく分からん。


112 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/06/08(水) 00:15:05 0
>>111さん
誤字の指摘有難うございます。「ウマラー」が正しいです。
打ち間違いをそのままコピペしてしまいました。

>>110は雑談レベルのものですが、カリフが不正を行ったわけでもないのに、
権勢の圧力で人々はフトバからカリフの名前を外した、ということです。

113 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 13:36:23 0
十字軍の戦場として忘れてはならないのがギリシャなんですが(w
第4次十字軍以降はかなり混沌としてて面白いんだけどあまり詳しい本がないですね。

114 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 19:14:54 0
ラテン帝国ってブルガリア第2帝国と戦って負けたりしてたな。
ブルガリアの主力はキプチャク人の騎馬弓兵だったらしいから
やっぱりフランク人はトルコ系に弱いのか。

115 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 23:01:54 0
>>112
私見ではありますが・・・
ウラマーは政治権力と一般民衆との間に立って、民衆の代弁者としての役割もありました。
ウラマーがカーディーやワズィールとなって政権側に参画することは普通のことでしたが、
ムスリムの平等主義から来る、王権的なものについてはイスラムの理念に反すると
する思潮は根強く、このような王権の側に立つことは民衆から尊敬を集める一方で、
一部では支配政権に参画するのは民衆から離反し権勢を独占する忌避すべき行為だ、
とする主張もまま見られたようです。

これは君主が支配権を行使すると言うことは、そもそも預言者ムハンマドが担っていた
イスラム共同体を教導する権利を、当代の君主はこれを政治的な部分で代行しているに
過ぎない、とする理念に基づいています。

極端な話、法学者などのウラマーたちや聖裔家などの王朝以外のイスラムの権威あるいは
民衆達が、当代の君主を支配者として不適合と見なし外来の権門がよりイスラム共同体=
早い話自分たちの安全を保証できるような力量なりがあると判断した場合、その君主や王朝から
別の君主などに鞍替えしても一向に問題なかったと云えます。(理論的には、ですが)


116 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 23:07:16 0
実際には政治力と結びついた軍事力・権力・暴力というものは非常に強力ですので、
何らかの要因が無い限り現役の君主に対して民衆やウラマーが反抗することは、強力な
政権下では難しいでしょう。

フレグがシリアまで征服してきたとき、この地域の諸都市はフレグの投降に応じた都市もありましたが
これに反抗してフレグ西征軍に攻囲されたりもしました。その時先頭になって帰順したり抗戦を訴えたのは
君主以上にその都市のウラマーや商人、名家など貴顕たちでした。チンギス・ハンがブハーラーにやってきた
とき、ホラズムシャー朝に仕えていたカンクリ兵などを見限って投降してきたのも、この街の貴顕たちです。

また、サラディンがヌールッディーン亡き後のシリアを接収したおり、従兄弟のサーリフの位を継いで
アレッポの君主だったザンギー2世がサラディンと取り引きしてアレッポを明け渡す代わりに、自身の旧領
スィンジャールに退去しました。その時ザンギーはアレッポの民衆から罵声を浴びせられています。

もっともこれらは表向きの部分が多いだろうと思います。ウラマーはカリフやスルタンとはまた別個の権威・
社会的ステータス(?)ですので、政治権力におもねることもあれば反抗することもあって、一概にこうとは
云えないだろうかとは思います。

>>112
「ウマラー」は「アミール」の複数形ですね。「アミール・アル=ウマラー」で
「諸アミールたちのアミール」=「大アミール」と訳されています。自分も当初は何度か読み間違えた単語です(w

117 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 23:11:19 0
>>113
そういえば欧州の諸王やムスリム側の動向はある程度しられていますが、
当時のペレポンネソス半島やエーゲ海方面、キプロスのあたりは殆ど
聞かれませんね。どういう活動をしていたんでしょうねえ。

118 :世界@名無史さん:2005/06/08(水) 23:28:19 0
>>117
第4回十字軍がビザンツ帝国を滅ぼしてラテン帝国を建国した後、
西ギリシアにはエピロス君侯国というビザンツの亡命政権、
ペロポネソスにはアカイア侯国、アッティカ地方にはアテナイ侯国、
テッサロニケ王国というフランク人の建てた国がありました。



119 :世界@名無史さん:2005/06/09(木) 20:59:58 0
ジョフロワ・ド・ヴィラルドゥワンはアカイア侯に、
オトン・ド・ラ・ロッシュがアテナイ侯に就任した。
ギリシアで1211年にカラマタの城で生まれたギヨーム・ド・ヴィラルドゥワン
は、ギリシア語を話し、エピロス君侯国のミカエル2世の娘アンナと結婚した。
ミストラの高地にはいまでもアカイア侯国の城の遺跡が残っている。

120 :世界@名無史さん:2005/06/09(木) 23:15:45 0
ジョフロワ・ド・ヴィラルドゥワンのコンスタンティノープル征服記なら邦訳が出てた。

121 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 00:05:08 0
>>120
コンスタンティノープルのすばらしさをえんえんと書き連ねたあとに普通に略奪するんだよな(w

122 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 13:13:46 0
すばらしい町を征服した偉大な俺的内容なのか?

123 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 13:44:38 0
55 :世界@名無史さん :02/09/23 23:32
イスラム圏でのキリスト教迫害は、行なわれるときと行なわれないときの落差が、ローマ帝国(寛容令以前)のそれより極端でした。

一般に、十字軍以前はキリスト教に寛容だったと言われますが。
大勢としてはそう言えますが、カリフの個人的施策で極端な迫害が行われることもありました。
代表例は、ファーティマ朝のハーキム(在位1035〜1094)など。
この人はユダヤ教徒も迫害したしエルサレムの聖墳墓教会を破壊したりした。

まぁ、組織的な迫害が恒常的なものではなかった、と言うのはイスラム圏もローマ帝国と同様だったと言えると思います。

ローマと違ってイスラム圏の問題は、権力者の恣意性で迫害が組織的に実行される事例が幾つかあること。
十字軍以前、キリスト教迫害は例外的な事態とは言えるかと思いますが。
権力者による組織的な迫害時にコーランの文言も恣意的に解釈され、歯止めにはならなかったこと、でしょうか。

124 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 13:54:24 0
>>117
当時のビザンツ亡命政権については
ttp://homepage3.nifty.com/ryuota/nicaea1.html
(1〜4まである)

125 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 18:34:06 0
やはり、トレビゾンド帝国だよなw


126 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 20:52:06 0
>>121
当時の習慣では、抵抗して陥落した都市に対しては掠奪が許されていた。

127 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 21:09:44 0
それは十字軍に限った話でもなし。

128 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 21:12:53 0
塩婆が占領後の略奪をトルコ軍のみの蛮習みたいに書いてるのは偏見

129 :世界@名無史さん:2005/06/10(金) 21:23:35 0
第4回十字軍は、ビザンツ皇帝アレクシオス5世を、高さ147フィートの
テオドシウス記念柱から広場へ真っ逆さまに地上へ突き落として処刑。


130 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 01:07:00 0
カストリアの戦いの後、ギヨーム・ド・ヴィラルドゥワンは仲間のジョフロワ・
ド・ブリュイエールとともにミカエル・パラエオロゴスの捕虜になり、
ミカエルは彼らの釈放と引き換えに4つの要塞の譲渡を要求して成功。
ギヨームが亡くなった後はシャルル・ダンジューがモレアを相続。

131 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 02:49:23 0
イスラムの慣習では、
都市が征服されると掠奪はされるけど普通は住民の殺戮までは伴わない。
勿論、都市が陥落すると掠奪の過程で住民が捕縛され、のちに奴隷として
売買されることがよくあるが、これに住民虐殺までいくかどうかは
やはり当事者の君主や状況よってまちまち。

陥落後は君主にはその都市の支配権が発生するので、住民の保護義務が生じる。
これは相手側がキリスト教徒やユダヤ教徒であっても変わらない。
投降してきた住民には原則アマーン(安全保障)を与えることになってるが、
これに伴う諸条件はやはり都市を征服した君主の裁量に一任される。

(キリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」の)住民の信仰や生活保障に
ついては従来のものを保持できるように取り計るのはイスラム君主の義務とされ、
いかなる場合でもイスラムへの強制改宗は行われない。しかし、もし捕縛した人物
(この場合非ムスリム)が処刑されるにたると判断した場合、最後の容赦というか
最後通牒として、イスラムへの改宗を促して最後の赦免の機会を与える義務がある。

これが拒否されると処刑されるが、改宗勧告を受け入れた場合君主はその人物を
保護しなければならないことになる。

132 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 03:32:11 0
コンスタンティノプールでは、コンスタンティノス11世の時代にコンスタンティノープル総主教だった
人物がメフメト2世によって引き続きその地位を保証されたそうなので、首都の住民が全員殉教したような
流説はフィクションの類。

ヒッティーンの戦いの場合でもこれらの問題が出てくる。

サラディンがギー王にシャーベットを与えたことが当時のいくつかの史料で述べられているが、
捕虜となった人物に飲食物を与えることは、アマーン(安全保障)を与える形式の一つとされている。
つまり当初からサラディンはギー王に安全保障を与える意思があったことがうかがえる。
ギー王がそのシャーベットをルノーにさらに手渡した時、サラディンがそれはルノーに与えた物ではない、
つまり捕縛された段階で、当初からルノーはサラディン陣営では安全保障を与えられるような状態では
なかったことが分かる。

シャッダードのサラディン伝などの史料によれば、サラディンは通訳を通じてルノーに宣言したこととして
次のように語ったという。ルノーにシャーベットが与えられなかったこと=安全保障が与えられない理由をとして、
ルノーが行った、それまでの休戦協定の破約や住民虐殺、メッカ巡礼団などの隊商への掠奪・虐殺行為、
さらにメッカ・メディナの破壊を目的とした紅海一帯の掠奪に加え、準聖域であるヒジャーズ一帯への侵犯と
それに続く掠奪・虐殺行為などを述べ挙げて、彼ルノーには容赦はされないことをはっきりと表明した。

その後ルノーは処刑されるのだが、すぐさま処刑されたというものや、サラディン自らが斬首した、
あるいはルノーに改宗を勧告したが拒否されたのでサラディンは彼を手打ちにし、近侍らがテントの外に
連れ出してトドメを刺したなど、史料によって若干の異同があるらしい。
聖堂騎士団や聖ヨハネ騎士団は騎士団長以外ほとんど処刑されたそうだが、その他の主立った騎士たちは
後日釈放されたようだ。(その中にトリポリ伯レイモンドやイベリンのバリアンもいたらしい)

133 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 13:35:43 0
>>131
>勿論、都市が陥落すると掠奪の過程で住民が捕縛され、のちに奴隷として
>売買されることがよくあるが、これに住民虐殺までいくかどうかは
>やはり当事者の君主や状況よってまちまち。

1291年にアッコンが陥落したときは悲惨だったらしい。
アル=アシュラフ はサラディンほどの紳士ではなかったということ。
ヨーロッパ人がサラディンを名君と称えるのもわかるな。


134 :世界@名無史さん:2005/06/11(土) 13:43:41 0
ttp://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/akon.html
アッコン攻防戦

135 :世界@名無史さん:2005/06/12(日) 01:13:44 0
でもまあ十字軍側は自分達から相当のことしてるんだから相応の仕返しをされて当然だと思うけどね
やるだけやって仕返ししないのはできた奴だ、するやつは外道、って論理じゃ通らないでしょ

136 :世界@名無史さん:2005/06/12(日) 11:51:18 0
>>135
住人は何も関係ない。

137 :世界@名無史さん:2005/06/12(日) 15:56:31 0
トリポリの陥落の後、アンリ2世はスルタン・カラーウーンと10年間の休戦条約
を結んだが、これを破棄したのはキリスト教徒の側であった。
聖地に上陸したイタリアの十字軍が、アッコン近郊のムスリムに攻撃をかけた。
彼らは小麦やその他の品物を売りにきていた農民であった。さらに、イタリア
の十字軍戦士たちは東方正教の信者であるシリア人をも殺した。(ヒゲをはやして
いたのでサラセン人と間違えたのである)
これはスルタン・アシュラフに休戦を破棄する格好の口実を与えた。

138 :世界@名無史さん:2005/06/12(日) 20:34:12 0
KOHの公式ガイドブックに、
「勝利の王にして征服の父であるサラーフ・アッ=ディーン・ユースフ・
ブン・アイユーブ、武人にしてこの国の復興者、信仰篤き司令官である
われらが君主スルタンに栄光あれ」
と書かれたサラディン個人の軍旗がのっているんだが、
本当にこんな旗があったのか?

139 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/06/12(日) 23:01:27 0
>>116さん
遅レスですが、興味深く読ませていただきました。
ありがうございます。

実態は様々だったんでしょうが、イスラム大学者たちの思いっきり世俗的なのにえらそうな雰囲気が興味深いですw

本を貴顕に献上すれば莫大な対価を得られ、また生徒から謝礼を貰う慣習のある社会で、
経済的な基盤を持つことに成功したウラマーはそれなりに権力者にもものが言えたのでしょうかね。



140 :世界@名無史さん:2005/06/12(日) 23:29:58 0
サラディンは、スンナ派の四学派の中でもシャフィイ派を信奉していた
そうでつ。
シャフィイ派は、法源について厳格に考える伝統を持ちます。


141 :世界@名無史さん:2005/06/13(月) 00:26:15 0
大カーディー職をシャーフィイー派が独占していたのはアイユーブ朝期だけで、
マムルーク朝に入るとバイバルスによってハナフィー、マーリク、
シャーフィイー、ハンバルのスンナ派四学派それぞれに大カーディーが
任命されることになり、その後の長いオスマン朝の支配下で公式法学派の
ハナフィー派がエジプト・シリアでも優勢に。
オスマン朝によるハナフィー派優先の政策とサファヴィー朝によるイランのシーア派化で、
今やシャーフィイー派が支配的なのはスワヒリ海岸を中心とする東アフリカと
インドネシア・マレーシアを中心とする東南アジアで、発祥地である中東における地歩を失った。

142 :世界@名無史さん:2005/06/13(月) 02:47:33 0
アンティオキア公ボエモン3世は、3番目の妻にブルゼイ城代の義妹シビルを
迎えたが、彼女は実はサラディンの間諜だった。
ムスリムの年代記作者イマード・アル・ディーンは、
「アンティオキア公の妻はスルタンの味方であった。彼女はスルタンのために
その敵をスパイし、スルタンに助言し、導き、味方の秘密を暴いていた。
スルタンは彼女に高価な贈り物を届けていた」
と述べている。

143 :世界@名無史さん:2005/06/13(月) 18:42:13 0
イスラーム圏における為政者は、ウラマー層の支持と協力を得るため、モスクや
マドラサの建設や喜捨などの慈善行為を積極的におこなうことによって、自らの
敬虔さを示した。
マドラサなどの施設は、ウラマーの活動の場であり、生計の手段となっていた
ので、ウラマーの側からも積極的に軍人層と接触し、寄進を求めた。
また、財務・文書・司法などの行政の分野では、法に通じ行政能力をもつ
ウラマーを官僚として登用する必要があった。
逆に、スルタンなどの為政者はこれらの官職の任命権をもっていたため、
人事政策によってウラマー層のコントロールをはかることができた。

144 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 01:56:36 0
イスラーム圏で長子相続制が根付かなかったのはなぜ?
サラディンの死後、彼の支配領域は息子たちや親族に分割相続されましたが、
これはクルド人の習慣?

145 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 05:42:27 0
元々イスラーム法の規定では、教理の根本に信徒の平等原則があるため
家族法でも相続法では均等分配が定められている。これは女性であっても
相続権が認められ、財産分与が約束されている。

しかし、いわゆる父系優先の慣習法は現実に生きているので、家産の分散を防ぐためにも
慣習法と何らかのかたちで共存する方策が採られてきた。
一例として財産をワクフとして設定し、その受益者の条件として男系卑属に限定する、
という場合があった。ワクフはイスラーム固有の財産寄進制度で、何らかの収益を生む
私財をその所有者が、その得られる収益をある特定の慈善目的のために永久に充てるもの。
具体的には店舗や工房、農地などの不動産や書籍などが好まれ、貴金属や現金のような
消費・消滅するものは財源には避けられた。中央アジアやイランのなどでは地主層や貴顕達が
彼らの不動財産をワクフに設定し、その子孫達を受益者として規定していた例が、当時のワクフ
文書から判明している。(イクターの年次更新などもあるがこれは少し違うか)

さて、アイユーブ朝の支配地分与だが、君主が自分の子息や兄弟に支配領域の各地へ封土を分与する例は、
セルジューク朝でもルーム・セルジューク朝でも、同時代のルームの有力アミールのダーネシュマンド朝や
ザンギー朝などのセルジューク朝系アタベク政権でも通常見られる。(ただし後継者を指名する場合はある)

テュルク系やイラン系の相続方法によるのだろうかとも見て取れなくもないが、
やはりイスラーム法的な均等分配規定の現れとしての側面もあるのではと思う。ちょっと自信がないが(汗

146 :世界@名無史さん:2005/06/14(火) 12:18:43 0
>>131
>イスラムへの改宗を促して最後の赦免の機会を与える義務がある。

ヒッティーンの会戦の後、テンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールは
騎士団の中でただ一人釈放されたが、彼には「イスラームに改宗した」という
噂がたった。
ちなみにリドフォールは後にアッコン攻防戦でサラディン軍に捕らえられて
処刑されている。

147 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 00:22:50 0
>>114
ブルガリア王カロヤン(イワニッツァ)との戦いで、
ラテン帝国のボードワン1世は弟アンリの軍勢が戻るのを待たずに、
140人の騎士とその弓兵や従士を連れただけで出陣。
ヴィラルドワンは敵を深追いしないように忠告したにもかかわらず、
主力部隊を率いたブロワ伯は軽率にもクマン族の軽騎兵を追跡。
クマン族は最初の突撃の後に後退し、ラテン軍の騎士とその馬が息切れした
ころを見計らって、突如反転して主力部隊を包囲。
その結果、ブロワ伯は戦死し、皇帝ボードワン1世は捕虜になった。


148 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 16:51:56 0
西欧騎士vs遊牧民の戦いってそんなのばっかだな

149 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 17:09:19 0
ttp://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-836-6p.html
アター・ベグ(セルジューク諸侯国) 12世紀〜13世紀初頭

3.グラームの騎兵

この戦士の鎧の下にある服装は、本質的には彼の服装がトゥルクメン族がする
トルコ系イランの様式と同じであることを示している。彼の塗装された
一体成形の鉄兜は金メッキの革のネック・ガード(首当て)がついている。
彼の革のラメラー胸甲は、まだ比較的軽量であり、動物の頭をかたどった
鉄のメイス(鎚矛)と湾曲したサーベルの両方を持っている。また、より重い
直身の刀剣が彼の鞍の下には押し込まれている。

150 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 17:23:35 0
ttp://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-822-6p.html
騎士団総長のサーコートとマントには、銀の縁どりをした騎士団の十字の
しるしがある。1219年、イェルサレム王は騎士団総長に、騎士団の黒十字の
下にイェルサレムの黄金の十字のしるしを帯びることを許し、こうして黄金の
縁どりがついた。したがってこの軍装は1219年以前のものである。
グレート・ヘルムもほぼ同時代のものだ。サーコートの右脇を紐でとめている
様子や、黄金の鎖の一方を兜の後ろに、一方を腹まわりの紐につけている
ことに注目されたい。騎士団総長が手に持つのはチュートン騎士団の槍旗を
つけたランス(騎槍)である。

151 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 18:00:54 0
そういえば14世紀頃のセルビアとブルガリアの戦いで
セルビアの西欧式軍隊が軽騎兵中心のブルガリア軍を
破った例があった気がするが・・・

152 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 18:11:15 0
>>148
アケメネス朝ペルシアvsスキタイ人、
ナポレオン軍vsコサックもそんな感じだな。

いったん退却して、敵が疲労&補給線が途絶えたころを見計らって反撃。

153 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 20:42:12 0
>>151
1330年に、ステファン・ドゥシャンが少数の兵でブルガリアの大軍を撃破した
戦いかな?
でもそのセルビア軍もオスマン朝の軍勢にはあっさり敗北。

154 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 21:28:13 0
十字軍初期の西欧の騎士や、ビザンツ帝国の騎兵は鐙の存在を知らなかった。
マンズィケルトの戦いを描いた絵でも、セルジューク朝の騎兵は鐙を
使っているが、ビザンツの重装騎兵は鐙を使わず、両脚がだらりと下がる格好。
古代のギリシア人やローマ人は鐙を発明することがなかったので、西欧や
ビザンツにも鐙は存在しなかった。

ttp://www.greece.org/parthenon/marbles/IMG0034b.jpg
古代ギリシアの乗馬

155 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 22:56:02 0
ttp://www.byzantium1200.com/
コンスタンティノープルをCGで復元したサイトです。
第四回十字軍はこーゆー都市を攻めたのね。



156 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 23:41:24 0
ギリシャ人のナショナリストは「コンスタンティノープルを奪還すべきだ!」とか言ってそう

157 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 02:39:54 0
ttp://www.ospreypublishing.com/osp_img/titlecovers/P3478AL.JPG
後期ビザンティンの軍装

ちなみにルーム・セルジューク朝の軍装はビザンティンの影響をかなり
受けていたらしい。
ルーム・セルジューク朝の場合、ビザンツ風の兜と鎖帷子、円形ではなく
縦長あるいは楕円形の盾などを使用。
その一方で革の胸甲、板片を合わせて作った中央アジア式の兜、両端に
穂先があるイラン式の「ズーピン」と呼ばれる槍なども併用されていた。


158 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 02:53:27 0
それ日本語版は出てないんだよね
滅亡寸前にはどんな格好してたんだろ

159 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 03:04:54 0
ttp://www.ospreypublishing.com/osp_img/titlecovers/S6704AL.JPG
ttp://www.mwart.com/xq/ASP/pid.2066/qx/productlg.htm

テンプル騎士は上の画像にあるように、白衣を制服としていた。
クラミードと称するギリシア風の裾長の布衣を右肩でホック留めにし、
その上にまた純白のゆるやかなマントをはおる。クラミードの胸部に
大きな赤い十字架が描かれている。マントの左胸にも同じ形色の
十字架が縫い付けてある。
テンプル騎士の白衣はシトー修道会の修道服をそのまま適用したもので、
純白は清い心、無垢の精神を、十字の赤は殉教の精神を象徴するものと
された。


160 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 03:10:27 0
>>158
コンスタンティノープル陥落直前に、大臣のスフランゼスがコンスタン
ティノス11世に、武器を取りうるギリシア人はたったの4773人と報告
したんだっけ。
もはや軍隊といえるようなものは残っていなかったのでは。
(ミストラとトレビゾンドはどうだったかわからんが)

161 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 03:25:13 0
ttp://www.mwart.com/xq/ASP/pid.2050/qx/productlg.htm
聖ヨハネ騎士は黒衣を用いた。黒または褐色は謙譲の精神を示す地味な
色彩として、古来聖職者の好んで使用するところであった。上衣は
ガルナッシュと呼ばれる長衣で、前が中央でボタン留めになっており、
その上に黒のカーパというマントをはおる。この両方の胸部に径3〜4
インチの白い八尾十字架が縫い付けられる。戦時に限り、この黒カーパ
の代わりに緋色のサーコートを着用した。
帽子については両騎士団とも戦時に兜の下にかぶる頭蓋状の布製帽子を
常用し、特にターバン状のオレイエという白布の帽子をかぶることが
多かった。

162 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 11:54:58 0
ttp://images.overstock.com/f/102/3117/8h/www.overstock.com/images/products/muze/books/1855322242.jpg
ビザンティン初期、4〜9世紀
ttp://catalog.chaosium.com/images/OSP089.jpg
おそらくヴァリャーギ親衛隊
ttp://www.ospreypublishing.com/osp_img/titlecovers/P3478AL.JPG
後期ビザンティン、1118〜1461年

こうして並べてみると1千年の間の変化は著しいね。



163 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 12:23:20 0
>>157
>>158
アンドロニコス2世パラエオロゴスは、財政の圧迫により海軍を全廃
した上に陸軍も近衛兵を中心とするきわめて限定的な人数に削減し、
その埋め合わせにカタルーニャ傭兵を導入したり、ジェノバの海軍力に
頼ったりした。

164 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 15:00:04 0
>>153
キュステンディルの戦いですな。ブルガリア側にはモンゴル人傭兵とかいたらしいね。

165 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 15:32:35 0
157 :世界@名無史さん :2005/04/30(土) 20:29:25 0
「アルモガバルス」と呼ばれたカタルーニャ傭兵軍団は、ギリシャではトルコ人
以上に評判が悪かった(略奪・暴行の限りを尽くしたという意味)。
彼らの中で最も有名なのはロジェール・ド・フロルで、フリードリヒ2世の
宮廷のドイツ人郷紳とブリンディシの一貴婦人の間に生まれた。
1304年にはビザンツ帝国のアンドロニクス2世に雇われてトルコ人と戦い、
これを撃破。
しかし彼らに払う報酬が負担になったアンドロニクス2世はハドリアノポリスの
離宮に彼らを招待し、アラン族近衛兵に虐殺させる。

166 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 15:33:10 0
158 :世界@名無史さん :2005/04/30(土) 21:58:35 0
アルモガバレス(almogavares) の語源は、アラビア語のal-mugawir(越境し
襲撃する者)かal-mugawar(叫ぶ者)とされているな。
カタルーニャとウマイヤ朝上辺境区(のちフード朝サラゴーサ)との絶えざる
小ぜりあいの中から生まれた、剽悍で粗衣粗食に耐える凶暴な傭兵たち。

>>157
1305年に起きたその虐殺の後、生き残りが暴れまわり、アテネとパトレー周辺
を征服して、1311年アテネ公国とネオパトリア公国を建設。
1380年に領土をアラゴン王国に献上。アラゴンは1388年まで領土を維持
した。
「アテネ及びネオパトリア公」という称号は、その後スペイン・ハプスブルク家
からオーストリア・ハプスブルク家に渡り、マリア・テレジアの名乗りの中にも
登場する。

167 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 16:12:34 0
ラテン帝国アンリ1世の治世に、テサロニカのモンフェラート侯は、ブルガリア
との戦いに敗れて戦死、彼の頭蓋はブルガリア王カロヤンに献上された。
だがその後アンリ1世はブルガリア王の軍勢を撃退。カロヤンは天幕の中で
何者かに刺殺される。
またアンリ1世はニケーア皇帝ラスカリスを追い詰めて小アジアに勢力を
伸ばし、ニケーア・エピロス両国と講和を結んだ。
またギリシアの民心をつかむため、教皇インノケンティウス3世による
ギリシア正教会の土地の教皇領への移譲を拒否。

168 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 16:39:51 0
>>167
その献上されたドクロはひょっとして金箔貼って酒盃にしたのか

169 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 16:46:47 0
二ケーア帝国の軍隊もフランク人の傭兵が多かったらしいね。

170 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 17:19:42 0
フランク人?

171 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 17:59:11 0
>>170
西欧人(カトリック圏の人間)のこと。

172 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 19:08:03 0
アンドロニコス1世コムネノスが反乱を起こしたとき、コンスタンティノープル
の市民は彼にそそのかされて市内に住む西欧人を虐殺している。
自分たちの船に隠れ場を見つけられなかった者はすべて殺され、
教皇アレクサンデル3世の使節であるジャン枢機卿が斬首される騒ぎに
なった。
西欧人がいかにビザンツ人から嫌われていたかを示すエピソードである。

173 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 22:15:57 0
>>169
エピロス君侯国も。

174 :世界@名無史さん:2005/06/16(木) 22:58:10 0
ラテン帝国皇帝アンリ1世の死後、彼の姉妹のヨランドの夫である
ピエール・ド・クルトネが新皇帝に即位した。
彼はエピルスの山中でテオドロス・ドゥカスと戦って敗北し、
しばらく拘留されたあと暗殺された。

ピエールの死後、彼の兄弟のロベールが皇帝の座に就いたが、
彼の治世にラテン帝国はニケーアとエピルスの双方から圧力を受けた。
テオドロス・アンゲロスはテサロニカ王国を手に入れ、ボニファチオ・
ディ・モンフェラートの息子のデメトリオスを追放した。
ヨアンネス・ドゥカス・ウァタツェスはエピルスの僭主テオドロスに
ニケーアの宗主権を認めさせ、フランス人傭兵隊を征服事業に使い、
艦隊を建造してヘレスポント海峡の制海権を握り、レスボスとロードス
を占領し、小アジアとバルカン半島を制圧してラテン帝国を完全に
孤立化した。
また彼は最初の妻イレーネ(テオドロス1世ラスカリスの娘)の死後、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の娘アンナと結婚している。
これは彼が神聖ローマ帝国の封臣になることで、ラテン帝国の宗教的
体面を取り潰す意図にもとづいていた。

175 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 04:39:46 0
あまり知られていないが、ビザンツ軍の工兵隊は、第一回十字軍の際に
数度にわたって攻城戦を助けている。

176 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 05:52:24 0
エピロス?
エピルス?
エペイロス?

177 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 11:27:25 0
エペイロス…古代式発音
エピロス…中世式発音
エピルス…ラテン語式発音
ではないかと思う、自信ない。誰かエロい人の降臨を待つ。

ちなみに現代ギリシア語ではイピロス。

178 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 12:43:04 0
当時のレヴァントでのヴェネチアとジェノバの対立って、ヴェネチアがラテン側、ジェノバが
ギリシャ勢力側、みたいな感じですか?

関係ないけど昔読んだ映画雑誌に、ポール・バーホーベン監督、シュワルツェネッガー主演で
第4回十字軍の映画を撮るとか載ってたような気がするが・・・立ち消えになったのかな。

179 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 13:49:14 0
>>178
そのときどきで敵味方が入れ替わることもあった。
1082年5月、アレクシオス1世はヴェネツィアに、ビザンツ帝国内の都市で
関税を払うことなく取引できるという特権を与えた。
次のヨハネス2世は父が与えた特権を回収しようとしがmヴェネツィア側が
武力に訴えてあきらめさせた。
例えばマヌエル1世はイタリア半島を支配下に置こうとしてヴェネツィア
との関係を悪化させ、1171年3月、マヌエルはヴェネツィアに断交を宣言し、
帝国内の全ヴェネツィア人を逮捕、その財産を没収する。コンスタンティ
ノープルのヴェネツィア人地区も撤去された。さらにヴェネツィア人追放に
先立ってジェノヴァ、ピサと通商条約を結んでいる。
アンドロニコス1世コムネノスの時代には再びヴェネツィアとの交渉を
始めている。アンドロニコスは政権奪取のために西欧人のすべて追放
したので、ビザンツ経済が正常に機能しなくなっていたのである。
第四回十字軍で、ヴェネツィアはコンスタンティノープルを征服する
ことによって、東地中海世界システムの中核の地位を確固たるものとする。

180 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 13:55:47 0
ちなみにビザンツ人の亡命政権であるニケーア帝国も、1219年にヴェネツィアと
通商条約を結んでいる。ラテン帝国の黒幕であるヴェネツィアに関税免除の
特権を与えたのは、穀物を販売したい貴族層の利害に配慮したためである。
貴族たちはまた、ヴェネツィア商人がもたらす絹織物を欲しがっていた。
ただし、ニケーア帝国は決してヴェネツィアべったりではなく、ときに
ジェノヴァに接近したりして、いたりあ都市間の対立を利用して活路を
開こうとしていた。
ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回すると、ヴェネツィアは
シャルル・ダンジューと同盟を結ぶ。(これはシチリアの晩鐘事件で失敗)


181 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 15:59:02 0
>>関係ないけど昔読んだ映画雑誌に、ポール・バーホーベン監督、シュワルツェネッガー主演で
>>第4回十字軍の映画を撮るとか載ってたような気がするが・・・立ち消えになったのかな。
激しく見たい。

182 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 16:13:30 0
ttp://blog.goo.ne.jp/kingofcage2000/e/05a63e0f00699cea64e84da1f59b1856
実はもう何年も前にバーホーベンが十字軍を撮るっつう企画があったん
だよね。
見事にポシャッたわけだが。
同じ内容をバーホーベンが描いていたら「非道徳映画」のレッテルを
貼られてただろう。
しかし限りなくこの物語の本質を捉えていたハズだ。

183 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 16:20:59 0
第4回十字軍はそもそもエジプトを攻めるつもりだったのだが、
インドやアラビアン産の香辛料はナイル河を通って地中海世界に
運ばれていた。
ヴェネツィアやピサの商人たちは、ダミエッタやロゼッタで、川船から
商船に商品を積み替えていた。
そしてエジプトのスルタンも、十字軍戦士と同じフランク人であっても、
それが国庫に恩恵をもたらすことを知っていたので、これらの商人に
好意を持って接した。彼らが船の建材、ピッチあるいはタール、金属、
武器などを持っていった場合には、ますます歓迎された。

したがって、ヴェネツィアにとっては十字軍がエジプトを攻めるのは
国益の観点からして望ましくなかったのである。

184 :世界@名無史さん:2005/06/17(金) 20:20:38 0
ttp://www.littlebigmenstudios.co.uk/littlebigmenstudios/BYZANTINETEMPLATES/BYZANTINE%20SHIELD%20LAYOUT1.jpg
ビザンツ軍の盾のデザイン

12世紀頃のビザンツ帝国には、州ごとに固有の守備兵がいた。各守備隊は
2から3の「トゥルマ」からなり、トゥルマは5から8の「ヌメリ」からなり、
1ヌメルスは300〜400人だった。
トゥルマ内の各部隊ごとに短衣、外套、盾、兜の頭頂部の飾り、あるいは兜の
覆い布の色が違っていたらしい。

185 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 01:42:37 0
アイユーブ朝もふくめたイスラーム諸王朝の海軍はどんな形態だったの?
十字軍の場合、イタリア商人+騎士修道会の自前の海軍で成り立っていた
らしいけど。

186 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 14:14:54 0
>>185
初期イスラームの海軍は、イエメン人、オマーン人、シリア系のアラブ人、
コプト派キリスト教徒、ギリシア人によって編成されていたらしい。
ただ、サラディンの時代の海軍がどうなっていたかは不明。

187 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 18:55:46 0
マグリブ人が海兵として優秀だったとか

そういえば十字軍の初期の頃は海軍国のファーティマ朝が健在だったんだよな

188 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 20:50:20 0
>>187
ファーティマ朝はアレキサンドリア・ダミエッタ・ローダ島・マクスに
海軍工廠を持っていた。
ファーティマ朝は北アフリカとシリアの領土を失うと、深刻な人的資源不足
に悩まされ、その結果海軍力に大きく頼るようになった。
ファーティマ朝の宰相、アル・アフダルは、最初十字軍と組んでシリアから
セルジューク朝の勢力を排除しようとさえ考えた。
(彼は十字軍の実態について無知だったらしい)
イェルサレム国王ボードワン1世は1118年にエジプトに侵攻したが、途中で
病気にかかって引き返した。このときのファーティマ朝はほとんど無抵抗
という醜態をさらしている。
1160年にはイェルサレム王国に年間6万ディナールを貢納することになる。

189 :世界@名無史さん:2005/06/21(火) 03:22:44 0
十字軍の時代のビザンツ皇帝たちとその外交政策についてでも語る?
西欧かぶれのマヌエル1世とか、イェルサレム王ボードゥアン3世の寡婦
テオドラと駆け落ちしたアンドロニコス1世とか、第4回十字軍の力を借りて
皇帝に即位しようとしたアレクシオス4世とか。


190 :世界@名無史さん:2005/06/21(火) 06:35:55 0
マヌエル1世あたりはルーム・セルジューク朝のクルジ・アルスラーン2世とか
ザンギー朝のヌールッディーンとかとダイレクトに関わってるのでネタがあれば是非。

191 :世界@名無史さん:2005/06/21(火) 20:53:24 0
ヨハネス2世、マヌエル1世の忠臣アクスーフは元トルコ人奴隷だった。


192 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 09:01:52 0
アンドロニコス1世って、若いときダマスカスのヌールッディーンや、
ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世のもとに亡命していた
ことがあるんだよね。
そしてトレビゾンドに何度も侵攻し、テオドラがこの地の総督に捕われるに
およんで、鉄の鎖を首に巻きつけてマヌエル1世の赦免を乞うた。

193 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 14:07:55 0
エジプトのファーティマ朝では金本位制が取られ、純度の高い金貨が鋳造されて
いたが、次のアイユーブ朝時代には銀本位制に移り、ブルジー・マムルーク朝
時代には国内では銅貨が基本になった。

ところで、この時代のビザンツ帝国やセルジューク朝の貨幣はどうなって
いたんだろうか?

194 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 14:56:42 0
ttp://mehmeteti.150m.com/seljuqsofrum/index.htm

195 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 15:01:24 0
ttp://mehmeteti.150m.com/trebizond/index.htm

196 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 20:57:08 0
>>194-195
Thanks.

十字軍がタークポールと呼ばれる、フランク人と現地人の混血の軽騎兵を
使っていたことは有名だが、
ルーム・セルジューク朝も、イグディシと呼ばれるトルコ人とキリスト教徒の
混血を使っていた。


197 :世界@名無史さん:2005/06/22(水) 21:21:55 0
こちらもよろ。

中世騎士団スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1065707943/l50
 

198 :世界@名無史さん:2005/06/23(木) 11:37:49 0
十字軍を契機にしてヨーロッパ社会は金貨への関心を高め、ラテン帝国で
金貨を鋳造し始めたのをさきがけに、1252年にフィレンツェでフロリン金貨、
ジェノヴァでジェノヴァ金貨、1284年にヴェネツィアがゼッキーノ金貨を
発行した。


199 :世界@名無史さん:2005/06/24(金) 02:26:02 0
ルーム・セルジューク朝の繁栄の要因のひとつに、アナトリアにおける
通商路の整備があるが、
ビザンツや十字軍と戦うための戦費も、交易でまかなっていたの?

200 :世界@名無史さん:2005/06/24(金) 17:21:13 0
ttp://www.dharma6.com/assets/images/Hattin-Battle-sm.jpg
ttp://falcon.arts.cornell.edu/prh3/259/images/!hattinm.jpg
ttp://www.rez-metz.supelec.fr/activites/cc/images/pele_terreSainte/TS_06_02R.jpg
ハッティン(ヒッティーン)の地図・画像

ハッティンの丘は頂上が二つの椀を伏せたような形に見え、「ハッティンの角」
と呼ばれていた。サラディン軍はこの「角」の裏側で待ち伏せしていた。

201 :世界@名無史さん:2005/06/25(土) 01:01:12 0
>>200
おお、これは凄い! >200氏、乙です!

故前嶋信二先生が書かれたヒッティーンの戦いについての文章で、
ヒッティーン周辺は水場にも恵まれたなだらかな丘陵地帯だけど、東側は
ティベリア渓谷に落ち込んだ崖になっていたので、サラディン軍は背水の陣を
負ってこの決戦に望んだ、と紹介されてたのを思い出した。

麾下のシリア・エジプト軍に加えてシリアの周辺諸族の連合軍だったサラディン軍は
短期決戦を狙ってたらしく、十字軍側をティベリア湖側と対照的な水場の少ない
エルサレム北部の内陸部に迂回させて、ヒッティーンの野に誘い出したと説明されてた。

そうか。あのナザレやタボル山とも近くだったのかー。

202 :世界@名無史さん:2005/06/25(土) 21:31:50 0
hattenを思い出すなあw

203 :世界@名無史さん:2005/06/25(土) 22:25:25 0
>>201
映画「キングダム・オブ・ヘブン」で、バリアンがハッティンに到着すると、
騎士の首がピラミッド型に積み上げてあったり、槍の先に突き刺されて
あったりするシーンがありますが、
テンプル・聖ヨハネ両騎士団はサラディン軍にとくに憎まれていたようで、
修道騎士の生首は槍の穂先に突き刺され、行列をつくって練り歩くムスリム
兵士の肩に担がれて見せしめにされたといわれています。

204 :世界@名無史さん:2005/06/26(日) 03:30:43 0
カラク城
ttp://www.cunningham.li/Photos/jordan/images/020%20kerak%20castle.jpg
ttp://www.atlastours.net/jordan/kerak_corridors.jpg
ttp://www.bilderkarten.de/kerak/kerak2.jpg
ttp://cheetah.karlov.mff.cuni.cz/~Mirek/arabie/pic/0901_Kerak.jpg

建てられた当時は七段もの階層があったが、1293年に大地震で大部分が
破壊された。
カラクはローマ時代からエジプトからシリアへ続くキャラバンルート上の
街として重要な位置にあった。


205 :世界@名無史さん:2005/06/27(月) 21:05:25 0
中東の都城はたいてい何度か地震の被害に見舞われてるものらしいね。
ウサーマ・ブン・ムンキズも生家シャイザル市が地震で倒壊して一族が全滅してたり
ホラーサーンのニーシャープールもモンゴルが襲来する前後に地震でいくどか崩壊してたり。

それはそうとエルサレム王国とかトリポリ伯領みたいな十字軍系諸国の歴史を
知ろうとなると、一次史料はテュロスのウィリアムによる年代記とか
場合によってはマシュー・パリスの年代記あたりになるのかな?

206 :世界@名無史さん:2005/06/27(月) 21:23:06 0
>>205
アンティオキアも何度か地震の被害に遭ってるね。

ところで、ヤッファ伯ジャン・ディブランが復元した「イェルサレム法令集」
はどう?

207 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 00:35:44 0
ttp://www.syriantours.net/AllPhotos/Aleppo/aleppo_citadel_1.jpg
ttp://www.damascus-online.com/Photos/Aleppo/aleppo_citadel1.jpg
アレッポにあるアイユーブ朝の城塞

もともとビザンツの要塞跡だったところに、アイユーブ朝のアル・ザーヒル・
ギヤースッディーン・ガーズィーが城塞を築かせた。
張壁は十字軍から導入し、跳び出し狭間や円筒形の塔などはファーティマ朝の
築城法の伝統を継承している。

208 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 02:57:15 0
突然の教えてちゃんですが、すみません。
ジェラール・ド・リドフォールのドキュソぶりが
効果的に学べる本てありますでしょうか?



209 :世界@名無史さん:2005/06/28(火) 11:25:50 0
>>208
橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫)はどう?

210 :世界@名無史さん:2005/06/29(水) 07:52:48 0
>209
ありがとうございます。


211 :世界@名無史さん:2005/06/30(木) 20:14:04 0
聖遺物の「真の十字架」は、ヒッティーンの戦いでイスラーム側に奪われた
あとどうなったの?


212 :世界@名無史さん:2005/06/30(木) 21:32:38 0
「真の十字架」4世紀にはコンスタンティノス帝の母ヘレナが発見した、となっており
その断片は「聖遺物」として初期キリスト教の教会の多くに納められたので、十字軍が
発見したのもイスラムに奪われたのというのも丸ごとではなく断片でしょう。
お釈迦様の「仏舎利」と同じようなものと思われますが。
ヘレナが発見したことになっているのは丸ごとで、「聖へレナ」の画像は、十字架に
寄り添う豪華なマントを着た老貴婦人で示すことになっています。

213 :世界@名無史さん:2005/07/01(金) 00:43:33 0
あまり詳しくないからアレだけど、
シャッダードのサラディン伝によれば、リチャード1世がアッカー占領後
サラディン側に対して捕虜返還の条件のひとつに「真の十字架」の引き渡しを
挙げている。

欧州諸王とサラディン側の交渉の材料になるくらいなので、ヒッティーンの戦いと
エルサレム占領後、十字軍側が陣中に持ち込んでいた「真の十字架」はサラディン側
の手に落ちたのち、破却されることなくサラディン側に保管されていたのかも知れない。

恐らくエルサレム占領後、もとの聖墳墓教会あたりに戻されていたのやもしれないが
それまでの経過はよくわからない。キリスト教側の聖遺物の管理はキリスト教の教会側
の領分なのでムスリムの君主であるサラディンに裁量できる権限があるかは、自分には
よく分からない。その後の「真の十字架」がどうなったか、これもよくわからない。


214 :世界@名無史さん:2005/07/01(金) 08:55:03 0
十字軍とは直接関係無いけど、「真の十字架」はサーサーン朝のホスロー2世に
一度奪われ、その後ビザンツのヘラクレイオス帝が奪回。
ヘラクレイオスは奪回した真の十字架をイェルサレムの聖墳墓教会におさめた。

聖遺物といえば、第一回十字軍がアンティオキア籠城戦のさいに発見した
「聖なる槍」なんてのもあった。




215 :世界@名無史さん:2005/07/02(土) 18:36:16 0
ロンギヌスの槍っすか

216 :世界@名無史さん:2005/07/02(土) 21:32:02 0
「真の十字架」は断片を全部集めるとものすごい量になるそうだが……

217 :世界@名無史さん:2005/07/02(土) 22:07:08 0
>>216
一つの山が樹木で覆われてしまうぐらい、だそうでつ。

>>215
マルセイユ出身のピエール・バルテルミという聖職者が、自分の夢に
聖アンデレが現れて、「アンティオキアの聖ペテロ教会の祭壇の近くに、
我らの救世主の横腹を刺した槍の穂先が隠されている」と告げたと
ふれまわった。

218 :世界@名無史さん:2005/07/03(日) 05:00:25 0
>>216
仏舎利みたいだ。

219 :世界@名無史さん:2005/07/04(月) 11:56:23 0
イスラーム圏には、預言者ムハンマドの神秘的な夜の旅を描いた「昇天の書」
という書物があります。これは預言者がイェルサレムの岩のドームから昇天し、
人頭獣身の霊獣ブラークに乗って神の王座にいたる七つの天界と地獄をめぐる
という説話にもとづいており、後にダンテの「神曲」に影響を与えたと
いわれています。
ひょっとしたらこれも十字軍とともにヨーロッパに伝わったのかなあ?

220 :世界@名無史さん:2005/07/08(金) 14:32:13 0
イェルサレム王国は、ビザンツの宗主権を認めていたの?

221 :世界@名無史さん:2005/07/08(金) 23:27:28 0
>>219
ミウラージュは、コーランで述べられてるムハンマドの数少ない奇蹟のひとつで
ハディース集やムハンマド伝などでもよく取り上げられる主題ですね。
(奇蹟自体は預言者というよりもこの際は神の力(意思)の顕現であり
 コーラン自体がムハンマドを通して顕現した神の奇蹟であるというのは置くとして)

ミウラージュの話そのものは神に謁見するため天の階梯を登る内容なので、コーランなどでは
古代のイナンナ女神や新訳外典のように地獄下りはなかったはず。

天地が惑星圏ごとに階層化しているという宇宙観は、メソポタミア・シリアでは
古代から一般的だったようです。天地の階層がそれぞれ7つずつという発想そのものは
割と新しく、ペルシア帝国時代からヘレニズム時代にユダヤ人やアラム人、ギリシア人に
よって天文学や占星術関連の文献がアラム語やギリシア語によって著述されるようになってから
特にギリシア人によって体系化されていったと見られています。この過程で各階層に哲学的かつ
神秘主義的意味が付与されるようになりますが、これは当時流行していたグノーシス思想の
影響が多分に反映しています。


222 :世界@名無史さん:2005/07/08(金) 23:37:50 0
>>221の続き
ミウラージュの説話は、15世紀以降になるとイラン・トルコ方面で挿絵付き写本の
作成が一般化するようになってから預言者伝や聖人伝のジャンルとして「ミウラージュ・ナーマ」
の類が登場します。しかしこれは『神曲』の作成年代よりは新しい物です。

『神曲』の階層的な天地の構造は、むしろ10〜12世紀にシリア・エジプト方面で隆盛した新プラトン主義的な
神学や神秘主義思想、その影響を受けた天文学というか占星術などの諸学の文献が、アンダルスやシチリアの
アラビア語・ギリシア語文献の翻訳運動によって西欧に伝播し受容された結果だと考えた方が良さそうです。

お知りになった「ミウラージュ・ナーマ」やムハンマド伝に地獄下りの場面があるのでしょうか?
ダンテの場合は新訳外典のひとつにあるイエスの地獄下りの説話が下地にあるように思えます。

223 :世界@名無史さん:2005/07/09(土) 13:02:16 0
>>222
キリストの冥府下り(アナスタシス)は、トリエント公会議で否定されたので、
日本人には馴染みがないんだよね。
ビザンティン美術にはこのテーマを扱ったものがイパーイある。
西欧でも、アーニョロ・ブロンズィーノがこのテーマで絵を描いている。

224 :世界@名無史さん:2005/07/10(日) 12:48:24 0
サラディンは若いころフランク人の捕虜になったの?

225 :世界@名無史さん:2005/07/11(月) 13:02:50 0
十字軍戦士は、聖地での戦いでは渇きに悩まされた。
イェルサレムの近くでは、ムスリム兵はは篭城する前に井戸や貯水池を
埋め尽くしている。
フランク人の軍装は酷暑には適さず、雨や寒さも彼らにはつらかった。
小アジアやシリアでは、冬は結構寒くなるのである。
さまざまな民族と宗教が混在している土地では、アルメニア人・シリア人・
ギリシア人の間に混じっているスパイを見分けるのは容易ではなかった。

226 :世界@名無史さん:2005/07/11(月) 20:59:45 0
>>224
そのような話は聞かれないが、サラディンが叔父シールクーフに
伴ってエジプト遠征に派遣されたとき、何度か苦戦を強いられたことは
知られている。

1164年5月に第1回エジプト遠征が行われたが、宰相位に復帰した
シャーワルがアモーリー1世に通じて十字軍をビルバイスまで引き寄せ、
シャーワルの軍とエルサレム王国軍とで、シールクーフのシリア軍を包囲した。
しかし、アモーリーは自軍の犠牲を避けるためシリア軍側に包囲を解く条件として
3万ディーナールの支払いを要求したらしい。シールクーフはこれに承諾して
10月にはシリア本国まで撤退している。この時サラディンは26歳だったが
戦闘そのものはなかった可能性も高く、史料にもサラディン自身の活躍もほとんど
無いに等しい。

十字軍侵攻から救援要請をした当のシャーワルの不誠実さには、派遣した
ヌールッディーンもシールクーフも大いに不満だったようで、三年後の
1167年初めに第2回エジプト遠征が行われた。エジプト到着はアモーリーの
軍と同時だったようでナイルデルタ一帯で戦闘が行われた。この時もサラディンは
シールクーフに従って一軍を任され、アレクサンドリアの住民の支持を得られたので
これを防衛し、これを包囲したアモーリーの軍をシールクーフが撃破する三ヶ月間
攻囲を耐えきっている。

ちなみに第3回エジプト遠征でシールクーフがカイロ入りして宰相に任命され、
サラディンのエジプトでの足掛かりが出来る。


227 :世界@名無史さん:2005/07/11(月) 21:22:39 0
そうでつか。
サラディンがクラク・ド・モアブを包囲したとき、トランスヨルダンの女領主
エティエネット・ド・ミリが、サラディンに使者を送って、自分が子供のころ
サラディンに抱かれていたことを思い出してくれるよう頼んだ、という話を
読んだもので。

228 :世界@名無史さん:2005/07/12(火) 13:19:56 0
>>227
ソースは?
サラディンの少年時について詳しい日本語の文献はあまり無いから
海外調べた方がいいかも。

229 :世界@名無史さん:2005/07/12(火) 15:53:57 0
>>228
レジーヌ・ペルヌー『十字軍の男たち」(白水社)でつ。


230 :世界@名無史さん:2005/07/12(火) 21:43:43 0
レジーヌ・ペルヌー『十字軍の男たち』(白水社)を読んでいると、著者が
アラブ人やムスリムに対して無知であるか、偏見を持っているのではないかと
思う。例えば、

「『聖戦』を布教上公認された手段としているイスラム教徒」
「この宗教がキリスト教と比べた場合に明らかな特色となっている後退や
退行の性格」
「イスラム教を特色づけるものは何よりもまず新約聖書の本質的な貢献を
全面的に否定することである」
「645年のアレキサンドリアの有名な図書館の消失は世界にとって
とりかえしのつかない損失であった」



231 :世界@名無史さん:2005/07/12(火) 22:30:12 0
>>230
それには同感。
彼女の著作がフランス本国でベストセラーになってるのも
ちょっとナショナリズム色の強さを感じて抵抗感がぬぐえない。

でも、あの時代の著作に関しては定評のある作家だから、
>>224みたいなことについて嘘は書かないんじゃないかと思う。
この分野だとフランス語の文献をあたるのがベストなのかな。


232 :229=230:2005/07/12(火) 22:46:50 0
>ナショナリズム色の強さ

フランス人だからかどうかわからないが、フリードリヒ2世を批判して、
聖王ルイを称賛している。

フリードリヒ2世については、
「体型からみても、この禿げ頭の猫背の小男と、彼の次に登場してくる
聖王ルイによって表現されるような騎士の姿のあいだには似かよった
点は何もないのである」
「彼の業績については、政治的見地からすれば、彼がまったく予期
しなかった結果だけを残すこととなった。つまりプロシアの基礎を
つくったことである」

233 :世界@名無史さん:2005/07/13(水) 17:10:13 0
>>230
その辺、結構微妙なとこだけどね。

1番目は事実といえば事実。
ただし、コーランの教えは非戦闘員を対象にはしていない。
2番目は確かに偏見。
3番目、マホメットはキリスト本人の神性は否定しつつも、
預言者としては認めるという立場だったから、確かに新約とは
相容れない部分がある。
新約が弟子の記録を意図的に取捨選択した結果なのは確かだし。
4番目は自分も同感。でも似たような例を挙げればきりがない。

彼女はそれなりの学者だけど、ヨーロッパでは政治的中立タイプの
学者のほうが珍しいしね。読む側が気をつけるしかないのかも。

234 :世界@名無史さん:2005/07/13(水) 21:53:37 0
どこの国でもそんなもんだろ。
読む側が気をつけるしかない

235 :世界@名無史さん:2005/07/13(水) 22:23:24 0
ペルヌー女史はフリードリヒ2世のことを近代人として賞賛する学者たちに
対して、

「彼は寛容の精神とイスラムへの興味をもっていたが、それでもシチリアの
イスラム教徒との4年にわたる戦い(彼らに対して真の「殲滅戦」をしかけた)
によってその統治を始めたのであった。シチリアのイスラム教徒は、キリスト
教徒たちがスペインにあって、イスラムの統治下で享受したものと比較できる
ような非常に寛容な体制を、ノルマン王国のもとで享受していたが、キリスト
教徒の地主からは農奴のような条件下に引き戻されてしまった。彼らシチリアの
イスラム教徒の大半はイタリア大陸(ことにルケラ)へ連れ去られた。そして
フリードリヒ2世が1223年に多くのイタリア貴族の財産没収にふみきったのは、
これらイタリア貴族が、充分なイスラム教徒の割り当て兵数をフリードリヒ
2世に差し出さなかったからである」

と反論していた。
ちなみに殲滅戦云々の話は、エドゥアール・ジョルダン『12世紀と13世紀の
ドイツとイタリア』という資料に依拠しているらすぃ。

236 :世界@名無史さん:2005/07/13(水) 23:00:26 0
ttp://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/dord/subtext.htm#RAUMA1992
フリードリヒ・フォン・ラウマー著 柳井尚子訳 騎士の時代 
法制大学出版局 1992年 ¥4800
 
280から400頁にドイツ騎士団創設に関わったドイツ皇帝ハインリヒ
四世や、フリードリヒ二世に纏わる話が、主に戦いや政争に焦点を当てて
記されている。フリードリヒ二世とドイツ騎士団長ヘルマンとの関わりも
僅かながら記述されている。ヘルマンが皇帝の外交官の様に見える。
フリードリヒ二世を好意的に描いている。但し、資料的根拠は全く
示されぬまま美辞麗句が続き、どうにも信頼性が高い様に思われない。
しかし「レジーヌ・ペルヌー著 福本秀子訳 十字軍の男たち 白水社
1989年」の280から297頁と比較してみると、フリードリヒ
二世の人間像が如何なものかがよりよく見えてくる。両書を読み、歴史像
とは資料の選び方と読み説き方で幾らでも、変わるものだと感心させられる。
ちなみに本書の著者はドイツ人で、ペルヌー氏はフランス人である。 

237 :若狭 ◆yqXqaUpMzk :2005/07/14(木) 22:04:15 0
レバノンの歴史家P=K=ヒッティは著書「アラブの歴史」で

アレキサンドリアの図書館の書物の消失について
物語として上手に作られているが、歴史的には誤ったものだ。
そもそも図書館自体がその時代にはもう存在していなかった

と述べていますが、
ペルヌー女史に対する留意と同じ理由で、これも信用しがたいのでしょうか。
焼失があった事実そのものについては、ペルヌー女史の記述は信憑性があると考えてよろしいでしょうか?



238 :世界@名無史さん:2005/07/14(木) 23:19:19 0
16 :世界@名無史さん :2005/06/14(火) 21:50:23 0
アムルがアレクサンドリア図書館を焼いて、浴場で薪代わりに図書を
配ったというのはまったくの作り話。
アレクサンドリア図書館はユリウス・カエサルによって紀元前48年に
焼かれ、《妹の図書館》と呼ばれた後世の図書館は、テオドシウス帝の
勅令で389年に取り壊された。
したがってアラブの征服時代にはもうアレクサンドリア図書館は
存在していない。

239 :世界@名無史さん:2005/07/14(木) 23:49:49 0
>>208
ジェラール・ド・リドフォールはフランドルの出身で、トリポリ伯レーモンの
目にとまってイェルサレム王国元帥に任じられた。
ジェラールはルノー・ド・シャティヨンのように、有力貴族の女性と結婚して
諸侯の仲間入りをしたいと願い、ボトロン(トリポリ南方)の領主の一人娘
リュシーに目をつけた。
ところが彼女の父親が死ぬとトリポリ伯は、大金持ちのピサ人とリュシーを
結婚させた。
ジェラールは断られた悔しさで病気になってしまい、イェルサレムのテンプル
騎士団の病院に入院して治療を受け、全治するとテンプル騎士団への入会を
希望し、ついには総長にまでなりおおせた。
以後、ジェラール・ド・リドフォール、ルノー・ド・シャティヨン、
イェルサレム大司教ヘラクリウスのあいだには緊密な協力関係が生まれる。

240 :世界@名無史さん:2005/07/15(金) 01:32:18 0
ごめん 流れ?切って悪いんだけど
中世ヨーロッパの甲冑とか剣とかを熱く語ってるスレとか知らないですか?

知ってたら誘導してくだしあ

241 :世界@名無史さん:2005/07/15(金) 08:33:02 0
>>240
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1098114455/l50#tag167
【刀剣弓矛】 武具総合 【槍槌鎧楯】


242 :世界@名無史さん:2005/07/15(金) 23:08:29 0
ペルヌー女史が描くバイバルス

このロシア出身のトルコ人は(彼はクリミアの出である)、粗暴な人物で
ルネ・グルーセが指摘しているように「その血のなかには《イヴァン雷帝》
や《ピョートル大帝》を生み出す血が混ざっていた」。(中略)このような
人物には戦争がすべてとしか理解できない。

243 :世界@名無史さん:2005/07/15(金) 23:20:25 0
フランスの十字軍史家ってみんなこんな感じですか?
ジャン・リシャールもフリードリヒ2世に対しては辛口でした。
アミン・マアルーフが本を書きたくなった気持ちも分かるな。
もう少し若手の研究者の間ではどうなっているんでしょうね。

244 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 00:40:08 0
>>243
ジュルジュ・タートなんかどうかな?

レジーヌ・ペルヌー女史は、

「おかしなことだが十字軍の歴史全体を通じて、とかく悪評の高いのはもっぱら
ドイツ人にきまっている。彼らの十字軍への参加はユダヤ人大虐殺に始まり、
オリエントにおいてもその努力にもかかわらず彼らが保有できた土地はきわめて
限られたものでしかない。これらの血に飢えた集団と民衆十字軍とを混同する
ことは、よく知られた表現を用いるならば『不正というよりはむしろ誤り』と
いわねばならない」

と、ドイツ人から抗議をくらいそうなことを書いています。

245 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 17:47:33 0
>>242
フランス人てアジアを正面からバカにするようなことは書かなくても
ロシアの話になると「アジア的な未開性」とか平気で書くんだよな。
>>243
そういやマアルーフってフランス語で書いてる作家でしたっけ。

246 :世界@名無史さん:2005/07/16(土) 22:18:50 0
ttp://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page002.html
アイユーブ朝は、海上交易から税金を体系的に徴収していた。「(1)入港税、(2)シャワーニ
ー船船(保安船)維持税、(3)ダール・アル=ワカーフ税(商人の宿泊と貸倉庫、さらに貿易代理
店を兼ねた公共の施設の使用税)、(4)グール・アル=ザカーワ税(一般商品税、もしくは荷揚
げされた商品を一時保管する倉庫税)、(5)ディラーラ税(仲買手数料)、それ以外にバーバ
ル・マンデブ海峡を通過する船舶には、特別の通過税の徴収と通過証(ジャワーズ)の発行を
行って、アデン港に立ち寄らないで紅海に直航しょうとする船舶を管理・統制していた。

247 :世界@名無史さん:2005/07/17(日) 16:09:25 0
>>243
中世のフランスでは十字軍熱が強く、聖地の十字軍国家やラテン帝国の
中心となったのもフランス人だったからねえ。
それだけ思い入れが強いのかも。

248 :世界@名無史さん:2005/07/18(月) 00:02:12 0
>>244
243です。お勧めありがとうございます。
タートって和訳は一冊しかないんですね。フランス語か…orz

>>245
パリ在住のジャーナリストだそうです。
歴史家ではありませんが、本人も前書きで「史談」だといっているので
そういう意味でもバランスの取れた本かと。

>>247
自負するところがあるんですね。
聖王ルイとか、やっぱり栄光の過去ではあるんでしょうね。

249 :世界@名無史さん:2005/07/18(月) 10:30:37 0
レジーヌ・ペルヌーって『リチャード獅子心王』の人か。リチャード1世に関しての
日本語の詳しい本が無かったからありがたかったな

250 :世界@名無史さん:2005/07/18(月) 14:13:45 0
前に出たジャック・ル・ゴフの『聖王ルイ』に分厚さで完敗!

251 :世界@名無史さん:2005/07/18(月) 20:59:28 0
レジーヌ・ペルヌーは

しかし風車の発明をアラブ人に帰するような部分的あやまりはまだ残っている。
アッカ攻囲の思い出に人びとが風車のことを「トルコ風車」と呼んでいたことから
生じたあやまりであるが、事実は反対で、彼の地では十字軍兵士の手で建てられた
最初の風車がトルコ軍に大恐慌をまきおこしていたのである。

と書いていますが、風車の起源はどこにあるのでせうか?

252 :世界@名無史さん:2005/07/18(月) 23:46:27 0
ラ・マンチャ

253 :世界@名無史さん:2005/07/19(火) 03:43:28 0
アフマド・アルハサンとドナルド・ヒルの共著、『イスラム技術の歴史』なんかだと
ジョゼフ・ニーダムの言として、風車はイスラム時代、イラン方面で誕生したらしいとか。

9世紀のアラビア語の技術書『機械の書(キターブ・アル=ハイヤール)』に風車の構造と製造法が
出てくるとのこと。スィースターンに今でも残る縦軸型の横回転式の風車は10世紀の
地理書にも出てくる。

ラ・マンチャというか扇風機みたいな典型的な風車が出現するのがいつ頃かはあまり分かってないが、
立て回転型や横回転型の水車がアンダルスの辺りで風車として改良されたものが13、4世紀
ごろに西欧に伝播したのではないかと、ニーダムあたりは言ってる。
アンダルシアの風車などは(ギリシアあたりもだったか?)風翼に帆が貼られた形状をしているが、
これも中東型の風車の影響の名残らしい。

アラビア語文献にもとづく技術史の研究はまだまだ未解明な部分が多いとはいえ、
ありがちな「史談」とか言うのを口実にして憶測だらけの論拠不明な大放言を
臆面もなくかましてるのはやっぱり問題だと思うんだけどねえ(汗
そおか、レジーヌ・ペルヌーってそーゆー人なのか。

254 :世界@名無史さん:2005/07/19(火) 13:25:35 0
イランで生まれたんなら確かにアラブ人発祥ではないけどな。
イスラーム=アラブと思ってる奴大杉。

255 :世界@名無史さん:2005/07/19(火) 14:13:08 0
ttp://www.eureka.tu.chiba-u.ac.jp/windmill/summary/01.html
風車の最も古い記述は、10世紀中頃のイスラムの地理学者マスウーディーが
現在のイランとアフガンの国境地帯(シースターン地方)に製粉用と潅漑用の
風車があったことを記したものである。ヨーロッパでの風車の最も古い記述は、
1180年頃にフランス・ノルマンディー地方で「風車のそばの土地を修道院に
寄進する」というものであり、また風車の絵で最も古いものは、英国の
「風車の詩篇」(1270年ごろ出版)に描かれている。ヨーロッパへは、十字軍
遠征者がイスラムから技術輸入したものでないかと言われているが、ヨーロッパ
の初期のものは箱形で風向きにあわせ風車全体を回転させるタイプであり、
これを第3次十字軍によってヨーロッパからイスラムに伝えられたことから、
風車はヨーロッパ独自のものであったとする考えもある。

256 :世界@名無史さん:2005/07/19(火) 14:58:18 0
ペルヌー女史の十字軍の城塞に関する意見

長いあいだ人々はこの築城技術の発展をイスラムの影響によるものとしてきた。
そして西洋における軍事建築のアラブまたはビザンツ風の起源は、正確には
十字軍のあとであるというのが美術史上の常識のひとつであった。ある考古学者
がはじめてこれにたいする反論を唱えた。彼の名はT・E・ローレンス〔探検家
“アラビアのローレンス”〕。今日では彼の指摘の正当性はみとめられ、
戦闘の状況によって絶えず完成へと導かれてきたすべての防衛線がオリエント
に設置されたのは十字軍の力であるとされている。


257 :世界@名無史さん:2005/07/20(水) 11:32:01 0
ここにペルヌー嫌いがいるのはわかったが、
あがってるのってけっこう前の著作ばっかりじゃねえの?
今から見れば間違いあって当然だし、なんでそこまで粘着するかねえ。
とりあえずもっと新しい研究書読めばいい話だろ。

258 :世界@名無史さん:2005/07/20(水) 12:50:45 0
>>257
もちろんそうだよ。
ただ図書館の一般向けの本のコーナーに置いてあるし、
素人だとこれを読んでそのまま真に受ける連中も出てくるだろ。

259 :世界@名無史さん:2005/07/20(水) 17:19:04 0
>258
そりゃその連中がただの馬(r

ここ最近のスレの流れはキモいだろ
映画の影響で程度の浅い同人女が来てる気がする

260 :世界@名無史さん:2005/07/20(水) 20:16:25 0
>>259
んじゃ何か話題ふって。

261 :世界@名無史さん:2005/07/21(木) 23:06:16 0
>>255
>帆船のカンバスを貼った翼を用いた風車の出現である。紀元前1000年頃には製粉用に風車が作られた。
こっちの記述の方がかなり気になる。確かスィースターン型の風車は現地でサーサーン朝時代の
遺跡からも土台が発見されてるって話を聞いたことがあるので、こちらは結構古そう。

気になったのでちょっと調べてみたら、紀元前400年頃に成立したカウティリヤの
『アルタシャーストラ(実利論)』に風車についての記事が載ってるそうで、揚水についても
触れられてるとか。これがどうやら文献上の最古らしい。岩波文庫で今度読んでみるとしよう。

マスウーディーの話にはもうちょっと先があって、タバリーの著作からの引用をあげている。
正統カリフ・ウマルがイラン人奴隷アブー・ルルアに、「おまえは風力で製粉機を造れると自慢してる
らしいが本当か」と問いただしたところ「いかにも私は世評の通り風力製粉機を造ることが出来ます」と
答えたという。このアブー・ルルアなる人物がイランの何処の出身なのか気になる。

262 :世界@名無史さん:2005/07/21(木) 23:07:24 0
>261の続き。

スィースターン(スィジスターン)は特に風が強いことで有名な土地で、スィースターンの風車は
マスウーディーや同時代のイスタフリー、13世紀のカズヴィーニーのような地理学者たちが製粉機
としての風車の利用を挙げてるほど名物だったらしい。マスウーディーは風車がひき臼を動かし、
小川から揚水して果樹園を潤してることを述べて、風力を十二分に利用してる土地は世界広しといえども
ここスィジスターン以外にはない、とまで言っている。

幸い1300年頃にシリアのディマシュキーという人物が『時代の精華の書(kitab nukhbat al-dahr』で
スィースターンの風車について図入りでかなり詳しく述べているので、形状が今の垂直軸型のものと
殆ど変化していないことがわかる。(ネットではちょっと見つけられなかった)

形状は四方を壁に囲まれた部屋の一隅にだけ風の入り込み口を設け、その部屋の真ん中に軸受けを設けて
立てに軸を通し、軸の四方に横木を付けて風翼とする。風翼が建物の内部に設置されているのが普通。
縦軸に帆を四方に張った風翼を建物の屋上に設置したタイプの風車もあったらしい。(今でもあるそうな)
このタイプだったら風翼内部型とちがって風向きに影響されない。


263 :世界@名無史さん:2005/07/21(木) 23:08:41 0
>>255のヘロンの風車の復元図の原史料が気になるが(ビザンツか西欧の写本の細密画か何かか?)
ただ、いわゆる欧州の典型的な風車(横軸型)とスィースターン型の風車(垂直軸型)とでは用途は全く同じだが
形態がまるで違う。恐らく同じ「風車」といっても成立した系統がそれぞれ別なのだろう。
建造上のコストを考えればスィースターン型の風車のほうが簡便でやはり古そうだが、それ以外の要因があって
欧州型の風車が出てきたのだろう。欧州の典型的な箱形風車がどこなのか、横軸型風車の発生が
ヘロンから13世紀のノルマンディーまで追跡できないなさそうなのがなんとも・・・
ビザンツとかアンダルスあたりの記述とか無いのだろうか。

>これを第3次十字軍によってヨーロッパからイスラムに伝えられたことから、
これの情報源が気になるが、やはりテュロスのウィリアムによる年代記だろうか?
個人的な感想だが、「風車の起源は欧州か西アジアか」という設問よりは、
「風車には「欧州の横軸型風車」と「西アジア型の垂直軸型風車」に大別でき、今のところ確実に
 使用普及例が文献学上確認出来るものとしては、西アジア型のほうが古い。」
と言った方が正確だと思った。無論ヘロンはエジプトの人なので欧州ではない。

264 :世界@名無史さん:2005/07/22(金) 22:31:48 0
ビザンツ帝国にとっては、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスランよりも、
スミュルナのアミールであるチャカのほうが危険な存在だったらしい。
チャカはギリシア人水夫の助けを借りてエーゲ海沿岸まで領土をのばし、
レスボス島、キオス島、サモス島、ロードス島まで支配していた。
クルチ・アルスランはチャカの娘と結婚し、彼の援助を得てニケーアを
取り戻した。
のちにビザンツの画策で、クルチ・アルスランは義父のチャカを殺害する。
アレッポのリドワーン、ダマスカスのドゥカク、モスルのケルボガは互いに
争い、パレスティナではファーティマ朝がオルトクの息子たちと争っていた。

265 :世界@名無史さん:2005/07/23(土) 02:46:00 0
>>1
誘拐・人身売買の歴史だな

266 :世界@名無史さん:2005/07/25(月) 18:55:00 0
グルジア人やアルメニア人は十字軍に参加してたんですか?

267 :世界@名無史さん:2005/07/25(月) 19:07:02 0
>>266
クルディスタンあたりで兵隊を集めてエルサレムを奪還しようとしたユダヤ人がいたらしいよ。
たしかアーサー・ケストラーの本で読んだ話だが。

268 :世界@名無史さん:2005/07/25(月) 20:35:35 0
>>266
アルメニア人は十字軍側に味方していた。


269 :世界@名無史さん:2005/07/25(月) 23:34:17 O
第一回十字軍遠征での事。ベイルート付近で補給の途絶えた部隊が、代用食として用いたのがイスラム教徒の子供の丸煮。


270 :世界@名無史さん:2005/07/26(火) 10:11:31 0
>>266
アルメニア人は、ルーム・セルジューク朝に追われてヴァン湖から地中海
沿岸のキリキアに移住し、そこに小アルメニア王国を建国。
十字軍に協力していたが、その一方でルーム・セルジューク朝との関係も
悪化させず、巧妙な外交政策で生き延びる。
最終的には14世紀にマムルーク朝によって滅ぼされる。

271 :世界@名無史さん:2005/07/26(火) 23:05:07 0
小アルメニア王ハイトン(ヘトゥーム)は、王国をイスラム勢力から独立させるため、
モンゴルとの提携を試み、モンゴル帝国の首都カラコルムまで赴いた。

272 :世界@名無史さん:2005/07/26(火) 23:08:32 0
第四回とか、キリスト教と何も関係ねーのなw


273 :世界@名無史さん:2005/07/27(水) 00:49:48 0
>>272
最初はエジプトに上陸して、そこからパレスチナを開放するつもりだったん
だよね。
イサキオス2世の皇子アレクシオスが十字軍をビザンツへ方向転換させたのが
致命的だったな。

274 :世界@名無史さん:2005/07/28(木) 12:48:02 0
>>266
グルジアは十字軍に行こうとして兵隊を集めてたところへモンゴルがきてあぽーん。
もし聖地までたどりついてたら歴史は変わっただろうか。

275 :世界@名無史さん:2005/07/29(金) 23:45:07 0
イランの詩人サアディーは、托鉢僧の姿でインドから北アフリカまで広範囲な
旅を30年間続けたが、途中シリアで十字軍の捕虜になったりもしている。

276 :世界@名無史さん:2005/07/31(日) 23:41:42 O
十字軍がした悪事
おおまかにまとめてくださいな

277 :世界@名無史さん:2005/08/01(月) 00:08:27 O


278 :世界@名無史さん:2005/08/02(火) 08:10:40 O
十字軍と異端審問(魔女狩り等)は、どう結び付いているのですか?

279 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 03:20:52 0
>>278
魔女狩りって二つあるよね
ヨーロッパで起きたものと、アメリカで起きたもの
時代も違う

280 :ラテン帝国の滅亡:2005/08/03(水) 12:53:30 0
1261年、ミカエル・パライオロゴスはジェノヴァ人と協定を結び、コンスタン
ティノープル奪回を援助するという条件で、彼らに帝国内の諸特権を認めた。
ニケーア軍が首都に接近したのは、ラテン人守備隊のほとんどがヴェネツィア
艦隊とともに黒海のダフヌジア島を奪取するために出かけた後であった。
選ばれた数人の兵士が、首都郊外の農民たちに教わった地下通路を通って
市内に忍び込み、城壁の守備兵を倒して城門を開けた。
翌朝、ニケーア軍がコンスタンティノープルに入城し、通りはミカエルを
歓呼して出迎えるギリシャ人であふれかえった。
ラテン皇帝ボードワンは事態を知ってヴェネツィア艦隊に伝令を送ったが、
ギリシア軍はヴェネツィア船が上陸する予定の埠頭に火を放ち、彼らを
撃退した。ボードワンとその従者たちは宮殿からボートで沖に漕ぎ出し、
ヴェネツィア船にたどりつき、反撃をあきらめた。
かくしてラテン帝国はあっさり消滅。



281 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 13:28:20 0
有名な、梯子を城壁に…というのはネタだったのねw

282 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 14:16:57 O
>>279ふたつ、て区切っていいもんなんですか??で、アメリカで起きた魔女狩りに関してはあまり知識がないのだけれど、中世ヨーロッパ程大規模で長かったわけじゃないですよね?詳細キボン

283 :第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/08/03(水) 15:08:27 0
>>282
中世?
『魔女の鉄槌』は1487年刊だし,魔女狩りマンセーな時期って宗教改革と重なる"近代"なんだけど。
根本的に間違ってる希ガス。

284 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 15:27:46 0
世界史板なんだから『近世』ぐらい知っとけよ藻前ら・・ワロス

285 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 16:26:27 0
十字軍と異端審問といえばテンプル騎士団。

286 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 18:09:35 0
>>282
ここよりキリスト教スレできいたほうがくわしい回答がもらえるかと。

287 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 18:58:24 O
>>283完全に『近世』なんですか?ジャンヌダルクは百年戦争終結前に処刑されているけど、あれは魔女裁判とは別物なのですか??それに記録に残っている魔女裁判は1275年フランスとなっているし。
確かに最もマンセーだったのは17世紀前半の近世なので中世っていうのは間違いです、指摘ありがとうございます‥。魔女狩り自体は中世〜近世初期ではないですか?

288 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 19:05:28 0
>>284
軍団兵にそれを求めるのは酷というものだ。

289 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 20:13:17 0
アメリカにも魔女狩りがあったというのは知りませんでした。
インディアン戦争や赤狩りの話では無いですよね?

290 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 20:40:29 O
>>289それって『セイレムの魔女狩り』のことかな??1692年の。ヨーロッパに比べればホントに一時的なものだけど。

ただ、時期はヨーロッパと一致するからこれを言ってるんじゃないかも‥

291 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 21:11:07 0
>>290
ありがとうございます。検索してみました。そんな大事件があったんですね。
確かに基本的にはヨーロッパの魔女狩りと同一のもののようですが。

292 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 21:21:05 0
黒魔術をおこなった人間を処罰することは暗黒時代からおこなわれていた。
「魔女狩り」として大流行したのは近世。

293 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 21:38:39 0
聖王ルイの第七回十字軍をチュニスに向かわせたのはシャルル・ダンジューらしいね。
ルイの側近たちはパレスティナに行きたがっていたんだけど、ルイが弟の
説得に乗った。
当時チュニスを支配していたのはハフス朝のスルタン・ムスタンシル。
シャルル・ダンジューは兄に向かって、ムスタンシルがキリスト教に改宗
するかもしれないと示唆した。
実際にチュニスに上陸すると、赤痢やチフスでフランス軍の半数が病に倒れ、
ルイ9世も病死。


294 :世界@名無史さん:2005/08/03(水) 23:17:25 0
>>293
エジプトで負けたのも弟のロベール・ダルトワのせいだったしな。
まあマンスーラを突破しても勝てたかどうか疑問だが。

295 :朱由檢:2005/08/04(木) 00:05:44 0
>>287さん
ヨーロッパにおけるキリスト教が排他的傾向を強めていったのは、
ローマ教皇が皇帝になろうとして勢力を拡大した11世紀以降だから、
中世末期で正しいから287さんは間違いないと思うよ。
13世紀前半には神聖ローマ皇帝が異端派の死刑にする内容の勅書を出しているし、
14世紀には教皇庁は禁書目録を作成して思想弾圧の傾向を強めているの。
くわしくは『中世異端史』(/H.グルドマン著、今野國雄訳/創文社)を読んでね。

296 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 00:37:04 0
>>287
失礼,近世でした。
ジャンヌダルクの処刑は「戻り異端」なはず。

297 :第20軍団兵 ◆vthFSU.BqE :2005/08/04(木) 01:14:51 0
>>278
十字軍と異端審問を結びつけるなら,まずアルビジョワ十字軍があり,その後カタリ派を掃討するために
それまで行われていた司教裁判から異端審問に切り替えられたと,話を進めて行くべきと思われ。
有名な「すべてを殺せ,神は神のものを知り給う」発言はアルビジョワ十字軍のベジエ陥落の際の発言とされる。
(実際は陥落時のお決まりの殺害+略奪三昧だったらしく,発言自体はなかったという話もあるが,
この発言があっても誰も不思議に思わない空気が醸成されていたらしい)

298 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 01:39:02 0
>>297
教皇インノケンティウス3世が、フランス国王フィリップ2世に討伐の
軍隊を送らせたやつね。
第四回十字軍でコンスンタティノープルを征服して帰ってきた
シモン・ド・モンフィールが総司令官だった。

299 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 01:46:08 0
>ローマ教皇が皇帝になろうとして勢力を拡大した11世紀以降
詳しく

300 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 02:40:18 O
>>295>>296結局どっちなんですか??

確かにジャンヌダルクの裁判は聖俗両界が魔女を『異端者』として取り扱うための統一的な魔女概念がまだ完成されていなかった為、異端者と魔女との曖昧な混同による『もぐり裁判』でしたが、
魔女の悪事自体を裁いていた頃の旧制魔女狩りから、魔女というだけで処刑された魔女狩り全盛期だった近世の新制魔女狩りへの変化過程という見方はできないですかね?違うのかな‥。


実際ジャンヌダルクの異端内容には『妖術者』『迷信者』『悪魔の声を聞いた』とかありますし‥。
新制の魔女狩りだけを魔女狩りと言ってしまえば魔女狩りは近世ということになるかもしれませんが。

301 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 03:02:48 0
ttp://www.tabiken.com/history/doc/I/I115C100.HTM
パリ大学神学部はジャンヌに異端の嫌疑をかけ,フランス王国宗教
裁判官による宗教裁判を要求し,イギリス王家もこれに同意した。
一信徒が聖職者の仲介をへずして直接神的なる存在と交流し,その命を
受けたと主張すること,異端嫌疑の根拠はここにあった。「地上の教会」
の組織原理が一少女の純な信仰によって試された。裁判は1431年2月から
14回の審理を重ねた。5月28日,ジャンヌはルーアンの町の広場で異端を
宣告されて世俗の権力の手にゆだねられた。世俗の権力とは,この場合,
イギリス王家のルーアン代官である。彼は,慣行に従って,異端女を
火刑に処した。

302 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 20:50:11 0
>>294
シャルル・ダンジューがチュニスに到着したときにはもうルイは死去していた。
シャルルはサラセン軍と小規模な戦闘を二回交えた後にムスタンシルと講和
して帰国。
この21年後にはアッコンが陥落してキリスト教徒は「地中海に掃きだされ」、
イェルサレム奪回のための「ナンバー十字軍」は終焉を迎える。

303 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 21:37:47 O
>>301つまり、ジャンヌダルクは魔女としてではなく異端者として処刑されたってことですよね?

304 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 22:29:00 0
>>303
そうです。
彼女が聞いたのは神の声ではなくて悪魔の声だとか、
女でありながら男の服装をした(異性装)などの嫌疑がかけられたはず。

305 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 23:21:01 0
百年戦争について語りましょう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1056968799/l50

306 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:21:52 0
>>299さん…ちょっと長くなっちゃうんだけど。

教皇自体本来すごい俗っぽい一封建領主に過ぎなかったんだけど、
国家的独立を果たすのは11世紀中葉の教皇ニコラウス2世(位1058-61年)の時代なの。
このころ神聖ローマ皇帝は幼年のハインリヒ4世だったのをいいことに、
1059年ローマ教皇の選任方法をそれまで神聖ローマ皇帝による指名方式から、
枢機卿の選挙で選任される方式へと変更してからね。

307 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:24:33 0
11世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌスが当時の教皇シルヴェステル1世に、
領土と皇帝権限を寄付したとする偽書“コンスタンティヌスの寄進状”を根拠に、
教皇が皇帝の正統な後継者であると主張するの。
(偽書“コンスタンティヌスの寄進状”は8〜9世紀ごろ作成されたとされ、
それまでビザンツ帝国に対する独立性の論拠として使用していた。)

308 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:26:56 0
権威が高まったグレゴリウス7世(位1073-85年)の時代には、
1075年教皇教書で教皇は不適格な皇帝を廃位できると規定。
そして、1077年には神聖ローマ皇帝を破門して、
全領土を寄進させる有名なカノッサの屈辱事件を起こし、
神聖ローマ皇帝は教皇の一臣下にすぎないって示威パフォーマンス。

309 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:31:44 0
1099年のパスカリス2世以降は戴冠式まで実施するようになるの。
そして、12世紀中葉聖ペテロ大聖堂参事会員ベネディクトゥスの『典礼書』は、
ローマ以来ビザンツ皇帝が継承して戴冠式で行っていた亜麻布を燃やす儀式と、
死者の灰を受け取る儀式もローマ教皇の戴冠儀式として紹介されてる。

これはローマ皇帝の儀式を模倣することで教皇が皇帝の後継者であると演出ね。

310 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:33:50 0
さらに12世紀中葉ローマ教皇はそれまで使用していた
“ペテロの代理者(Vicarius Pietri)”から、
“キリストの代理者(Vicarius Christi)”に変更し、
名目的にもローマ皇帝と同じ“神の代理者”を自称するようになっちゃう。


311 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:36:25 0
結局、ローマ教皇は皇帝化することで自身の権威を高めようとして、
異端に対する聖戦運動もその一環だったって解釈もあるわけ。

312 :朱由檢:2005/08/04(木) 23:37:50 0
なお、ローマ教皇の権威が低い時期は教皇自身が戦わないといけなかったの。
教皇レオ4世は849年艦船を率いて海賊退治を行っており、
852年にはイスラム教徒に聖戦を宣言して挙兵しています。
教皇ヨハンネス8世もノルマン人とイスラム教徒に対する聖戦を宣言するものの、
無視されたため、自分で挙兵しています。
教皇ヨハンネス10世はイスラム教徒の海賊と直接交戦していますし、
教皇ヨハンネス12世は『オットー年代記』(リウトプランドゥス著)の中で、
放火、交戦、武装の罪を糾弾されています。

313 :世界@名無史さん:2005/08/04(木) 23:54:43 0
>>302
キプロス王とホスピタル騎士団の軍勢が1365年にアレクサンドリアを占領したのを
「第7回十字軍」と書いてる外国のサイトがあったけど、何かの間違いかな?

314 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 00:15:44 0
>朱由檢
長々と書いてもらってすまないが、そういうのは
>ローマ教皇が皇帝になろうとして
とは言えない。つーか事実を繋ぎ合わせた珍説。

315 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 00:21:06 0
そういうのは教皇の権威(と一部の権力)が皇帝と互し、凌ぐようになったと言う。

316 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 01:29:06 0
>>313
1365年のサヴォイ伯十字軍のことなら間違い。
これは「ナンバー十字軍」には含まれない。

317 :世界@名無史さん:2005/08/05(金) 21:48:51 0
フリードリヒ2世に対する十字軍や、アラゴンに対する十字軍もあるよな。

318 :勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/08/05(金) 22:40:14 0
>>310
教皇が皇帝になろうとしていた・・・というのは少し無理があるかと思います。
皇帝を臣下と見做すというのも間違いで、あくまでも聖権の問題であって
皇帝が教会の保護者であるという姿勢は崩れませんでした。
グレゴリウス改革以降は各国の教会組織に対して、教皇庁主導による引き締めが行われる
という時代が続くので、異端審問にしてもそちらの異議が強いです。
なので異端審問官と各国の教会組織の関係は良好とは言えませんでしたし。

教皇領を巡って、イタリア半島内での紛争に明け暮れた時代の教皇は
汎ヨーロッパ的に見ると非常にスケール小規模であると言えます。
教皇の政治方針はその出身母体(多くは後援勢力になる)と大きな関わりがあり
教皇領に強い執着を覚える教皇は、大体の場合イタリアの豪族出身でした。

319 :朱由檢:2005/08/05(金) 23:22:47 0
皇帝が弱体化して相対的に強権化したわけではなく、
明らかに権力強化の野心があるよね。
では、ローマ教皇は権力を強化する過程で、
なぜ、ローマ皇帝から領土と権力移譲があったとする偽書を利用したのかな?
また、ローマ皇帝の儀式を模倣し、名称を改めたのかな?
あと、聖権問題だとすれば、世俗である皇帝の罷免に言及したのかな?
別に議論することでもないんで反論はしないから見解を示してくれる?
政教分離って、キリスト・イスラム・ユダヤ地域ではなかったと思う。

320 :勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/08/05(金) 23:50:00 0
ローマ皇帝の儀式を模倣したというよりは、皇帝が帯びていた『神の代理人』という
地位を獲得するための模倣だったわけです、両者は区別して考えるべきかと。
皇帝不在だった時代に、聖職管理権を利用して教皇が皇帝を指名すると
主張した事はありましたが・・・。(もちろんこれは脅しでした)

ヴォルムス協約以降も皇帝は聖職者の位階も取得したので、これをもって
皇帝を一個の聖職と見做す・・・という考え方をしたわけですが、理念的に過ぎません。
グレゴリウス7世がハインリヒ4世を破門しましたが、反ハインリヒの諸侯の後押しによったものですし。
彼は教皇の権威を皇帝の圧力から独立させる事は目指しましたが、皇帝に成り代わるなんて事は
考えていなかったのは明白では?

政教分離と言うのは不適当ですが、西欧では聖俗は区別されていました。
少なくともグレゴリウス改革はそれの厳格実行を目指していたように思います。
もっとも高位聖職者は封建領主でもあったので、挫折してしまったわけですが。

あとコンスタンティヌスの寄進状に関してはオットー諸帝の時代には否定されるように
なりましたし、皇帝の影響力を除去する為の一手段に過ぎませんでした。
重要なのは教皇(教会)が皇帝から適度な距離を保つ事であったわけで、教皇が皇帝になろうと
したというのは>>314氏の言う通り、珍しい説ではないでしょうか?
(そもそもカエサルには防衛の義務も発生してくるんですが・・・)

321 :朱由檢:2005/08/06(土) 00:39:10 0
>>トンヌラさん、お願い聞いてくれてさんくす。
判断は両方ロムった人が考えてくれると思うよ。

偶然眼にした人が教会の歴史的位置付けを再考するきっかけでいいと思う。


322 :世界@名無史さん:2005/08/06(土) 01:29:29 0
>>321
再考つうか、常識論と自分の想像の対比じゃないか?
まず聞きたいのは“ローマ教皇が皇帝になろうとして”の出典はどこから
という事なんだが。

323 :世界@名無史さん:2005/08/06(土) 13:41:34 0
こっちでやった方が良くないか

【Rouml;misches】神聖ローマ帝国 【Reich】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1110257427/l50

324 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 00:37:51 0
スルタン・ムスタンシルは聖王ルイの死後にやってきたシャルル・ダンジューに
あっさり負けてるんだけど、
当時のハフス朝はかなり弱体化してたの?

325 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 08:39:33 0
>>324
シチリアの穀物輸入が生命線なので徹底抗戦は不可能。
で、戦争でも妥協すると・・・。

326 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 12:35:18 0
>>320
実際権力を握りながら聖俗分離というのは偶像崇拝を聖像崇拝と呼ぶようなものか。

327 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 16:15:57 0
シチリアの晩鐘事件がなければビザンツは再び征服されていただろうか?

328 :世界@名無史さん:2005/08/07(日) 17:38:42 0
>>326
全然違う。概説書でも読み直せ。

329 :世界@名無史さん:2005/08/08(月) 00:20:39 0
>>328
概説でしか歴史を読めない人間を学問板でハケーン

330 :世界@名無史さん:2005/08/08(月) 04:04:44 0
聖俗の意味がわかってるのかなぁ・・・?

331 :世界@名無史さん:2005/08/08(月) 11:16:43 0
>>326
前者は自己否定みたいなもんだが、後者だけだとただの言い訳(と断言すると問題あるが)
「カトリックが偶像崇拝を弾劾するようなもん」だったら例えとしていいかも

332 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 02:35:37 0
ラテン皇帝ボードワン1世はブルガリア人に捕らえられて殺されたが、
その後しばらくしてフランドルにボードワンの偽者が現れ、民衆から
熱狂的に歓迎された。


333 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 11:31:20 0
>>329
だって理解できてないんだから、初歩から始めろとしか言えないでしょ。
両者はともに封建領主なんだけど、聖俗は分化傾向にあったんだし。

334 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 15:37:04 0
>>332
詳しく

335 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 20:30:26 0
ボードワンの死後、故郷のフランドルでは娘のヨアンナが女伯となったが、
彼女はフランスのフィリップ・オーギュストに政治家として歯が立たなかった
ので、フランドルとエノーはフランスの支配下に落ちた。
そのうち民衆の間で、ボードワンは実際には死んではおらず、大罪を犯したため、
教皇に課せられた贖罪を果たしているという噂が流れ始めた。長年彼は放浪の
乞食隠修士となって世に知られず暮らしてきたが、その罪滅ぼしもほぼ完了
したので、まもなく自分の国土と国民を解放するために帰還するであろうと
いうことであった。
1224年にトゥールとバランンシエンヌの間に乞食隠修士が姿を現し、彼こそが
ボードワンその人であるという噂が広まった。彼は貴族たちの訪問を受け、
ボードワンの甥の一人は、彼を見て確かに自分の伯父であると信じた。
しかし女伯ヨアンナは、この隠修士を詐欺師と断じて非難した。
そして市民は武器を持って立ち上がり、ヨアンナの退位を迫ったが、彼女は
かろうじて逃れ、内乱が始まった。
しかしこの隠修士は、フランスのルイ8世と話しているうちに、本物の
ボードワンであれば当然知っているはずのことが思い出せなかった。
やがて彼の正体は、ブルゴーニュ地方のレイのベルトランという人物で、
第四回十字軍の際、自分の領主に随行する吟遊詩人として参加したことは
あるが、後にはおおぼらふきで声色使いという悪名を取った農奴である
ことが判明。


336 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 21:28:18 0
>>333
>両者はともに封建領主なんだけど、聖俗は分化傾向にあったんだし。
詳しく

聖俗分化と教会の俗権放棄が明白に判る文献を挙げて

337 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 21:33:19 0
中世の段階で聖俗分離を提唱する者の多くは歴史に対する偏見・無知・無批判・尊大が原因である。

338 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 22:10:22 0
ここってドイツ騎士修道会による「北の十字軍」について
語るのもOK?

339 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 22:27:14 0
>>338
おk

340 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 22:36:16 0
子供十字軍だろうが、
モンゴル十字軍だろうが、
アルヴィジョワ十字軍だろうが、
ヴェンデ十字軍だろうが、
リヴォニア十字軍だろうが、
エストニア十字軍だろうが、
プロイセン十字軍だろうが、
学問板にふさわしい十分な客観性と、
学術的な価値をもって論理的に語れるならば、
拒む理由はない。

341 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 23:03:00 0
92 :世界@名無史さん :2005/08/08(月) 16:38:00 0
スウェーデンのノヴゴロド侵略って地味に「十字軍」なんだよな(w

342 :世界@名無史さん:2005/08/09(火) 23:38:01 0
>>336
誰も教会が俗権放棄をしていると書いてないが。
むしろ封建領主が兼務していた聖職を禁止するという方向で
聖俗は分化していったんだけど・・・グレゴリウス改革のあらまし分かってる?

343 :世界@名無史さん:2005/08/10(水) 00:29:27 0
>>342
教皇は英王、仏王を破門し、領土を没収した後に分封する形式をとったが
これはあきらかな臣下の礼ではないのか?

教皇は聖権を手放さないまま俗権も手放さなかったが、両方手にし続けた
教皇という存在は何者だと説明するのか?

344 :334:2005/08/10(水) 00:32:49 0
>>335
ありがとうございます。

345 :334:2005/08/10(水) 00:34:39 0
あげちまった
教皇の話は神聖ローマ帝国スレとかの方がいいんじゃない?

346 :世界@名無史さん:2005/08/10(水) 00:40:28 0
カトリックが偶像崇拝は弾劾するのに、自分達は聖像崇拝とごまかして煙に巻くようなものか。

347 :世界@名無史さん:2005/08/11(木) 21:44:59 0
渡邊昌美さんの本を読んでクレルヴォ-の聖ベルナールに興味持ったんですが、
彼と第2回十字軍について詳しく書かれた日本語資料ってないでしょうか?

348 :世界@名無史さん:2005/08/12(金) 13:00:05 0
「フランス中世史夜話」ですか。あれは面白い。

349 :世界@名無史さん:2005/08/12(金) 22:15:15 0
>>347
ブルゴーニュの貴族の家に生まれて、23歳でシトー派修道院に入ったんだよね。
第二回十字軍が失敗に終わった後は偽預言者よばわりされた。

350 :347:2005/08/14(日) 23:12:56 0
>>348
そうです。内容もさることながら、各所に入る渡邊昌美さんの冷静なツッコミが
なんともいえず好きです

>>349
>偽預言者よばわり
そうなんですか。そのあたりでどういった釈明がされたのかも興味あるところです
聖ベルナールという人は十字軍の時代を代表する一つの精神的象徴のように
思えます

351 :世界@名無史さん:2005/08/17(水) 21:17:36 0
>>350
「私は教皇の命令に従った」
「人智にはわからぬ神意の現われ」
「巡礼者の不運は彼ら自身の罪のせいである」
「私の使命は現実に証験と奇蹟で裁可されていた」

みたいなことを言ったらしい。

352 :世界@名無史さん:2005/08/17(水) 21:22:09 0
>>340
北方十字軍(スウェーデンのフィンランド侵略)が抜けてるぞ

353 :世界@名無史さん:2005/08/18(木) 18:41:45 0
>>352
北方十字軍ってバルト海のも含むんでないの?

354 :世界@名無史さん:2005/08/18(木) 22:26:02 0
>>351
ありがとうございます。2、3番目あたりの釈明はすごいですね
昔買っていた「十字軍騎士団」をめくってみたら、案外聖ベルナールに関する
記述があるようなので、よく読んでみようと思います


355 :世界@名無史さん:2005/08/20(土) 14:04:45 0
ネット上でウサーマ・ブン・ムンキズの回想録の抄訳を読んでみたんだが
「アラブが見た十字軍」に載ってるフランク人の医者の話にはさらに続きがあって
そこではフランク人の医者がちゃんと病気を治した例が出ていた。

356 :世界@名無史さん:2005/08/20(土) 16:54:52 0
>アラブにフランクから二人の病人の治療依頼があり、医者を派遣したところ、
>その医者は、10日あまりで帰ってきてしまった。
>周りの人は「よくこんなに早く治せたもんだ」と感心すると、その医者は次の
>ように話をした。フランクに行ってみると病人の一人は騎士で足を化膿させて
>おり、もう一人は婦人で肺結核だった。そこでアラブの医者は、騎士の足を湿
>布し、婦人には、健康な食物を与えたところ二人とも快方に向っていった。
>そこへフランク人の医者が現れ「こいつらは治療法がちっとも解っちゃいない」
>といい、その騎士に「二本足で死ぬ方がいいか、一本足で生きているのがいい
>か?」と聞くと、騎士は「一本足で生きていたほうがよい」と答えた。
>すると、フランク人の医者はどこからか鋭利な斧をもった大男を連れて来て、
>騎士の足を固定すると、その大男は騎士に一撃を加えた。
>失敗して二撃を加えると、足から骨髄が飛び出し騎士は即死した。
>次にその医者は、結核の婦人に「お前の頭には、お前を愛している悪魔がいる
>といって、剃刀で額を十字に切り、脳を取り出し頭蓋骨を空にし、塩を擦り込
>んだ。当然、婦人は死んだ。アラブの医者が「もう用はないかね」と尋ねると
>「もう用は無い」と言うので帰ってきた。そしてその医者は言った。
>「見たことも聞いたことも無い医学を学ぶ事が出来た」
>>355が言っているのはこの話か?

357 :世界@名無史さん:2005/08/22(月) 15:28:41 0
>>356
それの続きの部分です。
このページで読めるけど。
ttp://www.fordham.edu/halsall/source/usamah2.html

358 :世界@名無史さん:2005/08/24(水) 20:56:44 0
>>347
クレルヴォーの聖ベルナールは、ヴェンデ十字軍にもおおいに関係している。
ドイツ北部の諸侯が北のスラヴ人たちを攻撃したがっているのを見て、
彼らにも「罪の赦免」を与えた。

359 :>356の続き:2005/08/30(火) 16:13:04 0
しかしながら私は、それとはきわめて異なる彼らの治療の例を見たのだった。

フランク人の王の会計官にベルナルドという騎士がいて、その男は(彼の上に神の呪いあれ!)フランク人の中で
もっとも憎むべき、邪悪な人物の一人であった。一頭の馬が彼の脚を蹴り、そこから病気に感染して四十箇所もの
別々の場所に傷口が開いてしまった。一箇所の傷口がふさがるたび、別の箇所で別の傷口が開く有様であった。
その間ずっと私は彼の堕地獄を祈っていた。そこで彼のところへフランク人の医者がやってきて、脚に塗られて
いた膏薬をすべて落とし、きつい酢で脚を洗いはじめた。この処置によって傷はすべて治り彼は再び元気になった。
彼は再び起き上がって悪魔のようになった。彼らの面白い治療をあきらかにする別の例は次のごとくである。
シャイザールにアブー・アル・ファトフという職人がいて、彼の息子は首にできた瘰癧に苦しんでいた。それの
一部がふさがるたび、決まって別の部分が開くのであった。この男はたまたま私用があり、息子とアンティオキア
にいった。一人のフランク人が少年を見て、父親にその子のことを尋ねた。アブー・アル・ファトフは「私の息子
だ」と答えた。フランク人は彼にいった。「汝は汝の宗教にかけて誓うか。もし汝の子を治す処方を教えても、
汝はそれを教えることによって何びとからも謝礼を取らぬと? そうすれば、その子を治す処方を教えてやろう」
男は誓いをたてたのでフランク人はこういった。

つぶしていないアツケシソウの葉を燃やし、灰をオリーブ油と強い酢に漬けろ。それで瘰癧を手当てすると、そこに
できていた吹き出物が消える。そこで燃やした鉛をギー油に漬けてそれで彼を手当てしろ。そうすれば治るだろう。

父親はその通りに少年を手当てし、少年は治癒した。傷はふさがり少年は元の健康な状態に戻ったのだった。

私自身、この処方でそのような病に冒された大勢の人々を治療し、病因を取り除くのに成功したのである。

360 :世界@名無史さん:2005/09/06(火) 16:14:33 0
ムンキズの回想録だと、敗走するフランク人の騎士を背後からランスチャージで刺して
鎖帷子を貫いて腹まで抜けたのに、後で聞いたらその相手はかすり傷を負っただけで
生きていた、という話も面白かった。

361 :世界@名無史さん:2005/09/06(火) 23:12:47 0
>>360
当時は後ろから刺すのは卑怯という感覚はなかったの?

362 :世界@名無史さん:2005/09/07(水) 01:13:31 0
>>361
基本的に負けて逃走する騎士を追撃して打ち取るのは良しとされた。

むしろ逃走して背後を見せている時点でその騎士は憶病者なので、
背後から打たれても文句は言えず、追撃して打ち取った騎士は
憶病者を成敗したのでこれも良しとされたそうな。
場合によっては賞讃されもしたらしい。

363 :世界@名無史さん:2005/09/08(木) 15:23:06 0
ヨーロッパ騎士風のランスを脇に挟んで突撃するスタイルは、イスラムのフルーシーヤの文献では
「シリア式槍法」として紹介されてたらしいが、これも十字軍の影響なんだろうか。

364 :ジョーカー@ケータイ:2005/09/08(木) 15:33:51 O
十字軍が盛んだった当時はあったかどうか知りませんが、准騎士?のエクスワイアー(←だったかな?自信ありませんm(._.)m)について、教えて下さい。

365 :世界@名無史さん:2005/09/09(金) 09:29:42 0
360 :名無シネマ@上映中 :2005/09/06(火) 00:31:47 ID:ThFGIzv3
>>350
サラディンは主君だったザンギー朝のヌールッディーンとエジプトの領有で
かなり険悪になってしまったため、元々政治的に相当微妙な立場にあった。

そのためヌールッディーンが死ぬと彼の対十字軍政策の「後継者」として
シリア方面のザンギー朝の所領を制圧し、バグダードのカリフと交渉して
イスラム世界防衛の理念から十字軍勢力に対するカリフの名による「ジハード」の
宣言をマグリブやイラン以東へも発して貰うよう頼んでいる。
これによって政権存続に疑義が持たれがちだった自らの政権の正統性を得ようとしていた
点は当然あったろうと思われている。多分かれの性格も反映してるのかも知れないが、
彼は生前極力イスラム政権の君主観である「正義と公正」を布くことに努めている。

勿論当時のムスリムというか宗教を問わずシリア、パレスチナ、中東全域の殆どの住民が
そうだったように、彼自身、エルサレム王国はじめ十字軍勢力を西方からやってきた「夷狄」、
野蛮な侵略者たる「フランジュ」と見なしていたことは多分間違い無い。
ただ彼自身、幼少からダマスクスはじめシリア一帯で成長したので十字軍勢力に対しては
イスラム政権の君主としては反対だったようだが、同じ理由で世間で燻っていたユダヤ教徒や
キリスト教徒への迫害にも反対だった。彼ら「契典の民」の保護も君主の徳目の一つだったからだ。

そのため公正さを徹底するためイスラム法上の戦時協定として敵軍捕虜の安全保障などを約束する
のだが、それを十字軍側が往々にして破約し、シリアの一帯を混乱させることが多かった。
公正を徹底するための政策が何かしら問題が起るとその都度弱腰などと批難されたが、正統性を
保証してくれるはずのカリフからも同じ批難をされていたため本人はかなり憤慨していたそうだ。

366 :ジョーカー@ケータイ:2005/09/09(金) 09:40:22 O
映画「ゴットファーザー」で知られるコルレオーネ村をはじめシチリアにはアラブ末裔の村が点在。 マルタ人と同じくカトリックに改宗した人々の末裔。

367 :世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:01:15 0
サラディンも捕虜のトルコプルを全員処刑したことがある

368 :世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:08:19 0
現代に残る騎士団ってマルコぐらい??

369 :世界@名無史さん:2005/09/09(金) 17:20:05 0
?

370 :世界@名無史さん:2005/09/13(火) 19:35:55 0
エジプトのコプト教徒の十字軍運動についての反応は?
またエチオピアやヌビアのキリスト教王国は十字軍について知ってたんでしょうか?

371 :ジーモン・ジョーカー:2005/09/13(火) 19:47:04 O
コプト教徒側の反応は知りませんが、肩身が狭くなったようです。 まだ当時は今よりもコプト教徒が大勢いましたけど。 レバノンのマロン派キリスト教徒やパレスチナのキリスト教徒はどうだったのかなぁ。

372 :世界@名無史さん:2005/09/13(火) 22:00:39 0
>>368
マルタだろ

373 :世界@名無史さん:2005/09/13(火) 23:58:26 0
イルハン朝内の土着キリスト教徒はフレグの遠征のときにはしゃぎ過ぎたせいか
その後モンゴル人がイスラム化すると報復を受けて根絶やしになったらしい。

374 :世界@名無史さん:2005/09/15(木) 15:47:27 0
>>373
景教徒はいまでも中東にいますよ。
アッシリア人とか。

375 :ジーモン・ジョーカー:2005/09/15(木) 16:16:22 O
ネストリウス派キリスト教徒(アッシリア人)は今でもイランやイラクにいますよね。 サダム・フセイン政権で外相や副首相を務めたアジズもアッシリア人。 ちなみに首相はサダムが兼務。

376 :ジーモン・ジョーカー:2005/09/15(木) 16:22:06 O
ただし、イランでは1979年のイスラーム革命で脱出したネストリウス派キリスト教徒も多い。 いくらキリスト教徒とユダヤ教徒には国会議席が割当られているとはいえ、実際は大変な思いをして暮らしているらしい。

377 :ジーモン・ジョーカー:2005/09/15(木) 16:25:28 O
バーハイ教徒(バーブ教の後身)はさらに酷い迫害を受けている。 ゾロアスター教徒もかなりが海外脱出。 イスラーム体制イランと比べればバース党体制イラクの方が非イスラーム教徒にははるかに居心地が良い。

378 :世界@名無史さん:2005/09/15(木) 21:10:19 0
いわゆるスンニ派をイスラムの正統とみなすなら(つーか「正統派」という意味なんだがw)
シーア派はすでにイスラムじゃねえ…。アリーの言葉って何だよ('A`)

379 :世界@名無史さん:2005/09/15(木) 22:55:31 0
>>378
その理解の仕方は微妙に間違っている。基本的にスンナ派もシーア派も
「至上の啓典たるコーラン」及び「預言者ムハンマドとその後継者たちの言行」を
信仰の核としている点は全く同じ。
ただ、「コーラン」と「預言者ムハンマド」は良いとしてシーア派とスンナ派を
分けている焦点は、「誰が『預言者ムハンマドの後継者』なのか?」が問題となっている。

スンナ派(スンナ、スンニー)は
「預言者ムハンマドの以後の教導者(=イマーム)は『カリフ(預言者の代理人=後継者)』として
その位はアブー・バクルにはじまり、ウマル、ウスマーン、アリーに継承され、彼らを含む預言者と
第一世代の信徒らの言葉や行動を信仰の根本的な規範とする」のに対して、
シーア派は(シーア、シーイー)
「預言者ムハンマドの後継者、イマームは本来アリーのみで、預言者のカリフと称するアリー以外の
人物たちはすべてイマーム位を詐称ないし簒奪しているのであり、預言者ムハンマドとその正統なる
イマームたるアリー、及びそのイマーム位を代々継承したアリーの子孫たちなどの言葉と行動を
信仰の根本的な規範とする」という風に定義できるそうだ。

ちなみにこの「預言者やその第一世代の信徒などの言葉や行動云々」に基づいて定まった「慣習」のことを
「スンナ」と呼ぶ。この『「預言者やその第一世代の信徒などの言葉や行動」に基づいて定まった「慣習」』
を信奉している『大多数』の人々のことを、シーア派と区別して「スンナ(を奉じる)人」を「スンナ派」
とか「スンニー」などと自称、他称ともに呼んでいる。

「スンナ派」には「正統派」という直接的意味は無いが、やや回りくどめに「正統派」だという含意はある。

380 :世界@名無史さん:2005/09/16(金) 22:52:43 0
コーランを共通の聖典とし、ムハンマドを信仰する以外は実質別宗教みたいなもんだけどな。
まあ十字軍からすれは等しくサラセン人だったんだろうけど。

381 :世界@名無史さん:2005/09/16(金) 23:13:39 0
そういやファーティマ朝がサラディンに乗っ取られた直後に
イスマイル派の暗殺教団員たちが十字軍のところへやってきて
「キリスト教に改宗したい」と申し出たらしいね。
イスマイル派の本拠地がスンニ派に奪われたのがショックだったとかで。

382 :世界@名無史さん:2005/09/19(月) 02:22:49 0
>>370
ヌビアはファーティマ朝時代はエジプトと良好な関係をもっていたが
アイユーブ朝とは対立し、その後マムルーク朝に敗れてイスラム化。
マムルーク朝はコプト教徒農民をイスラムに改宗させたりしてるが
十字軍と直接の関係はない。

383 :世界@名無史さん:2005/09/25(日) 20:17:40 0
小アルメニア王国は十字軍国家の影響が強くて兵装も西欧風だったらしい。

384 :世界@名無史さん:2005/10/03(月) 15:20:54 O
初歩的ですいませんが…十字軍の遠征が起きたのって何年ですか?あと、その時期ってベトナム戦争と同じ時期なのでしょうか?手元に歴史の教科書がなくて困ってます…どなたか教えてください!

385 :世界@名無史さん:2005/10/03(月) 15:44:36 0
>>384
早く、おちんちんがむけたらいいね。

386 :世界@名無史さん:2005/10/03(月) 18:34:16 0
ウサーマ・イブン・ムンキズって、故郷のシャイザール城が地震で崩壊して
親族がひとりを残して全滅したとか。すごい話だ。

387 :世界@名無史さん:2005/10/04(火) 00:36:20 0
>>384
コロンブスがアフリカを発見してカエサルが暗殺されたのと同じ年だからすぐに解るよ。

388 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 08:21:35 o
>>381
それだけじゃなく、自分たちアラブ人が、それまで格下扱いしてきた
タミル人の王にひざまづくのが我慢ならなかったというのもあるんじゃないかな?


389 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 08:55:36 0
タミル人? インドか?

390 :388:2005/10/11(火) 10:06:33 0
やべ。
タミル人じゃねーや。
クルド人だわ。

すまん。

391 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 13:05:02 0
アサシン団ってアラブ人よりイラン人が多そうだけど

392 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 14:20:31 0
というかこの時代の中近東はどこへ行ってもトルコ系の勢力に支配されてるからなあ。
十字軍が最初に戦ったのもルーム・セルジューク朝だし。

そういえば、ドリュラエウムの戦いでトルコ人の弓騎兵は重装甲の十字軍騎士にダメージを
与えられなかったといわれているけど、11世紀の騎士ってメイル・ホウバークぐらいしか
着てなかったと思うんだが・・・しかも鎖帷子って弓矢に弱いし。

393 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 17:40:57 0
すごかったのは十字軍の馬鎧だったような。
奇襲で指揮官倒してパニックにするはずがあてが外れて負けたんだし。

394 :世界@名無史さん:2005/10/11(火) 18:20:54 0
トゥルクメンの部族兵は敵を消耗させるのを目的に
かなり遠くから矢を放ってたらしい。

のちのモンゴルは有効殺傷距離にまで接近してから
狙いをつけて射撃してたようだ。
(参考文献:David Nicolle著Medieval Warfare Source Book)

395 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 15:50:23 0
少年十字軍の悲劇には目も当てられません。

396 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 16:51:41 0
案外マムルークとして幸せに暮らしたかもしれないよ

397 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 17:00:32 0
十字軍騎士でマムルーク朝に仕えてイクターをもらった人もいるらしい。
ハルカ軍あたりに編入されたんだろうか。

398 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 17:18:31 0
マムルーク朝時代のカイロの奴隷なら、フランスの農奴の小娘小倅よりは幸せかもな。


399 :394:2005/10/12(水) 18:04:59 0
ネタ本を読み返したけどトゥルクメンの記述がどこにも見当たらない・・・

リチャード獅子心王がヤッファに向かって海岸沿いを行軍してたときに
サラディンの騎馬弓兵が矢を放ってきたけど、あまりに遠くから射ってたので
鎖帷子の下に着るガンベゾンでも防げたらしいです。

400 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 19:31:56 0
銃・火砲の世界史スレに弓スレの弓・銃弾の威力と鎧の防御力に関するログを上げといた

401 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 19:45:43 0
キングダムオブヘブン、見ました?
俺は先週DVDを買って始めてみました。なかなか面白かった。
エルサレム攻撃のシーンでカタパルトが活躍してたけど、
本当にあんなに威力があったのかな?

あれほど凄まじい威力があったのなら、日本の戦で使ったら
優位に立てたかな?

402 :世界@名無史さん:2005/10/12(水) 22:09:42 0
『集史』によると、
フレグ西征のおりシリアのマイヤーファーリキーン市包囲戦で
アイユーブ家のマリク・カーミル(スルタン・カーミルの甥)が
手持ちの熟練した投石機(マンジュニーク)の技師たちを使って
モンゴルの王族ヨシムト率いる包囲軍に徹底抗戦を行った。

これに手を焼いたヨシムトはモースルの領主バドルッディーン
・ルウルウから、同じく熟練した投石機の技師の派遣を受けた。
それぞれの技師が同時に投石機を発射すると、両方の石弾が幾度か
空中でぶつかって四散したそうで、両軍の将士は彼らの技術の高さを
称讃したそうな。

当時の投石機は石弾以外にも可燃性や爆発性の薬剤を封入した壷などを
発射していたらしいが、例の映画程の威力があったかどうかは分からない。

城壁や櫓を破壊したりするのには石弾が使われていたようだが、可燃性の
投擲物を打ち込んだのは城壁内部の家屋や対人用だったと思う。時期的に
あの種の巨大なドラムのついた投石機があったかは少し微妙なところだが、
そこら辺は映画的なフィクションと割り切った方が良いのかも。
考証についてはそこそこ良く出来たものだとは思う。

平安時代に奥州の戦に攻城兵器がいくつか使用されたそうだが、日本の山城
には中東のように装備は要るかどうか。中東や中国のような平坦地や荒蕪地での
山城攻めで使っているよう兵器とはまた違ったものが必要かも知れない。

403 :世界@名無史さん:2005/10/13(木) 16:10:35 0
>バドルッディーン・ルウルウ
「モンゴルの首領など耳をつかんでやる」といってフレグにイヤリングをプレゼントした人だね。

たしか中世にはバクーの石油を焼夷兵器に利用してたとか。

404 :世界@名無史さん:2005/10/13(木) 18:15:50 0
>>400
トルコ弓やモンゴル弓の信頼できるデータもどっかにないですかね・・・

405 :世界@名無史さん:2005/10/13(木) 20:22:04 0
>>401
日本では地形などの関係から攻城兵器が発達しなかった。
運ぶのも大変だし。

406 :世界@名無史さん:2005/10/15(土) 12:37:01 0
フレグの遠征軍の主力が引き上げたのは、ロジスティクスの関係だという説もあるらしい。
シリアでは大量の馬を維持できなかったからだと。

407 :世界@名無史さん:2005/10/15(土) 17:31:03 0
>>405
山城じゃなくて平城なら有効な運用できるから南蛮渡来の大筒使ったんでしょ?

408 :世界@名無史さん:2005/10/15(土) 18:16:29 0
>406
それって十字軍の話題か

409 :世界@名無史さん:2005/10/21(金) 00:33:29 0
流れぶった切って申し訳ないのですが、一つ質問が。
このころのエルサレム王国および周辺諸国の貨幣制度について知りたいのですが、
オススメのサイトや書籍などはありますでしょうか?
エルサレムの通貨単位はフランスと同じだったのか・・・とか、
「1ディナール」で何が買えるのかとか。
またこの時代の経済事情(市場などの様子)などについても詳しい本とかありませんでしょうか?
税金は実は物品で納めてた・・・とか(ありえないか、さすがに)。

410 :世界@名無史さん:2005/10/21(金) 01:30:03 0
>>405
フレグの軍もカフカス越えの際に
泣く泣く投石器を置いていったそうだし。分解運搬は無理かあ・・・

411 :世界@名無史さん:2005/10/21(金) 13:37:05 0
分解できないのなら現場で作ればいいじゃない ―マホメット2世&ウルバン

412 :世界@名無史さん:2005/10/24(月) 15:26:50 0
なんで貞操帯の話題が出てないんだ?

413 :世界@名無史さん:2005/10/24(月) 17:11:33 0
>>412
だったらお前がしろよ。

414 :世界@名無史さん:2005/10/24(月) 17:23:57 0
貞操帯に言及されてる最古の記録は15世紀初頭なので
十字軍とは時代が違う。

415 :世界@名無史さん:2005/10/24(月) 19:07:59 0
なんで〜がまだ出てないの?ていう物言いするやつなんかむかつく

416 :世界@名無史さん:2005/10/31(月) 23:53:35 0
フィリップムカツクよな(ノ`Д´)(´┏┓` )

( ´┏┓`)(・∀・ )リチャードの野郎最近生意気だよな 何が獅子心だよ

(´┏┓` )・・・帰りたい
                   


417 :世界@名無史さん:2005/11/23(水) 03:58:28 0
どなたさんで?→( ´┏┓`)

418 :世界@名無史さん:2005/11/23(水) 18:58:34 0
カールおじさん

419 :世界@名無史さん:2005/12/12(月) 00:58:07 0
ヒゲがあるから赤髭王じゃね

420 :世界@名無史さん:2005/12/12(月) 09:48:00 0
ヒストリーチャンネルで『十字軍〜月と十字架のもとに〜』(全4部)が始まったね。

421 :世界@名無史さん:2005/12/14(水) 18:58:16 0
映画『キングダム・オブ・ヘブン』を見た人がいたら教えて下さい。
ルノー・ド・シャティヨンの城として「カラク」というのが出てきましたが、
あの「カラク」とは、クラク・ド・シュバリエのことなのでしょうか?
それとも全く別の城のことなのでしょうか?

422 :世界@名無史さん:2005/12/14(水) 20:39:56 0
死海の近くにカラクという古い町があるからそこでね?
ルノーはトランス・ヨルダン領主だからヨルダン川の東、
つまり死海の北東岸あたりか?

「高みの王国」か、「天上の王国」か。

423 :世界@名無史さん:2005/12/14(水) 21:19:59 0
>>422
さんきゅ!
なんだ違うのか。


424 :世界@名無史さん:2005/12/20(火) 04:49:45 0
カラクまたはケラクだな

425 :世界@名無史さん:2005/12/23(金) 04:47:59 0
映画『キングダム・オブ・ヘブン』。
十字軍についてそんなに知りませんが、余りにも作り話が・・・。
ゴッドフリーというのは、ゴドフロワでしょうが、時のエルサレム
王はとうとう最後まで「王」としか言われてなかった。あの仮面の
王のモデルは一体誰ですか。それとも全くの架空の作り話ですか。
王妹の婿の王位を襲ったのは実在の人物なのでしょうか。

最後にリチャード・ライオンハートを出して、英語圏の人々をつな
ぎ止めるつもりだったと思いますが、その登場も余りに・・・。

それに投石機ですが、あんなに遠くから飛ばさなくてもよいだろう
し、城壁外が文字通り砂漠というのも・・・。ハリウッドだから、
といえばそれまでですが、城壁に弾丸石が「水平」に当たってたの
には思わず目を疑いました。それに弾丸石が、砲弾か焼夷弾のよう
に、炸裂してたのにも・・・。まるで近代戦のよう。ゴドフロワも
サラディンも英語を話していたのは許しますが・・。

でも、十字軍通史を詳しく知りたくなりましたので、どなたか1回
〜3回の十字軍の通史を書いた本を紹介して下さい。4回(コンス
タンティノープル攻略)と5回(フェデリコ2世)の話は、それな
りに紹介されていますし、聖地から離れた場所を攻撃した6回(ダ
ミエッタ)と7回(北アフリカ)は、別の戦いと見ることもできま
すし。

ムスリム側に不意打ちだったはずの第1回、ムスリムのエルサレム
再服、ほとんど語られない第2回、ドイツ皇帝・イングランド王の
親征など全西欧あげての最初で最後の大遠征だったはずの第3回と
その失敗・・・。その物語が知りたい。


426 :世界@名無史さん:2005/12/23(金) 13:01:15 0
>>425
DVDを持ってるなら解説字幕見ればいいよ。
誰をモデルにした人物なのか監督が解説してくれる。

427 :世界@名無史さん:2005/12/23(金) 13:19:30 0
>>425
エルサレム王はボードゥアン4世だろ。ライ病だし。
王妹の婿はギー・ド・リュジニャンだって映画の中でも名乗ってただろ?

428 :世界@名無史さん:2005/12/23(金) 16:30:07 0
たいしたエサでもないのに…

429 :世界@名無史さん:2005/12/26(月) 20:30:15 0
>>425はなんで知らないくせに作り話だとか言えるんだろ。
言ってる内容が矛盾してる。天然のおバカさんなの?

430 :世界@名無史さん:2005/12/26(月) 22:18:39 0
だからエサに食い付くなよ

431 :世界@名無史さん:2005/12/28(水) 00:13:04 0
焼夷弾はあっただろ?この時代

432 :世界@名無史さん:2005/12/28(水) 01:02:12 0
ナフトや燃焼性の高い薬剤から精製、製造された焼夷兵器のたぐいは
この頃から実戦場で使われはじめていたみたいだね。可燃性の高い薬剤を
専用の壷などに入れて点火し、投石機で投擲。

消火のために水をかけても火勢が衰えなかったので、かなり攻城戦では
効果的だったみたい。アイユーブ朝時代やマムルーク朝時代の技術書や軍事書には、
当時の戦闘でこの他に「ギリシアの火」というかポンプ状の火炎放射機みたいのも
使われたことも分かっている。

この種の兵器が使用される頻度は実際どうだったかはなんとも言えないが、
少なくとも攻城戦では効果があったことは伺える。

433 :世界@名無史さん:2005/12/31(土) 22:50:06 0
聖王ルイがエジプトに侵攻した時、敵陣から火の玉が弧を描いて飛んでくる。
部下に尋ねると「あれが飛んできたら地に伏せて神の御加護を願うしか術はござらぬ」

13世紀フランスの軍事技術はその程度のレベル。

434 :世界@名無史さん:2006/01/07(土) 21:40:28 0
第四回十字軍氏ね。

435 :世界@名無史さん:2006/01/07(土) 21:56:10 0
>>434
全員とっくに故人ですが何かw

436 :世界@名無史さん:2006/01/08(日) 02:03:03 0
連載マンガ「十字くん」第4回

437 :世界@名無史さん:2006/01/10(火) 03:32:59 O
面白いじゃねえか!!

438 :世界@名無史さん:2006/01/17(火) 20:00:33 0
>>422
ジェームズ王欽定英訳聖書いわく

Kingdam of heaven=天の御国 

439 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 10:33:07 0
ものの本で末期のエルサレム王国についてこう書いてた。
「当時のエルサレム王国はベイルートからアッコンまでの海岸線しか支配して
いなかったが、アッコン市の歳入だけでイングランド王の年収を上回っており、
いまだに豊かであった」

イングランド王負けてんのかよ・・・orz

440 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 10:52:00 0
>>439
今の地域情勢からは想像できないけど、古代〜中世におけるオリエント地方の
豊かさはヨーロッパに比べて抜きん出ていたようだね。
ローマ帝国が東西の分裂したときも、東ローマの版図であるアナトリア〜エジプトの
地方の税収は、西ローマ帝国の5倍はあったらしい。
中世前期のヨーロッパでは三圃制などの輪作方式も確立されておらず、
種まき時期などもかなりいい加減で、作物の収穫も安定しなかった。
かつ、貿易に関しても地中海東岸の都市が独占しており、イングランドなどの
出る幕はなかったようだ。


441 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 14:34:37 0
まあ羊毛とか輸出してたんだけどね>イングランド

442 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 14:55:20 0
羊毛はまだ先の話じゃ?
それに「イングランド王の収益」であって「イングランド全体の収益」じゃないわけでしょ?

443 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 19:03:59 0
イングランドは不毛の地だよ。
芝しか生えないからゴルフが生まれた。

444 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 19:23:11 0
当時のイングランド王って言っても、ジョンが失地する前のプランタジネット朝・リチャード1世や親父のヘンリー2世の頃のイングランド王の領地は西ヨーロッパ最大にして最高収入だったはず。
領地の大半はフランス国内だけど。

445 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 23:28:41 0
地図を見ると分るけれど、アッカーは湾をもった天然の良港で、
しかもシリア地方の海岸部のほぼ中心にあって、エジプトや
キプロス、アナトリアなど東地中海全域から商船が集中する
海上交通の要衝としてフェニキア以前から繁栄した都市だった。

しかも海岸部から内陸のナザレ、ガリラヤ湖、エルサレム方面へ
抜ける玄関口だったため地中海全域からユダヤ教徒、キリスト教徒、
イスラム教徒の巡礼者たちが集中していたことも重要か。

もちろん他のシリア海岸部の諸都市も海上交易で名を成していたが
アッカーの存在は当時としては飛び抜けている。海上交易の要衝で
経済的な拠点都市という点からすると現代で言えばシンガポール
のような存在か。

446 :世界@名無史さん:2006/01/18(水) 23:30:56 0
シリア全体がそもそも古代からローマ帝国時代、イスラム時代に至るまで
商業と農業開発で富裕な地域だったが、レバノン山脈やアンチレバノン山脈
の西側の地域は東側に比べ山間の降水量が多いため有望な農耕地が多かった
ようだが、アッカー周辺はどうだったろう。

具体的な農業生産力やら商益やらの数字はちょっと知らないのでうp出来ないが、
アッカーは非常に豊かな都市だったことは確実。確かイブン・ジュバイルも
メッカ巡礼の復路、サラディンのエルサレム攻防戦直前にアッカーからキプロス、
シチリアを経由しアンダルスへ帰還している

447 :世界@名無史さん:2006/01/19(木) 01:57:49 0
13世紀末にアッカが陥落して十字軍の歴史が終わるんだよな。
しかもその時の開戦のきっかけが、西欧から新規にやってきた十字軍兵士が
野菜を売りにきたムスリム農民をぬっ殺したといういかにも十字軍らしいDQNな理由で・・・

448 :世界@名無史さん:2006/01/20(金) 20:42:35 0
>>17
十字軍と戦った結果イスラムは異教徒を排除するようになったけどね

449 :世界@名無史さん:2006/01/20(金) 22:05:08 0
Googleで、日本語で、「ボードワン -キングダムオブヘブン 」で引くと
一つしかでない。。。 ということは、日本語のネット上では、
ボードワンがでてくるページは、全部映画の影響ということに。。。

450 :世界@名無史さん:2006/01/20(金) 22:17:17 0
ボードワン -キングダムオブヘブン の検索結果のうち 日本語のページ 約 934 件中 1 - 10 件目 (0.28 秒)

451 :世界@名無史さん:2006/01/20(金) 23:16:55 0
失礼。 ボードワン  -キングダム・オブ・ヘブン でひいていた。


452 :世界@名無史さん:2006/01/20(金) 23:24:02 0
でもやっぱ  ボードワン -キングダムオブヘブン でひいても、
ボードワン4世についてはほとんどないね。 というか、
ボードワン -キングダムオブヘブン 
でも、キングダム・オブ・ヘブン のボードワンが残るので、
これを除去すると、殆どなし。

453 :世界@名無史さん:2006/01/21(土) 04:27:02 O
S・ランシマンなんかを読むと、第一回十字軍までの経緯が理解しやすいと思う。また、宗教的側面に限定するならA・フリシェ?の関連著作もおすすめ。日本の歴史学者だと…橋口倫介か八塚春児くらいかな?

第一回十字軍までは、学説は概ねウルバヌス2世のイニシアティブに依るところが大きい、との見解で一致。また隠者ピエールの存在も近年評価が改められている。

でもやっぱ聖職者・貴族・農民のストレスのはけ口みたいな戦争だよな。イデオロギーっていうか気運でやったって感じ。

454 :世界@名無史さん:2006/01/21(土) 12:31:37 0
十字軍も後の方になると段々狂気が薄れてきて普通の戦争になってくる。
交渉だけでエルサレムを奪回したりとか。
個人的には初期の「人食い」タフール団とか狂ってて好きなんだけど。

455 :世界@名無史さん:2006/01/23(月) 21:26:14 0
>>449
どういう論理でそういう結論になるのか
わけがわからん。

456 :世界@名無史さん:2006/01/23(月) 22:07:53 0
(≧u≦)ノ 質問です。 

十字軍時代の騎士はどうやって叙任していたのですか?

刀礼の儀式(剣で肩をポンポン叩く)は、14世紀以降だそうです。

詳しい人、お願いします。

457 :世界@名無史さん:2006/01/23(月) 22:10:30 0
(≧u≦)ノ あと、少し話しは逸れますが。

この時代(十字軍初頭11〜12世紀)の
1リーブル(フランスの貨幣)って、
現在のお金で幾らぐらいですかね。

自分は10万円ぐらいだとおもうのですが、
こちらもよろしければ教えてください。

ORZ

458 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 05:53:45 0
"ボードワン4世" -キングダム の検索結果 約 148 件
"ボードワン四世" -キングダム の検索結果 約 19 件
"ボードワンIV世" -キングダム の検索結果 約 11 件

459 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 12:40:15 0
>>456
徹夜でお祈りして、斎戒沐浴して、主君の前で誓いを立てる・・・
みたいな感じじゃないか?

460 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 13:19:35 0
>>十字軍時代の騎士(14世紀以前)はどうやって叙任していたのですか?

「封臣の儀」「封臣になるための儀式」のオマージュとは別なのでしょうか?
中世ヨーロッパに詳しいひと、ヘルプ。



461 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 14:40:13 0
>>456
11〜13世紀の以前、adoubement変遷前はcolleeと言って、
右の平手で首や顔を強打されて倒れないだけの精神と肉体の頑強さを見せるのが騎士叙任式。

462 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 15:01:11 0
とりあえず騎士見習いになって数年修行を積むのが前提だったと思う。


463 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 19:58:47 0
>>461
なんかすごい漢な儀式ですな・・・

464 :世界@名無史さん:2006/01/24(火) 20:26:19 0
国によって違ったりしないの?

465 :456:2006/01/24(火) 22:48:47 0
>>461
ありがとうございます。

もしよろしければ、もう少しくわしく騎士叙任の様子やら、
やりかたやらを教えて頂けないでしょうか。
orz

466 :世界@名無史さん:2006/01/25(水) 07:08:53 0
>>464
フランク以外だと、やはりビザンツかな?
10世紀のビザンツ皇帝が書いた式典の関する本『De ceremoniis』で
任命やら昇官やらについては網羅されてるらしいけど。

467 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 13:18:42 0
ネット上でウサーマ・ブン・ムンキズの回想録の抄訳を読んでみたんだが
「アラブが見た十字軍」に載ってるフランク人の医者の話にはさらに続きがあって
そこではフランク人の医者がちゃんと病気を治した例が出ていた。


468 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 13:54:19 0
余程特筆すべき事だったんだろうか。

469 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 15:25:30 0
>>467
それは>>359?

470 :世界@名無史さん:2006/02/21(火) 15:47:38 0
>>458
ボードゥアン4世 -キングダム 約 238 件中 1 - 10 件目

ボードワン4世でwikiが出て来なかったんで、よっぽどマイナーなのかと
思ったら、ボードゥアン4世でヒット。

471 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 00:05:15 0
どなたか、この時代の男爵と伯爵の違いを教えてください。

俺には区別がつかない。

472 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 00:43:09 0
>>471

勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/10/27(木) 20:59:47 0
いわゆる一般的な訳語である五等爵と、各国史に出てくる諸官職のすり合わせというのは
歴史を勉強すると、一度は誰でもぶつかる問題ですよね。

既にこのスレでも書いたかと思いますが、中世史では称号には余り意味がありません。
例えばノルマンディー公ですが、文書にdux、marchio、comesのどれもで表現されていたと思います。
現在の一般的な爵位制度のように、厳格な宮中順序を確立する為には
中央権力が強力である必要があるわけですが、中世にはこれがなかった為に
古来からの官職を名乗ってみたり、新しく称号を作ってみたりと自称する事も多々ありました。


473 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 00:48:40 0
>>471
“爵”は要らない。その時点で分かってないので勉強汁。

474 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 01:46:17 0
誰かイスラム側の称号・官職も語ってください・・・

475 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 01:55:30 0
ニートには教えない

476 :471:2006/02/22(水) 20:59:57 0
>>472
有り難うございました。

477 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 21:08:13 0
十字軍の時代の馬車ってどんなカタチをしていたのですか?
荷馬車ではなく、貴族の乗り物用の馬車です。

もし、絵などのあるURLなどをご存じでしたら、
教えて頂きたいです。orz


478 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 21:41:43 0
ttp://www.horstbison.de/html/die_wirtschaftliche_nutzung_de2.html

上から2番目が14世紀フランスの旅行用ワゴン
4番目が15世紀の「ベルンへ旅するグィシャルト男爵一家」

12、13世紀のはちょっと見つからなかった

479 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 22:06:55 0
>>478
ありがとうございます。
12世紀の馬車も、構造的には同じなのでしょうか?
もし、ご存じでしたら、お願いします。

480 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 22:08:04 0
帝政ローマ時代の馬車は、なんとなくド派手なイメージがある…。
もっとも、映画グラディエイターのような馬車はないと思うけど…。

481 :世界@名無史さん:2006/02/22(水) 22:21:22 0
>479
ラスロー・タール「馬車の歴史」によると
早い時代には四輪のワゴンより二輪馬車の方が多かったとか。
イギリスでは16世紀までワゴンが普及しなかったらしい。

四輪馬車ならかまぼこ型に幌をかけた形で問題ないのでは?

482 :世界@名無史さん:2006/02/23(木) 00:44:14 0
>>481
2輪の馬車って、乗り物って言うより、チェリオット(戦車)かな?

円卓の騎士だと、姫は騎士の後ろに騎乗して描写されていたけど、
当時の移動は、やっぱり馬車ではなく、そんな感じだったのかな?

483 :世界@名無史さん:2006/02/23(木) 00:58:57 0
>>482
チャリオットでなくカートというらしい。

484 :世界@名無史さん:2006/02/23(木) 22:19:13 0
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Cart

485 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 13:04:25 0
質問です。
この時代の建物は、どうやって暖をとっていたのですか?

暖炉が一般的だと思いますが、
現存しているスクエア・キープや円塔などには、多くの煙突は確認できません。
(って言うか、写真見てもわからない)
主に一階に大広間があって、食事用の釜があったと思いますが、
他の生活居住区にも専用の暖炉の用な設備はあったのですか?

486 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 13:17:50 0
14世紀頃まで、屋根付きの4輪馬車はヨーロッパにないのかな。
せいぜい幌馬車くらいなのか……。

ローマ時代とかありそうな気がするけど、検索してもひっかからない。



487 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 14:16:38 0
暖は無いです。
がまんしまいたs

488 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 14:41:14 0
犬などの動物を抱いて寝て寒さをしのいでいたらしい。
間違いも起こったかもしれない。

489 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 19:58:29 0
>>488
どんな間違いが起こるんだよ!!!!w

490 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 20:03:17 0
中世ヨーロッパの暮らし(3)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1091594814/l50

491 :世界@名無史さん:2006/02/27(月) 10:17:48 0
この頃はイスラム勢力≧十字軍>>>ビザンツ軍みたいな感じですか?

492 :世界@名無史さん:2006/02/27(月) 13:05:28 0
イスラム勢力>>>>>十字軍

これくらいじゃね?

493 :世界@名無史さん:2006/02/27(月) 23:46:34 0
>>492
アラブ人が強かったのは砂漠の民だったからでしょう。
攻撃してはまた砂漠に舞い戻るという戦い方ができたので、有利な条件で戦うことができた。
ただ重厚な甲冑を着た十字軍にはなかなか勝てなかったと思います。
アラブの武器として有名な半月刀は斬りつけるための剣で、中東の兵士は
死はアッラーの思し召しという考えでほとんど防具をつけなかったから効果があった。
それでも最終的に十字軍が撃退されてしまったのは、あまりに人数が少なくて
人口の多いアラブに圧倒されてしまったのだと思う。

494 :世界@名無史さん:2006/02/27(月) 23:50:19 O
十字軍、砂漠の地獄の暑さの中でも重装だからきつかったろうな……



495 :世界@名無史さん:2006/02/28(火) 01:12:33 0
> 沙漠の民
その発想は間違っている。

当時のシリア・パレスチナ周辺の政治情勢は、セルジューク朝系の政権が
各地に分立状態にあって、地方を統括していた王族やアタベクなどの中小の
地方政権が散発的に抗戦していただけで、十字軍勢力にたいして大規模な戦争を
しかけてくるようになったのは、ザンギー朝のヌールッディーンやアイユーブ家の
サラーフッディーンを待たなければならない。

これらは軍馬を保持し、地方都市を拠点としていた騎士階級の人々で、それぞれは
セルジューク朝や地方のアタベク政権などに臣従していた。かれらの生活基盤は
都市社会や農耕地帯からの租税や牧地の管理によって馬などの軍備を整えたが、
中央政権から認められたイクター地もおもな財源としていた。

もちろんサラーフッディーンの軍隊には沙漠のベドウィンもいたが、軍の殆どが
シリアやエジプトでイクターを下賜されていた騎士たちで、ベドウィン勢は全体
としては5%にも満たない。

当時の刀剣がいわゆる半月刀のような曲刀だったかは、実は良く分かっていない。
当時の十字軍側もイスラム側も甲冑を着ていたが、戦闘のメインは槍での突撃で、
それは両者とも等しく負傷している。甲冑などで優劣があったとは思えない。

496 :世界@名無史さん:2006/02/28(火) 08:39:12 0
>>493
アラブ人はもともと両刃の剣を使ってて
曲刀はトルコ系騎馬民族が持ち込んだものらしいよ。

497 :世界@名無史さん:2006/02/28(火) 14:58:05 0
>>493
アラブ人は砂漠の民じゃないよ。都市住民だよ。
ヨーロッパ兵の多くが農村出身者だったのに比べ、
アラブは都市住民の比率が高く商工業者が多かった。

498 :世界@名無史さん:2006/02/28(火) 17:18:05 0
アイユーブ朝もマムルーク朝も一般的には「アラブ軍」なんですねorz

パレスチナあたりのイスラム勢力はわりと多様な民族を抱えてた。
"Saracen Faris"という本に「11世紀後半から12世紀初頭のシャイザール軍の民族構成」
というのが載ってます(多分ムンキズの自伝を資料にしたのか)。

高級将校、軍事指導者
アラブ人18.4% クルド人5.2% トルコ人73.6% 奴隷2.6%

騎兵、下士官
アラブ人44.4% クルド人41.6% トルコ人5.5% 奴隷5.5% キリスト教徒クルド人2.7%

その他兵士
アラブ人50% クルド人21.4% 奴隷14.3% 北アフリカ人14.3%

499 :世界@名無史さん:2006/03/01(水) 14:53:13 0
旗騎士と騎士の違いを教えてください。

500 :世界@名無史さん:2006/03/02(木) 04:21:47 0
†††500ゲット†††

501 :世界@名無史さん:2006/03/04(土) 07:25:32 0
この時代って、どんな服を着ていたのですか?
素材やカタチを教えて貰えるとありがたいっす。
13世紀ぐらいになると、羊の毛で産業がなりたっていますよね。

502 :世界@名無史さん:2006/03/07(火) 15:41:34 0
>>501
映画の「キングダム・オブ・ヘブン」見れば大よそ分かるよ。

503 :世界@名無史さん:2006/03/07(火) 16:25:42 0
とりあえずANGRAのTemple Of Shadowsを聴けや

504 :世界@名無史さん:2006/03/07(火) 16:30:17 0
これな↓
http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A009425/VICP-62717.html

505 :世界@名無史さん:2006/03/10(金) 13:15:39 0
この時代のフランスの称号や地位が知りたいです。

できれば当時のフランス読みで。

506 :世界@名無史さん:2006/03/10(金) 15:18:14 0
俺ならBOLT THROWERのThe IVth Crusadeを推す。Stryperでもいい。

507 :世界@名無史さん:2006/03/11(土) 01:47:58 0
聖地奪還とほとんど関係なくなった4期以降の十字軍の方が興味ある

508 :世界@名無史さん:2006/03/25(土) 20:39:26 0
 

509 :世界@名無史さん:2006/03/30(木) 17:39:24 0
age

510 :世界@名無史さん:2006/04/05(水) 01:40:58 0
第4回十字軍って大砲もないのによくコンスタンティノープル征服できたな。

511 :世界@名無史さん:2006/04/05(水) 20:04:11 0
ヴェネツィア人に手引きされて
守りの薄い金角湾から攻め込んだからだろ?

512 :世界@名無史さん:2006/04/16(日) 10:44:44 0
意外と盛り上がらないねこのスレ

513 :世界@名無史さん:2006/04/20(木) 01:50:20 0
あげ

514 :世界@名無史さん:2006/04/22(土) 02:58:22 0
何ていうかハッキリ言ってこれまでは別に韓国人なんてどうでも良かったんだが・・・
いい加減もう我慢できねぇぞ!

在韓大使激怒」日本大使の前で、ヒ ロ シ マ 原 爆 を ネタに 下 品 に 笑 う 韓国人

http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1145611422/

515 :世界@名無史さん:2006/04/23(日) 10:04:18 0
今更「キングダム・オブ・ヘブン」観たけどディティールが凄いね。

ただサラディンの部下(主人公に助けられた人)が
15世紀のマムルークやシパーヒーみたいな甲冑を着てたのが
気になってしょうがなかった・・・

516 :世界@名無史さん:2006/04/23(日) 12:39:58 0
>>515
どの甲冑ですか?後学の為に知りたい。
私は「Men At Arms」シリーズの「サラディンと…」を読んだ事があるけど違和感感じませんでした。

517 :世界@名無史さん:2006/04/23(日) 12:53:45 0
獅子心王が30代にしてはフケてたな。

518 :世界@名無史さん:2006/04/23(日) 13:56:22 0
出陣したのは25くらいじゃないか?>獅子心王

519 :世界@名無史さん:2006/04/23(日) 20:14:15 0
>>516
これです。
ttp://zakath-nath.joueb.com/images/salad3.jpg

トルコ語やペルシャ語で何というのか知らないけど(ジャヴシャン、だったかな?)
ロシアではユシマンとかいうタイプの甲冑ですね。

「サラディンとサラセン軍」の著者によると14世紀後半に「おそらくイラク地方で
発明された」そうです。

520 :516:2006/04/23(日) 23:13:37 0
>>519
レスどうもです。

この鎧ですか。「Men At Arms」を読み直したところ、「サラディンと〜」ではなくて「十字軍の軍隊」の方に殆ど同じタイプの胴鎧の写真がのってました。(日本語版36ページ)
「ザルディーヤ zardiyyat」という鎖鎧(十字軍側のホウバーク hauberkに相当)で、腹を板金で補強して鉤でとめるタイプです。
「13世紀からマムルークやシリアのアミールが着用していた」とあるので、許容範囲内とも思えますが、どうでしょうか?

521 :世界@名無史さん:2006/04/24(月) 01:51:49 0
>520
情報サンクス。たしかに載ってました。
13世紀ということはデヴィッド・ニコルのいうより早いんですね。
それでもサラディンの時代だとどうなのかなあ。

デヴィッド・ニコルはこのタイプの甲冑ができたことでメイル・ホウバークと
ラメラー装甲を重ね着する必要がなくなったとか書いてたので
当時の甲冑の中では浮いて見えたんですが、どうなんだろう。

522 :516:2006/04/24(月) 04:40:40 0
>>521
なるほど。
私は東方の鎧の変遷は知らないものですから((汗))
それで違和感が無いのかもしれません。

そこで質問なのですが、イスラムやロシアでは、鎧はどんな感じで発展していったのでしょうか?
特に、件の鎧の「前段階の」鎧としてはどのようなモノがあるのか知りたいです。
(当方、ファンタジックなイラストの修行の一貫として武装を勉強しておりまして、創造的な見地から、鎧の変遷に特に興味があるのです。)
文献かキーワードだけでもご教授頂けると幸いです。


523 :世界@名無史さん:2006/04/24(月) 06:26:04 O
十字軍=借金まみれの殺戮者( ゚д゚)、ペッ

524 :世界@名無史さん:2006/04/26(水) 10:19:16 0
>522
中世後期以外あまりよく知らないんですけどね。
Mail-and-Plateの鎧が流行する以前は、古代からスケールやラメラーやメイルの組み合わせですね。
中近東や東欧ではメイルがよく用いられていたけど、中央アジアではラメラーが多かったらしい。
モンゴル人なんかは全身を覆うようなラメラーアーマーを着てましたね。
基本的に東へ行くほどメイルが姿を消していくのかな? インド・イスラム諸国なんかどうだったっけ・・・

デヴィッド・ニコルの本によると中近東では15世紀にラメラーが姿を消したそうです。
その後はMail-and-Plate、普通のメイル、また西欧のコート・オブ・プレーツやブリガンディンのような
布地の裏側に装甲をつけたような鎧が生き残ります。
Mail-and-Plateは火器の発達とともに簡略化されて、チャハル・アイナというブレストプレートに近い
ものになるのが16世紀頃、だそうです。

オリエントの鎧について参考文献は・・・日本語だとメンアットアームズと武器甲冑図鑑(MAAそのまんまの
絵が結構ある・・・)しか知らんなあ。
英語だと"Oriental Armour"って本があって、かなり濃い内容だけど図版が少なく、鎧の部品の形状とか
たいてい文章で説明してるので読んでてものすごく疲れます・・・

このサイトを一通り読めば鎧のタイプについて大体分かります・・・英語だけど。
Armour and Warriors of the Silk Road
ttp://www.geocities.com/normlaw/index.html

525 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 13:40:39 0
いま「アラブが見た...」を読んでるけどすげー面白いね
これどのくらい信用していいの?

526 :世界@名無史さん:2006/05/04(木) 18:55:19 O
やっと「キングダム〜」を観たんだが。
ゴドフロワに付き従ってた黒衣の修道士は
ベネディクト派の僧なの?

527 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 01:20:39 0
>>526
ホスピタラーが役名だよ。ヨハネ騎士団員で名前はない。

528 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 13:39:22 0
>525
たいてい情報のソースが文中に書いてあったように記憶してるけど。

529 :世界@名無史さん:2006/05/05(金) 13:45:56 0
>>525
ビザンツ帝国側や十字軍側の情報はどうかは分らないけど、アラビア語史料からの情報は
ほぼその通りのことが書かれている。ただ、表題に「アラブ〜」とは書かれているけど、
当時のシリア・パレスチナ、アナトリアはセルジューク諸王家とそれに附随するアタベク諸政権が
入り乱れて領土の分捕り合いをしていたので、厳密にいうと「アラブ」色はそもそもあまり強いとは
言えない。

セルジューク諸王家やアタベク諸政権の下に各都市ごとや村落ごとに、それを統括するアミールなり
騎士たちがいて、それがたまたまアラブ系だったりテュルク系だったりサラディンたちのように
クルド系だったりした。(どちらかというとテュルク系の騎士たちは王族やアタベクたちの直属で
アラブ系の騎士や領主たちはシリア・パレスチナの土着勢力っぽい印象があるけど)

そこらへんの込み入り具合は本書でももう少し触れても良かったかも知れないけど、アラビア語史料を
直接の典拠にしたイスラム政権側からの十字軍時代史の入門書としては、正に得難い労作に変わり無い。

できれば佐藤次高先生の『イスラームの「英雄」サラディン』とか『マムルーク』などをあわせて読むと
当時の状況についてより理解が進むと思う。

530 :526:2006/05/05(金) 13:55:07 O
>>527
サンクス
黒衣からベネディクトかクリュニーかと思ってました。
そういえば、塩婆の「ロードス島攻防記」に
ヨハネ騎士団の軍装・装束が収録されてましたね。
マリー・ド・メディシスがアンリ四世
(ルイ十三世だったかも)に輿入れした際に、
護衛を務めたのもヨハネ騎士団でしたよね?

531 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 03:14:28 0
あげ

532 :世界@名無史さん:2006/05/09(火) 03:41:08 0
Loving the Alienでも聞くか

533 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 08:16:13 0
アラブ・トルコ軍というと、
軽装の弓射騎兵を連想するけど、
十字軍と戦ったイスラム軍はどんな感じなんだろ??

534 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:21:03 0
「アラブがみた十字軍」によると、
第一回十字軍を迎え撃ったトルコ軍は、
遊牧民軽装弓射騎兵で、半月陣から弓矢による波状攻撃をおこなった。
しかしながら、重装備の十字軍はびくともしなかったとか。

中世騎士の重装備は、生命第一のためのもので、機動力は、当然、ない。
完全武装すると、一人で馬にも乗れず、落馬したら一人で起き上がれもしなかった
とのことだから、軽装騎兵にかきまわされたら、手も足もでないじゃないと
思うのだが。

トルコ陣営が分裂・内紛を抱えてたのが大きいのかな。

535 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:25:12 0
>完全武装すると、一人で馬にも乗れず、落馬したら一人で起き上がれもしなかった
>とのことだから、
50年前の説だろ。
未だにそんな与太を信じてはいけない。

536 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:30:03 0
>>535
そうなの??本に書いてあることでも信用できないなあ。
15キロの全身鎧を装着し、5キロの槍を振り回したとかいうの、
ウソなの??

537 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:35:24 0
>>536
あんたが太って体重100kgになったら寝たきりか?
通勤電車で椅子に座ったら、一人ではもう立てんのか?

538 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:42:14 0
>>536
冷静に考えてくれ。それじゃ20kgにしかならないぞ。
2リッター入りペットボトル10本入れたバッグ背負ったら立てなくなるかい?

539 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 17:50:40 0
>>536
例えば体の一部分だけに30kgとかかかったらきついかもしれんが、金属鎧は体全体に
バランスよく分散されてるから意外に自由に動けるらしいよ。
まあ、それに十字軍時代はチェインメイルが主流だったはずだから尚更動きやすいと思う。

540 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:11:25 0
日本の鎧も小札を連ねて結構な重さになっていた。

541 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:14:38 0
現代歩兵でも銃器弾薬やらなんやらで完全武装すると+50`超えるんだよ、坊や。

542 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:22:26 0
欧州でフルプレートアーマーが開発された頃には
中東の十字軍国家はすべて滅亡していた。

543 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:24:35 0
>>539
逆。
チェーンメイルの方が(同じ重量ならだが)重量が肩に掛かってつらい。
だからベルトを締めて重量のかかる部分を散らさなくてはならない。
プレートアーマーは最初から重量のかかるバランスが良く運動性も高い。
バランスさえ良ければ15-25キロなんてたいしたことはない。
高校生のころと比べて15-25キロ太った香具師なんていくらでもいるだろw
あるいは周囲にいる脂肪太り系デブ、それで身動きできなくなってるか?

それともうひとつ。
プレートアーマーが25キロとかになったのは
銃器に対抗しなくてはならなくなってからの話で
せいぜいクロスボウ相手の初期のプレートはもっと軽い。
せいぜい15キロ+α、程度なはず。

544 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:26:19 0
あ、>>543の内容はむしろ>>536向けだったな。スマソ

545 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 18:57:18 0
12世紀イングランドだと、チェインメイルなどで完全武装した場合、装備の重量は40ポンドほどになったそうな。

デブるのは例えになら無くない?
太るって脂肪だけが増えるんじゃなくて、それを支える筋肉もなんぼか増えてるわけだし。

546 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:06:16 0
>>536
動けなくなるって着慣れない人間が着るから重いと感じるのであって、訓練を受けた騎士連中がそんなだったら戦争にならないのだが。

大体、騎士修道会の設立当時なんざ、デストリアー(大型の軍用馬)に騎士が二人乗りで移動だよ。
もし動けないような甲冑着てたら、いくらでかくても馬には乗れないし、
時代は下って百年戦争のフランスには完全装備で梯子を裏側から登った奴だっているますよ。
さらに言えば、もっと有名な農家の娘のジャネットが鎧着て?戦場に行っているじゃないですか。

547 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:06:20 0
(前にどこかで同じ事を書いたんだが)
>>545は中年太りというものの現実を知らないw
うらやましいぞ。

筋力低下と体重増加が同時進行するのが中年の肉体の神秘というか現実w
例えば体重が増えたのに、かえって太ももなんか細くなってたりするのよ。




548 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 20:27:10 0
そうそうw
筋肉が脂肪に変化すんのよ。
筋肉のあった箇所で筋肉が減って脂肪がつくの。
筋肉のない/なかった箇所には脂肪がつかない。

549 :世界@名無史さん:2006/05/12(金) 20:49:38 0
ウサーマ・ブン・ムンキズの自伝に出てくる
アラブ人騎士の装備

兜    khawdha
鎖帷子 dir'
脚半  sak al-muza
長靴  khuff
拍車  mihmaz
剣    saif
騎槍  rumh
短剣  sikh, nimdja
投槍  harba
盾    turs, daraka

550 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 02:54:15 0
>>548
それだと体重変わんないような気もするが

551 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 14:26:29 0
そこが肥満マジック。
運動をして痩せたけど筋肉が付いた分体重が変わらないというその逆もあるし。

552 :世界@名無史さん:2006/05/13(土) 22:22:07 0
成長期が終わってから、体重が増えたのに肉が付かなかった場合は、内臓脂肪を疑うべし。

553 :世界@名無史さん:2006/05/28(日) 01:08:48 O
ラテン帝国の顛末を詳述した良書はありませんか?

554 :世界@名無史さん:2006/05/28(日) 07:08:25 0
>553
英語でよければ
"The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest"
がかなり詳しかったと思います。

555 :553:2006/05/29(月) 00:35:10 O
>>554
ご教示感謝します。
ヴィルアルドゥワンの「コンスタンチノープル征服記」を読み、
ラテン帝国に興味を持ちました。
ご紹介の本に当たってみます。

556 :世界@名無史さん:2006/06/11(日) 19:21:56 0
あげ

557 :世界@名無史さん:2006/06/16(金) 23:02:03 0
イルハン朝にはラテン人傭兵がいたとか?

558 :世界@名無史さん:2006/06/18(日) 09:23:33 0
ラテン人は知らんけどグルジア兵やアルメニア兵はいた。

559 :世界@名無史さん:2006/07/01(土) 15:05:20 0
異教時代のリトアニアについて詳しい本ってないですかね?

560 :世界@名無史さん:2006/07/14(金) 19:47:18 0
十字軍ならグローリーでしょ。取り合えず。
開花亭は残念だったけどね。
最近はだるまとおとくが単価は安いけどメール数がすごいね。
でも一番すきなのはメールシアターだな。がんばれー!

561 :世界@名無史さん:2006/07/15(土) 02:57:40 0
ねこめーるも忘れずに。

562 :世界@名無史さん:2006/07/15(土) 03:05:59 0
>559
英語でいいなら"Lithuania Ascending"という本がある。
扱ってるのはゲディミナスの時代までだけど。

563 :世界@名無史さん:2006/07/15(土) 09:45:20 0
>>557
アンティオキア公国、トリポリ伯領はフラグの遠征軍に加わった。
そのため後でマムルーク朝にあぽーんされたけど。

564 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 14:55:52 0
>>559
『ロシアの源流―中心なき森と草原から第三のローマへ』三浦清美
主題はキプチャク・ハン国時代のロシアだけど
ゲディミナス〜アルギルダス時代のリトアニアも載っている。
それとリトアニア独特の信仰についてもある程度の記述がある。


565 :世界@名無史さん:2006/07/16(日) 20:18:38 0
そういや忘れちゃいけない山内進「北の十字軍」

566 :世界@名無史さん:2006/07/23(日) 19:54:45 O
>>563
直接の原因がフラグへの増援だったとしても、
いずれテュルク系に滅ぼされるのは避けられなかったと思う。

567 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 01:06:00 0
テュルク系というかエジプトの政権?

キリキア王国はずいぶん長続きしたね。

568 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 13:28:08 0
第1回十字軍の一次史料ってどんなものがあるんでしょう?
物の本に、キリスト教徒側の史料の方が虐殺や集団レイプなどを
より誇大に描いてると書いてたんですが・・・

569 :MP(軍K札):2006/07/27(木) 09:28:49 0
イスラムの築城技術はかなり優れてたとか・・・。

570 :世界@名無史さん:2006/07/27(木) 12:35:43 0
「騎士の城」なんかはバイバルスも攻めあぐねてたから
十字軍側もそれほど引けをとってた訳でもないんじゃない?

571 :世界@名無史さん:2006/07/27(木) 20:41:04 0
イスラムの都市の城壁って市民が金出して建てるの?
それとも君主が?

572 :世界@名無史さん:2006/07/27(木) 21:43:08 0
>>571
市民が税金出して君主が立てる

573 :世界@名無史さん:2006/07/28(金) 01:12:11 0
カイロやバグダードなんかは国主導で建てた例だが

574 :世界@名無史さん:2006/08/08(火) 09:11:41 0
>>571
この時代は西欧だとまだ新都市建設がけっこうあったようだけど
中東は立地条件のいい場所にはすでに都市ができてしまっている。

新しく作るとしたら軍事拠点とか。

575 :世界@名無史さん:2006/08/22(火) 09:17:44 0
ttp://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1149949668/
キングダム・オブ・ヘブン DC(ディレクターズカット)版

576 :世界@名無史さん:2006/08/22(火) 09:36:19 0
ドリームキャスト版じゃないのか。

577 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 16:24:20 0
やっぱ広い意味で十字軍もレコンキスタに含まれるのか?

578 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 17:46:57 0
全く違うと思う

579 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 20:40:10 0
ビザンツ(東ローマ)帝国が主体となって行えばレコンキスタと
言えなくも無い。
パレスチナやシリアは元々、ローマ帝国領だし。

でもローマカトリック圏のフランク諸国のは単なる侵略。
レコンキスタでも何でもない。

580 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 21:23:58 0
国土回復という意味合いで明確に区別すればそうなるだろうけど、
当時のキリスト教圏の人間の外に向かう気持ちというか危機感みたいな
根底にあるものは同じではない?
ヨーロッパ全体がイスラム反抗に盛り上がっていたというか。

581 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 22:38:50 0
そもそも「レコンキスタ」はイベリア半島の国土回復運動を指す用語。
ごたまぜにして使うべきじゃない。

582 :世界@名無史さん:2006/08/23(水) 22:52:22 0
レコンキスタって単に「再征服」と言う意味なのに、「国土回復運動」なんて
何か部外者の日本人が一方的に思い入れをこめたような意訳で気持ち悪い!

583 :世界@名無史さん:2006/08/24(木) 03:19:16 0
「レコンキスタ」の訳が「国土回復運動」ってわけじゃないぞ。
「レコンキスタ」と呼ばれた国土回復運動が起こったってことだ。

584 :世界@名無史さん:2006/08/24(木) 09:10:34 0
シリア、パレスチナの住民たちはもともとローマ側の支配は快く思ってはいなくて
ギリシア系の住民もアラム系と言うかセム系の現地の住民も新参者のローマを嫌って
隙あらばパルティアやサーサーン朝に寝返るか独立しようとして思ってたらしい。
ただ、ローマの軍事力は圧倒的なので実際に独立運動を展開できたのはユダヤ戦争の
ユダヤ人とかパルミュラ女王ゼノビアとか数は少ないけど。

イスラムのシリア征服が割り合い簡単に出来たのは、勿論ヘラクレイオス帝率いる
ビザンツ軍にアラブ軍が勝ったこともあるけど、エルサレムやダマスクスといった
都市の住民がコンスタンティノポリスから来た彼らよりも普段から見知ったアラブ系の
人々の方が親近感があったというのも大きいらしい。ビザンツ皇帝みたいに現地まで来て
ユダヤ教やキリスト教諸派の教義に首をつっこんでくるわけでもないし、何より7世紀当時
シリア、パレスチナ、メシポタミアではアラブ系の人々が都市部にまで進出していたって
こともあったようだけど。7世紀初めまであったシリアのガッサーン朝もアラブ系の王朝。

だから、十字軍の場合はローマがシリア・パレスチナに進出して来た時と同じで「侵略」の類い。
ただ、ローマの属領支配と違ってシリアで独自の政権を作ったのは大きいけど。

585 :世界@名無史さん:2006/08/25(金) 22:23:36 0
ガッサーン朝の族長、ジャバラ・イブン・アル=アイハムはヤルムーク戦後、
一旦はイスラームに帰依したが、マッカ巡礼の時に他の巡礼客と
トラブル起こしたのが原因で、イスラーム信仰を捨ててキリスト教に復帰し、
再びビザンツを頼ってカッパドキアで隠遁生活を送る。

586 :世界@名無史さん:2006/09/10(日) 02:19:35 0
   †

587 :世界@名無史さん:2006/09/23(土) 01:35:20 0
ttp://www.foxjapan.com/dvd-video/blu-ray/index_frames.html
映画『キングダム・オブ・ヘブン』ディレクターズカット版、11月10日
発売だそうです。

588 :世界@名無史さん:2006/10/09(月) 11:22:01 O
保守

589 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 18:30:41 0
ttp://www.foxjapan.com/dvd-video/cgibin/UserSearch/foxhe_search.cgi?page=detail&jan=4988142441324
キングダム・オブ・ヘブン/ディレクターズ・カット
Kindgom of Heaven Director's cut
未公開シーン約50分を追加した本編約3時間14分の究極バージョン!
「グラディエーター」のリドリー・スコットが真髄を魅せた全く新しい
「キングダム・オブ・ヘブン」がここに登場!

2006年12月01日発売(予定)
2枚組 ¥2,848(税込¥2,990)/FXBA-32429/4988142441324

590 :世界@名無史さん:2006/10/21(土) 23:50:28 0
オスプレイのByzantine Armies Ad 1118-1461って本を買ったが
ラテン帝国から帝都を奪還した後のビザンツは絶望的過ぎる。

591 :世界@名無史さん:2006/10/22(日) 00:04:47 0
絶望的なパラエオロゴス朝、今ごろローマ教皇の引用で想定外の脚光を浴びる事に。

592 :世界@名無史さん:2006/10/22(日) 00:18:51 0
>>591
マヌエル2世ですか。
息子のヨハネス8世の肖像を刻んだメダルの写真が>>590の本に載ってたけど
帽子と服がトルコ人風で笑っちゃったよ。

593 :世界@名無史さん:2006/10/22(日) 17:48:51 0
50ページで1700円も取るようなメンアットアームズをよく買う気になるもんだ

594 :世界@名無史さん:2006/10/23(月) 09:58:55 0
パレオロゴス朝軍の半分はトルコ兵
残りの半分はセルビア兵でできています

595 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 20:30:13 0
>>591
絶望的だからこそ記憶に残るんじゃないか。
ギボンでもユスティニアヌス以降、もっとも面白い王朝だと思う。

596 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 07:08:49 O
保守

597 :世界@名無史さん:2006/11/29(水) 19:40:36 0
関連スレ
ttp://tv8.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1155747763/l100#tag794
キングダム・オブ・ヘブン Part13
ttp://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1149949668/
キングダム・オブ・ヘブン DC(ディレクターズカット)版

598 :世界@名無史さん:2006/12/02(土) 02:43:27 0
エルサレムの攻防より1291年のアッカーの陥落の方が悲壮感があっていいと思うんですけど
イスラムへの敵視を招きそうなんで映画化は無理ですかね

599 :世界@名無史さん:2006/12/05(火) 02:27:54 0
ボードワン四世がエルサレム市内にムスリムが住む事を禁止したと言うのは事実ですか?

600 :世界@名無史さん:2006/12/05(火) 23:33:25 0
600ゲット

601 :世界@名無史さん:2006/12/27(水) 00:30:27 0
Crusader Kings

602 :世界@名無史さん:2007/01/08(月) 21:03:24 0
あげ

603 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 08:39:04 0
エリザベス・ハラム著「十字軍大全」、東洋書林、2006年を読んでいます。
284ページ、1190年の第三次十字軍のフィリップ二世とリチャード一世の誓約の説明で
「トウモロコシ」という単語が注釈無しに普通に出てきます。
南米原産のトウモロコシは、もう少し後の時代にならないと
ヨーロッパや中近東には知られていないと思うのですが、翻訳者の間違いでしょうか?
元の文章では、どのような単語が使われていて、本来は、どんな植物だったのでしょうか?
「商人は、転売目的でパンや小麦粉を購入することは出来ない。・・・
トウモロコシからパンを作る、あるいはトウモロコシを携えて海を渡って持ち帰るのは
その限りではないが、トウモロコシに関しても小麦粉と同様の処置が取られた。・・・」

604 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 09:18:05 0
>>603
原語が英語なのかどうか分からないけど
英語ならcorn(穀物)の間違いでは?

605 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 09:37:03 0
英語なので、おそらくそうですね。
ロンドンで2000年に出版した本の日本語訳なので、
原文(ラテン語とか?)→英語で穀物の意味でcornと訳し、それを、日本語訳のときに
単純に「トウモロコシ」と誤訳してしまったのでしょうね。
この後にも、まさに今読んでいるところに
「トウモロコシ」がでてきましたが、「穀物」とすれば違和感が無いので、ほぼ確実だと思います。
ありがとうございました。

606 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 12:43:19 0
翻訳者に世界史の知識が無かったようで

607 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 14:01:49 0
そんな本が出てるの気づかなかった
サンクス

608 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 18:40:54 0
民明書房だったんじゃね

609 :世界@名無史さん:2007/01/23(火) 20:15:24 0
民明書房なら支那の皇族の話になってるはずw

610 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 00:17:26 0
『十字軍大全』漏れも今読んでるっ!
第四回十字軍の冒頭のところ。

611 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 00:20:26 0
フィリップ・オーギュストは「病弱で神経質、残忍で冷酷、外交は二枚舌を使う」とか書かれててワロタw

612 :世界@名無史さん:2007/02/03(土) 00:53:23 0
メイフラワー号に乗ってきた入植者の日記に、「インディアンコーンが芽吹いた」という記述がある。
つまりメイフラワー以前から、コーンという英語があったんだ。

コーンビーフは、穀粒のように大粒の塩で漬けた牛肉なのでこの名がある。

613 :世界@名無史さん:2007/02/12(月) 20:17:02 0
age

614 :世界@名無史さん:2007/02/13(火) 00:03:10 0
コーンってもともと主要穀物のことらしいね
要するに主食のタネ
イギリスならウィート、アイルランドならオーツ
アメリカならメイズ(インディアンコーン)
日本はライスがコーンってことになるのかな 

615 :世界@名無史さん:2007/02/23(金) 09:30:21 0
>>611
最近はじめてアルビジョワ十字軍の経緯について読んだけど
思いっきりフランスの漁夫の利な展開で笑った

「オク語の国」の人たちって軍事的には弱体だったんでしょうか?

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