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【日本の思想】丸山眞男スレッド【丸山真男】

1 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 12:53:50
8月15日で没後十年。

いま、丸山眞男を再び語り合うスレ。

2 :関連現行スレ:2006/07/25(火) 12:56:35
■ 社会学板

●卍●丸山真男総合雑談スレッド●卍●
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1049548354/

【世界的】筑紫哲也丸山真男鳥越俊太郎【三賢人】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1110256598/


3 :関連現行スレ:2006/07/25(火) 12:57:37
■ 政治思想板

丸山真男
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1141131830/

4 :基本データ:2006/07/25(火) 13:00:25
http://ja.wikipedia.org/wiki/丸山真男

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%DD%BB%B3%BF%BF%C3%CB

5 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 13:07:27
とにかくこの二冊を読まないことには始まらない。
まず一読を。高校生でも読めます。

『現代政治の思想と行動』未來社
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4624300041/

『日本の思想』岩波新書
http://www.amazon.co.jp/gp/product/400412039X/


6 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 15:07:48
age

7 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 15:56:06
【論文】

柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム」

(「思想」8月号・岩波書店)

8 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 16:27:30
質問

丸山眞男って左翼ですか?

9 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 16:33:56
学生運動華やかななりし頃、全共闘に研究室占拠されそうになって対立したはず。

吉本隆明にも批判されてる。

だから左翼ではない。

右翼かどうかは不明。

10 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 16:38:55
まさおだけはガチ

11 :考える名無しさん:2006/07/25(火) 19:32:41
学生運動やってた連中が似非左翼だったということ

12 :考える名無しさん :2006/07/25(火) 19:58:59
>>8
70年代ぐらいまでは、右派から見れば進歩的知識人ということで左派扱い。
80年代以降は、左派から見れば国民主義者ということで右派扱い。

要するに論者の立場によって、左翼・リベラル・右翼という異なる位置づけになる。

13 :考える名無しさん:2006/07/26(水) 22:39:31
丸山は近代主義、教養主義で
ナショナリズム的なところもそこそこ
あるから文字通り中道じゃないの?

14 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 15:57:09
頭が良いのはわかるが、嫌い。

加藤尚武の丸山批判を読んで、もやもやが少し消えた。


15 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 16:05:23
>>14
なんて本?

16 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 21:36:54
フーコーとの対談は活字になってないの?

17 :考える名無しさん:2006/07/29(土) 17:04:30
>>14
たしか、「進歩の思想 成熟の思想」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061593102/503-4327567-9741528?v=glance&n=465392&s=books


18 :考える名無しさん:2006/07/31(月) 12:04:10
今こそ右翼扱い

19 :考える名無しさん:2006/07/31(月) 12:06:16
『思想』2006年 第8号 No.988 
164ページ 定価 1,400円

特集=丸山眞男を読み直す

思想の言葉 佐々木 毅(2)
国際政治論のなかの丸山眞男――大正平和論と戦後現実主義のあいだ――酒井哲哉 (5)
回想と忘却――丸山眞男の 『神皇正統記』 論をめぐって 苅部直 (26)
丸山眞男における 「政治」 孫 歌(36)
丸山眞男とアソシエーショニズム柄谷行人 (54)
丸山眞男における 「自由」 と 「社会主義」 三宅芳夫 (70)
近代の彼方――歴史意識を手がかりに大澤真幸 (89)
丸山眞男の憲法論――宮沢俊義との関係高見勝利 (104)
丸山眞男と社会主義――いくつかの断面米 原 謙 (120)
政治社会の内部と外部 ――丸山眞男の位置をめぐって―― 都 築 勉 (146)

http://www.iwanami.co.jp/shiso/0988/shiso.html

20 :考える名無しさん:2006/08/24(木) 11:57:11
「未来」2006年8月号(No.479)
《丸山眞男没後10年特集》

『〔増補版〕現代政治の思想と行動』への想像上の「追記」  石田雄
「知」への出発点としての丸山眞男  筑紫哲也
丸山思想史学、遠望する灯火  安丸良夫
アジア史研究から見た丸山政治思想史学  趙景達
引き継ぐということ──丸山眞男と竹内好  菅孝行
思考の起点について  市村弘正

21 :考える名無しさん:2006/09/04(月) 15:04:20
丸山真男《日本の思想》読ませていただきました!私は彼の論じる日本の政治文化
の特性がよくわかりません!どなたかわかり易く説明していただけないでしょうか?

22 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 12:46:09
>>21
・所与の現実や実感に重きを置き、抽象的な制度や理論を嫌う「実感信仰」
・外来の制度や思想を、それらが生み出された抽象化プロセスや精神性に注目せずに、完成品としてのみ受け取る「理論信仰」
これらの傾向によって制度や思想のフィクション性・可変性が理解されず、現実と同じ水準で比べられることで常に理論が退けられてきた。
退けられた理論はまた別の理論にまるごと取り替えられ、他の思想とは無関係な位相に無秩序に蓄積されるだけ。
したがって日本にはフィクショナルなレベルで制度や理論を考え、新思想と対決し、新たな思想を構築するための伝統が存在しない。
以上のことから、日本の思想には「精神的雑居性」が著しい。

漏れの理解ではこんな感じ。テキトーにまとめたので正確でないかもしれんが。
しかし書いてて思ったが、ここから「古層」論まではあと一歩なんだな。

23 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 17:43:29
日本では「思想」は、知的アクセサリーのような机上の価値しかないから

24 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 22:25:15
22さん!俺もその本読んだことあるんだけど、最初の方に書いてあって
無構造の伝統がよくわかりません!超わかり易く噛み砕いて教えてください!

25 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 22:34:47
>>22
いいまとめだと思うよ。暇があったらでいいんだが、Wikiの「イデオロギー」の項目を
修正してくれると助かるんだが・・

 <<Wikiより抜粋>>
 丸山眞男は『日本の思想』のなかで、日本社会においては伝統的にイデ
 オロギー批判が理論的・政治的立場でおこなわれることがなく、現実肯
 定という形で既成の支配体制への追従が繰り返されてきたと述べた。こ
 の現実肯定という形である種の理論を無価値化することを丸山は「実感
 信仰」とよび、西洋の「理論信仰」と対置させているが、・・・

26 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/13(水) 17:04:37
丸山眞男氏について、谷沢氏は「国民を冷酷に二分する差別意識の権化」とし
て、丸山氏の著書よりの引用として<次に問題へのアプローチの仕方として前
もつておことわりしておきたいのは、日本ファシズムをいう場合、何よりファ
シズムとは何かということが問題になってきます。「お前いきなり日本ファシ
ズムというが、日本にそもそも本来の意味でのファシズムがあったか、日本に
あったのは、ファシズムではなくして実は絶対主義ではないのか、お前のいう
ファシズムの本体は何であるか」という疑問がまず提出されると思います。こ
れについても私は一応の回答は持っておりますが、ここで最初にそれを提示す
ることはさけます。そういうことを、お話すると勢いファシズム論一般になっ
てきます。ファシズムについてはいろいろな規定がありますけれども、こうい
った問題をここでむしかえす暇はとてもありません。そこでここでは不明確で
はありますが、ひとまず常識的な観念から出発することにします。>
 「増補版 現代政治の思想と行動」(昭和三九年五月三十日・未来社)・p三〇
 これは丸山氏が昭和二二年六月二八日に東京大学法経二五番教室において「
日本ファシズムの思想と運動」と題しておこなった講演です。谷沢氏は問題の
根幹をなす日本ファシズムの本体は何かという解答はこの講演録だけでなく、
丸山氏の著書「増補版 現代政治の思想と行動」のどこにもでてこないと指摘しています。
 根拠も示さずに丸山氏は<それは日本ファシズム運動も世界に共通したファ
シズム・イデオロギーの要素というものは当然持っているからであります。>・p四〇
と書きます。


27 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/13(水) 17:05:41
そして、丸山氏は日本にファシズム運動があったか否かのなんの検証もしないままに、
<日本におけるファシズム運動も大ざっぱにいえば、中間層が社会的な担い手になって
いるということがいえます。しかし、その場合に更に立ち入った分析が必要ではないか
と思います。わが国の中間階級或は小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別し
なければならないのであります。第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請
負業者、小売り商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員
村役場の官吏・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、>
<第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリ
スト、その他自由知識職業者(教授とか弁護し)及び学生層>・p六三
<学生層ー学生は非常に複雑でありまして第一と第二の両方に分かれますが、まず皆
さん方は第二類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型をわれわれはファシズ
ム運動をみる場合には区別しなければならない。>  <わが国の場合ファシズムの
社会的基盤となっているのはまさに前者(第一の類型)であります。第二のグループ
を本来のインテリゲンチャというならば、第一のグループは疑似インテリゲンチャ、
乃至は亜インテリゲンチャとでも呼ぶべきもので、いわゆる国民の声を作るのはこの
亜インテリ階級です>・p六四
<先にあげた第一の範疇(「小工場主、町工場の親方」以下を指す)は実質的に国民
の中堅層を形成し、はるかに実践的行動的であります。> <しかも彼らはそれぞれ
自分の属する仕事筋、或は商店、或は役場、農業会、学校など、地方的な小集団にお
いて指導的地位を占めている。日本の社会の家父長的な構成によって、こういう人達
こそ、そのグループのメンバーー店員、番頭、労働者、職人、土方、傭人、小作人等
一般の下僚に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の「大衆」の思想と人格と
を統制している。


28 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/13(水) 17:06:39
(中略)にもかかわらず彼らの「小宇宙」においてはまぎれもなく、小天
皇的権威をもつた一個の支配者である。いとも小さく可愛らしい抑圧者であ
ります。>・p六五
と、驚いた事に日本の中間層がその日本ファシズムの担い手であったと断定
し、弾劾し、職業によって二つに分けます。

 谷沢氏は東大でおこなわれた丸山氏のこの講演について
<日本社会の中堅層をここまで軽蔑して、見下して、踏みつけにして、悪し
ざまに罵った文献は史上最初の出現ですから、日本人による日本国民への徹
底した罵倒として、外国人の立場からまことに、まことに興味ぶかく多くの
人の手から手へ読みまわされたことでありましょう。>と著書「悪魔の思想」
に書いています。・p八六

 丸山氏自身がその著書「現在政治の思想と行動」の執筆動機について、み
ずからの回想として<私は日本社会の恥部をあばこうと試みている>「後衛
の位置から」p一〇
と自認しています。
http://www.tamanegiya.com/nonnbee.html


29 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:14:45
>>26-28
で、これを転載して何が言いたいわけ?

30 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/15(金) 08:37:27
無理を重ねて、それでも日本にファシズム運動があると言い張らねば気のすま
ぬ丸山眞男氏について谷沢氏は「身に安全なものは罵り、危険なものには擦り
寄る卑屈」と断じています。p九〇〜九一
 同じ様に丸山氏について、平成大学学長である中村勝範氏が「正論」二〇〇
三年一一月号において「変節者の典型であった丸山眞男の神国日本論」という
論文を発表されています。以下はその中村氏の論文によるものです。
 中村氏は<生きとし生けるものは、環境に適応しなくては生き残れない。軍
国主義時代に反軍主義を声高に唱えて世に棲むことは困難である。平和到来と
同時に昨日までの主戦論者も途端に宗旨がえをし、誰よりも強く高く、平和教
を吹聴しまくることが、生活巧者という者である。>p二六〇
<丸山はマルクス・レーニン主義が青白い秀才達にもてはやされている時代に
はその走狗となり、軍国主義の時代にはそれに追従し、敗戦・占領下において
は占領軍の奴隷であった。>p二六一
と丸山氏の事を書いています。

 「マルキシズムの勉強ばかりしておった」(「緑陰に語る」昭和二四年)
マルクス主義者にもコミュニストにもならなかったが、若い時に決定的とい
っていいほど影響を受けたのはマルクス主義だと埴谷雄高氏との対談で述べ
ています。(「文学と学問」昭和五三年)
 丸山氏が旧制高校の時の昭和八年四月、丸山氏は長谷川如是、戸坂潤らの
唯物論研究会の第二回講演会を聞きに行き、本富士署に検挙、拘留されてい
る。そして、翌九年、東京帝国大学法学部政治学科に入学早々、大学学生課
から思想犯被疑者として呼び出される。その後、特高から要注意人物として
されていた。昭和一五年六月に東京帝国大学法学部助教授に任ぜられるまで、
定期的に特高刑事の来訪や憲兵隊への召喚を受け、陸軍監閲点呼の時に憲兵隊
から訊問されていた。(『丸山眞男集』第二巻所収の「年譜」)


31 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/15(金) 08:38:56
丸山氏は昭和九年、東京帝国大学法学部政治学科入学後、夏休みに岡義武の課題リポート執筆のために
岩波書店の「日本資本主義発達史講座」を読み耽った。これは「三二年テーゼ」とされる国際共産党組
織が「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」と題する文書をつくって、日本共産党
に授けたもので、日本左翼人にとって、絶対的な心の拠り所です。そして、正統をもって任ずる学者た
ちが集まって共同執筆し、集大成であり金字塔が「日本資本主義発達史講座」(昭和七年)です。 

 そんな丸山氏の転向については、その転機を昭和一三年だったと中村氏は書いています。なぜ、一三
年か。二月に労農派マルクス主義教授グループである東大教授有沢広巳、大内兵衛など三八名が一斉に
検挙された。(第二次人民戦線事件)
 そのころ丸山氏は、同じ東京帝国大学の文学部に新たに設けられた国体講座を担当する平泉渉教授の
講座をオール出席で聞いている。平泉教授は国粋主義者、皇国史観の主導者として有名であり、学内に
おいて右翼思想団体朱紅会をつくっていた。
 昭和十四年九月、同じく東京帝国大学文学部に日本倫理思想講座として設けられた和辻哲郎の講座も
毎回受講するようになる。
 昭和十五年春、丸山氏は「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」を発表。六
月、東京帝国大学法学部助教授に昇進した。七月、従七に叙された。


32 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/15(金) 08:40:21
昭和十七年六月、同じく「神皇正統記に現れたる政治観」を発表。これ
は「神代より後村上天皇に至るまでの、皇位継承を中心とする歴史」を
叙述した『神皇正統記』の中に現れている著者北畠親房の政治思想を検
討した論稿。中村氏によると中身は真っ赤であるが、偽装としてもとに
かく天皇親政、ヒエラルヒー統治を認めたと書いています。
 昭和十九年七月、丸山氏は二等兵としての教育のために召集。その時
に「国民主義の『前期的』形成」を書く。第一節は「まえがき」。第二
節の冒頭に「長く輝かしい国民的伝統を担った我国に於いても(国民意
識と国民主義の誕生にはー中村氏要約)明治維新を俟たねばならなかっ
た。もとより我国家体制の特性に基づく神国観念乃至は民族的自恃は建
国以来脈々として国民の胸奥の裡に流れ続けてきた」と時勢に迎合する文字を並べている。
これについて、中村氏は「営門がこわかったのである。軍隊の門を入り
無事であるためには身にしみついた赤いものはすべて洗い落としておか
なければならぬ。丸山は入隊するに当り、私はこのように転向しました
という証文として書いたのが該論文である」・p二六九と書く。

 丸山氏は大東亜戦争が終わってすぐに、「超国家主義の論理と心理」
(「世界」昭和二一年五月号)を書いた。それには「国民の政治意識の
今日見らるる如き低さ」P十二と言及している。

 結語として中村氏は
<丸山は平成八年八月、八二歳で永眠した。丸山への追悼文が『丸山眞
男の世界』に収められている。その中でテツオ・ナジタは、丸山は長年
にわたり揺る宜ない一貫した姿勢を維持し、学者として知的な批評家と
して非難の余地のない高潔さこそが丸山の魅力だったと述べている。ま
たマリウス・B・ジャンセンは、丸山ほどのビジョンと強固な意志をも
った人物は、日本では明治維新以来ということになるのでないか、と書
いている。いずれも読む者が赤面せざるを得ない>P二七〇
と書く。


33 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/15(金) 08:41:58
そして、続いて
<そもそも「非難の余地のない高潔さ」などという言葉は学者のいう
べきことではない。古来、日本には、たたいて埃の出ないものはない
という。まことに知恵深い諺がある。またマルクス主義が猖獗をきわ
めた時にはその侍女となり、国家社会主義的革新の風潮時代にはそれ
につき、戦争下においては神国日本・一君万民に唱和し、占領下にお
いては占領軍公認の「超国家主義」の尺度により、丸山自身がかって
神国日本とたたえた祖国を罵倒した丸山である。変節につぐ変節であ
る。これほど節操のない丸山が、日本国民の中に存在したことは日本
民族の恥辱である。>・P二七〇

 「論座」に松本昌次氏が絶賛していた丸山眞男氏についての「丸山
さんはそうではなくて、いかなる場合も、広く深い学問的・時代的経
験に立って、全人格的といいますか、全身体的といいますか、持てる
ものすべてを出しきって、書く主題とわたりあうようにして書かれて
いるように思います。」という言葉が非常に空しく響きます。

 以上の引用は・「論座」朝日新聞社 平成十八年一一月号
       ・「悪魔の思想」谷沢永一著 クレスト社 平成八年
       ・「正論」平成十五年一一月号
「増補版 現代政治の思想と行動」(昭和三九年五月三十日・未来社)よりの引用は・の「悪魔の思想」に記載されている引用文による。


34 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 09:06:20
三流学者のルサンチマンってことでいいですか?

35 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 18:29:34
>>32
ジャンセンの丸山評ってアメリカン・ジョークかw
本気ならまともじゃない。お世辞もほどほどにしないと
贔屓の引き倒しになりかねん。欧米人は丸山を買被りすぎ。

36 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 19:11:54
副島隆彦です。
下↓の土井敏喜さんの文章に対して、ありがとう、ありがとうと感謝申し上げます。 
ここまで理解していただければ、美しいぐらいの結論を私の今の態度や考え方のところで理解していただいたことに
なります。もうこれ以上の共感はないぐらいです。しかし土井さん。貴兄が以下の文章で何を書いたのかを、
分かってくれる人は、この「重掲」を読みに来る1500人ぐらいの人たちのうちの2割の300人ぐらいだと
思います。あとの人たちは、何を言っているのか分からない、と思うでしょう。それでいいのですが。

私の吉本隆明(よしもとりゅうめい、「たかあき」が戸籍上の読み方ですが)という思想家(過激派の教祖と呼ば
れた人、82 歳ぐらいで存命)に、19歳の時から35歳ぐらいまで入れあげて、ほとんど彼の書物を読むこと
で青春を過ごしたことを、私の本の読者たちでも知っている人は、1割ぐらいでしょう。 
35歳ぐらいからは、「吉本隆明は、もう思想的に限界に達した」と感じて、「ソビエト・ロシアの思想と闘いつ
づけた日本の稀有の左翼思想家だが、それでも、彼の終生変わらぬレーニン賛美も間違いだった。
だからやっぱり、吉本の、マルクスの労働価値説への終生の賛美=帰依と共に間違いだった」 と判断して、
以後は、私は、より世界基準である小室直樹先生の学問の方へ向かったのです。
これが、私、副島隆彦の「左翼から右翼・保守へ」の思想転向の大枠です。


37 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 19:13:12
それでも、最近また、吉本隆明先生の、東アジア知識人としての限界に自分もまた戻ろうとしていることを
強く感じています。「どうしようもないのだ。どうにかして、一切衆生を救いたいのだけれども、 自分
自身を現実の中で救うことだけでも大変なんだ」という気持ちになっています。

それと、吉本隆明は、丸山真男(まるやままさお)を激しく論難した(特に、1969年の東大闘争、全国
全共闘=70安保闘争の頃)けれども、この二人が、共に、「日本の戦後民主主義」という、焼け野が原の、
青空天井の、「青い山脈」という映画に現れた、日本の戦後空間を反発しながらも礼賛したことで、それが、
実は、アメリカの元祖グローバリスト(ニューディーラー)たちによる、日本民族洗脳空間であったのだ、
ということを、吉本も、丸山も理解できなかったのだ、という点で同じであり、ゆえに、それがこの二人
の思想的な限界だったと、「日本の秘密」を書いたあたりで私は解明しました。


38 :funわか ◆8EMk6i5vZ2 :2006/09/20(水) 19:15:19
>>34
酒たまねぎや様を馬鹿にするな!!!!!!

39 :考える名無しさん:2006/10/18(水) 03:21:00
>>38
誰それ?

40 :考える名無しさん:2006/10/18(水) 03:54:16
戦前空間、戦後空間(S.30年代まで)、現代空間の異質性はどのようなものか?


41 :考える名無しさん:2006/10/24(火) 00:43:45
谷沢永一ってバカだろ!
進歩的知識人は反日だとほざいておきながら、自分は大山誠一の説に依拠して「聖徳大子はいません」と言うし、保守派のくせに新しい歴史教科書を作る会にイチャモンつけるし無茶苦茶。
谷沢の書物を読んでも、下品だし、左翼は反日だと言うわりには、中核や革マルは叩けないチキン。

42 :考える名無しさん:2006/11/23(木) 13:32:48
定期age

43 :愛国主義者 ◆8EMk6i5vZ2 :2006/12/09(土) 03:39:10
http://www.tamanegiや.com/maruyamabakao1.html (や → yaに変換)

丸山眞男について

谷沢氏は東大でおこなわれた丸山氏のこの講演について
<日本社会の中堅層をここまで軽蔑して、見下して、踏みつけにして、
悪しざまに罵った文献は史上最初の出現ですから、日本人による日本国
民への徹底した罵倒として、外国人の立場からまことに、まことに興味
ぶかく多くの人の手から手へ読みまわされたことでありましょう。>と
著書「悪魔の思想」に書いています。・p八六

 丸山氏自身がその著書「現在政治の思想と行動」の執筆動機について、みずからの回想として
<私は日本社会の恥部をあばこうと試みている>「後衛の位置から」p一〇
と自認しています。

「論座」に松本昌次氏が絶賛していた丸山眞男氏についての「丸山さん
はそうではなくて、いかなる場合も、広く深い学問的・時代的経験に立
って、全人格的といいますか、全身体的といいますか、持てるものすべ
てを出しきって、書く主題とわたりあうようにして書かれているように
思います。」という言葉が非榾空しく響きます。


44 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 05:38:38


     ∧_∧ 哲学のことなら俺に…
    ( ´・ω・`)     ∧_∧
    /     \   (    )ハロワ池よ 
.__| |    .| |_ /      ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   / .|   | |
||\..∧_∧    (⌒\|__./ ./
||.  (    )     ~\_____ノ|   ∧_∧
  /   ヽ 働け!     \|   (    ) 
  |     ヽ           \/     ヽ. オマエ無職だろ
  |    |ヽ、二⌒)        / .|   | |
  .|    ヽ \∧_∧    (⌒\|__./ /


45 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 04:42:59
>>43
谷沢だって若いころ日本共産党員だったじゃないか。
それを棚上げしてよく丸山批判なんかできるか。厚かましいにも程があるだろ。

46 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 04:46:19
45
打ち間違い
丸山批判なんかできるな。

47 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 16:59:01
ちゃんとした丸山批判はどれかね

48 :考える名無しさん:2006/12/13(水) 20:17:30
>>47
矢沢栄吉の著書だろ。

49 :e1:2006/12/16(土) 04:25:35
丸山は人の信念を根底から支えるであろう超越者を想定し、その理想に向かって
自らを律する近代人をモデルとしておいていたと思う。
だとすると、理想と現実の間で揺れ動く葛藤としての丸山の思想は理解できると
しても、価値の多元化と多様性の現代にあって、丸山は自らのうちにニヒリズム
を抱え込んでしまうことになる。
なぜならば、自らを律する理想を支える超越者とは、人それ自身の信念によって
支えられているにすぎない、そもそも無前提なものでしかないのだから。
丸山を超えるとするならば、無前提なものから出発しながらも、歴史によって
伝統と正統性へと昇華されていく人の営みとは何かについて再考していく方途
しか残されていないように思われる。
丸山がよって立っていた近代とて、突然に現れたものではなく、人々の粛々と
営まれてきた生活の歴史の中に育てられたものであるのだから。

50 :考える名無しさん:2006/12/16(土) 06:15:39
>49
何か真っ当なことを言っているように見えて
実はぜんぜん意味の伝わる文章になっていない件について。

51 :e1:2006/12/18(月) 13:26:36
では敷衍して。
丸山が自立した個人を想定して、あるべき社会とその政治学を構想したことは良く知られている。
では、この自立した個人とは何者か。近代的理性と理想に支えられた個人のことである。
これなくして個人の自立はないという。つまり超然とした理想に支えられることなくして
個人の自立なしということだ。
ところが、この個人を支えるべき近代の理想とは何か。実はそんなものはない。
私たちの生活を眺めてみると、さまざまな相反する多様な前提に立っており、
それらが統一されることなく、現実に対してその場その場で多様に対処している
のではないだろうか。
丸山にしてみれば、この現実は現実として受け止められても、近代の理想という
観点からすれば、つまり、すべてを俯瞰して統一する一貫して整合性を求める
超然とした立場からすれば、やりきれないものがあるはずである。つまり場当
たりで無責任にうつるはずだ。
しかし、そういう無責任の力が、どんどん現実を動かしていき、時代を変えてい
くとき、丸山は自らの無力感を感じていた。近代的イデーこそが時代を変革する
と固く信じていたからである。
OK?

52 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 15:17:34
近代合理主義の限界なんて実はただの犯罪者のいいわけレベルだったんじゃないのか。確かに社長が狂人だったら会社は滅びる罠

53 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 15:22:47
「自立した個人」なんて欧米の知識人なら常識

日本では知識階層でさえ自我確立していないという惨状を嘆いただけ

54 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 18:07:21
本当に自立しているのか?

55 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 18:40:17
当たり前だけど自立した個人や市民社会なんてものはないよ。
だけどスローガンを言い続ける事は重要だよ。

56 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 22:12:53
>>53
よく思うことだけど、西洋と日本を比較する際、日本人も外国人も
あまりに画一的なステレオタイプの虚像を作り過ぎる。これは変だよ。
西洋人は○○だが日本人は××。丸山も虚像の生産者兼消費者だった。
根拠なき虚像はインフェリア・コンプレックスの原因になるだけだよ。
どちらにも例外はある。比較による自己言及は「クレタ人の嘘吐き」と
全く大差がない。Comparisons are odious.は日本人が心に銘記すべき
英語の格言だよ。その意味はずばり「比較はいやなものである」だ。
何かがないなら作ればいい。眠ってるなら起こせばいい。出来るかは別に。

57 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 22:28:44
> よく思うことだけど、西洋と日本を比較する際、日本人も外国人も
> あまりに画一的なステレオタイプの虚像を作り過ぎる
というステレオタイプ乙

58 :e1:2006/12/18(月) 22:35:33
丸山の評伝程度のものを読み返しても思うことだけど、本当に自立した個人なんていうものが
原理的に可能なのかどうかということから出発しないといけないんじゃないかと。
だってね、それって、かなりあいまいな前提でしかないんじゃないか?
できもしないようなスローガンを言い続けることが重要でもなく、欧米か日本か以前に、
晩年に丸山がやっと言い出した歴史の古層とか神話的構造とか、文化人類学とか、
そういうレアーな営々として生きられてきた歴史の上においてのみ、理性にせよ、
スローガンにせよ、自立というものが改めて言いえるのであって、いきなり近代的理性と
いっても、なんだかなぁという感じがするんだか。

59 :e1:2006/12/18(月) 22:42:50
>>53
やっぱり丸山と同じく、真理を信じてるんだなぁ。乙。

60 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 22:43:02
>>57
迂闊だった、確かにそうだね。俺の盲点を突かれた。
ツッコミを入れてくれた君に感謝しないといけないね。

61 :考える名無しさん:2006/12/18(月) 22:45:36
日本の哲学界は蛸壺だ、という名言を吐いたのは丸山だったっけ?

62 :funわか ◆bbZx8P7qp2 :2006/12/18(月) 22:59:01
高齢になり、メッキがはげてその隠していた赤い衣が見えてきたナベツネ、
渡辺恒雄氏は、住み良いであろう元の自分の居場所に戻り福島女史やチョンイ
ル新聞の若宮啓文あたりとつるんで喜んでいる
<戦争の悲惨さを存分に語り、「回天(人間魚雷のこと)には内側から鍵は
かけられず、外側からしか鍵はかけられなかった。内側からはあけることも
できなかったのだ」と怒っていらした。そのことが頭にこびりついている。
内側からはもはやあけることはできないのだ。>
と平気でウソを喋って悦にいっている。
 「回天」には脱出装置はついていないが、中から搭乗員が天井ハッチの開
け閉めができる構造になっていた。日本人を悪者にし、日本軍の残虐さを強
調するためであれば、どんなウソでも平気でつく。
 こんな腐れ売国奴連中は早く表舞台から消えてほしいものである。

http://www.tamanegiや.com/nonnbee.html  (や → yaに変換 )
引用: 酒たまねぎ屋URAホームページ


63 :考える名無しさん:2006/12/19(火) 07:18:27
近代批判って何のためにやってるのかね。本当に近代社会の遺産をぶち壊しにして人間が生きていけると思ってるのか

64 :考える名無しさん:2006/12/19(火) 14:22:11
>>63
それも一つの啓蒙

65 :考える名無しさん:2006/12/19(火) 14:30:46
精神的自立なんて難しくないよ。
自立できない阿呆がやたらと神聖視しているだけ。

66 :e1:2006/12/20(水) 02:39:10
>>63
真理信者ですね、乙。

67 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 07:19:24
>>51,56,58
ええと、いろいろ言いたいことはあるんだけど、
とりあえず他人の書いた評伝なんかを読むよりも、丸山自身の著作にあたってみなよ。
手近なところでは、
『現代政治の思想と行動』の中の「ある自由主義者への手紙」と第三部とその追記、
『丸山眞男講義録』第三冊(政治学 1960)、
『日本の思想』の中の「日本の思想」「「である」ことと「する」こと」と「あとがき」、
『忠誠と反逆』の中の「忠誠と反逆」あたりがいいかな。
そのへんをひととおり真剣に読めば、
丸山が近代を具体的現実から離れた超越的真理として絶対視していただとか、
西洋近代の虚像を信仰していただとか、現実に対して無力感を感じていたみたいなことは、
よほどうがった見方をしない限りおよそ言えたものじゃないことがわかると思うよ。

68 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 13:58:22
戦前の軍国主義愚民だの、戦後全共闘の自称左翼愚民だのに対して、
「莫迦はやっぱり莫迦だ」と常識的正論を述べた人物。
後知恵で採点して丸山は正しかったと言えるが、だから何だ、という気もする。


69 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 21:23:28
現代の市民派知識人のあり方という事について皆さんはどう思われますか?
市民派知識人なんて言い方が死語みたいなものですけど何か思うところがあれば教えてください。

70 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 21:56:06
市民派でない知識人なんてものが存在し得るのは、
高等教育を受ける人口の比率が極めて少ない社会だけでしょ。

71 :e1:2006/12/20(水) 23:06:12
ふふっ
そういうご意見は百も承知二百も合点なんすよ。なんたって、丸山は戦後最大の
政治学者だし、日本政治思想史を学問として構築した功績は最大限に賞賛されるべきでさ。
ただ、正直に言うと『現代政治の思想と行動』全篇を通して持った感想は、知的な構築物として
は面白いけど、やはり都会の教養の中で暮らしてる教養人の議論ですよ。
たとえば、神島二郎の日本の村社会意識の構造とか、村落共同体の崩壊とその危機に
際して最後に頼るべきよすがとしての天皇制についての議論とかね、柳田民俗学を
基礎においたような地に足の着いた議論は実感として切実によくわかる。特に田舎者とし
てはね。
ところが、丸山の議論は、戦前戦中の異常な天皇制や反天皇制としてのマルクス主義
などに対する知的処方箋を作り上げることに集約されて、天皇制を無責任の体系といって
切り捨てちゃったりするわけでしょ。
じゃあ、人々が人間的自然としての村落共同体から追放されて、都会に押し出された際に、
そういう悲惨な運命を持った田舎者に対して、丸山は自立していない無責任者の一言で切
っちゃうわけだが、神島の議論は、天皇制を否定するにせよ肯定するにせよそんな田舎者
に対しても同情の余地もあるとして理解を示すことは可能なわけだ。


72 :e1:2006/12/20(水) 23:06:56
やっぱり、この差は大きいと思うぞ。なんたって、オラが村意識を認めるか認めないかと
いうのは、俺にとっては最大の試金石だね。日本人の大部分は地方の田舎者だからな。
しかも丸山後期の日本思想についての言及は、一種の言い訳でね。
自分のルーツについてもちゃんと反省してますよ、自分たちが100年前までは、単なる
みすぼらしい田舎者だったこともわきまえてますよ、ということだ。
しかし、伝統をチョイスできる、という議論には愕然としたね。
いいも悪いもないんだよ、伝統には。しかも伝統を捨てたとたんに、自らを否定すること
になることを知った上で、チョイスできるというのは、理解できない。しかも、一旦チョ
イスしたが最後、二度と取り戻すことも出来ないのだし、その時点で伝統は断絶されてし
まう。こんな軽々しいことをよくも平気で言えるものだと思うが?
逆に聞くけど、丸山の議論で、何が重要なわけ? 作為については認めるがね。
本をどれだけ読んだか自慢なんかより、どれだけ切実に読み取ったかだよ。


73 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 23:49:31
縄文、古事記、万葉集、米づくり、武士道、職人気質、町民文化、幽玄、浪花節、
わびさび、
いろいろあるが、照葉樹林文化か?


74 :考える名無しさん:2006/12/20(水) 23:56:12
今の韓国では、日本領だった頃に伝来した日本文化、
華道だの剣道だのやろうとすると、チンイルパ′トばわりされるらしい。
チンイルパ≠漢字で書けば「親日派」となり、価値中立的な用語に見えるが、
韓国語としてはむしろ「売国奴」「非国民」に近い語感の強烈な罵倒語で、
法的に処罰を受けることもある恐ろしいレッテルである。

それで、そういうのをやる人は、保身のためにアリバイ工作をする。
韓国の歴史の中から似たようなものを探し出してきて、
「それが自生的に発展したのがこの文化なのです」と、
起源を捏造するわけだ。
刀剣を使う武術の伝統なんてどこにでもあるが、
韓国のは、片手に剣、片手に盾を持つスタイルで、
両手で刀を持つ現代の韓国剣道とは断絶がある。
だから、そういうのが嘘だというのは本人たちも判っているのだが、
チンイルパ≠フレッテルを避けるために、
とにかく建前としてはそういうことにしておく必要があるわけだ。

民主主義のルーツを日本の伝統に見つけ出そうとした丸山の仕事って、
この韓国人の起源捏造と基本的に同じ構図だよ。

75 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 00:38:47
>>74
> 民主主義のルーツを日本の伝統に見つけ出そうとした丸山の仕事
丸山はそんなことは言ってないよ。

76 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 02:30:21
>>70
まあそうなんですけど普通に考えると哲学者は哲学者であって経済学者は経済学者なわけですよね。
わざわざ市民派ってつけるからには市民派的な事をしてる人でないとそう言えないわけです。
現在では市民派といえば高橋哲哉とか小森陽一みたいな人しか思いうかばないわけですよ。
だから市民派的な活動というのは相当難しくなってきているというのを感じるんですが。

77 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 05:54:16
丸山の評価されるべき点は天皇制を無責任の体系と言ったところ。無責任の体系は今でも続いている。2ちゃんでの反天皇制スレの圧倒的多さは在日や左翼の工作とは言えない。丸山の説が正しすぎたから

78 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 10:23:16
>>71,72
「本をどれだけ読んだか自慢なんかより、どれだけ切実に読み取ったかだよ」なんて言ってるけど、
漏れから言わせればあんたはぜんぜん読み取れてないって感じがするよ。

丸山の天皇制叩きの話にしたって、
その叩き方(無責任の体系)を「都会の教養人の議論だ、田舎者切り捨てだ」とか言って
半ば道徳的・感情的な見地から問題にするのも結構だけれどさ(およそ学問的だとは思わないけれど)、
それ以上に、丸山がそういう議論を展開するにあたって、
どういう時代状況においてどういう立場から何に問題を感じてそれを論じたかを考えないと、
ただ言ってることの表面だけなぞった薄っぺらい理解になってしまうと思うべ。
要は、当時の時代状況と丸山の問題関心とを念頭に置くことが大事だと思うのよね。

終戦直後の丸山が天皇制ファシズム論で、さんざんに天皇制の支配原理を叩いて、
口を酸っぱくして個人の主体性だ何だと言っているのは、
ともかくも戦後日本に民主的な制度が与えられたという時代状況のうえで、
ふたたび戦前の軍国主義ファシズムに戻らないために
この民主主義の制度を実効的なものにしていくために必要な精神は何か、
あるいはこれを阻害する精神は何か、という問題関心を持ったからだよ。
そのうえで天皇制ファシズムを分析すると、天皇制を支えた無責任と従属の精神はダメダメで、
日本には近代的な主体性の精神が足りないって話が生まれてくるになるわけだな。
そういうことを考えないでサラッと読んじゃったりすると、「ムラ意識を馬鹿にしてるけしからん」みたいな、
えらく外在的でとんちんかんな批判が出てきちゃうわけだ(漏れも最初に丸山読んだときはそうだった)。
もちろん、学問的な論文だから、同時代的な状況とか問題関心とかは
必ずしも文中では明記されていないし、だから誤解が生まれやすいんだけど、
よく読んでみれば丸山が一貫して「いまの日本に何が必要か」っていうのを考えて書いてるのが分かると思うよ。

79 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 10:25:05
>>78つづき)
伝統のチョイス(?)云々ってのもそれに関連してくるわけで、
たぶんこれは『日本の思想』の「あとがき」あたりに出てくる、
日本の思想的「伝統」を将来に向かって引き出すとか生かすとかの話を言ってるんだとだと思うけれど、
ここで丸山が言ってる「伝統」ってのは、
歴史的事実として積み重なってきた、「結果」としての「伝統」的な思想のことではなくて、
過去の歴史的具体状況の中には確かにあって、結果としては必ずしもその後に続かなかった思想、
要は「可能性」としての「伝統」のことなのよ。(『忠誠と反逆』の中の「思想史の考え方について」(1960)とかを参照)
だから、そういう「可能性」をもういちど現在に引き出して生かそうっていう話ができるわけさ。
そもそも丸山は、日本の(「結果」としての)「伝統」的な思想ってものが
「精神的雑居性」にすぎなくて、もともと断絶的・タコツボ的でバラバラに並存しているって言ってたわけで、
極端な話、思想の確固たる軸となる「伝統」そのものが存在しないって考えてたってわけでしょ。
日本の思想的「伝統」を引き出すとかチョイスするとか「可能性」としての「伝統」を探るとかも
そういう認識から出てくるわけで、だから、「一旦チョイスしたが最後、二度と取り戻すことも出来ないのだし、
その時点で伝統は断絶されてしまう。こんな軽々しいことをよくも平気で言えるものだと思うが?」
みたいな批判は、あんたがなにがしか日本の「伝統」的思想を持ってこないかぎりあたらないと思うよ。

80 :考える名無しさん:2006/12/21(木) 14:48:48
>>77
丸山があの時代に天皇制は無責任の体系と言ったのは意味があるけど
戦後60年たっていまだに天皇制は廃止した方がいいとか言ってる奴はただの馬鹿だよ。

81 :考える名無しさん :2006/12/21(木) 18:36:45
>>78-79
だいたい同意。

哲板らしく言うと、丸山の思考方法の基本には、理念と現実もしくは当為と存在
といった二元論を前提に、両者を媒介する能動的主体的な個人という発想がある
と思う(そういう点では新カント派的な理論に近いかもしれない)。

で、つまりはそれが近代的な自立的個人ということであり、それは実体的な概念
というよりも、多分に規範的でフィクショナルな概念だと思うけど、そうした概
念的な枠組みを軸に、日本近代(現代)批判を行ったのだと思う。

あと伝統と近代との関係だけど、日本の近代の場合は、ヨーロッパの制度・文化
の移入・受容によって、伝統と切断された側面が強いから、一方ではそうした受
容についてヨーロッパ本来の文化と比較することで、また他方では伝統からの
連続面を抽出することで、日本近代の特質を解明しようとしたのだと思う。

82 :e1:2006/12/22(金) 00:07:15
>>78.79
そうなんだろうね。
なるほど、丸山をそのまま、彼の思索した時代の状況を考慮すればそのとおりさ。
しかし、いまさら丸山が生きて思索していた時代の状況を何でわざわざトレースする
必要があるの?
丸山が晩年、ろくに論文もかけなかったことを考えると、その生きた時代の特殊性
とでもいうようなものを背景にして思索し敵たことは、あなたが指摘するように確か
だと思う。だが、その時代が高度成長期以降、どんどん変質していって豊かになり
情報もあまねくいきわたってきたとき、丸山が批判の対象としてきたもろもろのものも、
だんだん希薄になってきてしまって、思索の対象を喪失してしまったのではないか。
ご指摘のとおり、その時代の知的処方箋としては優れたものかもしれない。
実際優れた学者さ。学問としてね。
実際の薬がその病が癒えた後に無用となるように、必要とされなくなるという
こともあるだろう。とはいえ、今現実にさまざまな新しい病にかかっていると
きに、丸山の出した処方箋はもう有効じゃないんだよ。


83 :e1:2006/12/22(金) 01:16:59
まあ、つづき。
丸山の学問的功績をマンセーと認めるなら、そういう議論も成り立つだろうが、
逆に聞くけど、戦前戦中の日本の態度を自虐的なまでに厳しく批判し、毛沢東や中国
のナショナリズムに対しては比較的寛容な態度をとり続けたというのは、いったいな
んだ?俺には薬が効きすぎたというより、一種の中毒症状だと思うが?
この戦後知識人の中毒症状というのは、西部なんかがこっぴどく批判したものなんだが?
しかも非武装中立論というのも、今となってはかなり胡散臭いものだ。
それと、日本のね「精神的雑居性」は俺はやたらと高く評するけどね。まあ、日本ほど
やたらといろんな宗派や宗教が雑多に混在しているところはないし、ある意味イデオロ
ギーの異なる人たちが一緒にいても、「せっかく一緒にいるんだから仲良くしよう」という
ような女性原理的な包容力があって、そういう意味で宗教戦争もごく限られたものでしかな
かったといえる。逆に超然とした真理によって自立した個人なんてのは、真理のために徹底
的に戦ったりするからな。
だとすると>>81にあるとおり、自立した個人なんていう「規範的でフィクショナルな概念」
というのは、あくまでも良く言ってという程度だが、スキナーのねずみ程度のものなんじゃ
ないか?

84 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 04:01:57
天皇が責任を取った事がないからダメになった

85 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 04:13:14
今時天皇をかばう奴なんて皇族ぐらいのもんじゃないの実際

86 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 06:41:06
>>82-83
いや、丸山はもちろんそういう具体的状況を念頭に置いてものを書いたけれど、
それを時局的・具体的な政策なり処方箋として提示するんじゃなくて、
抽象化・一般化して普遍適用可能な形で提示したところに丸山の思想の価値があるんでしょう。
例は何でもいいけど、たとえば最近の教育基本法改正でいいや、
タウンミーティングのやらせ質問みたいな非民主的な操作を既成事実として積み上げていく姿勢だとか、
「伝統と歴史をはぐくんできた国と郷土を愛する心」なんかに見え隠れするにムラ社会的共同体意識だとか、
そういう現代の具体的問題なんかに関しても、ほとんど丸山の批判が通用するじゃないですか。
丸山が批判した具体的な対象はたとえば軍国主義だし日本の村落共同体だったけれど、
それを具体のまま語るんじゃなくて、抽象化して語るから現代の安倍政権なり愛国心論議に適用できるんだわ。

あるいは、日本の社会構造が変わっても、意識の次元でそう変わっているかと言えば、
結構怪しいのかもしれんよ。とりわけ丸山が問題にした日本人の政治意識なんかはさ。

87 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 06:41:43
>>86つづき)
丸山が日本の軍国主義に厳しくて中国のナショナリズムには比較的寛容だったっていうのは、
まぁ一つは丸山の関心対象が何よりも第一に日本であって、
中国は周辺的な位置づけでしかなかったってことがあるんだろうけれど、
それを抜きにしても、やっぱり日本と中国の文脈の違い、
「日本はアジアの中でナショナリズムの処女性を失った唯一の国である」みたいな発言が
あるけれど、要は日本と中国のナショナリズムの歴史的・質的差異を考えていたからだと思うよ。
日本は戦前にナショナリズムに目覚めてウルトラナショナリズムにまで行ってしまった歴史があるからさ。
ついでに言うと、丸山が叩いたのは日本の「ウルトラナショナリズム」ね。
ナショナリズム一般を叩いたわけではないし、戦後日本にもナショナリズムが必要だって話もしている。

まぁ、国際政治論における丸山の見解がイマイチパッとしないというのはわかるよ。
国内政治では自由と民主主義っていう確固たる規範的&プラグマティックな拠り所があったのに比べて、
どうも国際政治での規範的要素は丸山の中では裏付けが弱い。
非武装中立論にしても一応は憲法前文と9条の規範的価値から引き出してはきているけれど、
一方で冷戦の権力・軍事力のリアリズムなんかも結構土台に置いてるぶん、時局的な要素が比較的強いとは思う。

88 :考える名無しさん:2006/12/22(金) 06:45:19
>>87つづき)
「精神的雑居性」ってのは、一見争いのない寛容の世界のように見えるけれど、
よく考えればむしろ「俺もお前もあれもこれもみんな同じ」という共同体的な原理に近い。
例のムラ社会の原理よね。だからムラ社会の秩序を乱す「異なる他者」なり「個人の析出」なりを認めないし、
そういう人間に対しては共同体全体で有形無形の徹底的なサンクションが加えられる。戦前の国体はこれの典型。
ヨーロッパの宗教戦争を解決したような、異なる他者の存在を前提にしたリベラリズムの寛容とは別物よ。
丸山にとってみれば、こういう傾向は戦後の民主主義&自由主義を実現するうえでの障害に映っただろうし、
だいいち、そういうムラ社会ではこういう異なる立場同士の対話すら認められない(笑)。
丸山が「精神的雑居性」を問題視したのはそういうことでしょう。

あと、何度も言ってるけど丸山の言う主体的個人ってのは
「”超然とした真理によって”自立した個人」じゃないからね。
常に理想と現実の緊張関係のあいだを往復する主体だから。そこは誤解なきよう。


毎度毎度長文失礼。
ホントは>>81みたいに哲板らしくスカッと要約して書ければいいんだろうけど、
漏れは哲学プロパーじゃないし、どこまで前提が共有できてるか分からないからさ。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 14:51:48
>>83
規範や制度が、本来ひとつの擬制(フィクション)にすぎないということは、
同時にそれが人間によって改変可能な存在であるということをも意味する。
逆に規範や制度の実体化は、物神化につながりやすく、その場合には人間は
パターン化された状況に反応するだけの存在(スキナーのネズミ)となろう。

丸山が規範性(形式性)を重視したのはこうした理由からだと思う。

ところで、理念・理論を重視するあまり多様な現実を無視するのが「理論信仰」
だが、逆に理念・理論を空虚なものとしてこれを退ける現実主義=「実感信仰」
には、現実への追随(既成事実への屈服)という陥穽が存在する。
こうした両者の分裂・対立という悪循環を回避して、理論による現実の方向づけ
と現実による理論の活性化という生産的な相互関係を創り出すのが、人間の実践
的な行為。

そうした行為の主体として丸山によって措定されたのが、自律的な規範主義を
内面化した近代的な自立的個人という型にほかならない。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 14:52:49
>>89の続き

たしかにこうした丸山の主張は、1960年頃までは有効性をもつと見られたが、
同時期に始まる高度経済成長による大衆社会化の進展にともない、旧来の共同
体的社会から析出された個人は、近代的な自立的個人という形態を必ずしも十
分に達成しないまま、早々に企業社会(会社主義)に包摂されていく(忠誠対
象の戦前の国家(天皇)から会社への転移)。
こうした点で彼の主張が、その有効性を減じたことは確かだろう。

ただし丸山の最晩年の90年代半ばには、個人の私化(保守化)の根幹となって
いた肝心の会社主義は崩壊の兆しを見せ始め、再度社会に放出された個人は、
その社会的な不安定性から国家へと自らをIdentifyする傾向性(忠誠対象の会
社から国家への再転移)を帯びてきた。
そうした動向に対して丸山が対置したのは、多元的なレベルでの個人の社会的
結合=組織化による民主主義的な諸価値の内面化という代案だったと思われる。

民主主義を、それに従うべき単なる制度として物神化することを拒否し、その
内実を常に問題として、「永久革命としての民主主義」を最後まで倦むことな
く唱え続けた戦闘的なデモクラット、それが丸山だった
・・・・・とまで言うと少し誉めすぎだなw


91 :e1:2006/12/22(金) 23:39:10
>>86-90
なるほど、ここまで丸山の主張を要約してもらうと、俺の釣の腕前もまんざらでは。
だいたい同意。
とはいえ、ここでの共同体原理や「精神的雑居性」についての議論は、やはり希薄なものを感じるね。
ハイヌエレ神話圏に属するわれわれ日本人としては、母性原理に基づく共同体意識をもって社会を構成
してきたと考えられる。つまり、今ここにいることを重視し、共にとどまることを要求する原理でもある。
確かに没個性化の弊害やら、よそ者の排除という原理は認められるにせよ、じゃあ、父性原理的なイデオ
ロギー集団にそれがないかといえば、程度問題としても、イデオロギー集団の排除の力は、すさまじい。
共同体の攻撃性というのは、相手にとどめを刺さないという比較的ゆるいものでしかない。
また、よそ者の排除というが、物品や嫁入りなどの共同体間での交易を含めて考えると、外部・他者との
ゆらぎを前提として共同体は成立しているといえる。

92 :e1:2006/12/23(土) 00:12:14
ゆらぎというより、自然も含めての交わりね。
戦前も含めて戦中戦後の日本が現在まで求め続けているのは、失われた帰る場所としてのムラを求めての
葛藤だったんじゃないか。
いま、小は田舎暮らしブームだし、大は教育基本法改正とか、憲法改正とかが注目されているけど、日本人
の人間的自然としてのムラとムラの掟への憧憬の発露に見えてしょうがない。教育の基本は家庭のしつけだ
という際の家庭が、俺に言わせればムラであり、しつけとはムラの掟のことよ。
明治維新以降、基本的にムラの崩壊は始まって、構造的アノミーが巻き起こり、制度的アノミーによって
都市化が起こるが、それでもここでがんばれば、いつかは帰るべき場所に帰ることが出来るという切ない
希望が日本の近代化の原動力そのものであったのではないか。もし、これが本当ならば、極めて切ない話だ
と思わないか?
大なり小なり、戦後の日本人は、帰りたいがためにその一心でいろんなプロジェクトXに身をささげてき
たんだ。だとしたら、俺にとっては、でっかいムラのとーちゃんかーちゃんの象徴のようなような天皇は、
やっぱりいなくちゃいかんのよ。いてくれるだけでいい。
だから、「永久革命としての民主主義」だとかいわれると、お前そこまでまだいうんか! これ以上何を
がんばれというんだ、という気持ちになるわけよ。

93 :e1:2006/12/23(土) 00:19:59
俺にとっては、「永久革命としての民主主義」という言葉は、無限地獄と同義語だね。

94 :考える名無しさん:2006/12/23(土) 00:52:39
土着-ムラ-共同体から産業構造の高度化に従い、擬似共同体としての会社、そして
サラリーマンを中核とした大衆社会が到来し、伝統的共同体は弱体化した。
このプロセスは現在中国で進行中で大量の農民が土地、生活根拠を奪われつつある。

95 :考える名無しさん:2006/12/23(土) 01:34:15
で、吉本の「自立の思想的拠点」「大衆の原像」「丸山真男論」などがあるわけです。


96 :考える名無しさん:2006/12/23(土) 03:03:30
>>93
じゃああんたはどういう政治制度なり政治思想がいいの?
丸山にとっては永久革命としての民主主義だったわけだけれど。

>>95
吉本は丸山を考えるうえで格好の比較対象だよね。
丸山とはまったく正反対のことを言うんだもんな。

97 :考える名無しさん :2006/12/23(土) 22:07:05
>>91-92
ムラだの共同体だの、そういった土着主義は、もう今でははやらないよ。
だいたいそんなもの実際どこにもないじゃん。
田舎だって生活様式は都市化してるわけだし。

吉本がそう言っていた70年代には、まだ若干残ってたかもしれない。
でもここ20年ぐらいの間に完全に消滅したよ。
だから吉本の議論も失墜したのだよ。

このポストモダンの現在にプレモンダンへの郷愁なぞ無意味だし、
ましてそれの復古なぞただのアナクロニズムだよ。

98 :考える名無しさん :2006/12/23(土) 22:39:24
>>91-93
前レスの>>89-90だけど。

丸山の言説を最近の新自由主義(市場原理主義)者の言説とゴッチャに
していないかな?

平たく言えば、明治以来日本は富国強兵を国家目的として制度・組織の
設計や運営をしてきたけど、その結果は無惨に破綻した。

戦後は、ある程度の民主主義的な改革がなされたけど、それは主として
占領軍による他律的な性格が強かった。だから丸山は、そうした民主主
義を制度レベルでなく、社会に定着させるためには、その担い手である
国民の意識改革が必要だと考えて、先に述べたような議論を展開したわけ。

でも、結局は強兵が落ちて富国になっただけで、経済成長第一主義によっ
て、公害・農村の荒廃・都市部での地価高騰・バブルなどいろんな歪み
と弊害が生まれていった。
現在の新自由主義路線は、そうした部分の是正をせずに相変わらず成長
第一主義で突っ走ってるから、矛盾が限界にまで達しつつある。

丸山の言った「永久革命としての民主主義」というのは、そうしたあり方
に歯止めをかけて、不断に修正・是正していく方向を念頭に置いたものだ
と思う。

99 :考える名無しさん :2006/12/23(土) 23:45:12
>>98
いまどき丸山なんて意味あるの?
丸山は民主主義者どころか全体主義者だったんでしょ。
ナチの法学者だったカール・シュミットを崇拝してたんでしょ。
どこが民主主義者だよ、笑わせるなw

丸山は隠れ国家主義者にすぎないよ。つまりは自由主義の敵だ。
だから批判されてるんだろ。

100 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 00:55:42
ポストモダン系の更なる左の勢力からは
ナショナリストとして批判され、
伝統的共同体が良いとするものからも突き上げられ・・・

今頃生きてたらきつそうだ>丸山氏

101 :e1:2006/12/24(日) 01:40:20
>>97
ポストモダン的状況にあって、近代の枠組みが崩壊したあとに残ったのは民族だ。
旧ユーゴや旧ソ連を見てみれや。ポストモダンだからこそ、ムラ的なものが露出す
るんじゃろが。ミンジョクニダ。
>>98
ちゃうような気がする。
市民やら国民やらと呼ばれる人たちにとっては、そんなことより家庭があって家族がいて、
田舎には親戚やら親兄弟がいて、とりあえず豊かで幸せに生きていければそれでいいと思っ
てるわけよ。それがすべて。
子供のためなら必死に働くし、家庭を守るためなら人をも殺しかねないけど、国家は非武装
中立っておかしくない? ということは、家庭がせいぜい考えられる単位であって、それ以上
のことは、急激に思考停止しちゃうわけだ。
この国家と個人の極端な遊離状態というのは、丸山だったら、どういう分析するわけ? できないでしょ。
俺は国家と個人とを媒介するムラ的なものは、有効だと思うけどね。これをプレ近代と批判す
るのは、まあ、どうかなぁ。人間なんてそう簡単には変わるものじゃあ、ない。
こんな人たち相手に丸山の「永久革命としての民主主義」なんて話がそもそも通じると思う?
丸山が間違ってるかあってるかは別問題として、相手が見えていないとしか思えない。


102 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 02:17:59
>>97
共同体的なものはしぶといし必ず再生産されるんだよ。
共同体や文化なんてものは粉々にしてもなかなか死なないものでもあるし。

103 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 03:13:47
同調圧力を基にした否定的パターンの提示による支配よりは
脱出可能な様々な共同体による重層的な統治のほうが生きていきやすいと思うな。

104 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 06:53:33
>>101
公的領域と私的領域を明確に区分したのが近代国家の原理なんだから、
丸山からすれば国家(政府)と個人ってのは第一には切れてて当然なのよ。
もちろん完全に切れてるってわけじゃなくて、国家と個人を媒介する論理として考えられるのは、
一つは、国家が私的領域を侵害しないか国民が常に監視する自由主義の原理で、
もう一つは、国民が自らの意見や利害を国家(政府=代表者)に伝える民主主義の原理、
だいたいこの二つに集約されるわけ。

これに対してムラ社会ってのは、そういう公私の区分が存在しない、心情倫理でもって
公的倫理が内心の領域に無限に踏み込んでくる社会構造・精神構造なわけでしょ(「涙の折檻」・「愛の鞭」!)。
これをもって国家と個人を媒介してしまっては、自由主義・民主主義はおろか、近代国家すら成立しない。
むしろ国体や家族国家観のような全体主義につながりかねないわけでしょ。
(そのへん>>101は、意識してるかどうかは別として、言説においては存外に反動的だな(笑))
丸山が「超国家主義」論文で国体の前近代性と批判したのはそういうところよね。

もちろん、批判したからといってすぐにムラ社会の論理や郷愁がなくなるわけでもないし、
>>97の分析に反していまでさえ普通にムラ社会の精神は残存しているわけだけれど、
それをもって「人間なんてそう簡単には変わるものじゃあ、ない」「相手が見えていない」
なんて言って言説を無効化してしまうのは、それこそ吉本だよ。「政治的」なものの見方じゃないな(笑)。
政治は「可能性の技術」なんだからさ。

105 :考える名無しさん:2006/12/24(日) 07:05:06
>>99
丸山の議論にシュミットの影響が大きいことは確かだけれど、
だからといってシュミット=ナチ法学者=全体主義者=丸山が成り立つわけじゃない。
丸山のどこを読んだってプレビジット民主制は出てこないし、
全体主義者丸山って説はほとんど言い掛かりレベルだと思うよ。

>>103
いわゆる集団的多元主義・文化多元主義みたいなやつ?
でもそれを政治単位として扱う場合、脱出可能との両立ってのが難しくなるよねたぶん。

106 :98 :2006/12/24(日) 14:52:19
>>99
丸山のカール・シュミットの評価については>>105氏の指摘するとおり。

>>101
だいたい言わんとするところは理解できた。
で、それへの批判については、近代国家の原理を公私論から見た>>104氏の
内容に賛成。

近代国家の原理は、それまでに国家と個人との間に存在していた、あらゆる特権的
な中間団体(村落共同体・同職組合・領主団体など)を排除して、国家と個人に二
元化した点にある。この点は日本の帝国憲法でも現行憲法でも同じ。

あなたの主張の骨子は、かつての共同体がもっていた共同性の再生という点にある
のだろう。いわば理念的な共同体をイメージしてるように思われる。
だが戦前の社会に実在していた共同体的構造というのは、決してそうした理想的な
ものではなかった。そこでは地主小作制や個別のイエ内部での家長制など、多様な
支配従属関係が形成されており、個人にとってはきわめて抑圧的な構造として機能
していた。
つまり戦前社会というのは、近代社会といっても、そうした前近代的な要素を広範
に残存させており、むしろそれらを利用して、著しく強兵に偏重した富国政策を推
進し、一面では西欧列強諸国に匹敵するレベルの高度な産業社会を形成していた
(丸山のいう前近代と超近代との癒着)。

戦後に丸山が直面したのは、そうした社会構造だったから、それを改変して本来
の近代に相応しい社会制度や国家制度へ転換させることを先ずは目的とした。
だから丸山の言説は、そうした戦前社会の前近代性(特に共同体的構造)批判に
集中し、それらを克服すべく民主主義の形成・拡大・浸透を目指すものとなった。

そうした歴史的な条件を考慮しないと、ただ丸山は共同体的なものを批判してい
たという単純な理解に陥ることになる。

107 :98 :2006/12/25(月) 02:52:59
>>101
前スレでは少し論点がズレたようなので書き直すけど。

>家庭があって家族がいて、 田舎には親戚やら親兄弟がいて、とりあえず豊かで
>幸せに生きていければそれでいいと思ってるわけよ。

これは一般庶民=国民の要求として当然のことだろう。丸山の主張というのも、
煎じ詰めれば、言葉や文脈の抽象性という点を除けば、決してそれ以上のことを
要求してるわけではない。
しかし「家庭があって家族がいて」というのも、ごく自然なようだが、さまざまな
理由から家庭が崩壊したり、家族が離散する例も増加してる現代では、それほど自
明なことではないし、「田舎には親戚やら親兄弟がいて」というのも、現在のよう
な農村社会が衰微してる状況では、田舎を離れたり親兄弟バラバラという例も少な
くない(田舎の喪失)。「とりあえず豊かで幸せに生きていければそれでいい」
これも今の社会では、この程度のささやかな希望さえも、必要以上の努力がなければ、
あるいは努力してさえ難しいのが現実ではないか。

つまり現在では、こうした平凡な要求さえも、もはや個人の努力の範囲を超えた社会的な
レベルの問題であり、政府や自治体の政策、つまりは政治領域とも密接に関わってこざる
負えないということだろう。で、そうした政治の問題は結局のところ、単に選挙での投票
だけでなく、庶民の日常的レベルでの多様なかたちでの活動や運動と密接に関わってくる
問題だろうし、そうした活動や運動での議論の在り方は、民主主義の問題に帰着すると思う。

丸山が民主主義の問題で重視したのも、議会などの国家制度レベルよりも、一般民衆による
日常での議論の内容や方法が、民主主義を下から作り上げる際の根底となると考えたからだ。

あと余談だが、丸山は別に非武装中立ということは明言していない。軍備の拡大は
核兵器がある現在、決して国家の防衛とは最早ならないという観点から、軍備縮小
の方向を目指した外交戦略の重要性を述べたにすぎない。丸山の眼目は、あくまで
日本及び極東の平和をどう維持していくかという点にあった。

108 :e1:2006/12/25(月) 12:24:26
>>106
この主張というのは、ありうべき主張の1つとして、まあ、同意できますね。
近代的社会の成立の仮定はともかく、ではなぜ近代化が発生したのか、という
ことになれば、ハイデガーを持ち出すまでもなく、一種の運命としか言いよう
のないものがあるように思う。
また、共にあること・同じくあることを体現するものとしての共同体は、近代
の目的合理性に対して悪しきものに映ることも確かでしょう。
しかし、道徳や倫理や、この社会を構成する近代の諸前提は、共同体が有する
諸機能なくして成立し得ないのではないか。
これが明治以降、近代化を1つの運命として引き受けた日本の危機感として、
強烈に人々の精神を支配し、幾たびかの戦争を繰り返してきたのだと思う。
だとすると、ここには常に1つの葛藤があって、近代化を推し進めることは、
価値観の転換を迫ることであり、過去との決別を迫ることでもある。
しかし、別の価値観へ向けて過去と決別しなければならないとしても、
この葛藤についてのもやもやしたどろどろした思いを歴史に向けてはならな
いのだし、過去としてみてはならないのだと考える。

109 :e1:2006/12/25(月) 13:35:26
マルクス主義の唯物史観を持ち出すまでもなく、革命は常に前体制を打倒することにおいて
成し遂げられるとすれば、これらを含めて近代化とは常に破壊を前提としつつも、破壊され
るものを包摂しなければならないというひどく矛盾したものであることなのではないかと考える。
たとすれば、近代化とは、破壊と包摂を常に繰り返し続けることにおいてのみ、成立する無限地
獄だということになる。これが近代の姿だ。
このように考えると、近代の問題とは、理性による非理性の克服はありうるかということに直結する。
また別の角度からすると、共同体的価値観からすれば、個人主義など成立しないという議論が頻繁に
展開されるが、逆に近代においてこそ個人主義というものが果たして成立しうるのかという問題も同
時に立ち表れてくる。
確かに近代的価値観からすれば、個人主義を前提としてはいる。しかし、それは個人へと分断され、
孤立化させられた個人なのではないか。その個人が社会に参画する際に教育を前提とするにしても、
一定の規格に当てはめられ、分類され類型化された個人ではないのか。
だとすると、共同体のなかにおいてこそ生き生きと発揮される個人というものも考えられるのであ
って、決して忌避されるべきものではない。
丸山にしても、戦後知識人にしても、この点について極めて楽観的なのではないか。
敗戦と天皇の人間宣言を目の当たりにすれば、そう思うのも仕方がないのかもしれないが。

110 :e1:2006/12/25(月) 14:29:16
>>104
この議論をもってあらためて>>104の議論を検討すると、機構制度としての国家
という議論にしかならないのではないか。国家などというものは、その程度のも
のではない。
むしろ、国家が個人の内面に立ち入らないという前提を堅持すればするほど個人
主義の拡大再生産という国家と個人の極端な遊離乖離を生み出していく。
また、教育による個人主義の啓蒙にしても、それを推し進めようとすればするほど
人々は個人へと分断され、分断されることを良しとする信念に凝り固まる。
国家はつねにどのような形であれ国家として人々の内面に介入しているのであって、
これはいかなる機構制度であってもあり得るという事を覚悟しなければならない。
だとすれば、逆に幕藩体制でも何でも良いではないかという議論だってありえると思うが?
たかだか明治維新以降の政治体制がことさら優れているとも考えないし、普遍的であると
も思えない。より普遍的なものがあるとすれば、むしろより長く続いてきたものの中にあ
るのではないだろうか。

111 :考える名無しさん:2006/12/25(月) 23:52:42
「権力」対「市民」という一般受けするチョンボな構図がある。
西洋では「市民」は命をかけて国を守るものらしいが、
日本ではそうではない。
明治維新以降、資本主義適合国家のコースを走り続けた結果である。

112 :考える名無しさん :2006/12/26(火) 20:07:31
>>111
国家と人民や政府と市民というのは一般的な近代の図式だよ。
ロックやルソーでもいいから読み直してこい。
岩波文庫に出てるぞw

113 :考える名無しさん:2006/12/27(水) 16:19:56
やはり、あの1991年8月の「八月クーデター」失敗によるソビエト・ロシア(ソビエト共産主義)の崩壊という
ことがなければ、この仕事は完成させることはできなかったと思う。ソビエトの崩壊と冷戦構造の終焉によって、
それまで曇っていた自分の頭がすっきりした。「やっと分かったゾ」という気になったのはこの時期である。
自分もまた、ほとんどの日本知識人たちと同じく、頭の幾分かを、ずっと引きずるようにして、ソビエト型とは
違うのだが別種の社会主義=政治的理想主義に長く囚われていて、この呪縛から開放されなかった。
一九九四年から一九九五年にかけてやっと、この本を書きあげ完成させたときに、私は世界を一極的に
支配する世界覇権国となったアメリカ合衆国の諸思想がどうのようになってできているのかを知ったのである。
(中略)
このとき私は、アメリカの現代アメリカ政治思想の各派を、日本語でコンパクトにまとめて、全体的に
性格描写することで、自分が悩み苦しんできた二十年来の政治イデオロギー遍歴からも開放されたのである。
私は、今や、右(保守)でもなければ、左(リベラル)でもない。
私は、ただ、それらの全体像を大きく眺めつくすものである、ということになった。
私は左右の大きな価値対立に於いて、どちらにも組するものでは自分を発見した。
私は、ただそれらの思想の諸価値の対立点を記述する者である。
(中略)
私は日本知識人層の貧弱な土俵の上に「現代アメリカ政治政治思想の全体像」を植えつけるという大きな
仕事を先駆者としてなしとげた。今や日本知識人全てを足元に見下すほどの地位を、私は自力で
築いたのである。しかし、このことは、私が大秀才である、と自惚れているのではない。
私程度は、アメリカでは頭のいい大学院生程度だということである。ということは、日本の知識人の
大半の文科系の知識人の知能水準は、アメリカに持ち出せば、頭のいい高校生程度だ、ということである。
副島隆彦「日本の秘密」


114 :考える名無しさん:2006/12/27(水) 18:31:04
「サッチャリズム」の原点である巨人ハイエク
http://soejima.to/boards/cb.cgi?room=libertar&page=6

ハイエクは、ロシア革命(1917年)からまだ日の浅い1930年代から1940年代に、社会主義はナチズムと同根であるとして、
社会主義批判を展開していました。
彼は、「ワイマール共和国時代の社会主義政策の反動がヒットラーを生んだという通説は全くの誤りで、むしろ、社会主義
政策の理想を追求する人々がヒットラーの登場を待望したのだ」としました。ナチスの登場を阻止できなかったのは、
「左翼がしっかりしていなかったのではなく、ブルジョアがしっかりしていなかったからだ」と指摘しました。
同じことは他の欧米諸国にも言えるというのが、当時のハイエクの主張でした。特にロンドン大学教授在任当時の同僚で
あった、英国労働党の理論的指導者ハロルド・ラスキ教授の次の言葉は、ハイエクの危機感を高めさせました。
「現在の英国議会は、社会主義政策を進めるのに適していない。議会は労働党政府にその権限を包括的に委任する法律を
立法化すべきである。社会主義化の過程が次の総選挙で覆されるのを座視すべきではない」

これは、ドイツ議会がヒットラーに全権を委任し、ナチス一党独裁政治を認めた「授権立法」と同じ考え方でした。
このような状況下で、自由主義経済の優位性を説き、社会主義化への警鐘を鳴らす目的で出版されたのが、この
「隷従への道」でした。1944年のことでした。戦後、社会主義が世界を二分する大きな勢力になる以前に、この
ような考えをまとめていたことは、大変な驚きです。
ハイエクは大変長生きし、晩年の弟子サッチャー女史が、それまでの英国労働党の政策を道徳的に完全に破産
させるのを見届けるとともに、あのソ連が解体されるのをもしっかり見届けた上で、1992年4月、92歳の生涯を
終えました。20世紀の巨人でした。

115 :考える名無しさん :2006/12/28(木) 01:38:37
>>108-109
西欧社会での個人主義とは、法の前の平等を前提にした諸個人が、国家の干渉から自由であるという面
(自由主義)と、国家の政治に能動的に関与する面(民主主義)との両側面をもつことは自明だった。
しかし、そうした個人主義が自生したのは西欧諸国家のみで、それ以外の非西欧地域は近代化=西欧化
を(西欧に)強制されたわけだから、外発的な近代化となり伝統社会の破壊=旧来の価値観との断絶と
いう共通な問題を抱え込むと同時に、個人主義についても西欧的なそれがそのままの形で受容されたわ
けではない。

近代日本の場合、個人主義は、ともすれば国家からの自由という側面が、自由権の行使というよりは、
国家への無関心をともなう欲望的個人主義や自我閉塞的な個人主義という奇形的な形態を生み出した
(これは近代だけでなく戦後の現代についても同様だろう)。
だからそうした自由の歪曲を本来の自由主義的な権利へ是正すると同時に、いまひとつの参政権をも
担い得るような主体的・自立的な個人の形成を丸山は課題とした。

あなたの議論は、(西欧も含めた)近代・現代への懐疑から個人の自立自体にも否定的な考えのよう
だが、そうした点は丸山も考慮に入れていた。しかしその対応は、あなたが考えるような共同体的価値
の単純な再生ということではない。
その理由は、大戦前の日本でも、寧ろそうした伝統的な価値(共同体的な価値)の再生によって、日本
も陥ってると考えられていた、西欧近代的な病理を克服しえるという議論(近代の超克論)が横行した
が結局は敗戦という現実の前に破産したのを見ているから。
丸山が、西欧と日本との根本的な文化的土壌の違いを認識しつつも、敢えて西欧近代を理念とした自由
主義と民主主義の浸透を主張したのも、そうした理由からだった。

116 :考える名無しさん :2006/12/28(木) 19:05:39
>>113>>114

副島種彦なんて三流知識人じゃんw
これと丸山真男を比較すること自体に無理があるよ。
だって雲泥の差、月と鼈だろ。

117 :考える名無しさん :2006/12/29(金) 02:50:34
>>116同意。

>>113は、私は、アメリカの政策と思想に完全にイカレましたという
心情告白書のようなものだ。

アメリカ主導のグローバリズムが永遠に続くとでも思ってるのだろうか?
お目出度いヤツとした言えないなw

もっともこれでアメリカがポシャれば、また別の思想でも探すんだろうな。
そのときどきに支配的な流行思想をすぐにパクッて、それがダメになると
また別の流行を追い求めるということの繰り返し。

コイツが10年後にはたしてどんなこと言ってるのか見てみたい気もするな。

118 :考える名無しさん:2006/12/29(金) 13:13:36
>>116
> 副島種彦なんて三流知識人じゃんw

同意。それでも浅田よりは上。

119 :e1:2007/01/03(水) 02:27:46
>115
丸山が展開した論の基本的なところからいえばそういうことになるのは理解できる。
個人主義とは近代的理性に裏打ちされたいることが前提だが、これはすべての人に
等しく与えられている理性であって、この理性の本質に照らしていえば、すべての
(近代的)人間は男・女、大人・子供程度の類にしか分類できないのじゃないか。
確かに丸山も言っているように、近代的個人主義の限界とは、その理性の本質から
すれば、この程度のもの。これは丸山が言っているんだよ。
つまり万人に共通なるものとして近代的な個人を形成している啓蒙的理性を、どう
して個人を個人たらしめている根拠とすることが出来るのか。丸山自身もこれを
個人主義の内在的矛盾と呼んでいる。

120 :e1:2007/01/03(水) 04:53:08
だとするとね、個人なんてのは単なる個体でしかないんじゃないか。単なる個体である
人間など生物的にこれほど弱い存在もない。だとすれば、共同して事にあたるという事
になり、同じくあるのであれば、共にあることをもってよしとする共同体が成立してい
くことには必然性がある。つまり、啓蒙的理性が徹底されて個人主義が貫徹されればさ
れるほど、人々は同じ人間になっていくという逆説を丸山は後年語っている。
ここで同じもの同士が共にある共同体で協力関係を築く際に生まれたさまざまな秩序な
くして近代が生まれ得なかったとするならば、近代を貫徹させるためにはもう一度この
共同体を何かしらの形で再生させないことには、どうしようもないということがいえると思う。
これに対して、単純な共同体回帰というものが反動的というのは、単に進歩史観に立脚してそ
ういえるだけであって、丸山を通してマルクス主義的言説を弄しているに過ぎないと思うが?

121 :考える名無しさん:2007/01/03(水) 04:54:06
だとするとね、個人なんてのは単なる個体でしかないんじゃないか。単なる個体である
人間など生物的にこれほど弱い存在もない。だとすれば、共同して事にあたるという事
になり、同じくあるのであれば、共にあることをもってよしとする共同体が成立してい
くことには必然性がある。つまり、啓蒙的理性が徹底されて個人主義が貫徹されればさ
れるほど、人々は同じ人間になっていくという逆説を丸山は後年語っている。
ここで同じもの同士が共にある共同体で協力関係を築く際に生まれたさまざまな秩序な
くして近代が生まれ得なかったとするならば、近代を貫徹させるためにはもう一度この
共同体を何かしらの形で再生させないことには、どうしようもないということがいえると思う。
これに対して、単純な共同体回帰というものが反動的というのは、単に進歩史観に立脚してそ
ういえるだけであって、丸山を通してマルクス主義的言説を弄しているに過ぎないと思うが?

122 :おふらんす:2007/01/03(水) 08:40:18
研究した訳でもないけれど、
副島がその文章からしても教養からしても知識人でないことは慥か。
それでも丸山に対抗出来るつもりなのは、自分が西洋の現場を知つてゐると云ふ強みからだ。

丸山が一貫して云つて居ることは、日本には哲学がない、と云ふことで、それは徂徠でも宣長でも同じこと。
思考の構造が違ふからで、学んでも身につけることは出来ないのはマルキストを見れば一目瞭然。
その点中江兆民は先見の明があつた。(福沢諭吉のことは良く知らない)

以前丸山を読んだ時は、なんて陳腐なことを云ふのかと思つたけれど、今思つてみれば、それが彼が書物を通じて(或いはワーグナーの音楽を通じてかも知れないけれど)身につけた究極的知見で、西欧をよく理解してゐると云ふことが分る。



123 :考える名無しさん:2007/01/05(金) 03:41:25
酒たまねぎ やURAホームページ
http://www.tamanegiや.com/ura.html (や → ya に変換)


1年半ぐらい前からこちらのHPを見てました。
最初はすごく右翼的で怖いなと思いましたがいろんな歴史や政治に
関する本やテレビを見てるうちにここの掲示板に寄るのが楽しみなりました。

124 :考える名無しさん :2007/01/10(水) 20:21:27
>>119-120
>個人主義の内在的矛盾

一般に個人主義における個人とは、社会的で理性的な個人というのを前提として
いるが、それに対して他方に唯我論的な実存的な個人というのがある。
後者は政治・社会性を捨象した「この世に我ひとり」という絶対的な個人であり、
そうした個人にして始めて、超越的な価値(原理・主義・神)と結びつき得る。
この個人の両義的な性格が、そのままある種の緊張関係をもって相反併存している点を、
丸山は個人主義に内在する矛盾として捉えていたと思う。

>共同体が成立していくことには必然性がある。

それはその通り。社会的で理性的な個人が、社会契約や統治契約を通じてある種の共同体
を形成していくというのは、近代の政治社会の原理なのだから。
問題はそうした共同体的関係が、個人の自覚と合意によって形成されるのか、それとも
前近代的な共同体的な関係を引きずったものなのか、という点にある。
後者ならば、(丸山流に言えば)「ズルズルべったりの共同体的関係」ということになり、
個人の自発性や能動性を抑圧する集団至上主義的な特徴をもち、結果として「無責任の体
系」しか生み出さないような閉鎖的なものとなる。
戦前の国家を始めとして社会のあらゆるレベルにおいて形成されていた集団とは、そうした
意味での共同体的性格を色濃くもつのだったし、戦後の政党や企業にしても、一見現代的な
体裁をとっているが、依然としてそうした側面(例えば会社主義)を帯びていた。

丸山も、近代社会の形成・運営が個人主義だけで可能だったとは考えていない。
むしろ近代産業社会は、過度にアトム化された個人を析出することで、社会からの
個人の疎外を引き起こすとも指摘している。
ただしそうした事態への対応として、共同性を復活するにしても、それが集団至上主
義的な従来型のものでは無意味であり、個人主義を前提としてそれを包摂し得るような
高度の共同性の再構築が必要だと考えていたのではないかと思う。



125 :e1:2007/01/11(木) 03:47:08
>>124
個人主義の内在的矛盾について敷衍してくれているのだが、ここは晩年の座談会での
発言になるので、丸山のスキームの中でどう捉えるかという問題もあるだろうけど、
啓蒙的理性というのは、押しなべて近代人共通の理性であって、パソコンで言えば、
OSみたいなものだ。これを持って、それぞれの個人の個人である所以とするのは、
おかしいといっているわけ。
デカルト以来の近代理性の啓蒙主義そのものに内在している矛盾であって、個人の
実存を問題にしているのではない。この議論は議論として面白いのだが、
とりあえずはしょっておく。

126 :横レス :2007/01/12(金) 03:43:31
これまでe1さんのレスとそれに批判的な人たちのレスの応酬みて、それなりにおもしろかった。

でも、e1さんが再三繰り返してる「啓蒙的理性的な個人主義」や「近代理性の啓蒙主義」の、
どういう点を批判しているのかよく判らない。

「啓蒙的な理性」というのは18世紀の産物だから、21世紀の今日にそうした議論を
することがおかしいというこのなの?

それとも「自立的な個人」などというのは、本来は存在しなかったということなの?

でも>>124が述べてるように、近代政治社会の原理というのは、絶対王政期までのいろいろな共同体が解体されて、
そこから出てくる個人を単位として、それらが新たに結びついていくことで、国家・社会が形成されていく。
これがヨーロッパ近代社会の形成史についての教科書的な理解だと思うけど。

127 :考える名無しさん :2007/01/17(水) 09:55:47
>>124
>「この世に我ひとり」という絶対的な個人であり、そうした個人にして始めて、
>超越的な価値(原理・主義・神)と結びつき得る。

それは啓蒙期というか宗教改革期の産物だろ。
神と個人という一対一的な関係によって、神の個人への内在化がなされ、
それを通じて個人の尊厳性が生まれる。
また神の前の平等から個人の平等性が出てくる。
この神が法に置きかわれば法の前の平等という近代の原理が生まれる。
だから唯我的個人というのは理性的な個人の発生源でこそあれ、両者は別に矛盾関係にはないだろ。

>>125が問題としてるのは、理性的な個人(形式)に対する実質的な個人(内容)についてなのではないかな?
いかに近代で形式的に等質化しようとも、なお残る個々人の個体性(個性)の問題だよ。

128 :考える名無しさん:2007/01/22(月) 00:04:45
センター倫理で真男がでましたww

129 :考える名無しさん:2007/02/04(日) 20:05:26
別に丸山は近代理性万能主義じゃないし
道元から精神的貴族主義を言うとか近代理性とはいえないものの
やはり自己練磨の精神が好き過ぎだとは言えそうだけどね

130 :考える名無しさん :2007/02/18(日) 18:36:23
丸山の『現代政治の思想と行動』は、最近新装版まで出たね。
いまだにそれなりの需要というか、新たな読者層がいるんだな。

たしかに80年代以降は、丸山の議論はすでに過去のものという理解が一般的だった
と思うけど、その頃流行してたポストモダン思想もすぐ流行遅れとなったし、
その後もいろいろな思想が一時流行ったけど、今では何がトレンドなのかも判らない
くらい思想傾向が多様化したというか、雑炊化してしまった。

それで丸山のような比較的骨太な議論が、再度読み直されているのかもしれない。

丸山に代表される「戦後思想」には、ほかにも経済史の大塚久雄や法社会学の川島武宜など
がいたけど、結局生き延びたのは丸山だけだった。

かつて明治初年にも多くの知識人がいたけど、古典として今でも読み継がれてるのは、
ほぼ福沢諭吉だけであるように、丸山の著作は「戦後思想」の古典として読み継がれて
いくのかもしれない。

それに引き替え、丸山を批判して一世を風靡した吉本隆明なんかは、今ではほとんど
読まれてないような気がするな。

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