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「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る。

1 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/18(金) 09:51:24
現代は「無垢(フロンティア)欠乏の時代」といえるだろう。「大きなこと」はやり尽くされ整備され、
泥にまみれず歩けてしまう。無垢の欠乏は僕らに耐久的な強度を強いる。簡単にいえば、
動物園の動物的な「強度」である。

もはや生死を心配する必要もなく、豊かさと安全がついてくる。人々の中で、状況に合わせた
振る舞いということが儀礼的に共有され、それを反復するから、みなが安心できるのである。
求めていた究極がここにある。しかしここには、漠然な不安として、「何のために生きているの
だろう」という問いが現れる。

なぜ人は、安心に充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのであろうか。
これは、フロイトの「快感原則の彼岸」に対応するだろう。本来、環境からの刺激(本当の無垢)を
消費することで、刺激は低減され、安心としての快感は得られる。それに対して、人は安心に
充足できずに、自ら刺激(無垢の幻想)を生産し、消費するのである。

無垢を消費することによって、世界はよりマニュアル化されたさらに安心(反復)の世界となり、
さらに無垢は欠乏しいく。もはや「上から二冊目の本を買う」程度のことでしか無垢は見いだせない。
そして動物園の動物的な「強度」に耐えきれず、「転落」していく。

無垢の消費とは、主体の維持にかかっているのではないだろうか。群れの1個体、(偶有的存在)
ではなく、「私」という単体(単体的存在)としての充実を求めるということだ。だから「健全」な精神の
維持には、いかに「健全」に無垢を消費するかが重要になっているのだ。

2 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 10:53:38
2

3 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 12:07:11
無垢の説明が曖昧です
つまり、不確実性ということでしょうか?
人は不確実性を低減し、確実性を増して生きました。
そうすることで未来の不安を予測し制御してきたのです。
しかし、先が見えてしまうことほどつまらないものはありません。
そこで人は不確実性というスリルを志向するのです。
注意したいのは、そのスリルというのは
背後に安全性が潜んだ偶有性ということなんです。
死ぬか生きるかという自然界の不確実性ではなく
死なないという安全性の中におけるスリル
つまり、リアルから分断されたバーチャル世界への欲望なのですね。

4 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 12:27:55
鳥インフルエンザはどう考えるのかな?


5 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 12:30:20
ところで、ぴかあさんは社会学が専門なのでしょうか?
一つお聞きしたいのは水島久光さんの

「閉じつつ 開かれる 世界」

なんですが、いかんせんメディアですとかラカンですとかの
先入見がございませんもので、だいぶ前から手付かずです。
私は理論臨床心理学の学生なものでして、
あの本は何が言いたいのか解説してもらえませんか?

6 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/18(金) 13:42:10
>>3
さすが、心理学板住人?ものすごく的確な解説です。
死ぬか生きるかという自然界の不確実性=本物の無垢
死なないという安全性の中におけるスリル=無垢の幻想
ということです。

このスレの問題意識は、その先にあります。
「無垢の幻想」は、現代どのようになっていくのか、ということです。
いま「動物化」という現象が注目されています。例 「動物化するポストモダン」東浩紀
「動物化」とは、現代の豊かさ、娯楽などによって、人は「無垢の幻想」をもとめずとも、
充足してしまう、「(まだ野性が残る)動物園の動物から家畜になる」というようなことです。

この動物化を進めているのが、テクノロジーの発展、特に情報化、広義のコミュニケーションでしょう。
「無垢の幻想」という価値、そこに無垢があるという価値は、他者とのコミュニケーションによって
生まれます。たとえば人がブランド品をもとめるのは、みんながブランド品が欲しいだろうことに
よって、そこに達成すべきバーチャルな価値=無垢の幻想が生まれます。
しかしそのブランド品を購入しても、満たされません。なぜなら、「コミュニケーションは必ず
失敗する」ために、この価値は必ず、他者の欲望とズレ続け、欲望は延滞されるのです。

7 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/18(金) 13:42:40
それが、たとえば、情報化技術によって、延滞されずに、次々に欲しいものがすぐに手に入る
ことによって、ズレが縮まっている。
ゲームなどのバーチャルリアリティーが作られると、コンピューターと自分の疑似コミュニケーション
によって充足していく、ということが、「動物化」の意味ではないかと、考えています。

ここには二つの傾向が考えられます。「まったり」と家畜として充足していく。
もう一つは、より強迫的に無垢を欲望し、「檻の中で錯乱する」ようなこと。
最近のケータイや2ちゃんねるの繋がりを求める強迫性は、後者に近いのではないでしょうか。

>>5
「閉じつつ 開かれる 世界」 はボクも買いましたが、なかなか難物で眠っています。
問題意識としては、このスレと近いのではないでしょうか。
ボクは、ただのしろうとのラカン好きです。

8 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 14:28:59
あれ?
動物園の獣たちは檻に入れてあるから安全であって、
檻から一歩出れば怖いんだけどなー。
飼育係がライオンに殺されたとか、サファリパークで車から降りてトラにやられたとかたまにあるぞ。
松嶋トモコしかり「かわいそうなゾウ」しかり。。。
二つの傾向って本当かなー>>7

9 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 14:58:45
野生が残っている動物園の動物と
家畜の区別でしょうが。

10 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 17:50:00
難しい問題ですね

私たちはただ本能の赴くままに行動し
自己の遺伝子を媒介するだけの存在に成り下がるのでしょうか?
かつて人類は文字の発明により
言語をモノのように環境・時間から切り離しました
今度は人のリアリティーが環境・時間から切り離されようとしています
我々のリアリティーは、何かしら現実世界との接点の上に
立ち上がっているものなのです
しかし、それが崩壊しつつあるのです
これは、脳と精神の成長過程にある子どもに顕著にあらわれています
ある程度、出来上がっている大人にはうかがい知れない世界がすぐそこ迫っているのです


11 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/18(金) 18:16:32
ボクは実はそちらはあまり心配していないんです。
すなわち人が動物になってしまうのではないか、ということは、なかなかないだろう。
たとえばなぜ人のような人工知能はできないのか、ということです。
現実的には遺伝子操作は恐いですが、最近は人は遺伝子と環境によりできるといわれています。
ボクがいまの気になるのは中途半端な動物化です。完全に動物として充足させてくれれば良いのですが、
たとえばゲームなどて刺激を与えて、肥大した欲望はどこにいくのか
2ちゃんねるで一時期楽しく会話する興奮する、そのあとの虚無感はどうするのか?
それはさらに刺激を求めることへ向かうしかない。
だから一つの倫理として健全な無垢への欲望が必要だろう、ということです。

12 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 22:11:49
ん?

13 :没個性化されたレス↓:2005/11/18(金) 22:14:19
http://www.minuet.demon.co.uk/ademo_25.mid
http://www.ffshrine.org/ff5/ff5/ff5-1-09-requiem.mid

14 :没個性化されたレス↓:2005/11/19(土) 00:55:19
人の動物化うんぬんの話ですが、
あまり過剰に気にするほどのことではないと思います。
社会学者という生物は、ちょっとしたことを大きく引き伸ばして
あたかも大きな問題であるかのような錯覚を
人々に起こすのが得意です。
まあ、それが彼らの仕事なのでしょう。
確かにIT革命というかつて経験したことのない
大変革の真っただ中にいますが、
その中で人はうまく適応していくのだと思います。
考えて見れば、数万年前から人の脳を含む身体は
生理学的にほとんど変化がないわけです。
劇的に変化したのは環境なのであり、
我々はその変化になんなく適応しているではないですか。
人が生み出すものであれば、人はそれにうまく適応できる
可塑性を有しているということだろうと思います。

15 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/19(土) 01:41:56
>>14
フロイトはそうですか、社会的状況による、自我の危機みたいな
ものは、いつも時代も言われますね。
たとえば、少年犯罪があると、時代性が言われます。

ボクの実は、適応できるだろう、という楽観的に考えたりも
していますが、願望も含めて、
たとえば、ネットのような新たな状況は人をどのように変えるのか、
いうことに興味があります。

16 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/20(日) 01:17:05
なぜ無垢は汚物なのか。


まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために
「無垢」を欲望します。なぜ「無垢」を求めるのかというと、それが処女地(フロンティア)だからです。
そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として
承認され、充足されます。たとえば、だれも登ったことがない山を一番に登ることによって、彼には、
初登頂、初征服した唯一な存在としての名誉が与えられ、充足が得られます。

たとえば、大航海時代には、みなが未開地を求めて世界へ旅立ちました。それによって、アメリカ大陸は
発見され、発見者に名誉が与えられます。しかしここでおかしいのが、原住民がいたのになぜ発見
なのか。それは西洋的なコミュニティの価値として、アメリカ大陸はフロンティアであり、発見だって
わけです。だから、だれも登ったことがない山を一番に登ることの価値も、それが価値あることだと、
承認するコミュニティが必要です。アメリカ大陸発見者の名誉なども、原住人にしてみれば、なにを
言ってるの?ということになります。ここでいう未開地が無垢なのですが、それが無垢であるという
価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、ボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。

17 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/20(日) 01:17:30
「無垢の幻想」として、物理的な処女地をあげましたが、コミュニティ内にそれを行うことに価値があると
いうときすべてに「無垢の幻想」が生まれます。たとえばある算数の問題が解けることにしろ、新品の
靴を買うことにしろ、誰かとコミュニケーションするにしろ、属するコミュニティが、そこに価値を認める
ときに、小さな「無垢の幻想」が生まれ、それをすることで、小さな充足をえるのです。小さなところでは、
「上から二冊目の本」を買うことから、大きなところでは、オリンピックで優勝するなど、より多くの人が
欲望することほど、大きな「無垢」があり、それを達成することで大きな充足が得られます。しかし
どのような無垢を征服しても、人が完全に充足することはないので、人は一生欲望し続けます。

現代では、大きな無垢がなくなってきています。なにをやってもすでに誰かがやってきたことでしかない。
特に社会的な価値という大きなコミュニティの価値ではそうです。だから人々は無垢を求めて、
コミュニティを細分化させています。たとえば、オタクの中で有名な声優と握手したというの価値は、
オタク以外の人々には価値がありません。しかしオタクたちにはものすごく大きな名誉でありえます。
このように小さなコミュニティ内で、小さいながらも、誰もやっていない無垢へ、よりディープへ向かって
います。

18 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/20(日) 01:17:51
現代で、特に若い人が、家庭や学校などで言われる社会的な価値に興味がもてないのは、そこには
無垢が見いだせないからです。そして若い人たちは、無垢を求めて、オタク、ネット、ファッションなどの
より趣味的な小さなコミュニティに向かいます。

たとえば「女たちはなぜパンツを見せるのか」の中で言いたかったのも、このようなことです。若い女性
たちが、無垢を求めて、ファッションへよりディープへ向かうとき、外から見ると、非常識、グロテスクに
見えます。特に若いときは過剰に自分の価値を求め、ディープな方向に無垢を欲望しますので、
社会的な価値観からはグロテスクに見えます。そしてオタクや、ギャルが気持ち悪いのは、その
ディープさゆえです。それをボクは「汚物性」と呼んでいます。

19 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/20(日) 01:32:58
そしてこのディープな方向とは、より細分化された価値の誰も到達していない無垢へ向かうことであり、
それが社会的に禁止され、タブー視されているところであるのは、当然ともいえます。たとえば
「女たちはなぜパンツを見せるのか」の中で言いたかったのも、このようなことです。若い女性たちが、
無垢を求めて、ファッションのディープへ向かうとき、外から見ると、非常識、グロテスクに見えます。
それは社会的に女性が下着であり、肌を露出することはいけないというタブーへ近接するから
無垢であるのです。特に若いときは過剰に自分の価値を求め、ディープな方向に無垢を欲望します。
古くは不良少年が犯罪をするのも、あるいは女子高生がスカートを短くするのも、オタクが幼児を
ロリコンとして性の対象とするのも、タブーへの近接であり、過剰な無垢への欲望です。それをボクは
「汚物性」と呼んでいます。

20 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 02:24:55
見えない自由がほしくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ

21 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 03:01:41
Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slither wildly as they slip away across the universe.
Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind,
Possessing and caressing me.
Jai guru deva om.

Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

22 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 03:02:20
Images of broken light which dance before me like a million eyes,
Thay call me on and on across the universe.
Thoughts meander like a restless wind inside a letter box,
They tumble blindly as they make their way across the universe.
Jai guru deva om.

Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

23 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 03:03:03
Sounds of laughter shades of love are ringing through my open ears,
Inciting and inviting me.
Limitless undying love which shines around me like a million suns,
It calls me on and on across the universe.
Jai guru deva om.

Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

24 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/20(日) 03:12:42
なぜにレノン?

25 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 03:47:12
ぴかぁ〜は哲学板の糞コテです。迷惑かけてすいません。

26 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 04:04:28
そうかな?

27 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 23:13:13
ぴかあさんの外部観測はすばらしいものがあります。
ですが、、何か違和感を感じるのも事実です。
それは、、内部観測ができていないからです。
とっても、、これはなかなか難しい技術ですよ。
天才セラピストでないとできない芸当かもしれません。

28 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 23:24:47
「内部観測」はすでにテクニカルタームとしてあるから、別の言葉を使うが良い

29 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 23:27:56
>>1

『 愛することと働くこと ( Lieben und Arbeiten )』

by ジグムンド・フロイド


30 :没個性化されたレス↓:2005/11/20(日) 23:31:27
>>28
それでは、あなたのその内部観測を説明してみてください。
説明ですよ。

31 :没個性化されたレス↓:2005/11/21(月) 00:05:34
集団ストーカーというのがよく話題になりますが、これを実施しているのは警察です。
部落民・朝鮮人というのは秘密の連絡網を持ち、秘密結社を形成していますが、
公安警察がこれを利用しています。
公安警察というのは部落民と朝鮮人によって成り立っていますが、そのネットワークを利用して、
一般人に嫌がらせをするというのが、集団ストーカーの正体です。
標的がどのようにして選ばれるのか、そういったことは不明です。
よって、集団ストーカーの被害を警察に訴えても、全く無意味です。
北朝鮮問題の解決とは、警察を北朝鮮の影響下からいかに脱却させるか、ということでもあります。


32 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/21(月) 01:52:23
>>27
この当たりよくわかりません。
「内部観測」とはなんでしょうか。どのような分野の言葉ですか。

33 :没個性化されたレス↓:2005/11/21(月) 12:08:27
観察者がシステムそのものが形成する位相的領域へと入っていくことです

34 :没個性化されたレス↓:2005/11/21(月) 17:27:25
しどうあげ

35 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/21(月) 18:11:53
内部観察ですか?
ラカン的にはメタ言語は存在しないみたいなことでしょうか
ボクの言説の関係がいまひとつわかりません。
ボクが語るような、俯瞰した位置などない。みたいなことですかね。

なお、某所でトリップがばれ、変更しました。


36 :没個性化されたレス↓:2005/11/21(月) 22:56:10
>>35
話せば確実に長くなります
詳しくは松野孝一郎氏の著書を読んでもらうしかないですね
ぴかあさんは、オーポエを一通り学んでいるようですので
すんなり浸透してくると思います。

37 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 00:45:28
>>36
オーポエ、アフォーダンスに近いのですね。
しかしそれと、ボクの言説との関係がいま一つわからないのですが。

38 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 00:59:18
なぜ芸術は人々の魂を揺さぶるのか

「孤独な箱」の中の私

ボクは「コミュニケーションは必ず失敗する」といいました。ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」
として示されるように、言語は不完全なコミュニケーション手段であり、またある人がいった言葉の
(本当の)意味を、完全に人に伝えることはできません。そのような意味で、ボクたちはそれぞれが
隔離された「孤独な箱」に閉じこめられた存在であると言えます。

ボクが「まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めている」というのは、
このような意味です。

>>
まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。
そのために「無垢」を欲望します。・・・そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、
すなわと他者とは違う、唯一な存在として承認され、充足されます。・・・それが無垢であるという
価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、だからボクはこれを「無垢の幻想」と
呼んでいます。

「無垢」はなぜ「汚物」なのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051123
<<

私が孤独であるのは、私だけでは、欠けた私を充足できずに、他者の(コミュニティの)承認を
求めているが得られないためです。そのような意味で、ボクたちはそれぞれが隔離された
「孤独な箱」に閉じこめられた存在だということです。

39 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 00:59:54
芸術というコミュニケーション手段

このために、コミュニケーション手段は、言語を越えています。顔の表情であり、涙を流すであり、
行為による感情表現や、スキンシップなど様々な方法によって、言いたいことを伝えようします。
そして芸術とはこのような言語を越えたコミュニケーション手段の一つではないでしょうか。

たとえば詩は読んだままの(コンスタティブな)意味では決して伝わらない意味を、その行間、音感、
見た目など、抽象的な表現によって、パフォーマティブに意味を伝達しようとします。このような詩や
小説などの言語表現だけでなく、絵、動画、ダンスなどの視覚、音楽などの聴覚などによって、
「孤独の箱」の間で、少しでも意味を共有し、ともに感動し、ともに笑うことが求められます。


芸術の「大衆性」と「芸術性(自己探求)」

芸術には、大衆へ広く受け入れられることを狙った「大衆性」と、大衆受けを重視せず、自分の
表現したいものを表現するというような「自己探求性」があります。特に「芸術性」と言われる
ときには、後者の「自己探求」としての芸術を指すのではないでしょうか。これらは二項対立する
ものではなく、どのような芸術の中にもあるバランスとしてあるものでしょう。

そして、特に芸術の「大衆性」の追求は、より多くの人々に比較的容易に共感しやすいように、
社会的なコミュニティ内部の価値、すなわち「無垢の幻想」が演出されます。

40 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 01:00:26
「芸術性」という崇高さ

それに比べて、「芸術性」の探求は、社会的なコミュニティ内部の価値、(無垢の幻想)を解体する、
すなわちそれは自分の内部にある社会的なコミュニティ内部の価値、(無垢の幻想)を解体し、
自分の感性の核心、「本当の無垢」へ向かうような行為です。芸術家の利己的な自己探求であり、
表現者の内部へと向かうような孤独な行為です。

これは、デカルトが疑えないものを思考し、「我思う故に我在り」という境地に達したものに似ています。
しかしデカルトの懐疑は、「疑えるものの深層を目指す」というような明確な問題意識をもった、
いわば言語という価値の中での探求であるのに対して、芸術家の探求は、漠然とした不安であり、
孤独であり、根元的な飢餓感から、自分がどのような問題意識をもち、なにを求めているの
かもわからないにもかかわらず、表現せずにはおれない衝動でしょう。

しかしこのような「芸術性」の高い作品が、人々に深い共感を与えるという逆説が起こります。
それは、芸術家が自己の内部へ向かい、人の感性の核心、「本当の無垢」に近接するところを
表現することによって、「孤独な箱」に閉じこめられたボクたちが、本来、決して共鳴しえないだろう
深いところで共鳴し、人々は自分でもわからないうちに「孤独な魂」を揺さぶられるからではないで
しょうか。

このような意味で、芸術の「大衆性」が「無垢の幻想」による容易な共鳴であるのに対して、芸術の
「芸術性」は「本物の無垢」の深い共鳴を呼び、「崇高」なものとされるのではないでしょうか。

41 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 01:01:01
「アウラ」という幻想

しかしこれは形而上学的、あるいは「アウラ」的な芸術の理解かもしれません。時代性、空間性の
コンテクスト(状況)を越えたところ、「無垢の幻想」を解体しところにあり、ボクたちの魂をふるわ
せるような「本当の無垢」という超越的なものは、存在するのでしょうか。たとえば、名画といわれる、
ダビンチの「モナリザ」や、ゴッポの「星月夜」などなどによって、現代の西洋文明から離れた人々、
歴史的に西洋文明を隔絶した人々の魂も震えるのでしょうか。

ポストモダン的にいえば、時代性、空間性に毒されていない、すなわちコンテクストに依存しない
「本当の無垢」などないということです。だから「芸術性」の崇高さとはあくまで、時代性、空間性の
コンテクスト(状況)に依存したところでの、コミュニケーションでしかありません。

多くにおいて芸術性と言われる芸術作品は、その芸術家の生き様とともに流通することが多いのも
事実です。ボクたちはその芸術作品の崇高さを、この作品に崇高さを感じるというよりも、その
芸術家がどれだけの魂を込めて、その作品を作ったかという事実とともに、この作品が「崇高である」と
学習することが多いのも事実です。


芸術作品という「汚物」

歴史的、空間的に、どのような文化にあっても、コミュニティ内で芸術には価値がもたれたのでは
ないでしょうか。現代においても、芸術作品は、より大衆化したとは言え、楽しまれ、感動を生み、
時に魂が揺さぶります。そして芸術家は決して到達しないだろう「本物の無垢」を求めて、表現し
つづけるのです。

それは、芸術表現が、言語を越えた「孤独な箱」間の有効なコミュニケーション手段であり、そこに
作動するのが、「無垢の欲望」であるからです。そして多くにおいて、革新的な「芸術」は、過剰で、
社会的タブーを越えた「汚物」なのです。

42 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 02:53:39
これは>>1の持論なの?
どこかで見聞きしたような内容にしか思えないのだが。

43 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 03:03:44
うーん、何度読んでも誰かがどこかの著書で言っていたような内容だ。
この板には、岸田秀の唯幻論そのまんまを
まるで自説のごとく開陳する輩もいるからなぁ。
よくそんな破廉恥な真似が出来るもんだ。

44 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 07:09:28
芸術に関しては、茂木氏を参考にしてみて下さい
芸術から村上たかし的なコンテクストを排除し
普遍的な美、すなわちクオリアにより必然的に
脳内に立ち上がる美を提唱しています

45 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/22(火) 08:02:50
>>42-43
持論でもありますが、ベースはラカンです。
そしてラカンからインスパイアされた方は多数います。
ラカンは難解、抽象的なので、インスパイアしやすい。
似ているようなものは、他にもあるかもしれません。



46 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 15:42:05
しどうあげ

47 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 21:05:32
いまいち納得がいかない。
どういう集団層をターゲットにしているのか?

48 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 22:28:00
一部当てはまる人がいて、その人たちがなるほどと言ってくれれば
それでいいんじゃないの。

納得できないひとは、無視するのが常ですし。

49 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 22:44:30
>>45
ぴかあさん
ラカンを学ぶには、ラカンのどの著作から入るのがよろしいですか?

50 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 22:59:59
数も数えず論じることが、不安な俺には、だめだわ。

51 :没個性化されたレス↓:2005/11/22(火) 23:23:26
>>50
意味が不明瞭です。
具体的に書いてください。

52 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:08:30
>>49-48
ボクも、説得でなく、共感をモットウにしています。

53 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:12:48
>>49
ラカンの著書を読んでもまず理解できません。
ラカンの著書は、様々な読みができる超難解なものです。

だから入門書から入るのですが、様々な読みができるために、
入門書も難しい、言っていることが違う。
とにかく困った思想なのです。
一番無難なのは、「現代思想冒険者たち ラカン」福原 泰平
当たりではないでしょうか。

54 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:16:50
*なぜ「ネオ形而上学的思考」なのか?

形而上学/ポストモダン/ネオ形而上学

ボクの言った「本物の無垢」のような、超越的な「起源」は幻想であり、「否定」すること。これは
ニーチェから始まり、構造主義、ポスト構造主義へと続く、「差異の思想」ではないでしょうか。
たとえば、デリタの差延、脱構築、ドルゥーズの反復と差異のように、(形而上学的な)超越的「起源」
という中心をずらすこと。さらにはここにニーチェの「笑い」も続くでしょう。「深い理解を、感動を、
共感を示しながら、なおこれを笑いうること」とは、対象に没入しつつも、それに距離をおいて見ると
いう距離、すなわちアイロニーを持ち続けることです。超越的中心からの差異、距離。これが
形而上学に対するポストモダン思想です。

ここでボクは、ボクの考えを示すために簡単な構造を示したいと思います。すべてがこのような
簡単な構図で説明できるわけではないですが。

@形而上学的思考・・・「真の」、「本当の」など超越的な起源と受け入れる思考
Aポストモダン的思考・・・形而上学的思考(「真の」、「本当の」など超越的な起源)を疑い、
差異を思考する。 
Bネオ形而上学的思考・・・これがボクが思考しようとするものですが、ポストモダン的思考
(形而上学的思考への疑い)の継続することが不可能であり、結局、どのような思考も形而上学的
思考に回帰する。

55 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:17:20
ポストモダン思考の滑稽さ

ボクが、前回、芸術について言及した*1のは、芸術が「神が死んだ後の」現代においても、もっとも
有効な信仰の形態の一つとして機能しているからです。たとえば、名画などへの人の思い入れは、
神性なものですし、コンサートなどはまさに信仰的な集会です。アーティストを信仰し、みなが
陶酔する、感動する。

さらに現代の信仰の代表的なものが「恋愛」です。たとえば、ある女性に恋をした。寝ても覚めても
彼女のことを思ってしまう。しかしなぜその女性なのでしょうか。無数にいる女性の単なる一人であり、
また別の彼女である可能性はいくらレもあるはずです。この「熱い想い」について、「真の」、「本当の」
という起源を疑う、「否定」する、ズラす、アイロニー(距離)をもって対応する。これはとても滑稽
ではないでしょうか。

ボクは「デリダも必ず恋をする」と言いました。神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、
彼女への思い、家族への思いは、同様な原理で作動しているのではないだろうか。ポストモダン的
思考は、思弁的にはよくわかるのですが、このような「滑稽さ」がつきまとい、「デリダも必ず恋をする」
すなわち「脱呪術化という呪術化」をする。それが「無垢への欲望」という「孤独な箱」に断絶された
人々の飢餓感です。これが、ネオ形而上学的思考の前提です。

56 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:17:43
ポストモダンというテクノロジーの進歩

しかし多くにおいては、ニーチェも含めた、ポストモダン的思考は、「発明」ではなく、「発見」
なのではないか。ニーチェの時代は、まさに進化論、古典物理学への懐疑など、時代が相対化へ
向かっおり、その中にニーチェはいました。形而上学的思考への「否定」の思考をニーチェであり、
その後のポストモダン思想家が考え出したというよりも、たとえばリオタールの「ポストモダン」や
「大きな物語の凋落」という名付けのように、時代が宗教的な神を必要としなくなり、大きな
イデオロギーにリアリティーがなくなったことを、歴史家のように表記しただけではないのか。

そしてこのようなポストモダン的な、差異化される時代性を作っているのは、「テクノロジーの進歩」
ではないのか。テクノロジーが進歩し、情報化されることによって、社会的な価値観は、かつての
ような形而上学的な絶対性を維持することが困難になっているのではないか。

ボクは「デリダも必ず恋をする」と言いましたが、また、「デリダの恋も必ずいつか冷める。」とも
言いました。ポストモダン的思考の本質とは、意志をもって、形而上学的思考を「否定」する
(「この恋は本当は幻想なんだ」と考える)のではなく、「テクノロジーの進歩」、情報化が、様々な
恋する機会(作られた可愛さというアイドル、、作られたエロのエロビデオ、あるいは出会い系による
性関係の増加などなど)を増加させることによって、形而上学的な「純愛」を不可能にしている
ことではないのか。

特に、テクノロジーの進歩の先端として、ネットにおいては、主体はより散乱する傾向があるとも
言われています。形而上学的な自己同一な主体像を保たれずに、主体がポストモダン的に
散乱するとも言われます。

57 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 01:18:04
「健全」な形而上学的思考に健全な精神は宿る

このような考えには、様々な問題があります。思想界のファシズムへのトラウマは根深く、
形而上学的思考を疑い続けることは、強迫的で、容易に形而上学の回帰は許されないでしょう。
しかし「孤独な箱」に断絶された人々は、ポストモダン的な否定の否定の否定・・・という形で、
「無垢への欲望」がズラされ、延滞され、価値が発散し、飢餓感が増しおり、逆に大きく転倒して、
ファシズム的な信仰へ猛進する危険もあるのです。それが、オウムであり、最近のネット右翼化など
の傾向とも言えます。だから、むしろ守られるべきは、「健全な」形而上学的思考なのではないか。

「本当の無垢」を求めた、神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、彼女への思い、
家族への思いを、疑い、ズラす必要などない。「「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る」
というのが、ネオ形而上学的思考の視点です。そして「ヘタレイズム」もここに繋がります。

58 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 02:10:49
同じ事欠くなよ

59 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 02:31:23
もっともわかりやすいラカンで、ネット読めるものに、
「生き延びるためのラカン」斉藤環
http://www.shobunsha.co.jp/
があります。



60 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 05:58:26
タマキンかよ・・・

61 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 11:41:02
しどうあげ

62 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 11:53:38
■続なぜ「ネオ自然主義」なのか
■ネオ自然主義

>>
@形而上学的思考・・・「真の」、「本当の」など超越的な起源と受け入れる思考
Aポストモダン的思考・・・形而上学的思考(「真の」、「本当の」など超越的な起源)を疑い、差異を
思考する。 
Bネオ形而上学的思考・・・これがボクが思考しようとするものですが、ポストモダン的思考
(形而上学的思考への疑い)の継続することが不可能であり、結局、どのような思考も形而上学的
思考に回帰する。無理な懐疑でなく、形而上学的思考の救済を目指す。「ヘタレズム」

なぜ「ネオ形而上学的思考」なのか?
<<

このような構図はあまりに単純すぎますが、ボクの問題意識を明確にするために用いています。
ボクの問題意識は、「デリダも必ず恋をする」、「デリダの恋も必ず冷める」で表せます。

「デリダも必ず恋をする」は、ポストモダン的思考のように、ズラしいくことの限界を示します。これは
「認知限界」にも繋がります。いわばこれは円滑な記憶(伝達)システムであり、物理学的には
「エントロピーの増加」に対応します。

ポストモダン的思考のようにズレつづけることは、あたらな情報を取り込んで行くことを意味します。
しかし人は「認知限界」から、情報処理能力に限界があり、「複雑性の縮減」によって、なんらかの
(形而上学的な)単純な図式によってしか、理解できません。すなわち形而上学的思考は、人間の
生理的なシステムにも見合っているのです。

「デリダの恋も必ず冷める」は、形而上学的思考を保持することの限界を示します。いわばこれは
記憶(伝達)の消失=「忘却」であり、物理学的には「エントロピーの減少」に対応します。

「認知限界」からくる「複雑性の縮減」でいえば、次々にくる情報を処理する中で、古い情報は捨てて
行かざるおえない。特に情報処理社会では次々と新たな刺激的な情報が送り込まれ、特的の
(形而上学的な)単純な図式に固執することができません。

63 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 11:59:25
■カオスの辺縁

このように、ボクが言う「ネオ形而上学」とは、いかに、現代において、一つの人の生理的なシステム、
あるいは社会システムが作動し、そして「健全」に維持されるか、を問題にします。それが、「「健全」な
無垢への欲望に健全な精神は宿る」ということです。だからボクはかつて「ネオ自然主義」と呼び、
またこのような主体の維持を「カオスの辺縁」として示しました。

「カオスの辺縁」というのは、複雑系の科学者カウフマンの言葉で、秩序相とカオス相との中間付近の
自己組織化が起こる場所です。すなわち主体システムの維持は、適度な秩序(いわば形而上学的
単純化)とカオス(いわばポストモダン的差異)によって行われるのです。(これはまさにドルゥーズの
「反復と差異」に対応します。)

そして「カオスの辺縁」は、綱渡りのような状態であり、秩序(いわば形而上学的単純化)へ向かい
過ぎても、カオス(いわばポストモダン的差異)に向かいすぎても、破綻します。

>>
生命が存在し、かつ進化してゆくためには、秩序(形態)の維持と新情報(新形態)の創発という相反
する2条件がともに必要であるが、秩序相は形態の維持には好都合だが新情報の創造性には欠け、
カオス相は情報の創造力に富むがともすれば秩序維持にはむかない、というディレンマが生じるのだ。
そこで生命秩序にとっては、秩序維持と情報創発という2つの条件をともに満たす場として秩序相と
カオス相との中間付近のきわどい領域が自己組織性全般のなかでもとりわけ重要な意味を持つ。
この領域をカオス辺縁と呼ぶ。カウフマンによれば、このカオスの辺縁こそ進化能が最大となる
領域なのである。

自己組織化とはなにか 吉田民人編著 ISBN:4623025608
<<

64 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 12:03:35
■ネット社会における主体維持

かつては、テクノロジーが発展する前は、カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が少なく、
ゆっくりとした秩序(いわば形而上学的単純化)が進んでいました。しかし現代の情報化社会では、
カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発すぎて、秩序(いわば形而上学的単純化)維持に
懸命です。ネット社会において、特にカオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発になって
います。

>>
部族社会の小さな共同体においては、諸個人は誕生から「知られて」おり、日常の経験によって
同一性を再生産するような広大な親族関係の構造の中に組み込まれている。こうしたコンテクスト
において、主体は社会的であり、相関的な自己として構築され、再生産されている。都市においては、
対照的に、諸個人はそのような同一性の再生産から引き離されているが、ここでの会話は、
情報様式以前には対面状況的な位置を必要としており、それゆえ個人を特定する身体的な
「署名」をされており、必要ならば実際の同一性は後から召喚することができるのである。書き言葉と
印刷によって、同一性はコミュニケーションからさらに取り除かれるようになったが、著者性は、
たとえ筆名であっても、同一性を固定する役割を果たした。コンピュータのメッセージ・サービスと
共に、言語使用は根源的に伝記的同一性から分離されたのである。同一性はコミュニケーションの
電子的ネットワークとコンピュータの記憶システムの中で錯乱したのだ。

情報様式論 THE MODE OF INFORMATION マーク・ポスター (1990)
<<

65 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 12:04:19
このようにネット上では、ネカマ、あるところでは子供などなどが容易に使い分けられるために、
主体の散乱、疑似多重人格性が言われます。しかしボクは、現実起こっているのは、逆では
ないだろうか、と考えています。 カオス(いわばポストモダン的差異)の進入が活発になるから、
逆に秩序(いわば形而上学的単純化)=自己同一性を保とうとする、懸命に「本当の自分」を
求める、(これを「ヘタレ化」と呼びます)ということです。

たとえはのまネコ問題が宗教的であるのは、2ちゃねらーが、2ちゃんねるという場に対してマジに
思い入れがある。それは、2ちゃねらーである自分へのプライドであり、自己同一性への渇望です。
ネット上で様々に「炎上」が起こっているのも、白熱するのは議論の相違ではなく、賭けられているは、
プライドともいえる自己同一性の維持です。あるいは「電車男」の物語のような「おまいら」の繋がり、
正直さには、社会的な自分よりも、本当の自分がここにいるということの表れです。

66 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 12:04:58
■哲学の終わりとヘタレの可能性

このように「ネオ形而上学」、あるいは「ネオ自然主義」において、形而上学もポストモダンも本質は、
「思想間の闘争」というよりも、「主体と環境との闘争」なのです。だから哲学的よりも精神分析的です。
その根底には「歴史の終わり」、そして「哲学(思想)の終わり」があります。もはや哲学(思想)は闘う
べき敵を失った「議論ゲーム」としてしか維持されていない。世界の様々な境界は失われ、混沌
(カオス)とした透明な(資本主義的な)秩序によって維持されて、その中で主体システム、あるいは
人々(マルチチュード)はいかに生きるのだろうか。

「議論ゲーム」において、イデオロギーであり、右翼左翼などはあるのでしょうか。エリートとヘタレの
差異さえも不明確です。だからといって、悲観的になっているわけではないのです。それでも主体は
懸命に生きていくし、社会秩序は懸命に保たれようとしてる、そして今まで哲学家、思想家などの
エリートのみが与えられていた発言権が解放され、ブログレベルでヘタレたちの様々な言説に
溢れ出している。ネット社会はまだ始まったばかりで、ヘタレたち(マルチチュード)への可能性に
満ちています。

67 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 20:32:32
しどうあげ

68 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 21:53:41
なんかゴチャゴチャしすぎですね。
もしかしたら、文章能力が弱いのかも知れませんね。
文章には脳内の表象操作活動がモロに反映してきます。
つまり、自分自身できちんと思考過程の整理・分類が出来ていない証拠として、
それがゴチャゴチャした文章として表出しているのでしょう。

69 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 22:25:19
それこそ「汚物」でしょう。
「汚物」はいつも醜悪で、そして核心なんです。

70 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 22:52:26
つまり、汚物とは頭の弱い人(馬鹿)のことなのですね?

71 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/23(水) 23:05:02
ある意味。

72 :没個性化されたレス↓:2005/11/23(水) 23:27:48
>>71
なるほど、ある意味それは理解出来ます。
歴史学の成果によると、常に時代を切り開き新しい世界(パラダイム)を築くのは
優等生ではなく、キチガイなのです。
そう、数学的に表現すると正規分布の両恥ですね。
一方の端は世界を混沌(カオス)に導き、
他方は世界を秩序(ノモス)へといざなう。
このキチガイ進化論と呼ばれているものに近い気がしないでもありません。

73 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 03:10:53
>>72
もう少し学習が必要でしょうが、まあ、そんな感じですね。
「汚物」は社会の外ですから、常識的にキチガイとして現れる。


74 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 12:38:37
たとえばボクはタバコをやめて一年以上たちましたが、たばこを吸いたくなります。
おそらくどんなにたってもたばこを吸う前には帰れない。
これはニコチン中毒とはちがいます。欠如とはこういうものでしょう。

75 :没個性化されたレス↓:2005/11/24(木) 22:16:37
そうかな?

76 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:42:14
■なぜ「カオスの辺縁」なのか。
■「カオスの辺縁」とラカン的主体

たとえばこの世界になぜ秩序があるのか、と言う疑問があります。この精巧な宇宙であり、生命
などなどのシステムはどこから生まれたのか。これには今のところ二つの答えしかないと思います。
一つは神(超越的な意志)と、もう一つは自己組織化です。自己組織化とは、すべてが偶然の世界
の中である確率で生まれる秩序です。そこにはどのような意志も必要なく、ただ生まれてくるのです。
このような現象はすでに科学的に確かめられています。すなわちアダムスミスの「神の見えざる手」
です。

ボクがいったカオスの辺縁は、混沌と秩序のバランスを保つことによって、自己組織化(簡単に言えば
成長)を生むシステムなのです。混沌(カオス)とは、予測できない不規則性で、いわば外部です。
秩序は規則性で、いわば内部です。内部の秩序だけでは、変化はおこりません。ただ静の世界です。
そこに外部から予測できない不規則性が進入することによって、外部と内部の境界(カオスの辺縁)
で自己組織化がおこります。

この世界の成長する秩序、生命、進化、主体、社会、宇宙などなどすべてが、カオスの辺縁であり、
これらが階層的に、そして複雑に絡み合い作動している。たとえば、海の作動を考えると、海流など
地球規模の秩序で作動をしていますが、微視的には一つの波の発生にも秩序があるというような
イメージでしょうか。

77 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:42:51
カオスの辺縁としての主体システムについて、以前ここで検討しました

>>
ラカンの構造のダイナミクス・・・象徴的なものを文化,現実的なものを自然と言い換えれば,文化の
秩序はそれをはみ出した自然の秩序に接することで活動し続けている。

主体は原抑圧を経て象徴界を獲得するのだが,象徴界は,それだけ取り出せば,諸項の差異と
結合の規則のたんなる集積にすぎず,いわば死せる構造,「アウトマトン(自動機械)」である.
象徴界に参入することで設立された主体が作動するのは,象徴界から逃れていくもの=現実的な
ものとの出会い,「テュケー(偶然性)」の次元があるからである(Lacan1973=1998).

[お勉強]精神分析的主体のオートポイエーシス大光寺耕平(2001) 
<<

ここで、主体システムを、秩序/混沌(カオス)=象徴界/現実界としてしめしました。たとえば主体
という内部の境界はどこにあるのか。この考えで行けば、境界はないということになります。現実界と
象徴界の接触部に主体は生まれる、ということです。たとえばこれは社会にもいえます。人間文化/
自然(環境)であり、この境界に社会が成長しつづける。では、主体システムと社会システムの
位置関係はどうなっているのか。これは物理システムではありません。位相システムですので、
様々に重複し、複雑に作動しているとしか、いえないのではないでしょうか。

78 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:43:16
■ラカンにおける「自由意志」の位置

では、ラカンにおいて、「個人性」、「自由意志」はどのように確保されるのか。ボクの考えでは二つの
意味で「個人性」は確保されると思います。ます象徴界を社会性と考えると、その人の経験によって、
それぞれの社会性があると思います。まったく同じ社会性は存在しない、ということで、「個人性」が
現れます。

もう一つは、主体の「自由意志」は象徴界ではなく、現実界に存在すると思います。個人がなにを考え、
するのかは、象徴界(社会性)を通して行われるとしても、その根底は、欲動として現実界に存在
します。簡単にいえば、「なぜ〜をしよう」と思ったかは、自分でもわかりませんし、必ずしも自分で
コントロールできるものではないが、そこに自由意志はあるということです。

さらに、ラカンの倫理「己の欲望に譲歩するな」は、「社会的(象徴界)にやらされるのではなく、本当に
自分が望むこと(現実界=自由意志)をしろ!」です。社会的なものを相対化し続けると言う意味で、
宮台的のエリート主義に近くもあります。

宮台の「戦略的アイロニズム」は、まずたとえば超越的なもの(サイファ)に感染します。しかしそこで
ヘタレずに、歴史主義的な教養を身につけることによって、その超越的なものを相対化しつづけ、
立ち位置を戦略的に見いだすという「エリート」のみが可能な「エリート主義」です。

79 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:43:50
■倫理的開かれと処世的開かれ

「問い直し続けること」=脱構築思考というのは、とても能動的なことに見えて、実はもはや受動的な
ことでしかないのではないか。なぜなら現代において、「問い直し続けること」を止めることなどできる
のだろうか、と思うのです。

たとえば、ある女性に恋をする当初は恋しくて仕方がない。しかしこのような想いをどれだけ継続できる
だろうか。人の想いは冷めていくものではありますが、現代の情報化ではとくに毎日テレビ雑誌に
かわいい子が写り、町中にもタレントをコピーした同じぐらいかわいい子が溢れている。(たとえば
未開発な国に行くと女性も洗練されておらずに、やぼったい子ばかりです。日本もかつてはそうだった
のでしょうか。)性的なものでも、エロビデオ、風俗でかわいい子が溢れています。現代の情報化社会
においては、内部の変化が速いのですから、「問い直し続けること」を怠ることは、むしろ内部から
排除されることです。

ボクはこのような「問い直し続けること」を「開かれ」と呼び、良い開かれ(本当に外部へ開いていくこと)
=「倫理的開かれ」、悪い開かれ(開きながら内部に閉じる)=「処世的開かれ」と呼びました。

>>
倫理的な「開かれ」とは、内部/外部の境界をなくし、外部に排除された人々を救済するということで
あるが、空気を読む的、すなわち処世的な「開かれ」は、内部に居続け、外部へ排除されないための
ものである。このために、処世的な「開かれ」は、むしろ積極的に外部を作り出す傾向がある。
スケープゴードとして外部を作ることによって、自分の帰属する内部を作り出すという、「閉じられ」をめざす。

「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのかその2安心して閉じられる場所 
<<

80 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:44:17
その意味で、「現代において、「問い直し続けること」を止めることなどできない」というのは「処世的
開かれ」であり、長谷部悠作さんのいうの「言語という共通解に縛られていることを自覚し、その上で
観念的な自己を絶えず問いながら創設し、内部に浸透している自己を発見したらよくよく問い直す
こと。」が目指すのは、「倫理的な開かれ」だと思います。

宮台の「戦略的、教養的、歴史主義的アイロニー」も「倫理的な開かれ」戦略です。「処世的開かれ」は
強迫的なアイロニーであり、ヘタレだ。真理とは歴史によって作られるということから、徹底的に歴史を
学び、いま真理とされているものが、どのような背景によって作られたものか、勉強をしよう!そして、
「処世的開かれ」と「倫理的な開かれ」の違いを見わけよう。」という「エリート主義」です。

81 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:44:46
■透明な社会

これらを踏まえた上で、「倫理的な開かれ」の困難さを思うのです。現代は、いわばあちこちで、
内部/外部が活発に自己組織化し、生まれては消えるダイナミックで、社会が細分化た世界=
ポストモダン社会=高度情報化社会=「透明化」した社会で、「内部に浸透している自己を問い直し
続けること」だけではだめなのです。これが内部だ、というものが明確でない。「透明化」した社会に
おいて、なにをもって、「倫理的な開かれ」であり、「処世的開かれ」とするのか。それを決定可能な
のか、という問題があります。

たとえば、宮台が相対化のために、歴史主義へコミットしているなら、ボクは自然主義の誤謬を
あえて踏み、宇宙論、進化論という超歴史主義へコミットしているといえるのかもしれません。
そのような意味でも、「自己組織化」であり、「カオスの辺縁」への言及なのかもしれません、と気が
つきました。

このような視点から、「透明化」し社会を生きるには、二つのポイントが見えてきます。自己組織化
では、すべてはランダム(偶然性)からはじまります。すべてたまたまの秩序が生まれるということです。
より大局の次元として、人のコントロールの限界がある。特に透明化した現代では、ブームを仕掛ける
などの操作はもはや不可能です。それはたまたま生まれ、そしてそこに飲み込まれるしかない。
ここから見えるポイントは、ソクラテスの「無知の知」的なこと、操作の限界をしる、ということです。
そして、むしろ過剰なコントロールの欲望は、転倒し、強迫的となり、ファシズム的なものになる。

82 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:45:10
もう一つ、ボクたちもこの「透明でダイナミックな社会」の一部であるということです。操作は不可能
でも、楽しむことはできる。海を作り、波を作り出すことはできないが、サーファーのように波の一部と
なり、一時的にも乗りこなすことはできるかもしれない。

このような意味で、ヘタレ保守であり、2ちゃんねるの祭りを、良い意味でみると、「開き直った
ヘタレサーファー」と見ることができます。彼らは、小泉を信仰し、祭りに没入しているのでしょうか?
透明な社会はそう甘くはないでしょう。一つの波に乗れたら、次の波のことも考えておかないと、
はじき飛ばされてしまいます。その意味で彼らは、生きることに懸命なヘタレサーファーでもあります。

83 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 22:45:40
■ネオ形而上学的思考

「ネオ形而上学的思考」を再度、以下に示します。

・「ポストモダン的なもの」の本質とは、、「思想間の闘争」というよりも、「主体と環境との闘争」である。
環境とは、テクノロジーの発達による情報化による、複雑化である。
・「ポストモダン的なもの」によって、形而上学的自己同一性などの主体の秩序が困難になりつつ
ある。・いますべきことは、むしろ、「形而上学的なもの」の救済である。「本当の無垢」を求めた、
神への想い、芸術への想い、イデオロギーへの想い、彼女への思い、家族への思いを、疑い、
ズラす必要などない。「「健全」な無垢への欲望に健全な精神は宿る」

ボクがいう「ネオ形而上学」的な「健全な無垢を欲望せよ!」とは、このようなラカン的な意味もあり、
ますが、宮台的ほどストイックではなく、現代の相対主義化された社会では、象徴界的な「無垢の幻想」
を欲望するのも困難であり、「信頼」できるなんかを見つける(ヘタレる)ことからはじめよう程度の意味
もあります。たとえば、ほんとに好きだと言える人を見つけることからはじめる、ようなことです。

84 :没個性化されたレス↓:2005/11/24(木) 22:57:16
毎度ご苦労
「開かれ」というとアガンベンですが
あれはどうですか?


85 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/24(木) 23:04:40
>>84
アガンベンの「開かれ」とは意味が違いますが、
アガンベンは良いですね。

86 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 14:31:16
生物学者・ドクター正高の「サル化する社会」と類似しているのでしょうか?
ドクター正高は、これを退化と呼びましたが、
わたくしは、道具の進化に対する適応と捕らえます。
ぴかさんもおっしゃるように、道具の進化は知のアウトソーシング化を促します。
今までの知識詰め込み型のお勉強社会の崩壊ですし、
機械には決してできないセマンチック型社会の始まりのでもあります。


87 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 18:39:09
>>86
その逆です。「サル化しない社会」です。
簡単にいえば、人はサルになどなれないのだから、
みんな小泉マンセー、あゆマンセー、ふかきょん萌えなどなど
神を信じようよ、みたいなことです。

88 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 19:39:53
誤解があるようです
ドクター正高のサル化とは、
サル特有の、他者とのつながり、仲間意識を求め続け
それに安心感を得るだけの
安易なコミュニケーション化に向かうということです
たとえば、不必要に暇さえ見つければ携帯でメールをする若者たち
よくよく内容を見れば、たいしたことの無い内容ばかり
それは、サルが繋がりを求め鳴くのと同じコミュニケーション形態なのです。

89 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 20:33:36
それでも「サル化しない社会」ではないでしょうか。
サルが安心を得ているのに対して、
人は不安をつのらせているからです。
だからネットは繋がりを求めたコミュニケーションで
限りなく溢れるんですね。

セマンチックってなにでしょうか?

90 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 21:01:38
たとえば、猿は剥き出しの環境の中に、生死をかけて生きています。
そのような不安を、鳴き声の交換で、解消しているのではないでしょうか。
それに対して、人間は、剥き出しの環境を整備した社会という安心の中で
生きています。そして安心すぎて退屈です。
そのような安心を、携帯の交換によって破り、不安を作り出し、
退屈を解消しているのではないでしょうか。
だからネットコミュニケーションはつきないのです。
簡単には繋がれるか?、意味が伝達できるか?ゲームなのです。
それがゲームとして成り立つのは、決して、意味は伝わらないからです。

猿が快感原則であるのに対して、人は快感原則の彼岸である、ということです。

91 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 21:05:43
それは観察の力点の違いであり、同じことだと思います。
サルも不安だからこそ繋がり(安心感)を求め続けるのです
決して安心し続けることがないからこそのコミュニケーションです


92 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 21:10:44
おっしゃるとおり、サルと人では、体験している環世界は異なるので、
全く同じ機能として捉えるのはカテゴリーミステイクです
ですから、サルではなくサル化なのです。

93 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 21:38:49
>>89
セマンチック(意味)とはシンタックスな記号操作を行う機械が
決して人の心を持てないという壁です。
ウィノグラードの批判やサールのチャイニーズルームなどで有名なはずです


94 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 21:51:14
>>92
なにか、ごまかしじゃないですか。
猿が快感原則であるのに対して、人は快感原則の彼岸であるという
断絶はあると思います。
そういうならば、人は太古よりサル化した猿なのです。

なるほどセマンチック(意味)とは、人口知能の不可能性のような
ことですか。ググっても41件しかヒットしなかったもので

95 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 22:14:27
ごまかしとは違うのではないでしょうか?
たとえば、動物化とて同じだと思います。
ぴかさんは人は動物にはならないと言った
それは当たり前です
だからこそ動物“化”なのではないでしょうか?
動物的と言い換えればミステイクは無くなるかもしれません

セマンチックとはセマンティックとも表記されます
もとは、モリスが分類した、
シンタックス・セマンチックス・プラグマチックス
という三分類からだと言えはすぐ解るはずです

96 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 22:38:24
>>95
要は、動物“化”もサル"化”していないということです。
とても人間臭い行為だ、ということです。
だから快感原則の彼岸なのです。

なるほど、意味論 語用論 統語論ですね。

97 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 22:44:39
別に、無理矢理反論しているわけではなく、
近頃はやりの「動物“化”もサル"化”も
していない。とても人間臭い行為だ」というのが、
「「健全」な無垢の欲望に「健全」な精神は宿る。」の趣旨なのです。

「動物“化”、サル"化”」、あるいは認知科学的な還元主義しようとする
過剰性そのものが、とての人間くさい、無垢への欲望である、というようなことです。


98 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 22:48:31
わかりました。
つまり、携帯などで頻繁にコミュニケーションをとる
という現象(サル化)はあるわけですが、
そのパース的記号学で言うところの
解釈項に食い違いがあるらしい
ということだと思います。
これは、もっともなことです。

99 :没個性化されたレス↓:2005/11/25(金) 22:55:20
さて、人間臭い行為というものなのですが
これは議論の余地があると思います
すでに定義されているのでしょうか?

100 :100:2005/11/25(金) 23:00:44
ああそうか、人間臭い行為とは>>1のことなのですね?
ちょっと、考えてみます

101 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 23:02:25
そのような感じですかね?
サルの頻繁なコミュニケーションは、いくら多くても
必要だから行われているので、適当数です。
人の頻繁なコミュニケーションは、必要数以上、過剰です。
この過剰性こそが動物でなく、人間です。

いままでは、たとえばこの過剰性は消費であり、ロリコンであり、
行われていたのが、ケータイの普及で、コミュニケーション数に
現れただけのことです。
まさに「地球の悪玉ウイルス」と言われるどこまでも人間臭い行為です。

102 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/25(金) 23:20:15
人間という壊れた動物は、
必要以上の消費をして(必要量=生きていけるだけ)
必要以上のセックスをして(必要量=生殖するだけ)
必要以上に萌えて(必要量=ゼロ)
そして
必要以上にコミュニケーションする(必要量=言うべきことを言うだけ)

その必要以上が無垢です。そして無垢とは「私とはなに?」という飢餓である。
動物には「私」がなく、そのような飢餓はない。

103 :没個性化されたレス↓:2005/11/26(土) 00:08:18
なるほど、岸田秀的に言うところの本能が壊れた動物ですね
やはり、ぴかさんはラカンベースということで
一般に理解させるためには、言い換えが必要になるでしょう
私はラカンについてよく知りませんし、
ちょっとした解説が載っている本しか所有しておりません
ですが、腐っても理論臨床心理学の学生ですから、
ラカンの盟友であったフランソワーズ・ドルトの
「無意識的身体像」ぐらいは持っています。
もちろんまだ拾い読みです
こんなわけで、まだ適格な指摘は出来ませんね

104 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 01:00:45
浅田彰の「本能が壊れた動物」です。というか、
精神分析系ですね。フロイトーラカンです。

理論臨床心理学のようなプロでも、精神分析は
学ばないんですね。
やはりいまは心理学系なんでしょうね。

精神分析・・・動物と人間の断絶
心理学(進化論、生物学、認知科学など)・・・動物と人間の連続性


105 :没個性化されたレス↓:2005/11/26(土) 01:28:25
毒男達へ
http://etc4.2ch.net/test/read.cgi/male/1132934736/
逮捕間近

106 :没個性化されたレス↓:2005/11/26(土) 01:29:48
残念ながら私はプロではないですよ
精神分析学はもちろんざっと学んでいますが、
ラカンはどうも敬遠してしまいます
精神分析というより哲学のようなイメージがあるからです
それに対して、ドルト女史は決して形而上学的議論に迷い込まず
常に臨床実践にまなざしを向けた
ホンモノであることが私には信頼感と親近感を覚えます
ラカンが手に負えない患者をドルトに託していたことからも
それが伺えます


107 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 01:58:49
セミプロですね。

確かにラカンは臨床では使えないというのは有名ですね。
しかしラカンのベースはフロイトであり、「本能が壊れた動物」も
フロイトだと思います。

そもそももはや精神分析自体が、重視されていないのでしょう。
心へ問いかけるよりも、薬物によって身体へ直接働きかける、
これが今の臨床ではないでしょうか。

108 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 02:00:07
しかしラカンは人間学では最強と言われています。
哲学、思想などにおいて、もはやラカンベースがなければ、
始まらないのではないでしょうか。

109 :没個性化されたレス↓:2005/11/26(土) 10:58:23
ラカンは人間を言語にがんじがらめにされた存在として分析していくんでしたよね。
その点、実に人間臭い分析なんでしょう。
ラカンを持ち出さなくても論じられるような気もするんですが。
なにぶん観察する焦点が精神分析的に固定されているので門外漢には?なわけです。

110 :没個性化されたレス↓:2005/11/26(土) 22:13:26
人間は本能が壊れた動物なのか?
基本的にヒトの脳機能は数万年前から
ほとんど変化していないわけです
飢えや猛獣などの天敵に怯えながら暮らしていました
その時代に生まれた乳児を仮に現代に連れてきて育てたら
いつしか2ちゃんねるで、2ゲット争いをしているかもしれません
とすれば、現代人との唯一の違いは
生後にインプットされる情報環境に他なりません

111 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 22:29:53
>>109
ラカン=フロイト(精神分析)+コジェーブ(ヘーゲル)(形而上学)
+ハイデガー(存在論)+ソシュール(言語論)+α


112 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 22:30:15
>>110
その時代に生まれた乳児を仮に現代に連れてきて育てたら
いつしか2ちゃんねるで、2ゲット争いをしているでしょう。
なぜなら現代人と同じ「人間」だから。


113 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/26(土) 23:34:49
人間は本能が壊れた動物=欲望
欲望は生後にインプットされる情報環境(言語=象徴界)に
より生まれる、のがラカンの説


114 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 00:01:31
なるほど
ラカン理論を別に持ち出さなくても大丈夫みたいですね
フランスの研究者さえ舌を巻くラカン理論を
きちんと理解出来きる日本人なんていないんでしょうし
わかりやすく説明し、理解していくほうが
理論として淘汰されにくいと思います

115 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 00:48:46
さて、結局のところ問題は環境の変化にあり
人はそれに適応しているに過ぎないわけです
たとえば、現代社会のような刺激にみちた環境に
乳幼児を無駄に晒し続けると
適切なシナプスの強化・消去(神経ダーウィニズム)が行われず
無駄にシナプスが残ってしまいます
そうしますと情報処理に混乱が生じてきてしまうわけです
これがいわゆる現代病的なADHD症状です(ハッテンロッカー説)
このように環境・社会の変化とそれに対するヒトの適応の関係を調べると
面白いものが見えてきます

116 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/11/27(日) 01:32:40
仮に
心理学、認知科学、神経科学、遺伝子工学=器質還元論
精神分析=非器質還元論
と呼びましょう。

>>114-115は、器質還元論者わけですね。
器質還元論の基本は、進化論をベースにするところにあります。
すなわち動物−人間は連続性がある、と考えるわけです。
それに比べて、非器質還元論の基本は、
「人間というもの」は進化論で説明できない。
特にラカンにおいては、言語が重視されます。
後天的に言語をインストールされることによって、
人間という動物は「人間というもの」=本能が壊れた動物=欲望の主体
として作動する。

たとえば、なぜ人はブランド品にはまるのか?
これを、器質還元論では説明できない。

117 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 02:11:59
自然科学と社会科学みたいな分類なんでしょうか?
私の場合はそんなものは意識していません
基本は無駄に難しく説明したり、知的な装いの仮面などつけずに
いかにスマートかつセクシーに論述していくか
ただそれだけですよ

118 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 02:16:40
たとえば、なぜ人はブランド品にはまるのか?
この辺りから考えてみれば。


119 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 03:04:42
ちょっと話が変わって本棚から引っ張り出した本ですが
人工知能研究者の月本洋氏が「想像」で提唱しています
言語とはイメージであり、そのイメージは
仮想的身体運動としての想像がもたらすものだと述べます
言語と想像と身体を結び付けたエキサイティングな本です
私は、こういう論からのアプローチを探ってみます

120 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 03:24:08
>>118
なぜは科学で扱わないと申しますが
その手の問いの立て方に対する答えは
いかようにでも言えてしまうので
慎重にならなくてはなりません
それに、ハマらない人が大多数なわけですから

How〜?でしたら社会心理学で研究されています

121 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 11:59:20
たしかに、科学では、なぜ重力があるのか?とはといません。
りんごが木から落ちる。どのようにか?というのが、科学です。
しかし実際、科学者の中で初期衝動として、なぜが発生します。
そしてなぜの次の事実の観察からが、科学ですね。

それそれとして、
器質還元論が陥りやすいのは、たとえば、
「過剰露出ファッションが流行するのはゲーム脳のせい」
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1036105334/l50
ブランドにはまるのもゲーム脳になるのでしょう。
あるいは、
>>86の「サル化」などですね。

「サル化」でいいましたが、非器質論では、これらは
まさに人間の特徴です。

このような意味で、非還元論は有効で、ラカンは
最強の人間論と言われるわけです。

122 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 12:14:27
http://blog2.fc2.com/fukuji1134/
このブログの謎がとけるかな?

123 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 12:22:50
非器質還元論では、器質還元論自体が、「人間」臭さです。
簡単に断定したい、という欲望です。

124 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 12:29:16
ご存じでしょうが、ゲーム脳は科学界でも疑問視されています
もちろんドクター正高のサル化もです
単純にある要因がある現象の原因だとし
直線的に結び付けてしまう単純(線形)思考は
器質・非器質論者問わずよく犯す誤謬です
そして、それから不必要に論を拡大解釈して
世の中を論じてしまうというのがニセモノの特徴です
ニセモノにダマされ無いよう気をつけて下さい

125 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 12:46:12
しかし、ゲーム脳なんかは、データのずさんな扱いを斉藤環が指摘していますが、
森氏の問題の着眼点は悪くないはずです
本来、イメージ空間は身体と相互作用をしつつ結ばれていましたが、
ゲームなどの仮想空間に没入することにより
イメージが身体と乖離してしまうのです
かつてのカウンターカルチャーではドラッグによって精神を肉体から乖離させました
それが現代では進化したテクノロジーに取って代わり
それにより肉体と精神の乖離が行われつつあるのでしょう


126 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 12:52:46
というふうに尤もらしく論じることはできますが
必ずしもそれだけではないと思います
安易に結論を出す(消費)をしてしまうのではなく
疑いのまなざしを常に忘れないでください


127 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 13:25:56
>>124
>単純にある要因がある現象の原因だとし
>直線的に結び付けてしまう単純(線形)思考は
>器質・非器質論者問わずよく犯す誤謬です

たしかに、このような傾向は、器質還元論だけのことではなく
昔だと宗教などでもそうですし、人間そのものの情報処理能力の限界
(認知限界)からくる、人間の本質的な特性だと思います。

しかしゲーム脳などの器質還元論の場合に特にこのようなことが
問題なのは、現代人にとっての神話は「科学」であるということだと
思うのです。
「神は死んだ」のであり宗教は非科学的なものは胡散臭い、
そして確かなのは科学である、という信仰があるわけで、
器質的な単純化の方がリアリティーをもち、社会に信じられてしまう。
ということが、問題だと思います。ボクはこれを「神話なき神話」と呼びますが。

128 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 13:54:03
>>125
「肉体と精神の乖離」ですか。

ボクは、ゲームとの関係(ゲーム機とプレイヤーの関係)も
一つのコミュニケーションと考えます。
そして相手が機械であるために、応答速度、反復速度が上がっています。

通常、言語による他者とのコミュニケーションでは、
意味の差異がまれ、そこにアイロニー(メタ位置)が生まれます。
こういっているが、相手の本音はどうなのか、懐疑し続けます。
ここには、やりとりのタイムラグが重要なのかもしれません。
たとえば、手紙だと、もらってから返事を書くまでに長い時間差があり、
その間に、さまざまに反省します。

しかしゲームとのコミュニケーションでは、反射的になり、
アイロニーが低下し、反省する時間がない。
この反省の時間に、さまざまな実感(肉体との繋がり)や、倫理的なこと(相手の気持ちになる)などが、
肉付けされるのだと思います。
このアイロニーの低下、考える力の低下が「動物化」ということの特徴だと思います。

簡単にいえば、「問題に悩む時間が、社会性とはぐくむ」というようなことでしょうか。

ボクの言葉で言うと、言語コミュニケーションでは会話の間の反省に無垢(困難)が生まれ、
そこに欲望が熟成される。。
それに対して、ゲームでは、反復速度が向上し、小さな無垢(困難)が積み重なり、
それを欲望していく、という刹那的な面がある。



129 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 13:58:56
日頃、アイロニー的メタ空間をはぐくんでいない、ゲーム少年が、
人生の問題に直面すると、反省する能力も、体力もないために、
短絡的に結論を導く、というか、導くのでなく、
不安を、暴力などによって、反射的に解消するしかなくなるのかもしれません。

その意味で、「健全」な精神を持つために、「健全」な無垢の欲望が重要なのです。

130 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 14:31:18
そのような意味で、ゲームだけでなく、現代のテクノロジーの発展は、反省のアイロニーの層を
潰し、キレやすくしているのかもしれません。

若者のケータイの応答性の多さをサル化ではない、といいました。

たとえば、おしゃべり好きのおばちゃんが懸命に人の悪口をいっています。
これは不安の解消であるとともに、不安の生産でもあります。
人の悪口をいいながら、このひと。私のことをほんとうはどう思っているんだろうと、
アイロニーの層(懐疑)がうまれます。

言語コミュニケーションの特徴は、意味が宙づりになることです。
本当の意味は絶対に伝わらないいのです。
「あなただけを信じているのよ」という言葉が、「ほんと?」と人を不安にさせるのです。
サルの応答は、不安を解消しますが、人の応答は、不安を解消するが、また不安を生むのです。

若者のケータイの応答性の多さは、メールをもらって安心し、そして不安になる。
そこにアイロニーの層(懐疑)が生まれますが、
テクノロジーの発展は、懐疑を育てるのでなく、その不安をメールを返信するという反射で
懐疑を解消しようとする。特にそのような環境で育った人々は、懐疑の熟成に
耐えられないのかもしれません。
そして不幸のメールのように、ケータイが広がっていく。
このように考えると、映画「リング」の呪いのビデオは、電子メディアの普及そのものの
特性を表しているといえます。人々の中にある電子メディアの普及への不安が
リンクし、ヒットしたのかもしれません。

131 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 14:45:49
最近、ネット界隈?で「場の空気を読む」ということが問題視
されています。
これは、ネットコミュニケーションがテクストデータのみの
交換だからです。
ケータイのメールもテキストベースですが、多くは実際に知っている人なので、
その人がだれであり、どのような性格かで、テキストの意味を読めます。
たとえば、同じメールでの送った人で、真実度を測るなどです。

しかしネットコミュニケーションでは、相手の情報もないために、
意味の宙づりが激しく起こるのです。
そのために、意味の読み込みに、場の空気を慎重に育てることが
重要です。たとえばこのスレでも100レスを越えましたか、
心理学板新参者の私は、少しづつ場を作っている感じです。

しかしまた開かれた掲示板ですから、名無しとして突然、
レスが現れます。そのときにこれの真意が宙づりにされ、
不安が生まれます。

132 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 14:48:19
2ちゃんねるは、もはや「場を壊す、無視する」ことが、
場として共有されています。
だから突然の意味不明のレスも、いわば安心です。

しかし最近ではブログや、個人的な掲示板では、
このような場を読まないレスは、大きな不安を引き起こし、
それが膨らんで「炎上」すること多く起きています。

133 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 15:01:14
ここでの特徴は、テクスト以外の情報が少なくて、
アイロニーの層(懐疑)が空転することです。
少ない情報で考えれば考えるほど、不安になる。

現代社会ないでもこのようなアイロニーの薄さが起こっています。
人々の間で、価値を共有するものが減っている。
たとえば、いままでなら隣の人を服装などで、社会的な、
すなわり道徳をそなえた、分かり合える人を考えることができなのが、
価値が多様化して、何ものであるか、わかない。

このような場で、どんな人でも、町中でいきなり声をかけられると、
不安、恐怖を覚えます。
だから「儀礼的な無関心」がルール化しています。


134 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 15:55:33
どうも固定的・悲観的なフレーム視点の中から世の中をみているように思われます。
世界は常に動き続けています。
フレームの中で立ち止まらずに、フレームをぶち壊しいろいろ動いてみましょう!

135 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 16:26:40
人における他種との違い、
すなわち人間ならではの行為が生み出されるのは、
大脳における情報処理システムによるものに他なりません
一方、大脳を経由しない動物的な情報処理も併せ持ちます
つまり、反射です
人の行為の多くはこの反射神経により形作られています
→「体の反射のふしぎ学」

このような異なる情報処理システムを駆使しつつ、
その上を人はバランスをとりながら生活しているわけです
このバランスが環境変化によって変化しつつあるわけです

136 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 17:02:40
たとえば、大脳に焦点をあてれば
それは、唯脳論的な脳一元論となります
それに対抗したのが大森の無脳論であり、アフォーダンス理論であります
そして、その流れの中で叫ばれつつあるのが身体性の復権です
虚構世界が勢力を増して私たちの環世界に蔓延する中で
私たちの身体が忘れ去られようとされているのです
身体と脳、そして環境が溶け合う中で意味が現れるのです

137 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 17:07:56
>>134
反射的レスですね。「反省体力」をもう少し鍛えた方が良いです。

>>135
ベタな器質還元論ですね。
最近はこの手の発言が溢れていますが、冷静にみると
神話的であることが、すぐにわかります。
「反射神経」の使い方が、超越論的です。

138 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 17:18:51
>>137
反射的とはどういう意味ですか?
神経学的な意味ではないことだけは理解できますが

「実体のもつ重み」について少しは大脳を駆使して思考してみてください
理論というものは実体から立ち上がるものです


139 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 17:24:08
実体を無視した形而上の虚構世界で遊ぶのは
たしかに人間の特権でありますが、
それには常に危険性が伴います。
結局、常に実体との接点を欠かさないことであり
それが欠けてしまうと虚構世界で閉じてしまうのです。

140 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 18:03:43
やはり、私は確かな事実の積み重ねしかないと考えます。
社会科学とて常にフィールドに根差した研究をします
問題は偏りに他なりません
唯脳論や無脳論であったり
表象主義や非表象主義であったり
焦点の当て方によれば、どちらも正しいわけであり
また、どちらも間違っているわけです

ある見かたでは、器質論は不可解に見えてしまうのは理解できます
ですが、間違いとは言い切れません

141 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 18:07:15
そのような意味で視点を特定のフレーム内に収めないほうが
ベターだと書いたまでです
説明が足りなかったかもしれません

142 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 18:16:48
>>138
キレてますか?

ゲームだけでなく、現代のテクノロジーの発展は、反省のアイロニーの層を潰し、キレやすく
しているのかもしれません。
さらには、偏見覚悟でいえば、理系の人には、アイロニーがたりないと言われます。
まじめ。マジでとってしまう。ネタ、シャレが通じない。
ユーモアとはアイロニーです。ユーモアを理解するためには、ある発言をユーモアであると
理解する、メタの理解が必要なのです。
極端にいえば、舞台で殺人が行われた。しかし警察に通報しない。なぜなら、そこには
たえずこれがお芝居だと、お芝居の中の出来事を( )カッコの中にいれて、
メタ位置から見ているからです動物にはこのようなアイロニーがありません。

ボクはゲームをすると、「反省体力」が低下する、つかないのではと言いました。
これを「ゲーム脳」をパロって、「ゲーム無能化」と呼びましょう。

だから、「ゲーム脳」という言葉が流通し、人々が不安になることが、このような問題への反省が
低下している人々が、「ゲーム無能」化しているからではないでしょうか。
「ゲーム無能」は、理系人だから、とか関係がありませんが、
言っているように、現代の宗教は「科学」です。だからなおさら、流通し、信仰されやすいのです。

143 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 18:22:13
>>139
そうですね。そして現代、形而上の虚構世界がもっとも巣くうのが
科学の分野であるということが、忘れられています。

144 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 18:28:28
ボクも別に反科学主義なんでもないですし、精神分析の一応科学です。
面白いなと思うのは、現代、形而上の虚構世界がもっとも巣くうのが
科学の分野であるということが、多くにおいて忘れられています。
たとえばオウムなどのその教義の多くは、科学的なもので
根拠つけられていたといいます。(冷静になれば、エセ科学)なのですが。
もはや、かつての宗教などにはなかなか騙されないのです。
「ゲーム無能化」が現れやすいのが、科学的言説においてなのです。

145 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 18:47:42
整理しましょう
科学を宗教のように幻想化する行為と
科学的研究行為は別であります
この二つを混同してはいけませんし
詭弁的に科学的方法論の否定にすり替えてはいけません
確かに科学的研究は強力であり成果を出し続けています。
ですから、科学=絶対という認識が生じるのも無理はありません。
また、それを利用した疑似科学も少なくないのは事実です
ですが、科学的研究は着実に成果を出し続け
私たちの世界における不確実性を減らしているのは紛れも無い事実です
科学的には論じられないことがあるにせよ
それが科学的行為の否定にはなりえません

146 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 18:49:38
おそらく、科学技術の有用性はいまさらいうことはないですが、
使える部分と、使えない部分が明確にあるのでしょう。
あまりに有効性であるあまりに、科学の信仰は、それを越えてします。
そこに「ゲーム無能化」が現れるのではないでしょうか。
たとえば、使えないところが人間学的なところではないでしょうか。

なぜ人はブランド品にはまるのか?などに、科学万能信仰に押された、
「ゲーム脳」、「サル化」みたいなことをポロッと 言ってしまうと、
これがまた受けてしまう。

これが非器質論のいう「ザッツ ザ 人間」なのですが。

147 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 18:53:17
>>145
そうですね。ここで一番のポイントは、
有用性と正しさ=真理とはなにも関係がないということです。
この混同はまさに、資本主義的です。

すなわち、経済的に有用であることが正しいのだ。
アメリカイズムですね。

148 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 19:07:09
なにか、ベタな科学批判論になってしまいました。
別にそのような目的のスレではないのですが、
単に「人間」というものを考える、ということです。

ボクは、非器質還元論と器質還元論を繋ぐようなことに
興味があるのです。
だから「ゲーム無能」的なエセ器質還元論は
器質還元論万能主義による非器質還元論の冒涜なんです。
だから少し熱くなりました。

しかしあくまで、非器質還元論と器質還元論を慎重に
繋ぐことに興味があるんです。
たとえば、斉藤環はラカンとベイトソンを繋いだようにです。

149 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 19:14:51
科学がなぜ、なぜ〜と考えないか。
それは、真理でないことを知っているからですね。

真理とはないか、という形而上学に巻き込まれると、
信仰的対立になり、進まないからです。

科学の有用性は、真理を求めるのではなく、ある現象を
正確に記述しよう。という姿勢です。

たとえばそれがホッパーのいう「反省可能性」に現れています。
それが正しいかはよい、反論できるものが科学である。

150 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 19:16:53
マルチメディア化する現代で、
身体性の復権とともに重視されているのが
人の「感性」であります。
これは機械が人間になれない壁、人間だけの機能です。
感性こそが機械に勝ち得る人の武器ではないでしょうか?
感性からは想像や創造が生まれます
現にそれを駆使して世界を切り開いてかました
今一度、人間とは何か立ち戻ることが必要なのです。

151 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 19:20:44
「反省可能性」でいくと、精神分析は科学ではないです。
心理学は、「人間」を反省可能性するよう、目指して、進んできました。

科学が遺伝子、神経、認知へと還元を試みても、
「人間」を上手くとらえられないのは、
「人間」がこのような反復へ還元することが困難だからでしょう。

そして人間学として、精神分析が有用なのは、「反省可能性」を
諦めたところにあります。

152 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 19:26:05
>>150
「感性」とは具体的などのようなことでしょうか。
最近はやりのクオリアみたいなことですか。

153 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 19:33:20
太古に野生で暮らしていた人も
現代にコンピュータに囲まれて暮らす人も
生理学的には同じ機能を持つ人でした
とすならば、生後に触れる環境社会が
いかに人にとり重要な違いを生み出すのかが理解出来ます。
その社会環境を分析していくことが
人間理解に繋がるのは言うまでもありません。
そこで視点を人間社会へとスライドさせてみましょう

154 :没個性化されたレス↓:2005/11/27(日) 19:44:50
>>152
クオリアもそうでしょうね。
広義にはリアリティーでしょう
科学的、つまり数量的には扱えない主観的体験世界のことです

155 :ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2005/11/27(日) 20:07:02
>>154
精神分析では、リアリティーは欲望によって生み出されます。
ボクのいう意味での「無垢」ですね。

156 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 13:12:51
利己的なエロスに協調性がもとめられると、抑圧になり、内部にタナトスとして溜まる。協調性がまなざし。
まなざしは場として意味を与える。意味は他者志向性をもち、他者の欲望の対象=無垢として与えられる。

157 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 17:48:25
◆動物(エロス)
個体性ー集団性
↓環境圧低下→個体性向上←社会圧向上→単独性
◆人間(タナトス)
単独性(意味)←社会性(コンテクスト)

158 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 18:00:35
高い個体性と社会性からの抑圧、欠落という形で単独性が見いだされる
主体は突き上げるエロスと抑圧との場である。
そこにおいてエロスはタナトスの面があらわれる。


159 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 22:31:19
■エロス=タナトス

■エロスとタナトス

フロイトの欲動論はその時期で理解が異なる。特に「快感原則と彼岸」と「エロスとタナトス」の関係は
不明確である。エロスとは動物的な生の本能である。生きようとするエゴイスティックな力であり、
ニーチェの力への意志である。このような力は、環境からの外圧に反発する力である。環境とは静へ
向かう力(エントロピーの増加)である。それに逆らい、エロスとは動へ向かう力(エンタルピー)である。
ここに宇宙/生命の対立がある。

しかしここで逆転がおこるのは、環境という静へ向かう力は、主体にとって、動を抑圧する不快なもの
となる。このために主体は、不快なものを排除し、動として安定することを思考するのである。これが、
快感原則である。快感原則が、緊張を和らげる、主体内部の静へ向かうのであるが、ここで重要
なのは主体にとって静とは、安定した動である、ということだ。それに対して、快感原則の彼岸は、
本来環境が作り出す不快を、自ら作り出すことを示す。安定した動であるエロスが、自ら不安定を
生みだすのである。

160 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 22:32:09
■エロス=タナトス

これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まって
いるような安定した状態である。

そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする

それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等加速度運動し、快感であるにも
関わらず、自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く
現象である。すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの減少)に対抗する力であり、
環境と相反し安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰である、
人間的な力がタナトスである。

161 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 22:33:08
■環境的現実界

多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつもエロスは環境の力に対して
不足しているのである。しかし人間が環境の内部に秩序世界を構築したとき、その内部でエロスは
過剰へと転ずる。その過剰性がタナトスである。

この欲動理解から、ラカンの不明瞭な現実界の姿見えてくるのではないだろうか。ラカンの現実界の
一つの説明が、カントの「ものそのもの」である。これがここでいう環境であり、「環境的現実界」と
呼ぼう。環境とは単に自然世界ということではない。人間の認識の向こうにあり、人間が決して
認識できないものである。その本質は不確実性である。偶然性とカオスが渦巻く、何がおこるか
不確定な世界。本来、世界とはそのようにあり、人間は「現象」として見たいように見ているだけで
ある。人間は、この環境世界の内部に秩序ある世界を構築したのである。

環境的現実界は、人間社会(内部)/環境(外部)と考えることができるが、これは物理的な制約とは
関係がない。大きなところでは地震、事故などの偶発的な障害もそうであれば、庭の花壇も飼い
慣らされているようで、そこのは不確実性が内在している。そして人間そのものもまた環境的現実界
である。心身二元論的にいえば、この身体で何が起こっているかわからない。不確実な存在である。
そして管理できない欲動そのものも環境的現実界である。

162 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 22:33:49
■去勢的現実界

しかしここで区分が必要である。欲動が過剰でないときには、エロス(生の欲動)と呼ばれ、環境的
現実界に分類されるが、過剰であるときには、タナトス(死の欲動)と呼ばれる。これは、「去勢的
現実界」と言える。ラカンの理解では、タナトス(死の欲動)は象徴界(社会秩序)への参入によって、
去勢による抑圧によって生まれる。これはまさに、動物的なエロスが環境の力を越えたとき、本来
エロスによって構築された秩序が、抑圧として働くのである。社会で生きるとは、このような抑圧を
受けて、内部に過剰性を持ち続けるのである。

ドゥルーズは、ラカンが欲動を去勢によるタナトス(死の欲動)として強調して考えたことを批判し、
そのエロス(生の欲動)面を強調した理由がわかる。タナトス(死の欲動)は欲動の一部である。
しかし精神分析においては、抑圧された欲動が問題であり、それが「人間」なのである。

163 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/02(金) 22:35:41
■本能の壊れた動物

現代では、環境からの脅威は軽減されている。しかしエロスは止められない。外部にでられずに
閉じこめられ、内部圧力は増していく。止まらないエロス、すなわちタナトスはどこに向かうのか。
たとえば、それは内部での殺し合うに向かうのである。有史以来、人は過剰性によって互いに
傷つけあってきたのだ。

闘いは、過剰性の解消装置だった。兵器戦争でなんなる悲惨な場になったが、戦争は人々を
生き生きさせる装置であった。いまならワールドカップの熱狂があるが、サポーターでなく、男子は
全員がプレーヤーになる。そして敵国と戦う。賭けるのは命程度のものでなく、家族も含めた我々の
コミュニティそのものである。これにまさる無垢があるだろうか。

有効な使用方法は、内部世界の拡張に費やされている。環境の不確実性を秩序あるものとして開拓
するのである。それが加速されたのが近代であり、数量化革命である。世界のすべてを定量的に
数値化する手法は確実に、開拓を成功させ、内部世界を拡張した。それは地球から宇宙へという
空間から、物理的な量子力学によるミクロ的、そして宇宙物理学的なマクロ的へ、あるいは遺伝子工学
による身体へなどなどへと向かうのである。

たとえば量子力学が、原子力発電所に応用され人類の英知と言われるときは、エロスであり、それが
原子爆弾として使われるときには、タナトスと呼ばれるのである。だからこの分類は両義的である。
あるときは豊かさを生み、すばらしい芸術作品を世に生み出すが、またある時は、殺戮の狂気へ
向かう。そもそもにおいて過剰性があり、それが有効であるか、どうかに決定できないだろう。
これは「人間」が生まれた時から内部に抱えた問題なのであり、「本能の壊れた動物」としての
「人間」である。

164 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/05(月) 00:06:01
生(エロス)への回帰

■環境圧/生命秩序

生命においてはある種のバランスが存在する。環境圧/生命秩序維持である。

■生命秩序=個体性と集団性

生命秩序維持は、個体性と集団性のバランスで保たれている。なにをもって、個体とするのかは
不明確である。そして集団性という個体間の情報伝達は、先天的に作られたシステムによって、
高い確実性で行われる。そのように環境に対峙する。

■生命の高等化=個体自律性の向上→集団性の社会性への転換 (自由度の向上)

生命としての高等化は、個体性を向上させる。それは集団性を低下させることとなる。このために
個体間の情報交換は、後天的な社会性に求められるようになる。意味の伝達が必要である。
しかし意味の伝達は不可能性を孕む。

■社会性に内在する「不安」

エロスとは生命全般の力でる。それは単に個体として利己的なものではなく、集団性への帰属へ働く。
高等生物では、エロスは、個体性への力と、集団性が低下するために、社会性という集団化の力
としてバランスを保つことになる。しかし社会性は不完全であるために、「不安」が現れ、ヒステリックな
過剰性を生む。それがタナトスである。

165 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/05(月) 00:07:40
■単独性の発生

社会性の強い動物では、このような帰属への過剰性が現れるだろう。どのように強い繋がりを
求めようとも、必ず失敗する。この「不安」を解消するためにさらに求める。いかに他者を引き
つけるかが、重要な問題になる。そのためには、他者との差異が重要になる。目立つこと、社会性
の中で埋もれるのではなく、単独性が目指される。個体性がエロス、単独性がタナトスである。

個体性は利己的な力ではいえない。なぜならそこには集団との関係はない。ただただ生存を守る力
であり、個体性のみが目指される。それに対して、単独性は集団への帰属を目指される。

人は特別な存在ではない。単に「より寂しい動物」なだけである。もっとも自立的な個体性を手に
入れた代わりに、繋がりが不確実なのである。それはただ生きたいのである。

たとえば、自殺という人間的な行為は、生きるために、死ぬという転倒が起こっている。生きるために
繋がりを求める、最後は死ぬことで繋がりをもとめる、という転倒である。個体性が強すぎる上に、
過剰に繋がりを求めてしまうのである。

■内部の維持の新陳代謝

ここには、新陳代謝という変化をとらえる必要がある。秩序維持とは、内部と外部である。そして
内部とは外部と食べて、新陳代謝を行う。それは、個体性、集団性、社会性、単独性すべてに
内在する。

166 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/06(火) 11:51:13
<機械操作の快楽>

■「動物」的コミュニケーション

動物の個体間は(遺伝子によって規定された)先天的なシグナルの確実なコミュニケーションが
行われ、それが群れの集団性を保つ。「動物」は個体間の秩序を集団性によって保っているといえる。
ここではいわば集団そのものが個体であるとも言える。たとえば一匹のアリは個体であるが、集団で
見ると、兵隊アリ、女王アリなど、先天的に特性をもち、アリの集団が一つの生き物にように秩序を
持ち動いていると言える。

さらに拡張すれば、花の出す匂いが確実に蜂を引きつけ、そして受粉を行う。これらには、ある特定の
花とある特定の蜂という密接な結びつきがあるものがある。これも一つの個体であるといえる。
これはアフォーダンスな考え方だろう。「動物」はこのような個体性と集団性の階層的な秩序によって
成り立っている。

■「人間」的コミュニケーション

しかし人間は動物のような確実なコミュニケーションが失われているために、個体間に「間」がある。
そしてそこに「不安」が生まれるのだ。そしてそれをいかに埋め、より確実なコミュニケーションをする
かを「欲望」する。

伝達されるのは、どこまでもシニフィアンなのであり、意味をつたえるには、後天的に共有された
コンテクストが必要になる。それが「社会性」だ。たとえば信仰も「間」を埋める「社会性」である。
たとえば「パノプティコン」は囚人を不安にして「間」をあけ、道徳というコンテクストを内面化する
装置なのだ。

そしてこれによって、このように、コミュニケーションの本質は、「間」の「不安」を解消する行為である
ことになる。

167 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/06(火) 11:53:11
■電子コミュニケーションと「間」の変容

コミュニケーションの速度を「応答性」と呼ぶ。そしてテクノロジーの発展により、社会的インフラという
下部構造として、「応答性」は向上している。そしてインフラとしての応答性の向上は「間」のあり方を
変容させているのではないだろうか。

その例として、手紙とメールのインフラの差をあげると、たとえばメールでは「おはよ」だけで成立する
という社会的なコンテクストがある。このようなコンテクストを可能にしているは、メールの応答性が
向上しているというメディアとしての特徴を元にしている。

「間」の本質が不安の解消にあるということなら、たとえば手紙というインフラでは、「間」の不安から、
相手の意味を読みとろうとして、様々に思惟する。しかしメール、あるいは2ちゃんねるなどでもいい
のだが、「おはよ」だけで成立するという軽さ故に、メールの内容でなく、メールの往復そのもので、
不安が解消される特性があるのではないか。

168 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/06(火) 11:53:43
■ゲームというコミュニケーション

ゲームでは誰とコミュニケーションをしているのだろうか。ゲームをプレイすることは、多様な
コミュニケーションしている。まず「これは話題のゲームだ!」というときには、社会的なコンテクスト
として、「みんな」の意味を読みとろうとしている。「ほ〜このゲーム制作者の狙いはこれか!」という
ときには、オタク的コンテクストとして、制作者の意味を読みとろうとしている。さらにはゲームの中に
おいては、ゲーム内コンテクストとして、ゲームの登場人物の言う意味を読みとるとする。さらに
ゲーム機を操作するというときに、これを機械と「人間」との疑似コミュニケーションと言えるのでは
ないだろうか。

たとえばこれはベイトソンの学習理論によって、説明できる。ベイトソンの学習理論では、
コミュニケーションを広義な意味に取り、分類する。

ゼロ学習・・・刺激ー反応が単純な一対一で行われる。動物の本能など
学習T・・・単純な反復学習。パブロフの犬。
学習U・・・学習Tのコンテクストの学習。メタレベルの理解。

この分類では、ゲームにおいて、「みんな」、あるいは「ゲーム制作者」とのコミュニケーションは、
学習U。ゲーム内のコミュニケーションは学習T、あるいはU。そして機械操作は、ゼロ学習に
相当するわけだ。

169 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/06(火) 11:54:44
■「ゼロ学習」の快楽

すなわち、機械操作は、動物の「間」がないコミュニケーションと同じ次元にある。たとえば車を飛ばす
気持ちよさは、「僕はこんなに車を飛ばしているぞ!」という社会的なコンテクストとして、「みんな」への
自慢する気持ちよさがある。これは「間」埋める気持ちよさでもあるが、実は「間」がないことの快楽=
ゼロ学習の快楽もあるのではないか。これを一言で言うと、「身体の拡張」だ。車は足の拡張、PCは
頭脳の拡張という特性をもつ。このゼロ学習の快楽は、機械操作の継続が快楽を生む。さらにこれを
ボクは「フロー体験」につなげる。

たとえば、ケータイや2ちゃんねるなども、コミュニケーションが活発になる、2ちゃんの「祭り」などでは、
このような操作そのもの快楽もあるのではないか。このような操作の快楽では、「間」の不安は
擬似的に喪失しする。このように現代では深く思惟することが、回避される傾向にあるのではだろうか。

170 :没個性化されたレス↓:2005/12/06(火) 14:21:24
人間の快楽の一部分は予測性の精度と関係があるのではないでしょうか?
つまり、高いコントロール性が快楽を生じさせるというわけでしょう。
正にゼロ学習なんかですと、予測と結果の一致性ですよね?
そうすると矛盾無くスムーズに行動が進んでいくわけです。

対して、“予測と結果のズレ”が人間の意識に違和感や不安を生じさせるんでしょう。
たとえば、背中が痒かったらその部分をボリボリ掻きます。とても気持ちいいです。
今度は機械に掻かせてみます。同様に気持ちいいです。
そこで、機械に細工をいたします。操作をしても直ぐには作動しません。
そう、ディレイ(間)を生じさせるのです。
そう致しますと、人はそこに違和感を感じるのです。
自分の意思であって、自分の意思ではない。

これは、統合失調症にも見られるものです。
自分の思考であって、自分の思考だとは感じられない。
どこからか、何者かが自分の脳内に電波でしゃべり掛けている。
脳神経の情報処理のディレイが自己の思考の流れを分断して、別の何者かの思考として、
認識してしまうわけであります。


171 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/06(火) 17:51:21
>>170
ゼロ学習は予測と結果の一致性ではないです。
ゼロ学習は「刺激ー反応の単純な一対一」のみがある反射です。
予測とはその行為を、メタ的に見る学習T以上の目線が必要です。
行為を思惟する、そこに「間」が開きます。

機械操作をしていて、より上手く操作しようなどの予期は、
機械操作全体を見る目線からのものです。
ゼロ学習の快楽は、端的に体の一部のように操作されている状態が
快楽を生んでいる、ということです。
だから人間には純粋なゼロ学習はできませんが、機械操作がゼロ学習のような、
すなわち「間」による不安が消失しているような錯覚がうまれるのではないか、ということです。

172 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 10:44:09
これは機械操作というよりもむしろ機械の一部になることと考えた方がいいだろう。
間の喪失は心の喪失だからだ。


173 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 11:35:06
このような考え方としてアフォーダンスがある。
人間は象徴界により人間である以前に、生物として生存圏の一部として存在するということだ。
象徴界はシグナルに意味を与えるコミュニケーションを可能にする
いわば間を象徴界で埋めるとことであり、心を形づくる。人間は象徴界として存在する。
生存圏はシグナルが身体に直結する。間がなく、意味も心もない。
このようなシグナルの交換によって生物として規定される。
たとえば車が体の一部となるとき、体は車の一部となる。
車を運転している状態が有り様の可能性を規定している。
生物はこのような世界=環境との関係で存在しているのに対して
人間は環境自体を変革する能力をもつと言われる。たとえば車は人間が作った環境である。

174 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 11:48:22
自らが入る箱を作り出すだけでなく、容易に乗り換えることができる。
これは人間には間があるからである。
象徴界という世界を言葉としてつくかえることにより環境からの切りはなしを容易にしている。
しかし環境はなければならない。そして考える以上に環境インフラという下部構造に拘束されているのではないだろうか
それは象徴界自体が環境に拘束されているゆえの間接的な拘束だろう。

175 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 11:51:37
たとえば車は人間が作った環境であり、時代とともに変革されてきた。人間にはそのような力があるのだ。
しかし車を車として規定している下部構造としての環境があるだろう。

176 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 12:02:22
それは重力であり、資源であり、地形であるが、また人間の身体である。
身体にあわない車など意味がない。たとえば人間の力では動かないハンドルなど
さらには人間の知能では理解できない操作方法
使うだけで不快になるブレーキなど

177 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/07(水) 16:16:49
「性理論三編」中山元編訳『エロス論集』ちくま学芸文庫、136−7頁

身体にリズミカルに機械的な振動が加えられた場合に、性的な興奮が生み出されることを指摘しておく必要がある。
(中略)だから子供が揺さぶられたり、放り上げられたりするような受動的な運動を特に好み、こうした運動を何度も
繰り返して欲しがるのは、ある種の機械的な身体の振動が、決感を生み出すことの証拠である。むずかる幼児を
寝かしつけるためには、揺り動かすのが効果的であることは、よく知られている。車に乗ったり、また大きくなって
からは汽車に乗って揺り動かされることは、年長の子供を魅了するのである。
http://www.ipm.jp/ipmj/eizou/eizou30.html

178 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/11(日) 00:17:31
<機械操作の快楽 その2>

■「無」の快楽

機械操作をしていて、より上手く操作しようなどの予期は、機械操作全体を見る目線からのもので
あり、「ゼロ学習」ではない。機械を操作するというよりもむしろ機械の一部になることと考えた方が
いいだろう。「間」の消失は心の消失だからだ。ゼロ学習の快楽は「夢中」になるのではく、「無」に
なったときの快楽である。

だから「人間」には純粋なゼロ学習はできないのかもしれない。機械操作が「ゼロ学習」のような、
すなわち「無」として行われたときの「ランニングハイ」のようなものかもしれない。そしてその快楽は
いつも事後的にしか快感として認識できないのだ。


179 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/11(日) 00:18:03
■機械の一部になる

機械を操作するというよりもむしろ機械の一部になるというような考え方としてアフォーダンスがある。
人間は象徴界(言語)により人間である以前に、生物として生存圏の一部として存在している。
象徴界はシグナルに意味を与えるコミュニケーションを可能にする、いわば「間」を象徴界で埋める
とことであり、心を形づくる。

生存圏はシグナルが身体に直結する。「間」がなく、意味も心もない。このような「無」の状態での
シグナルの交換によって、生物として規定される。たとえば車が体の一部となるとき、体は車の一部と
なる。車を運転している状態が人の有り様の可能性を規定している。

生物はこのような世界=環境との関係で存在しているのに対して、人間は環境自体を変革する能力を
もち、なおかつ容易に乗り換えることができる。これは人間には「間」があるからだ。象徴界という
世界を言葉としてつくかえることにより、環境からの切りはなしを容易にしている。

180 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/11(日) 00:19:19
■車は身体化し、心は「無」化する。

しかし環境はなければならない。そして考える以上に象徴界は環境という下部構造に拘束されている
のではないだろうか。たとえば車は人間が作った環境であり、時代とともに変革されてきた。人間には
そのような力があるのだ。

しかし車を車として規定している下部構造としての環境がある。それは重力であり、資源であり、
地形であるが、また人間の「身体」である。身体にあわない車など意味がない。たとえば人間の力では
動かないハンドルなど、さらには身体とは単に物理的な体のことではない。人間の知能では理解
できない操作方法、使うだけで不快になるブレーキなども、意味がない。

人間の操作可能性、快適性などを考慮するときに、車の構造は規定される。車は身体化し、心は
「無」化する。人は歩くときにいちいち足の運びを意識しない、ようなことだ。これは人間が作り出す
生活環境というインフラ全般で言えるだろう。そのように考えると、人間が作り出す環境も
アフォーダンスとして機能している、それは身体の一部であり、身体が環境の一部なのである。

181 :没個性化されたレス↓:2005/12/17(土) 09:38:36
そうかな?

182 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:42:07
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。

>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎

http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html

私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。

私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。

主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<

ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。

183 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:42:55
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。

>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。

http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html
<<

たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。

それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。

184 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:44:11
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する
のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる
ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。
これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに?
なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、
簡単には以下のよう意味になる。

クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験

主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし
最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の
問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉
でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、
意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。

185 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:45:45
■言語システムと生命システム

ラカンの強力さをあえて簡潔にいえば、僕たちは言語システムに組み込まれ、自分の意志で
おこなっているとする発情することも欲望することも言語システムによるものだということだ。
この呪文は、「なわけない」とい思いながらも、考えれば考えるほどぬけられない。これをデリダであり、
東であり郵便的といおうが、本質的にはなにもかわらない。

しかしこのような言語システムに自覚的になることは言語システムの活性化につながる。言語システム
は差異の体系による静的な構造物でなく、ラカンがシニフィアンの連鎖といったように
コミュニケーションによりたえず蠢く動的なシステムである。すなわち一つの創発システムである。
僕たちはシステムの一パーツであるが、システムの創発性は僕たちの振る舞いがシステム自体を
大きく変える可能性をもっている。

さらにパースペクティブで語ればこの世界そのものか構造でできている。それは言語システムと同様に
創発システムである。たとえば進化はランダムから生まれるが、創発的に構造化された動的な
システムている。僕達は進化、コミュニティなど多重にシステムに組み込まれ、それそれへ影響する
存在である。

186 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:46:47
■人間という症候と生命力

ここにおいて、僕達のエロス(生の欲動)であり、自由意志を抽出することに意味があるだろうか。
しかしそれでもこの多層なシステムの一部である、「この私」とはなんだと問うのが人間という症候で
ある。猿も蟻もヒヤシンスもミジンコもとわないだろうに。

ラカンでつなげれば、「この私」とはそのはじめに失われている。他者の鏡像であり、言語システム
として疎外され、取り戻すことで、ありつづける存在である。たとえば生物が遺伝子という先天性に
より、「ある」がそこに「私がない」とすれば、人は先天性を見失い、「ない」ことが「私である」といえる。
私とは失われているものを取り戻すという動力である。

生物には生き長らえるという強い生命力という動力がある。この力が進化を推し進めているという
よりも、進化のという創発性そのものが生命力であるといえる。当然人間にも生命力は働いている。
そして人の失われたことによる動力との関係はどのようなものか?

これにはさまざまな考え方がある。フロイトのエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の対立、ラカンの
失なわれた現実界、ドゥルーズの器官なき身体など。ボクはフロイトにならい力動的にとらえた。
はじめにエロスあり、しかし人間では象徴界からの抑圧により、それはあるときはエロスと呼ばれ、
またあるときはタナトスと呼ばれる。しかし社会、言語秩序において過剰な力としてあらわれる。
人間とは象徴的秩序により力の行き場を見失った存在である。

187 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:47:37
>>
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まって
いるような安定した状態である。

そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等速度運動しようとする

それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、
自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。
すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの減少)に対抗する力であり、環境と相反し
安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰である、人間的な力が
タナトスである。

多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつもエロスは環境の力に対して
不足しているのである。しかし人間が環境の内部に秩序世界を構築したとき、その内部でエロスは
過剰へと転ずる。その過剰性がタナトスである。
<<

188 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:50:23
■創発システムの階層構造

再度いえば、このような力は、創発的なシステム内の力として生まれている。このような創発的
システムは、ある個体はパーツからできたシステムであり、また上位のシステムのパーツであると
いう階層構造にある。たとえば「私」という個体は細胞によるシステムであり、社会のパーツである。
そして個体性とは、明確な単位でなく、自律性の強度を表すものである。

だから個体性の力とは個体というシステムを維持しようとする力である、また上位のシステムを維持
しようとする力である。そしてこのような力はランダムから偶発的に発生した創発秩序に内在するもの
である。あるとき偶発的に生命は生まれたのであり、進化は始まったのです。その創発性の中で、
私という個体性というシステムは生まれたのである。言語システムも生命というシステムの一部
である。

189 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 21:51:15
■生命記号論

このような科学的知見も言語システムの一部であり、人間の発明した相対的なものであることは
否めない。言語とはなにかといえば、還元である。アナログ情報のデジタル化といってもよい。なぜ
デジタル化するかといえば、大量な情報を扱える程度に縮小するためである。

しかし「科学は単なる主観である」と、相対主義に陥るのでなく、たとえば科学は近似的にでも世界
そのものを表記しえていると考えられないだろうか。この世界という秩序は、創発的な構造物で
できており、人が言語としておこなうようになんらかの還元作用によっている。だから科学はその
構造に近づく、近似的であるが、有用な方法である。

このような考え方に、パースの記号論を活用し生命を記号として表記する「生命記号論」がある。
@対象をA解釈項によってB記述する。これはまさにボクのいう還元であり、アナログ情報の
デジタル化であるとともに、言語システムである。ラカンに当てはめれば、@現実界をA象徴界に
よってB想像界として記述する。

そして問題は言語システムでは、解釈は主体が行うのであるが、生命においては誰が行うのか。
「生命記号論」では細胞である。たとえば遺伝子を細胞が解釈し、具現化するということが示されて
いる。創発性という秩序化は、このような還元システムが作動するということではないだろうか。

190 :没個性化されたレス↓:2005/12/30(金) 23:30:59
キンタマをいくつも持つ男

自演コテ犯=【苦悩するドナ ◆oyDevpsyVg =ロボ ◆SOOOOROBOM】

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1046868314/458-464

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1116159415/53-68

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1011054931/607-610

191 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:16:22
21世紀の、新しい心の科学を確立させるためには、
物理・遺伝子・生物・心理・言語・コンピュータなどの各学問分野を、
思い切って、一元的に統合してしまう必要があるようです。
そこで、新しい心の科学の名前を「フュージョン」と仮称することにしてみます。

フュージョンは、今からこの場で作るものなので、
ややこしい説明抜きで、傍目に、イメージしやすい印象を持たせておく必要があると思います。
そこで、難解な専門用語の使用を避けて、
中学生レベルの基礎教養+アルファの予備知識程度で、
簡略に片付くように組み立ててしまおうと思います。

アウトラインは私が仮組みしていきますが、
細部のパーツの組み付けは、不充分な個所も多い筈なので、
皆さんで、辻褄を合わせを試みてください。

192 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:18:46
まずは、新しい心の科学=フュージョンの、プロトタイプ、バージョン1を創ってみます。
さっそく、フュージョン1(読みは、フュージョン・ワン)の、
最も基底核部分となる、物理パートを策定する作業に取り掛かりましょうか。
まずは、物質から生命の構造が作られるまでを追ってみます。

この宇宙は、ビッグバンと呼ばれる大爆発によって誕生したと、
偉〜い物理学者の諸先生達が連呼しているようなので、この場はこの説が正しいと仮定します。
つぎに、ビッグバンによって、宇宙は非常に小さくて密度の高い点のような高温状態の火の玉から、
大爆発によって、周囲へとエネルギーが飛び散って、百数十億年を費やして拡散していった結果、
今の宇宙は、ある程度まで、温度が下がってきているようです。
もしも、この大爆発のエネルギーの拡散が、完全に均一なものだったならば、
今も宇宙は均一な温度と物質の分布になっている筈ですが、
銀河や星々の分布を見ると、この宇宙は、どうやらランダムで不確定な要素で動いている様子です。
地球上の地形や、そこに住む生物まで含めると、複雑怪奇な有り様になっているようです。

193 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:20:04
エネルギーの拡散=散逸は連続したアナログ的なもので、
多少ランダムな要素が加わっても、波動性が現れる程度と考えられているようです。
ところが、この宇宙にはどうやら、銀河や星や原子といった、様々な階梯で、
不連続の粒子性を持ったデジタル的な構造を生み出す法則も備わっている様子です。

アナログなエネルギーが散逸する流れの中に、デジタルな構造化の法則が現れた結果、
エネルギーは物質へと構造化され、物質はより複雑な生物へと構造化され、
最後に、人の心の精神構造や、人の意思が集まって動く社会が構成されていったと考えられます。
この構造化していく原理から生まれた法則性は、上へと階梯が進むにしたがって、
下位の法則性を踏襲しつつ、複雑に組み合わせられていく性質があるようです。
つまり、構造化の法則性は、物理現象から人間の精神まで、一本に連なっているようなのです。

新しい心の科学フュージョン1が、物理・遺伝子・生物・心理・言語・コンピュータなどの各学問分野を、
一元的に統合してしまうためには、構造化の原理を、法則性から見極めてしまえば良いようです。

194 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:21:32
物質的な存在から、人間の心まで、
一貫した同じ構造化の原理と法則性で作られているらしいのですが、
物質と生命の構造には、顕著な違いがあって、混同できないことも事実のようです。

自然界に普通に存在している物質と、生物の最も大きな違いは、
石ころなどの物質は、放置しておいても存在し続けることが可能なようですが、
生物は、外部から食物や酸素などの、高エネルギーを持った化学物質を、
体内に取り入れられなくなると、あっという間に死んでしまうことのようです。
つまり、常時エネルギーの流れが続いていない限り、構造を保ち続けることが困難な様子です。
生命は、散逸するエネルギーの流れの中にしか存在できない構造物なので、
物理学畑の方々からは、散逸構造といったキーワードで呼ばれることも多いようです。

生命と非生命を、構造化という視点から区別するときに、
散逸構造か非散逸構造かが、最も重視されるようですが、
かといって、生物は単なる散逸構造でもない様子です。
じつは、恒星なども、散逸構造になっていることが判ってきているようですから。

195 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:22:53
生物の場合には、たとえば、光合成によって光のエネルギーを糖やでんぷんの形に移すことで、
外部から取り込んだエネルギーを、自分が利用しやすい形に変えて蓄えたり、
誕生して以降、自分の体の中に取り入れたエネルギーと、様々な物質を利用して組み合わせることで、
自分自身の構造を、どんどんより複雑なものへと変えていく=成長する 点などが、
太陽などの、非生命の散逸構造物とは、明らかに異なる特徴のようです。

生命は、自らを自己組織化していく自律的な生成機能を備えた、散逸構造体と、
新しい心の科学フュージョン1の中では、科学的に定義するのが良いようです。
これで、物理学から生物学へと、階梯を繋ぎながら、ワンステップ上に昇ることができるようです。

今回さらりと簡略に観察した、生物の構造化の原理や法則性は、
後々人間の心の構造化を探るうえで、それなりに重要になってくると思います。

196 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:24:17
21世紀の高度情報化社会に相応しい次世代の心の科学フュージョン1が、
なぜ、物理から生物、そして心理へと、階梯を進めようと試みているかと言えば、
人の心の構造を探るために必要な、生命の構造化規則を明らかにしていくためです。

生命は、有限要素のフラクタル的な階層構造、端的に言えば重箱の構造を備えているらしくて、
下位の階梯を成立させている、単純な原理や法則が幾つか組み合わせられることで、
より複雑な、上位の階梯の構造が生成されていくようなのです。
そのとき、下位の構造化の規則などが、姿を変えながらも、
同じパターンを描いて、上位の構造の中に現れてくることが、しばしば観察されるようなのです。

ですから、複雑な心理メカニズムの構造が、直接調べられず判らない場合でも、
下位の構造化規則を幾つか組み合わせて作った、
仮想モデルによるコンピュータ上のシミュレーションと、
実際の心の動きを比較してやることで、心理メカニズムの構造を、推定することができるわけです。

新しい心の科学フュージョン1では、自己組織化する散逸構造体として、人の心を扱いたいのです。

197 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 01:26:21
物質の世界を支配している諸法則が組み合わさって、
自らを自己組織化していく自律的な生成機能を備えた、散逸構造体が生成されるまでを、
うまく辻褄を合わせて説明する作業のパートを、
フュージョン1の物理パートと、仮称することにしましょうか。

もちろん、このパートを完成させるためのパズルのパーツが、揃ってきているとは、
まだまだ言えないのではないかと思います。

生命は、食物の摂取や呼吸によって、エネルギー物質を採り込んで、
自らの散逸構造を維持しているといった、生命の作動原理の基本部分は、
一通りイメージできると思います。
今回は簡略に、この程度の理解度で生命原理をイメージして済ませることにしますが、
必要となれば、このパートのパズルをより詳細に解き明かす機会もあるだろうと思います。

198 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 15:22:37
ほう

199 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 19:27:16
1.白衣の軍団
  神経生理学者のほとんどが入る。意識は脳の機能であると考える。脳の画像化技術
  の進歩や、解剖学、生理学、分子生物学などの分野の膨大なデーターに支えられている。
  恋愛中とは言わないで、扁桃核の活性がきわめて高くなっているという言い方を好む。

2.問題はむずかしいよ派
  白衣の軍団は、視覚、言語のようなやさしい問題は扱えるが、主観的な各人の体験が
  いかにして生ずるかといったむずかしい問題には手が出ない。
  それを理解するには新しい考え方がいる。我々の内にある心とは正確には何か。それが問題だ。

3.大問題なんかないよ派
  意識そのものが問題だなというのは、生気論(生命は無生物界の法則とは別次元の
  法則に支配されているとの考え)と同じである。意識は実際にはいくつもの具体的な
  部分に分解されてしまう。問題なのは脳内のきわめて複雑な結合関係である。
  その意味ではロボット研究が重要で、おびただしい数の機能を集約すれば、
  意識だってロボットに生じるに違いない。

200 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 19:28:06
4.フロッピーディスク上の脳派
  脳の様々な機能を、ソフトウェアーの上で実現すれば、脳の中の結合関係なんか調べなくても済む。
  認識を形式的な倫理計算としてとらえ、人間並みの人工知能をさっさと実現してしまえ。

5.認知学派
  意識の理解は、実験心理学を中心として、それに神経科学の知識を加えれば、
  一番よく進む筈だ。

6.炭素中心主義者
  意識は生物学的に生じた、脳というものが創り出す特異な性質である。
  それは水が液体だというのと似たようなことだ。

7.創発的階層構造派
  自然は階層構造をもっている。それぞれの階層の働きが、一つ上の階層では新しい
  創発的な性質を生み出す。神経科学的な事象から意識が生じ、意識から文化が生じる。

201 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 19:28:41
8.神秘派
  脳の働きをいくら調べたところで、意識という体験はわからないままのはずだ。

9.量子神秘派
  意識は神秘である。量子力学も神秘である。ゆえに「神秘最小限化の法則(あらゆる
  神秘は同じことの異なる現れである)」によりこの二つは同じことであるはずだ。

10.瞑想派
   意識が神秘であるならば、それを正しくとらえるには瞑想するしかあるまい。

11.人文、民族心理派
   現実生活にどんな関係があるのか。問題はそれだけである。個性や健康や社会に、
   意識の理解はどう影響するのか。

12.超能力派
   物質を制御する精神的能力について考えるべきだ。

202 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 20:53:37
<一元論だお派>


1.すべてのものは心
  観念論、汎心論、現象主 / バークリ、テイヤール・ド・シャルダン、とか

2.脳と心は単一なものの非常に多くの側面、ないしは現れ
  中世的一元論、二重側面説 / スピノザ、ファイグル、とか

3.心などない
  消去的唯物論、行動主義 / J.B.ワトソン、クワイン、とか

4.心は物理的
  還元的ないしは物理主義的唯物論 / エピクロス、ファイアーベント、とか

5.心は創発的な脳の諸機能の集合
  創発主義的マテリアリズム / ディドロ、ダーウィン、とか


203 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 20:54:14
<二元論だお派>


6.脳と心はそれぞれ独立
  ヴィットゲンシュタインとか

7.脳と心は平行的、あるいは同時生起的
  精神物理的平行説、予定調和説 / ライプニッツ、(一部の)ゲシュタルト心理学徒、とか

8.脳が心を生み出す
  随伴現象説 / ハクスレー、エイヤー、とか

9.心が脳(身体)を操作する
  アニミズム / プラトンとか

10.脳と心は相互に作用する
   相互作用説 / デカルト、ポパー、とか


204 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 22:43:02
 <行動主義心理学> 

   外界 = 刺激(S)     ◆刺激(=外界)の実在性
         ↓
        反応(R)


 <新行動主義心理学> 

   外界 = 刺激(S)           ◆刺激(=外界)の実在性
         ↓ ←── 生活体(O)  ◆OによってSは変化しない
        反応(R)


 <ゲシュタルト心理学>

 (地理的環境) (行動的環境=アクチュアル) ◆刺激≠外界(リアルとアクチュアルを分ける)
       ↓    ↓                   ◆知覚の実在性
      外界 ≠ 刺激(S)
            ↓ ←── 生活体(O)
           反応(R)

205 :没個性化されたレス↓:2005/12/31(土) 22:43:52
<ギブソンのモデル>

    外界 = 刺激(S)     ◆外界はアフォーダンス(潜在性)をもつ
          ↓           ◆外界=実在
         反応(R)


 <実在論>

     外界         ◆外界の実在性
      ↓          ◆ 反応の主観性
     反応(R)


 <現象論>

    外界(?)→ 現象学的世界   ◆知覚レベルでの実在性の確信
             =刺激(S)


 <認知心理学>

    外界 → 照合 ← 学習       ◆外界の実在性
         ││    ↑      ◆知覚性の否定
     反応. ←┘└──┘

206 :没個性化されたレス↓:2006/01/01(日) 18:29:07
バカが集まるスレですね

207 :没個性化されたレス↓:2006/01/01(日) 19:14:59
大晦日、正月という不思議の空間。
クリスマス前当たりから、師も走るほどに街のテンションが上がっていく。
このような間主観的な興奮状態には、ライブが求められる。

それにしても、プライドって生でなかったのね。なんかガックシだな。アウラが消えるよね。

一頃で言えば、お祭りであるが、お祭りは無垢の供給装置である。
お祭りない退屈な人生を人はいきられない。

それは刹那的でなく、給備的である。
定期的なアドレナリンの噴出は、活性化である。

人にはエロス(生の欲動)がわき出てくる。
生きることはそれだけで大切である。
しかし日常という反復は退屈である。
その終わりなく日常からの抑圧からの噴出するエロスの残余
それはむしろ、あえて危険へ近接するタナトス(死への欲動)となる。
祭りはこの過剰性を吸収するのだ。

現代は、日常が祭りかしていると言われる。
いまや一般化したバラエティーはその昔は、正月のみに行われる
無礼講番組に起源をもつと言われる。
お正月番組の日常化、それは街さえもバラエティー化、
流動性の高い社会として。街の劇場化、街のイベント化

その中で、即興的、瞬発的な快楽が求められる。
それは、テクノロジーにより、「視覚エクスタシー」として提供される。

エクスタシー化する社会に僕たちは生きているのだ。

元旦えくすたしぃ〜

208 :没個性化されたレス↓:2006/01/01(日) 19:15:36
プライドはお祭り化しすぎてきていないだろうか。
その興奮はガチであるという興奮にある。
そこに象徴的な物語があることは避けられない。
小川と吉田には物語があるんだろう。
その物語のシニフィアンの連鎖に僕たちの欲望は流されていくのだが、
しかし、プライドはプロレスとは違う。
物語化しすぎた、物語化されてヒーローがいつも勝つプロレスとは違う。

そこにあるエロスとしての力に僕たちは欲望するのだ。
いや、興奮し、エクスタシーするのだ。

そのような欲動の核を彩り、飾る言葉はいらないのだ。
ボクたちはただ闘い、殴られ、倒れるその姿へ
共鳴することによって、無垢を見いだすのである。

209 :没個性化されたレス↓:2006/01/02(月) 13:03:57
明けましておめでとうございます
ぴかあさんのエリクチュールはいつも楽しみにしております
日本はあいかわらず寒いのでしょうか?

210 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 00:01:11
ごくろうさまです。たいへんよくまとまっていますが、
問題の核心である精神分析的欲動論が、奇妙にスルーされているのが、
残念ですね。

211 :没個性化されたレス↓:2006/01/03(火) 02:06:50
エロスとタナトス。
生の欲求と死の欲求。
確実性と不確実性。
規則と逸脱。

不確実性、逸脱は変化をもたらす。
生命体は一定の規則を守り続ける。
しかし、時として規則からの逸脱を行う。
そしてその逸脱が別の規則を作り上げる。
生命体はその繰り返しにより進化をとげた。
いわば、安定を維持するというシステムと
変化する不安定という相反するシステムが
生命体には刻まれているのだろうか?

212 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 03:00:33
不安定は、環境です。
生命体(生と死)/環境の対立です。

213 :没個性化されたレス↓:2006/01/03(火) 04:11:14
生命体内部での秩序の安定(規則)と
安定の崩壊(逸脱)のことです。
逸脱による変化の蓄積が生命体の高次化を推し進め
また、変化に対する可塑性を高めたかもしれません。
いわば、安定に飽きたらずそれを破壊するという衝動は、
いつ変化するか知れない環境に対処すべく、
系統発生の過程で身に刻んだ本能なのではないでしょうか?

214 :没個性化されたレス↓:2006/01/05(木) 08:23:32
逸脱に到っても崩壊が起こり、安定しても破壊衝動がおこる。
どうしろというのだろうか。

215 :没個性化されたレス↓:2006/01/05(木) 12:27:03
そうなんです。
詳しくは書きませんが社会生活を送るうえで、いつでも人は隙を見てルールから外れようとする力が働きます。
ですから、より強力なルールのルールという拘束条件が必要なのです。
そのような我々を監視する強大な規則のまなざし=スーパーエゴの力を感じながら
人は社会という檻の中で暮らしているのです。

216 :没個性化されたレス↓:2006/01/08(日) 16:43:51
俗に飛蝗といわれる殿様バッタがいます。
普段は原っぱなどにいるごく普通のバッタとして生息しています。
それが、環境の変動によりエサ場所が限定されると、
その場所に多数のバッタがひしめきあうことになります。
するとどうでしょう。
個体密度が高くなると同時に、フェロモン濃度も爆発的に濃くなります。
この濃度の増加がバッタのDNAに変異を生じさせるのです。
そして、バッタは長い翅へと変異し、より強いフェロモンを分泌しながら、
されなる巨大な群れを形成しつづけます。
変異した長い翅により、長距離の飛行が可能になり、群れで移動しはじめ、
エサを求めて何千キロも移動をしながら、行く先々で植物を食べ尽くすのです。
エサが食い尽くされてしまうと、個体数が激減し密度が低下すると同時に、
元の普通のバッタに戻るのです。

まとめると、外部環境がDNAの解読に変化をもたらし、
個体発生を別なパターンに切り替えるのです。
バッタは、進化の過程で環境に応じてDNAの解読を変化させ、
つまり、個体発生を変化させる機構が組み込まれているのです。
ということは、DNAはおおまかに、遺伝子という情報と
情報の解読パターンにわけられます。
遺伝子が同じでも、解読パターンが異なれば、ことなる個体発生が生じるのです。


217 :没個性化されたレス↓:2006/01/13(金) 08:17:48
age

218 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 21:45:08
■「無垢」ジャンキー

主体とは否定神学システムである。否定神学システムとは消失点(断絶)を空想で隠す。消失点とは
自己言及点だ。この「私は誰だ」に答えられないというシステムの不全点から、「お前は誰でもない」と
偶然性が進入し続ける。だから「オマエモナー」は空想を暴露し、恐怖の消失点をちらつかせる
呪文だ。この言葉により、フレーム問題の前で人はフリーズする。空想は「私」を溶解させる消失点を
隠すベールだ。人は消失点から逃れるために、空想を見る。空想とは「私は誰でもないこの私だ」
という現実(リアリティ)そのものだ。

219 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 21:45:52
現代の情報化社会は、消失点からの偶然性の進入を活発化させている。もはや単純な空想は
溶解されてしまう。たとえばもはや人はブルジョア/プロレタリアートのような二項対立の空想を
見れない。このような話は、人はオヤジギャクのように、むしろ嫌悪を覚える。それは、空想として
機能するのではなく、むしろ現実が空想であることを暴露するからだ。これは、なぜ人々がオタクを
嫌悪するのか、と同じ理由である。人々がオタク化するのは、現代に適合するために必要なこと
である。オタクはベタな空想に埋没できる能力だ。しかしオタクが見る空想はベタすぎる。それは
人々の現実さえも空想であるということを露出してしまう。

220 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 21:47:00
求められる空想とは「無垢」であることだ。現代の情報化社会では、「無垢」は現れては、すぐに消費
されと劣化し、つぎの「無垢」を求められる。人は「無垢」の欠乏に対して、消失点からの偶然性の
進入を活発化させる「空想」を求めているのだ。それは流行り廃りの早さであり、科学の進歩であり、
資本主義であり、ハムスターの回し車のごとく、欲望の終わりなき加速化を起こしている。

221 :没個性化されたレス↓:2006/02/25(土) 21:50:52
なにこのバカ

222 :没個性化されたレス↓:2006/02/26(日) 19:57:41
心狸ガクは女性専用車両みたいなものです。マトモな♂は専攻しません。
女便所みたいなものです。
臨床心理士の資格を欲しがるのも♀です。

優秀な♂は全く別の方面へ進出します。



心理ガクは【学】という字が付いていますが、学問ではありません。
新興宗教の一つです。臨床心理はそこから追い出された分派です。
詳細は↓をご覧下さい。

http://www.ads.fukushima-u.ac.jp/~tsato/sato/asobo/distionary.html

223 :没個性化されたレス↓:2006/06/13(火) 08:13:52
このスレどうするんだよ

224 :没個性化されたレス↓:2006/10/23(月) 01:58:03
どうしたいの?

225 :没個性化されたレス↓:2006/11/07(火) 19:53:12
最後の手段、刑務所暮らし
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/okiraku/1131324005/

226 :没個性化されたレス↓:2006/11/07(火) 19:59:16


  ア ホ な 心 狸 ガ ク ト に 妄 想 は 宿 る




227 :没個性化されたレス↓:2006/11/07(火) 19:59:25
君たちに呪いをかけたよ。
君と家族が破産し路頭に迷うというね。
それを防ぐには、下記スレに「シナ氏ね」と書くんだ。
健闘を祈るよ。

http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gender/1146457006/

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