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存在と時間

1 :パンパース:04/11/29 21:43:39
「・・・・・・トイウノハ、君タチガ「存在スル」トイウ言葉ヲ使ウトキ
イッタイ君タチハ何を意味スルツモリナノカ、・・・以前ニハソレヲワカッテイルト
信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ・・・・・・」原書1
と言う訳で、存在の意味を探求する旅へ出発。

2 :考える名無しさん:04/11/29 21:46:29
sine

omaedaikkirai

3 :考える名無しさん:04/11/29 21:49:03
ふざけてたてたスレかと思った。
ここは読書スレ?

4 :考える名無しさん:04/11/29 22:18:09
いいえ糞スレですよーだ。

5 :考える名無しさん:04/11/29 22:24:09
参考

 《   マルティン・ハイデガー   》 
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1099402160/l50


6 :考える名無しさん:04/11/29 22:55:44
お?チンポスレの続きかな?

7 :パンパース:04/11/30 00:08:36
>>3
読書スレです。宜しく〜
>>5
参考貼ってくれてありがとう
>>6
ちんぽさん、元気してるのかな


8 :パンパース:04/11/30 00:12:16
>>2
2ゲットとかにしてほしかった・・・

9 :パンパース:04/11/30 00:49:25
まず、今の時点のおさらいでも、書いとくかな
「存在(有る)は、存在者ではない」って言うのは短いけどかなり重要なことのようですね。
存在が「存在論的」で、存在者が「存在的」とハイデガーはハッキリ分けてるようです。
ハイデガーの言う目的とは
私(人)が何であるか(存在的?)ではなくて、私(人)にとってあるとは何か(存在論的?)を見出すことである。
結構微妙なニュアンスだけど、私が感じたことは、私が何であるかと問いつめると
なんか、自分が回りと孤立してガチガチなって、究極に行けばデカルトの我思う我有りに到達するような。
私にとってあるとは何かだと、世界であったり、恋人であったり、私であったりと
それなりに答えることができ、じゃ、私にとってそもそも(世界・恋人・私)があるとはどうゆうことか?
と、決して自分自身が孤立しないで広がりをもつようなきがしました。

10 :考える名無しさん:04/11/30 03:48:39
バか?

11 :パンパース:04/11/30 23:09:13
>>10
バかではない、アホやねん!

12 :パンパース:04/11/30 23:49:49
原書4ページで「存在」は存在者といったようではない
ということは自分なりには理解した。 
だが、この文に対してハイデガーの自家用本の欄外注記では、「いや、そうではない!
むしろ<奥深い存在{Seyn}>については、このような、{存在と存在者との区別と
いったような}概念的な道具立ての助けによっては、決着をつけることができない」と記されてる。
そうなると、きりがないやんハイデガー先生
奥深い存在(Seyn)があるんなら、あなたが行きつけなかったもっと、もっと奥深い
事ものもあるかもしれないってことですかね

13 :パンパース:04/11/30 23:55:50
つか、奥深い存在{Seyn}って何なんだ

14 :パンパース:04/12/01 00:47:11
存在(存在論的)の意味を探る為に、ある存在者(存在的)を分析するってことから、始めるのか。
それが、現存在(私達かな?)
存在の意味(問い)を漠然と了解できるのは、私達だけ、とハイデガーは言う
だから、私達の分析から始る。
うん、何か、ハイデガーに言いくるまれてる感じだが、否定もできない。
そのまま、進もう。

15 :パンパース:04/12/02 00:51:26
第4節
この節で現存在の「存在」を実存と名づけ、又実存的、実存論的と2つの構造を
作った訳か。存在的、存在論的より範囲を現存在に絞った語ということかな。
それと、「前存在論」って言葉がこの節で出てくるけど、過去の存在論のことを言ってるのかな?
デカルト・カント・ヘーゲルあたりの存在論をいってるのか。
そしてこの存在論は、ハイデガーから言わしたら存在的・実存的であって、存在論的・実存論的では
ないと言っているのか。

16 :パンパース:04/12/02 18:46:18
第5節
どうも、存在的と存在論的は同時進行してるらしい。一つの現象を見る視点を変えると
存在的から、存在論的に見える(感じる)ってことかあ。
しかし、現存在にとって、存在的には最も身近なものだが、存在論的には最も遠いらしい。
現存在のノーマル的な世界のとらえ方も存在的であり、いわば自分の体以外のすべてが、「世界」であり
私以外であり、逆に言えばその「世界」以外が私と、自分自身を、自分以外から理解しているってことか。
そうではなく、自分自身から私を理解する為に存在論的視点で理解する為には、世界内存在とか、
最も身近な日常的な現存在を存在論的視点で見た場合どうなるかをハイデガーは分析しようとしているようだ。

17 :パンパース:04/12/02 19:27:39
それと、この節で時間についてさらっと、書いてあるんですね。実は第40節まで
チンプンカンプンで読んでたんですが、時間についてなど忘れるくらい、存在オンリーですねハイデガーは、第40節まで。
マイケル・ゲルヴエン註解買ったし、自分のスレ立てたことだし、最初から読みなおしてます。
しかし、読み返すと新しい発見がかなりあるものですね。同じ文しか書いてないのに。

18 :ポール:04/12/02 23:33:40
>パンパースさん
新スレおめでとうございます。
僕もこの期に読み返します。お互い最後までがんばりましょう。
ぼちぼち末永くよろしくお願いします。

といいつつ、今日もあまり書き込み出来ませんが、一つだけ。
存在的、存在論的の区別は重要なようですね。僕も未だ、「存在者」ではない「存在」、
「存在的」でない「存在論的」、がいまいちはっきりしません。
細谷訳の注(11)では、

  1.存在的     :存在者の属性や関係などを主題とする実証的な認識態度
  2.存在論的   :存在者の存在を主題とする認識態度

また、「前=存在論的」とは、「存在的認識態度においても、その存在者が存在していることが
全体的に了解されているのであるから、存在的態度も──潜在的な意味で──存在論的である」
と述べられています。つまり、時間的な「前」ではなく、すでに潜在的に「前もって」我々は
存在者の存在を了解している故に「前=存在論的」と呼ぶようです。

19 :ポール:04/12/02 23:34:28
たしかライプニッツ(アインシュタイン?)だったと思いますが、

  「『世界がいかにあるか』が不思議なのではなく、『世界があること自体』が不思議なのである」

といった有名な言葉を残しています。
これほど、「存在的」「存在論的」の違いを簡潔に述べた言葉はないと思われます。
科学とは、「世界がいかにあるか」という、存在者の属性や関係性を問います。
でもハイデガーは、それら科学が前提として問わない「あること自体」を問います。
科学だけでなく、普段の僕らの生活においても、「果たして、目の前のトンカツは
本当に存在しているのだろうか?」などと問う馬鹿はいません。
トンカツが存在していることは当然として、存在的な態度でトンカツに接しています。
ですが、日常生活において馬鹿馬鹿しい問いでも、よく考えてみれば、トンカツが
存在していることは不思議なことです。

20 :ポール:04/12/02 23:36:43
「このトンカツの素材は何か? どういった性質をもっているか?」といった存在的態度でなく、
「果たしてこのトンカツがあるとはどういうことか」といった存在論的態度こそハイデガーが
問うている領域だと思われます。科学はこの、「トンカツがある」という現象を、
「トンカツから反射した光が網膜に到達し、視神経を通り脳を・・・」といった説明をするでしょうが
これは存在的な領域での説明ですね。

これが科学と哲学はそれぞれ、「存在的」「存在論的」領域を持ち、
それらは別の領域であって混同すべきではない、ということだと思われます。

21 :ポール:04/12/02 23:39:58
すみません。ageてしまいました。

とまれ、存在者の性質やそれら同士の関係を解明を目的とするのではなく、
「存在者があること自体」の不可思議さを実感することは、ハイデガーを理解する上で
重要ですね。僕も一緒に考えていきます。

22 :考える名無しさん:04/12/03 00:07:40
>>19
>たしかライプニッツ(アインシュタイン?)だったと思いますが、
> 「『世界がいかにあるか』が不思議なのではなく、『世界があること自体』が不思議なのである」

それはヴィト『論考』6・44の命題だ。


23 :考える名無しさん:04/12/03 00:20:55
>>15
>それと、「前存在論」って言葉がこの節で出てくるけど、過去の存在論のことを言ってるのかな?
>デカルト・カント・ヘーゲルあたりの存在論をいってるのか。

文章よく読め。

「ここで「存在論的に存在する」と言ったのは、まだ、「存在論を形成する」と言う意味ではない。
だから、存在論という名称を、存在者の存在へ向けられたあからさまに理論的な問いを表す
ための言葉として保留しておくとすれば、ここで言おうとした現存在の存在論的存在は、
前=存在論的な存在と呼ぶべきものである。けれどもそれは、ただ単純に存在者として存在する
というのと同じではなく、存在をなんらか形で了解するという仕方で存在するということを
意味しているのである。」(細谷訳)

カントだのヘーゲルだのということではなく、きっちり存在論を形成しているわけではないが
それでも何らかの形で存在ということを了解している普通の人間の存在の仕方だろ。

24 :パンパース:04/12/03 18:11:18
>>18
ポールさん、ボチボチがんばりましょう。
>>23
何となく、前=存在論の意味が解りました、ありがとう。

25 :パンパース:04/12/03 18:26:37
第6節
この辺に出てくる語として、存在時性(テンポラリテート)、存在そのものに与えられた時間性ですか。
未完に終わることで、完璧な展開を見せなかったとは非常に残念ですね。

26 :パンパース:04/12/04 11:08:47
第7節A
私は、現象学の知識がないので辛い所ですね。
現象学とは、結局存在者自身をあからさまに見る学なのか、一歩先行って存在の意味を
探る学なのか?
例えば現象学でとんかつを見た場合、どうなるんだろ?
これは、「肉をころもで揚げたものである」になるのか、「もともとは豚という生き物である」になるのか
「とんかつの意味とは何々である」になるのかどれにあたるのだろう?
註解によれば、ハイデガーの現象学は「解釈学的現象学」らしいですね、どんなものかわかりませんが。

27 :パンパース:04/12/04 11:34:11
第7節B
ロゴスとは、語りによって或るものを見えるようにさせるということで、いいでしょうか。
ハイデガーの語りによって、私達は或るものを見せられてるって感じか。

28 :パンパース:04/12/04 13:15:15
第7節C
「現象学は、存在者の存在についての学-存在論でる。」原書P37
なるほど、ハイデガーからすれば存在(有る)を探ることを現象学としているのか。
となると、「とんかつが在るということは、何々である。」ってことを探る感じかな。
あと「哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象的存在論なのであって、現存在の解釈学は
実存の分析論として、〜」原書P38
なるほど、ハイデガーは存在の意味を探求するために、現存在の実存的、実存論的分析から始めていくから
「解釈学的現象学」といわれるのか。

29 :パンパース:04/12/04 13:30:04
[6]注解(中公クラシックス版)で出てくる語「エルアイグニクス」ってなんとも
魅力的な言葉ですね。ハイデガーの「「ヒューマニズム」について」で詳述されているらしい。

30 :パンパース:04/12/04 14:45:38
第8節
[1]注解 「著者の自家用本の欄外注記には、本文個所の「現存在」に対して、「[それは]
本来的には、現[という存在の開けた場所]のなかに<真剣な思いをもって立ち続けること>
の完遂[にほかならない]」と、記されている。」
これは、どう考えればいいのか?いわゆる、瞑想などをして、悟りのようなものを開いてしか
感じることが出来ない領域のことを言っているのか。



31 :パンパース:04/12/04 18:08:49
「範疇と違って実存論的カテゴリーは、自己の外なる事物にではなく自己に適用される
ものであるからこれを理性のふるいにかけてる方法、またはその分析の過程というものは、
解釈学的現象学とも言うべき内面的、自己省察的な行為であらざるを得ない。」マイケル・ゲルヴエン註解P115

なるほど、自己以外の事物的な物であれば、現象学が通用するが、自己自身となると
解釈学的現象学にならざるを得ないってことか。
ということは、「とんかつ」は事物的な物であるからどこまで行っても、とんかつは「とんかつ」でいいわけかな。


32 :パンパース:04/12/05 11:28:51
第9節
まず、現存在は事物的存在者の類などではなく、きっちり分けないといけないということか。
いわばこの世界には、事物的存在者と現存在の2種類しかいないということか。(ここでは、まだ道具的存在者にはふれてませんね。)
そして、日常的平均性で日々生活している、現存在の非本来性、本来性の状態を暴露したり
(ここで、注意しなくてはいけないのはハイデガーは非本来性がダメで、本来性がよいと
しているのではなく、どちらの状態も現存在であると言っていることか)
そして最も、私達に身近な日常的平均性の生活を、存在的な視線で見た場合と、存在論的な視線で見た場合では
どうなるかを、実存論的存在論として分析して行こうってことかな。


33 :パンパース:04/12/05 18:14:39
第10節
デカルトの「我思考ス、我存在ス」
このことで確かに私達は何らかのかたちで存在するのは解ったが、存在論的には論究
されなかったってことか。
それから、過去の人間の定義として「ロゴスをもつ動物」、「理性的生物」と解釈されることは、
ハイデガーに従うと、動物、生物は事物的存在であるから、「ロゴスをもつ事物的存在、理性的事物的存在と人間を定義
することになってしまう。ハイデガーは第9節で事物的存在と、現存在(人間)をきっちり分けると
しているから、曖昧なことになってしまう。
伝統的哲学は、人間と事物的存在とを同じ意味にとらえて曖昧になっているとハイデガーは言ってるようだ。
「私は私の在ることを知っている。さて問題は、私が在ることを知っているという、このことは何を意味するのか?」Mゲルヴェン註解P118
うーん、何を意味するんでしょうね?

34 :パンパース:04/12/05 18:44:46
第11節
現存在を分析する為に、未開の現存在をたずねて見ればどうなるか、ということか。
ブッシュマン(古w)を分析して、何かを導き出せないかということか。
しかし、存在者としては分析できるが、「存在」としては、ブッシュマンでも高度に発展した
文化で生活している現存在も同じってことか。
11節後半、世界について少しふれてますね、世界内存在の予告か。
9節〜11節は実存論的分析論の説明で、やっと次の12節から実際の分析が始るのか。
ふー、飛ばしすぎた。今後マッタリいこかな。

35 :考える名無しさん:04/12/05 23:38:04
ゆっくりまったりがんばりましょ

36 :パンパース:04/12/06 08:22:12
Mゲルヴェンよると、世界は存在論的に見ればア・プリオリになり、存在的に見れば
経験により発見されるのでア・プリオリにならないらしい。
この辺を意識して、以下の節を読んでみようと思います。

37 :考える名無しさん:04/12/06 11:51:48
Mゲルヴェンからの長めの引用きぼんぬ!
何卒宜しくおながいします。

38 :パンパース:04/12/06 20:20:42
>>37
了解
世界の内に在ること[第一二節・第一三節]
この分析論にあらわれる最初のア・プリオリな実存的カテゴリーは世界−内−存在、
あるいはむしろ世界の内に在ることである。ハイデッガーが実存論的カテゴリーの一般的
な特色を扱っている第二章はかなり短いものではあるが、その重要性を見損なってはならない。
ハイデッガーが分析する一連の実存論的カテゴリーのなかで最初のものが世界−内−存在
である。ハイデッガーは実存論的な概念のうちでも最も広いものから始める。

39 :パンパース:04/12/06 20:25:11
つまり、私自身が何物かの内に在るのに気付くという単純なる事実―それが世界である。しかしながらこの「世界」という言葉は、
ここでは必ずしも、一個の天体又は球としての地球が無限の宇宙を永遠にへめぐっているといった、
近代の科学者の見るような世界のことを意味していない。その実存論的な意味での「世界」はむしろ、
世界の果てとは村や領地の果てのことであるような、未開人の心にさえも見られるような自己反省的な意識の内にあるものなのである。
これは実存に関する概念の内でも最も漠としたものである。つまりそれは、自己の居る場所というほどのことなのである。
ハイデッガーの第一歩は、いかにして現存在に世界がその意味を表わしうるかを、可能なかぎり広義の意味で考えるということであった。


40 :パンパース:04/12/06 20:27:54
そこから彼は、世界の内に見出されるもの、すなわち世界内部の事物、世界内部の他の現存在、そしてついには世界内部における自己という方向に沿って周到に分析論をすすめていくのである。
まず彼は世界の内における自己なるものに到達する。(これをハイデッガーは、Da[ここ]
−seinという語源にもとづいて、世界の内における「ここ」の自覚と呼ぶ。)
そして最後にハデッガーは、現存在自身の独自な実存の仕方をもっとも赤裸に表す実存論的カテゴリーである配慮というものをあばいて見せるのである。
世界−内―存在という、すべての内でもっとも一般的な実存論的カテゴリーから、配慮というもっとも独自のものへと歩みを進めるなかで、ハイデッガーは実存論カテゴリーの基本的な構造を示してきた。
しかしいずれにしても、この章が明らかな出発点であることは疑い得ない。なぜかといって、いかにして世界が現存在にその姿を表すかということ以外に、一体どこから始めうるであろうか?


41 :パンパース:04/12/06 20:34:28
基本的に言って、ハイデッガーはこの章で二つの課題に取り組んでいる。
(一)世界−の内に−在ることの意味の存在論的意義を描写すること、
(二)その実存論的カテゴリーが真実ア・プリオリなものであることを示し、
またこの先天性がひきおこすものは何かということを示すこと―この二つである。
(一)ここで、ハイデッガーが主として強調しているのは、世界―内―存在は存在的にではなく
存在論的に見られなくてはならないということである。このことをしめすために、ハイデッガーは
「の内に」という前置詞に集中しているこの言葉の意義を強調する。
世界―の内にという言葉が存在的には、ア・プリオリな意味を持たないことは確かである
なぜならば存在的には、世界は経験によって発見されるものなのであるから。
これにひきかえハイデッガーが存在論的な意味で「の内に」と言うときには、
それは我々が世界に対して抱いている親しさの感情を支えているもの、
世界を「我が家」となしているもののことである。したがって、科学的に言えば
私が地球なる天体(世界)にいることはア・プリオリではなくて、ただ経験によってのみ
知られることなのだけれども、一方現存在として、
私が住み、宿り、我が家と呼ぶべき世界を持たねばならぬということは
ア・プリオリなのである。それでは、この「内に在ること」とは、単なる
物理的な時空の位置づけでないとすれば、どのような意味なのだろうか?


42 :パンパース:04/12/06 20:37:14
ハイデッガーが存在論的な意味で「内―存在」と言っているのは、我々がかかわり、気づかい、関心を抱くべき物を所有することができるというア・プリオリな「能力」のことである。
この実存論的カテゴリーにひめられた真の意味は、私を取り巻くもの(Umwelt―環境世界)
はただそこにあるのではなく、それが私に働きかけ、私がまたそれらに働きかけるのだ、ということである。
私は、自分自身を単なる時空の内に所在点として在るものと見ることはできない。
したがって、そうした所在を規定しうるだけのいわゆるカテゴリーでは、私の「世界の―内に―在ること」は
説明しつくせないのである。その上さらにいかにして私が我が家にいるように感じたりよそよそしく感じたり
しうるかのア・プリオリな説明が要るのである。
ただ、ここで一つ明確になったのは、今や現存在の分析がどこから始まらねばならぬ
かが解ったということである。つまり、我々がア・プリオリにその「内に」居るこの「世界」とは何か?
というからである。 
Mゲルヴェン P119〜P127抜粋



43 :パンパース:04/12/06 21:05:18
と、言うことで何とかこの、実存論的カテゴリーの広義である「世界をア・プリオリと見る」と言う感覚を実感しなければ
と思っております。

44 :パンパース:04/12/07 19:47:52
第12節
世界を事物的存在の集まりと見ることを範疇的と名づける存在論的性格であり
現存在にふさわしくない存在者の存在者様式。
私達が普段感じている世界とは正にこんな感じだ。ただ、私達(現存在)がいなくても同じようにこんな感じの世界なのだろうか?ていうか何で私達は自分以外の者(事物的存在者)を知り得ることが出きるんだろう?
そりゃ、私達が犬や石では、ないからさ。
そうだよなぁ、まさか犬や石が地球という球の上に住んでいてグルグル回ってるなんて知ることもなく日々おくってるんだろな。
しかし、私達は何で地球がグルグル回ってるの知っているんだ?
そりゃ科学で習っただろ、アホかお前。
そんなこと解ってるが、俺が言っているのは、何で私達は科学を理解出きるんだ?
そうゆう、能力が備わってるのさ、私達だけに。
何で、私達だけにそんな能力が備わってるのさ?
うーん、そう言われて見ればそうだな、私達にはなんか世界認識出きるア・プリオリみたいなものが備わってるんじゃないかな。
「哲学の謎」 矢野 茂樹風にやってみました。


45 :パンパース:04/12/07 21:58:21
>>44
とこのような、混乱が起こらないように、私達(現存在)は内存在という実存範疇(実存カテゴリー)
の存在様式上で行動するのであって、範疇的な存在様式(事物的存在者)とはきっちり分けようと、
ハイデガーはしたのか。
第9節で「世界には、事物的存在者と現存在の2種類しかいない」という感じのことを書いてたな。
もう少しつっこんで言えば、現存在は事物的存在者になりたくてもなれないってことかな。
そうなると、物質、生物の延長上の頂点に人間(現存在)が位置するという考え方を捨てるしかない。
ハイデガーの思想が正しいのであれば。


46 :パンパース:04/12/07 22:43:32
「われわれがふたたび選ぼうとする方途は、言語上では同一の手段でもって表現されはするものの、
存在論的には本質上別の存在関係 ― 言いかえれば、範疇的存在関係に対する対象をめだたせるという方途である。」原書P55
これは、範疇的存在関係ではなく実存範疇的存在関係では、世界がどう見えるかということを言っているのか?
そうなると、範疇的存在関係にある空間 「教室の内にある椅子、大学の内にある教室、都市の内にある大学等々といったふうに
拡大されて、「世界空間の内」にある椅子にまでいたる。」原書P54
これを、実存範疇的存在関係で見た場合どうゆうふうに見えるんだろう?



47 :考える名無しさん:04/12/08 01:34:29
>>38-42
ネ申!
早速抜きマスタ…じゃなくて読ませていただきました。
どうもありがとうございました。

48 :考える名無しさん:04/12/08 11:04:52
パンパースさんよ、ばっちり拝読してっからな。

49 :考える名無しさん:04/12/08 18:22:30
おうよ、ご覧じあれ。

50 :考える名無しさん:04/12/08 18:53:45
おい、48と49よ、拝読してご覧になってるだけじゃのおて、
ちゃーんと感想をカキコしろよ。
タダ読みは禁止だぞ。

51 :パンパース:04/12/08 21:51:52
>47
また、引用のせますね。
>48-49
無知故の、私の無謀なる挑戦をどうか、見届けて下さい。
>50
気遣ってもらってありがとう。


52 :パンパース:04/12/08 21:55:04
12節 続
私があるというときの「ある」という表現は「もとで」と連関があり、「私がある」は、
これはこれで、私は、何々のもとで、つまり、これこれしかじかに親しまれているもの
としての世界のもとで住んでいる、滞在しているということなのである。」原書P54

私がある=世界のもとに住んでいる、滞在しているか。一瞬ハイデガーはこんな所に
答えを書いているぞ、と思ったよ。ハイデガーは、「ある」の意味を探求してるんだから
これは、答えではないな。
しかし、続いて、
「「私がある」の不定法として、言いかえれば、実存範疇として解された存在は何々のもとで住んでいる、何々と親しんでいるということを意味する。」原書P54

何々のもと(世界のもと)での存在とは、すでに、範疇ではなく、実存範疇の視点から
ハイデガーが語っているということは、重要そうだ。
「もとでの存在」・・・内存在 
世界の「もとでの存在」・・・世界内存在
おっ!そういうことだったのか。

「実存範疇としてのしての世界の「もとでの存在」は、出来する諸事物とがいっしょに事物的に存在しているといったようなことを、けっして意味するのではない。「現存在」と
名づけられた存在者が、「世界」と名づけられた別の存在者と「たがいに並存する」といったようなことは、ありえないのである。」原書P55

二つの事物的存在者、例えば椅子と壁の隙間がゼロに等しくても、お互いは接することが
できない。接することが出きるための前提は、壁が椅子に「とって」出会われうるということである。とハイデガーが言っている
何となく、解ったよハイデガー、あなたが言う世界内存在というものが。
机と椅子は、どこまで行っても出会うことが出来ないと言いたいんだろ
私達のみが椅子に出会える、唯一の存在者とだいいたいんだろ



53 :パンパース:04/12/08 23:22:39
壁がいつのまにか、机になってることを今気づいた。


54 :考える名無しさん:04/12/09 16:37:15
中級者以上の方々に質問です。

フッサール無くして『存在と時間』は無かったのでしょうか?

55 :パンパース:04/12/10 00:00:54
>>54
私は、フッサールを読んだことないので答えられない。ごめんなさい。
誰か詳しい人がいるかもしれない、今日のレス書いたらageますね。
そのへんのこと、詳しい方よろしくお願いします。

56 :パンパース:04/12/10 00:02:12
第13節
私達は、世界認識を「主観と客観とのあいだの関係」としてとらえている。
しかし、ハイデガーは
「だが、主観と客観はけっして現存在と世界に符合しはしないのである。」原書P60

現存在の世界というものは、世界のもとで住んでいる存在(世界内存在)であるから、
世界あっての現存在ってことになるのかな。
例えば、透明のビンが現存在として、水が世界とすると、水の中に透明のビンを
ほりこむと、水のほうからビンのかなに入ってくる。ハイデガー的に言うならば
水のほうからビンに出会われるってなるのかな。
しかし、そのビンは透明だから、水の中では見えにくいが、溶けたりしないから
確かに在る。
逆に、主観(自分)、観客(世界)に分けるならば、ビンにふたをして水の中にほうりこむ
ような感じなのかな。
現存在と世界を、事物的存在者で例えるのは、危険だが、こんな感じのイメージで
どうでしょうか?



57 :考える名無しさん:04/12/10 00:04:45
ハイデガは仏教のばくりwww

58 :パンパース:04/12/10 00:23:44
>>57
そうなんだよ、ハイデガー読んでると何か、仏教とかインドヨーガのにおいが
するんだよね。ハイデガーは仏教とか、密教とか、インド哲学をぱくったんだろうか?
それとも、哲学と宗教がやっと、統一されようとしているのか?

59 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :04/12/10 01:13:55
鈴木大拙と並んで写ってる写真あるぞ。


60 :考える名無しさん:04/12/11 03:23:21
質問です。
人間の赤ん坊や猿は現存在と言えるのでしょうか?

61 :ポール:04/12/11 08:33:32
>パンパースさん
>現存在と世界を、事物的存在者で例えるのは、危険だが、こんな感じのイメージで
>どうでしょうか? >>56

「透明なビン」と「水」の例えはおもしろいですね。
事物的存在者としての「人間」「世界」を基礎とした世界解釈を
超えようとする世界=内=存在の概念は、パンパースさんの言うとおり、
事物的存在者によって例えることは難しいですね。現存在と世界を
事物的存在者に例えること自体が、主観と客観の分離に繋がり、
ハイデガーの意に反しますから。

我々は、イメージできないものは他の事物的存在者に例えて説明しようと
してしまいます。
事物的存在者を用いて事物的存在者ではないものを説明するのは
誤解を招くゆえ、ハイデガーは、理論だけでなく、ダイレクトにイメージを
喚起する詩に傾倒したのでしょうか。

62 :ポール:04/12/11 08:34:04
以下は、僕が今考えていることです。

ハイデガーは「恐れ」といった感情は世界の側からやってくると言います。
恐れとは私の心から生まれるものではなく、世界に属するものであるというわけですが、
僕はそれを更に進めて、すべての心的現象すらも、世界にもともと備わっているのではないか
と考えています。

「思考した考え」「想像したパン」「お風呂に入ろうとする意思」といった「心的現象」が
存在していることは事実としても、それらを主導する「思考」「想像」「意思」といった
「心的機能」や、それらを取りまとめる「私」という主体は存在しないのではないかと考えています。

時計が見えている──「私が、時計を、見ている」──のではなく、ただ単に、「時計がある」
に過ぎないのではないかと。この「時計がある」という現象を、「私が存在する」と
定義しているのではないかと。

実際に存在しているのは「世界」だけであり、通常「心」の領域に現われる全ては
「世界」に回収できるのではないかと勘考中です。

63 :ジョン:04/12/11 10:34:23
        \                / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ      .../
         \               i  /;;;;;;;;;;     リ}      ../
           \.                |   〉;;;;;;;;-‐ノ  '''ー {! ∧__T _ ,,,r -r-T‐-、
            \            |   |;;;;;;; ‐ー  くー |"~。 r *o:*::f:::r:::..l. |
   ::::::::::::::       \    __,-,,-、  ___ヤヽリ;;;;;   ,r "_,,>、 ゚'}::::::::*o;;;ro ot _f_ヽ丿
   ::::::::┃二\     _\__/| | l |ヾ-"~  ヽ_」;;;;;  ト‐=‐ァ' !,,..-v--'''''''"V"~~ ┴
   :::::::┃. \\  l⌒l二|-l ..uUU""l----' ''ゝi、   ` `二´' 丿:::::::::::::::|
   :::::::┃-=-`9|、  "~ ...| ヽ  l ̄”/:::: __.、__|`'' ー--‐f '´:::::::::::::::::::|
  ::::::::::┃ヽ _ ヽ      |  |  / ..,-" //| ;;   ::::  ;; l l ` ;  ::::::|
  :::::::::::┃i".ヾ, |      ..| /  |  / ;; | | l   ;;;;  _//  `;; 、::|
   ::::::::┃||" /l___     | /   | /  l; | |   "〜-""~ //     `,
   ::::_/|\:~/| |   . |/   |/-   /|.|       //  ;; ;;   `,
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    |  | ""    |   /   ;' .|  /"/o  "" " " o\  ";.|:::::::::  l_ 
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    |   |  >>1    | .`l    "_ノ"\ ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| / `;;   ;;; l
    |   |      \..\_" ノ"   "l :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  `、  . .|

64 :パンパース:04/12/11 10:56:10
>>59
情報ありがとう、鈴木大拙って人は知りませんが、ハイデガーは日本に来日したこと
あるのかな。そして、その時の写真ですか?


65 :パンパース:04/12/11 11:01:07
>>60
>人間の赤ん坊や猿は現存在と言えるのでしょうか?
ハイデガーは、私達のみが現存在ときっちり、他の存在者と分けてるから、
私達のみが生れ落ちた時点ですでに現存在であると言えるんじゃないかな。

66 :パンパース:04/12/11 11:40:01
>>61-62
そうですね、やはり事物的な者をモデルにして現存在、世界内存在を捕らえようとしても、
不可能であり、むしろ誤解の元になりかねませんね。
それと、
「認識されたものを認知することも、補足しつつ外へと出て行くことが、獲得した獲物を携えて、
意識という「容器」のうちへと逆戻りすることではなく、認知、保存、保有の作用においてすら、
認識をいとなむ現存在は、現存在としてあくまでも外部にとどまっているのである」原書P62
この辺の文章とポールさんが思っていることと合致してますね。
しかし、前から疑問に思ってるのですが、人間の肉体はハイデガー的にはどうとらえられてるんでしょうか。
人を事物的な肉体と、心のようなもので構成されているのでは無い。
と言うような事を書いてあったと思います。
人の肉体は存在的、存在論的には一体どこに位置するんでしょうか。


67 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :04/12/11 21:59:35
>>64
ハイデガーの家の前だったけど。中公の世界の名著の解説では、
訳者がそういう話題を差し向けても「教祖」は興味がなさそう
だったようだけど。「ある日本人との対話」って、九鬼周三だっ
け、三木清だっけ。

68 :考える名無しさん:04/12/13 12:48:46
>>65
そうだったでしょうか。

69 :考える名無しさん:04/12/13 12:52:17
>>66
内世界的存在者の一つだとしか言いようがないのではないでしょうか。

70 :パンパース:04/12/13 19:12:43
>>67
ハイデガーは、宗教的な分野も研究してたとか、書いてる本を見たことないんで
なんとも言えませんが、ハイデガーは哲学に限らずいろんな分野に手を伸ばしてた
てのは書いてましたね。ちなみに、私がハイデガー関係の本を読んだのは
古東さんの「ハイデガー=存在神秘の哲学」と細川さんの「ハイデガー入門」です(少なっ)


71 :パンパース:04/12/13 19:20:04
>>68
人間としてこの世界に産み落とされた時点で現存在という、ある意味、重みを背負わされる
って感じのことを、書いてあったような。

72 :パンパース:04/12/13 19:36:47
>>69
世界内存在の内では、自分の肉体も邪魔になるのかもしれません。
というか、世界内存在には、自分の肉体ってものは無いのでは、って考えて以前、
世界内存在とは、私の心の世界のことを結局言ってるのかな?と
思ったことがあります。でも、そんな単純なことをハイデガーが長々と書いてるとも
思えないしなとか、考えながら読んでます。


73 :パンパース:04/12/13 21:07:14
第14節
「自然はそれ自身一つの存在者なのであって、この存在者は、世界の内部で出会われ、
さまざまな方途と段階で暴露されうるのである。」原書P63
ん、まてよ、ひょっとして私の「肉体」自身も「現存在」である私から見れば、
世界の内部で出会われる一つの存在者(存在的)であるのか?

私達が、同じ物を見たとしても同じ様には見えない。だが、私達が見てるものは、
人それぞれの、あれこれの世界ではなく、「世界一般の世界性」この、主観・客観を超えた
世界性ってのを、ハイデガーは解明しようと、してるみたいだ。まず、現存在という構造を私達
に植え付け、じゃ、現存在の数だけ世界があるんじゃないのか?と疑問を抱いた時に、次の段階で「世界性」ってのを語っているのか。
て言うか、ハイデガー自身も一つ問題を解決すれば、ポコッと違う問題が顔をだす。
そんな感じのことを、書きつづっていったのかもしれない


74 :考える名無しさん:04/12/14 08:37:59
>>71
赤ん坊は自分の存在可能性を問わないのではないでしょうか。

75 :考える名無しさん:04/12/14 08:50:47
>>72
自分の肉体が邪魔だということはないのではないでしょうか。

自ずから顕わになる現象を分析しているということを常に念頭に置けば、
世界内存在とは私の心の世界のことを結局言ってると思っても誤解は
ないのではないでしょうか。

76 :パンパース:04/12/15 18:11:08
>>74
まだ、問えないでしょうね。


77 :パンパース:04/12/15 18:31:13
>>75
回りから顕になるのではなく、自ら顕になるってことの分析ですか。
なるほど、常に念頭に置いときます。
それと、ハイデガーが一般の概念を否定して、自分の概念が正しいって言ってるので
はないって感じのことを、M・ゲルヴェンが註解でかいてましたね。
例えば世界についても、一般に捕らえられている概念も、ある意味正しいって感じで、
ハイデガーが言いたいのは、世界をこうゆう捕らえ方もできますよ、
とか、もっと奥深い処ではこう言う意味がありますよって感じですかね。
そう考えると、少しはハイデガーを受け入れやすくなるような気がします。



78 :パンパース:04/12/15 18:33:08
第14節 続
世界も現存在のもっとも身近な存在様式としての平均日常性という地平のうちで、
分析論の主題になるべきである。  原書P66
そして、日常的現存在のもっとも身近な世界が、「環境世界」というものらしい。
環境世界から分析し、世界の根本的な「世界性」という概念を導きだそうとしてる
みたいですね。


79 :パンパース:04/12/16 19:35:26
第15節
現存在にとってもっとも、身近な世界は道具的存在者を通じて知るものであり、
その道具で、例えばハンマーで石を叩いた時、自然を暴露するらしい。
「使用される道具において、その使用をつうじて、「自然」が、つまり自然産物という
光のうちで、みられた「自然」が、共に暴露されているのである。 原書P70
なるほど、じっと、石を眺めているよりも、ハンマーで叩いたりしたほうが、石(自然)を
より暴露してると、いってるようだ。
「見て・来て・触って」というパソコンメーカの宣伝文句のようだ。
あらゆる道具的なものに囲まれて私達はこれを世界としている。
ただ、まだ「環境世界的自然」という次元のことのようだ。確かに、
私達の日常生活においては、日々これで十分な世界、又は自然像だ。
私達は、道具的存在者を通じてしか、自然と出会えないのだろうか?
道具的存在者を通じることなしに、純然たる自然と出会えるのか?


80 :パンパース:04/12/16 19:45:34
しかしハイデガーが、ここまでの所で言おうとしてるのは、「主観、客観」と言う
概念を捨て、主観のみで今までの「主観、客観」という概念が含まれているといって
いるようにおもうんですが、どでしょう。


81 :ポール:04/12/17 23:59:58
>パンパースさん

がんばってますね。思うままにレスしてみます。



82 :ポール:04/12/18 00:02:27
>逆に言えばその「世界」以外が私と、自分自身を、自分以外から理解しているってことか >>16

「我々は通常、世界の側から自らの存在を規定している」ことを理解しておくことは
重要だと思います。僕がこだわっている「主客問題」や、そこから生じる様々な哲学問題は
この「さしあたり世界の側から了解する」日常的な存在様態によって生じる擬似問題であると
ハイデガーは指摘します。

現存在のこの日常的な有様が、有名な「頽落」という概念ですね。(第5章のB)
ハイデガーの言葉を用いれば、「頽落」とは、

  「現存在はさしあたってたいていは、配慮された<世界>のもとにたずさわっている」(p175)

「頽落」とは、「世間に流されている」「自分の意思を持たない」「堕落した」といった
人生論的、道徳的な意味合いではなく──そうも読めるところが強力な人生哲学としての
この著書の面白いところですが──、「世界のもとにたずさわっている」、つまりは、
<世界>の側から自分自身を、そして世界を規定しているということです。

83 :ポール:04/12/18 00:05:14
では、この頽落という日常的存在様態によって何が行われるかといえば、
自分を含めた世界の真の在り方は「実在性」であると思い込んでしまうことです。
(「実在性」を、「世界の内部に客体的に存在する存在者の存在」(p209)と定義します)

少し長くなりますが該当箇所を引用します。第43節です。

  「了解は頽落の存在様態に応じて、さしあたりたいていは、すでに「世界」の了解に
  身を移している。・・・存在解釈がさしあたり手引きとするのは、内世界的存在者の存在である。
  しかもそのさい、身近に備わる用具的なものの存在は飛び越されて、存在者はまず最初に、
  客体的な事物連関として理解される・・。存在は<実在性>という意味を帯びる。
  ・・存在了解がこのように偏向するのに応じて、現存在についての存在了解もこの存在概念(存在=実在性)
  の地平に移される。現存在も、ほかの存在者並みに実在的に現前している・・。
  こうして、存在全般がおしなべて<実在性>という意味を帯びてくる」(p201)

84 :ポール:04/12/18 00:07:33
つまりハイデガーはこう考えます。

我々は、世界の内で出会う樹木や鉛筆といった内世界的存在者を、
私から独立して事実客体的に存在していると思い込みます。
さらには「私自身」をも、それら内世界的存在者と同様の存在者であると推測することにより、
「私」も世界の内に実在的な存在様態を持った存在者であると考えます。
こうして「実在性」こそが、世界の根源的な存在意味であると結論付けられます。

このように私自身の存在をも「客体的」に捉えることは、「心」という不思議な概念が生じる
起源でもあります。
客体的事物である「人間」という物体からは説明のできない「意思」や「感情」「思考」
といった現象を理解するために、「心」という独立した領域を想定し、それらの現象を
この領域に押し込むわけです。
それによって世界は、「客観世界」と「主観世界」という二つに分離してしまいます。

「主観と客観」「心と物質」といった二元論は、「頽落」という現存在の派生的な
存在様態から生じるわけです。

85 :ポール:04/12/18 00:10:39
ハイデガーにとっては、「主観」や「客観(世界)」という、それぞれ独立した領域など
存在しません。それゆえ、それらの分離はもちろん、「主観がいかにして客観へと超越するのか?」
といった哲学問題も生じないわけです。
我々はすでにあらかじめ、「世界のもとに住んでいる」わけですから。

僕はそれを、「世界があることがすなわち私が存在していることである」と解釈し、
「心」という領域に閉じ込められた心的現象を世界の側からすべて解釈できないかと
考えているわけです。

86 :ポール:04/12/18 00:14:16
「主観が客観を認識する」とは、古めかしい形而上学的テーゼのように受け取られますが、
この構図は形を代えて、現代の我々の世界解釈の根底にも流れていると思います。
「物質から心が生まれる」というテーゼです。

実際、世界を観察してみる──世界の側から了解する──と、精子と卵子が受精し、
胎児が育ち、赤ちゃんが産まれ、育っていくどこかの段階で、心が物質(身体)から
生じたように思われます。
反対に、身体的な機能停止によって、心は消滅するようにもみえます。
心とは物質から産まれる、少なくとも、心とは、ある条件の備わった物質に備わった機能だと
考えることが現代の主流です。

そういった世界の側、内世界的存在者の側からの了解からでは、この「私」という特有の存在様態は
絶対に解明できません。ただ、私自身も実在的に客体的に捉えられるだけです。

現象学とは、世界の側から了解するのではなく、それを可能としている「存在了解」
自体に眼を向けるための方法論だと思われます。

87 :ポール:04/12/18 00:21:34
>人間の赤ん坊や猿は現存在と言えるのでしょうか? >>60

もうお分かりかもしれませんが、「赤ん坊が現存在かどうか?」を問うのは、
赤ん坊という内世界的存在者の存在を問うことであって、それは「世界の側から了解する」
存在的な問いです。存在論的な問いとしてはあまり意味のないものだと思われます。

では、「私の死後、世界は存在するのか?」という問いはどうでしょう?
ハイデガーがどういっているのかわかりませんが、大森荘蔵さんは確か
「死後の世界を問うことは無意味である」といっていたように覚えています。
「あるかどうかわからない」ではなく、端的に「無意味である」と。
その論拠は忘れましたが、僕自身も避けられない問いです。

88 :ポール:04/12/18 00:22:47
このように、日常的には<世界>の側から世界を、そして自己自身を了解している「頽落」
という現存在の存在様態を理解することは、ハイデガーの哲学を捉える上で重要だと思います。
世界の側から了解した論拠をもってハイデガーを批判するのは軽率だと考えます。

ただし、「世界の側から存在を了解する常識的(科学的)世界観」と、
ハイデガーの存在解釈のどちらが正しいかといえば、僕には未だよくわからないです。
どちらも一長一短があるとしか今の段階ではいえません。どうなのでしょう?


89 :考える名無しさん:04/12/18 18:23:45
ポール(陰茎のポールか?)よ、オメー、ちっとヤケになってねーか。

90 :ポール:04/12/19 17:38:42
>パンパースさん
>「認識されたものを認知することも、補足しつつ外へと出て行くことが、獲得した獲物を携えて、
>意識という「容器」のうちへと逆戻りすることではなく、認知、保存、保有の作用においてすら、
>認識をいとなむ現存在は、現存在としてあくまでも外部にとどまっているのである」原書P62
>この辺の文章とポールさんが思っていることと合致してますね。 >>66

引用ありがとうございます。
この引用のすぐ後には次のような文章がありますね。

  「存在者の存在連関を『ただ気にしている』とか、それを『ただ表象している』とか、
  『ただ思い浮べている』とかするときにも、私はいわゆる原初的把握のさいにおとらず
  外の世界の内で存在者のもとに立っているのである」(p62)

これは、「想像したパン」と「直接知覚したパン」に存在論的に差別はないと
いうことだと思います。想像したパンが「幻」で、知覚したパンが「実在する」
わけではない。それらは存在の仕方が異なるだけで、どちらも世界内存在という
存在構造を持った現存在の世界にある存在者であると。

91 :ポール:04/12/19 17:41:38
主観と客観の図式の否定とは、すなわち、心の領域(想像したパン)と
客観世界の領域(実在したパン)の融合ですが、この例を考えるだけでも、
いかに難しい問いであるかわかります。
そして、主観、客観という思考形式が我々の世界を見る眼を縛っているかも。

「見え」と「実物」に誤差が生じる場合──水の入ったコップに入れた棒が曲がって見える、
夜空の星は数千年前のそれが見えている。蜃気楼が見える等々──全てが
主客二元論(「見え」と「実物」)を強力に裏付けます。

ほとんど生得的ともいえるこの世界認識の枠組みを崩すのは、生半可なことでは無理でしょう。
だからこそ、それに挑む哲学者に僕は惹かれるんですけどね。


92 :考える名無しさん:04/12/19 19:11:05
>>91
パンパースさんとは仲がいいんですか?

93 :考える名無しさん:04/12/19 19:35:53
やっぱ判かっちゃう?
適当にケツを貸し借りしてる間柄よ。

94 :パンパース:04/12/22 22:53:53
ポールさんのレスで、感じたことは「心」とは、私達が摩訶不思議、理解不能となる現象を
「心」と言う曖昧なことで私達がかたづけているってことなのかな。まるで理解不能な
ことは、神がかり、霊現象みたいな感じで、私達の或る部分の「心」というもので
解決しているような。確かにそうかもしれない。
でも、そう考えると、哲学と科学は紙一重っていうか、きわどい関係になるような
気がしますね。

95 :パンパース:04/12/22 22:57:12
科学、哲学も心を、物質(脳)からと、形而上学から解明しようとしているような。

96 :パンパース:04/12/22 23:24:40
主観、客観で私が最近思っているのは、私は「私の主観から逃れられない」ということです。
例えば私が石になったと思い込んでも、私は屍で横たわらない限り石にはなりきれない
のではと考えます。或いは、他の身近な人の気になって、私を感じるとしてもやはり
その、人から見た私とズレがでる。何故なら私は、もっとも、身近な人の身になろうと
しても、その人の主観は解らない。
私は、事物存在者とか他の現存在に完全に成り得ない。何故なら私が知り得ないものを
私の他のものが経験している。逆に言えば私の経験したものは、他の者には全部しりえない。
そう考えると、この世界は存在者それぞれの主観の絡み合いなんでしょうか
客観など、無いのではと感じます。

97 :パンパース:04/12/22 23:27:08
>>92
私の先生の一人です。

98 :考える名無しさん:04/12/24 19:11:30
イヴだってのにPCの前に座ってカキコだぜ、今年もよ。
だからって訳じゃねーけんど、今週末はバシバシ糞スレ
で憂さばらしだぞ。

99 :考える名無しさん:04/12/24 19:21:17
 メリー
クリスマス

 (-_-)
 (∩∩)





100 :100GET:04/12/24 19:29:02
時空の枠組みをはずってどうやるの?

101 :101GET:04/12/24 19:31:18
>>100
はずって→はずすって

102 :考える名無しさん:04/12/24 19:32:00
おいおい、99さんよ嬉しいね。
ほんわか気分で100ゲットだぜ。

103 :考える名無しさん:04/12/24 19:33:20
くそー、100にも振られたぜ。
今週末は糞スレ攻撃だ。
絶対キメタ。

104 :考える名無しさん:04/12/24 19:33:39
いや、100はすでに俺がもらった。

105 :パンパース:04/12/24 22:21:18
>>96
>客観など、無いのではと感じます。
は、訂正です。「客観など、知り得ないと感じます。」かな
でも、ハイデガーはこの絡み合った主観を、世界と人々は普段感じているけど、
「世界性」があるとして、普遍的な客観性の世界を見出そうとしてるのかな。
メリ〜クリスマス。

106 :パンパース:04/12/24 23:03:46
第16節
「世界が「与えられている」かぎりにおいてのみ、こうした存在者は出会われるし、
暴露された存在者はおのれの存在においておのれを示しうるほどなのである。」 原書P72

やはり世界あっての私達となるのか。何故私達は世界を与えられたのか?ってことか。
たしかに不思議だ、世界が無ければ私達は出会うこともできない。


107 :考える名無しさん:04/12/25 16:58:54
>>106
昨日はどうお過ごしになりましたか?

108 :考える名無しさん:04/12/25 19:36:36
おいらはオムツ野郎じゃねーが、昨夜はバッチリ決めたぜ。
おいらのスケは結構カネがかかるんじゃ。
クルクル回らないフツーの寿司屋を散在させられた。
まあ、その代わりスケの舌技はサイコーだったがな。

109 :パンパース:04/12/25 21:11:36
>>107
昨日は、プレステやっとりました。

110 :パンパース:04/12/25 21:41:52
第16節 続
「だが、世界がある種の仕方において閃いてくることができるとすれば、世界はそもそも
開示されていなければならない。世界内部的な道具的存在者が配視的な配慮的気遣いに
とって近づきうるもので在ることでもって、そのつどすでに世界は、あらかじめ開示されている。
したがって世界は、現存在が存在者としてそのつどすでに「そのうちで」存在していた或るもの
なのであり、現存在が、とかくわざわざ出向いてゆくときは、つねにそこをめがけて
帰ってくるしかない或るものなのである。」  原書P76

なんとも意味深そうな文章ですね。
この文の世界が閃くってのは、道具が壊れた時に見せるわずかな事物的存在性って
ことでしょうか。
又、現存在を「存在者」としては上文のように「向いてゆくときは、つねにそこを
めがけて帰ってくるしかない或るものなのである。」となり、
じゃ、「存在」として現存在をみるならば、どうなるんだろう?


111 :パンパース:04/12/25 21:45:32
>>108
くるくる回らない寿司屋行かなかった替わりに彼女の舌がクルクルしたですか、
うらやましい。

112 :知ったか:04/12/26 01:17:26
死を現存在にとっての固有の可能性として捉える事は無謀だな。

113 :パンパース:04/12/26 07:24:08
人間だけが死を自覚しながら、生きなくてはいけないと言う、何とも残酷につくられたものですね。
ま、他の動物に聞いたことがないんで解りませんが。


114 :考える名無しさん:04/12/26 15:05:36
死ねないことの方が何倍も残酷だろが。
何ともはや想像力の欠如したオムツ・マンだな、オツムは大丈夫か。
死への覚醒と痔核こそが文化の源泉だぜ。

115 :考える名無しさん:04/12/26 15:11:58
殺す事もまた情けと知れ
死ぬ時に死ねぬものは
死ぬよりも辛き事

116 :考える名無しさん:04/12/26 15:15:36
無理やり生き返らされて
その度に死に直すのも疲れたよ
永遠の命なんて授かったら
きっと、生命の謎に挑戦したくなるだろうね
人間を作ってみたいなんてものは漫画かね

117 :考える名無しさん:04/12/26 16:29:43
>>108 は病気持ちだな(w

118 :考える名無しさん:04/12/29 14:24:16
判っちまったか、そうよ、脳梅毒よ。
てなこと言ったら満足かな?


119 :考える名無しさん:04/12/29 14:31:43
パンパースさん、良いお正月をお迎え下さい。
そして、来春もこのスレ続けて下さい。
ずっと見てますから。

120 :ポール:04/12/30 09:57:57
>パンパースさん

しばらくご無沙汰ですみません。さすがに今月は忙しかった。
世間に紛れ、頽落して生きていました(笑

難解な原書(邦訳)を避け、入門書で得た知識で満足する人が多い中、
淡々と哲学者との対話の場に臨むパンパースさんの姿勢には
敬意をもっています。といっても、パンパースさんの場合は、変に気負わず、
飄々と、それでいて雑音に惑わされないところが魅力ですが。

僕は先生になどなれませんが、同じ独学者として一緒に読んでいければ
と思っています。

121 :ポール:04/12/30 09:59:59
>ポールさんのレスで、感じたことは「心」とは、私達が摩訶不思議、理解不能となる現象を
>「心」と言う曖昧なことで私達がかたづけているってことなのかな。 >>94

その通りです。
僕たちは当たり前のように、「あなたの考え」「私の痛み」という言い方で、
心という私泌的領域の存在を是認しています。
ですが、多くの哲学者が問題としているように、心という閉じられた領域を
前提とすると、ある種の跳躍が存在してしまいます。
「物質から心が生まれる」「閉じられているにも関わらず、他人の見ている世界と
私の見ている世界が一致する」といった跳躍がです。

そういった跳躍が現われるということは、そもそも、私の「外部(客観)」「内部(主観)」
という構図自体が間違っているのではないかと考え、その構図に代わる新たな図式を考えたい、
というのが僕の一貫した立ち位置です。
ハイデガーの世界=内=存在という概念も、そうした新しい図式の提案です。

122 :ポール:04/12/30 10:02:12
世界=内=存在の概念が奇妙に思われるのは、僕を含めて我々が、
「主観が客観を認識する」という主客図式に慣れきっているからです。
言語自体が、「私が、コップを、見る」という主客を前提とした論理形式に
なっていますしね。


123 :ポール:04/12/30 10:20:41
「心とは物質(身体)から生まれる」というテーゼがあります。

確かに、生命の誕生の過程を観察すれば、
「精子と卵子の結合→胎児の成長→赤ちゃんの誕生と成長・・・」のどこかで、
心が物質(身体)から生じたように思われます。

この事実を考慮すれば、僕の心も物質(僕の身体)から生じたことに疑いの余地はないように
思われます。
しかし、この推論には隠された前提があります。
それは、「僕も彼らと同じ存在の仕方をする一存在者である」という客観主義的な前提です。

僕らは自らの存在を、存在者の側(他者の側)から規定する客観主義的な視点(頽落)
に慣れきっています。ですがそれは、客観主義という前提を受け入れた上での、
あくまでひとつの世界解釈にすぎません。

124 :ポール:04/12/30 10:21:36
現象学(現象主義)という、客観主義とは異なった前提で世界を解釈する仕方を学んで
僕が教えられたことは、「我々が世界を眺め、接している時、必ずある前提を持っている」
ということです。

客観主義的な前提から導き出された世界観(科学的世界観)がありのままの世界を
記述しているわけではない。かといって、現象主義的な世界が正しいわけでもない。
正しさとはあくまでも、前提との関係における正しさであって、その前提自体の正しさは
問うことは出来ない。僕はこう考えています。

ですからどの前提を選んで世界を解釈してもいいと思うのです。独我論が間違っているわけではない。
ただし、通常は、実践的な要請から客観的な前提を受け入れた方が有効であるから
そうしているだけです。

125 :ポール:04/12/30 10:24:25
哲学の有効性は、普段気付かれない隠された前提を暴くことです。

現象主義、ハイデガーを学ぶことは、ハイデガーの世界観を受け入れるかどうかに関わらず、
我々が当たり前すぎて問いもしない世界解釈における隠された前提を暴くことにおいて
有効だと思います。


126 :ポール:04/12/30 10:27:00
また連連と書き連ねてしまいました。やはり自分のスレがないときつい(笑
来年はもっと『存在と時間』に則してレスしたいと思います。

どうか良いお年を!




127 :パンパース:05/01/07 18:42:40
年末年始は、「存在と時間」を読まずに、マッタリしておりました。
また、ボチボチ続けて行きますんでよろしく。

第17節
指示と記号の関係を色々説明してるみたいだが、どうもピンときませんね。
ただ、土地耕作の南風の例は、何となくわかりました。
土地耕作をする人の配視が、南風が雨を降らすという記号として、暴露して、
また、存在としても暴露しているということであって、
南風が単に事物的に存在しているのではないと、いうことでしょうか。
そして、配視の立場からすれば南風すらも自然現象などではなく「道具」として暴露されて
いるということを言ってるのかな。


128 :パンパース:05/01/07 19:41:00
>>121
ポールさん久しぶりです。
確かに、心とは不思議ですね。考えれば考えるほど、不思議だ。
私は、人には心があるということを当り前という前提でハイデガーをよんでました。
だから、「世界内存在とは私の心の世界ではないか。」と過去に思ったんでしょうね。
これからは、そもそも、心とは何だろうという視点も入れながら「存在と時間」よんでみます。


129 :ポール:05/01/12 00:08:52
>パンパースさん

新年おめでとうございます。
今年もお互い、緩々と、倦まず弛まず地道に歩んでいきましょうね。


130 :パンパース:05/01/12 22:40:51
第18節
適具(ハンマー)でもって、適用(打つ)ためにもちいてはじめてハンマーは、
適所(適切な所)をうる。
この一連の流れが道具的存在者の存在性格であり又、適所性がえられるらしい。
このことが、存在論的規定であり、存在的な陳述ではないとハイデガーは書いてある。
この適所性はどんどんつながり合い、
「暴風雨に対する防備のもとでその適所性がえられる。この防備は、現存在が宿るという
目的のために、言いかえれば、現存在の存在の一つの可能性という目的のために「存在している。」」  原書P84

なるほど、そうなると私の周りの物はすべて道具的存在者になってしまい、事物的存在者など、無いようだ。
以前なら「自然」が事物的存在者だと単純に思ってたんだが今はそうとも
言いきれない。

「だが、適所全体性自身は最後には或る用途性へと帰ってゆくが、この用途性のもと
ではいかなる適所性ももはやえられず、この用途性自身はなんらかの世界の内部で
道具的に存在するという存在様式をとる存在者ではなく、その存在が世界内存在とし
て規定されている存在者、つまり、その存在機構には世界性自身が属している存在者なのである。」原書P84

ここでの、用途性とは何を意味しているのか?家などの現存在が宿る目的とした完成品
の道具的存在者ということなのか。すごく重要なことが書いてあると思うんだが用途性が
指している意味がわからない。


131 :パール:05/01/12 23:53:03
「用途性」(Worum-willen?)は現存在自身ですよね、きっと。

道具的存在者は別の道具的存在者を指し示して、
この道具的存在者はまた別の道具的存在者を指し示して、
このような指し示しは最終的に現存在に行き着くこと…かな。


132 :パンパース:05/01/13 00:05:36
>>131
なるほど!用途性を現存在自身と読みかえるとすっきり文章がつながりました。
どうも、ありがとうございました。


133 :パンパース:05/01/13 00:08:02
第18節 続
「現存在は、おのれの存在と存在しうることを、おのれの世界内存在に関しておのれ
に根源的に了解せしめるのである。目的であるものはなんらかの手段性を、手段性は
なんらかの一定の用途性を、一定の用途性は適所をえさせることがそのもとでえられ
るなんらかの適用を、適用は適所性がそれでもってえられるなんらかの適具を、有意義化する。
〜このような有意義化のはたらきのうちで現存存在は、おのれ自身におのれの世界内存在を
先行的に了解せしめるのである。」  原書P87

目的→手段性→用途性→適所→適用→適具と一般的概念と逆に世界を見ることにより、
結果、世界内存在は先行的に了解していることになるから私達は何らかのかたちで
世界を了解できるのだと、ハイデガーは言いたいようだ。










  定期age〜

134 :考える名無しさん:05/01/13 00:12:13
ポールとパンパースの立ち話スレはココでつか?


135 :考える名無しさん:05/01/13 00:17:48
ハイデガー!!






奴は分裂病

136 :パンパース:05/01/25 21:22:45
第19節
デカルトは、「自然と精神」という区別を規定したようだ。
ハイデガーから見るとここから今の一般概念が根付いているといっているようだ。


137 :パンパース:05/01/25 22:12:49
第20節
「まさにその実体の存在は、三つの実体に、すなわち、一つの無限の実体と二つの有限
の実体とに、「共通な」存在の意味が解明されたあかつきに、存在論的に原則的に規定
されうるものになるはずである。」  原書P93

三つの存在とは、「神・思考するもの・広がりあるもの」ということかな。
この三つの存在に「存在の意味」なんか本当にあるのかな、そしてハイデガーは解明したんだろうか。
いずれにせよ、デカルトや中世存在論・古代存在論も、存在自身が意味しているもの
(存在の意味)は論究せずに放置し問いたずねなかったとハイデガーはいっているようだ。
例えば神が存在するのか、しないかという問いより神の存在の意味とは?とハイデガーは
問うているのかな。


138 :パンパース:05/01/25 23:12:59
第21節
ハイデガーからすると、デカルトは道具的存在者を通過してしまって世界をとらえよ
うとしたと批判している。
デカルト的な世界の捕らえ方だと、事物的な者がまずあり、それに価値がつきようや
く道具的存在者に行きつくとハイデガーはいっている。
しかし、ハイデガー的には事物的存在者とは一体どんなものなのだろう?



139 :考える名無しさん:05/01/25 23:50:09
>>138
>ハイデガー的には事物的存在者とは一体どんなものなのだろう?
デカルトの「延長自体」に対する暫定的な概念。
実体の存在性格である実体性をデカルトは不問に付しているので、概念的にあいまいな「実体」という用語を避け、Vorhandenheitという暫定的な概念で語る。
Zuhandenheit からつながりが見えやすい(駄洒落に過ぎないが)。
実質的な規定は、徐々に明らかになる(予定)。

140 :パンパース:05/01/26 20:55:55
>>139
ドイツ語は解らないです。
今後、読んでいけば明らかになるのか。ありがとうございます。
うーん、和訳では訳せない文章ってやっぱりあるのかな。



141 :パンパース:05/01/26 21:29:30
現存在と空間[第22節〜第24節]
「空間のうちの在るということは現存在の特色である。しかし現存在のこの「空間性」
というものは客観的、科学的な空間でもなければ、カントの見るような純粋の「主観的」
空間でもない。言ってみれば、それは現存在が同じ者をある時は「近く」ある時は
「遠く」に見ることの内で経験されるような空間なのである。〜現存在の空間性と
いうことは、現存在が空間の内に在るか、あるいは空間が現存在の内にあるかとい
う問題すらなくて、端的に、空間の内に在るということが現存在が世界の内に在る
場合の必然的な在り方なのだ、ということなのである。〜カントは空間がア・プリ
オリなものであるところまで示したけれども、ハイデッガーのように空間―内―存
在は世界―内―存在の一部であると言うところまではいかなかった。」  M・ゲル・ヴェン 註解  P142

うーむ、私が感じてる空間というものは、世界内存在の一部にすぎないというのか。 
世界内存在恐るべし。


142 :パンパース:05/01/26 22:55:13
一つの存在者(世界)の内に存在する、もう一つの存在者(道具、私等)がある。
当り前の、構図だが、何か不思議に思えてきた。
そうだ、以前は当たり前と思っていた。
しかし、今は不思議だ。なんで私は世界に囲まれてるんだ?
そして、「何で私は世界に囲まれてるんだ」なんて日常生活で接している
共存在の現存在の人達には
聞けないな(笑


143 :パンパース:05/01/26 23:12:31
あー、学校の科学の先生がね
「分子とか原子の動きが宇宙の星の動きにすごく似てるから、もしかしたら
この銀河も巨大生物の細胞にすぎないかもしれないよ、そしてあなたの細胞の原子の上に
生物が住んでるかもよ」って言ったことがね、なんか思い出すな。
肯定も、否定も出来ないし、案外世界てそんな感じなのかなって思えるよ。


144 :考える名無しさん:05/01/27 02:32:34
>>140
>ドイツ語は解らないです。

基本的な術語は、原語で覚えておいたほうがいいよ。
単語レベルでかまわんから。
注釈か索引に原語と日本語の対応が載ってないか?

>うーん、和訳では訳せない文章ってやっぱりあるのかな。

日本語にしてしまうと、語と語の関係がかえって見えにくくなっていることがある
事物性<=Vorhandenheit
道具性<=Zuhandenheit
ここから、どうしてハイデガーがハンマーにこだわっているか了解できる。
ともかく「手」が、最初の世界とのかかわりを構成している(とハイデッガーは言いたい)んだよ。

145 :パンパース:05/01/28 18:49:35
>>144
ありがとう。
辞書買うしかないですね。

146 :考える名無しさん:05/01/31 13:41:05
原書なんか読めない大楽したわたしに、
お勧めの訳書をお教えください。

147 :考える名無しさん:05/01/31 14:05:28
ちくま文庫かなにかに入ってるのが、値段も手ごろで読みやすいと聞きます。
岩波のはやめたほうがいい。古いしかなり問題のある訳。
本格的には、創文社のハイデッガー全集のやつ(高い)。
もっと本格的には松尾訳もいいかも。
ここまでくると、原書と照らし合わせて読むような感じになってくる。

148 :考える名無しさん:05/01/31 14:33:28
サンクスです。
理想社版はどうでしょうか。

149 :考える名無しさん:05/01/31 14:39:26
理想社版とちくま文庫版は、同じやつなんじゃなかったかな?
手元にないんで、確認できんが。
どちらも細谷が訳している。
ちくま文庫版のほうが細谷の単独訳で新しくなってるのかな?

150 :パンパース:05/02/01 00:19:50
私は、中公クラシックスのやつを、読んどります。評判的にはどんな感じでしょう?

151 :パンパース:05/02/01 00:21:40
第22節
世界内部的な道具的存在者の空間性の分析をするようだ。
現存在と、色々な道具との距離をメジャーなどで測った広がりが空間という訳ではなく、
配慮的な気遣いによる配視によって、各々の距離とゆうか空間的位置を現存在は把握し
ている。実際の道具との測量された距離ではなく、現存在の感じてる距離はちがうと
いっているのかな、後の節で例を書いている眼鏡みたいなものかな。
それと、この節の最後の文が気になりましたね。
「道具的存在者をその環境世界的な空間のうちで出合わせることがあくまで可能であるのは、
存在的には、現存在自身がおのれの世界内存在に関して「空間的」であるという、この理由のみ
にもとづいている。」 原書P104

存在的には「空間的」である・・・?じゃ、存在論的には「何的」になるんだろう。


152 :パンパース:05/02/01 00:29:01
番外編
今日、ふと思ったんだけど道具的存在者であるコンピューターとかロボットが発達して
心みたいな物をもって「私の存在の意味とは何なんだろう?」なんて、SF映画みたいな
ことが起きたら、ハイデガー哲学は否定されてしまうのかな

153 :パンパース:05/02/01 00:38:29
>>152
いや、新しい現存在が仲間入りするだけか(笑

154 :考える名無しさん:05/02/01 03:38:39
>150
中公クラシックス
これは、「世界の名著」シリーズの文庫版だったかな?
原 佑のやつ。
これは、系列的には、松尾訳を読みやすくしたものだね。


155 :考える名無しさん:05/02/01 03:49:23
>151
>「道具的存在者をその環境世界的な空間のうちで出合わせることがあくまで可能であるのは、
>存在的には、現存在自身がおのれの世界内存在に関して「空間的」であるという、この理由のみ
>にもとづいている。」 原書P104

p140の22節最後の文だよね。

ここの「存在的」は、創文社版では、「道具的存在者をその環境世界的な空間のうちで出合わせること」にかかるように訳してある。
こうすると、
現存在が、さしあたって大抵は、存在的に環境世界的な空間の内で道具的存在者に出会うことを可能にするのは、世界内存在という現存在の存在体制によってであり、これがそもそも「空間的」だからだ。
という風によめる。
日常的に道具が空間内にあるとおもっているけど、存在論的には、現存在が「空間」を可能死した上で、その内で出会われている
っていうことになる。
とりあえず、存在論的に「空間的」とか「空間」とかは、まだ概念化されていないので、括弧書きになってる。

156 :パンパース:05/02/02 23:59:19
>154
そうそう、原 佑訳の世界の名著を3巻に分けたようなやつです。
もう少しで、やっと1巻おわりそうだ。

157 :パンパース:05/02/03 00:08:46
>155
可能死・・・読み進めると後々出てくる語でしょうか。始めて「存在と時間」読むもので。
でも、色々ありがとうございます。


158 :パンパース:05/02/03 00:16:31
第23節
事物的なものと、道具的なものの両者は世界内部的に出会われる存在者の存在様式であり、
その両者にあてはまらない「現存在は世界内部的に出会われる存在者との配慮的に気遣い
つつある親密な交渉という意味において、世界の「内」で存在している」 原書P104

現存在の空間性というのは、事物的、道具的存在者と、接触出来る能力が現存在にある
から世界の内で存在しているということをいっているのだろうか。

「この内存在の空間性は、遠ざかりの奪取と方向の切り開きという性格を示しているのである」  原書P105

遠ざかりとは、普通の意味とは逆で近づけるという意味らしいから現存在は事物的、道具的存在者達を
ドンドン近づけてその結果、空間性が出来あがるということをいっているのだろうか。なるほど、
例にも書いてあるように、現存在はラジオなどでもってまるで駆りたれられるように「世界」を近づけようと
している。(今ではネットによってハイデガーの時代よりもっと加速的に「世界」の遠ざかりを奪取しているのか)

そして、配慮的な気遣いの配視的な距離と身体的な距離は全然違うという。しかし、配慮的な気遣いの配視的な距離は
主観的な距離ではないという。ハイデガーの配視って主観のものさし的な感覚に似てると思うんだが、どう違うんだろう。



159 :パンパース:05/02/03 00:18:04
第23節 続
「だから現存在の空間性も、身体という物体事物が事物的に存在している位置を指示してみたところで、規定されはしない。」  原書P107

現存在の空間性の位置と身体の位置は違うといっているのか。

「おのれのここを現存在は、環境世界的なあそこにもとづいて了解しているのである。」原書P107

現存在の場所は、他の事物的・道具的存在者の位置から測られて了解でき、決して己自身だけで
己の「ここ」を示せないということをいっているのか。だが、上文のように自分の身体の位置と
現存在の位置は関係ないといっているから、ややこしいな。

「現存在は、おのれがおこなうもろもろの遠ざかりの奪取から成るそのときどきの圏域のなかを
歩きまわることはできず、そうしたもろもろの遠ざかりの奪取をつねに変えることができるだけである。」 原書P108
これって、寝転んでテレビのリモコンでころころチャンネル変える感覚みたいなものなのかな。

うーん、この節はなんか象徴的ですね

160 :考える名無しさん:05/02/03 00:20:01
>>157
> 可能死
これはただのタイプミス(藁

可能死したー>可能にした

161 :考える名無しさん:05/02/03 14:34:31
>>158
>そして、配慮的な気遣いの配視的な距離と身体的な距離は全然違うという。しかし、配慮的な気遣いの配視的な距離は
>主観的な距離ではないという。ハイデガーの配視って主観のものさし的な感覚に似てると思うんだが、どう違うんだろう。

とりあえずここでいってる「身体」っていうのは、通俗的な意味での物体としての身体のことだ。
現象学的に、存在論的に概念化された「身体」ではない(この「身体」の問題はハイデガーはほとんどかたっていない)。

配慮的な気遣いの配視的な距離っていうのは、たとえば、
「箸でご飯をたべる」
というような場合のことだ。
ご飯や口や手の位置を計測して、どう動かせばいいか考えながら行動してるんじゃない。
このときに使われている「空間性」は、ものさしで計ったような空間性じゃない。
手や箸や口やご飯が一体になっている。

とりあえず、
*通俗的な空間理解に反対
*カント的な空間に反対
ということをおさえておけばいいか。
多くの場合「主観性」とうが括弧が気になっていることに注意。
ハイデッガーのねらいは「主観ー客観」という図式の考え方を破壊することにある。

>>159
>「おのれのここを現存在は、環境世界的なあそこにもとづいて了解しているのである。」
この直後の文で、分節的に説明されている。

大雑把にいって(誤解が生じる可能性もあるが)「食べたい」っている配慮において「ご飯のあるほうから」現存在の手や口の動きが決まってくるということ。


162 :パンパース:05/02/04 21:01:06
私は、私にとっての、一つの出来事としての楽しさが、ある時点で悲しみに変った時
何故、心というものが、苦しいんだろ、奪われたのか?心って何だ?何なんだこの苦しみは?
なんて思いなから
ハイデガー読んでる。
20世紀最大の哲学者だろ!なんか答えくれよハイデガー!って感じなんですよね
これは、やはり自我(エゴ)なのかな


163 :パンパース:05/02/04 21:04:08
私はこの答えの、自分自身の答えを見つける為にハイデガーに触れているのかもしれない。

164 :考える名無しさん:05/02/05 12:05:45
>>162
気持ちは充分理解できる。
が、ハイデッガーはあくまでアカデミックな理論哲学の人だよ。
理論哲学っていうは、どういうことかというと、
「すべてのことを理論的に説明するための説明の体系をつくる」
ことを目指している。
アカデミックっていうことは、「伝統的な哲学のテキストをふまえている」ってことだ。
ここから、ハイデッガーはほとんど一歩もでていない。
(本気だったか間違ったかはさておきナチスに荷担したことはあったが)
理論哲学のサブ問題として、実存が問題になっているが、これは、あくまで基礎的存在論を構築するためだ。

多分、『存在と時間』を最後まで読んだとしても、答えは見つからないだろう。
まぁ、でも他の蒙昧な思想が見抜けるようになるという効果はあるとおもう。
少なくとも、人生に迷ったときは、自分自身で決断するしかないということ、それを事実として引き受けるしかないんだということは、理論的に分かるようになる。

165 :パンパース:05/02/07 01:36:47
今日、旭屋書店で「くっつきしおり」なる物の買いました、皮で出来たしおりなんですけどね。
これで、バッチリだ

>164
やはり、「存在と時間」最後まで読んでも私の答え見つからないか、最後は自分自身の決断になるのか、適切なアドバイスありがとう
しかし、これがハイデガーのいう生きていく上でのある、重荷を背負わされているってことなのか。
私とは、ある意味過去にがんじがらめのクサビに縛られて、今、違う幸せが始ってるにもかかわらず、見えないくしている
ようだ。過去の楽しかった出来事恐るべし。
ハイデガーは未来からの視点(究極が私の死からの視点)から出来事を見ると入門書で書いてあったと
私は、理解しているんだけども、私を振り返ると過去の経験をふまえて今、未来を見る視点で今の自分を見ているかな。
そう、心が過去という鎖に縛られているというか、もっと、リアルに表現すると
過去の鎖を私が握りしめていると、いうことか。
だいぶ、読書スレからそれてしまってすません。
ハイデガーに答えを見つけられなくても、最後まで読み進めます。


166 :パンパース:05/02/07 23:46:25
第24節
「世界内部的な存在者を出合わせることは世界内存在にとって構成的であるのだが、
そうした出合わせることは「空間を与えること」なのである。われわれが空間を許容する
こととも名づけるこの「空間を与えること」は、道具的存在者をその空間性をめがけて開放
することである。  原書P111

なるほど、現存在が道具的存在者達に空間をあたえているといった感じのことを書いてますね。
ただ、そうなると「おのれのここを現存在は、環境世界的なあそこにもとづいて了解しているのである。」原書P107
の文とつなげると
現存在が道具的存在者に空間を与え、現存在自身の場所は道具的存在者がら了解するってことになるような。
むむっ、現存在は自分自身の場所を了解するために、道具的存在者達にまず、空間を与え
そして、自分の場所を道具的存在者がら了解するというのか?世界という空間にチョコンと私がいるのではなく、
自ら空間なるものを造りだし、自分の場所を確保しているような感じなのかな。誤解釈でなければ、結構新鮮な
世界観ですね。

「空間が主観の内で見出されるのでもなければ、また、主観が世界を、「あたかも」世界が
一つの空間の内で存在している「かのように」考察するのでもなく、むしろ、存在論的に
十分によく了解された「主観」、つまり現存在が空間的なのである。」 原書 P111

お、現存在が空間的なのである。って、ハイデガーがはっきり言い切ってますね。
しかし、空間が主観の内で見出されるって
主観の内って心が生み出す空間みたいなことをいっているのだろうか。
多分、カントを批判していると思うんだが、カント知らないだけにつらい。



167 :考える名無しさん:05/02/08 00:41:19
カントについては、
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/ikant.html
が、最初の手がかりとしては、いいんじゃないか?
掻い摘んでいうと、カントの空間は時間とともに直観形式として主観に属するわけだ。
知覚の際に、空間的時間的な要素が必ずともなってくるのは、直観形式がアプリオリだからだ。

168 :パンパース:05/02/08 22:11:35
>167
うんむ、途中までカント読みましたが、カントもかなり難解そうですね。

169 :パンパース:05/02/08 22:15:14
第4章
共存在および自己存在としての世界内存在「世人」

わーい、新しい章の始りだ。しかし、第3章の世界については、長かった。
何かとアドバイス、指摘して下さった方ありがとうございました。
モヤッとしたままの部分は多いですが、読み進めることができました。


170 :パンパース:05/02/08 23:15:28
現存在とは「誰」なのか[第25節―第27節]
「自己についての分析を裸の孤立した「自我」とか純粋意識などから出発させること
はできないというのが、ハイデッガーの分析における一つの重要な主張である。
ハイデッガーが言うには、まず始めに与えられた「自我」または自己は、つねに、
すでに世界の一部なのである。そして実際、その世界の内には他の人々が同じようにして
与えられているのである。
この見解は充分に考えてみる値打ちのある重要性をもっている。というのは、もしハイデッガーの
論述が正しいならば、「他人の心」もまた自己自身の「心」と同様に原初的に与えられているわけで、
いわゆる「他人の心」の問題というものはなくなるからである。そしてさらには、全く独立した精神、
孤立した主観を目指すような自己の分析は、根拠がないものだということになる。
〜ハイデッガーによれば、人は本来的な自己―つまり自分自身の自己を観るにいたることが出来る。
むしろこの場合の区別というのは、他者と共にあるその性格の一つでもあるような本来的自己と、
非本来的な世人的自己との区別である。」     M・ゲルヴェン 註解 P150

人は一人一人で生きているわけではないということか。或る意味、当り前のこといってるように思えるが、
「私はだれ?」の問いに対しての、ハイデガー的な答えが書いてあるみたいですね。


171 :パンパース:05/02/09 01:04:59
第25節
「世界内存在を明瞭にしたときにしめされたのは、世界なしのたんなる
主観というものが、差しあたっては「存在している」ものでもなく、また
けっして与えられているものでもないということであった。それと同様に
差しあたっては、孤立的自我というものが多くの他者たちなしで与えられて
いるのでもない。」  原書p116

ハイデガーからすれば、すでに、世界内存在は明瞭にしてしまったのかよ・・・
世界あっての私、他者あっての私というところか。この条件が私以外の他者達
にも、同じことがいえるということか。


172 :考える名無しさん:05/02/09 03:25:48
ここの訳はあまりよくないな。
「世界内存在の説明が示したのは次のことだ。世界なしの単なる主観が、差しあたって「存在している」のでも、またけっして与えられているのでもない。それと同様に結局のところ、差しあたって、他者たちなしで孤立的自我が与えられているのでもない。」

要するに
*現存在は、世界内存在として、世界なしではありえない
*同じように、現存在は、世界内存在として、他者なしではありえない

どう「同じように」かは、26章の課題だ。

この前の個所でフッサールの批判をしている(p115中ほど以下)。
「意識の形式的現象学」がどうこう言ってるあたりから。

要点は、
*現存在に対する誰という問いは、形式的には自明であるが、存在論的には、まったく自明でない。
*現存在の各自性から直ちに、「自我」を形式的反省的に導くことに反対


173 :考える名無しさん:05/02/09 20:04:55
>>162

哲学は人生の諸問題には何も寄与してくれない、哲学は宗教とかとは
無関係だから、みたいなことをハイデガーがどこかで言っておりましたね。
ハイデガーは現代の哲学的状況のみならず、我々の生活スタイル(アメリカ的な
存在様式?)をことごとに批判しておりますが、結局はなんか神秘的な言明を
残してごまかしちゃうんですよ。神を期待するとか、なんとか。
(デリダもその類なのかな。)
結局、哲学は世界は変えられない、ってはっきり言っておりますし。
そのくせ本人はナチに加担してなんかしてやろうと思ってたくせに。

まあ、あのナチの件で懲りたのではないかな。もう現実逃避しちゃって、
ニーチェ講義を始めて、段々、後期の暗い思想の中にもぐりこんでいくというか。

Being にバッテンつけたり、別にバッテンつけられてもなあ(笑)

174 :考える名無しさん:05/02/09 23:12:13
>>173
>哲学は人生の諸問題には何も寄与してくれない、哲学は宗教とかとは
>無関係だから、みたいなことをハイデガーがどこかで言っておりましたね。

『ヒューマニズムについて』かな。
第二次大戦後ブームになってたいわゆる実存主義哲学に分類されるのがいやだったんだろう。
サルトル流の哲学が、結局新しい神学に過ぎないと思っていたんだろう。

>神を期待するとか
神じゃなくて神々だね。

> まあ、あのナチの件で懲りたのではないかな。もう現実逃避しちゃって

一般論として哲学が政治にかかわるとろくなことが起きないね。
哲学にとっても政治にとっても不幸なことだ。

>ニーチェ講義を始めて、段々、後期の暗い思想の中にもぐりこんでいくというか。

特に暗くはないと思うよ。
偏屈かもしれんが。
しかしニーチェ講義は、ニーチェ解釈としては、当時は、かなり画期的だったので、評価は高かったと思うよ。

>Being にバッテンつけたり、別にバッテンつけられてもなあ(笑)

君、君、アメリカナイズしちゃいけないよ。
X Sein XあるいはSeynだよ。

#俺としては、ケーレ以前のハイデッガーに惹かれるけどね。
#ある意味哲学を読むことは失敗を味わうことだからね。


175 :パンパース:05/02/10 01:01:46
うん、今日思ったんだけど、世界あっての私、他人あっての私とするならば、
そもそも、世界・他人というものは私にとって、一般的には客観的といわれるものだ。
なのに、世界あっての私、他人あっての私とするならば、
私というものは、一般的な主観に加えて
1世界・他人が一部入り込んでる私
 2世界・他人というものが根底にある私
3世界・他人そのものである私
の、3っのどれかになるのかなと思うんだけどな。
ハイデガーはどの範囲で主観・客観概念をくつがえしたんだろ?
何となく、一般的な主観+1〜3の範囲が本当の主観とハイデガーがいっている
みたいに思うんだけどな。
私達は、何故、世界・他人というものが時としてすごく気になるのか?
それは、私だからである。
なんてね、だいぶハイデガーワールドに入ってきたぞ〜。



176 :考える名無しさん:05/02/10 18:33:08
ポール出てこい(w

177 :パンパース:05/02/15 00:38:32
第26節
「これまでの分析においては、世界内部的に出会われるものの圏域は、差しあたっては、
道具的に存在している道具、ないしは事物的に存在している自然に、したがって、現存在
とされるにふさわしくない性格をもった存在者に限られていた。」 原書P118

あら?前章の世界の分析では、道具的、事物的な者の違いが読み取りづらかったが
単純に、道具、自然でいいのか。

「世界は、そのつどすでにつねに、私が他者たちと共に分かちあっている世界なのである。
現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者たちと共なる共存在なのである。他者
たちの世界内部的な自体存在は共現存在なのである。」原書 P118
「現存在が「おのれ自身」を差しあたって見出すのは、現存在が従事し、使用し、期待し、
防止する対象になっているものにおいて ― 差しあたって配慮的に気遣われた環境世界的
な道具的存在者においてなのである。」原書 P119

私達は、「おのれ自身」を見出すことが出来るのは、他人からではなく、道具存在者からだと
いうのか?そして、他人とは、共に世界を分かち合ってるので、他人からは「おのれ自身」を
見出すことは出来ないといっているのか。

「このようなここにいる自我がさしているのは、自我事物という際立った一つの点なの
ではなく、ここにいる自我は、道具的に存在している世界のあそこにもとづいておのれを
内存在として了解しており、このあそこのもとに現存在は配慮的な気遣いとして引きとど
まっているのである。」原書P119

なるほど、自我といわれるものは、道具からおのれ自身の場所を了解しているということか。



178 :パンパース:05/02/15 01:25:34
ハイデガー宛てに誰かが「子供が、車輪(政治)の中に手をいれると大怪我をします」
みたいな感じで、政治かかわったことを批判した手紙を送ったってどこかで書いてたかな。
それについては、ハイデガーは素直に認めたらしいんだけど、どこで見た文か思い出せません。
かなり、記憶が曖昧なんで間違ってるかもしれません。
すごく、痛々しい手紙ですね。

179 :考える名無しさん:05/02/15 03:37:59
>>178
出典忘れた。
アーレントかな?ヤスパースかな?

180 :パンパース:05/02/15 21:53:35
番外編
私なりに、哲学に触れることは、映画とか文学に似てるような気がしますね。
ただ、哲学は、映画、文学より、ダイレクトに入ってくる感じか。
映画、文学も、映画監督という一人の人間の哲学的次元から造りだされるものか
だが、日々の生活の中では、すぐその余韻はきえてしまう。哲学にしても、映画にしても。
何故、余韻は消えるのか?
それは、私にとって不完全なものであるからかもしれない。
私は、それを、完全なるものであるならば、それが
私の人生の地図であるならば、
私という人間の性質からすれば、ちまなこになってそれを、求めるでしょう。
もし、今までの現存在のすべて・・・
過去、現在の人の心といわれるものをすべて、吸収すれば
その吸収した私は満たされるのだろうか。やはり、人という枠が次に問題になるのか。
このことが、私にとっての現時点の哲学に触れて、ハイデガーに触れての、私にとっての
問いかな。


181 :パンパース:05/02/17 19:26:58
第26節 続
「おのれの世界のうちに没入している現存在が「ここ」と発言するときは、おのれめがけてではなく、おのれから離れて、なんらかの道具的存在者の「あそこ」へと語りかけているのだが、それでもおのれを実存論的空間性において指しているのである。」原書P120

こんな、感じの文がたびたび続くが、現存在はおのれ自身の「ここ」を、道具的存在者という媒体無しでは、現存在自身の「ここ」は、表せられないといっているのか。
例えば、私が宇宙空間に一人ただよっていたとして、「今、あなたはどこにいますか?」って聞かれても、私の場所を説明できないよな。多分その人は私を見つけられないと思う。
こんな感じの理解でいいのだろうか。

「現存在はおのれを、差しあたっては、おのれの世界にもとづいて了解し、また他者たちの共現存在は、世界内部的な道具的存在者のほうからしばしば出会われる。」原書P120

むっ、上文につづいてこう書いてある。
現存在はおのれを道具的存在者でもって理解していると、上文に書いているのに
付け加え他者たちも道具的存在者からしばしば出会われるか。
となると、自分自身も、他者も道具的存在者をつうじてしか、出会われないのか?
直接おのれ自身、他者とは出会われないのか?道具的存在者無しでは出会われないと
ハイデガーはいうのか?
この節は長い上、中身が濃いと感じるとです。



182 :パンパース:05/02/17 20:27:46
番外編
映画、文学というのは、見た人が、人それぞれ感じ方が違ってもいいし、むしろ
それが、許される。
だが、哲学書とはいかに哲学者の心というものなり、思想にシンクロするかということなのか。
ま、哲学書も人それぞれでゆるされるが。
それが、映画と哲学書のちがいかも。ま、映画や文学も監督や作者そのものにシンクロする次元になれば
哲学と映画、文学は同じといえるかも。
うーむ、私にとっては、やはり結局同じになるのか(笑


183 :考える名無しさん:05/02/18 03:37:07
>>181
>こんな感じの理解でいいのだろうか。

だめだろ。その解釈だと客観的な空間が忍び込んでるよ。
簡単にいうと「そこ」がないと「ここ」は決まらないと言うことだ。
現存在が自己を超えて「そこ」にいたってから、反射的に自己の「ここ」を了解する。
自己(おのれ)、そこ、ここ、の関係が大事だよ。

ここの個所はフンボルトの場所の副詞と人称代名詞の説に関する批判的な理解になっている。
日本語でも「こなた」「あなた」「そなた」という具合に、場所の副詞と人称代名詞がいっしょになってる。
いろいろな言語でこういった現象があるそうだ。
で、普通の文法学での理解では副詞や人称代名詞として範疇的に理解されているが、実存論的な意義をもっていると言われている。
つまり、現存在の実存論的な空間性を表現している。

で、この言語現象をみると、こうした現存在の空間性には、他者への関係が読み取れると言いたいらしい。
(充分展開されていない。むしろ強引な解釈。)

184 :考える名無しさん:05/02/18 03:38:15
>>181
>直接おのれ自身、他者とは出会われないのか?道具的存在者無しでは出会われないと
>ハイデガーはいうのか?

この節は、『存在と時間』のなかでも、十分に展開されているとは言いがたい個所だ。
特に、他者の問題を充分展開できてないと思われる。
他のアプローチとしては、最高の他者としての神や、普遍的な理性を経由しての、一般的な他者を組み込んでいくうやり方もある。
母などの原初的な他者を仮定して、エロス的な関係を基盤に他者を規定することもできるだろう。
また、新カント派のカッシーラなどのように言語経由で、他者との関係を考える説もある。
しかし、『存在と時間』のここでのアプローチは、存在論的には筋が一応通っている。

自己自身である現存在から出発して、他者にいたるのに、とりあえず分析のすんでいる道具的存在者を手がかりに、アプローチしている。
ここでの他者の規定は
「他の人々とはむしろ、ひとが大抵は自己自身をそこから区別していないところの人々、ひともまたそれらに伍しているところの人々である。」p118下
だ。これは、後でdas Manとして規定されるだろう。

たとえば、ここにキーボードがあるが、これは、タイプするために誰かにためにある道具的存在者だ。道具は誰かのためにある。
私が使うかも知れ得ないし、誰か他の人が使うかもしれない。
このように他者と出会うわけだ。
たとえば、地面を掘っていて、石器が出てきたら、それを使っていた現存在を思うことができるわけだ。

道具の関連としての世界は、同時にそれを使う誰かをともなっている限りで、共世界であり、現存在は共存在する。

反面、他者一般の存在性格の本当の意味の分析は十分できていない。なので、ここでは、暫定的に他者について述べているのだろう。

185 :考える名無しさん:05/02/18 03:39:16
>>181
>この節は長い上、中身が濃いと感じるとです。

問題が大きい割には、原理的に共存在を組み込むのにとどめているので、すごい密度になっているように感じるが、内容自体はたいしたことをいっていない。

しかし、簡単に他者を組み込んだのはいいとして、他者の問題や共存在の問題が、『存在と時間』の後のほうで、いきなり民族とかに接続されてしまうのは、かなり問題をはらんでいる。
しかも歴史と民族の問題も充分に展開されているとはいいがたい。
と、突込みどころ満載の個所である。


186 :パンパース:05/02/18 19:21:17
>183
自己の「ここ」は「そこ」から「ここ」を了解する。
自己の「こなた(こちら)」は「そなた(他者)」から「こなた(こちら)」を了解する。
となるのか。となると道具存在者の「あそこ」とは、道具存在者は最終的に現存在に至るから
道具的存在者の「あそこ」とは他者のことをいってたのか。
となると、自己の「ここ」は他者(他者といっても事物的身体的空間的ものではなく、自分以外の現存在)
から理解し反射的に自己(現存在)の「ここ」を了解するってことなのか。
強引だが、こんな感じでどでしょう?

187 :パンパース:05/02/18 19:44:32
そう考えると、他者があっての私となり、そのことは、それぞれの現存在があてはまる。
この関係で世界は成り立っているとするならば、
「私」があってこそのあなた達という「存在者」はいないとなるのだろうか。
この「私」という「存在者」とはもちろん神とされるもの。



188 :パンパース:05/02/18 20:23:58
>道具の関連としての世界は、同時にそれを使う誰かをともなっている限りで、共世界であり、現存在は共存在する。
反面、他者一般の存在性格の本当の意味の分析は十分できていない

道具的存在者を他者その者と直結させるのはまだ危険なようですね。

「道具存在者の「あそこ」とは、道具存在者は最終的に現存在に至るから」
とするのは危険そうです。

189 :パンパース:05/02/18 22:28:19
第26節 続 続
「世界内部的的な道具的存在者との配視的交渉がそうであったのと同様であり、
だからそうした配視的交渉をわれわれは先取りする形でさきに配視的な気遣いとして
特色づけておいたが、共現存在と配視的交渉との学的解釈の根拠になる気遣いとは、
現存在一般の存在がそれとして規定されているゆえんのものである」 原書P121

この文が前章と、これからを結ぶ文か。
 「共現存在と配視的交渉との学的解釈の根拠になる気遣い」
このあと、現存在に対しての交渉は顧慮的な気遣い、配慮的な交渉は道具的な者との気遣いとなり、
ある線が引かれるんだが、
そもそも、「気遣い」って言葉が以前からなんか違和感あるんだよな。
「気遣い」って.「気を使う」ってことでいいのだろうか
配慮的な気遣いとは、道具に対して気を使うということでいいのだろうか。
道具に対して気を使うとなると
気に入った物を買ったら、それなりに、気を使い大事にするが。ハイデガーはそんなことを
いってるはずがない。道具とはそもそも他者であるから、他者と接するよう道具にも気を使うなら、
なんとなく理解できる。
つか、「気」ってなんなのだろう。
気遣うためには、「気」がないと遣えないな。
「気遣い」なんとも変な言葉だ。


190 :考える名無しさん:05/02/19 02:20:50
>>186
>強引だが、こんな感じでどでしょう?
まぁ、いいのかな?
ただ、文を書くときは、主語をはっきりさせよう。

現存在が、自己を超え出て、道具的存在者のほうから、自己を了解する
っていうのが、基本パターンだ。

さらにこれは、
「現存在は、本質上立て続けにかつさしあたって関わりあっているまさにその存在者から、つまり「世界」から自己自身の存在を了解する」p15下
ということのバリエーションである。

>>187
>この「私」という「存在者」とはもちろん神とされるもの。

ハイデッガーは、神を基盤にした存在論の構成ははっきり否定しているので、そういうアプローチはとらないだろう。
しかし、後のほう(55節以降)で出てくる「良心の声」あたりの記述では、神学的な要素が混入してるんじゃないかと勘ぐりたくはなる。


191 :考える名無しさん:05/02/19 02:43:40
>>189
>「気遣い」
Sorgeだよな。
「気遣い」と訳す事で、「気を使う」「気を回す」「気にする」などなどを連想するようにしてるんだけど、これは、日本語上の連想を引きこして誤解を与えやすい訳しかただと思う。

原祐訳は、説明的に訳している。辻村訳では、「慮」ものとに原語の構造を反映しようとしている。
ターム  原祐訳      辻村訳
Besorge 配慮的な気遣い   配慮
Fuersorge 顧慮的な気遣い  顧慮
Sorge 気遣い        慮

Sorgeは、普通のドイツ語の日常的会話では「心配」という意味だ。
だから「気にする」と訳しても間違いじゃない。
しかし、気とSorgeとを同一視して、日本語の意味のネットワークで考えてしまうと、かなり混乱するよ。
以前は「関心」と訳されたりもした。

それぞれ意味するところは、
Besorge 道具的存在者との交渉における現存在の存在性格
Fuersorge 他の現存在との交渉における現存在の存在性格
Sorge は、Besorge 、Fuersorge などの根本にある現存在の存在規定

Sorgeについては、39節以降で本格的に扱われる。ここでは、Fuersorgeについて素描される。

192 :パンパース:05/02/19 11:35:50
>>191
なるほど、気遣いとは、現存在が、配慮や顧慮を可能にする現存在の根本規定みたいな感じで
とらえればいいみたいですね。ありがとうございます。

そういえば、作文は昔から苦手だったな(笑

193 :パンパース:05/02/19 13:27:05
>>190
>ハイデッガーは、神を基盤にした存在論の構成ははっきり否定しているので、そういうアプローチはとらないだろう。
しかし、後のほう(55節以降)で出てくる「良心の声」あたりの記述では、神学的な要素が混入してるんじゃないかと勘ぐりたくはなる。

ふと、古東さんが書いてたことを、思い出したので抜粋しますね。
ハイデガーは二十歳のころ、心臓発作でたびたび生死をさまよったらしい。
「だが、この極限の不安と、ほとんど同時ではなかったかとおもう。初期書簡や
初期講義禄の痕跡のなかに、憶測するしかないのだが、極限的不安といわば刺し違い
のようなかたちで、ある決定的体験が、落雷のようにハイデガーを直撃したようだ。
もともとが神学青年。身につけた宗教的瞑想法も、それに拍車をかけたろう。〜
瞑想行とは洋の東西をとわずもともと、生体を可能なかぎり死体に近づける擬死化の技法(メンテ・タナト)。
意図的に絶望認識と死滅心境をつくりだす。〜
さて、死を極限まで思うそのメンテ・タナトの行法がこうじたある日。ハイデガーは、最終最期のあるなにかを、
しっかりつかむ。〜それが、さきにのべた「生の事実性」である。
「この生が存在するということ」(Sein des Lebens)。〜
生の事実性。だから、死んでいるのではなく、あくまで現にこの世に生きて在ることこそのこと。
そんな生や世界の存在に、はじめてありありとでくわす。そしてあらためて驚く。
「驚異中の驚異、つまり存在者が<在ることそのこと>を経験する」〜
存在忘却の根本体験(存在の凄さを忘れていたことの痛切な体験)とのちにいわれるそれ。
「存在と時間」が、それゆえにこそ書かなければならなかったといわれるそれ。それは、
まさにハイデガー自身におきたできごとである。おそくとも、第一次大戦が終結する一九一八年まで
のことではなかったろうか。〜
以上、それほどはっきりした論拠はないのだが、ぼくはこの頃あたりに、かれの至高体験(存在神秘体験)が
起こり、現実世界(生の事実性)へ帰還したと解釈している。〜


194 :パンパース:05/02/19 13:29:40
むろん優秀な神学青年。その脳髄には、生や死後をめぐる、膨大な知識がたたきこまれていた。なにより、
強力な彼岸此岸のニ世界論があった。みにくくはかないこの世をこえた、美しい彼岸の永遠の生への祈りもあった。
だがいうまでもなく、脳味噌につめこまれたそんな知識や教義も、神学体系が編みあげる概念の大伽藍への信仰も、
生の現場にひきおこる生々しい不安や地獄図をまえにして、なんの役にもたたない。嘘っぽいおとぎ話にさえ、おもえたろう。
そして、絶体絶命のある日。突然、憑きが落ちたかのような覚醒の瞬間がおとずれる。
この世が在るということ。生が事実このように実現しているということ。この変哲もない存在の事実や生の事実の凄さに、
まるで雷(神鳴り)のように撃たれる(存在に襲撃された存在神秘に覚醒するこの出来事が、後にいうエルアイクニス。
もっとも「神聖顕現(パルージア)つまりエルアイクニス」60-149)という言い方で、すでに一九二一年講義に登場。)
ハイデガーがはじめて、<存在を存在した>時である。「生それ自体のもとに滞在すること」とか、
「生が生それ自体へ至ること」とか、「時を時として生きる」といった言い方で、初期講義禄のあちこちに散見されるそれが、
以後、ハイデガーの原風景となる。
 それは、ある意味で、すべてが解決し、充たされた時の出現だった。だが、充たされた時だからこそなのか。
ふっと幻影のように、なにか神のようなもの(ein Gott)が、かたわらを静かに通りすぎる衣擦れの感覚を覚える。
のちにいう最後の神(Ietzte Gott)さえ幻視するこの体験。それが、まじめな神学生が、最後にゆきついた場所である。
ハイデガー存在神秘の哲学 古東哲明 P42〜51抜粋



195 :パンパース:05/02/19 13:33:15
古東さんは、はっきりとした論拠はないっていっているけど、
ハイデガーへ、より、興味が引かれる文面ですね。

196 :パンパース:05/02/19 16:18:47
第27節 度々
「積極的な顧慮的な気遣いの二つの極端 ― 尽力し支配する顧慮的な気遣い、
および手本を示し開放する顧慮的な気遣い ― の間に日常的な相互共存在は保たれており、
多様な混合形式を産み出す〜」 原書P122

ここで、ハイデガーは、なんか、人間学?みたいなことを語ろうとするが、
「ここでの根本的研究の範囲外のことである。」として、語るのをやめる。それは、いいとして
後に続く
「顧慮的な気遣いは、顧視と寛大視によって導かれる。それら両者は、顧慮的な気遣いとともに、
これら両者に対応する欠損的な無差別的な様態を通過して、ついには、傍若無人に振るまい顧視しないことと
、投げやりな無頓着を導く甘やかしの温情とにいたりうることがある。」 原書P123

うーむ、欠損的・無差別的とは現存在同士が「無視しあったり、たがいに素通りしあったり、
たがいになんら心にかけあわなかったり」みたいな状態のことだから、それを通過して傍若無人に
振るまい顧視しないことと、投げやりな無頓着を導く甘やかしの温情とにいたりうることがある?
現存在、あるいは共存在のどうゆう状態のことをいっているのだろうか。

「現存在は、本質上、他者たちという目的のために「存在している」。
「他者たちのためという実存論的な目的性としての共存在において、他者たちは、
その現存在においてすでに開示されているのである。」 原書123

現存在は、孤立しているのではなく、現存在自身がすでに先行的に他者たちを開示している。
だから、逆に現存在が孤立しようと思ってもそれは、無理である。みたいなことをいっているのだろうか。


197 :パンパース:05/02/19 22:23:00
第26節 最終
「現存在は世界の内で本質上そのつどすでに存在しているのだが、
そうした世界のこのように構成されている世界性が環境世界的な道具
的存在者を出合わせるのであり、それも、配視的に配慮的に気遣われたもの
としてのそうした道具的存在者といっしょに、他者たちの共現存在が出会われる
というふうに、出合わせるのである。」原書P123

いずれにせよ、ハイデガーは前章の世界性に共現存在を組み込もうとしているようだ。
世界の世界性は道具的存在者と、共現存在とのセットものだといっているようだ。

「「感情移入」は、共存在をはじめて構成するのではなく、共存在を根拠としてはじめて可能であり、
感情移入が不可避的になるのも、共存在の欠損的な諸様態が優勢であることによって動機づけられているのである。」 原書P125

なにか、この辺りに書かれていることは、本来現存在という存在者は一つである、
決して主観(自分)、客観(他人)と分かれているものではない。そして、普段我々が感じている
人間関係とは、ある欠損的な状態であるといっているようだ。
では、欠損的でない完全な諸様態の人間関係とは、どうゆう状態をいうのか。
それとも、我々は、欠損的状態から逃れられないのだろうか。
なんか、道徳的・宗教的になりますね。

「現存在は、配慮的に気遣われた世界のうちに没入しているときには、
同時に他者たちへとかかわる共存在に没入しているものであり、おのれ自身ではないのである。
それでは、いったい誰が、日常的な相互共存在としての存在を引き受けていたのであろうか。」 原書P125

それは、世人が引き受けているといおうとしているのは、解る。
だが、その時「おのれ自身」は、いったい、何処にいて何をしているというのだろうか?





198 :考える名無しさん:05/02/19 23:40:30
「ぃぃいいいんんん・・・・ひっぃぃぃいぃ・・ハンナさんのおマンコがぁぁぁひっぃぃ・・・擦れるゥゥいひぃぃ・・・」
「ねぇ・・・私をオカズにしてオナニーしてたんでしょ・・ねぇ?」
「はいぃっぃぃぃ・・・いひぃっはぁおおぉっぉ・・してましたァ・・・ハンナさんをオカズにしてェ・・おセンズリしてましたぁぁひっぃぃ・・・」
「そう・・・やっぱり。このデッカイチンポからザーメンいっぱい出したんだ?」
「ひゃぅぅ・・ハイッハイィィィッ・・ザーメン出しましたァ、ま、毎日ハンナさんをオカズにしてェおセンズリしてェおチンポ汁イッパイ出しましたァァ・・・」
「どうして・・・? どうして隠れるみたいにしてたの? ・・・えいっえいっ」
「ひゃぅぉおおおああああっ!? 擦らァ擦らないでヒッィィ」
「どうして? そーれグリグリ・・・」
「アヒッアヒッいぃいっぃうん・・・だってぇだってぇ・・・初めてェ・・ハ、ハンナさんを見た時からァ・・ひぐぅぅぅぅうぅっ」
「うんうん・・・? それそれ・・・グリュグリュ」
「ひぃぃい・・・す、素敵な方だなあってェェ・・・ヒン・・でも、でもぉぉおおぉおおおん・・」
「素敵? 私が?」
「はいぃぃ・・とっても素敵だなぁってェェェェ・・スレンダーでェ、明るくてェ、・・・でも、私、私ィィ・・・感情を表に出すのが苦手でっヒィン・・・いふぅぅ」
「そうなんだ・・・ゴシゴシ・・・」
「いぅぅぅぅん・・・はいぃぃ・・そ、それにィ、私ィ、フッサールさんやシェーラーさんやみたいにィッ・・ヒッ・・・カリ大きくないしぃぃいいい・・・スタイルよくないし・・・ハヒッ、おチンポばっかり気持ち悪いくらい大きくてェェェェ・・ひぃぃ・・」
「そうかなぁ・・・ハイデッガー教授はすごい可愛いと思うけど?」
「私ィ、性格もそんなに明るくないぃか・・らァ・・・きっと、ハンナさんに嫌われるって・・思ってぇぇ・・」


199 :パンパース:05/02/19 23:50:56
>>198
色んな、種類の文字を組み合わせるとによって、ここまでリアルに表現でき、
又、相手に伝えることができるもんなんだな。
あなたは天才だ。

200 :考える名無しさん:05/02/20 00:52:48
>>198
「アーレントとハイデガー」や「往復書簡」をよむと、こんな感じじゃないな。
ハンナのほうが従順で純情だったよう思えるよ。

201 :考える名無しさん:05/02/20 01:07:15
>>193
>至高体験(存在神秘体験)

なんかうさんくさいな。
個人的体験としてハイデッガーの身にそういうことがあったとしても、学としての哲学には一切関係ないと思うよ。
哲学に特別な修行は必要ないだろうし、そういうのを宣伝する「哲学」はいかさまだと思うよ。

経歴としてハイデッガーが神学部から哲学に転向したのは事実だけど、貧乏人の息子として援助してくれる司教様の顔をたてて、神学部にいってたんじゃないか?
入ってみるといきなりフッサール「論理学研究」を図書館から借り出して読みふけってるよ。
ぶらぶら野の道を散歩してて、哲学に転向しちゃえって決心したんだよ。哲学のほうが出世しやすいと思ったと思うよ。

202 :考える名無しさん:05/02/20 01:20:47
>>196
「顧視と寛大視」
原語はRuecksicht,Nachsichtです。
Besorge(配慮)にUmsicht(配視)が対応するように、Fuesorge(顧慮)にRuecksicht,Nachsichtが対応している。

要するに「他人のことはお構いなし、他人に無関心と言う場合にも、Ruecksicht,Nachsichtが欠如した顧慮が働いている」ということ。

以上のように、他人との関係はいろいろあるけど、ハイデッガーにとっては、組み合わせで説明つくから、これ以上本論とは関係ないので、簡単に説明している。
いわゆる人間学や倫理学では、もっといろんな類型を分析するだろうけど、ここでの本筋は「存在とは何か」なので、そういった詳細はいらないということ。



203 :考える名無しさん:05/02/20 01:36:44
>>197
>では、欠損的でない完全な諸様態の人間関係とは、どうゆう状態をいうのか。
>それとも、我々は、欠損的状態から逃れられないのだろうか。
>なんか、道徳的・宗教的になりますね。

あとで、非本来性ー本来性の問題が出てくるが、論理構成上必要なのででてきているのであって、「道徳的・宗教的」ねらいがあるわけではない。

>だが、その時「おのれ自身」は、いったい、何処にいて何をしているというのだろうか?

大抵の事をしているときには世人のままだろう。
通勤電車に乗っているときは、ほんとに自分が誰でもない誰かになったと実感するよ。
まぁ、これは、別にこの瞬間だけ世人になっているわけじゃないが。

「考える名無しさん」というのは、まさに「誰でもない誰か」であって、世人が何かをいってるに過ぎないな。

ハイデッガーの言うような本来的な自己という存在様態が可能かどうかというのは、議論の的にはなるが…
(サルトルは、はっきり不可能といっていたと思う)

204 :パンパース:05/02/20 12:15:05
>>201
なるほど、第三者が>>193みたいな感じのことを書くから、
そして、それが積もり、積もって
後々、その人物が何百年後とかに伝説化してしまうのかもしれないね。

205 :パンパース:05/02/20 12:53:13
>>202
私は、「配慮」するためには、「配視」が必要であり、「顧慮」するためには
「顧視」「寛大視」が必要と、解釈してたんですが、違うみたいですね。
「配視」が欠如した「配慮」と、「配視」あっての「配慮」との比較分析や、
また、「顧慮」についても同じことがいえると、ハイデガーは長々と解説してたんでしょか?
そうなると、私は、今までかなり曖昧に読んでいたことになる。

206 :パンパース:05/02/20 13:58:13
番外編
昨日、寝る前に考えたんだが、「現存在」といわれるものは、一つのものなのかもしれないと。
ずっと、人間3人いればその数だけ「現存在」があり、個人に別々に、現存在がぶらさがっているような。
例えば子供が持って歩いている風船(現存在)ようにフラフラと後をついてくるイメージだったんだが、
そうなると、「主観・客観」「自分・他人」の関係となんら変らないことになってしまう。
例えば、大木が「現存在」で、葉っぱを「人間」とすると、我々は、共存在していることになる。
葉っぱ一つでは何もできなし、又、日光や雨がよく当たる葉っぱが日陰にある葉っぱを間接的に
助けていることになる。そして、葉っぱが大木を成長させ、大木がより多くの葉っぱを産む。
大木あっての葉っぱなのか、葉っぱあっての大木なのかわからないくらい、循環しあう。
葉っぱ同士よく見るとそれぞれ形がちがうし、別々の存在者だとも言えるが、
広い視野でみると同じもの。
そして、現代、人間が病んでおかしい事件を起したりするのは、大木(現存在)が病んでいるのではと。
まぁ、こんな感じのことは昔からある思想だと思うけど、今のところ、
ハイデガーがいおうとしてる構造と、ピタッと合う感じがするんだけどな。

207 :パンパース:05/02/20 15:56:34
第27節
「平均性のこうした気遣いは、これまた、現存在の一つの本質上の傾向を露呈するのだが、〜」原書P127

「世人が、現存在の一つの本質上の傾向を露呈する」といっているのだろうか。
そうなると、>>206のように、現存在を大木とイメージするならば、大木の今の状態(コンデション)が
世人という形で現れるとなる。
世人とは、現存在のその時の状態・傾向のありのままを、表しているといっているのだろうか?
だが、このように世人と現存在を結びつけると、以下の文で、つじつまが合わなくなる。

「世人はいたるところに居合わせてはいるのだが、しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、
いちはやくつねにこっそりと逃げ出してしまっているというふうに、居合わせているのである。」原書P127

世人はいたるところいる・・・意思を持った葉っぱ達が世人。現存在(大木)が決断をせまるときには、
こっそり逃げ出す葉っぱ達・・・
ぐはっ、やはり事物的存在者をモデルに考えると、どんどんおかしなことになってしまう。
自分なりには、いい線ついたと思ったんだが、あえなく撃沈。


208 :パンパース:05/02/20 18:04:45
第27節 続
「おのれに固有な現存在の自己も、他者の自己も、まだおのれを見出してはおらず、
もしくは、おのれを喪失してしまっているのである。」原書P128

やはり、現存在というものは、おのれに固有なものなのかな。3人いれば三つの現存在があるとなるのか?

「差し当たって現存在は世人であり、たいてい世人であるにとどまる。したがって、もしも
現存在が世界をことさらに暴露しておのれに近づけるときには、つまり、現存在がおのれ自身に
おのれの本来的な存在を開示するときは、「世界」のこうした暴露と、現存在のこうした開示とは、
現存在がおのれをおのれ自身に対して遮断している隠蔽や不明確化の撤去として、またそうした偽装の
破砕として、つねに遂行されるのである。」 原書P129

現存在は、変化するようだ。たいていは世人の段階でとどまるが、「配視」「顧視」「寛大視」
を駆使して、何か隠蔽されているものを、あからさまにし、暴露し、現存在自身を開示することができれば、
なんか、スーパー現存在みたいなものになるのだろうか。
何か、この辺の感覚が、ヨーガとかでいわれる、瞑想などで修行をつみ、「自己を覚醒させる」みたいな
感じとダブりますね。


やっと、中公クラシックスT巻読み終えたぁ。しかし、この本念気入ったなぁ。
一冊の本を、ほとんど手元に置き、こんなにボロボロになるまで読み続けたこと今までなかったな。(笑


209 :パンパース:05/02/20 23:22:22
番外編
世人・・・今日の私は、昨日の私ではない。昨日の私がベストだと思って行った行動は、
今日の私にとっては、ベストではないこと感じる出来事は多々ある。
同じ、私なのに、今日の気持ちなら、昨日の私は違う行動をとっていた。
この関係には、同じ自分でありながら、時間というものがかかわっている。
それが、ハイデガーがいおうとしている世人なのか・・・?。

210 :パンパース:05/02/20 23:32:18
>>209
の解釈から、以下の文を解釈すれば、
「世人はいたるところに居合わせてはいるのだが、しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、
いちはやくつねにこっそりと逃げ出してしまっているというふうに、居合わせているのである。」原書P127

現存在は、今の自分ってことになる。そして、いちはやくつねにこっそりと逃げ出してしまっていると
いうふうに、居合わせている世人とは、過去の自分を指しているのだろうか。

211 :考える名無しさん:05/02/21 03:30:48
>>205
>私は、「配慮」するためには、「配視」が必要であり、「顧慮」するためには
>「顧視」「寛大視」が必要と、解釈してたんですが、違うみたいですね。

「必要」ってことがどういうことを指しているのかが問題。

世界内存在 − 現存在の存在機構
配慮(顧慮) − 内存在の存在様式
配視(顧視、寛大視) − 配慮(顧慮)にともなう視

配慮には配視が必ずついてまわる。けど、その強度(といっていいだろうと思うが)はいろいろある。
いろいろな交渉において配視の強度もいろいろなバリエーションがある
*「ハンマーで打つ」
*「理論的な測定」などなど。

『存在と時間』では、さまざまなバリエーションに関しては、本筋から離れるので、簡単な例にとどめて詳細な記述がない。
本筋は、世界内存在という現存在の存在体制から、現存在の存在規定である慮を明らかにすることで、その過程で、配慮、顧慮などの存在様式が問題になっている。

*「〜の欠損」「〜の欠如態」などという場合の「欠損」や「欠如」ということの存在性格がいまいちはっきりしていない、という指摘は、もっともだと思われる。
上ではとりあえず「強度」があるという風に解釈しているが、そういう解釈でいいかどうかは、問題があると思う。
(特に「動物」が現存在に入るのかどうかなどという点では、問題になってくると思う。)

212 :考える名無しさん:05/02/21 05:04:15
>>208

現存在っていうのは、とりあえずの理解としては「個々の人間存在」を指していると思っていいだろう。
現存在が、自己の存在を掴み取ることにおいて、本来的であったり、非本来的であったりするわけだ。

たとえば、道を歩くとき何も考えずに歩道を歩くよな。
こういうときに世人が判断してるんだわ。
一般的に公共のルールに従って何かやってるときは、おおむね世人として行動しているだろう。
後で分かることだが、本来的な自己になってる状態ってのは、ほとんどない(笑い。

あらかじめいっておくと世人の対極は先駆的決意性ないし不安に基づいた本来的な自己だ。
ハイデッガーでは、これが、現存在の全体性を開示してくれることになってる。
(しかし、サルトルは不可能だといっている)

>やっと、中公クラシックスT巻読み終えたぁ。
ちょうどきりもいいので、今までの 『存在と時間』の理論展開を振り返って、まとめてみてはどうか?



213 :考える名無しさん:05/02/21 12:33:29
木田元先生が、存在と時間を翻訳してくればいいのに。

214 :考える名無しさん:05/02/21 12:45:34
最近の文字は無形な世界を作り出しているに過ぎない
私は無から有を作り出したい 
今や太古の技術になりさがった言語学の復興を

昔は語学といえば理数に勝ほどの現実的なものだったというに嘆かわしい

215 :考える名無しさん:05/02/21 12:49:51
文と章の集合体を解りやすく説明するための物であると思い違いをしている
日本人の考え方にはどうも共感できんな
それにくらぶれば哲学的で法式的な文格として中国は遙かに富んでいる
私は語学を解きほぐすことができない黒板に描かれ組み合わされた数式のように
受け止めるべきだと思うのだよ

216 :考える名無しさん:05/02/21 12:50:02
>>214
無から有を作り出す。
小説家を目指すものなら一度はそれを夢見るでしょう。
具体的にはどのような作品を?

217 :考える名無しさん:05/02/21 12:54:21
馬鹿な、無から有を作り出せるものか。精々、順序を変える事しかできない。

218 :考える名無しさん:05/02/21 15:47:55
>>217
ふう、理系バカは困るよ。
五・七・五に縛られてもほぼ無限の可能性があるんだよ?
まあ、あんたに話しても無意味だろうがね。

219 :考える名無しさん:05/02/21 16:09:01
おいおい、ハイデッガーに関係ない話題は他でやれ
警告しておくぞ

220 :パンパース:05/02/21 18:49:47
>>211
>特に「動物」が現存在に入るのかどうかなどという点では、問題になってくると思う。
私は、人間以外の動物・生物は「存在の意味」を知るよしもないから、現存在では無いと思ってたんだけど、
今、あらためて考えると、彼らは存在の意味を知っている、もしくは、肌に染み付いているのではないか?
だから、あれほどまで、世界といわれるものに、従順で秩序だたしく行動してるのか?
そう考えると我々人間だけが、世界をみだし無秩序ゆえの混乱をきたしているということになる。
「存在の意味」を知らないのは、ひょっとして、私達人間だけなのか〜?
また、変な思想がうかんでしまった・・・






221 :パンパース:05/02/21 19:52:24
>>212
世人の対極は、スーパー現存在ではなく、入門書などで書いてある、死の先駆ってやつですか。
悲しいかな、現存在。ほんと、トホホですね。
まとめる!っていうのは、私にとって、もっとも苦手な作業なんだけど、やってみます。



222 :考える名無しさん:05/02/21 20:16:53
>>220
『存在と時間』原書p50に生物学の規定がでてきている。ここでの生物の規定が『存在と時間』での唯一のものだ。
大抵の場合動物が問題になるのは、「理性的動物(ロゴスを持った動物)」というアリストテレス以来の人間の定義だ。

1929/30の講義「形而上学の根本問題」では、動物は世界貧乏的である、とされている。
(訳があれだが、世界貧乏的とはweltarmの川原栄峰訳)
多分
動物 = 現存在 − 存在了解
という風に考えてるんだと思う。


223 :パンパース:05/02/21 20:31:06
>>214
私は、文字、コミニケーションが苦手ということで、
コ・ト・バ ヒトーツタリナイクライデー、ゼーンブッ コーワーレーテ シマウーヨウナ〜
みたいな感じで言葉を超えたつながりがあるだろう!って思い生きてきたが、
今は、言葉を伝える文字とはすごく重要なことに気づきました。
文字、本がなければ、私はハイデガーに出会うことも、ある意味できないことだしね。
なので、今は、言葉、文字とは
アイノコトダマー フ フ フ シラベトァ〜みたいに考えるようになりましたね。

224 :パンパース:05/02/21 22:27:09
>>222
まとめをふくめ、もう一度原書P50を読みなおします。
それから、>>178が書かれている個所が見つかりました。なんと中公クラシックスT巻P12。
灯台元暗しとは、このことだ。
「ハイデガー自身が、すでに早くから、たとえば一九三五年に「学長職の失敗」をヤスパーズに
告白し、前記「全集」中に所収の戦後の書文書においても、繰り返しこの一年間がみずからの政治的
「誤り」であったと承認している。「世界史の車輪のなかに手を突っ込む子供は、粉々に砕かれる」
というマックス・ウェーバーの言葉を引いて、ヤスパーズが戦後にハイデガーを批判したとき、
ハイデガーは、そうした「夢見る子供」という比喩によって自分が完全に図星を指されたことを告白している。」
と、書いてある。

225 :◆RecKD9Ind2 :05/02/22 06:39:10
おはよう。
ひととおり読んで来週にはレスをつけたいと思います。
パンパースくん、名無しくん、ポールくん、よろしく。


226 :パンパース:05/02/22 08:21:31
>>225
はじめまして、よろしくお願いします。

227 :パンパース:05/02/22 22:03:17
1節〜27節 まとめ
過去レスを読みなおしました。
現存在は、現存在自身の場所(ここ)を了解または確保する為に、自らで、まず、「そこ」
を確保し(遠ざかりの奪取)、現存在自身の「ここ」を了解もしくは確保しているということ。
そうなると、まず、「遠ざかり」というものを誰かが産み出さなくてはならない。
現存在自身が遠ざかりを産みながら、他の遠ざかりを奪取するというならば、循環する。
しかし、そうなると最初に遠ざかりを造ったのは、誰か?っていう問題がでてくる。神・・・?
それとも、昏々と泉のように遠ざかりを産み出しているものがあり、それを現存在が奪取しつづけている、
とも考えられる。そうなると、昏々と泉のように遠ざかりを産み出し、みずからは、遠ざかりを奪取しなくてもいいものが必要だ。
またしても神てことなってしまうな。
あー、私は、神が存在するのか存在しないのかではなく、神の存在の意味を探っていたのではないのか?
それは、解るんだが、まず、神がいるのか、いないのかはっきりさせてから神の存在の意味を探らなくては進まないのではないか?
まとめるといっても解らないことが浮き彫りにされただけか。

それから、「配視」とは、例えば、一軒の家を、ある現存在が見たときにおこる、
心といわれるものに変化を与える最初の行動。たまたま、人が、通りすがりにその家を見た視、
たまたま、大工が、通りすがりにその家を見た視、その家に住んでいる人がその家が見た視、
同じ「配視」であっても、3人の「配視」からの配慮は全然異なるってことか。

すべての存在者は、あるア・プリオリなもので、一つに繋がっている。そうでなければ
出会うことができない。そこまでは、解った。だが、あるア・プリオリとは何んなのだろうか。神・・・。
どうも、理解不能な時点が神となるようだ。その時点が自分なりに解明できたら、それは神ではなくなり、
その先又壁にぶち当たった時点で新たな神が生まれるというのか。
それとも、どこまで行っても神に行きつくのか。


228 :パンパース:05/02/23 18:43:13
まとめ その2
現存在は、世界内存在という根本機構をもつ。
と、言うことは、私は、世界内に又は、世界のもとにあるという前提がある。
世界のもとにあるわたしが、思考を走らせたところで、世界外の意識に至ることは
そもそも不可能なのではないか。
世界のもとに、在る、私が、世界について思いを巡らし、ある時点で、ゆきずまる。
そのゆきずまった地点とは、私にとっての世界内の果ての内側の壁にぶち当たったということなのか。
そこから先は世界外。世界内存在という根本機構をもつ私には理解不能な世界。
そこで、神的なものを思い浮かべてしまう。世界外とは、神の領域なのか。
このような発想は、事物的存在の広がりという、一般的世界がまじってしまっているかもしれない。
では、こう考えよう、私は、事物的存在者の広がりであるという、世界の外側を知り得ない。
同じく、ハイデガーがいう世界内存在の外側を知ることもできないのか。
「私自身は、世界―内―有る」という感覚が今もいまいち、はっきり、つかめないが、
世界内存在が、あるのならば、世界外存在もあるのだろうかという、素朴な問いと、
もし世界外存在があるのならば、世界内存在である私がいける場所なのか。
というような感じのことを第27節まで読み終えて考えております。


229 :チラシ配布中:05/02/24 18:45:46
坐禅と見性 第十四章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1108144172/
一粒の芥子、よく須弥山(しゅみせん)を隠す。
一掬(きく)の水の中に人魚たちが心ゆくまで踊る。
私は終日汝に相対していて、劫初以来会った事がない。
看よ、東山全嶺が水上を歩いている。
エックハルトの乞食の挨拶 「[朝な朝な好(よ)き朝です」。 雲門 「日々是好日」
扇を扇と呼ぶな、鋤(すき)を鋤と呼ぶな。
昨日は痛かったが、今日は痛くない。 さっきは泣きわめいたが、今は笑っている。
腹が減れば食い、疲れれば眠る。
雪がすべての山を白く覆うている時、なにゆえにあるひとつの山は覆われずにあるのか。
清浄の行者、涅槃に入らず、破戒の比丘、地獄に堕ちず。
我の知っている事を汝は知らず、汝の知っている事を我はことごとく知る。
大力の人がどうして彼の両脚を挙げることができないのか。
柱が毎日動き回っているのに、どうして私は動かないのか。
わたしは釈迦の出現以前からさとりの状態にある。 光あれと命ずる以前の神と共にあれ。

230 :パンパース:05/02/24 19:26:12
「存在と時間」の第4章に関するここまでの論究は、もっぱら実存の本来的様態と
非本来的な区別とにむけられてきた。そして非本来的様態は現実性(actuality)に基づくものであり、
一方、本来的様態の方は可能性に基づくものだということを指摘しておいた。しかしこのことは、
非本来性を可能性として眺めることができないとか、本来性が現実的たりえないとかといういう
ことなのではない。」M・ゲルヴェン 註解 159

まじ?第4章は共存在及び、顧慮が大きなテーマだと思っていたのに。ま、いいか。
しかし、「非本来的様態は現実性」、「本来的様態は可能性」このことは、かなり重要そうだ。



231 :パンパース:05/02/24 19:49:53
>>229
私は、日本で生まれ育った故、やはり、仏教的思想はすくなからず、染み付いてます。
だが、禅というのは、全然知識がないのでわからない。
どちらかというと、過去に他力本願の宗教から、自力本願の宗教に興味が沸いた程度かな。

「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前」


232 :考える名無しさん:05/02/25 01:41:05
>>231
「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前」っていうのは密教系になるから他力本願だろ。
しかも本来の仏教思想からかなり逸脱している。
死んだあとも財産をもっていけるんだぜ。
解脱っていうのは、本来「死んだら何もない」ことを引き受けることだろうと思われるが。
一時親鸞とサルトルとかその手の比較ナントカがはやっていたな。


233 :考える名無しさん:05/02/25 01:51:27
ん?
他力本願は、真宗でしょ・・・

234 :無知な名無しです:05/02/25 02:28:24
存在=認識ってのは?

235 :考える名無しさん:05/02/25 03:23:47
>>227
>現存在自身が遠ざかりを産みながら、他の遠ざかりを奪取するというならば、循環する。
>しかし、そうなると最初に遠ざかりを造ったのは、誰か?っていう問題がでてくる。神・・・?

「遠ざかりの奪取」っていうのは、EntfernenをハイデッガーがEnt-fernenというふうにハイフネーションしているのを単に説明的に訳しているだけだよ。
Entfernenは普通には距離のことだ。
要するに「距離」というのは、内実を見ると「遠ざかりをー奪取すること」だといってるだけ。

で、最初に遠ざかりの奪取をするのは誰ってことだが、現存在以外ない。
循環を問題にしているようだけど、そもそも現存在にはそれ自体循環的な構造がある。

「この存在者(現存在)にとってその存在においてこの存在自身が問題である」p12
この構造を、「そこ」「ここ」の空間性についていうと、
「おのれのここを現存在は、環境世界的なあそこにもとづいて了解しているのである。」
このことは、自己の存在が問題なのにもかかわらず、さしあたって大抵は、非本来的な自己了解しかもてないことと関連していて、
「現存在は、本質上立て続けにかつさしあたって関わりあっているまさにその存在者から、つまり「世界」から自己自身の存在を了解する」p15下
のバリエーションだ。



236 :考える名無しさん:05/02/25 03:24:49
>>227
> 同じ「配視」であっても、3人の「配視」からの配慮は全然異なるってことか。
厳密にいうとそれぞれの現存在にとっては、配視も、かかわっている世界も内実としては違ったものだろう。
でも、いろいろな(存在的な)内実については、『存在と時間』は問題にしない。
ただ、形式として、(存在論的に)他者との共存在を軸に共同世界を示すだけだ。

>すべての存在者は、あるア・プリオリなもので、一つに繋がっている。そうでなければ
>出会うことができない。そこまでは、解った。だが、あるア・プリオリとは何んなのだろうか。神・・・。

「ア・プリオリ」とは何か、っていうのが『存在と時間』のテーマのひとつなんだよ。
先天的っていう場合の「先」っていう時間規定はどこからくくるのかが問題なんだ。
簡単にいうと「存在の意味は、時間で説明できる」っていうのが、『存在と時間』の主な主張なんだが、「ア・プリオリな存在者」の存在規定を時間の地平の中で解明するってことも課題なんだ。
そのための準備作業を延々やってるんで、あまり先回りして平凡な答えを出しちゃいけない。

237 :考える名無しさん:05/02/25 03:25:21
>>228
>そこから先は世界外。世界内存在という根本機構をもつ私には理解不能な世界。
>そこで、神的なものを思い浮かべてしまう。世界外とは、神の領域なのか。

世界内存在の「内」ってことは、「内側」とか「外側」とかいう範疇的な事物的存在者の規定じゃないだろう。
事物的存在者の規定を、現存在に適応することを、ハイデッガーは延々修正するように論述してきてるんじゃないか?
>>230
第4章は、世界内存在が誰かという問いに答えるという課題の章だ。
その答えは、「現存在はさしあたって大抵いは世人である」ということだ。
この世人という概念は、以前の哲学で語られた「自我」や「主観」などと著しく性格を異にするものだ。
なにせ「誰でもない誰か」なんだから。
ということで、この考え方を説明するために、「共存在」と「共同現存在(他者)」について詳述する必要があった。

現存在が世人として非本来的様態でさしあたって大抵は存在しているというのは「事実」として確認されている。
で、形式的に考えると、本来的様態で存在する場合も考えられるだろう。
これについては、当面は「可能性」として考えることはできるわけだ。


238 :考える名無しさん:05/02/25 03:36:49
「本来的」とか「非本来的」とか言うからハイデガーは
実存主義者として括られるんだろうねー。
キルケゴールの単独者、ニーチェの超人もそうだけどね。

239 :考える名無しさん:05/02/25 03:41:21
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006020015/qid=1109264073/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-6323057-0105031
これしってるか?


240 :考える名無しさん:05/02/25 03:41:52
なんか誤解が多いけど本来的-非本来的の区別は
存在-存在者の区別に対応してるんだよん。

241 :考える名無しさん:05/02/25 03:41:56
ttp://www.siq.co.jp/media/itou/haidegga-.htm
これもよんでみ

242 :考える名無しさん:05/02/25 03:44:44
>>240
おいおいほんとかよ。
どこを読むとそう書いてあるんだい。


243 :考える名無しさん:05/02/25 03:48:07
>>242
どこにも書いてないかもしれんがはじめからその前提で読めば
きっと納得できると思うよ。

244 :考える名無しさん:05/02/25 03:56:55
>>243
その読みは間違ってるよ(むしろ通俗的な理解)。
いわゆる「存在そのものと存在者との区別」(存在論的な差異)と「本来性ー非本来性」の区別はまったく別物だろ。
本来性ー非本来性は、現存在の存在様態の区別なんだからね。
特にその指標は現存在が誰かっていう点だ。
これの区別自体は「存在的」な区別とも言える。
実際「本来的な自己」を存在論的に究明するには、存在的にそれを経験してないといけないからね。
現存在の本来性が『存在と時間』で問題になるのは、現存在の全体性が問題になるからだ。

245 :240:05/02/25 04:06:29
まあ引用できない以上解釈になるほかないんだけどね。

非本来的-現存在が存在者に従事している在り方
本来的-死への先駆によって現存在が存在自体に開かれている在り方

現存在の全体性が問題になるのは、現存在の本来性から
存在の問いが可能になるのと同時にそこから現存在自身も規定されるから。

246 :考える名無しさん:05/02/25 04:28:10
ナチスに加担した時点でハイデガーも「世人」だったわけだ。
「決断」とか「大きく誤つ」とか言っても言い訳にしかならないが
その見苦しさがハイデガーらしさでもある。

247 :考える名無しさん:05/02/25 04:30:31
>>245
だからニーチェの超人だって、そういうものなんだってば・・

248 :考える名無しさん:05/02/25 04:32:35
ハイデガーはニーチェの影響を大きく受けているくせに、
ニーチェを形而上学の完成者に仕立て上げるとは、
えげつないな・・・

249 :242=244:05/02/25 04:36:26
俺の考えとしては、『存在と時間』の普通の読みでは、本来性ー非本来性を、存在論的ー存在的あるいは存在そのものー存在者というふうには、対応付けれないと思う。
(後の『形而上学とは何か』まで射程に入れると話は変わってくるかもしれないが)

このスレの進行状況では、まだ読み終わっていない章にかかわっているので、対応する章を読み終わった後で、議論することにしよう。
少なくとも66章まですすまないと最終的に判断できないと思う。




250 :考える名無しさん:05/02/25 06:43:58
66章じゃなくて66節だな

251 :パンパース:05/02/25 08:27:09
>>232
密教は自力だと、思ってました。空海の教えを聞くのではなく、空海そのものをめざす感じで。
そして、ハイデガーは空海という存在者の存在の意味を探る学ってことのようだ。

>>235
まとめでの、私のわからない部分を適切に解説してくれて、ありがとうございます。
ただ、
>現存在自身が遠ざかりを産みながら、他の遠ざかりを奪取するというならば、循環する。
>しかし、そうなると最初に遠ざかりを造ったのは、誰か?っていう問題がでてくる。神・・・?
は、「遠ざかりを産みながら」は、「遠さを産みながら」の間違いでした。すません。
だから、最初の「遠さ」を造ったのは誰か?っていう問題が出てくる、になります。

「著者の自家用本の欄外注記によれば、遠ざけるとは「遠さ」を消滅させることだとする本文箇所に対して、
後年のハイデガーは、「遠ざけられるこの遠さは、いったいどこからくるのか」と、鋭く自問する注記を付記している。」
中公クラシックス版解説P284
の、ハイデガーの自問と同じ感じなのかな?

66節・・・半年はかかる予感(笑

252 :考える名無しさん:05/02/25 15:11:48
>>251
>「著者の自家用本の欄外注記によれば、遠ざけるとは「遠さ」を消滅させることだとする本文箇所に対して、
>後年のハイデガーは、「遠ざけられるこの遠さは、いったいどこからくるのか」と、鋭く自問する注記を付記している。」
>中公クラシックス版解説P284
>の、ハイデガーの自問と同じ感じなのかな?

中公クラシックス版では、ハイデッガーの欄外注記は訳出されてないのかな?
欄外注記はハイデッガーが自分用に持っていた『存在と時間』にハイデッガー自身が折に触れてメモ書きしたもののことだ。
いつ書き込まれたのかも不明な上、短く自分に分かる程度にかかれているため、もってまわった言い方になっている。
妄想の元になるから、『存在と時間』を最初に読む場合は無視しておいたほうがいいと思う。
この欄外注記は、後期の思想との関連で、後期思想のどの部分が『存在と時間』のどの個所と対応するのかなどについてヒントを与えてくれるだろう。

ここの場合は、素直な理解としては、存在そのものから遠さがくるんだと思う。
前期では、現存在のほうか存在が把握されるが、後期では存在のほうの動きを現存在が傾聴することになる。

253 :パンパース:05/02/25 22:21:44
>>252
Verstehenしました。←新しいの覚えたらすぐ使いたくなる性分でして。

「この第五章では、現存在がみずからの現実にきめられてしまっている実存と、その可能的で自由な実存とに気づく仕方が描き出されている。〜
いったいどうしたわけで私は可能性をもつというような仕方で存在しうるのか?
このことは、現実的な仕方で存在するのとどんな風に違うのであろうか?〜
つまり、私の現実性が私にとっていかにして意味があるものであるのか?ということと、私が可能性をもっているといることが、いかにして私にとって意味があるのか?ということである。
少々くだくだしく思えるかも知れないが、あえて私はこの相違を強調したい。」M・ゲルヴェン 註解 P160

第4章までは、車に例えると、どうやらフレームがやっと出来上がった状態か。
そして、第五章からエンジン積んだり、タイヤ付けたりするようだ。M・ゲルヴェンも気合入ってきたな。



254 :パンパース:05/02/25 22:25:37
「たとえば、裁判を待つ政治犯にとっては、自分の自由の可能性は現在の事実の状態よりはるかに重要である。
一方、たった今大切な戦いにかったばかりの人のひとにとっては、現在の事実の状態の方が、負けるかもしれない
という少し前までの不確かな感じよりもよほど重要である。〜ところが道徳的に非難されるべき行為を犯してしまった人間は、
自分は先刻そのような行為をさけることもできる状態にあったということに気づき、そうすると単に彼がそれをしたという事実よりも、
「一体なぜしまったのだろう?」という〜
M・ゲルヴェン 註解 P161

これは、未来を期待する(重視する)、今を重視する、過去を重視するという三者の例を出しているようだが、
このような現象を何故、私達は可能なのか、といっているようだ。
これを、一人の私に置き換えた場合も同じことがいえる。何故その時の状況で過去、現在、未来を
その時の状況で重視できるのか、もしくは可能なのか? 同じ私が何故、その時の状況で過去、現在、未来に
思いを馳せられる?
そうか!私は、刻々と変っているということか。そして、私以外のすべてのもの、事物的なもの、心という
無世界的ものもひっくるめて全部、私が思い浮かべる可能な限りの存在する、すべてが瞬間瞬間変化しているから、
可能な現象なのか!そうなると、私がひょっとしてあるのではないかと探していた普遍的、完全なもの、永遠なるものとは
時間というものが止まっているか、瞬間のみが、可能であるのか。逆にいえば私の時間が止まるとはありえないので、
普遍的、完全なもの、永遠なるものはありえないとなる。
ただ、瞬間は、私が感じることが出来ないスピードであるだけで、感じることは出来ないがありえるかもしれないということか。
「貫 成人 哲学マップ」だったかな?ある哲学者が「瞬間は永遠である」ってなこと書いてたがそういうことを、いっていたのか。
今やっと解ったよ。


255 :パンパース:05/02/26 11:58:32
「しかしここに哲学にとっての難しい問題がひそんでいる。
我々の言語や考え方の組み立ては世界の現実的な事実を描写するのに適したものであって、
悲しいかな可能性の領域を描写するには不充分なのである。
〜明らかに、現実的なもの可能的なものもともに正しく説明されるような哲学のみが
本当に完全な哲学であると思われる。しかしながらこのことは、言うのはたやすく行うのは難い。
哲学の歴史をみてみれば、一方を他方に帰してしまおうとする哲学者の例が非常に多い。
〜一方への還元の試みは、全く根拠を薄弱なものであることを自ら暴露しているようなものである。
〜このような事情から考えて理論的なわけのわかった結論をだそうとするならば、当然、
可能的なものの領域と現実的なものの領域をともに扱うような見解をつくり上げるべきだということになる。
しかしここに新たな困難があるので、可能的な思考の機能を、現実的なものを理解する機能から
分けてしまうや否や、二元論が姿をあらわして行きどまりになってしまうのである。
というのはどう見ても、人は現実的な生活と可能的な生活を並行して営んでいるのではなくて、
ただ一つの生活があるのであって、その内では現実的なものも可能的なものも共に重要なものなのである。
したがって、単に二つの全く違った別々の機能をわけたというだけでは不充分なので、
いかにそ二つが関連しているかをしめさなくてはならないのである。
そして現実的なものと可能的なとの間に関係があることに気付いたときから、
その関係を見つけ出し、記述することが課題となる。」  M・ゲルヴェン 註解P162

うーむ、現実的と可能的なものを記述するというのは、かなり困難そうだな。


256 :パンパース:05/02/26 13:00:06
「この問題に対するハデッガーのアプローチの仕方は、やはり一貫して「現象学的」な記述法である。
もしも現実的と可能的とのどちらの様態をおとすことも避けようとするならば、
まず第一に、それら二つの様態がそれ自身の意義を充分に自ら示すような仕方で考察を始めなければならない。
ハイデッガーは、二つの様態は等しく根源的であると主張する。
それは、どのどちらもが他方によって記述的に説明されえない―すなわち、
一方を他方に「還元」することはできない、ということなのである。
そしてそのような現象学的記述ののちに、はじめて、この二つをより一般的な概念のもとに統一する試みがありうるのである。 
 究極的な実存論的カテゴリーは「配慮(Sorge)」とよばれることになる。しかし現象学的にこのことを進めるのならば、
配慮から始めるわけにはいかない。配慮は究極実存論的カテゴリーとして明らかにされねばならないが、考察を始めるのは、
人の現実性があばき出される存在の仕方(心的状態State of mind・Befindlichkeit)と
人の可能性があばき出される存在の仕方(了解Verstehen)と二つの記述からでなければならないのである。」
M・ゲルヴェン 註解P165

ゲルチャンがあまりにも、気合はいってるから、私も気合をいれて長々とタイプしてしまった。
そして、「可能性は現実性を優先する」と、書き綴っている。
可能性と現実性は等根源的であるが、可能性が優先しているということか。
しかし、配慮は究極的な実存論的カテゴリーらしい。道具を使うことが究極的?いまいち配慮がわからないな。



257 :考える名無しさん:05/02/26 20:33:36
>>19 
違ったことを述べてる様に思えますが、どのあたりが同じなのでしょう。

258 :考える名無しさん:05/02/26 21:01:30
読むの大変。存在が問題になされているのは分ったのだが時間の方が
よく分らなかった。パンパースさん教えて下さい。

259 :考える名無しさん:05/02/26 21:21:30
パンパースは割といい加減に書いてるから、
気にしなくてもいいよ。

260 :パンパース:05/02/26 23:23:06
>>258
私は、時間どころか、存在も解りません(笑
以前、40節までチンプンカンプンでよんだんですけど(なので、最後まで読んだことありません)
「存在のことばっかり書いてあって、時間のこと忘れるくらい存在だな。
ほんと、存在の文字が無いページ探してみたいよ。」なんて思いながら存在という文字にうんざりしながら読んでたんですが、第五章から時間に
ついて、語られてたんだなと、今は感じてます。第4章までは、世界内存在の構造というものを、写真で写し、
その、写真に映った世界内存在ついてあれこれ、ハイデガーは説明していたように、今は思ってます。
で、第五章からはビデオに撮った世界内存在を元にハイデガーは説明しだすような。
世界内存在が動きだす。動くということは、変化し続ける。瞬間を捕らえた何枚かの写真ではなく、一つのもの、世界内存在が動き出す。
そして、あなたが、このレスを見るのは、一瞬で目に飛び込んでくるかもしれないが、だが、今こうして私が打っているタイプの文字の一文字、一文字順番に古くなっていく。


261 :パンパース:05/02/26 23:26:47
>>259
いい加減に書いているというよりは、むしろ私そのものがいい加減なのである。

262 :パンパース:05/02/27 00:00:05
>>260
>今こうして私が打っているタイプの文字の一文字、一文字順番に古くなっていく。
文字が古くなっていくのではなく、私が古くなっていくということか。

263 :考える名無しさん:05/02/27 02:19:51
>>260
>>9
「存在」とは何かを知る「行為」を行うことが「存在論」と関係あるとする。
すると、「行為」は「時間」を必須の要素として含むから、「存在」と「時間」が
「存在論」と関係あると言っているのですか?

264 :考える名無しさん:05/02/27 02:26:20
ゲルヴェンの解説書って一部で評判悪いんですが、大丈夫ですか?
買おうか否か迷っているのですが。

265 :考える名無しさん:05/02/27 02:50:50
>>263
『存在と時間』第5節をまず理解されたし。


266 :考える名無しさん:05/02/27 08:20:07
>>264
ゲルヴェンのは、いまいちらしいね。

ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4893841513/qid=1109459674/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/250-6323057-0105031
がいいってうわさだけど、絶版か。
ttp://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=06786216
では取り扱ってるが…


267 :パンパース:05/02/27 11:10:36
>>263
どうも、現実性と可能性を等根源的に分析するには、特に可能性のほうはどうしても
時間的なものがかかわらないと、分析できないように思えるんだけどな。
可能性・・・これから先の私、理想。
そうなると現実性と可能性との間には、なんらかの距離があるってことになる。
ただ、この距離っていうのを、一般的な時間ではない、って感じで分析すると思うんだけど。
これは、あくまで私が考えてる解釈なんで、なんともいえません。

>>264
「存在と時間」を節ごとに解説している解説書を、ゲルヴェンのしか知らなかったんで、
「1500円高けーよ」とか思って、買ったんだけど、まぁ、1500円の価値はあると、思ってます。
本屋いって、訳者のあとがき、とかを読んで決めればいいんじゃないかな。
本の最後に「本書は一九七八年五月十五日日清堂書店より刊行されたもに、大幅に手を入れたものである。」
って書いてある。大幅にって、何かワロタ。原型とどめてないくらい大幅なのかな。


268 :パンパース:05/02/27 13:33:08
第28節
「しかし、世界のもとでの存在(配慮的な気遣い)、共存在(顧慮的な気遣い)、
および自己存在(誰か)の本質上の諸関連を超え出て、何がされにそれ以上世界内存在で提示されうるのであろうか。」原書P131

そうか、配慮的な気遣いとは、世界のもとでの存在のことをいっているのか。
まさに、究極的実存論的カテゴリーだ。そして、世界内存在で提示しなければならないのは、
上の3点以外にはもう無いみたいなことを、書いてるな。上の3点「世界のもとでの存在(配慮的な気遣い)、
共存在(顧慮的な気遣い)、および自己存在(誰か)」が世界内存在ということか。

「内存在というこの現象でもって表示されているのは、事物的に存在しているなんらかの
主観と事物的に存在している何らかの客観との間の事物的に存在している交ワリ以外の
なにものであろうか。こうした解釈の主張するところが、現存在はこの「間」の存在であるということだと
すれば、そうした解釈は現象的事態にすでにいっそう近づいているのかもしれない。」 原書P132

事物的存在者と事物的存在者の「間」に存在的にではなく、存在論的に現存在が存在するとすれば、
ハイデガーがいおうとすることに、近づけることが出来るといっているのか。
現存在が事物的存在者をつなげる、接合剤ということか。



269 :パンパース:05/02/27 15:15:42
第28節 続
「人間の内の自然ノ光という存在的に比喩的な言い方は、人間というこの存在者が
おのれの現であるという在り方において存在しているという、
この存在者の実存論的・存在論的な構造以外の何ものをも意味していない。」 原書133

この前の文で、現についてハイデガーが詳しく解説している。ハイデガーにしては、
かなり解りやすく解説してあるな。
人間の内の自然ノ光とは、何を指しているのだろう。心・魂・生命・オーラ?
大体、そんな感じのものを指していると思えるんだが、そうなると、
一般的にいわれる人間の魂とは、まさに、現であるという在り方において存在しているという
構造のことを指している。とハイデガーは、いっていることになる。


270 :考える名無しさん:05/02/27 17:31:32
>>268
>上の3点以外にはもう無いみたいなことを、書いてるな。上の3点「世界のもとでの存在(配慮的な気遣い)、
>共存在(顧慮的な気遣い)、および自己存在(誰か)」が世界内存在ということか。

第12節で明確に言われているよ。

分析の端緒である第12節、第13節をもう一度読んだほうがいいと思うぞ。

> 現存在が事物的存在者をつなげる、接合剤ということか。

いつも事物的存在者の規定に逆戻りしていってるよ。

>>269
>自然ノ光
lumen naturale

http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/cyusei/cyusei03d.html

271 :パンパース:05/02/28 08:35:44
>>270
自然ノ光とは、理性のことをいってたのか、どうもありがとうございます。
「存在と時間」とは、なんとも険しい道というか、なかなか前にすすめませんね。
第12節、13節読んでみます。第12節これまた長い・・・。

272 :パンパース:05/02/28 19:00:31
第12節 へ戻る
第12節を読もうとすると、第9節を、読まなければならない。ふぅ〜。
しかし、第9節で面白い文を見つけた。
「事物的存在者にとってはおのれの存在は「どうでもよいもの」なのである。
綿密に吟味すれば、事物的存在者は、おのれにとってそのその存在がどうでもよいものでもありえなければ、
どうでもよくないものでもありえないというふうに「存在している」のである。
現存在に言及するときには、この存在者がもっているそのつど私のものであるという性格にふさわしく、
「私が存在する」、「君が存在する」というように、いつでも人称代名詞をそえて語らなければならない。」 原書P42

・おのれの存在がどうでもいいもの・・・石=事物的存在者
・「私が存在する」、「君が存在する」と語るこができるもの・・・人間=現存在
では、動物は?
例えば盲導犬、彼は、訓練によって「飼い主の存在」、そして「自分の立場もしくは存在」を自覚している
といえるのではないのか?かなりきわどいが、動物は現存在、もしくは、訓練次第では現存在になりえるの
ではないか?
そうなると、生命を持つものが、現存在となるのか。


273 :パンパース:05/02/28 19:11:06
そうか!トレビアの泉で頭の尖ったミジンコがいるのを見た。外的から身を守るために、
頭が尖ったらしい。彼は、「私が存在する」「君(敵)が存在する」と知っている。
だから、そのように敵が近づくと、逃げたり、頭尖らせたりするわけか。

274 :パンパース:05/03/01 03:55:44
「現存在はそのつどおのれの可能性であるのだが、〜」
「現存在は、現存在がそれであり、また、おのれの存在においてそれをどのようにかして了解
しているなんらかの可能性にもとづいて、おのれを存在者としてそのつど規定している。」原書p43

この辺の文で、やたら「可能性」を強調している。そして、「了解」となんときなしにつかっている。
可能性、了解とは、未来形。可能せしめる、了解せしめる。
なんだ、すでに、この節から時間を意識してハイデガーは書いているではないか。どちらかといえば結論を
書いてあるようだ。いじわるな書き方するな、ハイデガーは。

275 :パンパース:05/03/01 04:06:42
そうか、考える名無しさんの大先生よ。
まとめろとか、前節を強調していたのは、「存在と時間」のこの書き方に気づけという意図が
あったんだな。あなたも、いじわるだ(笑
「存在と時間」の道を進むということは、究極的には序論にもどるということか。

276 :考える名無しさん:05/03/01 10:06:10
>>275
大抵の哲学書は序論が一番むずかしいんだよ。
なぜかというと、本論を書いた後で序論がかかれるからだ。

「存在と時間」の場合特にそうだ。

また、ハイデッガー自身のまとめにあたる部分が、各分析の端緒の部分や終わりの部分に配置されている。
議論がごちゃごちゃしてきがちなので、論理構成の道筋を見失わないことが大事だよ。

277 :考える名無しさん:05/03/01 10:30:55
精神病理学者の木村敏さんは、名訳として、河出書房世界の大思想 辻村公一
訳「有と時(存在と時間)」をあげてます。

278 :考える名無しさん:05/03/01 16:23:20
>>277
ソースよろ。

279 :パンパース:05/03/01 18:13:53
>>276
なるほど、序論は最後に書かれるからそうなるのか。ありがとうございます。
それから、前半の節にまとめがあるわけではなく、各節にちりばめてある訳か。
「現存在は実存する。」原書53
こんな感じで、断言している部分がまとめであり、結論を出しているところか。

280 :<>277:05/03/01 18:27:31
>>278
木村敏『時間と自己』のあとがきに、若いとき辻村公一の指導を受けながら『存在と時間』を読んだと書いているな。
直接のデシであるわけだ。


281 :パンパース:05/03/01 22:02:43
考える名無しさんに捧ぐ
        尊敬と友情をこめて

ぼ〜くらは みんな〜生〜きている〜生き〜ているから現存在なんだ〜

「現存在は実存する。」原書P53 「或る物体事物(人体)が事物的に存在している或る存在者の
「内」に事物的に存在していることではありえない」原書P54

この文を解釈すると、
現存在は実存する、だが問題は、どこで実存するのか?「現存在はそのつど私のものである」が、
物体事物の人体ではありえないとなると、私の心の中に実存するのか?
そうか、世界内存在とは、心の世界のことで、現存在は、私の心(世界内存在)の中で実存するのか。
だが、以下の文でことごとく、この考えは破壊されてしまう。

「現存在自身において、また現存在にとって、世界内存在というこの存在機構はつねにすでにとにかく
熟知されている。ところで、この存在機構が認識されるべきであるときは、そうした課題のうちで表立ってくる認識は、
まさしくおのれ自身を―世界認識として「心」と世界との範例的な関係にしてしまう。」原書P59

ハイデガーは、私のような発想になることを、お見通しだったようだ。
しかも、私の「心」という概念をつくると、私の心、あなたの心となり、主観・客観という概念が生まれ私達が分離され、
出会うことが出来なくなる。
では一体、現存在はどこに実存し、又、世界内存在はどんな世界というのか?
現存在という私は、事物的存在として事物的存在にまぎれて、実存するのではない。
現存在として、事物的存在者にまぎれて実存することになる。世界内存在も同じく事物的存在者にまぎれて
「世界」といっしょにある世界ということになる。


282 :パンパース:05/03/01 22:03:18
遠ざかりの奪取。これは、事物的存在者を、道具的存在者として世界内存在に取り込む行為と感じられる。
一旦取り込むと、当り前になってしまって、壊れた時ぐらいに、その道具の存在に気づく程度になってしまう。
始めて取り込む時はもちろん興味心身というのは、いうまでもない。
子供が、何でも興味を持つように。
これは、ハイデガー的感覚の時間というものにも、関係するように感じられる。
遠ざかりを奪取する量が時間の長さみたいな感覚か。奪取する(吸収)量が多いほど、
時間が長く感じられるのは、このせいだ。小学校までの時間はすごく長かったな〜(シミジミ)
大人になるにつれ「盆がきたと思ったらもう、正月や」これは、よく聞かれる世間話で、
彼らは世界が当り前、もしくは奪取するものがほとんどなく、ある意味時間が止まっている状態といえる。
そして、事物的世界で私達が当り前のように出会えると感じるのは、実は、世界内存在というア・プリオリで一つに
繋がっているからそう感じるのだ。
結局、現存在はどこで実存するのか?世界内存在で実存する。
世界内存在とは何か?事物的存在者のすべてと私達の心すべてをひっくるめても、足りないもっと広い世界。
逆に言えば、事物的存在者も私達の心も世界内存在の一部である。

この、まとめが、現時点での私の自然ノ光(すぐ使いたくなる)での、解釈の全部であり限界。
それから、失礼なことを書いてすいません。私自身の未熟さ故の感じ方でした。


283 :考える名無しさん:05/03/02 02:53:29
>>280
>木村敏『時間と自己』のあとがきに、若いとき辻村公一の指導を受けながら『存在と時間』を読んだと書いている

辻村訳を推奨するなら『存在と時間』とせずに
『有と時』と記すはずだ。

284 :<>277:05/03/02 07:18:41
>>283
引用が不正確だったようだ。
あとがきには、若いとき辻村公一の指導を受けながらハイデガーを読んだと、書いている。
普通に考えて、「ハイデガーをよむ」とは「Sein und Zeitをよむ」ことだと思う。
しかしこの本の本文中では『存在と時間』といっている。
中公新書だから気を使っているのかもしれない(編集者が修正してるのかもしれない)。

>280
は、彼が『有と時』を推奨したことを直接証明しようとしているのではなくて、そもそもデシ筋にあたることを報告したまでだ。
単なる傍証に過ぎない。

辻村論争は意味がないので止めよう。





285 :考える名無しさん:05/03/02 10:00:37
278さんへ ソースは、岩波新書「心の病理を考える」p44

(邦訳は多数あるが、一冊を選べば辻村公一訳「有と時」河出書房新社だろう)

286 :考える名無しさん:05/03/02 10:36:09
しつこいようですが、岩波新書「心の病理を考える」木村敏からもう少し引用

精神科医としての私の最初の仕事はビンスヴァンガーの『精神分裂病』の翻訳だった。
当時まだハイデッガー哲学の素養のまるでなかった私にとって、これはまったく力にあまる仕事だった。
私は何人かの同僚といっしょに、ハイデッガーの直弟子である辻村公一先生について『存在と時間』を徹底的に
勉強することから始めなくてはならなかった。

しかしこの勉強会にはもうひとつ、えがたい副産物があった。それは、辻村先生が西田幾多郎の門下でもあって、
ハイデッガーの一言一句を西田と対比させながら読んで下さったことだった。
それによって私は、おそらくビンスヴァンガー以上にハイデッガーに密着した考え方するようになっただけでなく、
それをいつも西田哲学とつきあわせながら考えるようになった。
たとえばビンスヴァンガーは分裂病を世界内存在としての現存在の病態と見なしているが、この世界内存在というのは
ハイデッガーでは現存在の出立(エクシステンツ=実存)あるいは超越(トランスツェンデンツ)のことであり、
西田はそれを「自己が〈絶対の他〉のうちで自己に出会うこと」として捉えている。
そのような「自己」の病理として分裂病を考えてみたい、それを私は自分のライフワークとして心に抱いていた。



287 :考える名無しさん:05/03/03 05:54:42
>>282
Web上にあるものだと
http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/tetugaku/sonzaitojikan.html
とりあえずのまとめとしては、こんなかんじかな。
いろいろぬけもあるが。

>結局、現存在はどこで実存するのか?世界内存在で実存する。

というか、「どこか」を問える基礎となる「空間性」は現存在に根を持っているんだよ。
現存在に対して「どこに存在するか」とは問えないんだよ。

現存在は、世界内存在として存在している。
そのように存在することによって現存在は「ここ」にある。

>世界内存在とは何か?事物的存在者のすべてと私達の心すべてをひっくるめても、足りないもっと広い世界。

世界の世界性は、その内部で存在者が出会われる基盤だ。
そういう意味で、世界性は存在者の存在に何らかのかかわりがある。

世界は、出会われる存在者の「合計」や「総和」ではない。

>逆に言えば、事物的存在者も私達の心も世界内存在の一部である。

事物的存在者は、確かに世界の内部にある。
道具的存在者も、世界の内部にある。
で、両者はどういう点で違っているのか?
「私達の心」ということで、何を指しているのか?
現存在は、世界内部的に出会われるものか?

288 :パンパース:05/03/03 21:20:36
>>286
話題について行けない故、話題に参加できなくてすいません。

289 :パンパース:05/03/03 21:23:43
め〜ぐ〜る〜巡る〜道具のなか〜でぇ〜

>>287
>事物的存在者は、確かに世界の内部にある。
>道具的存在者も、世界の内部にある。
>で、両者はどういう点で違っているのか?
>「私達の心」ということで、何を指しているのか?
>現存在は、世界内部的に出会われるものか?

げ、これは、私に対する理解度チェックか。
Webのまとめを参照し、(今のところ共存在と世人までしか読んでません。)
大幅に私の考えを修正した上での、答えです。

現象学的に世界を見るということは、「私という主観」から見た世界から始る。
そうなると、ハイデガーが見たもの、感じたものを客観的に感じることは不可能。
ハイデガーという主観と、私の主観とが同じレベルでなければ、同じものを見ることが、
出来ないということか。それが、現象学というものか。

私達が感じている「世界」というのは、道具的存在者が連関しているのにすぎない。
「世界」は道具的存在者が連関しあっているものである。では、道具を誰が連関させているのか?
現存在という私達である。道具連関の始り(ハンマー)は現存在、そしてこの適所全体性の行きつく先も現存在。
そうなると、私達が「世界」を造っていることになる。
そして、事物的存在者は、世界にとって何なのか?
以上の道具連関で現存在が事後的に産み出した概念。もしくは、現存在が客観というものを産み出す
きっかけとなる存在者。
だが、事物的存在者が無ければ、今こうして私がタイプすることすらできない存在者という考えまでは、
否定できない。原子一つもない「無」から、どうやって、道具が造られるというのか。道具連関が始るというのか。

ふー、これが第1問目の答えです。つか問いに対する答えになっているのだろうか。


290 :パンパース:05/03/03 22:04:54
>>289
>>現存在が客観というものを産み出す きっかけとなる存在者。
これは、おかしいな。
「現存在が客観的視線という間違って「世界」を見た時に産み出される存在者。
現象学は主観的に見つづけなければならないから、よって、事物は存在者はしないとなる。」
に訂正


291 :パンパース:05/03/04 05:34:17
私達の心とは、現存在(私)と、共現存在(他者)となる。

292 :考える名無しさん:05/03/04 10:48:45
>>289
>現象学的に世界を見るということは、「私という主観」から見た世界から始る。

第7節(特にC)が、ハイデッガー流の現象学の方法を示している。
「現象」とは、形式的には「自らを示すもの」である。
現象学は自らを示すものを証示しながら既定する。
特に「現象」としなければならなものは、「存在者の存在」であるp35。

>だが、事物的存在者が無ければ、今こうして私がタイプすることすらできない存在者という考えまでは

事物的存在者がない状態は考えることができるよ。
まず、事物性と道具性とは、「別々の類」ではないということだ。
現存在にとって、あるものが「事物的存在者」として出会われることもあれば、「道具的存在者」として出会われることもある。
あるものの存在は、その都度現存在のあり方におうじて、変化する。
たとえば、このキーボードは、私がタイピングに没頭している間は、「道具的存在者」として出会われるが、分解して構造を調べるような場合には、「事物的存在者」として出会われる。
また、他の現存在は、普段の生活においては「他の現存在」として出会われるが、外科医が手術をするような場合には独特な意味での「事物的存在者」として出会われる(この例はハイデッガーはあげていない)。

存在者の存在はこのように現存在のその都度の態度によってその都度変容するものだ。

ハイデッガーは「主観ー客観」という枠組みでは、存在者の存在への正しい通路は確保できないといっている。
これに対して「世界内存在」という根本機構をめがけて配慮における存在者の出会われ方を解明している。
さらに「主観ー客観」という図式は、「世界内存在」という根本機構に根拠を持っていることも示されている。

293 :パンパース:05/03/04 20:37:56

私が、道具的存在者と、事物的存在者がどうも曖昧に感じていたのは、線引きした感じ
で、分けることが出来ないということが原因だったのか。人は何でも、線引きしたくなるものですね。
そして、Webの「ハイデガーを読む」と、「現象学とは何か(フッサールのやつ)」全部読みました。
(読むと、又考え方かわるもんですよね。)
感じたことは、フッサールの現象学で、フッサールが客観的事物を解明しようとした
ことに対して、ハイデガーは、客観は主観が近づけていると。ハイデガーは道具的存在者を
提示して客観的な事物をより主観へと、取りこんだのではないのかと、感じました。
うん、客観なるものを作りだすのは、主観。
そして、私と同じように他者がいる。ハイデガーは、他者に対する考え方は、フッサールと一致していると思われます。
となると主観のみとなる。共存在という、主観の絡み合いの世界、決して客観など無いとなるのか。
「コップ」という客観事物に、存在の意味を与えているのは、私達(主観)である。
それから、もう一つ感じたことですが、
現象学を基本とする、フッサール、ハイデガーは、世界の始まりとかには、触れない。逆に、世界の始りを哲学するのは、
無意味としているような。現に世界が与えられていることを前提に哲学する。現に私が居るということで哲学する。
世界が或るということと、私が或ることを前提に、問わなければならない。私自身も、世界の始りを、たとえ、知ったところでどうなるものか?
世界の始まりの究明は科学者の領域だと考え方が変った。(結構単純なほうでw、昨日までは世界の始まりなるものと哲学をいっしょに考えていた。)
と、今日、感じました。


294 :パンパース:05/03/04 20:43:11
二問目の答えは
了解
3問目の答えは
世界内部的には出会えない。何故なら私達は元々「外」にいるのだから。
正解ですか?


295 :考える名無しさん:05/03/05 07:21:41
>>293
>提示して客観的な事物をより主観へと、取りこんだのではないのかと、感じました。

この場合の「主観」の主観性は、現存在の実存という意味ならそのとおりだ。

>現象学を基本とする、フッサール、ハイデガーは、世界の始まりとかには、触れない。

キリスト教的な世界創造や物理学のビックバンという意味での「世界の始まり」は、問題にならない。
むしろ、世界の超越論的根拠がフッサールの主観性やハイデッガーの現存在ではないか?

>294
>3問目の答えは
>世界内部的には出会えない。何故なら私達は元々「外」にいるのだから。

事物的存在者としての「心」なるものは、たとえば、心理学の対象として「世界内部的に」出会われるであろう。
しかし、現存在を事物的存在者とみなすこの解釈は、ハイデッガーにとっては、誤解としてしりぞけられるだろう。

他の現存在は明らかに存在者として「世界内部的に」出会われる。

自己自身であるところの「私の」現存在は、世界内部的に出会われるのかどうか?
これは微妙な問題だ。
私の身体は、明らかに「世界内部的に」出会われるように見える(身体についてハイデッガーはほとんど問題にしていない)。
現存在の自己はどうか?これは、世界内部的に出会われるようには見えたり、みえなかたりする。
両義的な領域が存在している。

296 :考える名無しさん:05/03/05 08:32:00
>>295
>現存在の自己はどうか?これは、世界内部的に出会われるようには見えたり、みえなかたりする。
>両義的な領域が存在している。

ハイデガーも現存在とは「自分で自分を問題とする」ような存在であると言っているように、
自己は、もちろん、自己にとって世界内部的に出会われます。
ただし、「自分で自分を問題とする」場合の、前者の「自分」と後者の「自分」が異なるものであり、
そこに自己言及のパラドクスが生じることも、言うまでもありません。


297 :考える名無しさん:05/03/05 09:02:05
>>296
>ハイデガーも現存在とは「自分で自分を問題とする」ような存在であると言っているように、
>自己は、もちろん、自己にとって世界内部的に出会われます。

たとえば、不安の中に立つ現存在の自己は「世界内部的」に出会えるといえるだろうか?

>自己言及のパラドクス
といえば、ラッセルのパラドックスを思い浮かべるが、これと同じ構造になるんかね?


298 :パンパース:05/03/05 11:25:03
世界内部的・・・存在的・客観的な世界の中
という理解の元で、
「現存在は、現存在が差しあたって閉じ込められているおのれの内面圏域から
まず出てゆくのではけっしてなく、おのれの第一次的な存在様式から言って、つねに
「外部」に存在している」原書P62
お、これだ!って感じで、
>>294
>3問目の答えは
>世界内部的には出会えない。何故なら私達は元々「外」にいるのだから
と、書いたんだけど、かなり奥が深そうですね。

299 :パンパース:05/03/05 11:48:29
>>295
>キリスト教的な世界創造や物理学のビックバンという意味での「世界の始まり」は、問題にならない。
>むしろ、世界の超越論的根拠がフッサールの主観性やハイデッガーの現存在ではないか?

なるほど、まったくその通りだ。
 「5分前にこの世界が始ったばかりだ」と言われても、誰も否定出来ないということでも、それを証明している。

300 :考える名無しさん:05/03/05 13:47:38
300

301 :考える名無しさん:05/03/05 16:34:41
>>298
この個所は、事物的存在者の範疇的規定「外部」をつかって、比喩的に、現存在の実存(脱自)のあり方を説明している。
(実存と脱自の関係は、Existenz -> Ekstasen 第65節)
現存在の存在を、範疇的規定で表現すると、「内」でありかつ「外」であるというように、矛盾になるので、範疇的規定が使えないこととそれとは違う実存疇が必要なことが際立ってくるんだ。
こういう表現をハイデッガーはよくやる。


302 :パンパース:05/03/06 12:10:35
第28節 前節からの帰還
なんとか私自身、今まで漠然と理解していた部分が幾分か明確になったので、先に進みます。
考える名無しさんどうもありがとうございました。
しかし、ある一つのハイデガー造語・述語が、どの範疇に該当し、又その範疇の中のどこを指しているのかが、
ややこしく、間違った範疇として読むとすぐ誤読につながりますね。

どうやら、第28節から始る第5章は3つ目の世界内存在の機構契機であり、世界内存在機構契機の中でも、
もっとも重要そうだ。

「「現」は「ここ」や「あそこ」を指示する。〜あそこは、世界内部的に出会われる規定性なのである。
「ここ」と「あそこ」は、なんらかの「現」においてのみ可能である、」原書P132

この部分の解釈は、ひょっとして「ここ」と「あそこ」は存在的、存在論的違いがあるが、
同じ場所を指示している、といっているのか?
「ここ」・・・存在論的な「ここ」を指示している。
「あそこ」・・・存在的には、「あそこ」を指示しているが、存在論的には「ここ」を指示している。
「あそこは、世界内部的に出会われる〜」のあそこに、「 」がついてないのは気になるが。


303 :パンパース:05/03/06 14:21:52
第29節
「存在論的には情状性」、「存在的には気分」といわれるものの分析のようだ。

「現存在は、まさにそうした無気分のうちでおのれ自身に飽き飽きしているである。
存在が重荷としてあらわになっているのである。それがなぜであるのか、ひとは知らない。
また、現存在がそうしたことをしることも出来ない。」 原書P134

現存在は、気分のうちでこそ、現として、存在に出会うことが出来るという感じのことを、書いてある。
しかし、無気分、気分が無い状態とはどういう状態を指しているのだろう?ひょっとして、
私が寝ている時の状態をいっているのか?

「何を気分は開示するのか、またいかに気分は開示するのか」原書P135

気分とは、普段私達が漠然と「心」としているものに、深く関係し、又、解明するカギみたいなものに感じられる。


304 :考える名無しさん:05/03/07 01:29:00
>>302
何だかむずかしく考えすぎだと思うよ。
存在的ー存在論的の区別は、どういう定義だった?

この個所は、ドイツ語の"da"が、"hier","dort" の2つの意味を持っていることを使って、現存在の空間性(実存疇としての)を説明してるの過ぎないよ。

305 :考える名無しさん:05/03/07 01:46:10
>>303
>しかし、無気分、気分が無い状態とはどういう状態を指しているのだろう?ひょっとして、

無気分というのは、「気分がない」状態じゃないよ。
索引で無気分の出てくる個所を調べて読んでみるといいと思う。

306 :木田元:05/03/07 09:58:55
皆さん、がんばってください。
君たちに期待しとりますよ。

307 :キダタロー:05/03/07 10:03:34
人間は、可能性にも不可能性にも開かれておるのじゃよ。
も一度ブレンターノ、フッセルからやりなおしんしゃい。

308 :考える名無しさん:05/03/07 14:28:15
重要用語
*現
*開示性
*情状態・気分
*了解
*不安
*退落
*暴露(被発見性)


309 :◆RecKD9Ind2 :05/03/07 16:59:57
先週みたときよりも、ずいぶんスレが進んでますね。
ざっと読んだところ、そのときより『存在と時間』で優先的に理解すべき事柄へ
いっそう近づいているような気がしました。
タイムラグのあるコメントですが、いちおう書いておきます。

パンパースくん。

気分の変化に関する問い>>は、まず、『存在と時間』の「情状性」概念(第29&30節)と、その時間構造(第68節)の考察に注目するとよいのでは?
@ある状況のなかでA何からかの物や事に対してB自分がパトスを抱くこと、さらにそうしたパトスと過去の関係について参考になる部分があると思うので。
そのうえで次に人間は何らかのパトスを伴って必ず行動していることを、「情状的了解」の話を手がかりに考えることができると思います。


パンパースくん&名無しさん。

『存在と時間』における現存在と他人の関係、このスレで言及がわりに多いですね。
ただ、『存在と時間』のみでは、名無しさんも指摘していたように、断片的な話にしかならないでしょうね。
たとえば書名のあがっていた『形而上学の根本概念』。
その第17節、他人に共感する仕組みが書いてあります。
このように他人との関係の具体例は講義録にわりと散らばっています。
しかし、もちろんハイデガーの考えるところ、人間にとって卓越して異他的なのは〈存在〉である以上(何しろ後々×をつけたくらい)、
現存在と存在の関係こそ問われべき自己他者関係かもしれません。



310 :◆RecKD9Ind2 :05/03/07 17:04:05
様々なレスを読んで共通して思ったのは、
ハイデガーによる「(世界内部的に出会われる存在者)のもとでの存在として、
おのれに先んじて(世界)の内ですでに存在している」(第41節)という規定にもっと注目すると、
世界内存在の構造が見えやすくなるのでは…ということ。
だから、先に第41節を読んでみるのもひとつの手ですね。

ハイデガーが何らかの構造を説明しているとき、
その構成要素を数えると分かりやすいでしょう。

さきほどの情状性という「開示」機能ならば、@状況A物か事B自分を開示している。
テレビで火事のニュースを見る私が怖がっている場合と、
現場で火事を見る私が怖がっている場合を比べてみるといいかもしれません。
この例に、かつて火災にあった私とそうした体験をまだしていない私を当てはめると、
過去の問題を導入できますし。



311 :◆RecKD9Ind2 :05/03/07 18:04:12
ポールくんへのコメントも準備してきたんだけど、また次回書きます。

くらひとさん、ばかぁさん、ポールくん、ぴかぁくん、じゆんくん。

私はあなたたちの邪魔をしにきたわけではありません。
関心があれば、正当性スレにいらしてください。
名無しでいいですし。


312 :◆RecKD9Ind2 :05/03/07 18:06:47
ポールくんへのコメントも準備してきたんだけど、また次回書きます。

くらひとさん、ばかぁさん、ポールくん、ぴかぁくん、じゆんくん。

私はあなたたちの邪魔をしにきたわけではありません。
関心があれば、正当性スレにいらしてください。
名無しでいいですし。


313 :パンパース:05/03/07 20:30:05
>>304
存在的に問うこと・・・実証主義的に対象の存在の緒様態を問うこと。
存在論的に問うこと・・・緒対象の存在の意味を問うこと。
うーむ、存在論的には「あそこ」と表現しているのは、存在的には「ここ」なんだよ
という、ハイデガーが比喩的につかっているのではないかと思ったんだよね。
「現存在の「ここ」は道具存在者の「あそこ」にもとづいて了解している。」
この、何とも違和感ある、表現は存在論的と、存在的を同時に表現しているのかなと、
感じたんですよね。



314 :パンパース:05/03/07 20:42:05
>>305
無気分は無関心ということか。丁度私の今の状態か。
つか、今日始めて索引が3巻にあるのを、知りました。
なんて、私はオバカなんだ。


315 :パンパース:05/03/07 22:34:09
>>311
私も、正当性スレに行きたいです。

316 :考える名無しさん:05/03/07 23:47:39
>>313
存在的 ---> 存在者についての
存在論的 ---> 存在者の存在についての、存在一般についての、存在そのものについての

>「現存在の「ここ」は道具存在者の「あそこ」にもとづいて了解している。」
ずっとこのあたりの理解に苦しんでいるようだね。
前にも上げたと思うが、
「現存在は、本質上立て続けにかつさしあたって関わりあっているまさにその存在者から、つまり「世界」から自己自身の存在を了解する」p15下
については了解しているかい?
これを「空間性」に当てはめたのが、上の言い方だよ。

>>314
本を買ったら(買うときは)必ず、後ろから読むんだよ(笑
先に目次と索引をよく読んでおくんだよ。大体どういうことがどこに書いてあるか頭に入るだろ。
そして読まなくてもいいから、まず、ともかく全ページに目を通すんだよ。
大体雰囲気がつかめるだろ。
また、落丁とか印刷ミスがあるかもしれないからね。

317 :パンパース:05/03/08 14:05:23
>>316
私は、どうも「存在的」と「存在論的」の違いをはっきり解ってなかったようだ。
例えば、事物的存在者は存在的な存在者、道具的存在者は存在論的な存在者みたいな
感じで思っていた。なんか、存在者の次元が存在的と存在論的で違うような感じで思っていて、
いつのまにか、全く違う方向に理解していったようです。
現存在、事物的存在者、道具的存在者であろうが、存在者的に了解するのが存在的で、
存在者の存在について了解するのが存在論的だったのか。

>>「現存在は、本質上立て続けにかつさしあたって関わりあっているまさにその存在者から、
つまり「世界」から自己自身の存在を了解する」p15下

この文は、存在を了解する。だから存在論的だということか。
現存在を、存在論的に了解するには、「世界」という存在者から了解する。ということか。
そして、この「世界」という存在者は、事物的存在者、道具的存在者、共現存在であったりするわけだが、
道具的存在者の連関によって空間性が産まれるということか。
なんとか、了解しました。どうもありがとうございます。



318 :パンパース:05/03/08 16:37:51
第29節 続
無気分(無関心)の状態では、おのれ自身に飽き飽きし、存在が重荷として、あらわに
なっているか。なるほど、「存在と時間」を読む前は、日常たまに経験する、このどんよりした
なんとも言えない、この感覚は一体なんなんだ?と思っていたが、存在が重荷としてあらわれていたことが原因だったのか。
そして、「存在と時間」を読むことでさらに、無気分を以前よりはっきり自覚でき、
そして長く持続する。ほんと、これは、かなり重いですね。そして苦しい・・・。
そして、私達は被投性という性質をもちながら、現(ここ)に存在しているという事実をあらわにするということか。
人間は、人を批判したり、愚痴をこぼしたりしながらでも、日々生活に追われてるほうが、ある意味幸せだということか。
まぁ、ペシミストになっていてもしょうがない。先に進まなければ。更に、ペシミストになったりして(笑
確かに、私達は気分から逃れられないですね。1日の始りは、後5分寝ていたい気分から始り、反対気分によって嫌々起きる。
(そう考えると、寝てる時は、気分の支配からまぬがれているといえるのかな?)まさに、気分は現存在の根源的な存在様式だ。
存在的としての気分の方は、多分理解できた。しかし、存在論的としての情状性の方は、
かなり難解そうだ。気分=情状性としたいところだが、そうすると、又罠にはまる気がする。
そうか!情状性とは、気分という存在者の存在を指しているのか。
それから、>>287
>>「私達の心」ということで、何を指しているのか?
の問いの答えは、第5章の「内存在そのもの」を指している。
正解ですか?


319 :考える名無しさん:05/03/08 19:32:12
>>318
>ペシミスト
ニヒリストでなければ…

>寝てる時は、気分の支配からまぬがれているといえるのかな?
『存在と時間』では夢について特に主題的に取り上げられていないようだ。
けど、寝ている間も世界内存在であることには変わりないだろうと予想される。
周辺的な話題としては、幻覚や麻酔による麻痺の場合の解釈がどうなるのかということはあると思われる。

『存在と時間』の範囲を超えているが、夢については、精神病理学者相手の対話『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房)がある。

>気分=情状性
「我々が存在論的に情状性という名称で暗示しているのは、存在的には最も熟知されている最も日常的なもの、気分とか気分付けられていることである」p134
という具合に、情状性とは存在論的に解釈された気分のことだよ。

>「私達の心」
『存在と時間』では、伝統的な「心」「魂」「精神」などにかわって、「現存在」という用語が選ばれている。
現存在とは存在論的に解釈された「心」だといえるだろう。

ハイデッガーの「精神」という用語の保留については、デリダ『精神について』(人文書院)が面白い。


320 :パンパース:05/03/08 22:02:37
>>319
現存在が心だったとは。現存在はどちらかというと生命だととらえていました。
生命がある間が心があるといえるから、そうなるのか。
しかし、
>>ニヒリストでなければ…
の・・・がすごっく気になる。「いいのだが」「ならない」どっちですか?






321 :考える名無しさん:05/03/08 23:05:15
トーマスマンの「魔の山」の舞台になったサナトリウムでの、カッシーラー
とハイデガーの対決って知ってる方教えて。ハイデガーが勝ったていわれて
るらしいけど

322 :ウン子:05/03/08 23:26:53
魔界村ってあったなぁ…。
いや、超・魔界村だっけか。
青銅の鎧が好きでしたよ。黄金の鎧じゃなくてもよかったのさ。
僕は青銅の鎧が好きだからな!

323 :ウン子:05/03/08 23:33:30
あ、ごめ。
黄金の鎧じゃなかったみたい。
黄金の鎧→魔法の鎧だった。ごめんちょ…。

324 :ウン子:05/03/08 23:44:25
んでだ、ちょっと思い出を語ると、
最後のボス倒してエンディングですよ?
ふっと、画面に姫の顔が出てきたかと思うと
「今の貴方では魔王サマエルには勝てません。
私が連れ去られる前に隠しておいた腕輪を探して下さい」といいやがる!
最初から渡しとけよ!とおじさんは思いましたが、シナリオ上仕方がないことです。
しかし、姫はとんでもないことを言い出しました。
「腕輪は魔界に隠してあります。必ず見つけてください」
どこだよ!?
おい、案の定一面じゃーねーかと!!

325 :パンパース:05/03/09 00:33:27
第29節 最終
「情状性は第二の本質性格が示される。情状性は、世界、共現存在、および実存の等根源的開示性の一つの
実存論的な根本様式なのである。実存がここであげられたのは、実存自身も本質上世界内存在だからである。」原書P137

ここで、何で実存がでてくるんだろ?世界内存在の構造契機の3つ目である第5章でこれから語られるのかな。
後、情状性の第三の本質規定で世界の世界性をいっそう徹底的な了解をうるらしいんだが、
これはー、何を書いてるんだかさっぱり解らん。第18節になんか手がかりあるかなと、
読みなおしたが、第18節も解読不能だったよ。


326 :考える名無しさん:05/03/09 00:35:57
>>321
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887521480/qid%3D1110295904/250-6323057-0105031
だな。
短いのですぐ読めると思うよ。


327 :パンパース:05/03/09 00:38:44
>>322-324
すごい記憶力ですね。

328 :考える名無しさん:05/03/09 00:51:50
>>320
> >>ニヒリストでなければ…
>の・・・がすごっく気になる。「いいのだが」「ならない」どっちですか?

ならない(だろうねきっと。しかも言葉の本来の意味で)。

>>325
実存っていうのは、現存在の存在のことだよ。
つまり簡単にいうと、自分自身ということだ。
情状性において、世界、他者、自分自身が等根源的に開示されている。

329 :考える名無しさん:05/03/09 02:32:37
>>321
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4423196425/ref=pd_sxp_elt_l1/250-6323057-0105031
にも収録されてるな。


330 :考える名無しさん:05/03/09 08:45:56
↑了解しました。有難うございましたー。でも私には、まだまだそのレヴェル
に手が届きそうにないです。


331 :パンパース:05/03/09 22:06:07
>>328
ニヒリストでなければならないでよかった。
本来の意味でのニヒリストか。また調べます。
実存ってのは、あまりでてこなかったけど、実存論的ってのは今まででもよく書いてあったな。
現存在の実存論的分析とは、自分自身の分析だったのか。

332 :パンパース:05/03/10 19:48:11
第30節
「恐ろしいものを見てとるのは配視なのだが、それというのも、配視は恐れという情状性
のうちにあるからである。」P141

配視が、情状性(気分)のうちにあるということは、情状性が配視を可能にしていると
いうことか。なるほど、ハンマーが重過ぎて気分がイライラするというような関係の時は
イライラという情状性があるからなのか。

「差し当たってたいていは現存在は、現存在が配慮的に気遣っている当のもののほうから存在している。
このものが危険にさらさらていることは、何かのもとでの存在が脅かされていることなのである。」 原書P141

なるほど、私が危険を感じている時、私自身に危険が迫っているというより、世界内存在が危険にさらされているということか。
そして、事後的には、自分が危険にされされていたという、理論的解釈にいたるという訳か。
そして、誰かのために恐れるということも、おのれの世界内存在の共存在が奪いされるかもしれない、という理由からだったのか。
そして、恐れは、可能性として変化する。これは、世界内存在が変化していることを、指すのだろうか?


333 :パンパース:05/03/14 18:22:46
第31節
了解は、情状性と等根源的であり、しかも、つねに、気分に規定された了解であるらしい。

「了解の開示性は、目的であるものと有意義性との開示性として、完全な世界内存在に等根源的に関係する。」原書P143

何か、了解を世界内存在に組み込むことによって、完全な世界内存在が出来あがるような、
ことを書いてあるな。と言うことは、世人で出来あがった世界内存在では無くなるわけか。
だが、ここに出てくる「目的」は何を指しているのか解りづらいな。



334 :パンパース:05/03/14 19:08:54
第31節 続
「現存在は、そのつど、おのれがそれでありうる当のものであり、おのれの可能性であるとおりのものである。
現存在の本質上の可能存在は、「世界」についての配慮的な気遣い、他の人々のための顧慮的な気遣いという、
さきに性格づけられた在り方に関係するのだが、
それらすべてにおいて、またつねすでに、おのれ自身へとかかわり、おのれという目的の
ために存在しうることにも関係するのである。」原書P143

現存在は、現在のおのれ自身であり、可能性(未来的)においての、おのれ自身でもありうるのだが、
この可能存在という本質をもつ現存在は、おのれという目的のために存在しうることに関係している。
と、こんな感じのことを書いてあるな。
そして、この可能性とは、いつまでも実現しない可能的なものではなく、現存在の最も根源的で最終的な、積極的な可能性らしい。
最終的な可能性ってなんか嫌な予感がするな・・・


335 :パンパース:05/03/14 19:50:35
第31節 続 続
了解は、企投性格もあるようだ。で、次の文

「被投された現存在として現存在は、企投するという存在様式のうちへと被投されている。」原書P145

現存在は被投性(どこから来て、どこへ行くのか解らないが、現にここにある)をもちながら、
企投(くわだてられて投げ込まれる?)へと被投される。何ともよく解らない文だ。
だが、企投は、了解・可能性という意味合いもあるようだから、
「現存在は可能性へ被投される」ということになるのか。


336 :パンパース:05/03/14 21:36:27
「企投は、投げることにおいて、可能性を可能性としておのれのためにまえもって投げ、
それを、可能性として存在させるのである。了解することは、企投することとして、
現存在がそこでは緒可能性としのおのれの緒可能性であるような、現存在のそうした、
存在様式なのである。」 原書P145

現存在は、おのれのために、おのれで可能性を前もって投げて存在するといっているようだ。
しかし、現存在は道具連関を通じて空間性をつくり世界を造り、もとから共存在という性格をもち、
未来のようなものも、現存在みずからつくり出しているというのか。
これって、或る意味、私達が普段「神」としているものに、似てるな。


337 :パンパース:05/03/15 00:22:58
第31節 最終
3っ目の視がでてきましたね。
「われわれは透視性と名づける。われわれは、充分に了解された「自己認識」を表示
しようとしてこの述語を選んだのだが、〜世界内存在の完全な開示性を、その本質上の緒機構契機を
貫きとおして、了解しつつ把握することなのだということ、このことを暗示するためなのである。」原書P146

世界内存在の完全な開示性において、自分を認識することが、透視性ということか。

「実存するところの存在者は、「おのれ」を看取するのは、現存在が、おのれの実存の
構成的契機としての世界のもとでのおのれの存在と他者たちと共なる共存在とにおいて、
等根源的におのれに透視的となっているかぎりにおいてのみである。」

この条件のみが、「おのれ」を看取できる唯一の方法のようだ。

「現の存在の実存論的機構を、被投された企投という意味において究明することでもって、
現存在の存在はいっそう謎めいたものになるではなかろうか。事実そのとおりなのである。」原書P148

謎めくのかよ。てか、ハイデガー自身が謎めかしてどうすんだ、まったく。
しかし、世界内存在に情状性と了解を組み込むことによって、今までの世界内存在と、
随分イメージが変るもんだな。


338 :考える名無しさん:05/03/15 11:58:26
>336
> これって、或る意味、私達が普段「神」としているものに、似てるな。
>337
> 謎めくのかよ。てか、ハイデガー自身が謎めかしてどうすんだ、まったく。

はじめてよむと「なにをいってんだか???」ってなるけどね。
ハイデッガーは、もってまわった言い方してる。
しかし、真理との関係で語られる迷い、錯誤などと関連するんだよ。
こうした現象は、現存在の有限性に基づいている。
したがって、現存在は絶対者としての「神」ではないわけだ。
謎は謎として受け取るというのが、(ハイデッガー流の)現象学の肝ではあるな。

>337
> 3っ目の視がでてきましたね。
とおもうでしょ。でも、すでに3つ出てきてるんだよ。中公の翻訳では分かりにくくなっているけど、「眺めやり」って言い方が時々出てきてただろう。
これは、hinsehen,Hinsichtてやつで、他の翻訳では「注視」とか訳されているんだ。
だから、透視性(Durchsichtigkeit)は4つ目ということになると思う。


339 :考える名無しさん:05/03/15 12:49:43
>333
>世人で出来あがった世界内存在では無くなるわけか。

そうじゃないだろ。

>だが、ここに出てくる「目的」は何を指しているのか解りづらいな。
ここで目的と訳されているのはWorumwillenだ。
以前道具的存在者の指示関連のところででてきた。
内容的には現存在を指している。
130-132で議論されている。

>334
>最終的な可能性ってなんか嫌な予感がするな・・・
この個所は範疇的な(論理学などがいう)可能性と、実存疇としての可能性を対照して述べている。
「根源的最終的」っていうのは、これがもっとも根源的な「可能性」という概念の規定で、他の範疇的な可能性はこれに基づいている、というほどの意味だ。
実存的に先がないことを言っているわけではない。

>335
>企投

Entwurfは日常語では「設計」「企画」「構想」などの意味だ。
フランス語に訳すときは、projectなどが使われる。

>337
>しかし、世界内存在に情状性と了解を組み込むことによって、今までの世界内存在と、
>随分イメージが変るもんだな。

取り上げてる例が変わってきたり、今まで出てきた例の詳細な構造を取り上げてるからそういう感じをうけるのだろう。


340 :パンパース:05/03/15 22:33:56
>>338
と言うことは、現存在は、有限性という条件付きの神といえるのかな。

「こうした、眺めやりは、そのときどきに、何々をめがけて特定の方向を定めること、
つまり事物的存在者に照準を合わせることである。」 原書P61

なるほど、事物的存在者に照準を合わせる視だから、事後的・客観的な視のような感じなのかな。

341 :パンパース:05/03/15 22:52:34
>>339
>ここで目的と訳されているのはWorumwillenだ。
>以前道具的存在者の指示関連のところででてきた。

以前も私は、このWorumwillenでハマッテますね。
度々ありがとうございます。

342 :パンパース:05/03/16 01:23:08
考える名無しさんに捧ぐ
          尊敬と友情とをこめて 弐

世界内存在とは
現時点での、私なりの世界内存在のイメージを、まとめてみたいと思います。
世界内存在は、大きく分けて、世界・共現存在・実存の3点。
ずっと今まで、漠然と現存在は世界内存在に入ると思っていたが、違う気がしてきた。
というより、この3点で、現存在を構成しているようだ。
そして、この3点を視する上で一番注意しなければならないのは、客観的な視で見ては
いけないことだ。

世界は「〜ためのもの」で終わらなければならない。(これが、結構辛い)
そして、気分と可能性(情状性と了解)がここに加わる。
喉が乾いた(気分)、手がコップへ向かう(可能性・企投)、飲むためのもの(世界)
と、ここで完了。
付け加えるなら、この一連の後に「コップは飲むためのもの」と意味づけされる。
この一連の後の視が眺めやりという視なのかもしれないし、客観事物が出来あがる。
そして、そのコップは共現存在が造ったものであり、或る、道具連関が出来あがる。
これが、世界の世界性。現存在が世界を作り出している理由である。
今思うと、遠ざかりの奪取ってのは、企投と同じようなものかもしれない。



343 :パンパース:05/03/16 01:24:08
共現存在は、現存在にとって、間接的には先の道具連関に関係しているが、
直接的には、共存在として現れる。共現存在は、現存在を支配する傾向がある。
これが、世人という現象である。ここにも、気分が関与している。人目が気になり
気分が落ち着かないとか。そして、共存在のうちで、お互いを監視しあい、平均化し
均等化された、現存在は世人となり非本来性になるという。
共存在においての、可能性(了解)は本来性、非本来性でいいのかな。
それと、他者との出会い方なのだが、現象学上、他者を客観視出来ないから、
他者と出会うということは、自分自身で出会うということになる。
例えば、愛しい人に会いたい気分になるのは、愛しい自分自身に会いたい気分が
そうさせている。(断じて私はナルシストではない。)
最後の実存は、自分自身ってことが解ったくらいでまだよく解りません。
そして、この世界内存在というものは、可能性(了解)という構造を持っている以上
なにか、動いているものとして、把握しなくてはいけないようだ。

そして、疑問なんだけど、例えば一年前の私は、現存在、世界内存在という言葉すら
知らなかった。しかし、私が知らなかっただけで世界内存在はあった。
そして、今の私は現存在、世界内存在の存在を知り、又、理解を深めようとしている。
この、一年前の私にとっての世界内存在と、今の世界内存在は同じなのか?それとも
違うのか?はたまた、非本来的な私が、少しでも本来的な私に近づくことが出来れば、
世界内存在は変るのだろうか?




344 :考える名無しさん:05/03/16 06:40:12
>>340
> と言うことは、現存在は、有限性という条件付きの神といえるのかな。

キリスト教圏では、有限なものを「神」とは呼ばないよ。

>>343
> 最後の実存は、自分自身ってことが解ったくらいでまだよく解りません。

「存在と時間」のこの段階では、まだ形式的に述べられているだけなので、分かったつもりになったら読み間違っている(笑

> この、一年前の私にとっての世界内存在と、今の世界内存在は同じなのか?

ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru52.html
に面白いことが書いてある。


345 :パンパース:05/03/16 19:47:58
>>344
お、面白そう。早速
ttp://www.linkclub.or.jp/~flmbwys/tensin/bookcha.html
にて、岡倉天心 茶の本なるものを読んでみます。


346 :考える名無しさん:05/03/18 16:12:43
まだこんなことやってんですか、こんなことやってるうちにも

加護チャンはどんどん大人になってっちゃうんだよ!!!



347 :パンパース:05/03/18 19:34:58
ジパングからの帰還
>>346
まぁ、まぁ、そう言わずにお茶でも飲みながら、3連休前の金曜日を、お互いに愉しもうではないか。

>>344
「処世」なる言葉は見つからなかったが、茶の本の世界はなんとも言えない心地よさでした。
日本に生まれて良かったと、実感できる一冊でした。
そこで「絶対は相対である」という言葉をみつけました。私は、存在論的を意識しすぎて、存在的を軽視
しすぎてたようです。ハイデガーの構築ってのは、そういえば良く等根源的とか出てきて、どちらが良くて
どちらが悪いわけではない、って言いまわし多いから、等根源的とはかなり重要な仕組みだと感じました。
そして、いくじゅうにも、等根本的が重ねられている。
その等根源的なもののバランスが崩れれば、全てが崩れる仕組みなってるのかもしれない。
となると、題名である 存在と時間も等根源的ってことか。

> 最後の実存は、自分自身ってことが解ったくらいでまだよく解りません。
それからこれは、>>328 の天からの声によるものです(笑


348 :考える名無しさん:05/03/19 12:00:59
>347
天心が書いたオリジナルは英語で、
<Chinese historians have always spoken of Taoism as the "art of being in the world,">
("Taoism and Zennism"の中ごろ)
とある。
該当個所の日本語訳は、
「中国の歴史家が、道家思想は〈現世を生きる術〉であるといっています。」
となっている。
Translated by Y.Sekiya(C)1993とクレジットがあるから、このページの主が訳したもののようだ。
多分漢文の出典個所のオリジナルが「処世」なんだろうと想像する。

いろいろ翻訳が出ているようだ。
ttp://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/tensin.tyanohon.html

しかもいろいろな意味で問題の書になっているらしいな。


349 :◆RecKD9Ind2 :2005/03/21(月) 22:08:47
前回同様タイムラグのあるコメントですが、いちおう書いておきます。

ポールくん。
野矢さんのアスペクト論はよく知らないけれど、さしあたり、ウィトゲンシュタインの
「アスペクト知覚」(〈〜として見る〉の文法)に話をもどして考えたとき、
『存在と時間』での「了解」をめぐる議論のなかで重なりうる概念が仮にあるとすれば、
それは「解釈」概念かもしれません。まずはドレイファス『世界内存在』第11章「了解」を
おすすめします。参考になるはずです。ただし、ドレイファスの読みが
ハイデガー哲学に内在的なそれかは問わずにおきますが。

『存在と時間』第31節以下に対する読みと、また、
改めてアスペクト論との重なり具合についてポールくんが書くなら、
(激しく)遅レスになりますが必ずコメントしますよ。もちろん名無しで構いませんし。
アスペクトの問題が含まれた行為の場面を具体的に挙げてもらえると、いっそうナイスです。
しろうとさんからレスがあるといいですね。

ちなみに私が考えた例:行為の場面におけるアスペクト知覚

遊びすぎて日の暮れた帰り道。小学生の僕は少しびくびくしながら、
野原の薄暗い細道を自転車で飛ばしている。しかし、僕は急ブレーキ。
3メートル先にお化けが見えたからだ。道を引き返そうか迷ったが、勇気を出して進んでみる。
じつは枯れたススキが風に揺れているだけだった。

情状性(怯えと強気)と結び付いた了解(手荒または慎重な自転車操作)において、
@状況A物か事B自分が開示されているし、そこにアスペクト知覚の文脈依存性
(お化けおよび枯れススキの認知情況が文脈になる?)も絡んでいるかな…と
思わないでもないので、たたき台として書いておきます。


350 :◆RecKD9Ind2 :2005/03/21(月) 22:09:21
ハイデガーからさらに話はそれますが少し。
例えば、私に信頼する友達がいたとします。だから、自分の読んだものや考えていることを
話したり、書いたものを読んでもらう友達。また、私がしてもらうように私も彼にしている。
そうした付き合いのなか、関心がどんどん重なってくる。
では、この友達が哲学版によく書き込むひとだったら…。
彼が私の相手を真剣にしてくれるほどに、彼が書き込むことの一部は
二人でした話と色合いが自然と似てくるでしょうね。そして哲学版でコミュニケートすることこそ
彼の大切な趣味である場合、私が彼の趣味に対してどうこう言う権利はない。
私にできるのは、彼が話を十分に消化して書き込むのを願うことぐらいでしょう。
色んな事情で哲学版でおしゃべりすることだけが彼と哲学本の接点になったとしても、
彼は私にとって大切な友達です。

パンパースくん。
正当性スレで私が粗述した、行為において賭けられる信念の話は
(だいたいは当たる賭けで、だからこそ日常生活が可能になる)、
了解において企投される可能性の話と重なる部分が少しはあるかも…と思っています。
名無しさんが的確な指摘をしているので、私からはこれくらいですが、
参考になれば、うれしいです。ちなみに正当性スレの一部をまとめると、
他人の悲しみを私が知ることはありうるけれど、感じることはありえないって話ですね。
「知る」、「思う(=信念、ドクサ)」、「感じる」という言葉の使い方を大まかに区別してみました。


351 :パンパース:2005/03/22(火) 20:12:32
>>350
参考にさせていただきます。ありがとう

>>348
茶の本で禅のことが少し気になり調べたんんだけど、どうも禅とは
今という瞬間を感じて生きる術のようだ。
昨日寝て、今日起きるではなく、今日の連続。
だから、今日寝て、今日起きるとなるようだ。
まぁ、禅も奥が深そうだ。
禅とハイデガーが共通するかは、どちらも深く私は知らないから、結局解らなかった。
時間のほうは、禅的には時は流れないらしい。


352 :考える名無しさん:2005/03/23(水) 04:36:59
真木悠介の『時間の比較社会学』読めばいろいろ刺激を得られるかもね>パンパース

353 :パンパース:2005/03/23(水) 23:17:12
>>352
ありがとう、いつか読んでみます。

そろそろ、存在と時間読み進めなければ。

354 :パンパース:2005/03/24(木) 00:33:11
第32節
「了解の完成を解釈と名づける。」 原書148

「解釈」。これは単純に「認識」という意味合いでいいのだろうか。

「机とかドアとか橋として「見てとる」のだが、そうした交渉は、配視的に解釈された
ものを規定するなんらかの陳述のうちで、いちはやく解釈し分ける必要は必ずしもない。」
原書 P149

「として」は、存在者として見るようだ。ということは、「〜のためのもの」
コップ  飲むためのもの が世界内存在の道具的視線だが、
コップ「として」、では客観的に見るということのようだ。そして陳述する必要が必ずしも
ないと書いてあるから、言葉は必ずしも必要でなく、視から脳へダイレクトに解釈する
と書いてあるようだ。そして、むしろ「として」がかけてる方が純粋に知覚出きると、
書いてある。これは先入観なしで或るものを見なければならないといっているようだ。


355 :パンパース:2005/03/24(木) 00:49:15
>>354

>これは先入観なしで或るものを見なければならないといっているようだ。

これは、おかしいな。配慮的気遣いと同じように配視も適所全体からきているから
あえて、意識して「として」は見ないといっているかな。に訂正



356 :パンパース:2005/03/24(木) 23:27:12
第32節 続
「解釈は、いわば、裸の事物的存在者に「意義」というものを投げかけるのではなく
だから、裸の事物的存在者に価値というものをはりつけるのではなく」原書150

なんか、度々のフッサール批判のようだな。要は、事物的存在に価値をつけたものを、
解釈とするのではなく、了解しながらそのつど解釈しているということか。
だから、「眺めやり」ってのは決して止まらない世界内存在の事物をあたかも、
止まっていると、錯覚した視を意味していると感じる。

「解釈は、そのときどきに予視のうちにその根拠をもっている。」原書150

どうやら、「解釈」は「認識」という意味あいではなさそうだ。
眺めやりが、認識。解釈は先入見が入るということか。例えば車が近付いて来ると、
或る程度未来を予視して、よけるって行動を取ると言っているようだ。だが、或る意味
当り前だな(笑

「了解がもっている予という構造と、解釈がもっている として という構造とは、
企投という現象とのなんらかの実存論的・存在論的連関をしめしているのだろうか。」
原書P151

だが、ここで当たり前と思わないところがハイデガーだ。了解はなんとか、私なりにも
世界内存在に組み込んだが、今度は、解釈を組み込まなくてはいけないようだ。


357 :パンパース:2005/03/28(月) 19:23:45
第32章 最終
「「意味」の概念についての原則的に存在論的・実存論的な以上のような学的解釈をひとが
堅持したとすれば、現存在とされるにふさわしくない存在様式をもつすべての存在者は、
非意味的なものだと、つまり、総じて本質上意味をもたないものだと、解されなければ
ならない。」原書 P152

これは、事物的存在者・道具的存在者は存在の意味を持たないと、はっきり書いてあるな。
現存在のみが存在の意味があるということか。太陽や、月なども存在の意味が無いって
なるよな。むしろ現存在が太陽に意味を与えているってことになるのか。

「了解のこうした循環は、任意の認識様式がそのうちを動いている円環といったもので
はなく、現存在自身の実存論的な予という構造の表現なのである。」原書P153

この辺で、なんか循環にハイデガーはこだわっているが、現存在自身からアプリオリと
しての予として、涌き出てくるような意味合いをいっているのだろうか。


358 :◆RecKD9Ind2 :2005/03/31(木) 12:35:17
SZ完走、期待してます。

359 :パンパース:皇紀2665/04/01(金) 23:35:18
>>358
このあたりで私の山場が。ガンバリます 完走せねば。
第33節
この節で「陳述」という言葉がでてくる。普通の辞書で調べたんだが、言葉に出来る
ことがらのようだ。哲学的にかっこよく言うと「ロゴス」なのだろうか。

「すべての解釈の根拠は了解のうちにある。〜陳述(「判断」)が了解のうちにその
根拠をもっており、解釈の一つの派生的な遂行形式を示しているかぎり、陳述もまた
意味というものを「もっている」。」 原書P153 後

これは、了解が何かア・プリオリな底で、了解から私達が意識できる次元、言葉に
できる、気持ってのは、解釈の一部分にしかすぎないと、言っているのか。
私達は普段、言葉で表現できるものが、意味だと解釈している。
ハイデガーは、そうではなく言葉で表現する事柄は、確かに意味も含まれるが、
言葉で、表現出来ないことも解釈にあるのだよ、もしくは了解からの解釈は
言葉(陳述)を超えているといっているのか。
そうなると、「意味」というのは、言葉(陳述)のみでは、表現出来なくなるではないか。

定期age〜


360 :ローカルルール審議中:皇紀2665/04/01(金) 23:50:43
                                    |   -―ァ -―ァ 、_l_ ヾ
                    r,=ァァ         |   、__, 、__, ,ノ _}
                   -‐└‐<ー- 、       |
                ,  ´ ,.     、  ヽ. ))       |   r―┐_ノ ー―ァ ,.-r‐、
           f「゙, '   ノ ! ト、ヾ ,\ リV \       |   └rr┘_l_   / !  ! }
            V  '´ , l il ゙ー〃、 V∧ヾヽヽ   |  _ノ l_ノ ノ ヤ \ ヽ._ノ /
              ,  /,  i ll |l / __ ヾ.|!r<!\ヽ.))   |
          l / i | |l l| 'ifヘ];`ヽ. リ_ハヾヽ.     |        r┴┐ ー ┐  ,_|  ,.    /
              V | !  | i lリ_    ヾ_7j' K ̄ ̄`ヽ  |   /  \     l    人  /|/ |   /
             i | |i  ll lリfヘjヽ,   '´ ,' ト、 L._   !   |   _/    ヽ  ノ  /  ヽ. l C'、 o
            ヽ)ノ!||! ト、 ゙ツ`'´ /v' _」_\ i_, l、/´'^ヽ.  
                 'リノノ ノ` ァァァ'´、 「_,ム L_ヽ.∧  r'^
                    i'´〃/(i ` 7_\ 'l_ヽ/V、 ゙ァ'
                   '´ )'リl    L'ヽ. l_,V `7|
                    L__   >、!ゝソ   'ゝ|
                       ヽ._,' /`'´  /, '´|


361 :パンパース:皇紀2665/04/01(金) 23:56:17
>>360
むむ、誰?

362 :パンパース:皇紀2665/04/02(土) 00:10:35
>>360
つか。
可愛いな

惚れた

363 :ローカルルール審議中:2005/04/02(土) 05:32:39
[存在者「の」]存在

364 :パンパース:2005/04/02(土) 08:51:52
>>363
折角だからレス最初から読んでって下さい。


365 :パンパース:2005/04/02(土) 09:41:17
第32節 続
「ロゴスが、本来的な存在者へと近付く通路にとっての唯一の手引きとして、
またこの存在者の存在を規定するための唯一の手引きとして、その機能を
はたしていたからである。」 原書P154 前

そうだったのか。私達はロゴスを根底に、もしくは唯一の方法として存在者・存在を
探していたから、本来的はものに行きつけなかったのか。
それから、私は『禅』という思想に出会ってから、「存在と時間」を読む方向性が少し変わった。
ハイデガーは『禅』的なことを言っているのか。全く別のことをいっているのか。これを
見極める為に読んでいこうと思います。


366 :パンパース:2005/04/02(土) 12:59:06
第32節 最終
「聞き伝えさえ、一つの世界内存在であり、云え聞いたものへとかかわる存在なのである。」原書 P155 後

これは、歴史的なもの、過去のようなものをいっているようだ。私達は、過去の出来事を
ロゴスからしか知ることが出来ないということか。だから、語り継がれるうちに、歪が生じることも当然ということか。
そしてロゴスによって妥当されたものは、観念的であり、客観性がうまれ、拘束されると
いうことか。


367 :パンパース:2005/04/02(土) 16:45:24
第34節
「言語の実存論的・存在論的基礎は語りである。」 原書P161 後
「語りは情状性および了解と実存論的に等根源的である。」原書P162 前

「語り」は、もともと「見えるようにさせる」という意味も含まれているらしい。
そして、語り・情状性・了解の3点は実存論的には等根源的らしい。
いったい、いくつ等根源的なものがあるのだ(笑

「共存在は語りにおいて「表立って」分かち合われるのだが、言いかえれば、
共存在はすでに存在しているのだが、つかみとられ我がものにされてはいないもの
として、分かち合われていないことだけのことである。」原書162 中

この辺で書かれているのは、伝達は一方の主観の内面から他方の主観の内面へと運びこむ
というように伝達されるのではなく、共存在として、なにか最初からあるものを語りに
よって、「分かち合う」という形で伝達しているといっているのか。


368 :パンパース:2005/04/07(木) 19:02:11
第34節 最終
ここの節で、言われていることは、ハイデガーが「語り」という言葉を使って説明している、
「語り」が本来のロゴスであると、言っているようだ。ロゴスを言語、文章とされてしまって、
おかしくなったんだぞ、と言っているようだ。
「語り」とはいわば心の叫びと考えていいのだろうか?

この声が聞こえるかい、今なら聞こえるかい  Bz コーリング

369 :ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 21:24:41
パンちゃん、がんばれ〜

370 :ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 01:08:34
最近世事にぼうさつされていて、なかなかコメントできない。
間隙をぬって読むだけは読んでいる。
パンパース君、がんばってくれ。


371 :パンパース:2005/04/23(土) 16:59:37
お!読んでくれてる人がいてくれたのか。
私も、ボチボチ読んでいるんだが、ここに書くまでに、いたってない

以前より、自分なりの考えも生まれてきたんで、それを基準として
これからは、細かい文章・いいまわしなどには、囚われず、サッと書こうかなw

372 :パンパース:2005/04/23(土) 17:36:51
第35節 復活〜
空談の正体は、語りまね、書物などの語り広めによっておこるらしい。
それは、同時に公共性に落ち込む原因だという。
そのことによって、人は了解して安心するということか。
では、本当の「語り」とはどういうものなのか、ハイデガーは示そうとしているのか。

余談になるが、ここまで、「存在と時間」読んで思うんだが、我々は、
「どこから来て、どこかへ行くのか解らない。ある日、気がついたら、この世界にほうり込まれた。」
という感じの、ことをハイデガーは根本としている。我々すべてが、その条件の上で
生存しており、過去の生存者もそうだ。そうなれば、すべての正しいとしている、
人の認識すべては、所詮人が正しいとしているにすぎないのではないのか。
結局ハイデガーは、どこから来てどこへ行くのか解らないような不安定な私達が造った
概念など(過去から脈々と語りつがれてきた哲学等)は、無意味だといっているのか。
ハイデガーは過去の概念を破壊して、終わりにしただけなのか
それとも、まったく違う正しさ・真理を提示したのだろうか。


373 :パンパース:2005/04/23(土) 18:31:37
第36節 好奇心
「スベテノ人間ハ、本性上、見ルコトヲ欲スル」 アリストテレス

これが、有る意味始りだな。何故、人間は見たくなるのだろうか。
何故、見るという、能力があるのか。そして、語る能力もある。

好奇心という視は、気散じになっているだけで、「タウマゼイン(驚異)」となんら
関係ない。
ふむふむ、「視」が、最初にある。で、連想する。視で見たものを、因果関係などで
ある現象をある現象にくっつけて、考えて語る。
「これは、こうだらから、こうなるんだよ」みたいな感じか。
それは、ハイデガーいわく、空談、好奇心に繋がるのだよと、決して事象そのものでは
ないのだよと、いっているのか。
じゃ、タウマゼイン(驚異)ってなんなんだ。
ヴィトゲン・シュタイン?も「世界があるってことは、驚異だ」っていっていたな。

好奇心・空談においても、まず、私が思うのは、「今」からずれているということなの
かな。
ちと、私自身が暴走気味かもしれないが、このスタンスで進んでみる。


374 :ローカルルール審議中:2005/04/23(土) 21:57:37
悟りとは無関心

375 :ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:03:05
で、サトリエとのご関係は?

376 :ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:28:38 ?
で、サトエリとのご関係は?

377 :ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 14:32:47
悟りとはフリーセックス ラブアンドセックス コラボレーションセックス

378 :パンパース:2005/04/29(金) 10:01:20
第37節 曖昧性
「空談と好奇心とがその曖昧性においてねらっているのは、ほんとうに新しく
創造されたものも、それが現れ出るさいには、公共性にとってはすたれたものに
なってしまっていること、このことである」 原書P174後

曖昧性は、空談と好奇心とに関係あるらしい。新しく創造されたものは、すぐに公共
性にとっては、すたれるものになるか。公共性とは、世人だからこの辺の節は世人の
分析をいっそう深めている訳だな。

「世人とうかたちをとった相互共存在は、隔離されて無頓着にたがいに並存しあって
いるのでは全然なく、緊張して曖昧に互いに監視しあっており、内密に相互に盗み聞き
しあっている。たがいに好意をよせあっているという仮面のもとで演じられているの
は、たがいの敵意なのである。」 原書P175

この文は普段の私達そのものだな。リアルすぎて解りやすい。ハイデガーの人間観察は
鋭すぎるな。(笑
 そして、私達が普段もっとも正しいものとしている公共性の根拠は空談、好奇心、
曖昧性という世人の存在様式をもっているとはハイデガーは手厳しいことをいう。


379 :パンパース:2005/04/29(金) 11:25:38
第38節 頽落頽落と被投性
フ〜、やっと第5章の最終節だ。
空談、好奇心および曖昧性において「世界」に没入していることを頽落と名づけたようだ。
しかし、ハイデガーは頽落で言おうとしているのは、人間の道徳性などではなく、
それは、私達は「世界」のもとに存在していることを、意味している、といいたいようだ。
ここらの節で、ハイデガーが言おうとしているのは、どうも、公共性という方向性や、
過去から伝えられている、正しいとされているもで、人は日々安心している。
しかし、それらは、土台の無い所に物(概念)を置くようなものだ。
私達は、結局、自分の意思と関係なくこの世界にほうり込まれた。そして、何処から来て、
何処へ行くのかさえ解らないまま、日々正しいとされる公共性などに身を置き自分自身を
安定させている、しかし、そのもたれかかって安心出きるものの「地盤自体」は無いようなもの。
 例えば、「椅子に寄りかかって自分を安定させているように私達は日常性において感じて
いるが、実際には、その椅子の下には地面がなく空に浮いているようなとても不安定な
物に私達は日々寄りかかって安心しているのだよ」とハイデガーは言っている気がする。
 これは、今まで「存在と時間」読んだ、私の感想なんで、あしからず。


380 :考える名無しさん:2005/05/04(水) 00:46:03
「宇宙人は存在するか?」という議論が巷で度々展開されますが、
我々はそもそも宇宙人と「出会うことができる」んですかね?
宇宙人と我々がそれぞれ違った世界に住んでいたら
我々が宇宙人を発見しようとする試みは無駄に終わるんじゃないでしょうか?
例えば我々にとっては単なる岩石の固まりにすぎないようなものが
実は我々が探している当の「宇宙人」であるかもしれないですし…。
(でもそうだとするとこの「宇宙人」って言葉はどこから出てきたんだろ?
そもそも我々が「出会うことができる」、内部存在者でもない、かといって
単純に自分以外の他の現存在であるとも言えないところの
存在者を「宇宙人」と言ってるわけだし…うーん。)

381 :380:2005/05/04(水) 00:56:21
スレ違いっぽいことを書いてすみません。
パンパースさん、頑張ってください。参考にさせてもらってます。

382 :パンパース:2005/05/07(土) 07:42:24
「私」からしたら、共現存在(他者)も宇宙人も同じじゃないのかな。

ただ、いかに「それ」に近付けるかじゃないのかな。
「他者」に近付くってことは、「私」に近付くと「同じ」に思えるな、最近・・・

ハイデガーも共存在を世界内存在に入れているから絶対条件だしな。

私ときたら、最近宗教板の某スレで遊んでおります。w
現象学は、己の「視」そのものを鍛えなければ、近ずけないのではと、近頃思い始めました。

383 :考える名無しさん:2005/05/10(火) 18:12:18
アリストテレスより体系的だな。
もう推理哲学かと。
しかし論理の飛躍が所々で見られるが。
慎重に慎重に進んでいるが、何故だこれは?
恐いものみたさの回避的思考だな。
初めから完成させるつもりなんてなかったんじゃないか?

384 :パンパース:2005/05/10(火) 19:49:24
第39節 
ここで、新たな問いが立てられたようだ。というか、本筋に戻るようだ。
「提示された構造全体の全体性は、いかに実存論的・存在論的に規定されるべきであるか」 原書181 前
原書ではまだ181ページなのかよ・・・

なんか、この節で「不安」という根本情状性を問い尋ねることによって、現存在の根源的
な存在全体性が明らかになると言うことをハイデガーはいっているようだ。
そして、気遣いとは、意思、願望、性癖、衝動から導出されるのではなく、気遣いがある
からこそ、これらが産まれるといっているようだ。これらは、一般には「感情・気持
ち」と考えていいのだろうか。

存在は、存在了解内容といったようなものがその存在に属している存在者の了解のうち
でのみ「存在している。」 原書183 後

うーん、結局「存在」は存在を認識出きる存在者(人間)がいるから「存在」すると
いうことか。
「存在を了解出来ない存在者」の集まりでは、「存在」は無いということになるのだろうか。
当り前のような、当り前でないような・・・

「存在と真理」とは「存在と了解内容」の連関を意味していると、いうようなことが書いてある。
そして、存在問題を十分に準備するためには、「真理」という現象を存在論的に
明瞭化する必要がある、と続く。
それらを踏まえた上で次節へと続くみたいだ。


385 :パンパース:2005/05/10(火) 20:02:00
>>383
まさに、その通り。あなたにとっては、経験し終わった道かもしれないが・・・
私にとっては、手探り状態。一寸先が闇状態。
どの部分が、飛躍していて、アリストテレス体系とは何を意味するのか
怖いものとは何を意味しているのか、完成とは読破を意味するのか、それ以外を意味
するのかも解らない状態かな。

久々に定期上げするか〜

386 :パンパース:2005/05/11(水) 21:54:53
第40節
「世人と配慮的に気遣われた「世界」とに現存在が頽落することを、現存在が自分自身に
直面してそこから「逃避」することだとなづけた。」  原書185

世人は頽落と関係あるのは解るが、配慮的に気遣われた「世界」にも頽落するという
ことか。配慮的な気遣いも頽落だったとは、知らなかった。今更ながら「 」付きの世界
は目で見える世界と考えていいのだろうか。

ここでは、不安を分析しているようだが、不安は世界内部的な道具的存在者・事物存在者
となんら関係ないとしている。つまり、不安がる対象は世界内存在自身であるらしい。

世界内存在での不安は「居心地がわるい」という。だから居心地のよい世人、「世界」へ
没入しようとする。ただ、後年のハイデガーはこの「居心地のわるさ」は
エントアイグニクス「顕現拒否」を意味してると匂わしている。しかしその「居心地の
わるさ」の根底の奥深いところに、究極の真理とエルアイグニクス「呼び求める促し」
があるという。
別の言い方をすれば、「エントアイグニクス」と「エルアイグニクス」は相対的根本概念のようだ。


387 :考える名無しさん:2005/05/12(木) 05:23:57
理解し難いとすればそれは内容のせいで、彼のライティングスタイルは懇切丁寧を極めている。

388 :パンパース:2005/05/12(木) 19:29:22
第41節
現存在の基礎的な存在論的な諸性格は、実存性・現事実性・頽落となるらしい。
現存在は、本来性に関わろうが、非本来性に関わろうが自由である。だから不安
が産まれるといっているのか。
 そして、世界内存在をどのように造るかは、現存在に委ねられているらしい。
ハイデガーは人それぞれ、世界内存在は違うといっているようだ。
 ハイデガーは「気遣い」は、非本来性の一つとしていたのか・・・今まで度々「気遣い」
の分析をしていたから、「気遣い」を本来性としているのかと思ったよ。
 この辺でハイデガーが強調しているのは、非本来的・本来的は現存在にとって自由で
あるが故に、大抵の現存在は安心するということで、非本来性の生き方に流されているとハイデガーは言っている気がする。
 そして、意欲・願望・渇望・性癖は生きている証ではなく、気遣いからくるものだといっているのか。


389 :考える名無しさん:2005/05/14(土) 00:31:57
日本語の場合、「ある」と「いる」二通りあるんですが、
一緒に扱っちゃってもいいんですか?

390 :考える名無しさん:2005/06/14(火) 11:37:50
続きKIBO

391 :考える名無しさん:2005/06/14(火) 12:29:05
「いる」というのは、存在することを「行為」していると言うことのようにおもふ。
自我というものは、あいまいなもので、行為の強弱によって、出たり引っ込んだり
する。というかんじ?

392 :bbs:2005/06/14(火) 17:14:38
>>389
「ある」は現存在性、「いる」は実存性でしょう。
すでに「ある」ものをもとに自分を「いる」とさせようとするとハイデガーは解釈しているようですね。
頽落は実存からの逃亡のことですが、そこには原罪思想も含まれているようですね。

393 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 09:57:05
>>389
あくまで日本語の用法として考えてみた場合。

「〜がある」「〜である」の方が存在の表現としては適切でしょうね。

「いる」だけだと何を表しているか読み取りにくい。
「〜がいる」であれば観察的(「〜なひとが居る」といったニュアンス)。
「〜している」であれば進行・持続的(「ご飯を食べている」など)。
「〜でありえている」とすると「ある」とあまり区別がつかなくなる。

あくまで私の感性ですが、「いる」は「ある」の変化形態であって
「ある」をうちに含んでいるようにとれます。

SZの訳文であまり気にしたことがないので、時間があれば
どのようになっているかみてみますね。

394 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 22:53:15
現在、新刊書店で手に入るのは、以下の4種類。

岩波文庫・全3巻/桑木務訳
この中では一番古い訳。何故か「ですます調」で訳してある。
ルビを多用したりして、文章は柔らかいが、かえって不自然な感じも。
あまりお勧めできない。

ちくま学芸文庫・全2巻/細谷貞雄訳
もとは理想社「ハイデッガー選集」に収録されていたものの文庫化。
日本語としては一番読みやすい。初心者にもお勧めしやすい。

創文社・ハイデッガー全集 第2巻/辻村公一訳
もとは河出書房新社「世界の大思想」シリーズに収録されていたものの
改訳版。タイトルは『有と時』で、唯一『存在と時間』というタイトルを
採用していない邦訳。道元の思想に引っかけてそのように訳しているらしいが、
そのために評判は良くない。全集版の訳語もそれで統一させてしまったので、
余計に良くない。値段も高い。文体は、超直訳。日本語としての読みやすさよりも、
原文に忠実な訳文を目指している。素人にはお勧めできない。

中公クラシックス・全3巻/原祐・渡邊二郎訳
もとは中公「世界の名著」シリーズに収録されていたものの、改訳版。
最も最近に刊行されたもので、訳注なども、最新の研究成果を反映している。
内容的には非常に信頼できるが、日本語としては、ちくま版より固い。
3冊揃えると、意外と値が張る。

395 :考える名無しさん:2005/07/23(土) 14:09:05
ぼくは桑木訳と辻村役(世界の大思想)をもってます。
ボクは辻村訳をじっくり読んで見たいですね。
いずれは日本語だ訳されたのは全部読みたい。
原書ではよもうとはおもわんが。。。
読めないから。英語だったらすこし読んでみたいかな。
英訳もたくさん出てるんでしょうね、どのくらいでてるか知ってる方いますか?

396 :考える名無しさん:2005/07/24(日) 22:44:49
関連リンクです。

◆実存主義総合スレ◆
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122049999/l50

397 :考える名無しさん:2005/08/04(木) 13:13:26
むずいですよ

398 :考える名無しさん:2005/09/23(金) 00:23:05
夢見ることなしに、ただ存在するのはなぜこうも重いのか。

存在の重さには堪えきれまい、苦楽が憑き物の夢を見るよりない。

399 :考える名無しさん:2005/09/23(金) 00:30:54
愛の夢醒めて、憎しみの夢の中
存在の重さに潰されないように


400 :考える名無しさん:2005/09/23(金) 00:46:02
存在の重みを支えられるようにならない限り君は存在しない。君もまた夢だよ。

401 :考える名無しさん:2005/11/13(日) 11:36:43
チンポ太郎はいずこ

402 :考える名無しさん:2005/11/13(日) 11:55:46


存在など存在しないことがわからないのか?
馬鹿?

403 : :2005/11/13(日) 23:18:46

                                       へっへっへっへっ

404 :考える名無しさん:2005/11/15(火) 12:05:51
/:::::::|/::::::::::|   ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は?
:|::::::::::::::::::::::i...ii  .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ?
:i::,,-""""-::::i..i:i  |:::::::::::.i  .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの?
i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。
i,,i |   ..|." ...i i         ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう?
i::",,,ヽ ,,/   ii          ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。
::::::::""      i          ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ?
:::"        ..ヽ:::::::::::::      i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。
ゞ        :::::::::.,,, --,,"    ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何?
-".,,      --,,,"   ./    .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを?
::|::::ヽ       ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。
::::i::::|:"--.,.,,,   :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞!
::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!

405 :考える名無しさん:2005/12/14(水) 14:29:57
age

406 :ヘイト ◆iyx/0deoUw :2006/01/25(水) 09:49:23
良スレ

407 :考える名無しさん:2006/01/27(金) 03:34:55
哲学知識のない私にもってこいのスレ発見

今やっと第51節
誰か、現在進行形で読んでる人いない??
1人で読んでても(ちくま版)ほんと「推理哲学」だよ!


408 :考える名無しさん:2006/01/27(金) 06:18:55
>>407
>「推理哲学」
だったら、笠井潔の「哲学者の密室」でも読んどけ。そっちの方が話早い。

409 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 19:05:26
『有と時』という邦題は評判悪いようだが俺などはあの訳のお陰で所謂《有sein―有るものseiende》という差異に目を開かされたようなもの。河出書房の『世界の大思想』には感謝している。

410 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 19:10:19
目を開かされたという言い方には信仰が入っている。
それは哲学じゃない。

411 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 19:23:19
ならば“気付かされた”なら良いのかな?笑繰り返すと《存在―存在者》の和訳だとあの本の根本的な概念が伝わりにくいのでは、と俺には思える。『有と時』ならば《sein≠seiende》だと気付きやすいでしょう。俺は助かったけどな。

412 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 19:41:32
>411
「存在は存在者といったようなものではない」と通常の和訳でも確認できる。
中公クラッシック T巻 11ページ参照。

単なる読解力のもんだいだとおもう。



413 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 22:41:43
存在=時間なのだよ?

414 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 22:59:38
日本語では存在と存在者の区別は曖昧だ。辻村訳だと有と有るものとなり、明らかに何か特殊な意味付けがされていると判る。事実その通り特殊な意味付けが為されている。そこが明確にされる分辻村訳の方が良いと言っている。初めてアレを読むならば辻村訳が良い。

415 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 23:04:30
あと、例えば「存在者」だと「者」が附いているという事で、人間を指していると思いやすい。実際はアレの中では人間を含めたあらゆる「存在するもの」を指している。そこも「有るもの」の方が意図を捉えやすいと思う。

416 :考える名無しさん:2006/01/31(火) 23:16:51
まだある。ハイデガーが俎上に上げる《ある》とは《…がある》と《〜は…である》の二通りあるのは周知の通り。それら《ある》を問いに付している。つまり、これも《有ること》とした方が繋がりが付けやすい。《存在する》だと《…が存在する》のみ文法的に該当する。

417 :考える名無しさん:2006/02/01(水) 00:11:38
それなら「在る」とも書くでしょ。読む人は大抵ハイデガー独自の術語であることが分かってると思うよ。
「有」のアドバンテージは感じないな。

418 :jun1=410=412:2006/02/01(水) 19:50:15

どちらかというと「有るもの」の方が問題なんだけど、それに>>414-417の問題は
注釈の問題だったり、ドイツ語と日本語の違いが原因だったりする。ほとんど和訳
でも確認できること。たいしたことを言っているとも思えない。

それだと「超越者」って言う概念だって使えなくなるんだよ。
このことの方が問題が大きい。そしてそのことが「存在者」をますますわからなくさせている。

>例えば「存在者」だと「者」が附いているという事で、人間を指していると思いやすい。
>実際はアレの中では人間を含めたあらゆる「存在するもの」を指している。

これが大きな勘違い。そういう神秘的な発想に、いきやすいから「信仰」なのさ。
そしてこれが多くの人の犯す間違いでもある。これは哲学ではなくて宗教だから。
存在者の「者」って言うのは、文章上の「前者」、「後者」と同じ意味合いなの。
文章上の「前者」、「後者」が、人間だと思うものはほとんどいないでしょ?

で、この「者」の意味は何かというと、名付けることのできない概念のことを指すの。
名前が分からない人や物陰に隠れている何かを、「その者」と言うように使われるでしょう
に使うことに「者」という字は使用されている。

そしてこのことを示す例文がきちんとある。

 事実、「存在」は存在者として概念的に把握されることはできないのである。
 中公クラシックス T巻 P10参照

つまりこれは存在者が概念的に把握されていることを示す確かな例文。
「有るもの」では、決してこれはわからない。だから「存在者」というのはそれ自体が
名訳なんだよ。


419 :考える名無しさん:2006/02/02(木) 20:01:10
辻村なんかの非日本語的なやつ読むくらいなら、松尾啓吉の訳の方がまだマシだ。
必死に日本語化しようとする意気込みが伝わってくる。

420 :考える名無しさん:2006/02/04(土) 00:07:33
>418

本気で言ってるのか?!

421 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 02:20:38
age

422 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 10:38:20
俺は「存在」訳を全否定してはいないよ。原・渡辺訳も好きだしね。だけど《…がある》と《〜である》のうち、《〜である》に対して「存在」訳ではどうしてもまずく思える。

423 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 14:44:44
ハイデガーの世界内存在がいまいち分からん
辞書に依ると@空間的に世界の内にあると言う事ではない
A世界の中で他者と指向性を介して関わる事を意味して居るのではない
と言うんだよ


424 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 15:38:57
>>423
例えば、人間は「世界」の中に存在する、人間は「世界」の中で「〜の為に」
存在するコップ(ナイフ等)と出会うという言い方をする。
 世界とは当時の生物学者ユクスキュルの「環境世界(環世界とも訳される)
概念からヒントを得たもので、生物を行動する主体として捉えて、周囲の環境
を、その生物にとってどういう意味を持つのかという観点で捉えた言葉です。
 「世界のなかにいる」=「世界・内・存在」というのは、色々なモノが意味
を持って人間にあらわれてくるということです。

425 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 15:50:28
存在と時間って精神病理学、精神分析にも大きな影響を与えるぐらいに
人間分析にとんでいますがあれってネタ本みたいなものはないのですか?
ハイデガーの人間観察の賜物ですか?
たとえば「世間」の概念は秀逸ですね。構造主義の象徴界を先取りしてますね。

426 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 16:03:43
424
うわっ鳥肌立った
実は世界内存在ってエクスキュルの環世界と言う意味と現象学的還元後の世界を総合した概念なの?
と聞こうとしたんだが、辞書には「そうではない」とあるんだよ


427 :424:2006/02/07(火) 16:13:16
>>424に世界認識についてユクスキュルの影響があることは書きましたが、
これはユクスキュル共著「生物から見た世界」(岩波書店)(思索社)が
あります。あと、執筆時にハンナ・アレントが精神的、理論的、肉体的
(不倫)に支えになったことは研究者の間では既知のことです。
時代の背景はシュペングラーの「西洋の没落」を読むと民族運動がハイデ
ガーにどんな影響があったのかという予感がおぼろげながら分かる。
ハイデガーはナチスに関係したことは理論的には遠因があるかもしれない
けど、フッサールとの違いは合理主義を戦略的に徹底しているのに対して
ハイデガーはそれをそこまで徹底せず、非合理な部分もある。
 ハイデガーが病弱で心臓発作が25歳まであっていつ死んでもおかしくない
環境が「死」への哲学に向かわせたのでしょう。

詳しくはこちらへ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.html


428 :424:2006/02/07(火) 18:07:29
>>426 これについては、小阪修平氏の説で俺はヒントになっていると
いう説に賛成。これについては研究者から妥当とされていないに過ぎ
ない。当然のことで研究者達も現象学者なんだから、明証性を徹底的に
疑ってるからで、明文化されていないからだ。されど同時代の科学に
について追求していけばこれしか残らないと逆に考えられる。



429 :424:2006/02/07(火) 18:14:19
Umwelt(ウムベルト)=環境世界もしくは環世界と訳されるが、主体を
取り巻く世界のことで英語のaroundに近い概念です。
当時この様に考えた学者は皆無でしかも同じドイツで同世代、さらに、
ユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” と
いうキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこん
だ最初の生物学者です。
 そのために「知覚標識の担い手」(Merkmatrager)という概念や「補
体」(Komplement)という概念もつくった。そういう概念想定にはつね
に勇気をもってあたった生物学者でした。話題にならない訳が無い。
 これはハイデガー自身の性格もあってそのままお借りするには、プラ
イドが許さない部分もあったのではないだろうか?公には沈黙している
気がする。

430 :424:2006/02/07(火) 18:18:07
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0735.html
生物学者が書いたハイデガー「存在と時間」論と思われる所が非常に
多く、近い考えが色々散見される。されど、本当にヒントにしていな
いのかもしれない。同時代に全く連絡もなく同じ結論に到達すること
(同時性)は科学などの世界で結構あることなのでそうかもしれない。
俺は影響があったと思うけど。

431 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:27:33
《世界は全体性として、如何なる有るもので「有る」のでもなく、現有がそれ自身を如何なる有るものへ関わり合わせ得るか、そして如何なる仕方でその有るものへ関わり合わせ得るかということに関して、そこから現有がそれ自身に指示を与えるところのものである。》

432 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:33:23
《すなわち、現有はその有の本質に於いて世界形成的にある。而も次のような幾重もの意味に於いて「形成的」にある。すなわちその意味とは、現有は世界を生起せしめ、世界を形成することで現有自身に或る根源的な見え(形象)を与え、その根源的な見えは、

433 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:37:44
存在と時間では、現有が基底(主体)だったが
後期では、有が基底(主体)になった。
もちろん、現有と有とは同一のものの二面ではあるが。
現象学的次元から形而上学への先祖がえりは、今まで抑えていた欲望が爆発したようにみえる。

434 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:38:30
殊更に〈対象的に〉把握されてはいないが、それにも拘らずまさしく、その都度の現有それ自身がその下に属しているところのすべての開示され得る有るもののための先-像〈すなわち、原-像〉として機能している、ということである。》(『根拠の本質について』より)

435 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:46:57
こうして改めてハイデガーの世界概念を抜き書きしてみると、人間の精神形成の根本的な部分を抉りだしていた事に気付かされる。《(世界形成は)すべての開示され得る有るもののための先-像として機能している》は秀逸だと思えり。尚先の引用は『道標』193,195頁。

436 :考える名無しさん:2006/02/07(火) 22:48:26
後期のハイデッガーの有名な言葉 
言葉は存在の棲み家

437 :考える名無しさん:2006/02/09(木) 21:58:30
誰か現存在(現有?)と存在の関係について教えてけれ

438 :考える名無しさん:2006/02/09(木) 23:33:37
>>437
存在は、存在者つまり存在しているもの(名詞的)を存在させている活動。つまり、ある!活動。動詞的。
現存在は、思考するというありかたをしている存在。思考活動。
存在は、現存在からしか見えない。
現存在は、存在がなければありえない。
存在しているあらゆるもの(存在者)は、存在(ある!)がなければありえない。
ある意味で、存在の一面が現存在である。

439 :考える名無しさん:2006/02/09(木) 23:47:29
>現存在は、思考するというありかたをしている存在。思考活動。
とても誤解を招く表現だと思う・・・
「現存在は、「ある(いる)」ということをわかっている存在者」
でどう?

「存在者」と「存在」の次元の違いは、細川亮一『ハイデガー入門』内の
「美しい花」の例えがわかりやすかった。
(存在者…そこにある花 存在…その花の「美しさ」そのもの)



440 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 10:32:03
存在者って物自体みたいな意味じゃねーの?


441 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 14:53:21
存在と時間の関係に付いて誰か分かりやすく語って
時間が無いから
時間が無いから
考えている時間が無いから
だけど存在と時間には何か関係があるような気が見にしみてするよ


442 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 16:09:20
>>440


443 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 16:33:06
スルーしてやれよw

444 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 17:29:55
《有ること》だと、『或ること』に聞こえるんだよね

445 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 17:31:38
表音一致ではないのは、日本語として非常に拙いと思うんだけど。

446 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 23:35:28
めちゃ単純化すると、
存在とは時間である、というのがハイデッガーの結論だよ
時間という概念がこれまた難解だけどね。

447 :考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:19:28
存在者 存在しているもの。石ころから人間まで何でも。
現存在 問い考えることのできる存在者。人間のこと。
存在  存在者(あらゆるもの)を立ち上げている根源的作用。神のようなもの。もちろん神とは違うが。

448 :考える名無しさん:2006/02/16(木) 10:20:47
存在は時間である

↑仏教でも存在は時間であると説く訳だが
同じ意味と考えて良いの?


449 :考える名無しさん:2006/02/16(木) 10:24:44
存在者を存在させて居るのは現存在という話じゃなかったか?
なるほど物事は主体に応じてその意味が千変万化するからね


450 :考える名無しさん:2006/02/20(月) 10:03:27
精確には、「現存在の存在の意味」が、「時間」。


451 :考える名無しさん:2006/03/10(金) 10:05:46
「手元にあること」ってのがなんのことなのかイメージできない
誰か分かり易い言葉で言い換えてよ

452 :左危機!:2006/03/10(金) 10:07:58

音だせ!音!

453 :考える名無しさん:2006/03/13(月) 11:45:02
>音だせ!音!   はいはい

 450 :考える名無しさん :2006/02/20(月) 10:03:27
>精確には、「現存在の存在の意味」が、「時間」。
 存在は時間であるという意味はこれでいいですか?
   あったところのもの(過去)を否定することで<いま>を了解する。
   つまり、昨日のことを想起するとき、「ああ昨日はいまじゃないなあ」
   と<いま>を了解する。ないところのもの(未来)を思うときは
   「ああ明日はいまじゃないなあ」と<いま>を了解する。
   この過去想起と未来思念をしている<いま>を自覚している自分
   は現存在というものだから、存在は時間である。

451 :考える名無しさん :2006/03/10(金) 10:05:46
>「手元にあること」ってのがなんのことなのかイメージできない
誰か分かり易い言葉で言い換えてよ
   なんのことかわからない。出典は?

454 :考える名無しさん:2006/03/14(火) 00:14:07
>>451
視覚は錯視とかあって、疑わしいけど、触覚は視覚よりは、マシつうことだよ。

455 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 16:19:21


456 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 23:26:37
>>454
日々の日常的な実感をイメージする感じでいいのかな

457 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 13:20:47
素のまま感じること、単純だがこれができないのがモマイら。
心のフィルターで誇張され記憶に一致するもののみを認識する。

おまいらにできるのは、屁理屈だけ。

458 :あはさん pasiru語 ◆AhaZMPGbB6 :2006/07/01(土) 00:14:39
こん〜♪
ε=ε=ε=(ノ^∇^)ノわ〜い  ε=(ノ_ _)ノ ドテッ!

459 :あはさん pasiru語 ◆AhaZMPGbB6 :2006/07/01(土) 00:19:41
手みやげ持参しましたぁ〜♪  ご笑納 ください、<(_ _)>
774QivdO82 <= #%ifAJ+Q)
7sinWFMmYY <= #eifJ9fXd
7SiPZPXxiw <= #0ifpV%:+
7SifbfCM8I <= #vif!f=5C
7SIBTrRSKs <= #Uif;ipIz
7sihzD3DBQ <= #(if?]s\y
7SIazuwkkI <= #M'&1=wFn
7Siya8wU1w <= #}'&2X\Z*
7siNtCGdeU <= #.'&4)..|
7SIrVDdogM <= #]'&WhW4+
7SiMdLn7ww <= #2'&uW(TL
7SiBuhZZME <= #T'&(Tg&5
7747Jjf4k6 <= #j'&[W(TL
774rJQltZE <= #5'&`n~-Y
7SiBdYemss <= #D~Y6D@of
7SIBcf2aDc <= #|~YG3lFS
7sikCfGO0g <= #_~Y&NPua
77490uAKOI <= #g~Y(OR)a
774NESH55U <= #x~Y~MK&k
774TKyUH3c <= #b_a/V{y)
7SisF1uQo. <= #e_aH2o|U
774YiWSmo2 <= #)_apbK7F
774sTm04Mo <= #L_a#pn^d
7SileJbIiI <= #(_a$m'fn
7SImUAgXGU <= #$_a)jj2a
7sig/9b3Lw <= #{_a+J\iN
7siIXKWI.6 <= #)_a{h7_X
774BhM2UWU <= #iT60/aU8
7SibGZ9fxQ <= #TT61nV6E
777SIGAevA <= #+T6N]FC4
774CIAgEzM <= #bT6R$KHQ

460 :考える名無しさん:2006/08/10(木) 12:29:49
再開

461 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 20:25:40
存在は『時間性』をもっているという事。
A=Bである。
Aが誰か人であるとするとA=Bであった物が、10年後にはA=Cになっている。
解りやすく言うと、生まれたばかりの人間と10年後の成長した10歳のその姿は、物理的にも精神的にも違った存在になっている。

プラトン以降形而上学は未来永劫永遠の万人に共通のいわゆる絶対的真理を求め、だれもが永遠に「AはBである」といえるものを求めてきた。
「存在」を問うにあたり、暗黙裡に「絶対的な真理」を求めている為、時間性・人間の思考の多様性などを考慮すると、その「問い自体」「問い方自体」に無理があることになる。
「それは何であるか?」と問う事=形而上学

東京とは何であるか?
と問うた所で何時の時点で?、誰の視点で?となる。
存在は移ろいゆくものである。
この事を指摘したのがハイデカーという人、つまり形而上学の解体。
簡単にいうとこんな感じ。

「万物は流転する」「同じ河に入ることはできない」(ヘラクレイトス)
プラトン以前の思想家はすでにその事をよく理解していた。


462 :ヤーベ:2006/09/13(水) 20:35:58
すると、人間がその仕方へ向けて認識することなのか。
最善観は何よ、行為の特殊性から人間に立ち戻るそのままの姿とか。
ややこしいな。

463 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 21:19:30
「存在と時間」は難解な書です。
ハイデカーはよほど実直な人であったであろう事が伺える難解な文体。
ドイツ語を日本語に翻訳して読む点。
そもそもハイデカー自身が完成させる事を断念した不完全な書。

せめて時間性からの帰結(実はここがゴール)のイメージを掴んでおけば、いくらか読みやすくなると思います。

464 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 21:27:16
本来性・非本来性の話は結局完成しません。
ハイデカーの思想性というか嗜好性というかメッセージ性というか...
これらには理論的に帰結しませんでした。
「存在と時間」の挫折を生んだ部分。


465 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 22:15:55
「〜である」「〜がある」ふた通りあるが、プラトンらの古典時代以降にこの違いが現れ、「〜である」が優越した状態になったそうである。
言語学にもそれは現れ「〜である」はis〜、「〜がある」はThere is〜となり「〜がある」にはよけいなものを付け足さなければいけない構造になっている。
がしかし古い時代にはこの区別は無かったらしい。

古代の素朴な人たちは「富士山とは何であるか?」などとは問わなかったと...
「富士山は富士山だろっ」と...
冬には雪をかぶった姿となり、夏には雪がなくなる移りゆくのが自然の姿であったと。
そうゆうもんだと、草木は萌えいずりやがて枯れるものだと。

466 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 22:26:41
じゃあイタリア人もだな

467 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 22:34:06
自由は間違うし迷う

468 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 23:03:41
そうだねイタリア語でも
「〜である」はE〜(Eはエッセレの変形)、「〜がある」はC'e〜でエッセレにCが付くねえ
まあ465の話は西洋世界の話だけどね。
ギリシャ語の古いとこを調べると解るらしい、ハイデカーが言ってること。
そういう意味だった?

469 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 23:24:50
ハイデッガーは、「哲学する哲学史家」ですね。
彼の思想・立場では、哲学することと哲学史をすることとが一致していたからです。

また、彼は、問題・対象を明晰に論理で追い詰めていく学問家ではなく、
ある意味では、問題・対象を語感や比喩にたよって表現し炙り出そうとする詩人でした。
だから、天才的哲学者とされながらも、科学の知識がイイカゲンだの論理的に厳密でないだのと非難されてもいます。
しかし、彼の本質がある種の詩人だと考えれば、そういう点は割り引いて考えるべきかもしれません。



470 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 21:37:30
2000年以上にわたる形而上学を終結させた。
20世紀の巨人と呼ぶにふさわしいではないか。

471 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:36:33
ハイデガーこそ最後の形而上学者だと思うけどな。


472 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:42:07
だから終結させたの、形而上学の手法によって...

473 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:52:17
終結させたと言うより、新たな、今までとは次元を異にする形而上学を生み出したと言うほうが適切だろう。
終結という言葉が似合うのは、ウィトゲンシュタインだな。

474 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 00:09:05
新形而上学を受け継いでるのってどの辺りの人になるのかな。
ウィトゲンシュタインって呼んでて面白かったのは記憶しているけど、何を言ってた人かよく覚えていないのね。
でもたしかやっぱり新たな視点の持ち方を見せてくれたとは思う。、また読んでみよっかな。
この時期多かったんだよねえ、ハッとさせられること。なつかしい。
意外と役にたってるのよねえ本読んでた事、人生に。

475 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 00:25:36
批判者ではあるんだけどレビナスやデリダは、ハイデガーの継承者じゃないかなあ
あと、人生の役に立つと言えば、ウィトゲンシュタインよりもハイデガーのほうじゃないの


476 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 11:17:03
おそらく英米系の人が形而上学にコミットする際に
一番親近感を感じるのがハイデガーじゃない?
前期後期問わずヴィトゲンシュタインよりもさ

本人が否定しようが後期の思想も「形而上学的」哲学
そのものなんだし

その意味ではカントなんかと同じでそれまでの伝統的
形而上学の批判者でありその後の形而上学的哲学の
準拠点というか

477 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 21:45:21
形而上学は過去形で語られるものだと思ってたんだけどなあ...
ところでヴィトゲンシュタインを誰か簡単に解説してみて、おねがい!

478 :考える名無しさん:2006/09/16(土) 23:08:38
そもそも古代ギリシャにおいて「〜である」(本質存在)と「〜がある」(事実存在)が分かれたのには、ソフィスト(詭弁家)の存在があったのだという。
民主主義であったアテネの政治に詭弁家(ソフィスト)が登場し、弁論によって黒を白にも変える事ができてしまう状況を憂いたソクラテスらが客観的な真理を求めるようになったらしい。

私達は「〜であるか」と問うことは本来持っていた人間の特性のように感じたりするが、よくよく考えるとほんとにそうなのか怪しくなる。
幼児が言葉を話し出すと「これ何?」と問うようになるが、「〜であるか?」であるのか?「これはミカン」と答えると「これは?」とリンゴを指してまた問うてくる。
これは単にそのものの呼び方を問うているようである。

私達は成長の過程でいつ頃からどのような場面において「〜であるか?」と問うようになったのだろう...



479 :考える名無しさん:2006/09/17(日) 01:10:42
問いの起源を問うことであるが、それは言語以前に遡及する。


480 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 09:00:05
>>477
ヴィトゲンシュタインの「哲学的問題とは、われわれの文法上の錯覚である」の一言によって
古典的哲学は終結したのですよ。

481 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 11:35:57
倫理や宗教の問題は哲学の問題ではない。
信念の問題である!?
でも語りえないものについて何事かを語っているから、
ヴィトゲンシュタインもまた哲学をはじめた

482 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 13:19:34
ふむふむ

483 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 13:42:53
是の諸法は空想にして生せず滅せず垢つかず浄(きよ)からず増さず減らず、是の故に空中には色もなく、受想行識もなく眼耳鼻舌身意もなく、色聾香味觸法もなく、限界もなく乃至意識界もなく、無明もなく、亦無明の儘ることまなく、乃至老死もなく、亦老死の儘ることもなく、

484 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 14:31:33
実際の行動に活かすから単なる空想で終わらないんだろうなあ、思想って。

485 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 14:38:53
そうだ、詰まるところヴィトゲンシュタインもソシュールもハイデカーも同じようなところ狙ってたんだ。
要するに言語にひそむ問題。しかもみんな同じような時期に。
そっかそっか、だからヴィトゲンシュタインあんまり覚えてなかったんだ。
>>480 >>481 ありがとう!


486 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 21:00:52
ちょっと質問をしてもよろしいでしょうか?
ハイデガーの言う「時間性」って、僕の感覚だと、
「気づいたらすでに〜していた」
という経験の仕方に非常に近いと思っているんですが、
どうでしょうか? 
「気づいたらすでに〜していた」
という経験の仕方は、考えてみると不思議な時制です。
「気づいたら」というのは現在であるはずなのに、
「すでに〜していた」というのは過去になっていますし。
それに、このことに気づくと、思わず「なぜ〜していたのだろう?」
という疑問が湧いてきます。つまり、「存在への問い」を呼び寄せます。
「時間とは、存在了解の地平である」というのはそういうことなんじゃないか
と思うんですが。

487 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 21:16:32
現在完了のない日本人の感覚ということじゃないのかなー
それこそヴィトの言う文法上の錯覚だったりして

488 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 22:12:25
>>487
私の理解とそれでイメージは重なると思う。
時間を考慮しない場合、一度A=Bだと了解するとそこで止まる。
以前の形而上学ではそのまま。
その他に存在了解する機会は失われる。
そこで時間が流れ出しA=B→C→Dとなったところで存在を振り返るとA=Dであると新たに了解することになる。
つまり「振り返ると」=「気づいたら」。B→Dは過去だから「していた」。
能動的に流れる部分と受動的に流れる部分もあるから、なぜ変わったかは色々あっていいような気がする。
時間が止まると文字どうり存在了解は立ち止まる。
「存在了解が繰り返される地平」が時間。
ぼくは論理的に掴むのが苦手でイメージでいつも理解してるんだけど。
そんな感じだと思う。

489 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 22:15:33
>>486 ね>488

490 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 22:47:40
>>488
ありがとうございます。
なるほど、「存在了解が繰り返される地平=時間」でしたか。
だいぶ、すっきりしました。
それにしても、ハイデガーはやっぱりいいですね。
「私はなぜ存在しているのか?」
という実存的(実存論的でしたか?)な問いと、
「存在者がなぜ今あるようにあるのか?」
という学問的な問いとをリンクさせようとしている所が特に。
ハイデガーにかぎらず、哲学者はみんなそうなのかもしれませんが、
ハイデガーは特にそれが見えやすいので。

491 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 23:05:50
どういたしまして、こちらこそ。
私もしっかりと掴んでる訳ではないので、他の方の考え方を見ながらより確かにしてるのよねえ。
特にハイデカーの細かい概念とか、文読んでてもイマイチわかってないけど、結論は掴むようにしてる。
ハイデカー楽しみましょう。

492 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 23:13:15
738:ネム 2006/09/18 22:46:41 oay3Wcno [sage]
>>737


<問題>
世界が5分前に創造されたという荒唐無稽な仮定さえ
完全に否定することは不可能だという思考実験がありますが(世界五分前仮説)

私(自分自身)が存在することを否定することは可能でしょうか?




【雑談】HUNTER×HUNTER強さ議論とか色々16【歓迎】
http://etc4.2ch.net/test/read.cgi/wcomic/1156677022/

ネムの有り難い話(ネムニー)の時間ですよ
是非奮ってご参加を

493 :考える名無しさん:2006/09/20(水) 03:44:51
>>488

存在了解と「A=Bだと了解する」こととは区別すべき。
後者はむしろ「解釈すること」Auslegenじゃないのか。

また「流れる時間」は時間を不可逆的な今点Jetztpunktの連続と見なす通俗的時間意識に基づくもの。
ハイデガーの考察した時間性とは異なる。

494 :考える名無しさん:2006/09/23(土) 21:09:34
>>493
そういうところなんだよねえ、細かいことはハイデガー読んでて難しい。
でもどうなんだろイメージとして「存在了解が繰り返される地平=時間」はやっぱり理解ちがってるのかなあ?

495 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 00:01:47
>>488 >>491 >>494

「イメージとして」で何を謂わんとしているのか分かりかねるが、私なりのイメージで応えてみる。

493でも書いたが、494は存在了解と解釈の差異を(それと恐らく理解の構造も)掴めていない。
そしてその限りで、『存在と時間』での時間性を把握するのは不可能かと。

それと、
「特にハイデカーの細かい概念とか、文読んでてもイマイチわかってないけど、結論は掴むようにしてる。 」
って一文だけど、これはどういうこと?

細かい概念を押さえずに読み進むということは、諸契機の関係や構造を書き手に求めず、自分なりの考え(それこそ先の「イメージ」か?)で接着していくってことだろ。
494は研究者じゃないだろうし、そういった読み方の利点とか効能を否定する気もないんだけど、それでも敢えて言わせて欲しい。
学術書というものに限るなら、その内で使われる細かな概念をきっちりと把握して初めて「結論を掴む」ことができる。
「イメージとして」掴むのも結構だけれど、その仕方では個人的な「読み」が正当な解釈かどうかを判断する道具立てを欠いたままに終わる。
つまり正しい「読み」かどうかさえ知り得ないってことだ。

それでも尚、あなたの「イメージ」に自信があるというのなら、「存在了解が繰り返される地平=時間」という構造を493でのツッコミを回避しつつ説明してくれ。

496 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 00:43:15
>>495
自分のイメージには自身はありません。
「結論を掴むようにしてる」ってのは、自分の読み方になるけど、ハイデガー自身が目指したのは形而上学の解体で、それは時間性を説明することにより可能になる。
「存在と時間」はそのために方法論になる訳だけど、ハイデガーはそこの所を几帳面に形而上学的方法論によって説明しようとする。
例えばこれがニーチェあたりだったらもっと感覚的に説明されていたと思う。
だから「時間性」の概念を突き詰めて理解しなくても、ハイデガーが目指した結論は掴むことが出来ると思っています。
正直形而上学的な手法に興味を持ってハイデガーに入っていった訳ではないので。

形而上学がどこで躓いているか?
これを示すのがハイデガーの目的ではなかったかと。この点について感覚的には掴めていると思う。
つまり「存在とは何であるか?」と問われた時に、どんな処に問題があるか理解するという事。

これも「存在と時間」の世界に入っていった人達の出口戦略のひとつになるかと。
ハイデガーが目指した結論はもっと多くの人に理解されてしかるべきだと思っています。

497 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:06:27
『存在と時間』で目指されたのは形而上学の解体だったのか? (Keineswegs!)

「だから「時間性」の概念を突き詰めて理解しなくても、ハイデガーが目指した結論は掴むことが出来ると思っています。」
この接続詞(だから)で前の文章と繋がってるか?

また493で私がツッコンだ箇所は、解釈を突き詰めた末での「読み」の相違などではない。
誰が読んでも(仮令それが受け入れがたいものであれ)『存在と時間』での主張として認めざるを得ないような、現存在の基本構造だ。
こういった基本構造を掴めず、それでいて結論を掴めると思うのは何故だ。
もしそれで何らかの結論が掴めるのならば、『存在と時間』やハイデガーを引き合いに出す意図はどこにあるのだ。

更に、「感覚的に掴む」とはどういうことか、「出口戦略」とは何か、ハイデガーは何らかの「結論を目指して」などいたのか、といった問いが立てられ得るが、どうだろう?

498 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:10:21
>>495
たしかに「存在と時間」についてそれぞれの概念等について真面目に勉強されている方にとっては、誤解が生まれるような記述があったのだろう事についてはお詫び申し上げます。

499 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:31:10
>>497
これは私の理解です。
ハイデガーはニーチェの延長線上の思想家です。
「結論を目指して」いたと私は理解しています。

そこでハイデガーが指摘しているのは人の認識の非常に単純なところです。感覚的につかめる程度に。
ただそれを形而上学的手法によって説明しようとして難解にしているのが「存在と時間」。
ひとつの方法論として。

人は何かを求めて「存在と時間」に入っていくのだとは思うが、求めていたものは果たして得られているのであろうか?
というのが「存在と時間」についての私の疑問というか感想。
学者になりたい人なら別ですが。

そしてハイデガー自身は完成させていない訳です。「存在と時間」という書を。
出口戦略とはそういう事です。何かを掴んで終わってほしいと。

500 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:32:19
横レスすまんが「形而上学的な手法」って何よ?

『存在と時間』期のハイデガーを理解したいなら
なんといっても同時期のカント解釈を読むべき

形而上学に対するスタンスも時間性という概念も
一気に理解できるようになるよ

501 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:35:18
>『存在と時間』で目指されたのは形而上学の解体だったのか? (Keineswegs!)

ん?
ハイデガーの言う「形而上学」は、「存在忘却」のことだよ?

502 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:37:41
ハイデガーが目指した点として>>461の記述では大きく違っているのだろうか?

503 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:44:22
>>502
それほど大きくは違ってないような気もするが、

>「存在」を問うにあたり、暗黙裡に「絶対的な真理」を求めている為、
>時間性・人間の思考の多様性などを考慮すると、その「問い自体」
>「問い方自体」に無理があることになる。
>「それは何であるか?」と問う事=形而上学


>>501に書いたとおり、「形而上学」は「存在忘却」。
「それは何であるか?」と問うことが形而上学であるのは、
その問いが、「何であるか?」の「何」を対象化しているから。
対象化することによって、それは「存在」ではなく「存在者」に
なってしまっているから。


504 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:51:42
>それほど大きくは違ってないような気もするが

結論を掴むとは、461の記述程度には理解するということで、私を含めここの辺りの理解が出来れば得るモノも多く満足する人は多いと思う。

505 :500:2006/09/24(日) 01:57:28
もしかして「形而上学的な手法」=「超越論的方法論」ってことかな?
なんだかなおさらカント書読んでもらいたいなぁ…

>>461程度に大掴みに伝統的形而上学に対するハイデガーのスタンスを
理解したところでさして得るものはないよ
こんなので満足しちゃイカンイカンw

506 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:57:57
>>488)

>>こういった基本構造を掴めず、それでいて結論を掴めると思うのは何故だ。
>>もしそれで何らかの結論が掴めるのならば、『存在と時間』やハイデガーを引き合いに出す意図はどこにあるのだ。
応えてくれ。

>>488
『存在と時間』刊行時、またその後二年ほどのハイデガーの思索に於いて、「形而上学は存在忘却のこと」と言えるかい?
ハイデガーの用いる「形而上学」という語は年代と共に大きな変化を蒙っているから注意して欲しい。
前期思索に「形而上学=存在忘却」と取れるテキストがあれば指摘してくれ、あるなら是非参考にしたい。

>>502
>>503
>>存在は『時間性』をもっているという事。
>>A=Bである。
>>Aが誰か人であるとするとA=Bであった物が、10年後にはA=Cになっている。
>>解りやすく言うと、生まれたばかりの人間と10年後の成長した10歳のその姿は、物理的にも精神的にも違った存在になっている。
これは時間性の解釈として通用する?
この文章での主張の正当性が確保されないならば、それに基づけられた結論をどうやって評価すればいい?

507 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:03:07
ん、ごめん。

五行目は>>501だった。

508 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:06:10
>>506
あなたが何を言いたいのか良くわからない。
まずあなた自身の見解をもっとはっきり書いてくれれば分かりやすいだろう。

509 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:06:37
なんかさっきから『存在と時間』に関しての話題なのに
ニーチェとか存在忘却とかいう言葉が飛び交ってるね…

自分は別に前期ハイデガーとか後期ハイデガーとか
区別するのにそこまで意味があるとは思ってないけど
さすがにここらへんは押さえないと話として成立しないよ

510 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:09:42
なんか面白い展開になりそう?

511 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:10:53
>さして得るものはないよ
なんの立場から言ってるのかな?
読もうと思った動機に対して答えていれば十分満足なのよ?
自分の人生に役立ってれば満足できるのよ?

>もしそれで何らかの結論が掴めるのならば、『存在と時間』やハイデガーを引き合いに出す意図はどこにあるのだ。

「存在と時間」やハイデガーに触れてそこに至ったんだから、引き合いに出して相応しいじゃないか?


512 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:13:15
>>509
『存在と時間』の時期にだってハイデガーはニーチェを読んでいたはずだし、
存在忘却について当然考えてもいたはず。
存在忘却は『存在と時間』には無関係と反論するなら、その論拠を示すべき。

513 :500:2006/09/24(日) 02:17:36
>>511
気を悪くしたならゴメンなさい
ただ単に

>結論を掴むとは、461の記述程度には理解するということで、私を含めここの辺りの理解が出来れば得るモノも多く満足する人は多いと思う。

ってのに対して「いやその程度じゃ何らレポートや論文の足しにはなんねーべ」と思って
反射的に書き込みしてしまいました

別にみんながみんなハイデガー読んでレポートや論文書くわけではないものね

514 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:18:19
あのね、10年以上前に「存在と時間」その他を読んであーでもねえ、こーでもねえと言いながらと何とか、言いたい事はこれかあと理解してる訳。
細かいこと言われても解らないの。読んだ直後ならいざ知らず。
でもその後の人生に役立つ結論は覚えてる。
それで十分なんだよ。
「形而上学」=「存在忘却」と描いたのは私ではないので。

515 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:24:29
なんだ、手ごたえのある奴はいないみたいだな…

516 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:31:56
>>511
>>こういった基本構造を掴めず、それでいて結論を掴めると思うのは何故だ。
>>もしそれで何らかの結論が掴めるのならば、『存在と時間』やハイデガーを引き合いに出す意図はどこにあるのだ。
一行目を削ったのは何故?
寧ろ重要なのは一行目なんだが。


>>514(=511?)
「人生の役に立った」のなら誠に結構。
そういった読書経験があるのは素晴らしいことだと心から賛同できる。
そして、そういった有意義な体験にわざわざ学術的な解釈を求める必要はないと思う。

>>512
509が言っているのは「形而上学=存在忘却」を『存在と時間』の分析に見出すのは難しい、ってことじゃないの?

>>『存在と時間』の時期にだってハイデガーはニーチェを読んでいたはずだし、
>>存在忘却について当然考えてもいたはず。
テキスト抜きで、ここから「形而上学=存在忘却」に繋げるのは相当難しいんじゃないか?
該当箇所があるなら『存在と時間』から抜いてくれ。
私が知らないだけってことも大いに有り得るので、教えてくれると助かる。

517 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:37:23
>>516
>テキスト抜きで、ここから「形而上学=存在忘却」に繋げるのは相当難しいんじゃないか?

『存在と時間』の時期の「形而上学」が、「存在忘却」でないとすると、
「形而上学」とは、何なの?
それを示すのが、先ではないか?

518 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:38:45
例えばこれがニーチェあたりだったらもっと感覚的に説明されていたと思う。
手ごたえなんか必要ないの

519 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:43:37
>>こういった基本構造を掴めず、それでいて結論を掴めると思うのは何故だ。
>>それほど大きくは違ってないような気もするが

それほど違ってないんなら、結論掴めてるんじゃないのか?
しつこいヤツだなあ。




520 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:47:34
『存在と時間』期のハイデガーの形而上学観って
あらゆる人間に備わった「自然的素質」としての形而上学
みたいな感じじゃないの?

有限な人間にインプリケイトされた逃れられない
力みたいなさ

被投性とか世界内存在とかそこらへんのモチーフに
近いとこで理解するべきものであってプラトン以降の
「伝統的」形而上学の問題点とは異なった文脈にあると
思うんだけど・・・

521 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 03:03:22
カルナップの言うように人生に役立つ(文学としての)哲学として
ニーチェで満足すればいいのです

カルナップに言わせればハイデガーなんて無意味な言明こねくり
まわしてるだけですから・・・

522 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 03:09:35
>>カルナップの言うように人生に役立つ(文学としての)哲学として
ニーチェで満足すればいいのです

ニーチェで満足出来なかったから読んでだよ。

>カルナップに言わせればハイデガーなんて無意味な言明こねくり
まわしてるだけですから・・・

自分にとっては十分意味があること教えてくれたんだよ!
わけわかんないなあ...



523 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 03:10:13
>>517
『存在と時間』では形而上学という語が意図的に避けられているように思う。
主題として扱われていないってことだ。
よって私には『存在と時間』から形而上学の適切な定義を抜き出せない。

が、その思索の延長上にいた二年後、ハイデガーは形而上学に関して積極的に語っているので、そこから抜き出すことにしよう。
>>『存在と時間』の時期の「形而上学」
を示せということなので、29年の『形而上学とは何か』で構わんだろう。

「形而上学は、そのものとして、また全体に於いての存在者の把握を引き留めるために、存在者を超えて問うことである」
適当に意訳してみたが、構文が変わってるから気に入らん人がいるかも。力不足でスマン。

「形而上学は、存在事物を或る存在事物そのものとして且つ全体として、それを把握するために取りもどすべく、存在事物を超えて問うことである」
こっちは訳書から抜いた。これなら読めるだろう。
これを見る限り、少なくとも29年のハイデガーは形而上学に何がしかの期待を抱いているね。


>>519
私は493、495、497、506、507、516だ。(521は違う)
461は私の「読み」と「大きく違っている」よ。

524 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 03:20:03
はい、ありがとうございます。

525 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 03:58:41
>>523
461の「形而上学の解体」は、『伝統的形而上学』という意味であることは、
文脈から明らかだろ。
どこがおかしいのか、わけわからん。


526 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 04:40:54
つまり、>>497
>『存在と時間』で目指されたのは形而上学の解体だったのか? (Keineswegs!)

と言うなら、それなりの理由を示さなければならないはずだが・・

>誰が読んでも(仮令それが受け入れがたいものであれ)『存在と時間』での主張として認めざるを得ないような、現存在の基本構造だ。

これがその理由なのかな?
しかし、現存在分析は、「時間」と「存在」そのものを問うことに向かってのものだったことは明らかだろう。
で、ハイデガーはプラトン以降の伝統的形而上学が、そういう風に時間と存在そのものを問うことに成功していたと
考えていたのか? そこを示さなければおかしいと思うのだがね。
でないと、なんで(Keineswegs!)なのか、わけわからんということ。

527 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 17:21:21
>>520
哲学の歴史全体を通じて、プラトンの思考が形を変えながら支配しつづけている。形而上学とはプラトニズムのことである。
ニーチェは自分の哲学を転倒されたプラトニズムと呼ぶ。すでにマルクスによって遂行された形而上学の逆転によって、哲学は極限の可能性にいきついた。哲学はその終焉に達したのである。
『哲学の終焉と思索の使命』(ハイデガー)

ハイデガーはプラトニズムを称して形而上学と呼んでいる。
『存在と時間』は未完の書です。
学者を目指すものでなく、何かを求めて『存在と時間』に入った人達にはハイデガーがその生涯を通じてどういう結論に至ったかを掴むほうが適切であると思われるが?どうであろうか。
ハイデガーが存在と時間から始まりその後に至ったのは、やはり形而上学の解体であり、人の認識の非常に単純な部分であり、そして十分感覚的に掴めるものです。

学者がハイデガーを読む意味と一般人が読む意味は明らかに動機を異にしており、よって目指す結論も違うと思う。
しかも『存在と時間』以後、ハイデガー自身用語の認識を変えています。
細かい用語の概念は掴んでいなくても、結論は掴むことは十分出来ます。
ハイデガーをもっと一般人に役立つ思想家にしましょう!


528 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 17:50:01
カントも読んでみようと思います!

529 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 18:41:26
おまえら
キチガイの書いたものを読んでるヒマがあれば
物理学の教科書でも読んでおけ



530 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 19:05:42
もうとーの昔によんだんだよ

531 :考える名無しさん:2006/09/25(月) 00:26:42
>>503
>>501に書いたとおり、「形而上学」は「存在忘却」。
「それは何であるか?」と問うことが形而上学であるのは、
その問いが、「何であるか?」の「何」を対象化しているから。
対象化することによって、それは「存在」ではなく「存在者」に
なってしまっているから。

なるほど。そういうことでしたか。なんとなく分かってきました。
「なんとなく」というと、また問題になりそうですけど、私が哲学書を
読んで理解するときは、いつも「なんとなく」なので、お許しを。
でも、「なんとなく」の理解には、それなりの長所があると私は思います。
これもまた「なんとなく」ですけどね。
自分の問題意識に引き付けて読めるんですよ。「なんとなく」の読みだと。
それにハイデッガーは、学問的で厳密な知識が、いかにして、それ以前の
「なんとなく」の理解から発生してくるか、ということを問題としている
のではないのですか?
もちろん、いつまでたっても「なんとなく」では困りますけど、
少なくとも最初のとっかかりの部分の理解は「なんとなく」でいいし、
そこからしか始めようがないんじゃないですか?





532 :考える名無しさん:2006/09/25(月) 01:14:10
パチパチ、うんそうしよ!

533 :考える名無しさん:2006/09/25(月) 08:37:35
形而上学とはなんであるか?って形而上学について
真面目に何かをやったことのない人が語れるわけないですよね^^;

534 :考える名無しさん:2006/09/25(月) 11:33:10
なんかここで永遠に話が通じない状況なのは
木田元なんかで満足できる程度の人とそうでない人が
混じってるからかな?と

『存在と時間』が未完であることに変にこだわったり
どうしてもハイデガーが形而上学の解体を目指した
というストーリーを墨守したり…

決定的なのはハイデガーの発言がなされた文脈を無視して
概念定義をグダグダのまま話を進めたりとかね

まぁそれで「結論」とやらが掴めるなら幸せですよ

535 :考える名無しさん:2006/09/25(月) 23:28:38
そうだね、もう哲学ァやめます、じゃあね。

536 :考える名無しさん:2006/09/26(火) 00:03:01
ハイデガーは、存在という、直観されるだけで、
言語的による具体的説明を受け付けないものを、
慎重に比喩で語っているものの、結局イメージ豊かに語ってしまっている。
微妙に存在に存在者が忍び込んできている。存在に存在者的なものが密輸入されている。
特に、後期の堂々たる存在語りを見ると、存在の名を借りた存在者についての語り=形而上学に転落してしまっていると言わざるを得ない。
形而上学的問題の直観を説明せず、語りえないものとしてただ示した、デリダやウィトゲンシュタインの戦略のほうが賢明だと思う。
(存在の哲学が純粋に徹底されていたら、思想的にナチ万歳にはならないと思う。)

537 :考える名無しさん:2006/09/29(金) 19:50:56
>>536
>形而上学的問題の直観を説明せず、
語りえないものとしてただ示した、
デリダやウィトゲンシュタインの戦略

ウィトゲンシュタインについては聞いたことがありますが、
デリダについては初耳でした。
もう少し、詳しく説明していただけませんか?
不勉強ですいません。

538 :考える名無しさん:2006/11/11(土) 18:54:52
agetoku

539 :サッカク:2006/12/06(水) 01:04:41
 大まかな方向ご教授ください、よろしくお願いします。

:サッカク:2006/11/26(日) 01:05:07
 いま・Now の、長さについて総覧・鳥瞰すると、答えは?



:サッカク:2006/11/26(日) 01:26:37
 今・Nowの、長さの具体例。

 コンピュータは、命令読みこみ、速さが、今・Nowだろうか?
 それとも、
 一つの命令を実行する、時間が、今・Nowの長さだろうか?
 それとも、それとも、
 何らかの入力インプットにたいして、動作アウトプットするまでが、今・Nowだろうか?



:サッカク:2006/12/06(水) 00:49:15
 結局? いま、現在の、長さって?? 誰も考えたことがないのでしょうか?
 いまと、言う時間はゼロ0ではないですよね? >ALL

 頭のいい人たちがいっぱいいるんですから教えてください。よろしくお願いします

540 :考える名無しです:2006/12/08(金) 21:05:19
まず、人が「今」という言葉を使うときを考えてみてください。

@F1レーサーがコーナーを抜けアクセルを踏み込もうとする今まさにそのときの「今」
A久しぶりにあった同級生に今何やってるのと聞くときの「今」
B人類の歴史の中での「今」
「今」という言葉はさまざに用いられます。使う人によって、使う状況によって。

「今」というのはひとつの言葉でありますが、言葉というものは人と人との間のコミュニケーション等に用いられ、最低限相手に伝えたい何かが相手に伝わる限度において十分幅を持ちえるものです。
「今」という言葉も同様に幅をもっていると思われます。

まず、あなたの「この問いを問う姿勢」として「問うにあたっての暗黙の前提」があるように思われますが。
つまり「今の長さは・・・である」とひとつの答えが出るものであると。

0であるとも言えなくもないし、1時間であるとも言えるのではないでしょうか。
会話が成立している範囲において。
言葉とはそういうものだと思います。

541 :考える名無しさん:2006/12/08(金) 21:52:39
>>539
スレ違いだろ。
今を時間論で論じた本、中島義道「時間を哲学する」講談現代新書を読みなさい。
(あと詳しくは中島義道「カントの自我論」日本評論社)
今とは決まった長さはない。今の「文法」。「そばはまだか」「今出ました」。
「今何してるの」「今、君と電話してるよ。」(間違い)「今、食事をしていたところ」
「今地球は温暖化している」。ほれ、これらはみな今の使い方だろうが。


542 :考える名無しさん:2006/12/08(金) 23:09:38
存在と時間はカテゴリミステイクだ。

543 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 01:20:41
>>540
通りすがりのものだけど、
君の言語観はおれとすごく近いな。

544 :考える名無しです(540):2006/12/09(土) 13:51:36
>>543
ありがとうございます、共感というのか考え方が近い人がいるというのは嬉しいものです。

545 :考える名無しさん:2007/02/10(土) 13:26:56
次!

546 :さだを:2007/02/10(土) 15:28:23
居間・今
近・混・近・痕
と、こういう事ではないですか?

547 :考える名無しさん:2007/02/20(火) 20:58:03
ハイデガーは戦争で死体を沢山見たんだろか。

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