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人生論・幸福論哲学

1 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 02:30:37
人はどう生きるべきか、人の幸福とは何か、または人は何を幸福とすべきか

2 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 02:44:49
うっせーカス

3 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 02:55:42
2chを幸福とすべきだな。


4 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 18:22:03
「生の哲学」スレ?

5 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 18:33:26
幸福論と名のつく本で幸福になったためしがない

6 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 18:35:15
芸術を幸福とすべき
俺は特に音楽が好きだお

7 :考える名無しさん:2005/10/21(金) 10:57:47
本を読んだぐらいで簡単には成れないよ。
本はただ道標だけを示したものにしかすぎない。
実践しなきゃ。
それでも一歩一歩僅かながら、前進または後退したりしながら、
己と闘いながらやっと掴めるかどうかのものであると思う。


8 :考える名無しさん:2005/10/21(金) 11:21:40
ないよ

9 :考える名無しさん:2005/10/21(金) 13:19:20
 とりあえず何故人は生きていられるのか?
それはまだ神様が 最後のDELTETEキー に
手を掛けてはいないからで、これまでずっと
生きてこられたからと、人間の、君たちの
存在や生き様そのものを肯定=認証している
訳ではないことをくれぐれも忘れるな!!

10 :考える名無しさん:2005/10/21(金) 13:20:50

 全く、キーパンチをミスった、
当然 DELETE・KEY の間違いだ。

11 :考える名無しさん:2005/10/26(水) 04:24:31
どうすればいいんだろう?
どうすれば、俺は幸せになれるんだろう?
どうすれば、みんなが幸せになれるんだろう?
どうすれば、生きとし生けるものが、みんな幸せになれるんだろう?

どうしたらいいのか分からない。

でも出来るだけ正しく生きようとする。
出来るだけ良く生きようとする。

それしか出来そうにない・・・・。

12 :考える名無しさん:2005/10/26(水) 05:02:25
俺が感じたのは、なるべく不幸な目に合わない事が幸福なのだと。
どんなに金持ちでも、辛い目に合って財産を作った人は、
性格がひねくれてるのが多い。
苦労して成功しようとせず、感謝の気持ちを忘れず、
地味に無難に生きてるのが幸福だと思う。

13 :考える名無しさん:2005/10/28(金) 17:48:54
人生の目的は自己実現だ。自分自身になることだ。
ところが、たいていの人間にはどこを探しても自己というべきものがない。
それゆえ人々は他人が示した型にはまりこんで喜んでいる。
自分のない人間は商売人の示す価値観にはまりこんで安心している。
つまり大半の人間は商売人におちょくられて一生を終わる。

商売人が世間に広めている価値観はもちろん
商売人に都合のよい価値観、商売人がもうかるための価値観である。
資本主義の世界では自己実現するのは商売人ばかりということだ。


14 :考える名無しさん:2005/10/28(金) 18:01:15
でも、自己実現というのは果たして良いことなのか?
例えば、真の自己がとんでもない大悪党だったらどうするの?

自己実現の規範が必要だと思う。みんなが自己実現したら、多分社会が成り立たなくなるんじゃないか。
ただ、規範に従うと、その時点で厳密には真の自己でなくなってしまうがね。

15 :考える名無しさん:2005/10/29(土) 00:42:56
>>14
何事も「バランス」が大事だと思う。

自己実現にこだわって傍若無人になってもいけないし、
人に合わせるばかりでもいけない。

考えるばかりで何も出来ないのもいけないし、
何も考えずにいい加減なことをしてもいけない。

左翼過ぎてもダメ。だからといって極右に走ってもダメ。

やり過ぎても、やらなさ過ぎてもダメ。

「中途半端」を嫌うあまり、「極端」に走っちゃダメ。
「中途半端」を受け入れることが必要。
だからといって、「中途半端な状態」に甘んじていていい
というわけでもない。

とにかく何事も、1つにこだわって、それ以外のこととの
兼ね合いを無視してちゃダメだと思う。

一方に偏り過ぎてはいけない。

常に「バランス」を取り、「最善のバランス」を追求するのが、
人の生き方なんだと思う。

それが人生なんだと思う。

それが出来る人間が「成熟した人間」なんだと思う。

16 :考える名無しさん:2005/10/29(土) 05:57:06
分からんことは分からん。

分からないまま生きていくしかない。

それが人生。

17 :考える名無しさん:2005/10/29(土) 05:59:09
出来ないことは出来ない。
出来ることは出来る。

だから出来ないことはしない。
出来ることはする。

それが人というもの。

18 :考える名無しさん:2005/11/12(土) 05:40:08
幸福とはつかむものではなく感じるものなり。
感じるとは、永続的なものなり。
精神の状態と運命(幸福)は比例するものなり。
精神の状態は血液の清濁と比例するものなり。
健康即幸福なり。

19 :考える名無しさん:2005/11/23(水) 07:03:31
おもいらの言ってることは諦めだ。
出来るか出来ないかなんてやってみなければ分からない事が多いじゃないか。
逆上がりだって出来ないと思えばできない。出来なくて諦めたら終わりだ。
出来なくても繰り返してれば出来ることもある。小さい目標を一つ一つ
クリアしていくのだ。攻めの気持ちを忘れたら男は終わりだ。

バランス?バランスなんて失敗しながらだんだん落ち着くところに
落ち着くものなんだ。常にバランスを取るなんて不可能だ。
失敗して原点に戻りまた失敗する。そうやって落ち着くべき場所を
学んでいくんだ。最初からバランスなんて言ってたら身動きが出来ない。

おまいらのは諦めと自己不信と怯えと勇気の無さと悲観論と怨恨感情の現れだ。
臆病者の幸福哲学だ。
思慮深さ、慎重さ、見極めと同時に勇気と自信と希望を持つのが男だ。

20 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 11:31:10
『あたしンち』とか『クレヨンしんちゃん』をネタに
検討してみるとか。

21 :ワーホッホッホッホッ:2005/12/11(日) 00:11:20
永遠の5歳児、クレしん。

22 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 12:03:13
成長した風間くんは
東大の哲学科に進みましたとさ。

23 :カナリヤ怪獣さん:2005/12/11(日) 22:08:34
そして、オウム真理教(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

24 :影の内閣さん:2005/12/13(火) 02:47:19
>>20
どっちも、実は“おっ母さん”が主役!___で、よかですか?

25 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 03:59:26
中坊の頃、同級生Aが「人の運命はすべて決まっている、俺たちはその決まった運命の道を進んでいるのだ」と語り出した。
俺は「まぁそういう考え方も出来るかなぁ」と何気に思った。高校に入り、退屈しのぎに同級生Bに「人生はすべて
決まっている〜」とAのマネをして語ってみた。するとBは「違うッ!人生は自分の力で切り開いて行くものだハッ!!君は間違ってるぅッ!!!!!!!」と
突っかってきた。「ハァ、どっちでもいいだろうがアホくせぇ…」と思った俺はそれ以上反論せず事なきを得た。
でも、どっちかに決めんとイカンものなんかな?その友人AとBが口論していたら頃し合いになったと思うが

26 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 05:14:02
色白な小太りで不細工なメガネ団子

27 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 05:18:18
事務員に復讐される侮辱だよね

28 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 11:25:49
実存主義って人生論だろ

29 :考える名無しさん:2006/01/03(火) 15:43:36
これだけは言える、現在幸福な人はこんな板覗かない。

30 ::2006/01/03(火) 16:37:06
>>28
知ったかだね


31 :考える名無しさん:2006/01/03(火) 16:51:51
あれは一連の出来事があったからだよね。
一連の出来事を原因にして、途中で始まったものなのだ。
だから、帰結することは何を原因にしているんだい。

32 :考える名無しさん:2006/01/07(土) 07:07:44
幸せとはどうでもいい事項の量が多いほど増すものだ。

33 :考える名無しさん:2006/01/07(土) 07:19:32
幸福って歓楽を得やすい状況のことですか?
どう思う、みんな

34 :考える名無しさん:2006/01/07(土) 13:48:38
私の幸福は平凡にあるのだと、それはわかりきっている。
しかし、私にはそれは絶対に無理なんです。
普通に育って、挫折して乗り越えて支えあって、子供を産んで育て。
何よりも望んでいる幸福は、永遠に得られないもので。
でもそれはしょうがない。本当に夢物語、過去を変えることはできない。
だったら、今の私に幸福はあるのか?幸せだと思う瞬間はある。
でもそれはすぐに壊される。真面目に。幸福というものは
永続的なものじゃないんだろうか?それとも単発的なものなのかな?
生きるということは、そもそも幸福なんだろうか?
苦しむくらいなら生まれてこないほうがずっと幸福だったんじゃ
ないだろうか?幸福とは苦しまないこと?それとも、救われたこと?
日々の、すぐに壊される小さな幸せの集まりか、それを感じる心か?
だったら狂った人間に幸福はないのだろうか?
幸せになりたいという願いだけが殻のように
残り、その中身はもうわからない。平凡になりたいと、
その願いの中にたしかに幸福はあったはずなのに。

35 :考える名無しさん:2006/01/07(土) 14:02:33
なんでオレは幸せなんだろ?
不幸なんて感じたことが無い

36 :考える名無しさん:2006/01/07(土) 17:08:54
>>34
おまい、平凡じゃないのか?

37 :考える名無しさん:2006/01/08(日) 02:58:54
人生
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/index.html

38 :考える名無しさん:2006/01/11(水) 00:17:21
イダテンノ ノーミソハ トコロテン。ハイッテキタ モノ ダスダケw ヘイコー イドー。セイサンハ ムリ♪

39 :考える名無しさん:2006/01/11(水) 00:57:22
幸福って結局は巡り巡ると、マイペースで歩く事だと気付いた

40 :考える名無しさん:2006/01/12(木) 11:50:52
“自己満足”ってことかな。

41 :考える名無しさん:2006/01/12(木) 11:57:23
ゲンソク ポイ ハナシニ ナテキタ  o(^-^)o ワーイ 

42 :考える名無しさん:2006/01/12(木) 14:52:53
平凡=幸福っていうのは違うと思う。しいて言うと幸福っていうのは救済に近いんじゃないかな。

例えばすれ違ってばかりの二人がときに思いをかよわす。そのとき、震えるような幸福に身を包まれる。
こういうのって幸福でない状況が幸福を生むための条件になってるでしょ。
生きていたいって思わせるほどの幸福っていうのは、逆説的だけど、幸福じゃない状況のなかに
見い出されるんじゃないかな。だから不幸を排除したら幸福になるってのはおかしいと思うよ。

死地に活をもとめるというか、幸福じゃないところに幸福をもとめるというか。うん、そんな感じ。

43 :考える名無しさん:2006/01/13(金) 01:07:20
幸福とは、幸福を探すこと。 人生とは、出会うこと。

44 :考える名無しさん:2006/01/13(金) 01:17:34
幸福とは、幸福感を得ること。何に幸福感を覚えるかはその人の価値観によるから、定義するのは無理。

45 :神様:2006/01/13(金) 01:19:14
最高善により幸福は満たされる。


46 :考える名無しさん:2006/01/13(金) 01:56:36
>>43
幸福とは、幸福を探すこと。
幸福とは、幸福を探すことを探すこと。
幸福とは、幸福を探すことを探すことを探すこと。
・・・

47 :考える名無しさん:2006/01/14(土) 12:06:20
( ゚Д゚)ポカーン

48 :考える名無しさん:2006/01/16(月) 20:48:13
きれいな景色や美しい花は、私が気づかなくても存在しているのに
見逃してしまうことがとても多いように感じます。
自己主張しないので、いつもよく気をつけていないとなかなか見つけられません。
一見殺風景な街の中にも、目を凝らしてよく見たら
誰が植えたのか街路樹の足元に水仙の花が可憐な花を咲かせていたりします。

幸せも、同じかなぁと最近特にそう思います。
よくよく話を聞いてみると、誰しも人には言えない悩みごとや苦しみを抱えていて、
そんな状況の中で幸せを見つけられる人と、見逃してしまう人がいるみたいです。
周囲の環境は変えられないけれど、自分の心持ちは努力すれば変わっていく。
言うのは簡単、実行するのは本当に難しいことだけれど
幸せを見つけられるようになりたいです。
そういう生き方をしていることを二人のこどもにも伝えていけたらよいのですが。。。



49 :考える名無しさん:2006/01/17(火) 11:37:32
良いお母さんです。

50 :考える名無しさん:2006/01/17(火) 12:03:05
仏教的幸福論です

http://www7a.biglobe.ne.jp/~homehome-world/

51 :考える名無しさん:2006/01/17(火) 14:04:25
( ゚Д゚)カポーン

52 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 17:23:09
人生の目的・哲学について。
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/index.html

53 :考える名無しさん:2006/02/12(日) 18:14:08
人は確定した幸せを待つ時間が最も幸福なのである

幸福な人生とは

幸せを待つ時間が多く、そして不幸を逆転させたものである

54 :考える名無しさん:2006/02/12(日) 19:26:43
ま、こうやって考えることができるのも
幸福のうちじゃあないか

55 :考える名無しさん:2006/02/12(日) 19:30:12
>>53
つまり三時のおやつがいつまで待っても来ない子は幸せか

56 :考える名無しさん:2006/02/12(日) 19:41:45
>>53
俺もそう思うわ
幸福ってのは期待の大きさだと思うよ
将来の幸福を待ってるとき以上の充足はないよ
いざその幸福が訪れてみたら意外と大したことはない
幸福という観念は幻想なんだね

人間、未来の快のために現在の苦に耐えようとするんだよね
これは不思議なことだ

57 :考える名無しさん:2006/02/12(日) 19:45:19
>>55
いつまでたっても来ないなら「三時」のおやつじゃねえだろが

58 :考える名無しさん:2006/02/13(月) 01:28:10
>>53
「確定した幸せを待つ時間」ってどんなものがある?

婚約から結婚までとかか。

59 :考える名無しさん:2006/02/14(火) 10:24:56
楽して欲望が満たされたらそれが当たり前になり幸福だと感じない
けど努力をして得たものはかけがえが無い それをずっと大事に幸福に思える
だから人間は努力しなくてはいけない
哲学も長い時間を費やして深めていくからこそ意味がある だから今あたしは考えて答えを探してる

60 :考える名無しさん:2006/02/14(火) 11:48:42
>>59
しかし、努力したからといって幸福に繋がるとも思えんけどな。
努力は良い結果が生まれてこそ、幸福感が得られるのではないかと。
良い結果が得られなかった努力は、単なる苦しみでしかない。

61 :考える名無しさん:2006/02/14(火) 12:10:35
>>60
良い結果って意味で努力して得たものって言葉を使っちゃったんだけどわかりずらかったねorz
ごめん

62 :愚禿深海 ◆2WR8XSMJLQ :2006/02/14(火) 12:32:37
私もやはり宗教的実存を求めているものでは在るが
しかし幸福と言う単語を使う者達はカルトばかりではないですか?
だから幸福と言う単語に拒絶反応してしまう。
そういう単語は安易な方向に流れてしまう事も多いですし。

63 :考える名無しさん:2006/02/14(火) 20:04:34
努力した後に得られるのは幸福じゃなくて快楽だよー
幸福は幻想だよー

64 :考える名無しさん:2006/02/14(火) 22:51:54
いや幸福でもある

65 :考える名無しさん:2006/02/16(木) 11:03:58
幸福って「欲」のことじゃないか?
例えば「子供が出来る」ということで言えば、
「子供が欲しい!」と思っている人にとっては嬉しいことだけど、
「子供なんていらない。ナマでしたいだけ」と思ってる人にとっては最悪の出来事。
だから結果や現象よりも「欲」そのものが幸福なのかと。

66 :考える名無しさん:2006/02/21(火) 12:07:05
タシカシタカシボクタケシ

67 :考える名無しさん:2006/03/15(水) 16:17:15
http://kuroneko22.cool.ne.jp/happiness.htm

68 :自己顕示欲 ◆P7qYv2J8CU :2006/03/16(木) 04:37:14
>43
まさにそれだよね。
人は無意識に幸福を探そうとしてるけど、不幸を探そうとしてる人なんてめったに居ない。

>人生とは出会うこと
これもそうだね。他人が居なかったら人生なんて言葉は生まれない。

頭イイ人が多くて助かるよ。

69 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 20:24:03
賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める。

70 :考える名無しさん:2006/03/18(土) 02:01:54
ダライ・ラマの『幸福論』はいいね


71 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 06:27:46
幸福には二種類あるよね。
一時的な欲が満たされた時に感じる幸福感と、
過去をかえりみて感じる幸福感。(あの頃は良かった等)
前者は長く続くと幸福と思えなくなるし、
後者は幸福だとその時は気付かない。(過去は美化されるので勘違いが多い)
こういうのを相対的幸福。
どんな境遇にいても幸福を見つけ出せる。要は+思考ね。
これを絶対的幸福。
仏教ではこう教えてた。
あ、仏教=哲学よ。本気でそう思う。



72 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 07:13:31
>>71
>過去を顧みて感じる幸福感
というのは、過去を顧みたことで現在に生じる幸福感ですか。
少なくとも私に関してそんな幸福感はありませんよ。
「あの頃はよかった」ってそれむしろ不幸な人間の愚痴でしょう。

73 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 08:01:52
心が平穏なときに幸福だと思えば幸福
幸福だと思い出すような感じ
苦しい、辛いときに比べれば、今がどんなに幸福か感じることができる

幸せを感じた者勝ち

>>71の一時的な欲が満たされた時に感じる幸福感は、なんともいえない快楽ではあるね
これにこだわると結局は不幸になるんだろう
ここらへんが煩悩を消せと言われる所以か


74 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 08:21:09
>>72
語弊がありましたね。すまそ
え〜、過去を顧みて幸福だったと感じる。
しかし当時はわからない。
そういうような事が言いたかったのです。

75 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 08:50:14
+思考の人は逆境に負けにくい。
考え方って大事だなあ。
ってことは人生において幸福な人は
+思考と馬鹿って事でオケ?

76 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 09:30:13
>>74
幸福でない現在と比較して、
過去の方が相対的に幸福であった、ということはあり得ると思います。
しかし、それは比較から生じた「認識」に過ぎず、幸福感とは別のものでしょう。
幸福感が生じていなかったのならば、その時点でありもしない幸福を自覚することはできないのだから、
>当時はわからない
という表現は適切ではない気がします。
「相対的幸福」によって幸福感を得るチャンスがあったのに、
それに気づかなかったということでしょうか?

77 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 09:33:57
プラス思考になるぐらいなら幸福はいらない、と思ってしまう。

78 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 10:11:37
マイナス思考で不幸がいいんですか?
Mですか?
仏教徒的なプラマイゼロの無ですか?

79 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 15:25:20
>>78
仏教徒は中道を実践することが幸福なんじゃないですか。
たとえば、教育などで厳しすぎず、甘やかしすぎずを完璧に実践することですよ。
中道は難しいけど、それを実践することで、現在そして未来までもが幸せになる
ようになるんですよ。

80 :考える名無しさん:2006/03/20(月) 15:00:55
 
 幸せを感じた者勝ち
 

81 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 01:02:27
勝ちもなにもないよ
幸福感なんてその次の瞬間には消えてるんだから

82 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 01:52:50
>>76
>「相対的幸福」によって幸福感を得るチャンスがあったのに、
>それに気づかなかったということでしょうか?
はい。そういう事です。
よって、相対的幸福の説明には不適切でしたね。すいません。

83 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 02:03:49
>>81
82は勝ち=得をするって意味でしょ?
まあ、幸福にとらわれすぎるのも、いくないけど・・・。

84 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 02:08:17
上の
82×
80○

85 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 02:51:17
>>82
なるほど、そうすると、
常に相対的幸福を自覚することで、
絶対的幸福が得られるということにもなりますね。

>>83
そうですね。
しかし、それを得と捉えるかどうかは勝手ですが、
どれだけ幸福を味わったか、なんてくだらないことだと思いますよ。
何も残りませんからね。

86 :悪魔:2006/03/21(火) 03:05:50
幸せは苦しみの一種な気がするんですが・・・

例えば 多くを望まず今有ることに満足し 幸せを感じれるとしましょう。
しかし 幸せと見てた物が失われたとき 苦しみに変りませんか?

世の中の現象に対し 幸せと分ける限り 残りの苦しみが発生しませんか?

欲が有る我々が崩れる要素の無い絶対性を持った幸せを得るには
どうすれば良いのでしょうか?

87 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 05:44:40
>>86
幸福の最大の敵は不安だと思います。幸福は時間的な観念ですから、
これから起こることに対する懸念は幸福感を霧散させてしまう。
絶対に不安が生じないなんて、ありえますか。
ほとんど時間というものを意識することのないような、
よっぽどの馬鹿であれば話は別ですが、馬鹿は幸福を理解できないでしょう。

88 :悪魔:2006/03/21(火) 06:49:32
>>87
幸福と不幸は一体ではありませんか?
幸福を求め貪る思いは 後に来る不幸を増大させませんか?
幸福に執着することが 人の道と考えますか?
幸せと苦しみの両極を見抜き それに囚われない事自体が
幸せとは考えられませんか?
幸せを求め幸せに偏る性質は苦しみを生じませんか?

89 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 18:21:19
>>88
幸福のために何かを築き上げたり、モノに執着するようなタイプの人間は、
それを損失したときのダメージは大きいでしょうね。
一方、そんなことはみな空しいと思って幸福を求めない人間も、幸福とはいえないでしょう。
幸福を求めても幸福は得られませんが、求めて失敗すると苦悩が訪れる。

90 :悪魔:2006/03/21(火) 19:00:53
>>89
幸せは崩れうるもので、難しい物ですね。
利己にて幸せを求め、失い苦しむのは耐え難い。
利他にて他者の幸せを求め、他者が苦しんでいる時に共に苦しむのは
耐え難くても受け入れたい。

我々が幸福として求めるのは 利己心による物事ではなく
利他心による物事であるべきと考えられませんか?

幸福は最後には消えてしまう。それであっても多くの人は求め彷徨う。
彼らの望む幸福を諭しながらも与え、消えたならば共に苦しみ悲しむ。

自らの心は中庸にて現象に揺れない為、人の行い難きを行い 耐え難きを耐え、
人の求める所を成し 知恵深く先を諭し 人苦しむ時は自ら苦しいと同じと感じ泣き
人悲しい時は自ら悲しいとして共に泣く。

幸福は利他心によって成されて初めて強い意味を持つと考えますが
幸福の求め方 有り方をどの様に考えますか?

91 :考える名無しさん:2006/03/21(火) 20:49:49
>>90
私は、いかにして幸福を求めるべきか、という信条めいたものを、
全く持ち合わせていません。

お互いが考えている幸福の輪郭に食い違いがあるようなので、
話が噛み合いませんね。
幸福というのは、幸福感という感覚であると見ることもできるし、
その人の置かれている状況に対しても使われることがあります。
心が満ち足りている状況のことを幸福というのでしょうか。よく分かりません。

幸福感という感覚が存在するならば、それは、
未来に対する期待、もっと核心をついた言い方をすれば、
将来的に獲得できるかもしれない「更なる幸福」の量に起因していると考えています。
差し当たりの欲求が満たされているだけでは、おそらく、幸福感は発生しません。

そして、これが重要なのですが、
将来の「更なる幸福」というのは、おそらく、幻想です。
それに到達したときに与えられるのは、一時の感情の高ぶりと、安息、
そして退屈です。退屈は苦痛ですから、そこで新しい「更なる幸福」を設定せざるを得なくなります。

92 :91:2006/03/21(火) 21:12:10
>>90
あなたは>>86で、
>今あることに満足し幸せを感じれるとしましょう
と言っていますが、
人間はほとんど現状に満足できないできないものなのです。
しかし、多くの人間は「これ以上はなにもいらない」「現状に満足」という状態を望みながら、
努力し、その努力のなかにたのしみを見出します。
幸福は幻想ですが、その幻想に向かう過程で、幸福感という感覚が得られる、
ということは考えられます。

93 :悪魔:2006/03/22(水) 07:24:28
>>91 >>92
なるほど!
つまり 幸福とは「更なる幸福」に目指し努力する事の過程により生じて来る物であり、
達成しても再び目差す事になるが、過程が重要で その様な姿勢が建設的だと言う訳ですね!
(*受け取り方に違いが有れば教えてください。)
実に素晴らしい考えです!

私の方は 目標を達成し幸福を得た後で、
それを普通に感じてしまい。 
普通と感じる幸福が有り続けないと
苦痛に感じてしまう現象を問題視しています。

↓続く

94 :悪魔:2006/03/22(水) 07:26:37
つまり 多くの人は幸福を得ると幸福に慣れ その事を幸福と感じない様に成るだけでなく
執着してしまい 失ったならば強く苦しむのです。

そして 多くの幸せは現象が有る事を幸福とするので 少なくとも自らが死ぬ時には全て失うのです。

これは幸福と言う概念の強い欠陥だと 私は感じるのです。

まだ諦めが効く様な事なら良いのですが、
例えばですが トラックに轢かれ肉片に成った赤子の亡骸を 泣き叫びながら素手で集める母親を見たら
どの様に感じられますか?

過去に戻れたとしたら 彼女は再び子を成す事を選んだでしょうか?

幸福こそ人を死ぬよりも辛い絶望に陥れる苦しみではありませんか?
幸福は初めばかり良く 切らす事が出来なくなり 切れれば過酷な絶望が襲う 麻薬の様な物ではありませんか?
幸福が多ければ多いほど 危険ではありませんか?

ですから 私は多くを望まず利己では必要最低限の事から有る事を普通と思わず幸せを感じ、
利他では人の喜びを見て幸せを感じるのが実に堅実であると考え、
なるべく有る事を良しとするべきでないと考えるのです。

いかが思われますか?

95 :悪魔:2006/03/22(水) 08:13:51
↑の いかがおもいますか?は
貴方から見て 私の考え方を改善したほうが良いと感じる部分はありますか?
と言う意味です。

96 :考える名無しさん:2006/03/22(水) 15:34:44
私は>>91 >>92 じゃないが納得しました。

>>94
>ですから 私は多くを望まず利己では必要最低限の事から有る事を普通と思わず幸せを感じ、
>利他では人の喜びを見て幸せを感じるのが実に堅実であると考え、
>なるべく有る事を良しとするべきでないと考えるのです。

ただ、これで幸福が切れた時に襲ってくる絶望から逃れることが出来るだろうか。


97 :考える名無しさん:2006/03/22(水) 16:27:07
幸福になる必要なんかありはしないと、
自分を説き伏せることに成功したあの日から、
幸福がぼくのなかに棲みはじめた

98 :悪魔:2006/03/22(水) 19:39:09
>>96
幸福が切れた時に襲って来る絶望からは逃れられない。
幸せを感じた分の苦しみは必ず生じる。
しかも執着が大きければ長い間苦しむと考えます。

その為、幸福を集めようと言う傾向を無くすのが良いと考えます。
幸福と不幸を一体の物と観る事が必要と考えます。
苦しんでいる時に苦しい原理を理解出来るのが良いと考えます。

抜粋された私の在り方は、物理的幸福を集める性質を抑制して
潜在的な苦しみの要素を増やさない事を狙ってます。
(無→有の時の苦しみの原因の抑制)
潜在的な苦しみを少なくする事により心の安らぎを狙ってます。
(無→無の時の心の平安)
顕在的な苦しみの原理を把握する事により 苦しみが継続する原因である 執着を短縮する事を狙ってます。
(有→無の時の苦の時間の短縮)
顕在的な喜びを得た後で それを原因とした苦しみを消す方法は無い。
(有→無の時の苦の量の消去は不可)(プラスで消費すればマイナスで引かれる)

*顕在的=現象の現われた面(表) 潜在的=現象の隠された面(裏) 現象は潜在的と顕在的で一体(表裏一体)
*表が消えれば裏が出る。表を捨てれば裏も消える。幸せは苦しみと一体の一枚のコイン

99 :考える名無しさん:2006/03/22(水) 19:52:48
>>98
幸福と不幸の振り幅を小さくしようと?
出来る限り「無」に近い状態が良いのかい?

100 :悪魔:2006/03/22(水) 20:06:02
>>96
利他に関して

現象の幸せの部分を味わい 苦しみの部分を味わって 初めて全体が見えると感じる。
全体が見えない内は誰もが 性質を観ずに幸せを求めてしまう。
その流れは苦と楽二つを実感するまで止まる事は出来ないだろう。

私は幸せに偏る他者を観て 自らの過去と重ね想う。
私は幸せと苦しみの原理を説く。
私は幸せを望むなら幸せに協力しよう。
幸せに成ったなら崩れない様にしよう。
それでも崩れる日が来てしまうから その時は執着を解こう。
幸せと苦しみの狭間に迷ったら 中庸を説こう。

中庸にて利他を想うなら 他者は私である。

101 :悪魔:2006/03/22(水) 20:08:48
>>99
利己に対し無に近く
利他に対し無限大が良いと考えます。

102 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 00:21:31
良心に反する行為で得る幸福感は一時的なものでしかなく、更なる欲望を生み出し苦しむ
そうでなくても、心の苦しさを味あわなればならない

良心に従い行動して得られる幸福感を求めるべき

具体的な例は各々頭に思い浮かべられるだろう

103 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 00:23:01
 

良心が持続的な幸福感への道しるべとなる




104 :91:2006/03/23(木) 01:32:57
>>94 >>98 >>100
私と違った観点で説明してくれて大変参考になりました。
あなたの説をまとめると、
不幸の原因である潜在的な苦しみを最小限にするために、
モノや地位など、自分の所有に属するものに執着しないほうがよい、
ということになるでしょうか。

私風の解釈になってしまうことをお許しいただきたいのですが、
モノに対する執着心・追求心というものは、
それを獲得した先に待っている幸福(幸福感ではない)を狙っているように思われます。
しかし、やはりその先に待っているのは幸福などではなく、
一時の感情の高まり(おそらくこれが幸福感)と、束の間の安息と、やがて訪れる退屈なわけです。
退屈を払いのけるために、また新しい執着を設定し、追求を開始します。
そして、その努力のなかに期待と愉しみを見出し、充実を得る。
この状態にある人間に「あなたは幸福ですか」と問えば、「幸福です」
という答えが返ってくるかもしれない。
この幸福とは、「これ以上はなにもいらない」という「ほんとうの幸福」ではなく、
将来獲得されるものへの「期待」から生じているのです。しかし、ほんとうの幸福などは存在しません。

人間が幸福という言葉に抱いている、
「これ以上はなにもいらない」という抽象的な観念のために、この作業は延々と繰り返されます。

あなたは、僕の説に対して、
「幸福に向かう過程が重要なのであり、その姿勢が建設的」とおっしゃいましたが、
幸福を追求して得られるのは、それこそ、(一時の感情の高まりと、退屈と)
あなたが言うような「潜在的な苦痛」の要素なのではないでしょうか。
それが果たして建設的と言えるでしょうか。

105 :91:2006/03/23(木) 02:16:11
>>94 >>98 >>100
補足します。

あなたの説にも関連しますが、
私は幸福を実感する条件として「期待」という要素を強調しました。
その反対に「不安」という要素は、幸福の実感を霧散させ、不幸の感覚を誘発します。
「期待」、「不安」いずれも未来の事象への予期から生ずるものです。
(幸福を分析する上で、「時間」を考慮することが最も重要だと考えています)

この「不安」の内容ですが、
あなたが言うような「潜在的な苦痛」、つまり、執着しているモノを失うかもしれない、
という恐怖が密接に関係しているように思われます。
それに、何度も書きますが、モノに執着することによって幸福は得られません。

もう少し話を発展させると、
私は、期待が現実になっても「ほんとうの幸福」なるものは得られないことを強調しましたが、
その逆も然りです。不安が現実になったとき訪れるのは、一時の絶望感であり、
それさえ乗り切れば、やがて自分に与えられた状況に慣れていくでしょう。
つまり、不安が生じているとき人間は不幸なのです。
「潜在的な苦痛」の要因が増大すれば、不安の危険も増大するでしょう。

106 :91:2006/03/23(木) 03:23:42
>>94 >>98 >>100
利他に関して触れなかったので、それも補足します。

あなたは>>96を受けて、>>100で利他に関して述べていますが、
あまりよく理解できませんでした。
>>96の「利他によって幸福が切れたときの絶望を救えるのか」への回答としては、
不十分ではないでしょうか。

私の考えを述べれば、利他の必要性について述べた言説は、
人生訓としてかなり優れていると思います。
「自分よりも不幸な人たちを見て勇気付けられた」という人がいますね。
人間は自分よりも不幸な人間を見て快楽を得られる存在です。
また、多くの人間はかわいそうな人間を助けるのが大好きです。

私は、先に「差し当たりの欲求が満たされているだけで人間は満足しない」
と書きましたが、たしかに、
享楽的な欲求、肉体的な欲求の充足だけでは幸福を実感できないでしょう。
これらは「生きがい」になりえないからです。
しかし、他人への奉仕の快楽は他と性質が異なっているように思われます。
奉仕は、快楽だけでなく充足感をもたらします。
「他人」というのが重要で、親密な人間への奉仕だと、また状況が変わってきますね。
損失する可能性がありますし、不安の原因にもなりますから。

そうすると…
常に他人への奉仕を念頭に置いて行動するような人間は、
モノに執着することなしに幸福を得られるということになるかもしれません。
そのような人なら「これ以上はなにもいらない」という状況を望まないでしょうから、
幻想を追いかける必要もない。
それを技術的に実行する過程で不安が生じてしまう可能性はありますが、
危険が最も少ないと言えるでしょう。
やはりここでも鍵になるのは、期待と不安であると考えます。

107 :悪魔:2006/03/23(木) 22:49:01
91さんへの返答

>>不幸の原因である潜在的な苦しみを最小限にするために、
>>モノや地位など、自分の所有に属するものに執着しないほうがよい、
>>ということになるでしょうか。
その通りです。

>>「幸福に向かう過程が重要なのであり、その姿勢が建設的」とおっしゃいましたが、
>>あなたが言うような「潜在的な苦痛」の要素なのではないでしょうか。
>>それが果たして建設的と言えるでしょうか。

私は貴方の話を要約して、次の様に実感しているであろうと感じて
>>>「幸福とは「更なる幸福」に目指し努力する事の過程により生じて来る物であり、
>>>達成しても再び目差す事になるが、過程が重要で その様な姿勢が建設的だと言う訳ですね! 」
と貴方に聞いた形になります。

何故その様に建設的であると要約するに至ったか?ですが、
私は貴方が 
(過程による幸せは、来る可能性の有る苦しみと 引き比べたとしても得るべきであり、
苦痛を恐れて幸せに向けた努力を投げ出しては成らない)
と考えているであろうと判断して、
それに対して (幸せを目指すべきと考えている状況)にあっては
この考えは建設的と言え、又素晴らしいと言える。と感じて、
その様な表現と要約をしました。

仮に(幸せは得ると苦しみの要素に成ると分かっているのだけど、
幸せに向かわないと自身が安定できない。)と言った様な、
知性でなく欲望を主体とした行動であると私が感じていたならば、
その様な表現には至りませんでした。

108 :悪魔:2006/03/23(木) 22:50:25
91さんへの返答
>>私は幸福を実感する条件として「期待」という要素を強調しました。
>>その反対に「不安」という要素は、幸福の実感を霧散させ、不幸の感覚を誘発します。
>>それに、何度も書きますが、モノに執着することによって幸福は得られません。

期待だけを部分的に得る事は不可能と考えます。
幸せの目標があって それに期待する訳ですから
努力すれば成し得るでしょう。幸福はその後 潜在化すると考えます。

期待を持ち努力して得たのだから、潜在化した幸福に執着が出ないのは不可能と考えます。
顕在的に期待した分は 潜在的な執着に変化すると考えます。

顕在的な幸福・期待は 潜在化した時に不幸・執着の要素と成り。
顕在でも潜在でも同じ考えを元にして、表裏が変化して見てると考えます。
その為、考え方を変えるならば 見え方が変るので 執着が短縮可能と考えます。

顕在的に 幸せ 期待 不安は 潜在的に 苦しみ 執着 諦め ではないかと考えます。


109 :悪魔:2006/03/23(木) 22:51:28
91さんへの返答
>>私は、期待が現実になっても「ほんとうの幸福」なるものは得られないことを強調しましたが、
>>その逆も然りです。不安が現実になったとき訪れるのは、一時の絶望感であり、
幸福は永遠でなく 不幸も永遠ではないと考えます。
幸福は主観であり 不幸も主観であると考えます。

幸せ自体も 苦しみ自体もが 現象その物として存在する訳で無く
一切は空であり 何もない空を見て、  (空=現象に過ぎず実感は現象では無い)
自らの主観が現象から 喜びと苦しみに分けて、 
これが喜び これが苦しみと思い成してるだけであると考えます。

零の実感から 現象に喜びを付けて100と足せば、
現象崩れる時 苦しみにより、100を失う。
期待が執着となって心にこびり付き、零からマイナスへ振り下がると考えます。

振り下がったマイナスの実感は 心に喜び求め、現象に再び喜びを見つけて
マイナスからプラスに振りあがり 心は苦楽を繰り返すと考えます。

人は喜びと苦しみを繰り返す。 確かな物を求めるが実感に実体は無い。
喜びや幸せを求めるが実感に実体は無く 苦楽を繰り返し 遂には何も得るはずは無い。
何故なら幸せ自体が自身の主観する実感と言う幻であり、
最後には零に帰結する性質のものだからと考えます。

喜びと苦しみを繰り返して 実感が零に戻った時、
喜びと苦しみが一体に見え、喜苦の全体を見抜き 喜苦の欲から抜け出る機会と考えます。

喜は苦と同じに見え 原因と結果を見抜き 喜びであっても 苦しみであっても
どちらであっても その様に今あるのなら 心揺れる事無く受け入れようと言う思いあって。
喜びを喜ばず 苦しみを苦しまず 喜びに苦しみを観て 苦しみに喜びを見る 喜苦の見抜きの意識。
現象を現象と見て 実感と言う幻を付ける事無く 現象に心揺れない為 心乱れる事無く 平安に至る意識。
喜苦の欲を離れて、喜苦の中庸を得て、喜苦に乱されない喜を得るのが最終的には良いと考えます。

110 :悪魔:2006/03/23(木) 22:53:06
91さんへの返答
>>>>96の「利他によって幸福が切れたときの絶望を救えるのか」への回答としては、
>>不十分ではないでしょうか。
>>「自分よりも不幸な人たちを見て勇気付けられた」という人がいますね。
>>人間は自分よりも不幸な人間を見て快楽を得られる存在です。
利他に関する説明は ご指摘の通り不足していました。
説明が長くなり申し訳ないのですが、
利他の概念をお話する機を得たと思い説明させていただきます。

私は何を持って私であるか?と考え末、
肉体でも物質的な如何なる存在でもなく。

欲が私という個の構成要素であり、(我思う我有り、思う事 欲無くして成らず)
私の肉体に宿っている欲の傾向を持って 私の傾向であり、(何処に行くか?)
欲によって練られた理念が 私の特徴であり、(何であるか?)
人生に於いて成した事全てが私自体の 存在である。(何であったか?)
と言う結論に達しました。
(我は肉によって我あらず、その心をもって我と知る)

次に人は私と別の存在であるか?と考えた末、
如何なる生き物・人種・性別に左右されること無く。

全て生きし生ける者 個の構成要素は私と同じく欲であると考え、
次に他者が私と同じ性能で 同じ経験をし 同じ環境にあったなら、
私と同じ欲の傾向を持ち 私と同じ理念を持ち 私と同じ特徴を持ち
私と同じ存在を示したであろうと考え、
私の理念を私で有ると考えるのならば
他者が私の理念を持つならば それは私に他ならないと考えました。
(人は同質にして 違いなく心を受ける。 心変れば人変る 心が人なり)
続きます↓

111 :悪魔:2006/03/23(木) 22:53:50
91さんへの返答
更に人の精神の喜怒哀楽なる感情は共通であり、
集合的無意識(ユング)より枝分かれして個として生じ、
最終的に集合的無意識に帰る存在であろうと考えました。

そして 原因があって結果があり 結果は原因により導き出された物であり 偶然は無いと観て
人の作為一つ一つが原因を生じさせる性質のものであると考えました。
(因果)

人の持つ要素は 他者の持つ要素が同じだった場合 引かれ合うと考えました。
(人を不快に感じるのは 同様の要素が己に有る)
(人を素晴らしく思うのは 同様の要素が己に有る)
(自身に他者と同じ要素が無い場合は 関心が沸かず現象としてしか認識できない)
(人は同じ要素を持つもの同士が縁を持ち引かれ合う)
(因縁)

全ての実感は自身の心の現れにより生じて、
全ての現象に実感を持つのは自身の責任である。と観て、
私の感じる世界そのものが私に他ならないと考えました。
(一切皆空)

人間は現象に惑わされて、本質を観ずに迷い苦しむ事を思い
人間であることの悲しさを思い。
私を含めた全ての存在の悲しさと苦しみと絶望を考えました。
(一切皆苦)

人は理念あって分ける事を慎めば、
理念が理念を呼び、全ての苦しみから解放されうると考えました。
(一切皆楽)

続きます↓

112 :悪魔:2006/03/23(木) 22:54:31
91さんへの返答

上記の考えを元に下記の結論に達しました。

この世のあらゆる存在が私である。
他者が苦しんでいるのは 私自身が苦しんでいる事に他ならない。それは私である。
他者が喜んでいるのは 私自身が喜んでいるに他ならない。それは私である。
他者に理念を諭すのは 私を根本的苦から救いたいに他ならない。 それは私である。

全てが私であり、利己と利他のズレが無く 欺瞞を含まない。
究極の利己である利他。
それが私の利他です。

説明上 >>90>>94などで 利己を使いましたが
それは 自身という個の物欲を満たす欲望を指します。

不明な点をご指摘ください。

113 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 23:09:39
悪魔さん、もっと簡潔に纏めてよ。

114 :悪魔:2006/03/23(木) 23:38:42
>>113
簡潔に纏めると非常に分かりにくいと思われますが、

有るならば失う、有るものに喜べば、苦しみは避ける事は出来ない。
あらゆる実感は自らの主観であり、実感に実体が在る訳では無い。
その為、現象に実感を付けて偏っても何も得られる事は無い。

全ては人間は同じ要素によって成立してる同質の存在である。
違うのは考え方である。考え方が同じなら 他者は自分自身と同じ存在である。

自身と他者を分け隔てる事無く接して大切にするならば
自分自身を大切にするのと全く同じである。

大体この様な内容です。
何故その様に主張するかまで書いてしまったので長くなってしまいました。
申し訳ないです。


115 :悪魔:2006/03/25(土) 11:22:05
利他は幸福以上に難しい概念と思われる。

自分よりも不幸な人間を見て快楽を得て、
それを助けることによって自身を美化するのは
あくまで利己であり利他ではない。

我執強い限り、利他はあり得ない。
利他は他を己自身と見ることによって、
初めて利他となりえる。

116 :悪魔:2006/03/25(土) 11:29:40
そもそも 我々は大きな意志の中で
欲を持って個と分け隔てているに過ぎない。
同じ意志の流れの中で、
同じ要素により個と分けた存在同士が、
各々が自身こそ全てと思い成してるに過ぎない。

エゴによって人を助けて喜びを得ることは
欺瞞に他ならない。

利他を論証によって解き明かし、
検討するならば
長いやり取りになるだろう。

別に利他に関するスレッドを立てますか?

117 :自己顕示欲 ◆P7qYv2J8CU :2006/04/04(火) 09:37:31
>人の幸福とは何か
興味のあることへの反芻をする行為、( 興味の対象が )実現不可能なら不可能なほど良い。
永続的に続くからだ。 これ以上幸福な時間は無い。

118 :自己顕示欲 ◆P7qYv2J8CU :2006/04/04(火) 09:49:01
答え(完結)にまで手を伸ばしてしまうことは、意識的に避けたほうがいい。
幸福な時間が風化してしまうから。

119 :考える名無しさん:2006/04/04(火) 09:50:28
>>117
>実現不可能なら不可能なほど良い

そうかぁ?

120 :考える名無しさん:2006/04/06(木) 12:00:34
チーズテリタマバーガーは食べにくい。

121 :考える名無しさん:2006/04/11(火) 00:39:52
>>119
そりゃそうだろうよ。
反芻するってことは、当の本人は不可能だと思ってないんだもん。
いつまでも夢追っていられるじゃん。

122 :妖怪:2006/04/11(火) 00:56:14
悪魔さん解ってるね〜。
あんまりこういう人いないんですよね。
言ってることはすべて同意。
悪魔なのに禅(トラパかな?)とはこれ如何に(笑。

123 :考える名無しさん:2006/04/11(火) 01:57:41
>>122
その認識がどうやって「幸福」につながるのかが分からないんだけど

124 :妖怪:2006/04/11(火) 17:53:18
>>123
そのってどの?

125 :考える名無しさん:2006/04/11(火) 20:16:51
私、幸福ですよ。
不幸では無いのですから。
ですが、私の存在が不幸なんだけど。

126 :考える名無しさん:2006/04/11(火) 22:10:02
人生・哲学・信仰

http://www.geocities.jp/bluewhitered34/index.html

127 :考える名無しさん:2006/04/12(水) 00:56:13
キリストさんですな。

128 :考える名無しさん:2006/04/13(木) 14:47:54
朝、寝起きの良い人………さ〜今日も一日頑張るゾ〜w。\(^o^)/
    ↑
   幸福な人

129 ::2006/04/16(日) 19:12:01
皆さん、はじめまして。
ここで少し勉強させてください。
質問ばかりになるかと思いますが宜しくお願いいたします。

>>114 悪魔さん
>自身と他者を分け隔てる事無く接して大切にするならば
>自分自身を大切にするのと全く同じである。
ここで質問です。
ここには自己犠牲はないのでしょうか?
また、自己犠牲がないとすれば、相手も良く自分も良く双方にとってベスト
な方法ということでしょうか?もし、そうであれば、双方にとって良いとい
う判断基準はどこでされているのでしょうか?

宜しければ教えてください。





130 :妖怪:2006/04/16(日) 23:37:00
>>129
なるほどですね。
自己犠牲と言っている時点で自と他を分け隔てている・・・というのは簡単だが・・・。
もしこの自と他が対立する関係におかれた場合には、確かに自己犠牲を伴うことになるのかな?
例えば「瞬時に殺さねば殺される」という関係におかれた場合、自他を分けずに大切にするには・・・?

私には分からんですたい。
悪魔さんはどう考えます?

131 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/16(日) 23:58:05
0さん こんばんは
妖怪さん はじめまして

>>ここには自己犠牲はないのでしょうか?
成すべき時に ただその様に成す。
在るべき時に ただその様に在る。
その時の自身の役割として 死ぬべき時は死ぬし、
その時の自身の役割として 死ねない時は死なない。

自身の都合に於いて 死にたくないや 死にたいでは無く。
全体の流れの中の役目に於いて その流れに従う。

流れに反する形では無く 自由に選べる場合に於いては
相手が受け入れられないなら 相手と役目を変える。

>>例えば「瞬時に殺さねば殺される」という関係におかれた場合、
>>自他を分けずに大切にするには・・・?
殺すべき時は殺す、それを原因として殺される事を知りながらも行う。
殺されるべき時は殺される。 恨む心無しに受け入れる。

殺すや殺されるも 決して自らの欲によって成しては成らない。
全体の意思の流れの中で 泣く泣く自らの役目として それを成す。

132 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 00:04:35
対立する関係に於いて 相手を大切に出来るか?に関して

その様に成すべき時は 如何なる事であろうとも
成さねば成らないだろう・・・

それが 親友や我が子であろうとも 同じ様に成さねば成らない。

自らの情によって 行うべき事を曲げては成らない。
自らが情により 道理を曲げれば 関わり合う全体の歪みとなる。

対立しようとも 大切である。
自らと同じと見ながらも それを行う。

133 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 01:44:06
頻繁に出てる"その時は"とか"役割"ってあるけど、誰が決めてるの?
神?法律?個人?良心?
そしてその具体的定義・見解はできてるの?

134 :妖怪:2006/04/17(月) 01:45:54
>>131>>132悪魔さん
遅ればせながら初めまして。
レスありがとうございます。
お答えよく吟味してレスさせていただきます。
今日は失礼します。ネムー。

135 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 02:15:53
>>133さん こんばんは
131 132に於ける その時・役割に関して

私と言う個体から 周りと言う全体が有り
全体と言う観点から 私と言う個体が有ります。

私にとって都合の良い様に 全体に対して振る舞うので無く。
全体の中での役目の一つとして 私と言う個体が有り。

自分自身は個体を持って 己とするので無く。
全体を持って 己とする。

今有る立場と役割の中で 自身の都合を持って事を行うのではなく。
全体の中に在る己の役割として 事を行う。

自身の情に流されそうな時でも その時はそれを行うべきであり、
自身の都合に合わない時でも 自身の都合を曲げて事を行う。

つまり 全体重視と言う視点です。

語弊を招かぬ様に事前にお話しますが
何らかの犯罪組織に入って 全体の為とか言って犯罪を犯すのは
自身の欲で有り 無知で有り この限りではありません。

日常に於いて周りを大切にしながら、全体を持って私として
全体の為の役割を果たし、役割を果たす時に逃げない事を指します。

生き死には戦時中であればの話になります。

136 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 02:33:54
>135 遅れまして、こんばんわ。

>全体主義と言う視点です。
国(法律)という視点と判断して宜しいでしょうか?
その具体的な定義・見解、宜しければ伺いたいです。

>今有る立場と役割の中で 自身の都合を持って事を行うのではなく。
>全体の中に在る己の役割として 事を行う。
これの判断は自身が行うのでしょうか。全体が行うのでしょうか。
自身が全体を重視しているのに、全体との("役割"に対する)見解が違う場合は
どうするのでしょうか。
"全体"も"自身"の集合です。 自身の思う"全体"が否定されたとき、何が確かなものとなるのでしょうか。


137 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 02:58:32
全体が破局に動いて それを良しとした場合、
それは良い訳ではありません。
例外的な事が生じるならば それは違っているのかもと考え直しました。

例えば 戦争を良しと侵略を願う様な流れになれば、
その欠点を私は主張するでしょう。
長所と短所を併せ見れば 賢明な判断とは言えないからです。

何を基準として 事を行いそれに従うかを考えてみた所、
道理に従うべきでないかと考えます。

道理に適った上で
道徳や知恵を重視して
その中で全体との関わり合いを深めるべきと考えます。

138 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 03:17:39
>137
道理を知るには損を知ることですね。
皆が知る損から 組み立て、判断していくということで宜しいですね?
知らない損は知恵や道徳を重視し、全体の整合性を高めていくということですか。
納得しました。

139 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 03:35:54
>>138さん 
道理を知るには
利と害を知る事が必要と考えてます。

あらゆる事は利あれば害あって 喜びあれば苦しみあると考えます。
表面化した利に関心が行き、潜在的な害を忘れてしまうと
人は絶対的にそれを良いものと思い貪り 最後に利消えて害に苦しみます。

何に向かうにしても 害を掌握してから行うべきと思うのです。

例えば勉学は欲を抑えるので苦と感じます。
しかし自身の技術に成るので最終的には楽と化します。
その為 苦に悩む人に楽を説明します。

逆に 怠惰は欲に任せるので楽と感じます。
しかし自身の成長の妨げになるので最終的には苦と化します。
その為 楽を貪る人に苦を説明します。

これらは 現象の全容を知らせる行為で 現象の原理でも有り
原理によって あるべき道を創り 道理であると考えます。

140 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 03:50:43
>139
なるほど良く分かりました。(多分)

相対主義でいいのかな?
喜びも苦も最終的・総合的には±0になる、という考えでいいでしょうか?

141 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 03:55:41
>>140さん
相対主義と言うのかは分からないのですが、
喜びも苦も最終的には±0になる、という考えはあります。

142 ::2006/04/17(月) 09:21:50
>>悪魔さん
返信有難うございます。
道理に沿って答えを出す、動く。その道理に沿った状態は感情移入がないような
状態でとても淡々としていますが、その状態さえ先日、この基準は自分が決めて
いるのでは?と思ったので質問をした次第です。
喜び苦しみのような2極統合融合も自分がそう感じているだけではないか?と
ふと思ってしまったんです。もっと奥があるのかもしれないと。

また夜きてみます。有難うございました。

143 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 19:22:00
0さん 返信有り難うございます。
誰かが犠牲に成る様な 極限の状態での決断は
自身の欲や情を捨てるべきと考えます。

これは感情無く機械的に処理すると言う様な事では無く、
悲しみや苦しみの中にあっても 
自身の欲望や情によって左右されては成らないと考えます。

欲や情によって成すならば、自身の欲によりますから
自分自身の好きな様に考えたに過ぎないと言えるでしょう。

自身の欲と情を極限まで捨てて 道理と道徳によって出された答えなら、
道理と言う原理に沿っている為に 個から出された答えでありながら 
個を主体とした決断では無いと考えます。

主観は客観に成りえるか? 主体は客体に成り得るか?
非常に難しいテーマですし 私自身完全な結論には達してません。
是非 ご意見お願いします。 

144 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 19:22:53
0さん 返信有り難うございます
>>喜び苦しみのような2極統合融合も自分がそう感じているだけではないか?と
>>ふと思ってしまったんです。もっと奥があるのかもしれないと。
喜びは苦しみに変り最終的に0と成る様な考え方が私にはありますが、
これは私自身にとって非常に都合の悪い結論でもあります。
出来る事なら 何か最後には幸せのみを手に入れられる方法があれば知りたいのです。

この考え方だと 心の中が砂漠化してくる様な感じがして
私でも流石に嫌です。
例外的な事を教えて欲しいです。

145 ::2006/04/17(月) 19:41:03
>>悪魔さん こんばんは。
返信有難うございます。もっと奥があるのかもしれないと感じるのは、やはり
まだ自我から見ているんだなと。昼間運転しながら思いました。

>この考え方だと 心の中が砂漠化してくる様な感じがして
そうなんです。落として落として落として、さて?そこには?となると
それが見えそうでへっぴり腰にもなってます。ですが、想像しているだけで
あってそこへ行ったわけではないので、やはり進んでみてからしか実際わから
ないですね。


>自身の欲と情を極限まで捨てて 道理と道徳によって出された答えなら
例えば、極限まで捨てて得た答えで自分の状態も軽くなりなくなったはずが、
ひょんなことからまた出てくるのは、極限まで至っていない自己解釈止まり
だったということでしょうか?

146 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 19:52:51
0さん 返信有り難うございます。
>>まだ自我から見ているんだなと。昼間運転しながら思いました。
私は 自我は恐らく生きてる内は捨てられないと言う結論が出ました。
物事を分別する事、それ自体が欲ではありませんか?
欲無くて良いと悪いに現象を分別したり、自と他に分別したりが可能なのでしょうか?
自我=欲=自分自身の構成要素 ではありませんか?

自我を消し去ったら その瞬間、意識と無意識を隔てる事が出来なくなり、
消滅しませんか?

自我=欲=個の構成要素 は少なくする事が出来ても 完全に無くす事が
出来ない気がしますが 如何でしょうか?

147 ::2006/04/17(月) 19:53:58
>>悪魔さん

>喜びは苦しみに変り最終的に0と成る様な考え方が私にはありますが、
喜びは苦しみですか?苦しみは喜びにの書き間違えですか?
自分の場合は、喜び苦しみ包括・融合で0という認識です。同じ意味にも見えますが
いかがでしょう?


148 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 20:06:47
>>あってそこへ行ったわけではないので、やはり進んでみてからしか実際わから
何も楽しめず、何も喜ばず 全てが物悲しく見え、儚く見える。
喜びと苦しみが一体に見え、原因と結果が一体に感じる。
人が喜ぶ姿を見て微かに喜び同時に悲しむ。

人の苦しみを取る事で 人の喜びに変化し、
人に喜びを与える事で 人の幸せに変化し、
人の上に在りながら 人の下に立ち努力して
望まれて上に在り、願いにより下に立つ。

喜びを求める内は 喜びにあり、
苦しみに遭って 諦めにより その様に在る。

この様な感じに成るのでは?と想像します。

149 ::2006/04/17(月) 20:09:20
>>146>>悪魔さん
>物事を分別する事、それ自体が欲ではありませんか
前回の質問は私はそれについて書きました。文章が下手で伝わり辛くすみません。

>自我を消し去ったら その瞬間、意識と無意識を隔てる事が出来なくなり、
消滅しませんか?
そこです。へっぴり腰になってしまうのは・・・。

ただ、今日昼間思ったことがありまして。
例えば老子にしても、そういった人達はどこで道だとか空だとか判断していたのか?
と。それを知ったが、その状態を続けたままということはあったのか?と。
ありそうな気もするので、さらに考えたところ自我=欲を突破すると我(われ)
が残り、我(われ)はやはり淡々とはしているが、機械的でもなく砂漠でもなく。
温かみはあるが、良い意味でカラクリ人形のようでもある状態かと。

150 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 20:16:17
0さん
>>喜びは苦しみですか?苦しみは喜びにの書き間違えですか?
私の考えでは 喜びこそ苦しみの原因と考えます。
子に関して喜ぶ者は 子に関して苦しむ
財産に喜ぶ者は 財産に苦しむ

子が成さねば 子の憂いも無く
財産が無ければ 財産の憂いも無い。

人は喜びに執着し 執着により長く苦しむ。
得た物は失われる性質により 喜び覚えれば 苦しみに閉じる。

この世界で失わない物質的存在は無いと考えます。
自らの肉体すらも やがて朽ち果てていく。
我が物と思えど 我が物は無し、我が物と思い喜べば 苦しみは避けられない。

と言った考えがあります。

151 ::2006/04/17(月) 20:25:19
>>悪魔さん
>人の苦しみを取る事で 人の喜びに変化し
これは自己犠牲と自己満足と聞こえてしまうんですが、いかがでしょう?

>私の考えでは 喜びこそ苦しみの原因と考えます
何故か私の考えと少し違うと思いましたが、わかりました。
悪魔さんが言う『喜び』とは『自己満足』ということではないでしょうか?
循環しない法則にのっとてない『喜び』を指しているのでは?

>この世界で失わない物質的存在は無いと考えます。
物質はいずれなくなるかもしれませんね。我(われ)は残っていくとは思い
ますが物質ではない。
ただ、半霊半人ということは聞いたことがあります。

152 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 20:32:39
>>物事を分別する事、それ自体が欲ではありませんか
>前回の質問は私はそれについて書きました。文章が下手で伝わり辛くすみません。
確かに完全には欲は捨てられないと考えます。
しかし、どの程度まで欲を中庸の様な状態に置けたかにより、
内容が全く変ってくると思うのです。
難しいところです。

それと欲を無くして行くと無意識の大きさが小さくなって
意識の幅が大きくなっていきませんか?

例えば限りなく無意識が小さくなって 意識が大きい場合、
深い所の意識まで 見えたりなどの事は無いですかね?
例えばの話ですが・・・(瞑想時の今までに無い発想の原理が不明でして)

153 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 20:35:14
>>ありそうな気もするので、さらに考えたところ自我=欲を突破すると我(われ)
>>が残り、我(われ)はやはり淡々とはしているが、機械的でもなく砂漠でもなく。
俗に言う 真我と言う概念ですか?

154 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 20:45:14
>>人の苦しみを取る事で 人の喜びに変化し
>これは自己犠牲と自己満足と聞こえてしまうんですが、いかがでしょう?
>循環しない法則にのっとてない『喜び』を指しているのでは?
う〜ん
俗に言う中庸と言う状態が人間は好ましいと
0さんは考えられますか?

155 ::2006/04/17(月) 21:03:42
>>悪魔さん
『真我』『中庸』の意味がわからないんで、くぐってきますので少々お待ちを。
それと、私は瞑想はしたことがないのでよくわかりませんが、

>例えば限りなく無意識が小さくなって 意識が大きい場合、
>深い所の意識まで 見えたりなどの事は無いですかね?
これは、自我である意識が深層にある(原因となる部分)所を発見した
状態と取って宜しいでしょうか?
そうであれば、あります。



156 ::2006/04/17(月) 21:15:26
>>悪魔さん
度々すみません。悪魔さんの中での『中庸』の定義を教えていただけますでしょうか?

157 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 21:17:59
命違えば争いも起きる

158 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 21:36:02
中庸の概念に関しまして

喜びと苦しみなど 現象の両極を知り尽くして 全容を知った状態の時に
一切の実感は自分自身の主観でしかない事を知って(空の概念)
喜びでも苦しみでも 心が左右されず、どちらでも受け入れられる状態を指します。

体験として 強い喜びと 強い苦しみなどの両極を体験する必要が有り、
損得の実感が丁度 ±0の時に 空の概念を知る事で成立します。

この中庸の特徴は 全容を知って事を見るので 欲に流されにくくなります。
次に 人が苦痛と感じる事を自分自身の実感を操作する事により 苦痛と感じなく成ります。
また 全容を見て判断するので 冷静な判断が出来ます。

次に真我の概念に関して つづく

159 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/17(月) 21:46:42
真我の概念に関して

人は肉体的な構成要素の他に 精神的な構成要素から成り立ちます。
精神的な構成要素が真我という場所から生起してる説です。

つまり 人間の精神の構成要素は真我から生じて
死ぬならば 真我に還ると言う発想です。

しかし誰もが簡単に真我に還ると言う考えでもないようです。
自分自身の成した行動などの原因によって 場合によっては
直ぐにこの世界に戻される様な事もあるようです。
(人を殺した者は 殺されて実感が±0に成らないと真我に行けない等)

つまり 今在る自身は端末的な自身で有り 大きな存在より生じてこの世界の表面だけを
見ていると言う発想です。

真我に関しては 私は良く分かりませんが
ユング心理学上の集合的無意識は支持しており
それと類似したものではないかと考えます。

160 ::2006/04/17(月) 22:06:46
>>悪魔さん
ご丁寧に有難うございます!理解しました。勉強になりました。
『中庸』も『真我』も私の中では『自我』をとことん知り尽くさない限り、
排除しない限り疑似体験はできてもそうならないと思ってます。
そして、どこで止めてしまうかも勿論自分なんですが、わかってはいるけど
つきつめると、それは自分が消滅してしまうことではないか?
という自我への執着も感じており、またそれと付随して自我を超越した時、
「自我を超越した」と自分の中のどこが判断しているのかも不思議でして。
そこが一番知りたかったんです。

何だか全く、悪魔さんが問いかけた質問に私は答えてないですね。すみません。
ただ、こういった法則・原則に則った方法でないと永遠ループになるというよう
な感覚はあります。

自分で書いていて混乱してきました。申し訳ありませんが今日はこのへんで休憩します。
また明日来ますね。
いつもわかりやすい説明と心配り、有難うございます!

161 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 00:19:57
相対と絶対 差異による認識の原理

人間は五感によって物事を認識する。
認識するには物事の差が必要で 差が無い状態からでは何も感じる事が出来ない。

白い紙に白い字が読めない様に 黒い紙に黒い字も読めない。
この世界は相対的に存在し、絶対は存在しない。

幸せや不幸も これと同じくして 差によって認識をする。
幸せは 幸せに成る前との差であり、不幸は 幸せとの差である。

初めの何も無い零の実感から 幸せを掴んでしまうならば、
得た幸せを失う要素が生じる。 
人に死がある様に 幸せは永遠では無く いずれ不幸に終わる。
相対性に基づき得るならば 必ず失うのである。

仮に人が絶対性を持った幸せを得れるとすれば、
幸せを求めない事によって成立する、不幸に成る要素の無い 心の平安ではなかろうか?

人は中庸を極めてこそ、幸せに成りうると考えます。

162 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 00:31:18
欲の解離と 欲の抑制

欲は抑えるべきであるが、限界が有り根本的解決に成らない。
何故なら 押さえ込み消そうとしてるのは 欲と言う貴方自身だからです。

現象に幸せと見れば 欲は現象に向かい
現象に苦しみと見れば 欲は現象を離れる。
幸せと苦しみが釣り合った時、空の概念を受け入れ意識は中庸となり、
欲は止滅する。
(欲が釣り合って動かない状態 動かないので無い様に見えるが存在はする)
これらを欲の解離とも言う。
このように相反する欲同士で釣り合わせるしか欲は解決出来ないのでは無かろうか?

163 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 01:01:52
自己満足と 自己犠牲 1/2

中庸に於いて 自身の苦の受感は非常に小さい。
その上で 他者の求める事を行う。
他者は様々を求め幸せを追求し、その時点では幸せは彼らの真である。

自らが真としない事であるが 彼らが真とするならば それを与える。

相対的に自らの主観を持って作られた 幸せと言う真は 永遠ではない。
崩れ苦しみに変るならば 幸せと苦しみの原理を説明して 中庸を説く。

他者を中庸に変え、根本的な苦からの解決を目指す。

自身が苦と感じては居ないので 自己犠牲に当てはまるかが疑問です?
この時点では 縁を作る事 利他を成す事 中庸を伝える事が重点になります。

164 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 01:02:47
自己満足と 自己犠牲 2/2

因縁の概念
同じ要素を持つ人同士は引かれ合う特性を持つ。
人を素晴らしく感じるのも 人を醜く感じるのも 
自身に同じ要素が無い限り 現象としか認識出来ず実感は生じない筈である。

同じ要素が在るからこそ 自身の受け入れたい要素は好意的に見え、
自身の受け入れられない要素は嫌悪感を抱く。

そして如何なる要素も 要素同士で引き付け合う特徴を持つ。

つまり 私が行いたい事は 自身を精錬し 他人を精錬して
肉体が崩壊するならば 因縁の原理を使い 一体化を出来ないかを考えています。

馬鹿な話と思うかも知れませんが、
同質に近いもの同士は 肉の内に在る今でも友人と言う形で集います。

精神的特長により集まるのであれば 死んだ後もそれは同様ではありませんか?
この様にして 性質の特徴を使い集まったならば、
最終的に完全に利他であり利己で有り 一つです。

この様な考えがあるので 自己満足か?は微妙なところです。

165 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 01:20:33
>>160 0さん
疑似体験に関してですが 運転中脳裏に浮かぶ様な形ですか?
それであれば、俗に言う瞑想と同じなのでは?
私も目を開けながら 色々考えますよ。

しばらく頭の中が混乱するかもしれないですね。
私は混乱しました。
ちなみに何の宗教にも入ってないので 独学でつぎはぎだらけの考え方です。
原始仏教の本や 老子やソクラテスなどを少し読みました。

こちらこそ勉強に成っています。
今後ともどうか宜しくお願い致します。

166 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 01:58:01
>>155 0さん
>>これは、自我である意識が深層にある(原因となる部分)所を発見した
>>状態と取って宜しいでしょうか? そうであれば、あります。
今まで意識してなかった所から出た事だから 
無意識(潜在意識)から出たと言う事に成りますよね。

意識する幅が大きくなれば 無意識は小さくなりますよね。

無意識が小さい状態で心を探ると 更に無意識より下層の意識が出ませんか?

無意識より下層の意識は一体何であると思いますか?

もしくは 個が有する無意識しか人は心を探れず、
人は自我の下に意識が有り 意識の下に無意識しか無いのでしょうか?

167 :妖怪:2006/04/18(火) 01:59:58
悪魔さんとOさんのやり取り、興味深く拝見させていただいています。
以前私もお二人と同じことを考えていましたよ。

梵我一如による自我の喪失や、自我の超越の確認者である自我のパラドックス、無意識領域の
縮小、ネガ発ポジ、悟りへの欲、等など。

私が気づいたのは、人間が一個の人間として生きると言う前提に於いては、一個の人間としての
最低限の構成要素は「あるようにある」と受け入れるしかないということです。
物事の相対によって苦楽を感じ、悩み、努力し、成功し、没落し、きわめて不安定に生きることは、
人間だからこそ可能なことであり、人間の特権(^^;)だと思います。
中庸に達して完全なる安定を手に入れることを求めることは、その人間の特権を「あるようにある」
と受け入れずに、何か他の違う存在(例えば神?仏?)になろうとするような最も傲慢な「欲」なの
ではないかと・・・思ったりします。

いや、手に入れるために求めることは、余計なものをそぎ落とす上で必要な段階であると思います。
が、(逆説的ですが)手に入れられると信じることは究極、傲慢なのではないかとも思います。
中庸とは、あくまでも人間として生き、死んで行く中で常に求めるものであり、死ぬまで手に入れる
ことの出来ないものだと思います。それでいいのではないでしょうか。

ですから、悪魔さんの
>人は中庸を極めてこそ、幸せに成りうると考えます。
これには賛同しかねます。
私は、苦楽があってこそ幸福な人生だと思います。
最後に±0になろうがなるまいが、関係ないと思いますよ。

168 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 02:24:47
他人のことは分からないけど自分は
周りの環境と自分の状態を良い方向に持っていこうとする性質があるみたいね。
これが生きるってコとか。

169 :妖怪:2006/04/18(火) 02:31:26
あ、上げちゃってすいませんorz
一つ書き忘れました。
>>130
へのお答えについてです。
>>167に書いたことを前提にしてこの問題に答えたとすれば・・・
私が生きたいのなら殺す。
私という一個人の人間は生きることを欲しているので、私を殺そうとする人間は殺す。
これによって、自他の利得の均衡を図る必要性は無い。
その行為によって苦を受けたとしても、それはそれとして受け入れ苦しむ。

これが私なりの答えです。

170 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 06:05:32
出来ることをやっていく。

ただそれだけ。

出来ることは出来る。
出来ないことは出来ない。

うまくいくことは、うまくいく。
うまくいかないことは、うまくいかない。

なるようにしかならん。

ただ、それだけ。


出来ることをやれ。出来ないことはすんな。



出来ること「だけ」やれ。

171 ::2006/04/18(火) 09:10:09
>>悪魔さん・妖怪さん・名無しさん おはようございます。

悪魔さん、悪魔さんに対して『自己犠牲』『自己満足』を持っているということを
書いたのではなく、一般論としてそういった文章を見た時に そこにそういった感覚は
あるのか?と悪魔さん自身感じるかどうかということを聞きたかったんです。

>無意識が小さい状態で心を探ると 更に無意識より下層の意識が出ませんか?
出ます。それが私が書いた我です。(自我ではなく)
我に達した時は時間も空間もないような感覚になります。意識が浮いているような。

少し書籍でも勉強してみようと思います。日々コツコツと謙虚にやっていこうと思い
ます。

皆さん、これからも宜しくお願いいたします。
また夜来てみます。


172 ::2006/04/18(火) 18:54:20
>>悪魔さん、妖怪さん、皆さん、

少し落ち着いたら、また来てみます。書き込むのは、しばらく休憩しますね。
有難うございました!

173 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 19:10:25
>>164 妖怪さん 返信有り難うございます。

>>最低限の構成要素は「あるようにある」と受け入れるしかないということです。
>>物事の相対によって苦楽を感じ、悩み、努力し、成功し、没落し、きわめて不安定に生きることは、
>>人間だからこそ可能なことであり、人間の特権(^^;)だと思います。
私は物事の相対によって生じる苦楽などを 人が「あるようにある」と受け入れてるとは思えません。
あるように受け入れてないからこそ、人は苦しみや喜びを絶対的な物と見誤り囚われると考えます。

妖怪さんの言われる様に 生きている上で様々な事が生じます。
それらに囚われず「あるようにある」と見て受け止めるには
中庸の概念以外に何が考えられるでしょうか?

もしくは人は物事に囚われて絶対と思い成し、死ぬまで迷うのは仕方がないと考えますか?

>>中庸に達して完全なる安定を手に入れることを求めることは・・・
>>最も傲慢な「欲」なの ではないかと・・
過去実際に仏陀とその弟子たちが 心の解脱を目指し修行を行いました。
解脱に至ったかは確認出来る事ではありませんが、
自己を精錬し追及していく姿に 私は時代を超えて尊敬する所です。

妖怪さんは 彼らも又、傲慢な欲であると 受け止めますか?
自らを精錬し追及して努力する事と 傲慢と言う考えがどの様に結び付くか教えて下さい。
また、私は自ら神に成ろうとは当然ながら思っては居ません。
しかし 出来る事なら帰依したいと言う思いはあります。

174 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 19:10:59
>>164 妖怪さん 返信有り難うございます。

>>>人は中庸を極めてこそ、幸せに成りうると考えます。
>>これには賛同しかねます。
これに関しては 私の表現に問題がありました。
何故なら人それぞれに 幸せや求める形が異なるからです。
私の考えに於いては 中庸を重視しますが、
世の中 全体から見ればそれだけではありません。

その様でなければ駄目だと言う訳ではなくて、
私と言う一つの考えとして その様に考えます。

>>169
>>私が生きたいのなら殺す。
>>私という一個人の人間は生きることを欲しているので、私を殺そうとする人間は殺す。
>>これによって、自他の利得の均衡を図る必要性は無い。
私の方からだと この文面は 「自らの欲を主体として 人殺しもいとわない。」
「報いとして 苦が訪れたら その時はその時」の様な形に見えてしまいます。

恐らくこの様な意図は無いと思われます。
お手数ですが もう少し噛み砕いて伝えて頂けたら有り難く思います。

175 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 19:11:37
>>170さん こんばんは
出来る事と思う物事自体が 個々に違いがあります。
又 実際には不可能だった事もあるでしょう。
しかし それは自ら理解するか経験しないと人は納得できないのです。
自ら必ず出来る事のみを行うのでは 守りばかりの人間に成ってしまいます。
可能性として有りうると感じ、意欲あれば挑戦するのも 又人生ですよ。

176 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/18(火) 19:12:19
>>171 0さん 返信有り難うございます。
>>一般論としてそういった文章を見た時に そこにそういった感覚は
>>あるのか?と悪魔さん自身感じるかどうかということを聞きたかったんです。
人のより様々な実感が沸くと思います。
同意する人も居れば、反対する人も居るし、馬鹿にする人も居ると思います。
人は現象に対し 自身の欲により様々な姿となって捉えると思います。

>>我に達した時は時間も空間もないような感覚になります。意識が浮いているような。
私も同様です。

こちらこそ これからも宜しくお願いします。

177 :妖怪:2006/04/19(水) 00:19:04
>>173悪魔さんOさんレスありがとうございます。
>人が「あるようにある」と受け入れてるとは思えません。
>あるように受け入れてないからこそ、人は苦しみや喜びを絶対的な物と見誤り囚われると考えます。
そのとおりですね。
でも、私が言いたいのはあらゆる人が「あるようにある」と受け入れているということではなく、まったく
その逆です。
悪魔さんのおっしゃるように多くの人が苦楽を絶対的なものと見誤り囚われます。
しかし、苦楽が相対的なことであるということは、多くの人が「知っている」ことです。
単に「知っているが囚われている」からこそ、苦楽の相対の中で苦を受けて身悶え、楽をつかんで喜ぶ
ことが可能なのでしょう。
悪魔さん、果たしてこれは人間として不幸なことでしょうか?

先にも述べましたが、人間が人間である以上、楽しみ、苦しみ、悩み、怒り、憂う「自我」の存在は滅す
ることは出来ません。
>自我は恐らく生きてる内は捨てられないと言う結論が出ました。
>自我=欲=個の構成要素 は少なくする事が出来ても 完全に無くす事が出来ない気がしますが如何
>でしょうか?
と仰られていますが、それにお答えするならば・・・もし自我を完全に滅することが出来たとすれば、それは
既に人間の重要な構成要素が欠落した人間以外の存在ということになってしまうから・・・とお答えします。
私達は人間です。
私は、ニーチェのいう超人や仏陀のいう仏になって、苦楽・喜怒哀楽・悲喜交々を感じ・ら・れ・る・自我を滅却
し人間的に無感動な存在になりたいとは思いませんし、もしなったとすれば、私自身の幸せは一体誰が感じ
られると言うのでしょう?

178 :妖怪:2006/04/19(水) 00:20:05
(つづきです)
私は、この人間が主観的に「感じる・感じられる」ことこそが、人間の最も尊いことだと考えています。
何故なら「幸せ」と感じることが出来るからです。

「人間は相対の世界において物事に囚われて絶対的幸福を求め・願い、死ぬまで迷うことこそ人間の人間たる
生き方」だからこそ「幸せ」を感じて生きる瞬間があり、死ぬ間際がある。もちろんその逆もあります。
それでいい、そんなものですよ、きっと。

相対的に考えて絶対的幸せがあれば、自ずと絶対的不幸も存在し(ありえない話ですが)、中庸(私は悪
魔さんのいう中庸を極めるとは、竜樹のいう『空』の悟りを極めること=『成仏』だと捉えていますが)に於いて
も、もし完全なる心の平安が存在するとすれば自ずとその完全なる心の平安を脅かす不安が存在(これも矛
盾した話ですが)しなければ成り立ちません。
つまり、いかに中庸に達したとしても、中庸に達し心の平安を感じた時点で相対する不安も発生することになり
本来の意味での中庸には達せずにいることになりますよね。
更に言えば中庸でさえも、中庸に達する(幸)中庸に達しない(不幸)という相対概念でしかないということになり
ませんか?
これは結局「中庸にて絶対的心の平安を手にし続けられるよう願い・守り・求め、死ぬまで相対の中で迷う人間
の生き方」なのではないでしょうか。

179 :妖怪:2006/04/19(水) 00:21:02
(またつづきです)
ですから、本当の意味で自我=欲を捨て中庸を極める事とは、人間ではなくなること、そのものずばり言えば、
人間としての「死」を意味すると思います。
原始仏教における灰身滅智(けしんめっち)身心都滅(しんしんとめつ)と同義であり所謂「仏さん」なのではない
かと思います。
>中庸とは、あくまでも人間として生き、死んで行く中で常に求めるものであり、死ぬまで手に入れる
>ことの出来ないものだと思います。
というのはそういった意味です。
ですから、>人は物事に囚われて絶対と思い成し、死ぬまで迷うのは仕方がない
のではなく(繰り返しですが)物事に囚われ絶対を願い・求め、死ぬまで相対の中で迷うことこそ人間の人間たる生き方なのだと
思います。
人間が人間である以上「より良く生きたい」欲求によってより良く生きるための手段を模索し、求め、願い、努力す
ること、そしてそれを実践して幸福を感じることは尊いことだと思います。
(>彼らも又、傲慢な欲であると 受け止めますか?
その意味において仏陀と弟子たちの行いは究極的に尊いと私は思っています。と同時に最も傲慢であると思い
ます。でも私の価値観からすれば、その傲慢さも最も尊敬に値します。^^)

但し、ここで肝心なことは、より良く生きる」とは何ぞや!ということでしょうね。
その答えは笑顔で、健康で、生命を愛して、愛されて、心安らかな、相対の一方を死ぬまで追い求める生き方しか
出来ない・・・とは思われませんか?
>それでいいのではないでしょうか。
人類全て我が愛する人間なんですから(^^)

180 :妖怪:2006/04/19(水) 00:22:06
>>174悪魔さん

>「自らの欲を主体として 人殺しもいとわない。」
>「報いとして 苦が訪れたら その時はその時」の様な形に見えてしまいます。

ははは・・・まあそういうことですよ。
但し、この時の自らの欲とは、「私は生きたい」であり、「こいつを殺したい」ではありません。
「私が生きる」ための方法が確実に「殺す」しかない場合に限られるように「瞬時に」という条件を入れました。
単純に言えば(どんな複雑な要件が絡んでいたとしても)天秤の両端に乗っているのは相手の人生と私の人生のみです。
「私はこいつを殺してでも生きたい」という方に天秤が傾いたのならば、後にどんな報いがあろうともそれを受け入れ
る覚悟で殺します=生きます。覚悟が出来なければ殺されます。
無理やり正当化する必要などないでしょう?

今日は寝まーす。レス楽しみにお待ちしてます。

181 :中学生:2006/04/19(水) 01:07:58
哲学を学んでもネガティブな考えしか持てない人は、結局頭が良くないのです

182 :考える名無しさん:2006/04/19(水) 01:08:49
>>181
中学生の割には言うじゃないか。

183 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/20(木) 04:17:34
妖怪さん 返信有り難うございます。

妖怪さんの考え方は、何とも実に温かい・・・
血の通った人間らしい様に思える、人間離れした奥行きですね。

私が今感じる妖怪さんと決定的に違う事は、
妖怪さんはこの世界の苦しみと悲しみを受け入れられる。に対して
私は この世界の苦しみと悲しみを絶対受け入れない。事だと思います

何のことは無い・・・
私が一番苦しみと悲しみに囚われていたと言う話でもありますね・・・

妖怪さんは 恐らく私以上に物事を追求して 最終的な結論として今そこに在り、
私より高い位置に存在してますね。
だから、妖怪さんからは私が観えて、私からは妖怪さんが観えない。

私は妖怪さんと問答を交わし学び取りたいです。
話合う上で異質な事も言うかも知れませんが、
どうかご教授下さいましたら幸いです。

184 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/20(木) 04:18:15
妖怪さんへ
自身の考え方を変えられず、迷いにあります。
私の主張する事を 論破したり代替に成る考え方が欲しいです。

>単に「知っているが囚われている」からこそ、苦楽の相対の中で苦を受けて身悶え、楽をつかんで喜ぶ
>ことが可能なのでしょう。
>悪魔さん、果たしてこれは人間として不幸なことでしょうか?
幸せは剃刀に塗られた蜜に過ぎない。
人はそれを幸せとして喜んで口に含むが、
幸せは塗られただけの存在である事を見る事がない。

幸せ・楽・喜び自体が苦しみである。
幸せ・楽・喜びを得る事が無ければ、苦しむ事も無いからである。
幸せ・楽・喜びは ただの麻薬であり幻想であり破滅である。
幸せ・楽・喜びを求める事は 苦しみと悲しみと絶望を願う事と同じであり、
絶望に閉塞したくなくば 求めては成らない。

>もし自我を完全に滅することが出来たとすれば、
>それは 既に人間の重要な構成要素が欠落した人間以外の存在ということになってしまうから・とお答えします。
>私達は人間です。
>私は、ニーチェのいう超人や仏陀のいう仏になって、苦楽・喜怒哀楽・悲喜交々を感じ・ら・れ・る・
>自我を滅却し人間的に無感動な存在になりたいとは思いませんし、
>もしなったとすれば、私自身の幸せは一体誰が感じられると言うのでしょう?
人間が人間で在る限り、人間の苦しみは消え去らない。
相対の喜びを得て、相対の苦しみを得る繰り返しに何の意味があるのだろうか?
喜びや幸せなど幾ら集めても同じでは無いのか?
集めたと思っても我が物ではない。ことごとく消え去り苦しみに変る。
結局 同じ所を周り続けて居ただけに過ぎない。
私はこの牢から出たい。

185 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/20(木) 04:18:45
妖怪さんへ
自身の考え方を変えられず、迷いにあります。
私の主張する事を 論破したり代替に成る考え方が欲しいです。
>私は、この人間が主観的に「感じる・感じられる」ことこそが、人間の最も尊いことだと考えています。
>何故なら「幸せ」と感じることが出来るからです。
「感じる・感じられる」からこそ苦しく悲しく絶望が有る。
「幸せ」と感じてしまうからこそ不幸が有る。
幸せは本当に必要なのだろうか?
幸せも苦しみも ただ空である。

>健康で、生命を愛して、愛されて、心安らかな、相対の一方を死ぬまで追い求める生き方しか
>出来ない・・・とは思われませんか?
そうなのかも知れない。
しかし、囚われは再びこの世界に私を引き戻す。
私は何を選べば良いのだろうか・・・
良いのだろうかと良いを求める時点で駄目な気もする。

>人類全て我が愛する人間なんですから(^^)
だからこそ 堪らないものがあるのですが・・・
人の絶望を見ると胸がえぐり取られるようだ。
ぶら下るソレや 酷い物を見ると心が痛い・・・

186 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/20(木) 04:19:27
妖怪さんへ
>本当の意味で自我=欲を捨て中庸を極める事とは、人間ではなくなること、そのものずばり言えば、
>人間としての「死」を意味すると思います。
>原始仏教における灰身滅智(けしんめっち)身心都滅(しんしんとめつ)と同義であり
>所謂「仏さん」なのではないかと思います。
妖怪さんの言う中庸と 私の言う解脱は同義と思われます。
私の言う中庸は 妖怪さんの言う中庸よりも低位な存在です。

私の主観する中庸とは
人には様々な囚われがあります。
その囚われ一つ一つに両極が有ると考えます。
美と醜 優と劣 楽と苦 裕福と貧困など
これら一つ一つの物を 例えば美と醜の観点に於いての中庸などと言っています。
そして中庸を極めると言う意図は、可能な限り
この細かい一つ一つの囚われを 止滅させて行く事を指します。

ですが人が生きてる限り止滅できない囚われが存在します。
最後に残った止滅出来ない囚われは 自と他の囚われと考えます。
この自と他の囚われを止滅させると死にます。
ですから、この最終的な囚われは死ぬ間際か死んだ後の課題です。

根本的解決を生きてる内に出来ないから意味は無い訳ではありません。
この様に囚われを解消していく事で 苦しみの受感が大幅に減少します。
妖怪さんの今在る境地も囚われが減少したからこそ成立してるとも考えます

187 :妖怪:2006/04/21(金) 00:30:05
>>183
悪魔さんレスありがとうございます。

なんとも身に余るお言葉・・・恐縮です(^^)
でもかなりの買い被りですよ、私はあなたから比べると怠惰で俗物に近い人間です。
ただ、俗物の私からあえて言わせていただくなら、単純に、あなたが中庸の境地を求める
根本に「不幸」という相対概念の一方からの脱出という願望があること自体に矛盾がある、
ということを指摘させていただきます。

失礼ですが、あなたは止滅させたい片方に囚われているように私には観えます。
あなが中庸の観点から物事を突き詰めたいのならば、あなた自身のレスの相対概念の全てを
反義語に入れ替えてみる事をお勧めします。
中庸の観点からみればそれも全てあなたのご意見である筈です。

>私は妖怪さんと問答を交わし学び取りたいです。 ・・・教授下さいましたら幸いです。
何を仰いますか(^^;)
あなたは既に知っているはずです。

またお話しましょう。私も悪魔さんから学び取りたいことがたくさんあります。
今日は疲れていますので失礼します。おやすみなさい。

188 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/21(金) 22:44:53
>>187 妖怪さん 忙しい中 返信有り難うございます。

>あなたが中庸の境地を求める
>根本に「不幸」という相対概念の一方からの脱出という願望があること自体に矛盾がある、
>ということを指摘させていただきます
はい 矛盾していました。 しかも意識しないように無意識に隠してました。
妖怪さんとの やり取りが無ければ このままでした。
有り難うございます。

>中庸の観点から物事を突き詰めたいのならば、あなた自身のレスの相対概念の全てを
>反義語に入れ替えてみる事をお勧めします。
>中庸の観点からみればそれも全てあなたのご意見である筈です
まさしく 仰る通りです。
自分の発言内や 目の前にあっても 意識できませんでした。
明らかに私の視界が広がりました。

>何を仰いますか(^^;)
>あなたは既に知っているはずです
本当に私は知らないと思われます。
私の知は この識で良いのでしょうか?

私の心は言わば、何の生き物も住む事を許さぬ 一面の砂漠でした。
人の生きると言う事を全く否定していたのだと思います。
間違いに気が付く事が出来て、命拾いしました。
感謝致します。


189 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/21(金) 22:45:36
知と識に関しまして(原理)

「貴方は林檎を知っていますか?」
「林檎とは何ですか?」 と聞かれたらどの様に答えるだろうか?

赤く 甘く 中心に種があって 丸い形をしてて 野球のボール位で 果物ですと答えるだろうか?

多少人により差異は生じますが
複数の意味を羅列して、それらの特徴を備えた物と説明すると思います。

この様にして 林檎と言う概念(知識)は複数の意味が集合する事から成り立ち、
林檎と複数の意味の要素を同じである と合わせ認識する事により 
「知る」事が出来る。

そしてこれらの事から 
知とは「現象の要素と 類似した物事の要素を合わせ見る能力」であり、
識とは「現象の要素と 類似した物事の要素の合わせ方」であると考えられ。

知を使い 識を成す時 「知る」が生じ、
識が意識下にある時 「知っている」と判断すると考えます。

190 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/21(金) 22:46:16
知と識に関しまして(問題点)

こうして我々は 知を使い 識を成して 知識を得る訳ですが、
重大な問題点があります。

知を使い 識を成した時に 不適当な識を作ってしまい。
この不適当な崩れ易い知識を絶対と思い成し 固定観念化してしまう事が多いのです。

固定観念化した知識に基づいて 人生の指針を作り突き進むと
大切な事を 大切と観えずに粗末にしたり
儚い物を絶対と思い 全てを委ねたりします。
これは 大変恐ろしい現象と感じます。
(私は妖怪さんに助けられましたが、助からない人の方が多い)

知識の識も 空に成りえて
その為、何を識とすべきか?と考えた結果。
私は 何も知っていない。と言う結論に達しました。

私は 何も(全て) 知らないと(識は空) 知るべきでしょうか?

何を持って 知っているとするべきでしょうか?

*道理に基づいて 知っても 欲が在る為 色が付いてしまいます。

191 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/21(金) 23:18:02
妖怪さんの考え方は 老子の考え方が核に成ってるのでしょうか?
私は知りたいです。

何かお勧めの本などがあれば 教えて欲しいです。

192 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 18:09:40
囚われないと動けない・・・

193 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 19:03:35
囚われながらも 囚われない事って在り得ますか?

囚われないと観てるだけ、
囚われ強すぎると感じてるだけ、
んんんんん!!!!
本みたいな物だったら 受けますね!

194 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 19:39:14
妖怪さん

結局全て終わって全て死んでいる。
全て終わって全て死んでいるのに 現実を受け入れない欲だけが此処に来た。

既に世界は燃え尽きている。燃え尽きた事実から目を反らし、
心は自らの思い出より彷徨い 心は内に振り返る。
内に観る思いを全てとし、私は現実を切り離して この世界に来た。
集合的無意識(現実)より私は(欲)は この世界に(心の世界)来た。

集合的無意識(現実)を 意識しない様に 私は空想の世界の住人と同化した。
集合的無意識(現実)を 意識から切り離す為に 無意識の層を作った。
観たくない事は全て無意識に放り込んで 見えてないと意識した。

普段食べてる肉などってあれって・・・
う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!
なるほど!!!!!!!!!!!

囚われたくて囚われて、
囚われ無くして恐怖して、再び囚われる。
夢は夢として夢の中

トテモ嫌な想像が膨らみました!
この妄想のご意見お願いします。

195 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 19:53:57
だから
それでいいのか・・・

だから
既に知ってる筈なのか・・・

ちゅうか・・・前にこの結論に達したのに無意識に押し込んでた・・・
人はそれを繰り返すのか?
なんかこの観点で考えると世の中の
悲惨な現象が説明付いてしまうような・・・

取り合えず 間違った考えなら 早く否定して欲しい。

196 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 20:06:39
・・・・・・・・・・
受け入れた。

197 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/22(土) 20:58:46
0さん 最近いかがですか?
0さんの結論は 今の所どの様な形ですか?

198 :考える名無しさん:2006/04/23(日) 11:19:03
>>悪魔さん
お久しぶりです。私が何故一旦悪魔さんとの対話をストップしたかおわかりですか?
何故、悪魔さんが見ていることと似たようなことを書いたのか、おわかりですか?
私を通して悪魔さん自身の無意識を引っ張り出したかったからです。
妖怪さんが溶かしてくれるのを見越して。ふふ、お互い精進しましょう!では!

199 :妖怪:2006/04/23(日) 17:02:54
悪魔さんへ
>>188
>間違いに気が付く事が出来て、命拾いしました。
>感謝致します。
悪魔さんは柔軟な方ですね。
お力になれたとしたら嬉しいです。

>>189>>190
私の思想の根本にはやはり老荘・仏教の「空思想」がありますね。

私達人間は社会生活を営み、人との関わりの内に自己と言う者を見出します。
そしてこの人間は、その社会の中で自己の幸福を求め、彷徨い生きる存在です。
それが利他であろうが、利己であろうが、同じように幸福とはあくまでも主観ですよね。
謂わば私達人間は、主観の世界に全ての存在を確認し、その中(独我論的ですがあくまでも認識可能範
囲という意味に捉えてください)に生きています。

これを「空思想」で言えば、人間は自らの主観に於いて創造した「仮」の世界に生きているということです。
この事を採ってこの世界は全て「幻想」だとかそんな意味合いの思想が多々ありますが、私はそれを結論と
しません。
如何に「仮」であろうが「幻想」であろうが、私達は主観の中の世界を「現実」として生きる以外に道は無い。
それこそが「人間」という存在の「生きる場所」なのだと思います。
そう考えると、空の思想は「仮」である「現実」を受け入れ、その中で生きる術を各個人に問う「目的」で紡ぎ出
されたものであって、「仮」である「現実」を拒否・否定・逃避するためのものではない、ということになるのでは
ないでしょうか。

200 :妖怪:2006/04/23(日) 17:03:55
私は、「空」の概念は主観世界(=世界)の構造を認識論的に解説しているに過ぎないと思っています。
「空」の概念から得るべきことは、「仮」という「世界」は自ら創造するものだという「構造」を理解することであり、
空=虚無=世界(自己)という全てを無に帰すニヒリズム的世界観を得ることでは無いと思います。

世界(仮)が私達人間達其々一個人の主観による認識によって現わされている以上、一個人の主観的事実認
識が、イコール全人類の事実として絶対的に存在すると決定することは出来ない。
この構造を基盤に「空の思想」を社会的観点から最も単純に理解すると「所詮全ては空なので、一個人の主観
で創造したその偏狭な世界観にのみ止まり他の一個人其々と相容れること無く対立したり、偏狭な世界の中で
生まれた一個人の価値観に囚われ翻弄され絶望したりし・な・さ・ん・な」・・・って事だと思います。
もっと陳腐な表現にしてみると「視野を広く持って寛大に柔軟に生きるべし」ということです。
そう、空の思想はあくまでも現実社会(仮)の中での生き方をポジティブに示唆してくれるものと捉えるべきなの
ではないかと思います。
「空」は「仮」の世界から生まれた構造的「概念」または「悟り」であり、そこに人間として生きる「場所・社会」があ
るわけではなく、私達が生きているのはあくまでも「仮」という現実社会であって、そこで如何に生きるかが人間と
しての課題なわけですから。

201 :妖怪:2006/04/23(日) 17:05:32
>私は 何も(全て) 知らないと(識は空) 知るべきでしょうか?
繰り返しますが、あなたは既にそれを「知」っています。
ただ、あなたのいい方で言えば「識」っていな(かった)い、私の言い方で言えば「解」っていな(かった)い。
私の言い方で言えば「知」とは「個の特定」、「解」とは「個の集合である全体の構造」です。
個を特定し、特定された個を構造の中に組み込むことで「解る」に到ります。
但し、今更当たり前のことですが「解る」ことと「普遍的正しさ」とは関係はありませんし、その構造は穴
だらけでその穴を埋め尽くすことは生涯出来ません。
(ここまでは悪魔さんの知と識の概念とほぼ同じです。)

さて当然、特定した個(知)を構造(解)に組み込む際になんらかの矛盾が生じることがあります。
これにより「知」を修正することもあり、「解」を修正しなければならないこともあります。
(悪魔さんがここで実践されましたね)
逆に「知」が無矛盾に「解」に取り込まれたとき、その「解」は補強され、「知」は関連付けされ深められます。

202 :妖怪:2006/04/23(日) 17:06:03
多くの人はこの「知と解」の構造を「知」っていますが、「解」っていません。
話が少し戻りますが「知」で構成された「解」自体が「仮(現実世界)」であり、「知」も「解」もあくまで一個人の主観
でしかないのですから、矛盾・破綻は当然おこりうるわけです。
しかし、「解」というものはその構造の中に「自己(アイデンティティー)」を包含しているものですので、矛盾を起こ
すことによるアイデンティティーの崩壊への恐怖感が常に潜んでおり、この矛盾を認めず修正に抵抗し目を瞑って
知を歪曲してでもアイデンティティーを防衛しようとします。
これは現実社会に生きる上で当然起こる自己防衛本能的感情なのでしょう。
これが所謂「執着・囚われ」の正体だと思います。
私は先から言うようにこの執着
要するに、多くの人は「『知と解』の構造を『知』」ってはいるが、それを更に構造の中に取り込み「解」することが出来ていない。
そして、「知と解」の構造(低次)が「空・仮」の構造(高次)の中で成り立っていることも「解」っていない(それどころ
か『知』ってさえいない)。
故に、低次の構造を絶対化することで、アイデンティティーが確立されると思い込んでいる。
そんな思い込みの強い人が悪魔さんのいう>大変恐ろしい現象・・・を引き起こすのでしょう。

悪魔さんのように、高次の構造の「解」を前提に低次の「解」を導き出そうとしている方は、そんな「大変恐ろしい現象」
を回避することが可能な域におられると思います。

あ、ごめんなさい、とりとめもなく書き込んでしまいましたが、これから外出しなければいけないので失礼します。アセアセ

203 :妖怪:2006/04/23(日) 17:13:01
>私は先から言うようにこの執着
書きかけでした。

私は先から言うようにこの執着 の全てを否定してはいません。

です・・・ああ時間切れ・・・。

204 :考える名無しさん:2006/04/24(月) 05:49:05
虚栄は必要なものかどうかどう思われますでしょう

ヒルティは虚栄を離れそれにより人間に対して正しい見方が
持たれることは幸福を為す一つの条件である、と書いているが。

虚栄心が強い人間であるなら相手にすれば
その人の気持ちを害しないように接しようとすると
虚栄が設定しているライン以下で話すことをひかえるであろうし
それではやはり人間関係として円滑ではない

相手を思いやれる人間はその一点で言う場合友人として持ちたいような人であり
その人に対してそういう思いをさせるというのは
虚栄が間違いである事を示していると言えよう

侮辱して省みない人ならどういう反応になるだろう
ずけずけと土足で踏み入って相手の不快を喜ぶだろうか

そういう人間については判断材料として重要でないといってもいいかもしれない


そこで虚栄を必要とする者とは人間として不遇にある者で
すなわち虚栄の否定は惨めさを惨めさとして受け取る事を意味し
それは人間的感情にとって困難さを伴う事のようである

反面、虚栄は不遇に際して自分を高めようとするひとつの動機の意味合いがありはしないか
全面的に否定されるものであるのか
という所で分からずにいる


御意見をよろしければ

205 :考える名無しさん:2006/04/24(月) 05:53:49
動機の意味合いを強調して虚栄を肯定しその実その伴う苦痛からの逃避であるなら
これはいけない。

俺としてはヒルティが理由を示さず提示する帰結が既に理解に至らない

虚栄を離れる

人間に対して正しい見方が徐々に出来るようになっていく

そのものの見方は幸福が為される条件である


この矢印がそれぞれ二つともその理由を考えても納得の行くように理解されない

例えば苦痛を生きる者が無理を離れ一つの事実として惨めさを生きるなら
それが何か利益をもたらす部分があるだろうか

206 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/24(月) 17:52:18
>>198 お久しぶりです!
はい! お互い頑張りましょう!
学ぶ事が出来て嬉しいです!

207 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/24(月) 17:52:55
妖怪さん 
多忙な中 返信有り難うございます。
>お力になれたとしたら嬉しいです。
非常に助かってます。
この様に学べる事は私にとって、中々有る事ではないのです。

>悪魔さんは柔軟な方ですね。
この世界は上手く立ち回れば、
外道を歩んでも免れる様な 生易しい事はありえないと考えてます。
この世界はあまりにも完璧で己の成した事は必ず返る性質が有ると考えます。
ですから 意固地に成っても仕方が無いと考えるのです。

(意識と 無意識に関しまして)
人は集合的無意識から意識と無意識が浮かび、
意識の上に自我が出来る構造と考えてます。

(下層>集合的無意識→固有の無意識→固有の意識→自我>上層)
(自我=欲=個を形成する必須要素 *意識と無意識を隔て隠してる存在)
(意識 認識できる意識 肯定した事を集めて構成される)
(無意識 認識出来ない意識 否定した事を集めて構成される)

208 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/24(月) 17:53:30
妖怪さん

我々の意識は自身が正しいと感じ、肯定した事を集めて作られ
この意識が自己を形成してると考えます。

人間が死ぬ時、自我(欲)の力が弱まり 意識と無意識を隔てられなくなり、
意識が無意識と混ざり始めます。

意識と無意識が混ざると今まで否定してた事まで全て思い出します。
この自我(欲)の力が弱まってる状態で 全て思い出してしまうと
人は此処で自分自身の事を自身で裁く事になります。

この様にして、人間は自らの成した人生に相応しい経験して、
相応しい次の場所へ転ずると考えます。

これは私が死に掛けた時に 走馬灯の様な経験と後悔をした為に
何故この様な現象が起こったかを考えたもので
間違ってるかもしれませんが 妖怪さんからの意見をお伺いしたいです。

「空思想」の概念と考え方有り難うございます。
私もその様に捉えて励みたいと感じました。
知と解の説明も分かり易く助かりました。

今後とも宜しくお願い致します。

209 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/24(月) 17:54:31
>>204さん 初めまして

何処の観点なのか?によって必要か不必要かが変ってくると思われます。

虚栄を持つ本人にしてみれば、栄に執着し虚であっても無くては精神が安定しない為、
必要と感じるので 虚栄は必要であると考えます。

対する友人にとっては 栄は虚であるから 不要であると考えると思います。
不要と感じるので 虚栄は不要であると考えます。

世の中の虚栄と言う現象自体から考えれば、
虚栄は ただ虚栄だけでしかなく。
不要や必要と言う概念とは 別物であると考えます。

要は虚栄と言う状況下での考え方と考えます。
虚栄であれば実栄からのズレが有り、
ズレの存在の分、苦しみます。

苦しみと言う逆境から 実栄と言う欲望を持ち努力の元に出来るのなら
虚栄は有効に作用すると考えます。
しかし現実逃避だけの虚栄なら意味は薄いと考えます。

私の考えは 虚栄の現象自体に 必要と不要は存在せず、
自身の主観に於いて 必要と不要が発生する。
虚栄をバネに出来る現象が 必要と主観するなら必要と考えます。

210 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/24(月) 18:51:45
妖怪さん 私は未発達の考えがあります。
ご指摘くだされば幸いです。

(自身の要素は 他者の要素と同じ 要素によって成された事は 自らに同じ)

Aと言う人物が 複数のDと言う集団から虐めを受け、
その結果Aと言う人物は道から外れて残忍な殺人を犯したとしましょう。

その殺人の咎はAだけでしょうか?
その様な外れた道に追い込んだDと言う集団も咎が存在するでしょうか?

私はこの様な事態が生じたのは 憎しみと言う要素から生じてると考えます。
憎しみと言う要素を Aに植えつけたDの集団も殺人の加担者と考えます。

そして、更に言うならば憎しみの要素を持ち、他に放ち乱反射させる行為自体が
この世界の残虐な行為の発生源で有り、全ての人間が加担者で有りうると考えます。
(逆の良い面も その様に良い加担者とも言えます 感謝や思いやりなど)

我々は自らにその様な要素を少なくする様、努力すると共に
自らもその様な要素があるのだと心に留め。
関係ない別の存在の出来事と思う事が無い様にするべきと考えます。

私にはこの様な考えが有ります。
妖怪さんから観た場合、どの様に考えるかご意見をお聞かせください。

211 :妖怪:2006/04/25(火) 00:53:30
>>204さん
悪魔さんに全く同意です。

・・・いやいや手抜きじゃないですよ(^^;)
>>210
悪魔さん
>我々は自らにその様な要素を少なくする様、努力すると共に
>自らもその様な要素があるのだと心に留め。
>関係ない別の存在の出来事と思う事が無い様にするべきと考えます。
とても素晴らしい心がけだと思います。

ただ、上段の理論に少し社会的危険性を感じます。

お分かりだと思いますが、AがDに虐められたとしても、Aの「憎しみ」が発生した要因(要素)をDの虐めだけに限定すること
はできませんし、Aの殺人行為の要因(要素)をDの虐めによって発生した「憎しみ」だけに限定することもできませんよね。
勿論、原因ではなく要因(要素)である訳ですから、他の諸々の要素の関係を否定している訳ではないでしょう?
AがDに虐められる諸々の要因(要素)、DがAを虐める諸々の要因(要素)、Aと被害者の関係という要因(要素)その他「Aの
殺人行為」という一つの結果には無数の要因(要素)が関係していますよね。
その要素の中には一見道徳的に正しいとされる要素とか、無関係に見える要素、または目に見えない要素等たくさん含まれ
ている訳です。
見方によっては、「Aの殺人行為」という結果には道徳的「善・悪」をひっくるめた、この世の全ての要素が関わりあっているという
ことになりますね。
言ってみれば「一つの結果の【原因】とは、無限の要素の集合である」ということですよね。
これも悪魔さんは既にお分かりかと思います。

では、そこで悪魔さんは何故「Dの虐め」という要素にだけ注意を向けたのでしょうか。

212 :妖怪:2006/04/25(火) 00:54:06
(つづき?)
これは悪魔さん自身考えてみてください。
というのは、ハッキリ言って逃げです(^^;)
私も考えがまとまらず、上手く文章に出来ません。ただ、社会的に危険な思想を包含していると考えます。

おことわりしておきますが、この件は>>202の【低次の「解」】の問題です。
私は「悪いことは悪い」「善いことは善い」と思っています。
虐めや殺人、人を憎む心は、私の中でも「悪いこと」ですので、少なくしたいとも思っています。

ちなみに、社会に於ける【原因】とは、思考停止によって【便宜的】に決定付けられます。
おやすみなさい。

213 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/25(火) 01:58:51 ?
妖怪さん 返信有り難うございます。
>では、そこで悪魔さんは何故「Dの虐め」という要素にだけ注意を向けたのでしょうか。
>ただ、社会的に危険な思想を包含していると考えます。
私の考えは 自身が成した事は 自身が報いを受けると言う考えです。
つまり 善を成せば 善の報いを受け 悪を成せば 悪の報いを受けると考えます。

私の書いた文を改めて見てみると Dの集団も殺人の罪で処罰するのが妥当であるかの様な、
書き方をしてしまいましたので その点が危険と感じられたのでしょうか?
その様な意図ではなく、人間の内的無反省【無慚】対他的無反省【無愧】を嘆いた物です。

職場の人間にこの話をした所、満場一致で「おまえは考えすぎだから!」と言われましたので
もしかして 私はズレてるかと思いお伺いしました。

私は自分の都合の悪い部分は見えない時が多々有ります。
社会的危険な考えがあるなら 早期に修正したいです。
是非!気が付きましたら 私の悪い部分を指摘して欲しいです!

>おことわりしておきますが、この件は>>202の【低次の「解」】の問題です。
私より妖怪さんの低次の「解」の方が優れた事が多いと考えます。
次に妖怪さんと私の解の違いにより 思考のポイントの違いも知りたいのです。

私は 現象を 考えによって判断し 結論が出ると考えます。
逆に言うならば 相手方の現象と結論を知れば、 
考えのポイントを知ることが出来ると思うのです。
(考えのポイント=欲の性質 何故その様に判断分岐したか? 思考回路)

これからもどうか宜しくお願いいたします
返信は時間のある時で構いません
有り難うございました。

214 :考える名無しさん:2006/04/25(火) 05:48:27
動機の面について言えば正しい認識というものが伴って初めて健全な形での
それが形成されるのであり、それは強調されて当の言説への反駁とされるべきではない


では一つ目の矢印を検討してみよう
一つには前回に言った部分が妥当するといっていいだろう
それ以外のその判断を支える要素となると何があるか
俺の思考ではどうも出てこないが先に挙げた一点だけでは弱いように思われる
解読の困難な書籍だ

直観的には二つの矢印を根拠付けている所はほぼ同じ内容ではないか
という発想が浮かんでいる。
というのは、と接続すべき所ではあるが何せ直観であるだけに
それを言語に翻訳する事は容易ではない

関係の障害になっている人間の性質に依拠する目立った要素の一つに挙げられるから
それを取り除く事が次に発展すべき認識にとって意味をなす可能性の扉である
と言い換えてみると、論拠としては少しだけ補強される感はある
その実最初に視点を置いたところが主たる要素であるとしても問題は無いか

215 :考える名無しさん:2006/04/25(火) 05:49:28
いささか弱いがそう仮定して二つめの矢印に入る
同じ理由に拠るのではとの直観に照らすと
関係の充実を契機に人間の幸福は生まれる
ないし、それを除いてはそれは形成され得ない
を各帰結の橋渡しに使えるかだが

まずこの材料には個別の存在としては一定の説得力は認めても良かろう
当道具として役割を担うか、同時にやはりそれは意味付けられるのではないか
理由は従前に倣い筆力を超える

途中にある論理的不明を材料に対する認識の甘さに置き換えられるのだとすると
彼の言う帰結はこの考察により一定の信頼を置いてよいと判断される

一つを学んだとしておこう。読みこなすのが大変な物だが
示唆に富んだ良い本である

216 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/25(火) 18:12:23 ?
(?_?)

217 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/25(火) 19:31:02 ?
妖怪さん 疑問が有ります。

性欲の本質は何でしょうか?
性欲は生きたいと言う欲ですか?

性欲を受感する原理は何でしょうか?

変な質問ですみません(^^;)
宜しくお願いします。

218 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/25(火) 23:53:46 ?
食欲・性欲・睡眠欲の対に成る欲は無いのだろうか?
これらの欲の制御は 精神力で抑える事のみで制御するのだろうか?
対に成る欲が存在するならば、対に成る欲を増大させて
欲同士を釣り合わせる事は出来ないだろうか?

私は 食欲・性欲・睡眠欲の本質を知って
上手に制御したい。

219 :考える名無しさん:2006/04/26(水) 05:45:15
>>214-215は虚栄の話の続きでした
分かりませんね、書かないと。


220 :考える名無しさん:2006/04/26(水) 06:39:35
人の幸福は裏陰でどうでもいいことが支えてんだよ。
そのどうでもいいことは他の人(人以外でも可)
のどうでも良くないことなんだよ。
詩人の谷川俊太郎氏の
「黄金の魚」でも読め。


221 :考える名無しさん:2006/04/26(水) 13:48:06
食欲・性欲・睡眠欲は体を持って生きる上では、例えば必要上、空気を吸っている
のと一緒で、(空気は生きている上で必要に応じて必要なだけ吸っている)吸いすぎ
ということはないでしょう。
それと同様に考えると必要以上にむさぼらない。食べすぎ・やりすぎ・寝すぎ
この『〜すぎ』の部分から欲となるのではないかと思います。
なにも、食べず・やらず・寝ずということではないと思いますよ。
腹8分目とは、うまく言ったものです。

222 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/26(水) 23:06:45 ?
>>221
221さん こんばんはorはじめましてorお久しぶりです。

そうですね。
ついつい やりすぎてしまいますが(^^;)
何事に於いても加減と言うものを知って行った方が良いと
私も思います。

ただ 私はこれらの現象の本質を知って
何であるかを掌握したいのです。

私は基本的に 全ては相対的に存在していると考えます。
幸福の対は不幸 美の対は醜 等、

全ては相対的な差異があり この差異により人は認識できると考えます。
又 相対なこれらは本質的に同じ存在であり、
本質は両極に当てはまります。
両極の片方を捨てれば 両極とも無くなり受感出来なく成ります。

幸せを諦めれば、対に成る苦も無くなる。 美しさを諦めれば、対に成る醜さも無くなる。
幸苦の本質は無から有を望む事 美醜の本質は正しい姿を望む事

食欲や性欲や睡眠欲の対になる概念は何でしょうか?
そして 本質とは何でしょうか?

私も考えているのですが 今ひとつ分からないのです。

223 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/27(木) 00:13:13 ?
>>219
219さん 返信有り難うございます。
>虚栄の話の続きでした
>1・虚栄を離れる
>2・人間に対して正しい見方が徐々に出来るようになっていく
>3・そのものの見方は幸福が為される条件である

214・215の返信を読んでみたのですが、
私はその本を読んだ事が無く、また動機の発生に関してが
焦点である様だとしか読み込めませんでした。
ごめんなさい(;´▽`A``

動機に関して
動機とは対象の事象を望む事であり、欲の発生と同義であると考えます。

人は良いを集める傾向が有り、悪いを避ける傾向が有ります。
人は自らに無いと主観する状態から 自らが有すると主観する時 幸せを受感します。
人は自らに有ると主観する状態から 自らが無くなると主観する時 苦しみを受感します。
人は現象に対し 主観を付加して物を見ます。
人は幸せに執着し 執着は苦しみの原因です。

224 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/27(木) 00:14:02 ?
>>219
実栄は実栄だけでしかなく、喜びや幸せとは別の存在であるが、
人は現象に対し良し悪しや 幸せ苦しみなどの 
別の要素を付加して 同一の存在として認識する傾向がある。

実栄に幸せの要素を付加して 実栄を幸せと判断すれば、
当初 実栄が無い状態から 実栄を見た時に
実栄は幸せに見えて 良いと判断し 実栄を人は望む。

努力して実栄を手に入れるなら 無の実感から 有の実感に変化して
この実感の差異変化により 人は幸せを受感する。

努力して手に入れた 有する実栄が崩れる時に
有の実感から 無の実感に変化して
この実感の差異変化により 人は苦しみを受感する。

人は願って努力して手に入れた幸せを いつまでも有って欲しいと望む。
失われた幸せは直ぐには諦め切れずに 
既に今は無い実栄に執着し、実栄は虚栄と変化して 人は虚栄に苦しみ続ける。

幸せと思い苦しみ続けて この矛盾によって、
人は実栄も虚栄も 幸せそのものでは無いと知り 現象は現象に過ぎないと悟る。

これらの事により 虚栄を離れて 実栄と虚栄の両極の実体を知り、
本質は何かを把握して 栄に囚われない広い視野を学び
現象を ただそのものと観れる様になるならば
幸福と言う概念的要素を成す際に 崩れ難い幸福を成す条件に成るのではと考えます。

225 :考える名無しさん:2006/04/28(金) 10:52:05
にちゃのブンザイで偉そうに語るな、クズども

226 :妖怪:2006/04/29(土) 17:22:23
悪魔さん、お言葉に甘えてゆっくりレスさせていただきました。
どうも悪魔さんの書き込みを見てますとね、他人とは思えないんですよね。
まるでちょっと時間のずれたドッペルゲンガーと話しているみたいで・・・。

多分長文になりますのでお覚悟を(^^;)
>>213
>つまり 善を成せば 善の報いを受け 悪を成せば 悪の報いを受けると考えます。
私がこの件に関して「低次の解」の問題として分けたのは、【善・悪】が社会的に変動する極めて
主観的な概念である上に、その主観でさえも一つの事象をその両極に明確に分けることが出来
ないというジレンマを包含している「常に曖昧な」概念であるからです。

要するに「高次の解」の中で【善・悪】の普遍性は既に否定されている以上、【善・悪】を語る上では
その「解」を社会的「低次の構造」に限定した中でのみ求めなければ、本末転倒を起こしてしまうと
いうことをご指摘したかったのです。

言い換えてみると「情けは人の為ならず」「因果応報」が機能する(機能している)若しくは機能しない
(機能していない)と思い込める(解)のは、「低次の構造」中でのみなのです。
>我々は自らにその様な要素を少なくする様、努力すると共に
>自らもその様な要素があるのだと心に留め。
>関係ない別の存在の出来事と思う事が無い様にするべきと考えます。
私は、「機能している」と「解」している悪魔さんがこう心がけているのはとても【善い】事だと思いますが
その根拠に「善を成せば 善の報いを受け 悪を成せば 悪の報いを受ける」という「高次の構造」の普遍性
に踏み込んだ「解」を持ってくるのは本末転倒であり、社会的にも悪魔さんの内的思想の「道」にも非常に危
険なことだと思います。

227 :妖怪:2006/04/29(土) 17:23:20

>思考のポイントの違いも知りたいのです。
上述したように、「高次の解」と「低次の解」の【不可逆】の掟を常に意識することでしょうかね。
「低次の解」は常に社会的変化に連動した主観によって構成されています。
それに対して「高次の解」は極めて客観的普遍的(たとえそれが不可能であったとしても)な観点によって構成
されるべきものであって、あくまでも「低次の解」の土台となるものです。
ですので、「高次の解」をもとに「低次の解」を導き出すことは出来ても、その逆をやってはならないのです。
「二つの次元の関係性は【不可逆】である」というのが思考のポイントでは無いかと思います。

もっと言えば、人間として「低次」の世界で生きていく上で、究極この二つの次元を正に「次元が違う」こととして完
全に切り分けて考えなければならない、という覚悟をせねばならないのかもしれません。
これを私は独自(仏教で言うところの『明らめる』とは異なる意味で)で「諦め」と言う意味を含んだ【明らめ】と呼ん
でいます(^^)なかなか難しいことですがね。

↑やっぱりちょっとうまく言葉に出来ていませんねえ・・・すいません(^^;

228 :妖怪:2006/04/29(土) 18:00:02
あ、あまり長文にはなりませんでしたね(^^
実際は書きたりないのですが、解り易く言葉にまとめるのが難しくて・・・。

>>217
>性欲を受感する原理は何でしょうか?
だからドッペゲンガーなんですよねえ、悪魔さんは私の・・・(^^;
>食欲や性欲や睡眠欲の対になる概念は何でしょうか?
簡単に言えば「満」ですかね。
「食満、性満、睡眠満」(ンな言葉はありませんが)
>>221さんのおっしゃる「過ぎ」ってのは「食満過、性満過、睡眠満過」ということになりますかね。
造語の嵐ですが・・・その「言葉」が概念の全てをを存在させている(ヴィトっぽいですが)のです
から、これでいいんじゃないかと思いますよ。

>そして 本質とは何でしょうか?
「本質」は「生命への渇望」でしょう。
その意味に属しない「快楽・怠惰」としての「食欲・性欲・睡眠欲」を「食満過、性満過、睡眠満過」
として概念分けすることが出来ますよね。
でも私はおいしいものを食べたい時もあるし、惰眠をむさぼりたい時もあるし、良い女とやりたい(^^;
と思いますよ。
最後のは相手の問題等々ありますんで、おいそれとは出来ませんがね(^^;
「食満過、性満過、睡眠満過」を滅却せずに「制御」するのなら、そう難しくは無いのではないでしょうか?

229 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/29(土) 22:12:18 ?
妖怪さん 返信有り難うございます。
>まるでちょっと時間のずれたドッペルゲンガーと話しているみたいで・・・。
私の方からですと、妖怪さんは本物の妖怪ではあるまいかと
思う時があります。(^^;;

高次の解と低時の解に関しまして
私は未だ高次の解を理解できていない様です。

例えば実感は空であることは 高次の解になりますよね。
善悪は曖昧で低次とは解かりましたが、

>「因果応報」が機能する(機能している)若しくは機能しない
>(機能していない)と思い込める(解)のは、「低次の構造」中でのみなのです

因果応報は高次に入らないのでしょうか(・_・?)
因果応報は「結果は原因に応じて報いる」意味に成りますよね。
原因は人間の自我によって成される人為になりますよね。
結果は人間の得られた実感になりますよね。
自我(欲)によって人為を成せば(出力すれば)
必ずそれに対応した実感(出力結果)が生じる気がするのですが~(・・?))(((;・・)?

妖怪さんが指摘されるように善などは個々に違いがある為、
善が善で返らない場合がありますが、
因果応報自体は高次でしょうか?

高次の解は 空であるだけなのでしょうか?
原理は高次に成らないでしょうか?
高次に関することが 今ひとつ把握できません。

どうか宜しくお願いいたします。

230 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/29(土) 22:59:23 ?
妖怪さん 返信有り難うございます

欲を制御して 欲の力を利用したい場合は
私が以前主張した
欲同士を釣り合わせて使う以外に
有効な方法があれば教えて欲しいです。

欲は満たさずに溜めて使う方法があるような気がするのですが
その点はどの様にお考えでしょうか?

宜しくお願いいたします。

231 :妖怪:2006/04/30(日) 07:03:42
悪魔さん
>妖怪さんは本物の妖怪ではあるまいかと
ははは・・・そうかもしれませんよ。
全ての物事は実のところ妖怪となんら変わらないのですし。
「この世に不思議なことなど無いのだよ」(京極堂知ってます?)ってセリフが出てきそうですけど(^^;

>>229
>私は未だ高次の解を理解できていない様です

【低次の解と高次の解について】

・低次の解とは
先ず事象を観るに当たって、その事象を一つに出来るのは何故でしょう?
それは限定された一つの概念を用いて事象を観るからです。
もともと一つにはなりえない事象を無理やり一つの概念の枠組みの中にはめ込んで、初めて一つの事象として姿を
現させることが出来ます。
これは仏教で言うところの「色」にあたりますね。ヴィトケンシュタインでいえば「言葉」にあたります。

この「色=言葉」の集合が「仮」=「現実世界」=「低次の世界」ということになり、この世界の構造(仕組み)が「低次の
構造」、この構造に関する「知」を「低次の知」とし、この「知」を構造の中に組み込むことが「低次の解」ということになり
ます。

・高次の解とは
一方問題の「高次の解」についていえば、「空」から「仮」の生じる構造(仕組み)「空観」=「高次の構造」とし、この構造
に関する「知」を「高次の知」、この「知」を構造の中の組み込むことが「高次の解」ということになります。
ここで一つ注意しなければならないのは、低次の場合と異なり私達人間は「高次の世界」で生きることは出来ないという
ことです。
何故なら「高次の世界」とは「空から如何にして仮が現れるのか」という「過程の構造」そのものだからです。
「・低次の解とは」の一段目「事象を一つに出来るのは何故でしょう?」以下の説明文は、「高次の知」にあたります。

232 :妖怪:2006/04/30(日) 07:04:16
・低次の解と高次の解の分け方
ここで問題になってくるのは、「この問題は低次なのか高次なのかという見極めは如何にすればよいのか」ということですよね。

例えば「善・悪とは何か?」という問いに答えるには「高次の解」が必要になります。
>【善・悪】が社会的に変動する極めて主観的な概念である上に、その主観でさえも一つの事象をその両極に明確に分
>けることが出来ないというジレンマを包含している「常に曖昧な」概念であるから
というのは「高次の解」から引き出し「低次の世界」に当てはめた「知」であり、本来「高次の知」に属するものです。
「幸福とは何か?」という問いに対しても「高次の解」から引き出し「低次の世界」に当てはめた「知」によって答え得ます
よね。
要するに「高次の解に関する問題」とは「概念」「色」「言葉」の成り立ちを問うことであって、「概念ありき」の問題ではない
のです。

これに対して「これは善か、悪か?」と問うことになると、話は違ってきます。
「善・悪」それ自体の発生構造を問わず、またはその構造を「解」った上であえて「善悪を」分けて(または問わずに)設定し、その事
象が善なのか悪なのか「知る」ことは「低次の知」であって、この問いは「概念ありき」の「低次の構造」に関する問題だということになります。
「これは幸福なのか?」という問いはこれにあたりますね。

233 :妖怪:2006/04/30(日) 07:04:45
>因果応報は高次に入らないのでしょうか(・_・?)
>因果応報は「結果は原因に応じて報いる」意味に成りますよね。

さて、やっとここに到りましたね。
私達が認識可能な「因果」というのは二つの事象を一つなぎにするという構造でなりたちますね。
一つの因から一つの果へ、一つなぎに出来るのはなぜでしょう?
それは、概念化した一つの事象ともう一つの概念化した一つの事象を「因果」という限定された概念を用いて繋げて観るからです。
これは低次の事象での「因果」について「高次の知」を用いて解説したものですが、だからと言って「因果」を低次のものとしてしまう
のには抵抗がありますよね。
この「因果」に関してはちょっと・・・特殊なのです。

私は「因果」という概念と「因果律」という概念をあえて分けて考えています。
私の考える「因果律」とはメタ因果とでも申しましょうか・・・時空を超えちゃってるんです。
量子物理学とか、ユング/パウリで言う「共時性(シンクロニシティー)」とか考え合わせると「これは不可知領域だな」って思うんです。
「空観」をもってしても説明がつかない・・・。
全ての事象は関係しあって成り立っているという「梵我一如」の観点からすれば「因果律」を否定することはやはり出来ないと思います。
ただ、一つの事象に全てが干渉していると言うことは、その「全て」とは何かと言うことが解らなければ、その構造を知ることなど出来ないわけです。
言ってみればこの因果律に関して言えば「高次の解」をも超えたところの問題となってしまいます。
今のところ私はこの「因果律」を「梵我一如」の構造の一部として「高次の問題」に据えていますが、正直言ってこれ以上は”諦め”ています。

よけい複雑になってわかり難くなってしまいそうなので、とりあえず「因果」は低次「因果律」は高次の意味で使うと言うことだけ覚えておいてください。

今日はここまでで限界です。途中で申し訳ありませんが続きは後日いたします。

234 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 07:36:33
人は平凡をもって幸福とすべきです

235 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 07:55:59
>>234
「天にも届く歓喜の叫び」をあげようと望む者は、
また「死ぬばかりの悲しみ」をも覚悟しなければならないとしたらどうだろう?

236 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 07:59:40
>>235
平凡か・・・
ストア主義的に考えているのか。

237 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 09:49:37
http://www.bgnjiwofhboifoeufhbuehgy7u37ty9753yt8g5r3ugherjhpbijtefpibjipdfjbnipgdhnbihgbong8n0fgy8mny8fg0yhm8zgyh0uidznhuzdgfhnoudghnodugzhnienoidohnoigdhmogdmhgfuhmuofghmuofjhgty789okjhgfty7u89

238 :& ◆QWv3R1XL8M :2006/04/30(日) 10:46:51
幸福でなく徳を追求するべき。
幸福は一過性で偶然(運命)によるものなのでこれを追求するのは無駄。
近代文明では「幸福の追求」が権利とされ憲法の条文に明記されていることがありますが
これは退廃の証拠。
このスレでも人生論と幸福論が同等のものとされているのだからやってられない。

239 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 10:57:11
>>233
しかし、素晴らしくわかりやすい説明だ。脱帽。 メモメモ

240 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 10:57:32
幸福に先んじて徳を挙げる理由は
また君言う所の徳を定義するとどういうものとして言っていますか

241 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:08:52
推測すると幸福の追求は利己の表れであり
徳は利他を象徴するものとして挙げているのではないだろうか

利他であることを求める根拠は利己が形を変えたもので
結局の所同じ物の両面なんじゃないかな

ただその変質は俺としても肯定すべきものであると考える

242 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:10:02
変な文章になってる部分があるな
まあいいか

243 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:11:23
返答待ち、と。

244 :& ◆QWv3R1XL8M :2006/04/30(日) 11:11:32
清く生きるに利他も利己も関係ない。
徳に他人は無関係。

245 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:14:43
出来れば質問に則った回答であるといいのだが
あまり論理を用いて読み解こうとする立場ではないのかな

246 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:17:56
理由と定義ね。どういうものとして言ってるか分からないのでは
話しにならないからね

247 :& ◆QWv3R1XL8M :2006/04/30(日) 11:37:50
幸福の追求は「満ち足りている」という表現に見られるように「何かほしいもの」が手に入っている状態をさす。
徳の追求は律や倫理という表現に見られるように「何か正しいもの」に沿った生き方としていること。

「ほしいもの」や「正しいもの」は主観によるので「何か」が何であるかの定義は無駄。
もちろん「何かほしいもの」を徳とすることで徳と幸福を同一化させることは言葉遊びとしては可能。
しかし幸福の背後に「欲求」がある。徳の背後にあるのはその逆。よって目的論的に徳と幸福は矛盾する。

248 :& ◆QWv3R1XL8M :2006/04/30(日) 11:42:33
逆説的ですが欲求に定義される人生て本当に幸福?

249 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:50:36
欲求の対義語はなんだろうね

250 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 11:53:02
禅とかやってます?
どういったもんだろうねw

251 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 13:24:18
悪魔さんのようにみんなが思っていれば争いはなくなるかもしれませんね。。

252 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 15:18:25
我思う故に我有り

253 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 15:30:11
斉藤先生いい味出してるよな

254 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/30(日) 20:14:47 ?
妖怪さん 返信有り難うございます。
>>妖怪さんは本物の妖怪ではあるまいかと
>ははは・・・そうかもしれませんよ。
ぬらりひょん・・(-。-) ボソッ

低次・高次の説明有り難うございました。
とても勉強に成りました!

因果律にとても興味が沸きました!
低次の例えば、林檎を知る場合は
林檎と言う概念を使い(結果) 複数の色を付けて(要素) 林檎を知りますよね(意味)。

因果の場合、 原因作り(要素) 結果を得て(結果) 意味を知りますよね(意味)。
何か凄く低次の解と因果は似てる気がします。

低次の解は高次の知を適用して 解かりますよね。
因果は因果律を適用して 解かるのであれば
因果律も知ったり解かったり出来そうな気もするのですが・・・

255 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/30(日) 20:15:21 ?
妖怪さん
>一つの事象に全てが干渉していると言うことは、その「全て」とは何かと言うことが解らなければ、
>その構造を知ることなど出来ないわけです。
林檎は何かと言うならば 捉え様でどの様にも成る 空である。
しかし 林檎をどの様に主観するかと考えれば 様々な色に分離出来て
この色の集合体が主観する林檎である。
主観に於いて 全てとはこの複数の色が全てである。

原因を与える前の林檎の全てと 原因を与えて結果が出た後での林檎の全てを比較した時に
色の内容に幾つかの差異が生じる。
この差異により因果を知り意味が解かる。

因果律とは 因果による意味の現われる力(・_・?)
訳分からなくなってきた(^^;)

そうなると・・・
因縁律とかも存在しますか?
要素と要素は引かれ合いますよね。
因縁と言う低次は 因縁律と言う高次が存在するでしょうか?

どうか宜しくお願いいたします。
返信は時間が空いてる時で大丈夫です

256 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/30(日) 20:21:04 ?
>>251
>>悪魔さんのようにみんなが思っていれば争いはなくなるかもしれませんね。。
全員エロくなってしまいます(^^;)

257 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/30(日) 22:35:07 ?
妖怪さん
苗字と名前に関して

物には どの様な動作を行うのかと言う 働きがあり、
どの様な事を成し遂げるのかと言う 役目があると思います。

例えば エクセルは表計算ソフトと言う 働きが有り
その職場環境(傾向・性質)によっては
見積書の作成と言う 役目が有ります。

我々人間も この様に 苗字の元での 名前と言う働きですか?
苗字は性質・傾向を示し、
名前は 働きや 性質に於いての役目を示しますか?

役目や機能を求める者と 役目や機能を果たし与える者が存在し、
お互いがお互いを補い合いますよね この世界は・・・

そして高次の世界は時間を超越してますよね・・・

一本の長いロープを 細かく切って、
それを同じ空間に並べた様な構造ってありえますか?

宜しくお願いいたします。

258 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/04/30(日) 23:19:40 ?
古い考え方と 新しい考え方が混在して
混乱中(@Д@; 

259 :考える名無しさん:2006/05/01(月) 07:27:00
幸福の二大敵手は「苦痛」と「退屈」である。

苦痛に煩わされない「安静」と、思索するための「余暇」、
少しの金と友人があればそれで満足だ。

260 :弔い:2006/05/14(日) 04:39:08
鬱陶しい物事の発生が避けられぬ中で自分のペースをつかむには


それはすべからく心的負担となって作業の能率を損なう要因となり得る
単純な関わり方では防がれない

それはそれと割り切り、心を切り替えて別の作業に臨む

そう考えてはいても実際には難しい

論理的にその状況が導ける条件が揃っていないからだ

ではどうする

その嫌忌する物事が避けられぬ場合ではより良い接し方
自己として不満のない対処を見つけそれにより
別の作業への望ましくない影響を減じてやる

それには才能がいるのだろうか

あればそれに越した事はない
が、才能の解釈は逃避に近いので一時出来たとしても普遍的な要件とはならない

ようはそれぞれの事物を別の枠にあるものと自分が明確に認識していれば
心的に割り切って別の時間をそれぞれに当てるという対処が可能になる

一定水準の自己の思索としての帰結を与えようと思い巡らせる事
それによって枠組みの明確化は可能なのではないか

261 :弔い:2006/05/14(日) 04:45:00
また、最初の事象が含んでいる、主観の感じる「鬱陶しさ」というものに
作為を加えてみるのはどうか

同じ物事も楽しんでやる者であればそもそもの問題を認識から消してしまう事が出来得る
急にその性質を変えるのでなく
迎え入れて接しているのだと思うよう心がける事でその効果は似たものが生まれるのではないか

ただ、普通の感覚が否定するものを好ましいものと考えることには抵抗を感じなくもない
人であることの否定ともなりはしないか

262 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 07:47:51
悪い頭をちょっと使って考えてみた
食べる・排泄する・セックス・寝る等 
こういう本能に根ざした行動以外で感じる幸福ってのは他者との関わりの中で見つけていくものじゃないかなと
つまり他者と全く関わりが無いと幸福というものもよりシンプルになっていくんじゃないかな

263 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 19:05:37
幸福とは

若くて健康でお金があって自由で異性にもてること。(^_^)v

何か他に抜けてることありますか?

264 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 19:16:21
お前が、だろ?

265 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 19:59:35
幸福とは己を捨てること。
というのを聞いたことがあるな。
死と幸は紙一重だ。

266 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 20:15:53
生まれてきたのが不幸なのだ

267 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 20:29:32
>>266
同感

268 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 20:34:40

 サイコロの目のようにコロコロ変わる理論(?)がサイコロジーです

 論文の有効期限・賞味期限はせいぜい一ヶ月程度なのでご注意願います
 http://academy4.2ch.net/psycho/




269 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 22:10:12
満足/欲望=幸福度で考えると
人間は満足してもまたすぐ欲望が大きくなりますから、幸福ではなくなる。

ならば、

知足/少欲=幸福度
欲を少なくして足るを知る。「少ない」ではなく「少なくする」
あくまで少なくする。無欲だと
知足/無欲=幸福=ゼロになっちゃいますので。。。

まあ、仏教の受け売りですけどね。
欲を少なくする。そこから実践してみますか。

270 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 23:15:58
天国がなきゃ幸福になるなんて無理でしょ
地上における幸福は夢の如し
天国ないかな。

271 :考える名無しさん:2006/05/14(日) 23:31:45
地上って地獄の上のことだしね。
天国あったっていいじゃん。
地獄に慣れれば、地上も楽園みたいなものですよ、というのはいかにも酷じゃないか。

272 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 01:08:47
重力があるから気を抜くと地上から地獄に落ちる。
抵抗せず落ちるに任せ、地獄を味わえば身が軽くなる気がする。
そのうち飛べる程、身軽になれないものか。
いつか力尽きて底まで落ちるなら、時々途中まで落ちるもよし。

いま私の願い事が叶うならば翼がほしい。
この大空に翼を広げ飛んで行きたいよ。
悲しみのない自由な空へ翼羽ばたかせ行きたい♪

良い曲

273 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 01:16:48
キモイ

274 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 01:24:51
何いってんの、できるだけ楽して楽に死ねればOK

275 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 01:31:59
楽ばかりしてるといずれ重力に抵抗できなくなって生き地獄になる可能性が高いわけで。
地上に戻りたくても戻れなくなる。
だから敢えてなのだ。
いずれにしても同じようなものだけど。
どう生きようが大差はない。

276 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 01:57:38
地獄と地上は別世界ではなく、一つの世界を分析しただけ。
天国があるとしたら、それも同じ世界にあるんだろうね。
翼は買えるかもしれないけど高すぎるはず。
翼をください、タダで。

277 :考える名無しさん:2006/05/15(月) 12:48:23
>>263ですが  >>264さんに座布団二枚!!

278 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 08:40:30
地上は地獄の上にある。
地上は地獄で/によって「ある」のだ。
地獄とは存在のことである。
「私」もまた「ある」なわけだ。
だが部分的でしかない。
地獄において私は地上の「私」ではないことを知るのだ。
地獄における私は、地獄によって「ある」のではないからである。
この私は一見「無」である。私にとって地上が無になるからである。だが私は存在自体になっているのだ。私は無ではない。私あるはある。有るを有らせるものがあるといわねばならない。


さて、また有らせるものを有らせるものがある…となっているなら、「私」は無に無限に近づくと共に無限に強大な存在になりうる。無限が神かな。
天国はどこかな? まじなさそう。
天国は自分が属する所つまり地上によって有らされてる所w


279 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 08:49:53
神にとっては犬が暮らしている地上は天国に他ならない。

280 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 08:55:01
人間関係家族関係で不満が雪だるまのように増えていき
病気になり老いぼれて能力も落ちて最後は死ぬ。
それでも幸福を感じるためには脳の幸福感を感じるところを
刺激するしかない。副作用の少ないそういう薬が開発されるだろう。

今の哲学家思想家は言葉を、人を傷つける方向にしか使わない。
言葉は無力だ、いや言葉は陰湿な人間の凶器だ。
哲学思想には期待できない。製薬メーカーに期待する。

281 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 09:03:03
死んだら無になるとかだったらヤバそう。

282 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 09:29:39
地獄を自分にとって地上に出来れば幸福になれるんじゃね?


283 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 10:13:33
死んでひとっ飛びに無になるなんてことはないだろうね。「私」は有り続けると思う。
無に至れる器になるまで死に続けたりしてw

284 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 10:30:10
うむ、ごくろう

285 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 10:50:57
御苦労。
なる程、無に近づくことは時間を遡ることかもしれない。

286 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:52:48
世界は時間を遡るに連れて無になるが、
もし遡るならば私は充実していくだろう。
世界における私をも無になっていくから無に近づくようだが実は私の存在性は充実していくのだ。
私が死んで私にとって無になるのは私がいた世界の方だろう。私の方は時間を遡ることになるだろう。
時間は存在の濃度である。
時間の進行つまりは存在の希薄化は快であり、逆は苦である。


287 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:00:25
生命の存在の濃度は自然と上がるようになっている。地獄に落ちていくように、時間を遡るようになっているんじゃまいか?
生命は時間を遡りうる存在なのではないか?

288 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:02:37
時間を感じるのは自分の存在の濃度が変化してるからじゃまいか?

289 :考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:20:47
時間に逆行する存在が命だから、それが快を追求して時間を進めても、結局戻らねばならなくなるのかもね。
無に至るまで生死を繰り返し永久に命は終わらないんじゃないか?
輪廻輪廻

290 : :2006/05/21(日) 17:03:34
時間が逆周りになるということは、ウンコを肛門から吸い入れて、
ゲロを皿の上に吐いて、皿に乗ったゲロが食い物に変化するって事?

291 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 08:17:32
人間らしく生きることが、人間としてみれば幸福なのかもしれんね。

292 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 21:37:33
的外れじゃなきゃ、10年後には心身共に常駐犬と比べて極端に差がついて極めて分かりやすくなるだろうね。


293 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 21:44:06
実験哲学


294 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 22:15:12
Es ist alles Luegen!


295 :考える名無しさん:2006/05/22(月) 22:30:35
そりゃLuegeの嘘だろ。

296 :考える名無しさん:2006/05/24(水) 20:46:53
トルストイの「人生論」が一番好きです。「懺悔」とか・・・
キモイですか?

297 :考える名無しさん:2006/05/24(水) 22:54:14
>>296
いいんじゃね?死ぬまでやってれば?

298 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 00:37:09
>>297
うるせー
実際の俺は、キモクは無いわい!
肉体が滅んでも魂は永遠である
お互いに愛(アガペー)しあいなさい

299 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 00:41:51
アガンベ〜

300 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 01:52:27
>>298
お互いに愛(アガペー)しあいなさい・・ってw
相手の都合もあるだろw


301 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 10:50:36
300ヘ「エロス」じゃ無えよ

302 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 12:16:58
苦を棚上げしていくか、苦を止揚(アウフヘーベン)していくかの違いだ。
どっちが臆病か?
後者


303 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 13:17:16
山田く〜ん! >>299に座布団二枚!

304 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 15:22:52
斉藤く〜ん! >>303から座布団3枚とって !!

305 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:14:11
借金みたいなものさね。
苦しみは。時間は。
早いとこ返さんといかんよ。
借りた時間を返して担保としての存在を取り戻す?

306 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:24:00
人は存在を担保に時間を借りる。
時間を使うのは快である。
時間を返すのは苦である。
なかなか返さないならば利息をたっぷりと上乗せされた上で強制徴収される。

というのは適当だがどうよ?


307 :C:2006/05/25(木) 19:24:36
借金が優れていると思っているのかね。
どういう訳で、そんなものを引き合いにしているのだろう。

308 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:27:57
適当ですね。

309 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:40:48
辛い実験だから、結局は三日で一歩でよいだろうね?

310 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:45:49
君は実験する気があるのかね。
知るために苦しむ気があるのかね?
ないでせう。

311 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 19:48:44
それで知を愛しているつもりなのかね。
それでは好奇心に過ぎないでせう。

312 :考える名無しさん:2006/05/25(木) 20:56:25
おっと、いや君、危うく誤魔化されるところであった。
5日で一歩というべきだったでせう。
>>309


313 :考える名無しさん:2006/05/30(火) 20:36:01
常駐してる人は実験する価値がありませんね。既に。終わってますね。


314 :妖怪:2006/06/03(土) 23:19:58
悪魔さんいらっしゃいますか?
5月中は予想に反して殺人的多忙でもって書き込み出来ませんでした。
ごめんなさい。

>>230
欲を利用することに関しては、恐らく心理学の範疇でしょう。
残念ながら、私はこれにお答えできる心理学的知識を持ち合わせていません。
それでもがんばって答えられそうな範囲でお答えさせていただきますと・・・。

対象の欲の制御を、対(反意)となる欲との釣り合わせによって行う。
対象の欲と対(同種の一組)となる欲の釣り合わせによって行う。
いずれにせよ、対となるのは状況しだいなのではないでしょうか。
「あちらを立たせればこちらが立たず」といった状況におかれた場合はその片方が”反意”の対となり
「あちらも立たねばこちらも立たぬ」のならば”同種の一組”という意味での対となるわけですよね。

前者の場合は”どちらを大切にするべきか”という【目的】の確認によって制御可能だと思います。
食べたいが痩せたい・浮気はしたいが女房も大切・眠いが稼ぎたい・・・という具合に。

後者の場合は【目的】の設定による制御。
健康の為の食事・子孫繁栄の為、または愛する者との愛の営みとしての性行為・健康の為の睡眠・・・
これを目的としない・この目的に反する行為となる欲は、前者でいうところの「反意の対」として機能させ
ることも出来る訳ですね。

こんな答えでいいのか分かりませんが「行動」に際しての欲の制御は、以外にシステマチックな目的主
義・合理主義的な【目的】に対する「心構え」によって可能だと思います。

「食欲・性欲・睡眠欲の本質」は、自らの【目的】の設定・確認によって顕され、その対となる「欲」も【目的】
の中での関わりによって顕れるものなのではないでしょうか。

315 :妖怪:2006/06/07(水) 01:49:16
昨日は666・・・悪魔寄せ妖怪揚げ・・・。

316 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 11:45:59
幸せあげるホィ!(´・ω・)ノ圉


317 :悪魔 ◆3F.k3Wy1mI :2006/06/15(木) 22:36:15
>>314
妖怪さん 返信有り難うございます お久しぶりです。
私の場合、様々な本や考えを聞いて繋ぎ合せた亜流なので
時々ユング心理学などの話に飛ぶ場合があります(^^;)

私は時々思う・・・みんな結局は同じ所に行く着くのではと・・・( ̄o ̄;)ボソッ

正しいとは何だろう・・・
間違いとは何だろう・・・
人は何故、正しさを集めなければ生きていけないのか?
人は何故、間違いを退けねば生きていけないのか?

仮に正しさだけの世界が存在したとして、
私はその世界で あえて間違いを創り、自身だけが正しいと主張してしまい。
正しいと主張する間違いを成してしまうのではないだろうか?

私が間違いとして、今まで散々殺してきた意見の正体は何だろうか?
正しいと言う自己の思いの集合で我を創り、
間違いと言う非己の思いの集合で彼を創り、
分けるのは だだ欲だけでしかないのかもしれない・・・

私は何処を目指せば良いのか?
私はいつまで目指せば良いのか?
私はどうして目指さねば成らないのか?

薄っすらと悲しい・・・

318 :妖怪:2006/06/27(火) 01:07:26
>>440そりゃあ陳腐ですよ。
当たり前の(であるとしたい)ことしか”言葉”では言ってませんもの。

ただし、君はその陳腐なものを本当に”解っている”と言い切れるのかな?

>>441
>自己の生命が危機に直面したとき、他者の生命を害する選択肢も必要な場合があるこ
>とは認識しておく必要はあるだろう。

・「瞬時に殺さねば殺される」という関係におかれた場合、自他を分けずに大切にするには・・・?

どんな複雑な要件が絡んでいたとしても天秤の両端に乗っているのは相手の人生と私の人生のみです。
「私はこいつを殺してでも生きたい」という方に天秤が傾いたのならば、後にどんな報いがあろうともそれを受け入れ
る覚悟で殺します=生きます。覚悟が出来なければ殺されます。
無理やり正当化する必要などないでしょう? 【.人生論・幸福論哲学スレ>180】

319 :妖怪:2006/06/27(火) 01:08:16
おっとまちげーた。

320 :考える名無しさん:2006/06/27(火) 01:50:26
幸福や人生について自分の浅い経験と狭い知識とセコい計算で考えても、
たいした意見が出るはずないよ。こういう事は謙虚になって仏陀に
教えてもらった方がいいと思うよ。

321 :仏陀:2006/06/28(水) 19:13:52
呼んだ?

322 :考える名無しさん:2006/06/28(水) 22:41:59
仏陀さん こんばんは
人は何故、幸せを求めるのでしょうか?

323 :考える名無しさん:2006/06/28(水) 23:17:45
仏陀さん さらに疑問があります。

1・真理とは何でしょうか?
2・真理を拠り所として自己を形成する事は可能ですか?
3・真理を拠り所として自己を形成した場合、自己は保てますか?
4・ニルヴァーナとはどの様な所か良く解かりません。
  虚無との違いは何でしょうか?
5・何により欲は生じたのでしょうか?
  一番初めに欲がこの世界に生じた理由は何でしょうか?
6・この世界は相対的に存在すると私は考えますが、
  絶対は存在可能でしょうか?
  存在不可能の場合、存在可能条件はありますか?
7・我々の5感と心は自身の何処で受感するのでしょうか?
  仮に脳である場合、我々は脳の部分部分で
  それぞれの受感を得るのでしょうか?
  それとも物質的な物では無いのでしょうか?
8・私は何故 怒り悲しみ喜びなどの感情を知ってるのでしょうか?
  遺伝子的な物でしょうか?
  遺伝子の場合、淘汰による個体差が生じないのは何故でしょうか?

324 :仏陀:2006/07/01(土) 00:33:31
1、真理とは、「真理」という【言葉】です。
2、出来ます。
3、常に葛藤があります。
4、涅槃とは”所・場所”でも”境地”でもありません。
  虚無との違いは”違う”という心です。
5、「欲」とういう【言葉】からです。
  全てに理由はありません。「理由」とは【言葉】です。
6、可能であり不可能です。絶対も相対も【言葉】ですので。
7、医学的に脳または他の物ということ信じるならそうでしょう。
  ”魂”と言うならそうでしょう。
8、それは、「知ってる/個体差が生じない」と知っている・・・と思うからです。

325 :323:2006/07/01(土) 18:55:25
>>324
仏陀さん 返信有り難うございます。

仏陀さんの返信は、私にとって今まで考えた事の無い概念で興味が沸きました。

【言葉】とは何でしょうか?
仏陀さんの考える【言葉】を教えて欲しいです。

326 :考える名無しさん:2006/07/08(土) 23:57:10
欲は取り込む事により内に生じるもの。
食らった存在が逆縁にて内に欲と生じる。
従って人間は自身で自身を殺す行いをする。

他欲が自欲を貪りながら、私は他の肉を喰らう。喰い合う。

327 :考える名無しさん:2006/07/08(土) 23:58:45
肉を主体とする欲多き存在を食った場合、
その性質(欲)が多量に内界に入り、
他欲(入力された欲)を我欲(私という欲)が制御できなくなる。
この現象を感情の怒りなどの煩悩の表れと言い。
自身を自身で統制し制圧するには
肉などの欲の多い存在を控えたほうが都合が良い。

328 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 00:08:49
我欲のみで他欲が内界にない場合、
欲自体が枯渇して物事を行う力が不足する。
他欲を取り入れ他欲を止滅させて
我欲にする。

欲を練って自身に変え、自身を練って・・・を創る。

329 :考える名無しさん:2006/07/17(月) 23:50:56
JOJOにもあったけど覚悟が幸福だってね。
あと上で希望・絶望・中庸のことを言ってたけど
総括すると全部大事なことだと思うよ。
中庸って言葉をヒントに。すべてのものは儚く確かなものは何もない、
いつか過ぎてしまい感じることができなくなってしまうと自分なりの結論が出て
どんな認めたくない問題も愛していこうと徐々に思えるようになってきた。

否定肯定・過去未来現在・強弱・感情・思考すべて儚く過ぎて感じなくなってしまう。
要らないものは自分の中から捨てるんじゃなく覚え愛していきたい。

330 : ◆i9Nf8biD3. :2006/07/19(水) 00:29:32
うんだ。ぎょい。

331 :考える名無しさん:2006/07/22(土) 14:29:55
こんにちは。
突然ですみませんが、ちょっと協力してはいただけませんか?

価値ある人生を生きるための志の立て方と、
その志を実現させるために必要な「人生の鉄則」5か条について説明せよ。

こんなテスト問題が出たのです。
みなさんはどのようにお考えですか?
私はこの5か条には謙遜が含まれると思うのですが、
他のものがどうも思いつきません。

332 :考える名無しさん:2006/07/22(土) 21:06:31
>価値ある人生を生きるための志の立て方と、
>その志を実現させるために必要な「人生の鉄則」5か条について説明せよ。

答えをずばり教えます。

志の立て方を他人に聞くことは、志を立てることと対極です。すなわちこの行い・思考自体”だけ”が×
自ら立てた志ならば、どんなものでも×は付けられない。

この設問の意図は、正解を求めているのではない。
”志を立てる”ということを、自ら考察し実践し、実感する。これを意図しているのですよ。

333 :考える名無しさん:2006/08/26(土) 02:56:49
よく分からぬ

334 :考える名無しさん:2006/08/26(土) 04:34:07
人間は幸福にならないといけないということはない?

335 :考える名無しさん:2006/08/26(土) 07:17:30
トマムだ

336 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 15:07:09
↑ ( ゚Д゚)ポカーン

337 :考える名無しさん:2006/10/15(日) 13:46:52


338 :考える右無しさん:2006/10/16(月) 19:00:05
椎名林檎?

339 :考える名無しさん:2006/10/18(水) 23:58:43
>>334
ないんじゃない?幸福だったら幸福だね、って感じに考えてる。

ところでベンサムの幸福論(最大多数の最大幸福だとか)を読んでみたいんだけど、
オススメの書籍はある?

340 :考える名無しさん:2006/10/19(木) 15:59:42
周囲から、浮き立つ存在の時、周囲はその人に少なからず嫌悪する
内容としては「差別」についてです
最近いじめでの自殺が増えています
彼(彼女)らはどうすれば死なずに済んだのでしょうか
「キモい」と周りから言われる苦痛をどうすれば、なぎ払えるのでしょうか
周囲に合わせると、必ず無理が生じ、いずれ限界に気付く
この場合、どう考えれば良いのでしょうか
どう行動すれば平安な気持ちに至るでしょうか

341 :sophia ◆8ADoZCl6.k :2006/10/19(木) 16:10:36
>1 名前:考える名無しさん 2005/10/19(水) 02:30:37
>人はどう生きるべきか、人の幸福とは何か、または人は何を幸福とすべきか

全部みんな私個人の勝手です。
とやかく言わないでください。

>>331
1)、その価値を決めるのは私。
2)、どうするかは私次第。
3)、その応報は全部、私。
4)、よく考える。
5)、好きなようにやる。
、、、、、これ以上の志はないよね。

342 :考える名無しさん:2006/10/19(木) 17:02:23
>>340
について幸福論的に説くと
どういう答えに至りますか?


343 :考える名無しさん:2006/10/19(木) 19:49:33
人間は自己の幸福のためにしか生きられない。

自己犠牲もまた、他者を救いたいという欲求を満足させるために為されるもので、
自殺も、自己の幸福を最大化(自己の不幸を最小化)させるために為されるものであるといえる。

気が狂わない限り、真に自己の幸福の為でない行動をとることはできない。

↑これどう思う?

344 :考える名無しさん:2006/10/19(木) 21:22:22

って、いうか単なる利己主義なだけだろ


345 :考える名無しさん:2006/10/20(金) 00:05:29
自分の幸福を客観視することは可能?
どんな行為さえも幸福を志向している自分自身に対して、人は傍観者になれるか?

346 :考える名無しさん:2006/10/20(金) 09:00:11
>>343
間違ってないと思う。精神とはそういう構造を持ってる。動物でも同じ。

347 :考える名無しさん:2006/10/20(金) 20:35:17

幸福論を読むときって、不幸なときが多いよね。


348 :考える名無しさん:2006/10/20(金) 22:09:17
幸せとは何か考えない方が幸せでいられる。

349 :考える名無しさん:2006/11/14(火) 05:52:31
とにかくアレだ。

嫌な気持ちを極力無くしちまおうヽ(゚∀゚)ノ

350 :考える名無しさん:2006/11/14(火) 06:59:51
>>343
これはまあ、
「他者の幸福が自己の幸福となりうる」ということでもあるんだよな。
「真に」という表現を使っているが、
別に完全な意味で利他的である必要はないと思うよ。
「利他的である」ことを「いや、その本質は利己的である」と言い換えるよりも、
利他は利己から明確に分離できるものではなく、また利他が利己よりも先行した動機になることはない。
というような言い方のほうが正しいんじゃないか?
利他っていうのは字義通りに捉えると空想の中にしか存在しないような綺麗事に見えるけど、
実際的には、自己犠牲によって他者に利益を与えるような行為を「利他的」と呼ぶべきでしょ。その根幹に利己的な動機があろうと。
全て人間の動機は利己的なものでしかないという説明をしたがる人間は、
道徳を嘲笑し、尚且つ極端化を好む人間。
白も黒も本質的には同じで光の量の変化に過ぎないが両者には明らかな差があるように、
「他者を傷つけることを欲望する人間」と
「他者を幸福にすることを欲望する人間」との間には大きな差がある。
そしてその差は道徳によって生まれる。そこを見落としてはならない。

351 :考える名無しさん:2006/11/14(火) 07:44:58
幸福も不幸も難題です
基準がありません参考までに
ーーーヤフー検索:生老病死とお釈迦様

352 :考える名無しさん :2006/11/14(火) 16:14:28
 おっ、坊さんのスレ発見♪

353 :考える名無しさん:2006/11/25(土) 23:12:54
>>351
>全て人間の動機は利己的なものでしかないという説明をしたがる人間は、
>道徳を嘲笑し、尚且つ極端化を好む人間。
私はそうは思わない。
「利他は利己から明確に分離できるものではなく、また利他が利己よりも先行した動機になることはない。 」
ということを認識し「動機は利己的なもので」ある・・・という結論からこそ、他者に対する「してあげる(施す)」と
いう傲慢さから開放され、謙虚になることが出来る。「利己的でしかない」のではなく「利己的である」からこその
道理として、謙虚さが必然的に身に備わるものだと思います。何を持って傲慢さを律するかという問題は、道徳
では解決できません。道徳とは、社会的規律でしかない。秩序は社会が形成する規律によって維持されるもの
であるという概念によってのみ”道徳”は有効に作用するが、本質的に形骸化したマニュアルとして機能するのが
常です。
「何故人を殺してはいけないのか?」という問題に、道徳は確かな答えを与えてはくれません。そんな道徳など糞です。

利他と利己を、そして己と他を分かつ事が出来ないということ自体に明確な答えがある。
これは道徳ではありません。”論理”ですね。それが解ってこそ、常に「殺人」に対し真摯に向き合い胸を痛める事
が出来る。道徳によって人は殺されます。道徳によって正当化された死刑に、戦地での殺人に心を痛めるのは、論
理を徹底した結果の心の理です。

「全て人間の動機は利己的なものである。」
これを正面から確り受け入れてこそ、本当の幸福への道は開かれる。誤魔化しのない厳格な幸福へと。
私は”幸福”とは、その道を歩き続ける事自体だと思っています。安穏は幸福ではない。
常に変化し、求め、苦悩し、歓喜し、感謝する。それこそ人間としての幸福なのだと思います。

ご意見ください。

354 :考える名無しさん:2006/11/25(土) 23:19:30
↑アンカー間違えました。>>350です。

355 :考える名無しさん:2006/11/26(日) 03:32:47
>>353
>「利己的である」からこその道理として、謙虚さが必然的に身に備わるものだと思います。
その「必然的道理」とやらの反証となる実例で世界は満ち満ちていると思うが?
君の言う「謙虚さ」とは「利他的でない」ということか?だとしたらトートロジーだぞ。

>何を持って傲慢さを律するかという問題は、道徳では解決できません。
謙虚さが必然的道理ならばそもそも傲慢など存し得ないはずでは?
傲慢さが律されるべきものである、と主張する根拠は?

>道徳とは、社会的規律でしかない。
「社会的規律」ゆえに「常に利己性と反する」とはいえない。
であるならば、「道徳的である」ことと「利己的である」こととは両立しうる。

>本質的に形骸化したマニュアルとして機能するのが常です。
美学とか矜持とか自分ルールとか呼ばれるような、個別的内面的主観的実存的な次元での道徳性は問題にしないのか?
社会規範によって個人の内的倫理性が惹起され涵養されることによって、道徳の実質が補完されるという事態は現に存すると思うが?

形骸化が現実に多いとして、それが道徳の頽落形態ではなく「本質」だと主張する根拠は?

>「何故人を殺してはいけないのか?」という問題に、道徳は確かな答えを与えてはくれません。そんな道徳など糞です。
不確かさが道徳に必然的だと述べる根拠は?絶対的確実的な道徳以外糞だと主張する根拠は?
「全て人間の動機は利己的なものである」ことを受容したとしても、「何故人を殺してはいけないのか?」という問の確かな答えが判るとは到底思えないが。
「俺を殺してはいけない」なら確実になるかもしれないが、このような一般性を欠いた命法は道徳とは呼べないぞ。

>利他と利己を、そして己と他を分かつ事が出来ないということ
理解不能。自他の区別が不可能で利するべき対象が不分明であるなら、そもそも「利己的に」行為すること自体が不可能。

>「全て人間の動機は利己的なものである。」
>これを正面から確り受け入れてこそ、本当の幸福への道は開かれる。誤魔化しのない厳格な幸福へと。
(デアル)から(ベキ)を、
「利己的である」という事実認識(デアル)から「利己的であるベキだ」という当為(ベキ)を導出するのは背理(自然主義的誤謬)。

356 :考える名無しさん:2006/11/26(日) 03:50:30
>他者に対する「してあげる(施す)」という傲慢さから開放され、謙虚になる
この部分が最もわからない。

「究極の倫理的高潔によって他人の不幸に見て見ぬ振りをし続ける者」と「完全な傲慢によって人々の幸福に奉仕する者」を比較するなら、
前者のほうがより理想的な人物であると、そう言いたい訳?

357 :353妖怪:2006/11/26(日) 11:31:51
>>355
>その「必然的道理」とやらの反証となる実例で世界は満ち満ちている
>>他者に対する「してあげる(施す)」という傲慢さから開放され、謙虚になる
>この部分が最もわからない。
あなたが指摘される、現代に見られる「>反証となる実例」は「利他と利己を分かつ事が出来ない」ということを認識できて
いない者が行う利己的行いであり、私の言うところの利己的行いとは構造的に違う。単なる利己的な振る舞いは論外ですが、
「利他・利己不可分」ということを認識できていない者が善行を行うとき、利他を標榜して利己的”私欲”を満たす”期待”や、物
理的でないにしろ他者からの感謝や尊敬を期待するのが常です。これは構造的な話で、「利他・利己不可分」を認識できず、
利他を”自己犠牲”だと認識している者が善行を行うときの”目的”は実のところこの利己的”身返り”への欲求から逃れられない。
これが非常に厄介なもので、利他を標榜して利己に利用する…ギブアンドテイクの押し売りなど良く見ますよね。本来ギブア
ンドテイクという論理は、善行を受けた側にのみ有効な”感謝の気持ち”から生まれるもので、社会的常識やマニュアル的
”道徳”から生まれるものではない。まして行為者の傲慢な押し付けによって強要されるものではない。行為者側のギブアンド
テイクを前提に為された善行は「おせっかい・余計なお世話・善意の押し売り」などと解されるが、これは当ってる。
こういった姿勢は「感謝や尊敬」を形骸化させてしまい本質を失わせる。感謝もしていないのにお返しをする、しなくてはならない
・・・それは形骸化ですね。それが”一般的に言う道徳”や”礼節”というものです。

358 :353妖怪:2006/11/26(日) 11:32:44
続き
>謙虚さが必然的道理ならばそもそも傲慢など存し得ないはずでは?
>傲慢さが律されるべきものである、と主張する根拠は?
道徳というマニュアルを疑い掘り下げることなく、社会的形式・礼節としてある種の”刷り込み”をされた人々は、この善の行為者が強
要する”循環”に形骸化した形式(お返し)を用いて誤魔化すことが多々ある。それで秩序を保つと言う訳ですが、これは双方ともに本
末転倒ですね。「利己・利他の不可分、自他の不可分」を認識するならば、その行いは自己完結出来ます。自己と他者を分割してし
なければ、”自己完結”と言うのも妙な話ですが(>そもそも「利己的に」行為すること自体が不可能)これは”行為者(発信者)としての
自己”を指しています。利他的でもあり同時に利己的でもあるという認識によって「ギブアンドテイクの押し売り」や「利己的”身返り”」へ
の期待から解放され、必然的「謙虚さ」を持つことが出来る。
「正義」や「利他」を標榜して戦争や死刑を正当化することもない。正当化できない苦しみを確りと味わう事が出来る。
大切なのは、その苦しみを感じる”理”とそこからうまれる”心”です。悪と善の表裏一体に気付く論理と心…そういった不条理に見える
構造も「利他・利己不可分」の論理から初めて見えてくる。そこで人が最後に出来る事…それが「謙虚である事」です。そこには傲慢さ
を律する必要性などありません。だって必然的に傲慢にはなれないのですから。”傲慢さ”とは論理誤謬の産物なんです。

359 :353妖怪:2006/11/26(日) 11:34:20
続き
>社会規範によって個人の内的倫理性が惹起され涵養されることによって、道徳の実質が補完されるという事態は現に存すると思うが?
>形骸化が現実に多いとして、それが道徳の頽落形態ではなく「本質」だと主張する根拠は?
私は全ての道徳的行いを否定しているのではありません。むしろ現在一般的に用いられている”道徳”というものを、一度剥き出しにし解
体し、本来”人”が共同体内で生きていく上で必要な”理(ことわり)”と”心”から「道徳」を再構成する必要があると言っています。
その意味でラベリングされマニュアル化し形骸化してしまった「道徳」など糞だと言う事です。

それでも「道徳」という言葉を用いるとすれば、本来「道徳」とは”理(ことわり)”と”心”から発するものだと繰り返し言いたい。
既にラベリングされたマニュアル化した”道徳”は社会的秩序という政治的規範でしかない。確かに社会的秩序を維持する為に、形
式化やマニュアル化は有効であることは認めます。ですが、私が問題にするのは、その形骸化であり「”理(ことわり)”と”心”」の欠
如に在ります。「内的倫理性が惹起され涵養され…道徳の実質が補完される」のは道徳の”解体”によって成されるものだと主張します。
翻って「道徳の実質」が形式的機能であるとするならば、現に存在します。段階としては良いでしょう。しかし、そこに安住し停滞して
はいけない。そこにある道徳は糞です。その先にある道徳を求めること自体に道徳としての価値があると思います。謂わば「道徳の解
体」によって「内的倫理性が惹起され涵養され」ることこそ既存の道徳の存在意義であると思います。

360 :353妖怪:2006/11/26(日) 11:37:40
>絶対的確実的な道徳以外糞だと主張する根拠は?
これは誤解です。私も言葉が足りない…。
絶対的確実なものなど無い。それを絶対的確実的なものと”見誤らせる”のが既存の道徳に他なりません。
ご指摘の通り「全て人間の動機は利己的なものである」ことを受容したとしても「何故人を殺してはいけないのか?」という問の確かな答
えは得られない。逆に既存の道徳はこれに絶対的確実的答えを与えようとする。そこからして間違いだと言う事です。
「確かな答えなど無い」ということを道徳で誤魔化すことなく享受する。短絡的に「だから人を殺しても良い」というではありません。
ここに確り苦悩する”心”を培う為の「道徳の解体」であり、それを必然的に導き出す「利他と利己不分割」の論理なのです。

>「利己的である」という事実認識(デアル)から「利己的であるベキだ」という当為(ベキ)を導出するのは背理(自然主義的誤謬)。
これも誤解です。「利己的であるベキだ」という事ではない。「利己的である」という構造を認識する”ベキ”だとは主張していますが。

>「究極の倫理的高潔によって他人の不幸に見て見ぬ振りをし続ける者」と「完全な傲慢によって人々の幸福に奉仕する者」を比較するなら、
>前者のほうがより理想的な人物であると、そう言いたい訳?
「究極の倫理的高潔」を持ちえたのならば、「他人の不幸に見て見ぬ振りをし続ける者」にはなりえませんよねw少なくとも私の論理からは
真逆の結論です。「完全な傲慢によって人々の幸福に奉仕する者」のに潜む問題を提示しています。ここまで読んでいれば説明は要りませんね。
言ってみれば「究極の倫理的高潔によって人々の幸福に奉仕する者」こそ理想でしょうね。

長々と同じことを繰り返し言っているようですが、この論理は多側面から言及すべき事だと思いますので、必然的にくどくなってしまいますw
根本的に「自己とは何か」「幸福とは何か」ということをすっ飛ばして語っていますので、解りにくいところも多々あると思います。
これについては>>167から>>318で悪魔さんとのやり取りの中で少し触れています。興味があれば参照してみてください。
断定的な物言いをしている箇所もありますが、議論の余地を排除する意図はありませんので了解の程…言論ですからね。

ご意見お待ちしています。

361 :考える名無しさん:2006/11/26(日) 16:25:47
アゲ

362 :考える名無しさん:2006/11/27(月) 10:13:43
ぬらりひょん的長文だなW
でもまあ言ってる事はまともだ。
>>355の抗弁に期待。


363 :考える名無しさん:2006/11/29(水) 06:41:01
>>355まだあ?

364 :考える名無しさん:2006/11/29(水) 08:45:17
さすが哲学板だな!あげ

365 :考える名無しさん:2006/11/29(水) 15:15:59
妖怪氏と>>355に根本的な大きな隔たりは無いように思うな。
強いて言えば>>355は道徳という言葉に呪縛されているのに対して、
妖怪氏はそれから解放され、道徳というものを俯瞰して見ているということか。
いずれにしても>>355なら行き着くところは同じだろう。妖怪氏は一歩先んじているだけ。

と通りすがりに思った。

366 :妖怪 ◆MWwfLbUq6g :2006/11/29(水) 21:41:28
あれ?こんなに受け入れられるとは意外。

>>355に限らず誰でも良いので鋭い突っ込みゴンゴン入れて下さい。
反論によってはじめて見えてくるものに期待。だから2chで言論。

肯定派だけでは寂しいw

367 :考える名無しさん:2006/11/30(木) 17:51:12
>>365
逆に妖怪は善行という言葉に呪縛されているようにみえるな。
妖怪氏の理屈は結局、克己心と善への意志に満ち溢れた人物にのみ妥当する「強者の道徳論」にすぎんよ。

エライ人が語る道徳的リソウに尊崇の念を感じながらも元来の自堕落な生活を止められない自分に苦悩する意志薄弱者、つまり大部分のフツ〜の人々や
子供・老人・身障者等、善意の他者の手助けなしには全く生きられない絶対的弱者や
「他人に迷惑?そんなもん関係ねーよwww」と嘯くDQN的蒙昧
が視角から零れ落ちている。

368 :妖怪 ◆MWwfLbUq6g :2006/11/30(木) 22:53:05
>>367
>結局、克己心と善への意志に満ち溢れた人物にのみ妥当する「強者の道徳論」にすぎんよ。
良い指摘ですね。確かにそうですね。いえ、強者であればこそ…強者ならばこそ精神的・知的・
身体的・社会的弱者に対して、こういった姿勢が、認識が必要なのだと思います。
強者の驕りで被害を被るのは弱者なわけですからね。逆に弱者には意外に”見えているもの”
だったりするのかもしれません。強者には「善」のベールで見えない。

では弱者はどうするべきなのか?どうする”べき”だと主張する”べき”なのか?
…奢らぬ強者についてくべき…?それを見分けるには?(…弱者には見えてるといったじゃないかい…)
…うーん。

369 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 19:52:04
安芸

370 :無なさん:2007/01/01(月) 18:58:37
幸福とは適応。幸福度とは適応度。

もうこれが結論だ。
世の中は北から南まで、一角も余さずに幸福で溢れている。
人間がそれを実感出来ないのは、それに気付かないかそれを受け入れられないから。
仕事が楽しい、スポーツが楽しい、勉強が楽しい、
パソコンが使えて嬉しい、親が揃っていて嬉しい、病気でなくて嬉しい、
そんな風に何でもない事を肯定出来る人間だけが、幸福を得続ける事が出来る。
逆に「低学歴は駄目、不細工は駄目、田舎者は駄目」等と世の中を厳しい目で見てしまうと、
その否定要素の内自分に当て嵌まる要素で自己否定をしなければならなくなる。
世の中の全て、例え自分にとって危害のあるものに対しても愛を抱ければ、それが完成された幸福だ。

テレビゲーム、野球、タバコ等々、ある物事に対し「そんなものの何が楽しいんだ?」とか言う奴はその楽しさを味わえない。食べられない。
物事を楽しめない事こそが人間の不幸。

371 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 09:40:36
>>370
ならば逆も然りだね。
不幸とは不適応。不幸度とは不適応度。
世の中は北から南まで、一角も余さずに不幸で溢れている。
人間がそれを実感しないのは、それに気付かないかそれを受け入れられないから。
仕事が苦しい、スポーツが苦しい、勉強が苦しい、
パソコンが使えなくて苦しい、親が揃っていなくて苦しい、病気で苦しい、
そんな風に何でもない事を否定する人間だけが、不幸を得続ける。
逆に「低学歴でも良い、不細工でも良い、田舎者でも良い」等と世の中を楽観視すれば、
それを肯定要素にし、自分に当て嵌まる要素で自己肯定できるようになる。
世の中の全て、例え自分にとって利益のあるものに対しても憎悪を抱けば、それが完成された不幸だ。

物事を楽しむ事こそが人間の幸福。

この程度ならまだ納得できてしまう…しかし、こういう論理は極論をぶつけてみると破綻する。
最後の「物事」に殺人・戦争・自殺・飢餓・貧困・孤独・虐待等を当て嵌めてみる。
そこで違和感を感じるとすれば、この論理は破綻している事になる。
殺人鬼にしてみれば「殺人を楽しむ事こそが人間の幸福。」と言う論理が成立する。
戦時中であれば「戦争を楽しむ事こそが人間の幸福。」とも言えてしまう。
危険な思想だね。
単純で善良な思想の「危険性」がそこに潜むことに留意しなければならない。

「適応」は常に二項対立の中にある。ならば「幸福」とは選択でもあるわけだ。
その選択の根拠となるものを抽出し、吟味しなければならない。
「幸福感」というものは曖昧で流動的なものだ。一つの形式論理の枠に収まるものではない。
だから「幸福」に限らず、物事を定義付ける時に最も重要な事は常に疑い続けることである。
言ってみれば常にその結論は暫定的であるという認識が必要だということだ。
善悪の信念が社会システムの内で重要な役割を担っていることも事実ではある。
しかし、その信念は常に諸刃の刃である事に留意しなければならない。

372 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 09:51:28
>>371
殺人鬼にしてみれば「殺人を楽しむ事こそが人間の幸福。」と言う論理が成立する。
戦時中であれば「戦争を楽しむ事こそが人間の幸福。」とも言えてしまう。
危険な思想だね。


どこが危険な思想なの?本人が幸せなら問題は無い。


373 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 10:33:43
それが危険だと言ってる。
ここで言う危険性とは”社会システムの秩序”を根拠に言っている。
社会とは勿論閉鎖的なものではありえない。個人単位、国家単位では考えられないものだ。
私達人間というものが、そういうシステム内に否応なく存在しているということを認識せねばね。
幸福感というものも、そのシステム内でのみ有効な概念であるという前提が理解できなければ、
社会システムによる抑圧は余儀なくされてしまう。それでも良いという異端的な思想は危険だと
いう事だ。本人が幸せならば問題ないというのは問題を隠蔽しているだけだよ。
根本的に人間の存在というものを理解していない奴の論理だ。
人間は、如何なる場合も社会システムから逃れる事は出来ない。それは、無人島で独りで生き
ていく上でも同じだ。システムとは環境なんだ。自己を含めた環境システム。

閉鎖的で絶対的な思想というものは、システムによって確実に抑圧若しくは排除される。
それでも良いというのならば、もともと「幸福」とは何か?という問いを発する必要も必然性も無い。
論理的にパラドックスでもある。単に快感原則を幸福感と呼ぶのならば、「幸福」を問う必要など無い。
あなたが本当に「危険」だと思わないのならば、幸福を問う必要など何もない。
解らない人も居る。それ自体がシステムでもある。私がそれを指摘するのもシステムだ。
そういう対立こそシステムなんです。>>372で問うこと自体、あなたはその信憑を疑っている。
それで良いと思う。立ち止まらずに問い続けて欲しい。

374 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 11:24:37
幸福って極めて主観的でいい加減で比較相対的で揺らいでいる
感覚だから、こんなもんを基準に思想を築いても、普遍性の低い
駄目な思想にしかならないと思うよ。
幸福なんかを生きる基準にすべきじゃないし、むやみに追求すべき
じゃない。幸福は受動的で消極的な観念であって、このような
消極的観念を自分から追い求めていけば不満だらけの不幸者になる。

375 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 13:58:14
>>373
貴方の幸福に対する理論は理解しました
それとある意味 貴方は幸福だと言う事もねw

376 :易鬼 ◆T.b0x.251g :2007/01/02(火) 15:16:50
●手帳の構造・使用法と、人生の価値変化について●
http://that4.2ch.net/test/read.cgi/stationery/1167529803/

文具版に上のスレッドを立てたものですが、手帳の理想的な使用法の
探求を中心に、人生の価値やそれの向上といった点について捉え直す
趣旨です。
ぜひこの人生論スレのみなさんのお知恵を拝借したく、書かせて頂きました。
よろしくお願いします。

377 :考える名無しさん:2007/01/02(火) 17:41:57
>>375
何を理解したって言うんだか…。
他者に対してあんたはある意味幸福だなんてことが、まったく無意味な指
摘だということも分からんで悦に入るな。だから駄目なんだおまえは。

378 :考える名無しさん:2007/01/03(水) 05:16:48
幸せは "自分に足りないものが満たされたとき" に起こるよ。たぶんね。

379 :考える名無しさん:2007/01/03(水) 11:57:18
アゲ

380 :考える名無しさん:2007/01/10(水) 01:21:36
こういうことについて詳しく語った哲学者って誰かいるんかな?



381 :考える名無しさん:2007/01/10(水) 01:47:01
幸福は言葉にすぎない
そんなものはどこにもない
ナイものを探すアホは泣きを見る


382 :考える名無しさん:2007/01/10(水) 22:45:20
哲学者気になる

383 :考える名無しさん:2007/01/12(金) 11:41:28
age

384 :考える名無しさん:2007/01/12(金) 21:40:15
>>380
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

385 :考える名無しさん:2007/01/13(土) 23:24:00
>>>384
ありがとうございます!!

386 :考える名無しさん:2007/01/14(日) 00:46:26
暖かくなくちゃ 幸福じゃない!

387 :考える名無しさん:2007/01/14(日) 11:02:24
これだけは言える・・ 「幸せでなきゃ、幸福じゃない !!」

388 :考える名無しさん:2007/01/16(火) 14:28:05
怖い程の幸せ感、あ〜 このまヽ永遠に時よ止まれ!

一回でよいから、こんな幸福感味わってみたいよ〜

389 :考える名無しさん:2007/01/21(日) 16:49:11
「幸せって何ですか?」と質問すると十人十色の答えが返ってくる。
つまり客観的に判断出来ないって事。
だから主観で判断するしかない。

390 :考える名無しさん:2007/01/21(日) 16:57:42
だから足りないものを満たせば幸せになるんだよ。
満たしたら他の足りない部分が新しく出来るからまたそこを満たすんだよ。
途切れ途切れに幸せになって行こうねー。

391 :考える名無しさん:2007/01/21(日) 17:42:38
快眠快食快便! これが一番のしあわせ。

392 :考える名無しさん:2007/01/21(日) 17:43:25
快眠快食快便! これが一番のしあわせ。

393 :考える名無しさん:2007/01/22(月) 00:56:13
やっぱり愛だね!
どんなのでもいいけど、愛があると幸福だよね。

394 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 08:22:08
愛はほかの何処かにあって私のそばには見当たりません。
それを幸福と呼べとおっしゃってるんでしょうか?

395 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 08:35:10
やっぱり金じゃね?
確かに愛は素晴らしいけど金が無いと生活出来ないもん。

396 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 08:41:28
政府が転覆され通貨が交代して以前の金が使えなくなったり
ハイパーインフレが到来したら金は物以下になりますよね !? 

397 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 11:31:42
>>394
愛は受け取ることを期待していても分りません。与えるものです。
といってもそれだけでも分りません。
まず、静かなところでじっとしていてください、自然の中でもいいです。

そこで、身の回りのわずらわしい事を一時忘れてください。
しばらくしていると、自分の存在が感じられます。さらに何か自分がしてみたい考えが浮かんで
きます。その中で最もしたいことを探します。最もしたいこと、それは極人間的なことに気付く
でしょう。(一見そうではなくても根本的なことはそうであることが気付きます)

人のために何かをしたいという感情が湧き上がってくるのです。
(まず身の回りにいる人に対してそう思います)
つまり、それが「愛」です。
自分に愛があるということです。自分は愛だったのです。

幸福は自分が感じられることです。




398 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 12:20:50
>>395
その通りだけど。
貨幣制度は人間がつくった社会システムだ。愛は宇宙そのものだから、お金を愛より上位
に持ってくると幸福はどんどん遠ざかっていくよ。
多くの人間は気付かないでいるから、犯罪が多いし、社会がよくならないんだね。

貨幣制度を基礎にした社会システムは現代では古いシステムになっているわけだ!


399 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 12:34:00
>>397-398

 






  去年おまいら、だれにどんな愛を注いだんだ ? ? ? ???














400 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 12:47:26
彼女ほしい

401 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 13:28:11
現実感・充実感が欲しい。

402 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 14:41:00
仕事してみ
とにかく疲れるという現実感があると思うから
とにかく疲れたあと、飯食ってみ
とにかくおなか一杯になったという充実感があると思うから

403 :考える名無しさん:2007/01/27(土) 14:52:24
せっかくの休みなのにひとり。年齢的に同性と遊ぶ年でもなしつまんねえ。ここまでくると本当将来ひとり覚悟したほうがいいな。何が幸福だ。糞くらえだ

404 :考える名無しさん:2007/01/28(日) 01:44:31
>402
働きたくないよー('A`)

405 :考える名無しさん:2007/01/28(日) 09:55:22
>>404
働いてから言え!

406 :考える名無しさん:2007/01/28(日) 10:08:16
いや一人のほうが幸せだから

407 :考える名無しさん:2007/02/05(月) 18:55:58
物質的豊かさの極まった日本だからこそ、心的欠乏感にさいなまれるのか・・・

408 :考える名無しさん:2007/02/06(火) 02:00:42
日本は幸せすぎる。

409 :考える名無しさん:2007/02/06(火) 05:08:14
アニータの何が悪いのか全くわからん。男をおだてて持ち上げて勘違いさせて金を
出させる女なんて世の中にゴロゴロいる。その額が10万だろうが8億だろうが変わら
ん。横領の共犯として捕まってない以上アニータに非は全くない。勘違いして横領しち
ゃった日本の中年男が馬鹿なだけ。




410 :龍宮:2007/02/11(日) 08:09:41
幸福は生活の安定と絶えることのない環境の変化を受けているものにある。

411 :オタマジャクシ:2007/02/11(日) 11:12:41
ぼくもそう思う。
幸福とは世の中の様々な連鎖の中で生ずる調和の事だと思う。
変性的でないものは幸福には繋がらないと思う。

412 :考える名無しさん:2007/02/11(日) 12:07:18
>>410「生活の安定と環境の変化」とはどういうことか?
>>411「調和」とはどういうことか?

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