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【教行信証】親鸞を語る【歎異抄】

1 :唯円:04/08/06 21:31
 

2 :考える名無しさん:04/08/06 21:33
往生しまっせ〜

3 :考える名無しさん:04/08/06 21:33
今の真宗って何?俺の苦労は何だったのかと小一時間

4 :考える名無しさん:04/08/06 21:34
岩波文庫を買ってみたけど、古典を読む能力に欠けた俺には、
とてもじゃないが読みこなせないぞ。

5 :考える名無しさん:04/08/06 21:34
板違いだボケ

6 :考える名無しさん:04/08/06 21:36
戒律のない宗教なんかあり得ないでしょ

仏教を騙る哲学的カルト宗教=真宗

7 :考える名無しさん:04/08/06 21:43


こちらでドゾー

心と宗教@2ch掲示板
http://life6.2ch.net/psy/






8 :考える名無しさん:04/08/06 23:57
いやいや、親鸞の教えは十分哲学的だから、この板で語るだけの価値はあると思うよ。
正直、宗教板は議論のレベルが低すぎてお話にならないし(w

9 :考える名無しさん:04/08/07 00:01
>4
古典の教養のない人が岩波文庫版は無理。
せめて注釈の詳しい本願寺出版部版か、高価だが四季社の傍訳版を。

10 :考える名無しさん:04/08/07 00:03
>8
哲学より深いだろうな。
哲学(この場合、仏教の)が無力だと自覚した地点から始まっている。
哲理を語る人間の実際の有様がどうにもならないということ。

11 :考える名無しさん:04/08/07 00:16

こちらでドゾー

心と宗教@2ch掲示板
http://life6.2ch.net/psy/







12 :考える名無しさん:04/08/07 01:17

それ以上貼ると荒らしになりますよ
宗教を哲学的に考察するのはごく当たり前のことです

13 :考える名無しさん:04/08/07 01:28
そもそも心と宗教板というのは、宗教を信仰の面から論じる板だから、
哲学的に宗教を論じたい場合はこの板でOK。

今日日誰も親鸞を個人的に信仰崇拝の対象にしようとしてる人なんていないし、
もしいたとしても心と宗教板の浄土真宗スレでやればいい。

親鸞の教義を哲学的に議論したいなら、ここしかないの。

14 :考える名無しさん:04/08/07 12:06
>13
>今日日誰も親鸞を個人的に信仰崇拝の対象にしようとしてる人なんていないし

 無知というかキリスト教かぶれ?そもそも、親鸞を信仰の対象にするというのが意味分からんが。
 今村仁司や五木寛之は浄土真宗の実践的な門徒だろう。

15 :考える名無しさん:04/08/07 12:16
見当違いな書き込みは控えましょう

今は

哲学板で親鸞を論ずることは是か非か

が論点です

16 :考える名無しさん:04/08/07 12:25
そんな教養ある香具師、この板にいるか(w
龍樹(ナーガールジュナ)、世親(ヴァスヴァンドゥ)から始めないといけないよ。
仏教の信が、キリスト教の信仰と全然概念違うことも基礎教養だし。

ウィトゲンシュタイン程度で言葉遊びしてるのがお似合いかと。

17 :考える名無しさん:04/08/07 12:28
寒い。。

18 :考える名無しさん:04/08/07 12:37
>>14
 たしかに13は何も知らないな。
 哲学だろうと何学だろうと、何も知らなきゃ始まらんのは自明だな。
 成立しそうにないな。


19 :考える名無しさん:04/08/07 12:47
今後>>13が書き込まなければ成立

ってことで手を打ちましょう

20 :考える名無しさん:04/08/07 15:27
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

浄土宗徒は偶像を拝まず
仏壇の中央に鎮座するのは
南無阿弥陀仏のただ六字
う〜ん‥ちょっと哲学ぽい?

21 :考える名無しさん:04/08/07 15:44
名号論というものがある。

22 :考える名無しさん:04/08/21 15:21
で、夏枯れもあると。

23 :考える名無しさん:04/08/21 15:59
真宗の本尊は阿弥陀仏だろ、親鸞も釈迦も雑魚

24 :考える名無しさん:04/08/21 18:22
というチミもザコ中のザコってことが判ってない程のザコってか。
ハッハッハッ、ヒッヒッヒッ、フッフッフッ、ヘッヘッヘッ、
ホッホッホッ。


25 :考える名無しさん:04/08/21 18:41
何にでもオタクはいるからな。
スレをリードできないくせに、人の意見を叩くことだけ熱心な人。
そのくせ人に叩かれるから、自分じゃ何も書かない。

読んでて、面白くねーんだよ。御前のことだ、オマエ。

26 :考える名無しさん:04/08/21 20:06
いいじゃないですか、"面白くねーオタク"の24さんと、"ザコ"の25さん。
お二人ともお似合いのト・ン・マですよーっと。
さーて、どっちのトンマが粘着質を現して糞スレを返してくれるのかな?



27 :考える名無しさん:04/08/21 21:20
猿の尻笑い

28 :考える名無しさん:04/08/22 18:51
疑問??

先日訪れた、高野山奥の院に親鸞聖人の墓所ありました

何故、真言宗総本山たる高野山に上人の墓所があるのでしょうね?
偽物っつーわけじゃないとは思うのですが

29 :梅原猛:04/08/22 18:52
親鸞最強!

30 :考える名無しさん:04/08/22 21:04
親鸞→日蓮→創価
現代社会の寄生虫の元凶です。

31 :考える名無しさん:04/08/22 21:05
鼬害、去れ

32 :考える名無しさん:04/08/22 21:18
現にあるもののみが真実であり唯識のために今後がある。無いものに苦悩するなんてまっぴらだ。何で電子に向かって真実を見い出せようか。すべては終わった

33 :考える名無しさん:04/08/23 19:39
1です。


このスレ立てる時に、ちょっとだけ迷ったんですが、
立てて正解たったでしょうか?

34 :考える名無しさん:04/08/23 19:46
>>33
他力本願。

35 :考える名無しさん:04/08/23 19:56
28です

どなたか答えてくれないものでしょうか

いやほんと 気になってしまって

36 :考える名無しさん:04/08/23 20:18
親鸞と高野山でぐぐってみたよ

*******************

高野聖の元祖は教懐(きょうかい)という僧である。
もとは山城小田原の聖だったが、延久5(1073)年頃に高野山に入り、聖の集団を作った。
高野聖は諸国をめぐりながら橋を建設したり、湯屋を建てたりといった社会奉仕も行い、
高野山浄土と弘法大師の霊験によるご利益・開運を説いて、高野山の名を全国に広めていったのである。

折しも末法思想(まっぽうしそう)が世を席巻していた頃である。
荒廃した世を逃れてきた人々の中には高野山に身を寄せて聖となる者も多くあった。
この頃、聖の数は学僧の数をはるかに上回り、念仏の声が山々に響いたという。

高野聖はまた、高野山への納骨参詣をすすめて歩いたことから、
弘法大師がおられる奥院の廟近くに分骨する風習も広まった。
参道に沿って十万を越える供養塔が立ち並び、
その中には法然、親鸞、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川吉宗などの名も見える。
それらは、大師のかたわらに身を寄せるようと佇んでいる人の群れのようにも見える。

http://www.westjr.co.jp/news/bsignal/99_vol_1/koya/koya_b.html



37 :考える名無しさん:04/08/23 20:27
>>36
親鸞が親鸞の供養塔を建てられるわけないもんな。
師のこころ弟子しらず。
いや、親鸞には弟子はいなかったか。
親鸞の骨は鴨川の魚のえさであったハズ。エコロジーのはじまり。

38 :考える名無しさん:04/08/23 20:33
こんなのもあったよ

**************************************

大谷本廟は宗祖親鸞聖人のご廟所(墓所)であり祖廟とも呼ばれています。

親鸞聖人は、1262(弘長二)年11月28日(新暦1263年1月16日)、
弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊別院)において90歳でご往生になり、
鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬、ご遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の 「大谷」 に納められました。

その後、聖人の末娘である覚信尼(かくしんに)さまが諸国の門弟の協力を得て、
ご遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門北側の「崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、
お堂を建てご影像を安置されました。

このご廟は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、
第八代蓮如宗主時代の「寛正の法難」(1465年)まで、およそ二百年間、
諸国の門弟や同行によって護持されてきました。

以後、第十二代准如宗主時代の1603(慶長八)年、
徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになりました。

以来、永い年月を経た現在も「大谷本廟」は、宗祖親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、
お念仏のよろこびに生かされる門信徒の方々によって立派に護持されております。

http://www.hongwanji.or.jp/honbyou/



39 :28:04/08/23 21:12
わたしのつたない知識のなかでは

鎌倉新仏教のほとんど(浄土真宗、曹洞宗など)は
もとは天台宗(で修行された方)から出でられたもので
真言宗とは一線を画したものなのだとばかり思い込んでいました

なので親鸞聖人の墓所が真言宗の山にあるのを驚いたのです
それとものちの方が供養塔を建てられるときは
そのへんはあまりこだわらないものなのでしょうか?

私が宗派というものを良くわかってないのかもしれません

40 :考える名無しさん:04/08/23 23:26
あまり宗派は関係なさそうです
ていうかアナーキーというか何というか

************************************

奥の院は、地表と川と橋の三重構成になっており、
橋を渡ってからは死後の世界で、その下を流れる川を「三途の川」に見立てているのだという。
皇室・貴族関係をはじめ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)などの宗派をこえた各宗派の開祖、
文人、庶民にいたるまであらゆる階層の人々が供養塔を建立している。

各種団体も、戦死者・戦没者の供養塔を建て、高麗陣敵味方供養碑(秀吉朝鮮出兵時のもの)、
空挺落下傘部隊供養碑、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古・5民族の墓、ああ同期の桜供養塔、
独立工兵第15聯隊の墓、英霊塔、大平洋戦争の犠牲者を祀る英霊殿などが並んでいる。

動物の供養塔もあり、白蟻の墓、フグ供養塔、犬や猫や蚊や虫などの「交通事故精霊の碑」
などというものまであるのだ。全山が、あらゆるものの供養塔で埋め尽くされている。

http://inoues.net/club/okunoin.html


41 :考える名無しさん:04/08/23 23:33
このあたりは詳しい人の説明が聞きたいなぁ

************************************

真言密教の修行の地として拓かれた山に浄土信仰があるのはおかしいいと思いました。
奥の院に法然上人の墓があるのです。

巨大な高野山には土俗神を勧請し、浄土思想を取込み、
奥の院の墓原にはありとあらゆる各宗各派の納骨を受入れる凄まじい混沌があります。
高野山はさしずめすべてを呑み干してしまうモンスターのようなもの。
一千年にわたって参詣者を誘い続けてきたのは、この、とてつもない包容力、エネルギーが
あっての事だと思います。

但し、高野山の大師信仰は、まさに真言密教と浄土宗のせめぎあいの中から生まれているのだと云います。
詳しい理由は分かりません。ともかく確かに法然上人の墓が真言密教奥の院に存在していたのです。

http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/kouyasan-8.html





42 :考える名無しさん:04/08/24 12:38
この門徒が!っ
死ねっっ

43 :考える名無しさん:04/08/24 20:59


質問があったからぐぐっただけだよw

ていうか大抵のことはネット上で検索可能なんで
質問する前にぐぐってみてね

44 :28:04/08/24 21:05


42は無関係ですよ

45 :28:04/08/24 21:09
>>43
申し訳ない
自分でも調べてから質問するようにします

46 :考える名無しさん:04/08/26 12:24
いいってことよ。遠慮なくドンドン質問してごらん。
気が向けば回答してくれる御仁もいるって。

47 :考える名無しさん:04/08/26 12:52
この感じで、またーり行った方が面白いぞ。

48 :考える名無しさん:04/08/27 00:41
>>41

浄土真宗の門徒の数は多いから、参詣客目当てに高野山が作ったのでしょう。
比叡山や善光寺にも門徒目当ての施設がある。
青蓮院は本願寺の大法要あるたびに門徒が団体で来る拝観収入をあてにしている。

もともと密教はインドでも土着信仰を取り込んで何でもありになった仏教の姿。

49 :考える名無しさん:04/08/28 08:10
この門徒が!っ
死ねっっ

50 :考える名無しさん:04/08/28 12:59
↑層化

51 :考える名無しさん:04/08/28 20:17
↑僧堕

52 :考える名無しさん:04/08/28 20:36
浄土真宗の教えって、プロテスタントに近いの?
阿弥陀仏が唯一神で、浄土が天国。
プロテスタントは信仰や人間の考える善悪と救いとを切り離す。その代わり
地獄に落ちるやつは何しても地獄に落ちる、誰が天国へ行けるかは、神のみぞ知ること。
浄土真宗は、念仏さえ唱えればどんな悪党でも浄土に往生できる。その意味
で、人間の価値判断と救済とを切り離す。

53 :考える名無しさん:04/08/28 22:08
ルターを親鸞にたとえる香具師が、
たまたま明治以後多かっただけの話ですよ。

日本は本来は偶像崇拝の国なのだから、
どちらかといえばカトリックの方が親和性が高いはずなのに、
国策上ドイツ文化を重視したため、
日本にドイツ的要素を見いだすことが、
この時期のインテリの務めとなっていました。


54 :考える名無しさん:04/08/29 01:23
52はどちらかというとカルヴァン派の教義との比較みたい。
浄土真宗はキリスト教より遙か以前から非神話化している。
多分、世界中で最も進んだ信仰形態だろう。
鈴木大拙も晩年は浄土真宗に傾倒していた。

55 :      ↑:04/08/29 10:13
        マジで逝ってるの?
        でどうゆう観点からの評価で(世界中で最も進んだ〜って出てくる?
        例えばニューエイジ系のが進んだ信仰形態とかも言えるんじゃない?

56 :考える名無しさん:04/08/29 13:27
面白いから あげ

57 :考える名無しさん:04/08/29 14:00
浄土教の系列は、
結局のところ現世マンセーに陥りやすい欠点を持つ。

58 :考える名無しさん:04/08/29 16:30
現世マンセ、大いに結構じゃねーか。
在りもしねー来世に期待してんなら、早くおっ死んじまえよ。

59 :考える名無しさん:04/08/29 17:58
親鸞が唯円に言ったとされる

「人を千人殺してんや」
「さるべき業縁のもよおさば」

この本当の意味を詳しく説明できる人、教えて。

60 :考える名無しさん:04/08/29 21:09
「殺したい」と思うことは殺したも同罪なんだと。
親鸞に言わせれば、連続強盗殺人犯も、
そこらの一般人も、ヒットラーも、ポルポトも、
そして親鸞自身も同じくらい罪深いんだよ。

自分の善行、すなわち自力によって
救われるなんてことは絶対あり得ないんです。
他力しかないんです。それが他力本願。

誰でも、どんな極悪人でさえも、自分は
基本的には善いタイプの人間だとうぬぼれている。
そういう人は救われないらしいです。

61 :28:04/08/29 21:58
基督教の原罪に似てるといえば似てるかも

62 :考える名無しさん:04/08/30 08:36
>「殺したい」と思うことは殺したも同罪なんだと。
> 親鸞に言わせれば、連続強盗殺人犯も、
> そこらの一般人も、ヒットラーも、ポルポトも、
>そして親鸞自身も同じくらい罪深いんだよ。

これ昨日吉本隆明?

63 :考える名無しさん:04/08/30 08:37
×これ昨日吉本隆明 
○これ吉本隆明?


64 :大地:04/08/30 20:27
歎異抄を読みたのんですが、中公クラシックスと講談社文庫のどちらがいいでしょうか。

それと、キリスト教と「全然」違いますか?
鈴木大拙をちょこっと読んで、「似てるなー」、とふと思ったんですが。
結局、僕が宗教心をもてないだけだからなんでしょうけど。
どうなんでしょうか。

あげー。

65 :大地:04/08/30 20:28
>64
日本語おかしいですね。すいません。

66 :考える名無しさん:04/08/30 20:30
>64
本願寺版に決まっている。
そんな素人向けの訳は・・・。
誰かも書いてるが、大拙は晩年、浄土真宗に深く傾斜してた。
全集にも真宗関連の巻がある。

67 :大地:04/08/30 20:56
早いレスありがとうございます。

「本願寺版」分かりました。
今度書店に行って探してみます。

68 :考える名無しさん:04/08/30 20:57
仕方なく来世

↑これ名言

69 :考える名無しさん:04/08/30 21:08
>67
三種類あるよ。
原典版、注釈版、現代語訳
歎異抄だけなら現代語訳ということになるが。

70 :考える名無しさん:04/08/30 21:39
「幸福の国を求めていって、もし疑いの網に覆われたなら、また元に戻ってきて
再び永い永い歳月の遙かな旅に出かけよう」

これって教行信証のどこにありますか?


71 :645:04/08/30 22:10
このスレと丸山真男が10代に推薦する本、三冊に
「歎異抄」を挙げていたのが、きっかけになって、
最近、仏教関係の本を読むようになりました。

実際の著作に触れもずに、色眼鏡で仏教というものを見ていた
自分に少し反省。

とりあえず、中村元先生の大乗仏典を順次、読んでいるのですが、
少し物足りないかも。

あと「いまを生きるための歎異抄入門」 佐々木 正 (著)の
評価はどんなものなのでしょう?
個人的には、かなり面白かったです。

しかし、このスレに貼ってある宗教板に行ってきましたが、
凄い雰囲気ですね。

72 :考える名無しさん:04/08/30 22:20
平野修という人の書いた本がいいよ。
東本願寺のひとだけど、全然抹香臭くない。

73 :考える名無しさん:04/08/30 22:25
スレ違いではないつもりだけど
森達也の「A」「A2」は必見だと思う

オウムの広報副部長荒木氏を追跡したドキュメンタリー
最近DVDになったんで初めて見たんだけど
これマイケルムーアやゆきゆきて神軍を軽く超えてるんじゃないかな

歎異抄を哲学的に読んじゃう人に絶対の自信で推薦

74 :考える名無しさん:04/08/30 23:08
>>73
オウムは、ただの馬鹿。 
燃えないゴミの日に、北チョンにポイ捨て。

75 :考える名無しさん:04/08/30 23:11
「人を千人殺してんや」
「さるべき業縁のもよおさば」

まともに解釈してみ  > 馬鹿オウム

76 :考える名無しさん:04/08/30 23:20
「悪人正機というなら人を千人殺したっていいんじゃないか、
そのほうがいいくらいだろ、やってみろ」
という批判に対する、反論のところでしょ。
もう千人殺したくらいのことは十分してるので、わざわざがんばらなくても
いい、というようなことなんじゃないかな。

77 :考える名無しさん:04/08/30 23:27
脊髄反射みたいなレスは勘弁w

森達也の名は最近出た『下山事件』で初めて知りました
一読ただものじゃない、というのが偽らざる感想

この人が知る人ぞ知る自主製作映画の傑作「A」「A2」の監督だと知って
矢も楯もたまらずDVD取り寄せただけ

もう一度言うけどこれ必見、自信を持って推薦します
私はオウムでも何の宗教でもありません

78 :考える名無しさん:04/08/31 00:53
説明する人ごとに、全部答えが異なるのは
なぜかしらん

79 :考える名無しさん:04/09/01 11:55
異なる、だからいいんだべ。
解釈なんざ解釈する奴の数だけあるべ。

80 :考える名無しさん:04/09/01 19:56
↑まあな。うんでも、まとも過ぎてツマンネー。

81 :考える名無しさん:04/09/01 20:00
歎異抄読んでもなにがいいたいのかわからなかった
頭悪すぎて嫌になる

82 :考える名無しさん:04/09/01 21:12
仏教は、中観、唯識、浄土真宗だな。

83 :考える名無しさん:04/09/01 21:38
宮崎哲弥ですか先生

84 :考える名無しさん:04/09/01 22:54
私はさぁ ブッティストなんだけどさぁ

85 :考える名無しさん:04/09/01 22:58
私はブッディストではない   ゴータマ・シッダールタ

86 :考える名無しさん:04/09/02 08:09
ブッダリアン

87 :考える名無しさん:04/09/02 12:24
ほんじゃー、テメーラみんな、豚だ! てことでOK?

88 :考える名無しさん:04/09/02 21:29
仏教は、中観、唯識、浄土真宗だな。
これが王道だ。

89 :考える名無しさん:04/09/02 21:54
宮崎哲弥ですか先生

90 :考える名無しさん:04/09/03 07:53
不器用って酎缶、只食、丁度神臭で、おうどーだ?

91 :考える名無しさん:04/09/05 11:56
幸福 念仏 信仰

92 :考える名無しさん:04/09/05 12:10
幸福 おまんま お天道さん

93 :考える名無しさん:04/09/05 19:48
吉本隆明の親鸞

94 :考える名無しさん:04/09/05 20:16

吉本隆明氏の親鸞理解って従来つーか、東西両教団のものとかなり
違うのかしら?

95 :考える名無しさん:04/09/06 08:49
吉本は歎異抄9条の最後を
「阿弥陀仏が『煩悩がないのだろうか』といぶかしむだろう」
と理解している時点で論外。
自問自答の箇所だろうが。アホか。

96 :考える名無しさん:04/09/06 09:32
そうじゃなかったのか

97 :考える名無しさん:04/09/06 18:23
いまだに親鸞ならこの局面をどう考えるのか?親鸞ならどうする?
みたいなことを言われるのってすごいよね

98 :考える名無しさん:04/09/07 04:31
歎異抄を原文と現代語訳を照らし合わせながら読んだけどさすがに難しく

ひろさちやという人の解説書を参考にしたが、やはり難しく、、、

真宗になじみのない人間にしっくりくる解説書はないでしょうか?

、、、ひろさちや氏の本はよく売れているようなので、自分の理解力が
   足りないのだろうけど


99 :考える名無しさん:04/09/07 11:17
98さんよ、んなこたーねー、理解力なんざトンデモでないかぎりみんなタメさ、
と思ってガンバレヤ。

100 :考える名無しさん:04/09/07 19:54
>98
歎異抄関係の入門書だと、山崎龍明氏あたりが読みやすいかも。
最新刊は「親鸞に人の生き方を学ぶ」(中経出版)。
個人的には「歎異抄の人間像」(大蔵出版)がお勧め。

101 :考える名無しさん:04/09/08 02:29
>>99 >>100
ありがとう。まあ、素人が一週間程度で理解できても張り合いが無いしね。

↑の山崎氏、ひろさちや氏、あと高史明という三人の共著は家にあったので
今からよむけど、、、
ちょっと斜め読みした感じでは、やっぱり山崎氏の記述が解り易そうです。
またお教え下さい。

102 :考える名無しさん:04/09/08 05:10
山崎龍明ってどんな人なの?

103 :考える名無しさん:04/09/08 05:47
平野修という人がいい。
今村仁司もこの人の影響で浄土真宗に入っていった。
あと、安田深理。唯識の大家でもある。
曽我量深、金子大栄という偉い人もいる。

104 :考える名無しさん:04/09/08 06:29
平野修氏の本は確かに面白い。ただ、やや難解(独特の言い回しで)かも知れない。
法蔵館から出てる「親鸞からのメッセージ」「正信念仏偈の教相」「真宗の教相」はお勧めできる。


105 :考える名無しさん:04/09/08 06:55
亀井鑛「祖父と孫の正信偈」(大法輪閣)は会話形式で進行する本で、わかりやすいかも。

106 :考える名無しさん:04/09/08 22:32
>103
すみません。
深理→理深です。

107 :考える名無しさん:04/09/09 00:07
親鸞の念仏論

108 :考える名無しさん:04/09/09 12:54
及び親鸞の造悪肯定論

109 :考える名無しさん:04/09/09 20:30
鈴木大拙「真宗入門」は、哲学的に語ってくれてたと思う

110 :考える名無しさん:04/09/09 20:59
>109
その本は入門書としてはいまいちだと思う。
ケネス・タナカの「真宗入門」を推す。アメリカで出た浄土真宗入門書の翻訳で、説明に色々な工夫が見られて面白い。

111 :考える名無しさん:04/09/09 21:50
>104
難解というより、語りかける口調だね。
ほとんどが講義(演)録だから。
内容は深いというか、人間の実相を照らし出している。
文永堂という京都の書店から選集が出ている。
ちょっと高いが(1冊5000円)、買う価値あり。

112 :考える名無しさん:04/09/09 21:59
>111
言葉は平明なんだけど、考え込ませるんだよ、読んでいて(笑)。
好きだし、面白いんだけどね。じっくり読むと味わい深いよね。

113 :考える名無しさん:04/09/09 22:29
>111
110さんの仰るとおりですね。
私は浄土真宗に全く関係のない人間でしたが、ほんとに偶然書店で立ち読みして、その文章に引き込まれました。
ある意味、現代思想ともつながる人間存在の無根拠性をあぶり出しますが、そこで終わらないで、そいういう人間にとっての救いとは何かを考えています。
それが仏教なのでしょう。

なお、選集の発行元は文永堂→文栄堂でした。

114 :考える名無しさん:04/09/09 22:33
>113
112さんへのレスでした。
110さんの紹介された本も買いましたが、まだ読んでいません。
これから読みます。

115 :考える名無しさん:04/09/10 18:12:35
平野さんの文栄堂の選集って、どこまで出てるんでしょうかね。
直接注文するしかないのでしょうか?

116 :考える名無しさん:04/09/10 22:27:50
>115
全10巻ちょっと。
今、教行信証の巻が刊行途中。
流通ルートに乗ってるから一般の書店でも入手可能。
ただし取り寄せ注文になる。


117 :考える名無しさん:04/09/10 22:31:23
>116
サンクスです。
ネットで買えると(お持ち帰りの重量がなくて)助かるんですが、それは無理ですかね。
クロネコヤマトで検索すると、2冊しか買えないみたいなんですよ・・・。


118 :考える名無しさん:04/09/10 22:35:43
>117

文栄堂のHP。直接頼んだ方が速いです。送料かかるかも知れませんが。

  http://www.teramachi-senmontenkai.jp/shop/s53/s53btm.html>117


119 :考える名無しさん:04/09/10 22:37:40
>118
上手くリンクしません。済みません。

Googleで、文栄堂、古書、と入れると検索できます。
新刊も古書も扱ってるようです。

120 :考える名無しさん:04/09/10 22:45:25
>118,119
重ね重ねサンクスです。
法蔵館で出てるのは全部読んでしまって、寂しかったところです(笑)。
その内まとめて注文したいと想います。

121 :考える名無しさん:04/09/11 15:47:33
まとめて誅悶か。刑期がいいね。唖焦れるね。綾狩りたいね。
夷魔に観テロ、汚霊だって。

122 :考える名無しさん:04/09/12 10:33:20

読むのに時間かかる替え文字すんな。
読解のために姉貴も巻き混んじまっただよ。

123 :考える名無しさん:04/09/12 19:21:01
ナツメ社の「図解雑学 親鸞」は伝説ばかりで役に立たない駄本でした。

124 :考える名無しさん:04/09/13 00:10:36
>ナツメ社の「図解雑学 親鸞」

すごいタイトル
読んでみようと思ったおまいに乾杯



125 :考える名無しさん:04/09/13 20:29:37
信楽峻麿さんの「教行証文類講義7」出たんだな。買わねば。
もっとも6まで積読なんだがw

126 :考える名無しさん:04/09/13 20:47:08
>125
西ではこの人か。
梯実円師のものもよいが。

127 :考える名無しさん:04/09/13 20:50:42
信楽先生、若い頃はエネルギッシュで反権力でがんばっていたが、
いろいろ経験して年をとり、少し丸くなれば、
どんなに立派な先生になるだろうかと期待していたが、
最近、ますます意固地になって、孤立している。

元龍谷大学学長でありながら、本願寺のなかに居場所がない。
せっかっくの人材がもったいないが、あれだけ偏った本願寺批判続けてると、
ついてくる人も少なくなる。残念だ。

講義聴いたが、本願寺批判が鼻について、思想そのものの評価ができない。


128 :考える名無しさん:04/09/13 20:52:58
>>126
梯実円はいい。
いろんなことよく知っているし、バランスとれた考え方が出来る。


129 :考える名無しさん:04/09/13 21:32:02
>128
「精読・仏教の言葉 親鸞」は好著だった。

130 :考える名無しさん:04/09/13 21:34:05
>127
「真宗の大意」「親鸞とその思想」はわかりやすくて良かったよ。

131 :考える名無しさん:04/09/14 07:13:23
廣瀬杲「歎異抄講話」(全4巻)はいまいちだった。

132 :考える名無しさん:04/09/14 23:03:05
信楽峻麿「念仏者の道」読書中

133 :考える名無しさん:04/09/19 15:31:00
狐野利久「ユダヤ・キリスト・イスラーム・親鸞」はひろさちやに依存しすぎ

134 :考える名無しさん:04/09/30 15:32:32
蓮如(゚听)イラネ

135 :考える名無しさん:04/10/01 02:33:36
>>59 >>60 >>76
> 誰でも、どんな極悪人でさえも、自分は
> 基本的には善いタイプの人間だとうぬぼれている。
> そういう人は救われないらしいです。

それだと、「誰でも」「基本的には」「救われない」ということになりますが、
どういうことなんでしょうか?

私の拙い読解力で該当部分を読むかぎりは、
「悪人正機なんだからどんどん人殺して往生しよう、
なんて思っている奴は往生できない」という主張に対して、
なんで出来ないんだよ! って反論しているんだと思います。

つまり、「悪人正機なんだからどんどん人殺して往生しよう」
と思っている人であってさえも往生はありえるってことなんじゃないでしょうか。

これが唯円の主張は、次のようなものなんだと思います。


もちろん、親鸞は「悪人正機なんだからどんどん人殺して往生しよう」とは言っていない、
「くすりあれば毒をこのむべからず」と言ってそういう考えをいましめてはいる。

しかし、そういうことでもって、どっちが往生できるとか、どっちが往生できないとか、ということではない。

そういう考えでいくと、最終的には、
戒律を守ったら往生できるとか、逆に戒律を守らなかったから往生できるとか、
あるいは、内省が深いから往生できるとか、逆に内省が浅いから往生できるとか、
何らかの形で自力の思想になってしまう。

136 :考える名無しさん:04/10/01 07:00:19
「信心」が問題、「信心」なしには五濁悪世の衆生は救われない、
自力では悟れない故(救われない故)。
だから阿弥陀の本願他力に目覚めろ、というのが親鸞の基本思想でしょう。
自力・他力という言葉をを日常用語とわけて(専門用語として)読まねば、範囲がおかしくなって、おかしな認識になってしまいます・・・。



137 :135:04/10/01 08:11:15
>>136
> だから阿弥陀の本願他力に目覚めろ、というのが親鸞の基本思想でしょう。

そういう面もあるでしょうが、親鸞の思想では、
「本願他力に目覚め」るのも阿弥陀仏のはからいであり、
「悪人正機なんだからどんどん人殺して往生しよう」という人が
死ぬ直前に阿弥陀仏のはからいによって「本願他力に目覚め」ることがないと言うこともできないと
思いますが。

138 :136:04/10/01 19:05:23
>「悪人正機なんだからどんどん人殺して往生しよう」という人が
>死ぬ直前に阿弥陀仏のはからいによって「本願他力に目覚め」ることがないと
>言うこともできないと思いますが。
そうですね、原理的にはいくら人を殺そうが、信心が確立すれば真仏土に生じますね。
信心の確立が肝要で、その他この世の基準による行いは、何ら問題ではないですね。
先日死刑になった宅間氏でも、死ぬ前に信心が確立したとすれば、真仏土に生じるでしょうね。


139 :考える名無しさん:04/10/02 22:33:10
要は、クタバル寸前まで極悪非道の畜生野郎であっても、信心に目覚めれば
天国じゃなくって、極楽へ行けるって理解でいいかい?
そんで、信心に目覚めたか/目覚めてないってのはテメーで判断すりゃーい
いんか?

140 :考える名無しさん:04/10/02 23:53:57
歎異抄を親鸞の著書みたいに言う奴がよくいるけど、
違うよね?
なんでこういう奴らって教行信証じゃなくて歎異抄ばかり薦めるんだろう。

141 :考える名無しさん:04/10/03 08:03:10
「教行信証」にちゃんと目を通していないんじゃないかと思ってしまう解説書(怪説書?)ってあんがい多いよね。

142 :考える名無しさん:04/10/03 13:05:37
139サンよ、それでいんじゃねーか。
親鸞の考えを行けるとこまで推し進め
たら、坊主の存在やその位階性なんぞ
の否定にまで行っちまうことを考えりゃ、
最後はテメーがどう考えるかだぜ。
違う言い方をしたら何でもアリって
ことよ、まるでこの2チャンみたいにな。

143 :考える名無しさん:04/10/03 19:57:23
>>139
とりあえず、教行信証の現代語訳には目を通してね(はーと)。

144 :考える名無しさん:04/10/09 00:08:03
俺には139氏が理解違いには思えないんだがね。
最後の最後に本心から念仏を一回でも、それも
口中でモグモグであっても、となえたらそれで
いいのではありませんか。

145 :考える名無しさん:04/10/14 00:42:02
難しいことはわからないけど、今吉川さんの親鸞読んでる。
スゲー面白い。ブクオフで100円で売ってあったから三冊即買いした。

なんつーか、マジサイコー、超面白い。

146 :考える名無しさん:04/10/14 21:56:23
>145
吉川英治さんの?

147 :考える名無しさん:04/10/18 04:25:36
>>146
そうです。
無学なもんで・・読むの遅くて、今やっと一巻読み終えました。

148 :考える名無しさん:04/10/19 21:33:55
>147
面白そうですね。
どういうとこが特に良いですか。

149 :考える名無しさん:04/10/20 23:14:12
普通に文体や話が面白いです。
あれはどのくらいが史実に基づいているのでしょうか?

読み終わったら史実も勉強して比較して楽しもうと思っています。

150 :考える名無しさん:04/10/21 11:33:05
歎異抄ってどこまで親鸞の考えをあらわしてんのかな。
つーか、唯円の記述ってことは伝聞書だうから、
100%親鸞の考えとして理解していいんだろうか?

151 :考える名無しさん:04/10/21 22:38:07
しちゃいけないだろう。

親鸞の考えを読みたければ教行信証読めば?

152 :考える名無しさん:04/10/22 07:04:28
御消息が意外と思想を伝えていてイイ!ぞ

153 :考える名無しさん:04/10/22 12:05:08
http://www.vector.co.jp/soft/win95/personal/se311644.html

こんなん見つけた。
作った奴良い意味でアホやな(w

154 :考える名無しさん:04/11/02 19:59:37
人を千人殺してんや !!

えいっ!

富士山麓にオーム鳴く。 字余り

155 :考える名無しさん:04/11/05 00:37:19
龍谷大学、大谷大学、同朋大学の学生・教員さんはいないんですか??

156 :考える名無しさん:04/11/17 23:17:37
あげ

157 :考える名無しさん:04/11/17 23:17:53
 |____  \□ □
       / /   _____
      / /   |_____|
     / /
    / /
     ̄                   (⌒ ⌒ヽ
    ∧_∧             (´⌒  ⌒  ⌒ヾ
   ( ;   )           ('⌒ ; ⌒   ::⌒  )
    ( ̄ ̄ ̄ ̄┴-      (´     )     ::: )
     |  (    *≡≡≡≡≡三(´⌒;:    ::⌒`) :;  )
    /  /   ∧   \    (⌒::   ::     ::⌒ )
    / /   / U\   \   (    ゝ  ヾ 丶  ソ
   / / ( ̄)  | |\  ( ̄)   ヽ  ヾ  ノノ  ノ
  / ( ノ  (   | |  \ ノ (
⊂- ┘(    ) └--┘ (    )
     UUUU      UUUU


158 :ディック:04/12/01 16:16:06
ポルポトは、他力本願の夢を見るか

159 :考える名無しさん:04/12/21 20:03:31
保守

160 :考える名無しさん:04/12/22 11:02:00
親鸞は教行信証のなかで数々の文献を引用しているんですが
意図的にでしょうか、その解釈に誤りがあるようです。
これは一乗方便ということでしょうか。

161 :考える名無しさん:04/12/22 11:04:41
失礼、うそも方便の誤りでした。

162 :考える名無しさん:05/01/21 19:18:13
age

163 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 19:47:54
これは親鸞にも、日蓮にも、層化のみなさんにも言える事だが
念仏を唱えれば救われる、法華経を唱えれば救われる、ご本尊を拝めば救われる
などといった物はそれ以前の救いを説いていない、つまり我々の前にあった祖先達
それも仏教が伝わる前の人々は救われないのか?という事が問題になってくる。
はっきり言ってこれは不徳ではないのか?
インドの宗教哲学にはまるのは分からんでもないが、それでは日本というものは何か
と言う事を考えれない程度の精神力で大和言葉の悟りうんぬんは語って欲しくない。
日本の哲学である国学の創始者である本居宣長の方が人としての徳は数倍上だな。

164 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 20:07:34
日本の哲学として歴史の経験の中から道徳の道を探る
そして少なくとも縄文期からの我らが民族全ての人が救われたとする物語こそ
我々の宗教とすべきであり日本哲学の源流となるべきなのだ。
鎌倉仏教に少し日本という色があるせよ、あくまで仏教はアーリアやインドの物
そうゆうのに神々や魂といった概念をついばまれたくは無い。
お前等も親鸞や日蓮は神々の一人でしかないという概念くらいは言ってもいいんじゃないか?

165 :考える名無しさん:05/01/21 20:33:41
>>163
>日本の哲学である国学の創始者である本居宣長

 おひおひ、本居のどこが哲学じゃ?
哲学が国学とはなんじゃらほい。

166 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 20:48:43
>>165
古代のインドの思想でも哲学と呼ばれているんだから
国学者も十分哲学の範囲内だろ、哲学の語源は知愛だしな。
それともギリシャハイウェイしか認めない人?

167 :考える名無しさん:05/01/21 20:57:21
哲学と思想は別だと思うけど?
インドはなぜゼロを発見したのか。

168 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 21:00:15
本居宣長は久しく忘れられてきた我々とは何か、それを考えだした当時の人間の代表格
蘭学が入ってきて漢字分化としてのシナ哲学やインド哲学が相対化されたという事情があったのだろうが
とにかく日本とは何かというものを考え出した、それまでお経の解釈や、儒学、陽明学で浮き草のように
漂っていたものの中で、日本と日本人という物を過去にさかのぼって見つけ出す。
これを哲学としないで何が哲学なのかと言いたい。いま日本人が日本人の言葉として
主体的に使える言葉も国学者がいたからこそなんだよ。

169 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 21:11:27
>>167
インダスの人間がなぜ0を発見したかか、難しいな。

170 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 21:17:32
勝手だがgodが∞で仏陀が0だったからかもね。
宗教的意思として0を数えざるおえなかったとかに過ぎない。

171 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/01/21 21:17:39
>>167
ニーチェが「マヤのヴェール」に言及して居ますね。
ヴェールが引き裂かれる恐怖、「物自体」と関係有る鴨(長明)。

172 :四式 ◆P0IfHjzAm. :05/01/21 21:31:56
>>167
数についての哲学がインドに無く宗教的なものに過ぎないというのは
インドの数字をみたら明らかになる、それはインドの数字がとてつもなく
非合理だと言う事、それゆえに0の”発見”でしかない。
それに哲理ではしょせんギリシャには負ける。そういう事だよ。

173 :考える名無しさん:05/02/18 21:42:44
あげー

174 :河和田近く在住:05/02/19 15:41:10
親鸞初心者です。

1)教行信証,歎異抄の安くてよい本はどれでしょう。
2)ハイデガーが親鸞を英訳で読んで感心したとのことですが,歎異抄等のよい
英訳は何でしょう。
3)親鸞は法然のよい弟子であるように思えますが,浄土宗と浄土真宗の違いは
何でしょう。
4)なぜ念仏なのでしょう。声をあげるのは本質的なのでしょうか。
5)悪人はなぜ往生できるのでしょうか。
6)親鸞はいろいろな哲学者が関心を寄せているように思えますが,どういう
ところが他の仏教聖人と異なる点なのでしょうか。

前の投稿と重なるので恐縮ですが,ご教示ください。どの項目でもかまいま
せん。

175 :立て看板設置中:05/02/24 15:08:30
坐禅と見性 第十四章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1108144172/
一粒の芥子、よく須弥山(しゅみせん)を隠す。
一掬(きく)の水の中に人魚たちが心ゆくまで踊る。
私は終日汝に相対していて、劫初以来会った事がない。
看よ、東山全嶺が水上を歩いている。
エックハルトの乞食の挨拶 「[朝な朝な好(よ)き朝です」。 雲門 「日々是好日」
扇を扇と呼ぶな、鋤(すき)を鋤と呼ぶな。
昨日は痛かったが、今日は痛くない。 さっきは泣きわめいたが、今は笑っている。
腹が減れば食い、疲れれば眠る。
雪がすべての山を白く覆うている時、なにゆえにあるひとつの山は覆われずにあるのか。
清浄の行者、涅槃に入らず、破戒の比丘、地獄に堕ちず。
我の知っている事を汝は知らず、汝の知っている事を我はことごとく知る。
大力の人がどうして彼の両脚を挙げることができないのか。
柱が毎日動き回っているのに、どうして私は動かないのか。
わたしは釈迦の出現以前からさとりの状態にある。 光あれと命ずる以前の神と共にあれ。

176 :そうださいばんにいこう:05/02/24 17:44:26
阿弥陀さまでしょうか。

177 :考える名無しさん:05/02/24 18:13:18
さっき立ち読みしてきたけど、「善悪なんて人間的な価値観に過ぎない」ってことでしょ?

178 :考える名無しさん:05/02/24 20:41:07
この世のすべては演劇のようなものであり、悪人も悪人という「役」を
与えられただけに過ぎない。
だから劇が終わったあとには、悪役という嫌な役を演じてくれた人にこそ
「ご苦労さまでした」
とねぎらいの言葉をかけられるべきである。

ひろさちや氏の悪人正機説の解説は↑こんな感じだったよ。

179 :考える名無しさん:05/02/25 07:56:49
某国の指導者みたいに,悪に全然悩まない「絶対的悪者」はどうなるんでしょうか。



180 :考える名無しさん:05/02/25 08:37:10
>179
縁が熟していないので浄土には無縁でしょう
自分の中の悪に謙虚に自覚的であること・それでも救われる真理があること、この2点への信(二種深信)が救いへのいわば最低条件ですから。
>178
ひろさちや氏の親鸞理解は実に好き勝手なので、他の人の理解と十分比較してみる必要があると思います。

181 :178:05/02/25 09:28:37
>>180
そうなのか、dクス。
確かに俺も、親鸞が息子の善鸞を勘当した理由についての記述など
「?」と思う箇所があったなぁ。
他の著者の本も試してみるよ。

182 :考える名無しさん:05/02/25 10:12:41
悪人といっても、犯罪者であるとか社会的に言われる悪人のことではなく、
あくまでも、宗教的な自覚としての「悪人」という点がポイント。
自らの生き方を深く見つめてみれば、煩悩をすてきれない自分、
自らの力で往生して仏になれるような「善人」にはとてもなれない自分が自覚される。
それが親鸞の言う「罪悪深重」「煩悩具足の凡夫」という自覚のことで、
自力ではとても往生できないという絶望のなかで見出したのが阿弥陀仏の本願。
本願はすべての衆生を救うことを誓うので、そんな「悪人」を自覚する人にとっては
唯一の救われる道として、心から信じて帰依することになる。
阿弥陀仏は、自力では往生できず、心から本願を信じるものこそ救いたいというのが
すべてを救うという本願の主旨だから、まさにその悪人を一番気にかけるのが
阿弥陀仏の本願だというのが「悪人正機」
みんなを平等に救いたいからこそ、遅れて歩いている子が気にかかる。

183 :考える名無しさん:05/02/25 11:24:05
善悪の理解や完全を語る限り
僕等は0.9999999999999・・・・

人間ではない

184 :考える名無しさん:05/02/25 11:26:02
かといって
のび太が人間なのか
断じて違う

形容するとそうボクサーが黙々とサンドバックを叩き続けるような
そうゆう存在えてして

185 :考える名無しさん:05/02/25 11:44:53
細かくいえば,すべてを救うという本願ならば,どこかの指導者も救う,
ということになりそうですが,究極的なことはわからない,ということ
で私はOKです。

「遅れて歩いている子が気にかかる」という思想はすばらしい。法然,親鸞の
すばらしいところですね。

往生はこの世のことでしょうか,それとも来世でのことでしょうか。親鸞は
前者を考えていたというのをどこかで読みましたが。




186 :考える名無しさん:05/02/25 13:47:42
>>185
大谷大学系は、この世で往生するような表現をとることがありますが、
実際の往生の言葉の意味からすれば、やはり無理があります。
仏道の目的は仏になることですから、浄土に往生することでそれが完成します。
したがって浄土教では往生することに大きな関心を持ちます。
一番の問題は死ぬときに浄土往生出来るかが、現世における最大の問題となるわけです。
平安時代などは、臨終に仏の来迎があるか、奇瑞があるかなどが往生の可否の基準となり、
臨終までずっとこの世では、浄土往生が出来るのか否か、不安をかかえたままでした。
しかし親鸞の教えでは、現生正定聚、すなわちこの世において、
阿弥陀仏の本願によって必ず浄土に往生すると正しく定まる仲間になることが出来るので、
臨終に於ける実際の往生という事実よりも、往生できるか出来ないかが、
この世で定まることがはるかに大きな意味をもつようになりました。
今、死後の成仏の可否という不安が解決し、安心して生きることができるわけです。
その意味で、往生の意義はこの世で完成しているわけですから、
この世で往生を語る、現世で往生が定まるという表現が可能なわけです。

187 :考える名無しさん:05/02/25 13:55:43
> 仏道の目的は仏になることですから、浄土に往生することでそれが完成します。

素朴な質問ですが、浄土真宗の人は、釈尊が亡くなる前に悟りを開いて
仏陀となった、とは考えないのですか?

188 :考える名無しさん:05/02/25 15:03:05
>>187
当然考えます。
釈尊と同じように修行をして煩悩をなくし、さとりをひらいて
生きているあいだに仏陀になれればそれにこしたことはありません。
しかし、自分をみつめてそれが可能かどうかを素直に考えると、
とても釈尊と同じように出家をして仏道をこの世で完成できないと
考えるのが浄土真宗なのです。

189 :考える名無しさん:05/02/25 16:33:15
> 今、死後の成仏の可否という不安が解決し、安心して生きることができるわけです。

死後の成仏が確実であることは、どのようにして認識されるのでしょうか?


190 :考える名無しさん:05/02/25 17:30:21
>>189
証拠というものはありません。
むしろ、そういうものが奇跡のように目に見える形で現れるほうが
あやしいのではないでしょうか。
仏典の内容、そしてそれを解釈して伝えてくださった親鸞聖人などの
言葉を信じるという以外にはありません。


191 :考える名無しさん:05/02/25 21:38:23
阿弥陀仏を釈迦はどのように言っているのでしょうか。
阿弥陀仏と釈迦との位置関係がよくつかめません。

192 :考える名無しさん:05/02/25 21:55:26
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
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193 :考える名無しさん:05/02/26 00:15:35
>>191
仏教経典というのは、基本的に釈迦が説いたということになりますから、
浄土経典に説かれている阿弥陀仏の救いはお釈迦さまが、
お釈迦なき後の時代の人びとのために説かれたということになります。
もっとも、大乗仏教が仏滅後に成立した点から言えば、
厳密にはお釈迦さまが直接に説かれたということではありません。

194 :考える名無しさん:05/02/26 00:18:48
>>191
お釈迦さまは、歴史上の実在の人物。
阿弥陀仏は、そのお釈迦さまた説かれた経典に登場する仏で、
歴史上の実在ではなく、真実の世界からの働きを象徴した仏とでも言えますか。

195 :考える名無しさん:05/02/26 08:15:58
釈迦にとっても阿弥陀仏は,「それ以上ないもの」,単なる「多くの仏のうちの
一つ」ではないもの,と考えてよいのですね。


196 :考える名無しさん:05/02/26 09:01:33
親鸞は小人物。
たいした仕事もしてない。深い思索も無い。
昔、知識人らの賛美を真に受けてたけど
過大評価だったことに気づいた。

197 :そうださいばんにいこう:05/02/26 10:13:22
他の方々をほとんど知らないので何ですが、どこを探しても親鸞聖人を上回る人物
はいないと思うなあ。


198 :考える名無しさん:05/02/26 10:18:38
信楽峻麿さんの「真宗の大意」(法蔵館)はお勧め。
原始仏教を踏まえた上で親鸞思想をみるとどうか、という視点は説得力があるです。

199 :考える名無しさん:05/02/26 10:45:25
サンクス。参考にします。

200 :考える名無しさん:05/02/26 10:53:31
釈迦が死んだ後できたのなら大無量寿経は釈迦の教えじゃなくなるじゃん
だったら仏法じゃないじゃん?

201 :考える名無しさん:05/02/26 12:39:00
>>200
ただ、そういう意味で厳密に言えば、
仏教経典はすべて釈尊の死後に出来ています。
釈尊の直説という意味なら原始仏教ですらそうではありませんから、
釈尊の精神を受け継いだものたちによって発展していったのが今の仏教
ということになります。

202 :考える名無しさん:05/02/26 12:46:33
で、どの経典が一番すごいんだ。

203 :考える名無しさん:05/02/26 12:56:13
浄土真宗は浄土三部経だけ読めばOK
般若心経すら読まないとか

204 :考える名無しさん:05/02/26 14:09:59
>>202
一番すごいのが何かは意見が分かれるところだが、
一番君にむいているのは阿呆陀羅経だと思う。

205 :考える名無しさん:05/02/26 22:46:40
ウィキペデイア「時宗」を読んだところ,浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで
往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた,とされています。
この理解は私の好みにあいますが,それでよいのでしょうか。

206 :考える名無しさん:05/02/26 23:51:40
>>205
そういうことですね。

207 :考える名無しさん:05/02/27 17:46:29
生き方を見ると,やはり親鸞,如信は訴えるものを多くもっていますね。
かりにかれらの教えの内容が十分のみこめなかったとして,生きようを
見ていれば,彼らに従い地獄に落ちても可なり,というところがあるよう
に思います。


208 :考える名無しさん:05/03/05 20:46:02
遅まきながら倉田百三「出家とその弟子」一読。善鸞の役回りなど史実から若干
はなれているのが残念。しかし,第1幕,2幕はいいですね。

209 :考える名無しさん:05/03/05 21:50:01
おれは極楽いきだよ。

210 :考える名無しさん:05/03/06 08:35:53
「出家とその弟子」は親鸞が「隣人を愛せよ」とか口走るのが鳥肌立つ。マジメには読めない。

211 :考える名無しさん:05/03/06 09:03:49
親鸞をかじって,昔読んだヤスパースの「包括者」の概念を思い起こした。
ヤスパースが形而上学,宗教をよくとらえていたということかな。

212 :考える名無しさん:05/03/10 14:14:19
こんなスレッドがあったんですね。これから参加させていただきます。


213 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 13:30:19
吉本隆明「今に生きる親鸞」は,親鸞は実体としての浄土の存在を信じていなかった
と言い切っていますが,これについて批判はあるのでしょうか。

214 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 19:21:02
吉本隆明の親鸞理解は勝手気まま、出鱈目なので、黙殺すべし

215 :考える名無しさん:2005/03/23(水) 11:30:11
>>213
そこは引っかかるところですね。

手紙に浄土で会いますとかそういうことを書いてたと思いますし。
「ない」というふうに思い切っては無いと思う。

ただ、救いは今・ここで、ということで死後じゃないですよ、ということだろうと。



216 :考える名無しさん:2005/03/23(水) 12:18:59
>手紙に浄土で会いますとかそういうことを書いてたと思いますし。
吉本はその手紙をあげてますが(実体として浄土が親鸞により述べられたただ一つの例として)、
それは相手にあわせてそう書いているにすぎない、といっています。
やはり「言い切っている」と思います。





217 :考える名無しさん:2005/03/23(水) 12:22:00
すいません、「言い切っている」の主語は吉本です。

218 :ローカルルール審議中:2005/04/20(水) 01:33:29
この人にはものすごいカオスを心の中に抱えていそう>親鸞

219 :考える名無しさん:2005/05/11(水) 17:40:06
>>218
理由を述べよ。


220 :考える名無しさん:2005/05/12(木) 13:56:24
無宗教からの『歎異抄』読解 ちくま新書 (537) 阿満利麿 (著)age

221 :考える名無しさん:2005/05/16(月) 00:34:04
質問です。
阿弥陀如来って結局何?

222 :考える名無しさん:2005/05/16(月) 07:00:21
縁起の法の神話的表現

223 :考える名無しさん:2005/05/20(金) 21:05:57
人間に内蔵されている智慧と慈悲を引き出すための方便

224 :考える名無しさん:2005/05/24(火) 12:36:40
ライナスの「安心毛布」と一緒。

225 :考える名無しさん:2005/05/28(土) 19:55:09
唯一神又吉イエスみたいなもの

226 :考える名無しさん:2005/06/02(木) 21:07:32
佐藤正英たむ歎異抄論釈キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!がこりゃヘンテコな主張満載だなw

227 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 17:33:50
まだ未読です。読む価値ありますか?>>226

佐藤正英氏は倫理学なんですよねぇ・・・。
あと、恵心尼は善光寺聖の関係っていう故・五来重氏の説を踏襲してるみたいですね。
(アエラムック『親鸞がわかる』)



228 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 19:50:08
>227
正直つまらないです。もう他に読む本がない!ということでしたらどうぞw
個人的には寺川俊昭氏の本がお勧めです

229 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 21:17:15
>>228
> 個人的には寺川俊昭氏の本がお勧めです
あれは、大谷の清沢教信者以外、評価せんだろ。
自分勝手な解釈過ぎる。

230 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 21:25:36
阿弥陀如来とは極楽のクオリアを発する概念。

231 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 22:30:20
寺川俊昭は1冊読んだだけ、ですが興味深かったです。

私が最近面白いと思ったのは今井雅晴氏、平雅行氏の説です。



232 :考える名無しさん:2005/06/04(土) 23:26:28
>231
「親鸞とその時代」は面白かったですね。なるほど、悪人正機よりは悪人正因と呼びたいですよね。

233 :考える名無しさん:2005/08/05(金) 06:58:45
吉本隆明「最後の親鸞」の迫力と、その歎異抄理解は圧巻であった。
生とは「不可避の一本道」であると言い切る力強さ。吉本の歎異抄理解は他の
追随を許さない水準のものではなかろうか。

234 :考える名無しさん:2005/08/06(土) 15:29:21
吉本隆明は自分勝手なしょーもない理解の阿呆
他の人の本も読んでみなw

235 :考える名無しさん:2005/08/24(水) 01:11:39
梅原猛の親鸞論って、どうよ。


236 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 00:09:43
 age


237 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:31:14
 親鸞仏教を考えるなら、釈迦仏教との比較の中で考えて行くべきでしょう。釈迦仏教の基本は
三学にあると考えます。親鸞仏教の理解は、釈迦の考え方の基本原理から始まり、その基本原理
を、なぜどのように否定して新たな境地を開いたのか、順を追って考えていく必要があります。

 釈迦は、人類が文明を持つ様になったとき、自分とは何者なのかという疑問に最初に取り組ん
だ哲学思想家ではなかったか。自分とは何者なのかという疑問に最初に取り組んだ哲学思想家
は、当時、洋の東西に二人出現した。ソクラテスと釈迦だ。二人は、互いに全く交流することな
く、独自に無知の知に気づき、教育の組織的本格的な教育活動の礎を作った。ソクラテスはプラ
トンを育て、プラトンはアカデミヤを創建する。釈迦は、自ら祇園精舎を建設し、多くの弟子を
育てる。分校は世界中に分散し、現代の寺院に及んでいる。
 ソクラテスは無知の知に気づき、やがて殺される。釈迦の悟りの本質も、実はこの無知の知で
あると考える。

238 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:33:56
 人はしばしば再起(生)挫折(死)再起(生)挫折(死)を繰り返す(輪廻)。昨日まで有頂
天でいた者が、今日はけだものの心でけだものの行為に走ってけだものとなる。けだものには知
恵がない。それでも、ライオンなどは満腹になれば休むときもある。けだものには休むときもあ
る。しかし、求めても求めても空腹感は満たされず、一時の休むこともなく、ただひた走りに走
り続けるときもある。これを餓鬼と言う。欲望だけがますます膨らむ一方で、体は凍りついたよ
うに身動きができなくなることもある。厚い氷の中で盛んに紅蓮の炎が燃えたぎっているんだ
が、外は南極の氷が覆っている。この状態を地獄という。
 人間の心で人間の行為をする者を人間という。人の行為には様々な制約がある。あれもした
い、これもしたいと思いながら、実現する範囲はわずかである。これに対し、自分の思い通りに
ものごとを動かせる人もいる。これを、人は天才という。そんな天才であっても、一寸後にはけ
だものとなり、地獄に堕ちないとも限らない。
 人は、ある時には天となり、餓鬼となり、畜生となり、地獄にも堕ちる。俺は、馬鹿だった。
馬鹿だった。頭の先からつま先まで、全身で後悔し、後悔し、再起を誓っても、舌根の乾かない
うちに、次の瞬間にはまた餓鬼の手先となっているということもある。
 人間の皮を被りながら、畜生になり、餓鬼にもなる。有頂天にもなる。これは欲望があるから
だ。

欲天   (無明:有,欲望:有,知恵:大,意思の主体:自分,行動:大,休息:有)
阿修羅I (無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:他人,行動:大,休息:有)
餓鬼I    (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:大,休息:無)
 人   (無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:自分,行動:小,休息:有)
阿修羅II(無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:他人,行動:小,休息:有)
畜生   (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:小,休息:有)
餓鬼II  (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:小,休息:無)
地獄    (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:無,休息:無)

239 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:35:15
 人には欲望がある。欲望があるからいけない。欲望があるからいけないと言う人は、禁欲的な
理想主義を掲げる。明瞭な計画を立てる。しかし、現実を忘れた理想は、絵に描いた餅、行動が
伴わない。
 理想主義者じゃ駄目だ。そう主張する人もいる。彼らはしばしば計画も立てず、休むことなく
終わり無き破壊に走る。彼はまさにアナーキーである。
色界(天)(無明:有,欲望:無,知恵:大,意思の主体:自分,行動:無,休息:無)
無色界(天)(無明:有,欲望:無,知恵:大,意思の主体:自分,行動:大,休息:無)

 人は、意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変われば、古い自分は死に、新しい自分が
誕生する。再起(生)、疲労(老)、彷徨(病)、挫折(死)を繰り返す。再起(生)挫折
(死)再起(生)挫折(死)を繰り返す中で、天ともなり、餓鬼ともなり、地獄にも堕ちる。そ
れはどうしてだろう。原因は外でもない。まさに、人は本当のことを知らない。無知(無明)こ
そ再起・挫折の迷いの根本原因じゃないか。仏教とは、釈迦が投げかけたそういう仮説に基づい
て発展してきた。

240 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:36:13
 <十二因縁>ああ、俺は馬鹿だった。馬鹿だったんだよ(無明)。馬鹿だったからあんなこと
をしたんだ(行)。あんなことを考えたんだ(識)。思わずあんなことをしたからこそ、あんな
心がわき起こってきた。そして事物を意識した(名色)。そんな思いが湧いてくれば、ものごと
はみんなそっちの方に見えてくる。耳に心が宿って聞こえてくる。目に心が宿って見えてくる。
感情に心が宿って感情が動いてくる(六処)。耳に不快なものは避け(触)、耳に快い方に向か
う(受)。物事に執着が現れる(取)。それがずっと積み重なるんだ(有)。再起(生)、彷徨
・疲弊・挫折(老病)はそのようにおきてくるものだろう。
 実に我々は無知の塊である。我々の無明は、我々の肉体の誕生で始まったものではなく、我々
の肉体の死で終わるものでもない。今の自分の再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が、
繰り返し繰り返し経験してきたその繰り返しと、本質においてはいささかも異ならない。今の自
分の再起・挫折・再起・挫折は、今後も無数の人々が同じように繰り返し繰り返し経験していく
その繰り返しと、本質においてはいささかも異ならない。さあ、この現実をいかにするか。釈尊
先生はその問題に取り組んだ。

241 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 19:43:18
 多くの人々が、再起・挫折・再起・挫折を繰り返していく。迷い、迷い、迷っていく。お互い
に本当の事を教え合おう。学び合おう。釈尊先生はそう考えた。画家は花に美の神髄を学び、植
物学者は生命の起源を学んでいる。石に美の本質を学ぶ彫刻家もいれば、宇宙の起源を学ぶ物
理学者もいる。包丁をもってバスに乗り込み、乗客を殺し、運転手を脅迫した少年の舌に、検察官
は事件の原因を学び、心理学者は社会の病理を学ぶ。実に一切が様々に教えてくれている。まさ
にこれが真実の世界だろう。
 釈尊先生は、竹林精舎と祇園精舎という二つの学校を建設された。そこには全国から若者が集
まってきた。釈尊先生は、全寮制、授業料は無料、制服と学則を定めた。学生達は黄色一色の衣
をまとい、剃髪をした。剃髪は、最後の死を経て生まれ変わるという意味がある。剃髪は生まれ変
わった赤ん坊を象徴する。かつて釈尊先生も、王位を捨て、一人の僧になったとき、一人の王が
死に、一人の僧が誕生したのだ。
 釈尊先生は、先生が定めた学則(戒律)を守ることを誓った若者に入学を許した。古くから王宮
に伝わっていた算術、天文学、薬草学、土木、建築学、天文学、暦、当時としては、極めて先進的
な学問を、大衆に惜しげもなく公開し、これを大衆との共有財産とし、共感的に享受しようと努めよ
う。文字、絵画、彫刻、そうした有形的に伝達可能なものは知恵という。釈尊先生は、有形的に表
現できるものは、知恵という形で有形的に表現し、人々に公開的に提示した。しかし、真理は有形
的に表現できるものばかりではない。有形的に表現できないものは、禅定という手法で誰もが容
易に手の届く位置に置いた。戒・定・恵、これを三学という。釈尊先生は、人々に三学を伝えること
で、無明の闇を破ろうした。これが釈迦の仏教である。親鸞仏教の原点である。

242 :考える名無しさん:2005/10/18(火) 22:31:55
上人様に北斗の拳を読ませれば、考えを改めてくださるものと思う。

243 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/19(水) 09:43:17
 釈尊先生のお弟子さん達は、学習するということを釈尊先生から教わりました。自分たちは何
も分かっていない。何も分かっていないが、何も分かってないことも、教われば分かってくる。分
かってくれば迷わないで済む。再起・挫折・再起・挫折という同じ失敗をしないで済む。人々は
そういうことを知ってきます。
 こうしたお弟子さんの中で、新たな動きが始まります。自分たちが分かるだけではだめ。自分
が分かったことは、もっと多くの外の人に伝えていかなかれば、本当の解決はない。それこそが、
人々に真理を教えてくれた釈尊先生の真意である。そう考える人々が出てきます。
 自分が勉強することに最高の価値を見いだす人々に対し、それだけでは不足であるという考え
方を持つ人が出てきたわけです。自分の勉強の後は、その成果を多くの人々に開放すること、そ
れが大事なんだ。そういうことに目覚め、教育という行為に最高の価値を見いだす人々が出現し
たわけです。自らの認識を他人との共有財産とし、共感的に利用しあおう。そのことに絶対的な
価値を見いだす人々は、自分たちの考えを大乗と呼びました。
 大乗の思想家達は、空という独自の教育哲学を見いだしました。教わる者は、実に教える者の
予測を超えた様々な可能性を持つ。このように、無限の可能性を秘めた人間のあり方を、大乗の
思想家達は空と呼びました。あらゆるものを包含可能な空間を、大乗の思想家達は空と呼びま
した。空は、悟りも迷いも全てを飲み込みます。
 大乗は専門的な教育学です。基礎学習を修了し、将来の教育者を目指す人々が学習します。
自分の学習に最大の価値を置く小乗段階で基礎学習を完成させた者を阿羅漢と言います。大乗
は、その阿羅漢達が学ぶ専門的な学問です。基礎学習から専門的な教育学へ、大乗段階に進
学するにあたり、阿羅漢は、このとき価値観の転換が迫られます。他人を教える教育活動こそ、
社会にとって最も重要であり、最大の価値がある。大乗段階ではこのように考えるわけです。親
鸞の思想はそのような大乗の思想の中に属しています。

244 :考える名無しさん:2005/10/19(水) 10:07:56
今すぐ、渡海して往生しろ w


245 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/20(木) 08:31:21
 戒律は価値観を本質とする。二千年、三千年昔、太陽の照りつける南方のサバンナで妥当した
価値観が、二千年後、三千年後の雪降る北方の国で妥当するとは思えない。価値観ほど、時代
と社会で変動する真理はない。釈迦の戒律は、現代社会でどこまで有効なんだろうか。

 二千年、三千年昔、釈迦の知恵は、世界中で最も先進的だった。釈迦は、大衆の中に突如到来
し、画期的な知識をもたらしてくれた。だからこそ、人々は釈迦を如来とも称した。しかし、釈迦の
知恵はどれほど深いものであろうとも、その中には簿記に関する記述もない。インターネットやパ
ソコン会計に関する記述すらないのだ。パン屋さんやおそば屋さんなどが参考になる知恵などほ
とんど存在しない。お巡りさんが勉強しても参考になることなど、ほとんど存在しない。パン屋さん
やおそば屋さんは、中学校、高等学校、あるいは専門学校などで学ぶことの方が遙かに大事であ
る。お巡りさんなどは、警察学校や職場で学ぶことの方が遙かに大事である。二千年、三千年昔、
印度には世界の最先端の知識があり、それがその後の人類の文明に多大の影響を残したしても、
パン屋さんやおそば屋さんが勉強しなければならないことは、ほとんど存在しないのではないか。



246 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/20(木) 08:32:01
 釈迦は、有形の真理は知恵として明らかにしている。無形の真理は、禅定という形で何人にも
手の届くところに置いた。しかし、寺に籠もり、三十年も四十年も粗食に耐え、ひたすら座禅瞑想
に没頭し、老境に入って聖者の悟りを開いた後、ではこれからおそば屋さんとして自転車に乗って
おそばの出前に出かけましょうなどという生き方に、果たしてどれだけの現実味があるだろうか。

 釈迦の戒律は既に有効性を失っているんじゃないか。知恵も、ほとんどその有効性を失ってい
るんじゃないか。禅定はどうだろうか。
 三学を基盤とする釈迦の教えに、現代において一体どれだけの意味があると言うべきだろうか。
正法、像法の時代が既に過ぎた現代において、釈迦が残した教えにどれだけの意味があるという
のだろうか。それでは、反対に、釈迦の教えは全くその存在意義を失ったんだろうか。釈迦の教え
の現代における意味はなんだろうか。釈迦の原点に戻ってその意義を考えようじゃないか。親鸞
仏教は、現代に向かって、そんな問題を提起しているのである。

247 :考える名無しさん:2005/10/20(木) 15:40:13
吉本が読む親らん思想を私が読む。そこには今だに生きている思想の姿がある。それは確かな事だ。

248 :考える名無しさん:2005/10/20(木) 23:04:48
>>220
>無宗教からの『歎異抄』読解 ちくま新書 (537) 阿満利麿 (著)

「無宗教からの」と銘打っておきながら、実はもっぱら親鸞の布教。「無宗教
からの新たな視点などゼロ。これでは詐欺である。この著者には、他にもその
ような著書が多い。全く感心しないね。




249 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 00:04:49
 戒律は無効。知恵も無効。禅定も無効。それでも、近くに巨大資本が進出してくれば、パン屋さ
んは心穏やかではないだろう。小資本の部品工場の場合、取引先が不渡りを出せば目の前が真
っ暗になる。何をしていいのか分からなくなる。再起(生)・挫折(死)・再起(生)・挫折(死)を繰り
返すというのは、昔も今も変わらない。
 物事は正しく認識しないといけない。これは、比叡山の座主さんや東大寺の管長さんだけの話
ではない。一丁目のポストの前のパン屋さんも、三丁目の十字路の花屋さんも、物事は正しく認
識しなければ必ず壁に突き当たるだろう。壁に突き当たっても、それを打破できるのは、常に物事
の正しい認識だ。これは昔も今も変わりない。

 物事に困ったとき、相談する相手がいるときには相手に相談に行くといい。参考になる本がある
時は参考になる本を読めばいい。しかし、そんな場合ばかりじゃないだろう。相談する相手がい
ない。参考になる本がないということもある。人生の難問に突き当たれば、相談に行く気力が萎
えることがある。本を読む気力も無くなることがある。そんなときにはどうすればいいのか。

 かつて、お釈迦様のお弟子さん達は、お釈迦様の言うことが理解できず、相談相手もいなくなれ
ば、一人だけみんなから離れ、木陰に腰を下ろし、結跏趺坐の姿勢を取ると釈尊先生を目の中
に浮かべ、「釈尊先生、ああ釈尊先生」と念じながら座禅を続けたことだろう。

 花は画家のとって美における師であり、生命学者には生命化学の師である。石は、彫刻家にと
っても、物理学者にとっても、かけがえのない師である。実に一切のものが様々に教えてくれて
いる。

 南無阿弥陀仏の南無とは、サンスクリット語のナーマスに由来する。これは感嘆詞だ。「ああ」
という意味だ。阿弥陀とは「先生」という意味だ。仏も「先生」という意味だ。

250 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 00:06:24
 なんでもいいんだ。花でも、石でも、仕事でも。勉学でも、親でも、兄弟でもいい。嘘っこで、
自分勝手に、相手に分からないように、そっと「先生」とあだ名をつけるといい。どうせ嘘っこ
なんだ。ほんとうは違うんだ。でも嘘を承知であだ名をつけるるといい。かつて一休禅師は、蓮
如上人の元に遊びに行き、転がっている漬け物石を「阿弥陀様」と名付け、蓮如上人は一休に一
本借りができた。先生なんかは漬け物石でもいい。漬け物石でも嘘っこで阿弥陀仏とあだ名をつ
けてごらん。

 先生、ああ先生。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。姿勢を整え、呼吸を整えながら、ゆっくりと
称えてごらん。横隔膜は、静かに、しかし大きく動き出し、脳に向かって大量の血液と酸素を送
り出すだろう。眠っていた全身の細胞が、人生の危機に向かって目を覚ます。忘れていた大量の
情報が目を覚ましてくるだろう。
 戒律は無効。知恵も無効。禅定も無効。しかし、五分座れば五分間の仏、十分座れば十分間の
仏である。これは、昔も今も変わらない。二千年も三千年も昔の印度の価値観を引きずる戒律は
いらない。パン屋さんは、パン屋さんとしての良識をもって生きればいい。おそば屋さんは、おそば
屋さんのとしての良識をもって生きればいい。国には憲法があり、法律がある。パン屋さんにはパ
ン屋さんの業界の取り決めがあるだろう。おそば屋さんにはおそば屋さんの業界の取り決めがあ
るだろう。それを守ればいい。約束を破れば、定めてある約束に従って制裁を受けるだろう。約束
で定めた制裁に上乗せして仏教が制裁を加えるなどという、今はそんな時代でない。
 パソコン会計も知らない。簿記も知らない。そんな仏教から、パン屋さんやおそば屋さんが教わ
るべき知恵などほとんどない。
 パン屋さんやおそば屋さんは、山に籠もって、何年も何年も粗食に耐え、瞑想三昧に耽ることも
不要だ。ただ、折に触れ、気が付いたとき、あるいは行き詰まったとき、仕事でも、兄弟でも何でも
いい。相手にばれないように嘘っこで阿弥陀仏とあだ名を付けるといい。南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏と、座禅して念仏を称えてごらん。きっと何かが見つかるだろう。

251 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 00:07:40
 人生の難関にあって、念仏を称えたら必ず良い案が浮かぶとは限らない。しかし、人生の最大
の難関にあって、最悪の選択肢の選択だけはかろうじて免れ、忘れていた二善、三善の選択肢が
選択できれば、それだけでも万々歳じゃないか。後から思えば、あっちの方法の方がもっとよかっ
たと思うことがあるかも知れない。しかし、最悪の選択肢だけでは選択しなかったなら、それだけで
よかったと思うべきだろう。
 結局、最悪の中の最悪の選択肢しか無かったなら、それを選ぶのもやむを得ないだろう。しか
し、最悪の選択肢をどうせ選ぶなら、念仏の時間、10分、15分遅れても、罰は当たるまい。
 戒律はいらん。知恵もいらん。禅定もいらん。お釈迦様の三学はいらない。その代わり、折に触
れ、思い出した時、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と座禅して称えてご覧。親鸞はそう言っている
んだ。きっと、きっと、素晴らしい人生が開けてくるだろう。親鸞は、現代のパン屋さんに、おそば屋
さんに、お巡りさんに、仏教をこのように見繕って勧めているのである。
 教行信証は、親鸞のこの考え方を展開している。

252 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:03:59
 親鸞は、座禅して念仏することを勧める(教行信証 行の巻)。座禅して念仏すると何がどうかわるのか。

 念仏は、人生の危機の時に驚くほど大きな力を発揮する。このことは、古代の人も認めてい
る。「この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得
ん」。
 人は意思と行動が変わると、人格が変わる。人格が変わるとき、古い自分が死に、新しい自分
が生まれる。従来の生き方が壁にぶつかり、身動きができなくなったとき、念仏はしばしば新た
な道を発見させてくれるものだ。念仏者は、新たな道を見つけるだろう。阿弥陀経は、古代の人
の体験から書かれたものだと僕は思う。

 哺乳類は、酸素希薄な時代に生き延びるために横隔膜を作った。これは最近のNHKの地球大
進化という番組の中で言っていた。横隔膜は、酸素濃度が上がった時代にやがて大きな力を発揮
した。横隔膜は、脳に大量の空気を送り届けることを可能にし、生物は脳の発達した哺乳類にな
った。人体で、最も酸素を消費する器官は脳だそうだ。

 姿勢を正し、横隔膜を最大限にはたらかせて腹式呼吸をすると、肺機能は全開し、血液中に
大量の酸素が溶解しだす。このとき、血管中の血液の循環機能が全開する。
 足を折っていると、血液の循環は下半身に渡らない。その分、上半身に効率よく行き渡る。そ
れだけ上半身を循環する血液量は増大し、最大量の酸素が脳に伝わる。

 僕の場合、念仏を意識しだすだけでこの作用が働いてくる。このとき、自然に脳が膨張し、心
臓の鼓動に従って脳が脈動を開始する。脳の解剖図を見ると、本当にあの通りだと思う。前頭葉、
後頭葉、中頭葉などの単位で膨張、収縮が始まる。法然上人の絵を見ると、特別大きな頭を持っ
ている。しかもいびつな形をしている。小さい頃から座禅して念仏を称えてくると、血液の流れ
で頭が変形をしてくるんだろうと思う。

253 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:04:39
 人生で壁にぶつかると、その状態を直視したくないという意識が働く。これは、自己防衛本能
の一つなんだろう。ストレスというのは、現実逃避の動物的反応だろうと思う。ストレス下では、
人は忘れてはいけないような情報まで忘れる。冷静な思考能力経路が閉じる。人はますます袋小
路に追い込まれる。

 脳に大量の酸素が送られると、脳は最大限に活性化する。全身に危機意識が行き渡り、全身の
細胞一つ一つが問題解決に立ち上がる。忘れていた情報が呼び戻され、思考回路がつながってく
る。悟りというのはそういう現象の結果で生じるものだろう。素人が座禅しても、高僧が獲得す
るような大きな悟りはなかなか得られない。お釈迦様が得たような悟りを求めても、これは不可
能だろう。しかし、パン屋さんがパン屋の営業で行き詰まり、その打開に必要な程度の小さな悟
りでよければ、得られないと言うことはないだろう。家庭内のごたごたの対処に必要な程度の小
さな悟り程度は、どんな人でも夢ではないと思う。
 仕事に行き詰まり、金に行き詰まり、身動きできなくなったことは、僕の場合、一度や二度で
はない。生き方に行き詰まると、2日でも3日でもぶっ続けで念仏を称える。腰を痛めてからは
結跏趺坐はできなくなったから椅子に座って行うが、1日5時間でも6時間でも念仏を称え続け
る。

 夜まで念仏を続けると、脳の興奮状態は睡眠中も続く。不眠になると言うことは決してない。
熟睡しながら、しかも脳の一部は確実に盛んに思考回路を作動し続ける。翌朝、ハッとして目が
覚めることがある。「くよくよしていてもしょうがないじゃないか」。こんな怒鳴り声で突然目が
覚める。

254 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:05:08
 人間の意識の中には不思議な構造があるようだ。神の声を聞いたとか、霊の声を聞いたという
人がいる。その内の一部は恐らく僕などの体験と重なってくるんだろうと思う。「くよくよしてい
てもしょうがないじゃないか」。あの声は、紛れもなく僕の中の声なんだろう。聞こえた瞬間、気
持ちが一気に変わっている。

 脳漿を絞るという言葉がある。脳漿とは脳の外側や脳室内にある液体だ。仕事や生活に行き詰
まり、深い禅定状態で念仏を称えていると、脳中で水が噴出する。そんな瞬間を自覚することが
ある。その瞬間に気分が変わる。人間の脳はモルヒネを噴出するそうだ。人生の中で壁にぶつか
ると、壁にぶつかったという事実よりも、それに伴うふさぎ込みの方が問題ということがある。
脳はそのようなとき、一瞬でも麻薬を噴出する。僕はそんな経験を2度ほど持っている。

 人生の逆境に陥ったとき、一番困るのは、数ある選択肢の中で最悪の選択肢を選ぶことだ。脳
に大量の酸素を送り込み、全身の細胞を目覚ませ、忘れていた情報を呼び戻し、眠っていた思考
回路を復活させる。これが一番大事なことだ。念仏は、人生の逆境の時、思わぬ力を発揮する。
 念仏は、凄い力を発揮する。しかし、日頃それに親しんでないと、いざ必要になったときさび
付いている。必要なときにいつでも使えるように手入れをするためには、日頃から念仏を称える
癖を付けていることが必要だ。

255 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:11:34
 もしこの(阿弥陀)経に依って(南無阿弥陀仏の)名号を執持(念仏)せば、決定して(必ずや
幸いを得て)往生せん。すなわち(次のように)知りぬ、称名(念仏)はこれ多善根・多福徳なり
と。 〜 善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、(南無阿弥陀仏の)
名号を専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・多福
徳の因縁なりと。

 パン屋さん、おそば屋さん、お巡りさんにこのことはどのようにしたら伝わるのか。親鸞の苦
心はここにある。三学はいらないということは、釈迦以来の仏教を全て否定するのか。それと
も肯定するのか。
 親鸞は、二十九歳で比叡山を下り、法然を尋ねた。そのとき、親鸞は小乗段階の終了の印
可を受けていなかった。法然には弟子の理解を印可する資格を当然持っていたが、法然との
別れは予想を超えて早くきた。
 法然、親鸞は共に僧籍を奪われ、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪になる。その後、親鸞
は越後で妻帯、流罪を解かれてもしばらくは都払いの処分が続く。
 関東では多少の支持者もできたが、実体は無位・無冠・無名・無戒・在俗の元流刑囚である。
転落した無名の元天台僧に過ぎない。だれがそのような男の話をまともに聞くだろうか。しかし、
法然亡きあと、パン屋さん、おそば屋さん、お巡りさん、花屋さんに念仏を正しく伝えられる人
が外にいるだろうか。

 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せ
ざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり(化身土の巻)。

 正しい仏法を正しく伝えることは、正しい仏法を受け継いだ者の義務ではないか。親鸞の苦悩
はこのようなところにあったようだ。

256 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:12:36
 (どうか聞いて欲しい。自分は得体の知れない人物ではないのです。)元久乙の丑の歳、(あ
の法然上人の)恩恕を蒙りて『選択(本願念仏集)』を書しき(つまり選択本願念仏集の書写を
許された法然上人の高弟です。どうか信用して欲しい)。(書写だけではありません)同じき年
の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念
仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、(法然上人自らが)これを(私
の写本に)書かしめたまいき(サインまでしてくださったのです。印可を受けるという、仏教本
来の形式的な手続きは踏んでいませんが、法然上人からは一目も二目も置かれていた証拠です。
どうか自分の言葉を信じて欲しい)。
 (思い出せば)同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る(法然上人からは姿絵を写させ
ても貰いました)。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、(法然上人の自らの)真筆をも
って「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現
在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の(お経の尊い)真文とを書かしめたまう(書
いて下さいました)。
 (私は)また(善信という名前も持っております。これは、あの法然上人から頂きました)夢
の告に依って、(これまで名乗っていた)綽空の字を改めて、同じき日、(法然上人の)御筆を
もって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
 本師聖人(法然上人は)、今年は七旬三(七十三)の御歳なり。選択本願念仏集は、禅定博陸
(前の関白太政大臣)月輪殿兼実・法名円照の教命に依って撰集せしむるところなり(法然上人
がお書きになったものです)。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し(大
変分かりやすい内容のものです)。誠にこれ、希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。

257 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 11:18:26
 年を渉り日を渉りて(今後いつまでもいつまでも)、(選択本願念仏集によって)その教誨を
蒙るの人、千万といえども(幾千万も出現するでしょう。しかし)、親と云い疎と云い、この見
写を獲るの徒、はなはだもって難し(親密な人、疎遠な人にかかわらず、その書写を許される
人は決して多くありません)。しかるに既に(しかしこの私は、その)製作を書写し、(法然上人
の)真影(絵姿)を図画せり(描かせて貰った者です)。これ(は私の)専念正業の徳なり(法然
上人に従って念仏をひたすら称えたその徳によるものです)、これ決定往生の徴なり(法然上
人によって印可を受けたも同然の者です)。
 (ああ、どうか私を信じて欲しい)仍って(無位・無冠・無名・無戒・在俗の元流刑囚でござ
いますが)悲喜の涙を抑えて由来縁(私の略歴)を註す(書かせていただきました)。 (後序)

 今後、念仏をどう伝えていくか。親鸞に課された宿題は極めて重大であり、その責任は親鸞が
簡単に背負えるような内容ではなかったようだ。
 中国に留学し、中国の最先端の最高の学識を積んできたエリートの道元とは明らかに好対照
である。道元であれば、不立文字、教外別伝と言えば、過去の仏教の教えと矛盾していても大
衆はそれをそのまま受け入れたろう。鑑真なども同じような代表例である。鑑真は、中国になか
った大乗戒という概念を日本で創設した。しかし、親鸞には、そんな選択肢はなかった。全て言
葉で表現し、説明しなければならななかった。教行信証は、親鸞一流の不立文字、教外別伝の
苦衷の理論書である。

258 :考える名無しさん:2005/10/22(土) 11:28:30
鎌倉幕府は武力の差に屈して位を高いものと考えて、
地位を固定的に捉えていたってことなのかね。
そういう時代の背景で、その仏教が成立したのだろうか。

259 :考える名無しさん:2005/10/22(土) 18:33:50
親鸞か。性欲が人一倍強くて悩んだ末に「スケベでどこがわるい?人間だもの」と開き直った人か。

260 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/23(日) 12:23:25
 釈迦は、自分が正しいと思う考え方と、正しくないと思う考え方を内外に分けました。正しい
と思う考え方を内道といいます。正しくないと思う考え方を外道といいます。内道と外道の分岐
点は因果の理法です。釈迦の原点は十二因縁の法則です。善因善果、悪因悪果を正しいと考える
考え方を内道と言います。善因善果、悪因悪果の考え方を間違っていると考えれば、これは外道
です。三学・四諦八正道など、仏教には基本的な考え方がいくつもありますが、その根幹は因果
の理法です。因果の理法こそが仏教の根本的な考えであるというわけです。どのような主張でも
因果の理法を否定すれば外道となります。つまり、非仏教となるわけです。
 親鸞は、自分が正しいと思う考え方と、正しくないと思う考え方を自他に分けました。正しい
と思う考え方を他力と言います。正しくないと思う考え方を自力と言います。
 パン屋さんやおそば屋さんは、特別に仏様になる必要はないのです。駐在所のお巡りさんが、
お釈迦様のような仏様になる必要はないのです。つまり、仏教について、比叡山の座主さんや東
大寺の管長さんなら知っていなければならない範囲と、パン屋さんやおそば屋さんが知っている
と便利であるという範囲とは、違うのです。比叡山の座主さんや東大寺の管長さんなら絶対に知
ってないと困ることでも、パン屋さんやおそば屋さんなら知ってる必要のないことはたくさんあ
ります。パン屋さんやおそば屋さんにお勧めの認識範囲を他力、お勧めではない範囲を自力とい
います。パン屋さんやおそば屋さんに対する親鸞のお勧めの範囲は、念仏を称えよという教と、
それによって念仏を称えるという行為と、念仏を称えているという事実とを、大事なことだなと
思うということです。教行証を敬信するということです(前序)。これがお勧めの全部です。そ
れ以外はお勧め範囲から外れます。ここで親鸞は、考え方を自力と他力とに分けます。


261 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/23(日) 12:25:05
 親鸞の自他の分別は、釈迦の内外の区別と矛盾しないのか。親鸞が、教行信証で必死に訴えて
いるのは、自分の考え方は因果の理法に即して正しいということなんです。これを受けて、真宗教
団などは、「親鸞の考えは仏教の基本に照らして矛盾していない」というでしょう。しかし、その精密
な検討は、本当は、歴史的にこれまで一度もされてきてないと考えます。親鸞の教えは本当に仏
教という区分に入るのか。それとも仏教という区分に入らない外道なのか。これは、もっと哲学的論
理的に検討をしていかなければならない課題であろうと考えます。

262 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/24(月) 18:24:11
 親鸞は教行信証で浄土真宗を論じる。浄土真宗とは何か。

 「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう」。
浄土真宗とは、法然上人が説かれた選択本願の教えである。法然上人が選択本願という概念で不
統一に説いた教えを、自分は、浄土真宗という概念で体系的に、論理的に明らかにする。親鸞にと
って浄土真宗とは、少なくとも建前上は法然の教えの体系化であるというスタンスを採っているのあ
る。

謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向に
ついて、真実の教行信証あり。(教の巻)
二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」
より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。(証の巻)

 親鸞は、浄土真宗を大きく二つに分ける。往相回向Aと還相回向Bである。A,Bと付けているの
には理由がある。親鸞は全く異なる二つの概念を、同じ言葉で重複的に使用している。親鸞仏教
のわかりにくさはこの辺にもある。往相回向a,還相回向bと書けば、これは往相回向A,還相回向
Bとは別の概念であると思って欲しい。
 親鸞は、教行信証を誰に読んでほしいと思って書いているのか。これは、無論、パン屋さんや
おそば屋さんではない。お巡りさんでもない。花屋さんでもない。これは紛れもなく僧侶である。

 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざ
らしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と(化身土巻)。



263 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/24(月) 18:26:13
 親鸞にとって僧とは、極めて重要な役割を持っている。無辺の生死海を粉砕していくのが僧の
役割である。後に生まれる者を導いていくプロ集団である。親鸞は教行信証を、僧の中でも、特に
法然上人にゆかりのあった僧に読んでほしいと思っているようだ。流罪事件でがたがたになって
事実上崩壊した法然教団を京都で立て直しを図りたい。その理論的バックボーンとして浄土真宗
の体系書、教行信証提示しているようだ。
 法然上人流罪後、法然教団は事実上ちりぢりになる。事実上崩壊してしまった。それはなぜか。
理論的なバックボーンが強固でなかったからではないか。パン屋さんやおそば屋さんが学ぶ仏教
は念仏だけでいい。他力でいい。自力はいらないんだ。パン屋さんやおそば屋さんやお巡りさん
にそのように語って聞かせる専門家達において、その理論的なバックボーンが脆弱だったのでは
ないか。もっと体系的に強固な理論を提示しよう。親鸞は、弾圧を加えてくる体制派教団に負けな
い形の理論武装を提示しようとしているのである。

264 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 21:09:21
 浄土真宗には二つの回向がある。往相回向Aと還相回向Bとである。これは一体何を意味して
いるものか考えてみたい。
 往相回向Aと還相回向Bの主体は阿弥陀仏である。親鸞は、仏教という枠組みの中に、釈迦仏
教とは異なる別異の仏教を立てている。仏教の枠組みとは、因果の法則だ。因果の法則を肯定し
ながら釈迦仏教を解体し、新たな仏教を提示しているのだ。
 釈迦仏教は、戒定恵が基本になる。親鸞は戒定恵に束縛されない仏教を建る。阿弥陀仏とはそ
のための道具立てである。釈迦仏教に変わる仏教を提示する以上、釈迦に変わる道具立てを設定
しなければならない。それが阿弥陀仏である。

 仏教という枠組みの中で釈迦仏教とは異なる別異の仏教を立てるという例は過去にある。例え
ば梵網経がそれに当たる。釈迦の時代の価値観で形成してある古い戒律は時代と社会に合わない。
中国仏教は、釈迦に変わる別異の仏つまり盧舎那仏が提唱する戒律として、梵網戒を提唱する。
梵網戒は、鑑真の影響で日本では戒律の中心に位置している。

 阿弥陀仏とは何か。阿弥陀仏というのは、その概念が歴史的に大きく変わっている。阿弥陀仏
というのがどうして生まれ、それをどのように理解してきたかを考えてみたい。大乗仏教の起源
から仮説的に考えていってみたい。

265 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 21:10:46
 今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり。今の仏も諸仏
を念じたまうことなきことを得んや。何がゆえぞ威神光光たること乃し爾ると。

 大無量寿経の中の一句である。僕はこの言葉こそ、非常に重要な言葉だと思っている。この言
葉は、漢文大無量寿経で始めて出てきた言葉ではない。梵文大無量寿経の中に登場している。

 今日、(釈迦)如来は、覚った人の住むところに住し、勝てる者の住む所、全知性の住む所、大
いなる竜の住むところに、如来は今日住されて、過去、未来、現在の如来・尊敬されるべき人・正
しく目覚めた人たちのことを思いつめていられるのであろう、と(岩波 浄土三部経 上)。

 釈迦はどういう人だったか。釈迦は、祇園精舎の建設という人類史的な大事業を完成させた。
祇園精舎の成功は、紛れもない釈迦の偉業であるが、その成功は釈迦一人の力によるものでは
ないだろう。釈迦以前の無数の過去の開拓的先駆者、釈迦と同時代の優れたリーダー達、未来
の賢人哲人を目指して結集した無数の努力家達、こういう無数の人々の限りない支援があってこ
そ、釈迦の成功があったのではないか。そのことをもっともよく知っていた人こそ、僕は釈迦その
人だろうと思う。釈迦とは、常に、過去、未来、現在の哲人達のことを心にかけていた。
 こうした心の姿勢は、決して釈迦一人の精神ではない。社会の無数の哲人、賢人と言われる人
々の共通的な精神ではないか。釈迦の弟子達は、哲人、賢人に共通するそうした精神を釈迦の
中に発見し、釈迦を通じて哲人、賢人の心を学ぼうとしたのだろうと思う。

266 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 21:12:10
 龍樹は、将来の教育者を目指す若者にある訓練法を提案している。自分の回りに無数の仏を立
て、その一つ一つの仏を心に念じ、その名を称える。原始の阿弥陀仏とは、そうして創作された創
作仏の一つであると想像する。彼らは、その仏達に一つ一つに様々なエピソードを設定していた。
 訓練であるなら、無数の仏などは必要がない。一つの仏で十分ではないか。そういう考え方を
するグループが生まれてくる。教育者を目指す若者にとって、最初の理想の教育者は釈迦だった
に違いない。しかし、生の釈迦はリアル過ぎて理想像として必ずしも適切ではない。おそらくそん
な風に考えたグループがあったのだろう。彼らは、釈迦をモデルに新たな仮想の教育者を創設し、
それを脳裏に焼き付けて刷り込ませる。教育者を目指す若者は、理想の教育者像である阿弥陀
仏を脳裏に刷り込み、自らが阿弥陀仏の化身となって世界中に散っていく。古代の大乗仏教はそ
のようにして拡散していったのだろうと考える。

 阿弥陀仏の概念は、善導の時代になると大きく変わってくる。私塾結成の中核的シンボルとし
ての役割を持ってくる。

267 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 22:37:07
 善導は初等教育を専門とする。随が倒れて唐に変わっていく時代、世の中
は乱れて多くの僧も殺されていった。次の時代を背負う人々を教育する教育
者がいなくなる。人々は、正しい教育が受けられなくなる。善導は、そんな人
々のために、初等教育のプログラムを作る。先生がいなくても、生徒が数人
集まれば、自主的に学習ができるようにした。
 善導は、多くの学習の場を創設している。各地に多くの浄土図を描き残した
そうだ。浄土図は、人々を集めるためのシンボルであり、重要な学習教材で
もあったのだろう。人々が仏教を学習すると言うことは、善導にとって阿弥陀
仏の化身になることではない。学習の場を維持するシンボルである。
 仏教学習者は、経典を音読すること(読誦)、ものごとを正しく見ること(観
察)、挨拶すること(礼拝)、称名念仏すること(称名)、喜んで経済的に支援
することこと(賛嘆供養)の五項目を立てた。正式な指導者のいない集まりで
も、正しい指導者がいるところと変わらぬような学習ができるだけ効率的に進
むよう、学習の中心に阿弥陀仏という仮想の教師を設定した。仮想の教師は、
絵画あるいは仏像という形で設置した。

268 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/04(金) 22:05:50
 親鸞のスタンスを考えてみよう。親鸞は因果の理法を肯定する。因果の理法を肯定するという
スタンスをとることで、自分の枠組みは仏法の中に存在していると主張する。しかし、因果の理
法は釈迦の独占物ではない。親鸞は、釈迦に代わる新たな仏を立てることで、戒定恵という釈迦
仏教の基本を崩し、念仏成仏の道を開いてくる。
 親鸞が立てた新たな仏とは何か。僕は、真理そのものであると考えている。親鸞は、真理その
ものを擬人化し、人格として捉えている。親鸞は、擬人化した真理を阿弥陀仏と呼ぶ。教行信証
からはそのような仮説が浮かび上がってくる。

 かつて、コロンブスに情熱を沸き立たせ、アメリカ大陸発見に導いたものは何だったのか。ア
メリカ大陸発見に導いたものこそ、西の果てに存在したアメリカ大陸そのものではなかったか。
真理は、花にも、石にも宿る。包丁を持ってバスに乗り込み、乗客を殺した少年の舌にも宿る。
そうした真理は、アメリカ大陸そのものの上にも宿る。アメリカ大陸に宿った真理は、コロンブ
スの心をたきつけ、様々な苦労を克服する勇気と決断力をもたらし、万難を排して船を西に向か
わせ、やがてアメリカ大陸という形でコロンブスの前に姿を現し、新大陸発見者としての栄誉を
彼に与えた。



269 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/04(金) 22:07:21
 真理は、人々に、勇気を奮い立たせ、決断力をもたらし、やがては真理の発見者としての最大
限の栄誉を付与してくる。真理にはそのような意思と働きがあるようだ。そうした意思と行動力は、
かつて舎利弗尊者を育て、目蓮尊者を育て、迦葉尊者を育てたあの釈尊先生の意思と行動力
と寸分の違いもないものだろう。釈尊先生は、人々に、限りない知恵の光を与え、継続の命を与
え、人々から「先生」と呼ばれた。ある人は花を先生として美を学ぶ。ある人は花を先生として生
命の本質を学ぶ。真理こそ、人々に限りない知恵の光を与え、継続の命を与えてくる。それは、
釈尊先生と同体の人格を有する。真理こそ、我々にとって先生そのものではないか。親鸞は、
そのような真理を擬人化し、これを阿弥陀仏と呼ぶ。

 原始の阿弥陀仏は、釈尊先生をモデルに描いた理想の教育者像だった。しかし、親鸞にとって
阿弥陀は、釈尊先生をモデルに描いた理想の教育者という枠を越える。それは、まさに真理その
ものを指していると考えていいだろう。親鸞は、釈迦に代えて真理そのものを阿弥陀仏と呼ぶ。
阿弥陀仏という釈迦と別異の仏を立て、その阿弥陀仏から念仏往生の道を導いてくるのである。

270 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/05(土) 23:11:30
 親鸞は因果則を肯定しながら、釈迦の三学を否定する。釈迦に代え、擬人化した真理仏を阿弥
陀という名で実質的教祖に立ててくる。それでは、親鸞が肯定している因果則と、釈迦の立てた
因果則とは、果たして同じものなのか。親鸞思想は、こんなところに大きなアキレス腱を持って
いる。親鸞が肯定している因果則と、釈迦の立てた因果則とが非同一となればどうなるのか。親
鸞の主張は非仏教ではないのか。それとも、釈迦仏教の発展的拡大と言うべきか、そのような判
断が迫られてくるだろう。
 仏教とは何か。親鸞は、我々に、仏教というものの本質を問いただす。親鸞の主張の一つ一つ
を聞いてみよう。

271 :考える名無しさん:2005/11/06(日) 00:34:55
何冊か本読んだけど親鸞の何がすごいのか全然わからん。
どういうところがすごいの?


272 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 11:53:23
>>271
>どういうところがすごいの?

 ここは哲学板ですので哲学的な議論が相応しいと思います。哲学的な議論で言えば、釈迦が創
設した仏教の枠組みを解体し、新たな仏教を創設しているそのダイナミズム、いわば破壊と創造性
にすごみがあります。ここまでの以上が哲学的なすごみです。哲学的なすごみに関する議論はこ
れで終わります。

 実利的に考えて行きましょう。これは哲学的な議論ではありません。親鸞は、人生におけるいわば
究極の危機管理な手法を明らかにしてくれています。哲学や思想などは興味がない。自分にとって
利便性があるか、無いかだけを知りたいというなら、親鸞からは危機管理手法だけを教わればいい
でしょう。

 危機管理と言えば、医者も、消防署も、お巡りさんも、自衛隊も、みんな危機管理を行っています。
危機管理それだけでは何がなんだか分からない。医者は、病気の危機に対処してくれる。消防署は
火災の危機に対処してくれる。お巡りさんは、町内の治安が悪化したときの最後の頼みの綱だ。自
衛隊は、外国が攻めてきたとき、何かしてくれるだろう。親鸞さんは、病気の世話も、火事の世話も、
町内の治安も、外国のからの侵略にも役にはたたんでしょう。では、親鸞の危機管理は何か。
 
 人生には色んなことが起こりうる。だから、町には消防署を設置し、交番を配置している。我々は、
病気なればお医者さんに相談にいく。子供が行方不明になれば警察に相談に行く。相談する先が
あれば、そういう相談先を正しく頼る。相談先を正しく頼ることは、我々にとって非常に大事な危機管
理でしょう。



273 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 11:55:20
 しかし相談先がないときがある。親が年老いて衰弱して寝たきりになった。そんな時でも、自分
は会社が長くは休めない。区役所に相談に行ったが、区にも予算が無くてほとんど頼りにならな
い。国庫からの補助もない。これでは、親子が共倒れになる。共倒れになることは、親も本意では
ないだろう。いっそ、親を殺して自分も死のうか。衰弱したと言っても、親の心臓にナイフを突き刺
せば、血しぶきは天井に向かって勢いよく吹き出すだろう。手足は不自由になって、全身は、「生
きたい、生きたい」と願っている。
 このままでは、自分も失業し、親子で共倒れをしてしまう。それじゃ、いっそ自分だけ先に死のう
か。自分が死ねば、親は三日と持たないだろう。さあどうする。

 相談する相手がいない。八方手を尽くしてもいい案が見つからない。本を探した。インターネット
で検索した。いい案がない。どうすればいいんだ。そんなとき、もしどうせ最悪の選択肢を選択する
なら、その前に南無阿弥陀仏を称えてみなさいな。親鸞さんは、人生の危機管理の最後の手段と
してそんな方法を教えくれている。これが凄いところだ。

 南無というのは感嘆詞です。サンスクリット語でナーマスという。こんにちは、おはようございま
す、やあ、これらみんな、「ナーマス」という。南無とは「ああ」という意味だ。阿弥陀とは、限りない
命、限りない光という意味だ。
 かつて釈迦は、人々から先生と呼ばれた。釈尊先生は、人生の中で身動きできず困っている人
には、その人の足下を照らす知恵を与えた。足下を照らされたお弟子さんは、自分の道を再度発
見し、再び息を吹き返し、新たに前進を開始した。そんな釈尊先生を見て、人々は、無限の光を照
らす人、無限の継続の命を可能にする人と呼んだ。人々はそんな釈迦を先生と呼んだんだ。限り
ない命、限りない光とは、先生という意味だ。阿弥陀とは先生という意味です。
 仏とは仏陀。悟ったと人という意味だ。深い知恵を持った人という意味だ。つまり先生という意味
だ。阿弥陀仏とは、先生という意味だと思えばいい。

274 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 11:58:13
 南無阿弥陀仏とは、ああ先生という意味です。座禅しながら「ああ先生」と念じてみなさいな(教行
信証 行の巻)。古代印度からの伝統に則り、座禅しながら「南無阿弥陀仏」と称えたらどうでしょう
か。三五歳で冤罪の汚名を受けた無位無冠無名無戒在俗の元天台僧は、一生をかけてそう提案し
ている。

 かつて釈迦の弟子達は釈迦を先生と呼んだ。先生の心は奥が深く、真意がつかめない場合もあ
ったろう。そんなとき、お弟子さん達は、みんなから別れ、木陰で腰を下ろし、座禅しながら姿勢と
呼吸を整えつつ、「先生」、「ああ先生」と念じた。そうして静かに心の深い深層の中に入っていった。
 自分以外は一切が師である。これは「宮本武蔵」や「親鸞」を書いた作家吉川英治の言葉だそう
だ。画家は花に美の神髄を学び、植物学者は生命の起源を学んでいる。石に美の本質を学ぶ彫
刻家もいれば、宇宙の起源を学ぶ物理学者もいる。包丁をもってバスに乗り込み、乗客を殺し、運
転手を脅迫した少年の舌に、検察官は事件の原因を学び、心理学者は社会の病理を学ぶ。実に
一切が様々に教えてくれている。
 なんでもいいんだ。花でも、石でも、仕事でも。勉学でも、親でも、兄弟でもいい。嘘っこで、自分
勝手に、相手に見つからないようにそっと、「先生」とあだ名をつけてごらん。嘘っこなんだ。ほんと
うは違うんだ。でもそれを承知であだ名をつけるんだ。かつて一休禅師は、蓮如の元に遊びに行き、
転がっている漬け物石を「阿弥陀様」と名付け、蓮如は一休に一本借りができた。阿弥陀様は、漬
け物石でもいいんだ。どうせ嘘っこなんだから。
 先生、ああ先生。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。姿勢を整え、呼吸を整えながら、ゆっくりと称え
てごらん。横隔膜は静かに、しかし大きく動き出し、脳に向かって大量の血液と酸素を送り出すだろ
う。眠っていた全身の細胞が、人生の危機に向かって目を覚ます。忘れていた大量の情報が目を
覚ましてくるだろう。
 念仏を称えたら良い案が浮かぶのか。必ず良い案が浮かぶなんて保証はないだろう。しかし、人
生の最大の危機にあって、最悪の選択肢の選択だけはかろうじて免れ、忘れていた二善、三善の
選択肢が選択できれば、それだけでも万々歳じゃないか。

275 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 12:01:46
 後から思えば、あっちの方法の方がもっとよかったと思うことがあるかも知れないが、最悪の選
択肢だけは選択しなかったなら、それだけでよかったと思うべきだろう。
 結局、最悪の中の最悪の選択肢しか無かったなら、それを選ぶのもやむを得まい。しかし、最
悪の選択肢をどうせ選ぶなら、それが10分、15分遅れても、罰は当たるまい。
 人生の振り子はどこに向かうか、だれにも予測できない。本当に困ったときは、なんでもいい、
漬け物石でも、サンマの頭でも、嘘っこであだ名をつけ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて
ご覧。称えている内に、あだ名は何につけたか忘れてしまい、深い深層心の中に入って行くだろう。
 五分座れば五分間の仏。十分座れば十分間の仏だ。座禅して念仏を称えるというそんな簡単な
方法で、人生におけるもし最悪の危機にあって最悪の選択肢以外の選択肢が見つかるかも知れな
い。親鸞はそんな危機管理手法を教えてくれている。これが凄いところだ。

 念仏が、親鸞さんの専売特許ではない。法然さんも、一遍さんも説いている。それなら、親鸞だ
けを特別扱いする必要はない。それはその通りだ。親鸞と法然の違いは何か、とか、一遍とはどう
違うのか、そんな話は詰まらん話だ。自分の人生にとっての実益性のあることだけを考えよう。

 相談先もなく、いい案も浮かばず、人生の方向に悩み、苦しんだなら、いつでもいい、親でも兄弟
でも、仕事でも、漬け物石でもいい、嘘っこで阿弥陀仏とあだ名をつけてみよう。座禅しながら南無
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と繰り返し繰り返し言葉を発してみようじゃないか。最悪の選択肢の選択
だけは免れうることがあるかも知れない。消防署でもなく、警察でもなく、自衛隊でもないが、親鸞は
そんな危機管理の一手法を提案してくれている。

276 :考える名無しさん:2005/11/06(日) 12:12:35
で、極楽行きが定まったのかな?

277 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 12:57:00
>>276
>で、極楽行きが定まったのかな?

 勿論だとも。完璧に定まったよ。ところで、貴方も極楽に行きたい
ようですね。
 貴方が考えている極楽とはどういう所でしょう。もちろん僕には、
僕なりの極楽観がある。概念がある。極楽行きが定まるという概
念もある。
 276さんよ。恐らく貴方の極楽観、極楽の概念、極楽行きが定
まるという言葉の意味の内容などは、僕のそれとは異なるだろう。
 貴方の極楽観、極楽の概念、極楽行きが定まるという言葉の意
味、それらをお知らせいただけませんか。

278 :考える名無しさん:2005/11/06(日) 19:57:14
くたばる前に南無阿弥陀仏って
一言いえばいいんだろーが。
要は坊主も寺もいらねーと。
そこが親鸞坊の革命的な
ところだろが。
そこをバッチシ抑えておきゃー
全てOKよ。

279 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 21:33:55
>>278
>くたばる前に南無阿弥陀仏って一言いえばいいんだろーが。

 くたばる前一言いえばいい?。ほ?。何がいい。
 称えると何がどうなるんだか。称えないと何がどうなるんだか。(苦笑)
 口から出任せ、売文三流評論家の舌先、筆先で踊らされてる金づるの鴨さんでなければ幸いだ。

>バッチシ抑えておきゃー全てOKよ。

 そうだな、気休め仏教としてはOKだろう。まあ、別に抑えてなくても、困る奴はおらんけどな。
 バッチシ抑えた気休めも、バッチシ抑えておらん気休めも、人生には糞の役も立たんこと請け合いだ。

280 :考える名無しさん:2005/11/07(月) 01:47:14
善因善果についての道徳的な解釈が仏教者によってよく為されているようですが、私は通常仏教者によって為される解釈というのは人間の現存在のリアリティに到達し難いように思えます。例えば善なる主観で為した行為や言葉が悪なる果を生む事は現実には有り得るでしょう

281 :考える名無しさん:2005/11/07(月) 01:59:08
善なる因果について、全てを知るのは如来ただ一人である、それは人間の思惟や思考を遥かに越えた超越的なもの、というのが私の捉らえ方で、また、仏教者でもそれ―因果の彼岸性とでも呼べる領域―について思惟を巡らしている人間もいるのではと思います。

282 :考える名無しさん:2005/11/07(月) 02:05:42
それについて語っているのでは?と私に思えるのが『歎異抄』の有名なくだりである、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも百人、千人をころすこともあるべし」という箇所です。自分にその気はなくともやってしまっている事があろう、と。

283 :考える名無しさん:2005/11/07(月) 12:05:11
今の真宗の坊さん達には親鸞さんの革命性は
受け継がれてないよね。
親鸞さんの遺産を食いつぶしてるだけだよね。



284 :考える名無しさん:2005/11/07(月) 18:46:52
キリスト教にも坊さんも教会も不要って派があるらしいね。
坊さんや教会が堕落してくればそんな一派もでてくるよ。
で、われらが浄土真宗にはそんな派閥はないんかね。
279氏の言う売文三流評論家の発言が仮に影響力を持っ
てるとしたら、それは宗派のほうがオソマツなんだよ。
その評論家の言ってることは違うんだよってはきり反論
しなきゃね。



285 :考える名無しさん:2005/11/08(火) 11:20:15
葬式仏教のぼんさん連中に反論なんぞ期待できないでしょうが。
連中の関心事は金儲けだけですよ。

286 :考える名無しさん:2005/11/08(火) 20:22:42
で、その三流売文評論家って誰?
それと、一流も三流も評論家ってみんな売文家だけどね。

287 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/08(火) 21:40:21
 親鸞は真理を擬人化した。親鸞は、真理を人格で捉えた。その人格は、釈迦と大悲を共通(同
体)する。親鸞は真理を阿弥陀と呼び、古代印度の浄土教の先輩達が創作した阿弥陀物語を真理
に重ね、真理をもって釈迦に代わる新たな新教祖を作出したのだ。
 原始の阿弥陀仏は、古代印度の浄土教が釈迦をモデルに創作した創作仏である。教育学を学ぶ
若者は、小乗の基礎的学習段階を修了して阿羅漢果を得ると、専門コースである大乗段階に進ん
だ。彼らは、理想の教育者像である阿弥陀仏を自分の全身に重ねて焼き付け、理想の教育者であ
る阿弥陀仏の一化身となって全国の教壇に立った。
 将来の教師を目指す専門コースでは、阿弥陀仏を全身に焼き付けるにあたり、若者は、礼拝・
賛嘆・作願・観察という四つの学習を積む。この四つの学習を修了すると、実際の教壇に立った。
教壇では、教育者(阿弥陀仏の化身)として教育指導すなわち回向行に携わる。
 教育指導には二つある。新米の教師とベテランの教師では、教育内容が異なる。新米教師は、
教え方に間違いがないように、絶えず原理原則を自分の真正面に置き、原理原則にできるだけ外
れないように用心しながら実践する。いわば、真理を真正面に据えて行う教育手法だ。ベテラン
は、現場で自分の経験が物を言う。経験を背景に、多少原理原則を外れても、もっとも正しいと
思うことを行っていく。ベテランは真理を背にして教育を実践するものだ。

288 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/08(火) 21:40:53
 自分も真正面に真理に向かいながら、真理に共に向かって行こうと生徒を誘う教育手法を往相
の回向という。経験を背景に、多少原理原則を外れても、自分がもっとも正しいと思うことを自
由自在に実践していく教育手法を、還相の回向という。
 往相の回向は因である。還相の回向は果である。往相の回向を積むことで還相の回向が開かれ
てくる。ベテランは、新米時代の経験を基礎に育っていく。祇園精舎でお弟子さん達に教育を実
践した釈迦にも、往相の回向と還相の回向とがあった。阿弥陀仏にも当然、往相の回向Aと還相
の回向Bとがある。釈迦は、戒・定・恵をもって教育手法を開いた。真理仏である阿弥陀仏が開
いている浄土真宗を深く考えてみれば、二種の教育内容がある。回向がある。すなわち、往相の
回向Aと還相の回向Bである。
 親鸞は、真理をもって新たな釈迦に代わる教祖を立て、阿弥陀教祖の教育構造を往相の回向A
と還相の回向Bという形で整理してみせているのである。

289 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/08(火) 22:01:25
>>286
>で、その三流売文評論家って誰?

 まあ、今は答えないでおきましょう。具体的な名を出すときには、いずれその
明確な根拠を明示したいと思います。

 蓮如上人、仰せられ候う。聖教よみの聖教よまずあり。聖教よまずの聖教よ
みあり。聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、いたずら
ごとなり。

 聖教の言葉を筆先で小器用に操りながら、自分は念仏を称えてないことを
公言し、信心などかけらもないそんな三流売文屋などは、いらっしゃいませ
んかね?。
 見当違いの下手くそな売文を百冊、千冊重ねる器用さがあるなら、一遍の
念仏でも称えてみたらいかがですかと、私などは、余計なお世話の一言が
言いたくなるそんな性分なんでござんすよ。

290 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/08(火) 22:16:57
>>286
>で、その三流売文評論家って誰?

 う?。もしかして286さんは278さんと同一の人ですか?
 278を受けた279は、こっちの見当違いな余計な先入観が先走って不快感を抱か
せた恐れがあります。
 もし、そうであったなら、失礼があったと思います。申し訳なかった。 


291 :考える名無しさん:2005/11/08(火) 22:56:20
仏教の歴史的な叙述は面白いですね。色んな歴史が解る。私なりの捉らえ方はありますが、やはり歴史を知る事は大事だな、とも思います。渡海さんのこうした試みは有意義に感じます。

292 :考える名無しさん:2005/11/08(火) 23:28:55
ただ、同時に私は不信仰者が、にも拘わらず親らんについて語る事には理由があると思えるんです。親らんや唯円の言葉にそれだけの、つまり不信仰者でさえも惹き付ける吸引力があるからじゃないか。それはもしや信仰者からすればもっての他な読み方かもしれませんが。

293 :考える名無しさん:2005/11/08(火) 23:41:52
そういった不信仰の文筆家がよく取り上げるのが『歎異抄』です。そこに、〈不信〉の人間でさえも包括する絶対の思想の姿をやはり見てしまうのです。つまりそれだけ『歎異抄』は深い読みに堪えるものを持っている。それだけの書物だという事じゃないでしょうか。

294 :考える名無しさん:2005/11/10(木) 10:51:58
286です。
278さんではありません。
で、上の姉貴はその評論家って
吉本隆明じゃないのって。
でも吉本ってひとは共産主義者ですよね。
そんなひとが親鸞を読むかしら。

295 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/10(木) 20:04:10
>不信仰者でさえも惹き付ける吸引力があるからじゃないか。それはもしや信仰者か
らすればもっての他な読み方かもしれませんが。

 うん。まあ。日本の仏教はこういう時代なのかも知れませんね。
 バットを握ったこともない。ボールに触れたこともない。バットを振ることは、面倒くさ
いことだという。野球の本当の面白さなど、全くわかってない養老院の御隠居さん商
売人が、小手先の器用さにもの言わせ、迷信じみたアヤシゲナ床屋談義、井戸端会
議、ああでもない、こうでもないと見当違いのプロ野球解説をして金を集めてるからっ
て、僕は、まあ、そんな話は聞きたいとも思いませんけどね。

 バットを握ったこともない。ボールに触れたこともない。バットを振ることは面倒くさ
いことだという。そんな人間までもプロ野球には人を惹き付ける吸引力があるからと
言って、そんな床屋談義商売人に野球解説をしてもらわなかればならんほど、日本
の野球界は人材枯渇の社会じゃないと思う。仏教界は、驚くほどの人材枯渇社会、
人材砂漠になっている。養老院の御隠居さんにでもご高説を伺わなければならんと
いう、まあ、そういうことなんでしょう。

 大津近松殿に対しましまして、仰せられ候う。信心をよく決定して、ひとにもとらせよ
と、仰せそうらいき(蓮如)。

 同じき七年の夏より、また御違例にて御座候うあいあだ、五月七日に、「御いとまご
いに、聖人へ御まいりありたき」と、おおせられて、御上洛にて、やがて、おおせには、
信心なきひとには、あうまじきぞ。信をうるものには、めしてもみたくそうろう。あうべし
と云々(蓮如)


296 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/10(木) 21:01:36
>>295
 三流評論家、低能哲学者の話はこれくらいにして、次は、親鸞仏教の核心、教行信証の議
論に戻りたいと思います。
 ただ、目下当方は多忙です。僕はこれから数日休みます。


297 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/14(月) 17:28:01
 真理と往相、還相との関係をもう少し明らかにしておく必要がある。その前に真理とは何かと
いうことも重要な問題だ。真理とは何かという問題で躓くと、往相も還相も分からなくなるだろう。
 ポルトガルから西に航路を進むとアメリカ大陸がある。これは真理か否か。現代の我々の次
元で考えれば、これは真理ではない。真理というより、事実であり常識であるというべきだろう。
しかし、アメリカ大陸に到達したコロンブスにとって、それは真理だった。
 真理とは未知と常識の間にある。真理は、未知を侵食し、未知を常識化していく働きの中にあ
るようだ。

 真理は、コロンブスに名誉欲と野心とをたきつけ、冒険心と勇気を奮い立たせ、西に向かって
決死の出航をさせた。真理には、このように、真理解明に向かって人々をひたすら呼び込む働
きがある。親鸞はこれを往相の回向Aと呼ぶようだ。やがてコロンブスは、アメリカ大陸を発見
し、アメリカ大陸をヨーロッパに紹介する紹介者としての栄誉を得た。真理はこのように、コロン
ブスに対し、歴史に不滅の名を残させた。真理は、真理を求める者に真理を明らかにさせ、真
理の発見者としての栄誉を与える。真理を求める者に、求めた業績と不朽の栄誉を与える。親
鸞はそのような意思と働きを還相の回向Bと呼ぶようだ。

298 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/14(月) 17:32:41
 エベレスト塔頂に人類で最初に成功したのは、ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリー
である。なぜ山に登るのか。そう聞かれたヒラリーは、新聞記者に「そこに山があるからだ」と答
えた。そんな話が伝わっている。冒険家達に冒険を誘うものなどは存在しない。往相の回向A、
還相の回向Bの実体は何か。真理という妖怪がどこかに住んでいて、それが運命の糸か何か
で人々を操るということがあるのか。そんなものはない。真理には、往相の回向A、還相の回向
Bと認識できる釈迦と共通の精神を認識することができる。しかし、認識するのは我々であり、
認識される対象が何か実体的に存在するものではない。
 真理の実体はまさに空である。真理は空を実体とする。我々はその真理を有として我々の側で
その働きを勝手に観念する。我々はそのように真理を教わった。親鸞はこうした空・有の真理を
自然(じねん)とよぶ。

 (阿弥陀仏は無上仏である。)無上仏と申すは、(実体的に存在するものではなく、)形もなくなく
まします。(有形ではなく、空を本質とし)形もましまさぬゆえに、自然とは申すなり。(山がそこに
あるから登っただけだ。極めて自然の行為でないか。画家は花を美しいと思うからひたすら写生
する。写生して美の本質を学ぶ。科学者は花の美しさに誘われてその構造を解析する。まさに自
然の行為ではないか。真理というなにか有形のものが化け物のように存在するのではない。もし、
有形的に)形ましますと示すときは、無上涅槃とは申さず(永遠性がない)。(実体的な存在では
ない。有形的なものではない。そのように)形もましまさぬ様子を知らせんとて、(入門当初)はじめ
に弥陀仏とぞ(法然上人からか?)聞き習いて候。弥陀仏は、自然の様子を(人々に)知らせん料
なり(試料、道具立てである)。(阿弥陀仏というのは、自然の働き、ありかたを象徴的に知らせる
ための資料、道具である。そのように理解すべきである)
   親鸞(自然法爾抄)

299 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/14(月) 17:38:25
 阿弥陀仏というのは、自然の働き、ありかたを象徴的に知らせるための資料、道
具である。しかし、親鸞にとって、その阿弥陀仏は、戒定恵の三学を基礎とする時
代遅れの釈迦仏教を解体し、時代に合った念仏一筋の教えを仏教の中心置く不可
欠の道具立てであるということも忘れてはならない。

300 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/17(木) 23:56:07
 「阿弥陀仏というのは、自然の働き、ありかたを象徴的に知らせるための資料、道具である」。
この考え方は、浄土真宗では非常に重要である。僕はそう考える。これを別の言い方で言うとど
うなるか。蓮如は次のように言っている。

 またのたまわく、「「南无」の字は、聖人の御流儀にかぎりて、あそばしけり。」南無阿弥陀仏
を泥にてうつさせられて、御座敷にかけさせられて、仰せられけるは、「不可思議光仏・無碍
光仏も、この南無阿弥陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべし」と、
おおせそうろうなり。

蓮如上人はあるとき次のように仰った。南無という字は、親鸞聖人以後の流儀に限って使用し
ているものだ、と。南無阿弥陀仏という名号を、金泥で書写され、それを座敷に飾りながら仰っ
た。通常は、どこの寺でも、阿弥陀仏が尊いということで、阿弥陀仏を本尊にする。親鸞聖人以
後の流儀に限っては、南無阿弥陀仏を本尊にする。これには理由がある。不可思議光仏・無碍
光仏つまり、阿弥陀仏という仏は、南無阿弥陀仏は素晴らしいんだぞということを教えるための
名前である。法然上人は尊い。法然上人はなぜ尊いのか。それは、南無阿弥陀仏は素晴らしい
んだぞということを教えて下さったから尊い方なのだ。善導大師は素晴らしい方だ。善導大師は
なぜ素晴らしいか。善導大師は、南無阿弥陀仏は素晴らしいんだぞということを教えて下さった
から素晴らしい。阿弥陀仏は何か。それは、南無阿弥陀仏は素晴らしいんだぞということを教え
てくださるための道具である。名号という道具である。だから、親鸞聖人以後の流儀に限っては、
阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏を本尊とする。


301 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/18(金) 00:00:18
 親鸞は、真理に往相と還相という二つの働きがあることに着目し、これに阿弥陀物語を重ね、真
理を阿弥陀仏という名の仏に仕立てて釈迦に代わる仏教の新たな教祖を制作した。釈迦は、戒
・定・恵を学ぶに当たり、教・行・証(あるいは、教・学・解)という三段階方法論を創設している。学
ぶべき教えを示し、教えの通りに行じることで真実を体得する。戒・定・恵を否定する親鸞の場合、
教・行・証という三段階方法論は使用できない。親鸞の仏教は、延暦寺や東大寺の高僧を育てる
仏教ではない。パン屋さんやおそば屋さんに念仏を勧めるための仏教である。親鸞の仏教は、
教・行・証では不都合なのだ。親鸞は、パン屋さんやおそば屋さんに、教・行・証ではなく、教・行・
信・証で考えようと誘っている。
 学ぶべき教えがあり、その教えの通りに行動すれば、その行為から確信が得られるだろう。パ
ン屋さんやおそば屋さんは、延暦寺や東大寺の高僧のように、聖者の悟りを開く必要はないのだ。
しかし、ささやかでも念仏行を行えば、その体験から何らかの体験的な確信が得られるだろう。剣
道で素振りを繰り返せば、気づくものがある。素振りを繰り返したなりの体験的な確信がえられる。
キャッチボールを多少繰り返しただけでは、イチロー選手や松井選手のような技能はとてもとても
得られないかも知れないが、キャッチボールを繰り返した範囲での手応え確信が得られるだろう。
念仏を行じてごらん。念仏を行じて得られた確信は、決して無駄にならない。ささやかでもこの確
信は、必ずやパン屋さんやおそば屋さんには、かけがえのない貴重な結果(証)をもたらしてくるだ
ろう。親鸞はそのようにして教・行・信・証という構造を示しているのである。

302 :考える名無しさん:2005/11/19(土) 15:47:47
>263 親鸞にとって僧とは、極めて重要な役割を持っている。無辺の生死海を粉砕していくのが僧の
役割である。後に生まれる者を導いていくプロ集団である。親鸞は教行信証を、僧の中でも、特に
法然上人にゆかりのあった僧に読んでほしいと思っているようだ。流罪事件でがたがたになって
事実上崩壊した法然教団を京都で立て直しを図りたい。その理論的バックボーンとして浄土真宗
の体系書、教行信証提示しているようだ。
 法然上人流罪後、法然教団は事実上ちりぢりになる。事実上崩壊してしまった。それはなぜか。
理論的なバックボーンが強固でなかったからではないか。パン屋さんやおそば屋さんが学ぶ仏教
は念仏だけでいい。他力でいい。自力はいらないんだ。パン屋さんやおそば屋さんやお巡りさん
にそのように語って聞かせる専門家達において、その理論的なバックボーンが脆弱だったのでは
ないか。もっと体系的に強固な理論を提示しよう。親鸞は、弾圧を加えてくる体制派教団に負けな
い形の理論武装を提示しようとしているのである。

>265 釈迦はどういう人だったか。釈迦は、祇園精舎の建設という人類史的な大事業を完成させた。
祇園精舎の成功は、紛れもない釈迦の偉業であるが、その成功は釈迦一人の力によるものでは
ないだろう。釈迦以前の無数の過去の開拓的先駆者、釈迦と同時代の優れたリーダー達、未来
の賢人哲人を目指して結集した無数の努力家達、こういう無数の人々の限りない支援があってこ
そ、釈迦の成功があったのではないか。そのことをもっともよく知っていた人こそ、僕は釈迦その
人だろうと思う。釈迦とは、常に、過去、未来、現在の哲人達のことを心にかけていた。
 こうした心の姿勢は、決して釈迦一人の精神ではない。社会の無数の哲人、賢人と言われる人
々の共通的な精神ではないか。釈迦の弟子達は、哲人、賢人に共通するそうした精神を釈迦の
中に発見し、釈迦を通じて哲人、賢人の心を学ぼうとしたのだろうと思う。

長いコピー恐縮です。260番まで読み遡ったものです。とくに上の2つのポイントに納得しました。
正確に同じ立場かどうかわかりませんが,阿弥陀仏とは無数の先人の「衆生を救いたい」という共通精神
のメタファー(一つの表現)と理解しています。

303 :考える名無しさん:2005/11/19(土) 16:46:37
あらためて237から拝読。大いに参考になります。
2種類の回向の構造はプラトンを思い出させますね。
洞窟から出て善のイデア(真理,渡海さんの解釈では阿弥陀仏)を
見る過程と,見てから洞窟に戻り,人々を教育する過程の区別と
重なります。


304 :考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:05:18
渡海さんの親らんは信仰者としての親らん。〈信-不信〉の間(はざま)を指示する親らんは居ない。細かい浄土真宗教義の話は面白いが、親らんという思想家の信仰者の部分は指示しながら、親らんが現代人を惹きつける核心からは故意に外してあると思う。

305 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/19(土) 23:25:22
>>302
>とくに上の2つのポイントに納得しました。

 僕の方も特に難しい議論をしているつもりはありませんが、納得しましたという感想は嬉しく頂戴いたします。

>>303
>洞窟から出て善のイデア(真理,渡海さんの解釈では阿弥陀仏)を見る過程と,見てから洞窟に戻り,人々を
教育する過程の区別と重なります。

 なるほど。
 まあ、こちらの方はプラトンは全く知らない。30年以上前、Bラッセルの西洋哲学史というという本を読んだ記憶があるが、中身は全く覚えていない。
ただ、釈迦や親鸞の考えと親和性のある思想が古代ギリシャにあっても不思議ではないと思います。


306 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/19(土) 23:36:56
>>304
>〈信-不信〉の間(はざま)を指示する親らんは居ない。

 うーん?。まあ、そうかも知れませんね。親鸞は信-不信の間にあったと
は、僕は思っていない(親鸞本人が何というかは知りません)。

>親らんが現代人を惹きつける核心からは故意に外してあると思う。

 自分は現代人ではないという、そんな意識は僕はもってない。僕は自分
を現代人だと思っている。現代人の僕を惹きつける親鸞を明確にしたいと僕
は思ってるんですよ。
 「故意に外している」という主張は、僕には理解できない。

307 :考える名無しさん:2005/11/19(土) 23:59:56
例えば渡海さんの取り上げる親らんとして『歎異抄』の親らんは何故いないのですか。渡海さんの『歎異抄』観はどうなってるのですか。“念仏を唱えても格別幸せな気持ちにはならない。それは…”と唯円に答えた親らんはどこに居るのですか。

308 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 08:35:41
>305 30年以上前、Bラッセルの西洋哲学史というという本を読んだ
記憶があるが、中身は全く覚えていない。

「洞窟の比喩」は「国家」の中にでてきます。現世における哲学者の使命を
いい表したものとして有名,ということでしょうか。親鸞によれば,宗教家
の使命も同じ,ということのようですね。


309 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 09:54:59
>294 でも吉本ってひとは共産主義者ですよね。
そんなひとが親鸞を読むかしら。

吉本氏が何流かどうか知りませんが,また,共産主義者かどうかも知りませんが,
親鸞についての本をかなり書いていますよ。私は,そのうち一冊を読んで
感心した口です。親鸞は浄土を(特殊な例外を除いて)あの世とは言っていない,
徹底的に現世で理解しようとしている,という解釈でしたね。

310 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 11:42:10
自慰サンだったら親鸞、読むかもな。
敗戦直後、今までの価値観をひっくり返されちまったとき、
持ってた本ぜーんぶ売っちまって、大蔵経かなんかを買った
てなこと言ってなかったか?
で、ソ連邦をはじめ共産主義が逝っちまって、これまた価値
観をひっくり返されちまったんで、今度は親鸞にすがりつい
たって話はダメか?

311 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/20(日) 21:13:36
>>307
>『歎異抄』の親らんは何故いないのですか。

 歎異抄を論じている書を読んでいる方でしょうか?。違和感を感じますか?。
 恐らく、貴方が読んだ解説書の著者と僕とは歎異抄の理解が異なるのでしょう。

>唯円に答えた親らんはどこに居るのですか。

 いよいよ頼もしく覚ゆると答えている親鸞がいないということでしょうか?。今いなければ、その
うち出てくるでしょう。楽しみに待っていてください。

 親鸞と歎異抄との関係は、心と宗教板ではこれまで繰り返し繰り返し語ってきているのですが、
哲学板ではまだですね。
 僕はもともと、心と宗教板のコテハン住人なんです。板を二つも三つも掛け持ちすることは僕
の趣味ではないけど、哲学板は居心地が良さそうですので少し居候させて貰っています。

 歎異抄は、親鸞の考えを知る上で、確かに一級の資料と思っていますが、超一級という程で
はないと思っています(二級の資料と言ってしまっては可愛そうだと思います)。
 大事なことは、歎異抄と親鸞の思想とは思想の骨格が違う。骨格が違う思想を同一視するこ
とはできません。
 親鸞が言っているはずもないことを、親鸞はこう言っているという部分がある。親鸞が聞いたら
びっくりするでしょう。歎異抄は、親鸞の思想の枠を外れていると言っていいか、幅の範囲内にあ
ると言うべきかは議論のあるところかもしれません。僕はこの問題に結論を出していません。
 歎異抄を取るか、親鸞を取るか。一方の考えに共鳴すれば、他方は否定しなければならん局
面があるでしょう。

312 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 22:19:40
人間が己の実存を超えた超越的存在や、そこに至る超越的原理を描くのは想うに人間の実存の重要な要素である。等と僕など思ったりするのですが…。僕は宗教的世界というのはいかに広大な世界に見えようとも、それは生身の実存からの盲目な跳躍を促す限り→

313 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 22:23:20
→必ず内面の偽りを含んでしまう。宗教にマルクス主義とかを入れてもいいんです。一部のマルクス主義者が優しそうな顔をして、“難しい話はいいから仲間になろうよ”等と呼びかける、そうしてそれに応えようとする時、やはりそこにも内面の偽りが潜んでいる。

314 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 22:29:15
→超越的存在や超越的原理を求める人間が、何か重要な己の根拠を放棄する事で跳躍し、めでたく…教や…主義者の一員になる過程は、僕に人間とは何なのかを考えさせる重要な要素です。池田大作という人がいて、全集の中でこう言っています。→

315 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 22:35:22
→《仏教は、権威で押し付ける宗教ではありません。万人が、心から納得し、みずから信ずるものです。このほんとうの信は、知性による批判と思索とに十分耐えるものでなければならない。知性の批判を避け、神秘性や権威主義で押し付けた信仰は、→

316 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 22:40:54
→たんなる盲信にすぎないからです》(『池田会長全集9』より)僕は創価学会や池田大作の信仰者では全くありませんが、池田会長もいい事言ってるじゃないの。とか柄にもなく思ったりします。そんな所で。またお話しましょう。渡海さんへ

317 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 23:13:11
あと、渡海さんとは読み方は違うだろうけど、やはり親らんには惹かれるものを感じます。なので読み方が違うとしても、渡海さんの書き込みにはこれからも目を通させてもらいます。かなり読み方が違うのも、親らんという思想家の広がりかと思えます。

318 :考える名無しさん:2005/11/20(日) 23:43:13
どこまでも生身の実存、苦悩や煩悩や欲望にまみれた人間、その位相に足をつけたまま、超越的存在との通路を作る事は出来るのか。僕の読む『歎異抄』の親らんはその問いに応える思想家で、そこが最も気になる。また、渡海さんとの食い違いもそこにあるんでしょう

319 :考える名無しさん:2005/11/21(月) 00:50:38
今、渡海さんが【心と宗教】スレッドに書かれた『歎異抄』論、読ませて戴きました。それで書かせてもらいます。渡海さんの持論は、『歎異抄』は親らん思想の真髄とか考えるべきものではない、似た事を喋ったとしても本音だと受け取るべきでない、との事です。→

320 :考える名無しさん:2005/11/21(月) 00:55:02
僕は渡海さんの持論に異和感を持つのですが。渡海さんは実はご存知だと思いますが、『歎異抄』中の論の展開の仕方というのは、『歎異抄』に限らず、親らんが遺した書簡に頻繁に出てくる展開ですよね。〈自然(じねん)〉というのが『末燈抄』に出てきますが→

321 :考える名無しさん:2005/11/21(月) 01:02:16
→〈他力〉という概念に、〈自然〉という概念が根底から結び付いている。信仰は人のはからいでなく、如来のはからいである、と書簡で親らんは語る。この考え方は『歎異抄』を読めば確実に伝わる考え方で、しかも親らんが書簡でしつこいほど繰り返す考え方である。→

322 :考える名無しさん:2005/11/21(月) 01:12:36
→〈義なきを義とす〉もそうです。話言葉や書簡の親らんがよく使う言葉です。そういった、彼がしつこいほど強調する言葉は、それだけ重要だからこそ様々に繰り返されたと考えなきゃならないのではないですか。→

323 :考える名無しさん:2005/11/21(月) 01:23:58
→悪人正機説についても書簡には頻繁に説明されてます。悪人正機説の核心はやはり〈自然〉だと僕は思います。あと〈はからい〉の否定です。善人は〈はからい〉を以て浄土へ往こうとする。それは〈自然〉からは遠い行いだと彼は言いたかったと考えます。

324 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/24(木) 21:29:43
 阿弥陀仏が念仏を勧めている経典はないか。親鸞は、一切経の中で必死で探したと思う。
 親鸞は、流罪赦免後も都払いの処分が長く続いた。そんな折り、関東武士から声がかかる。恐
らく、熊谷直実のルートではないかと僕は勝手に想像する。京都に負けない文化圏の創設を意図
していたと思われる関東武士から、一切経を校合するから参集して欲しいという話が親鸞に舞い
込んでくる。
 昔は、現代のような印刷機がない。経典は、全て書写という手続きで拡散していく。書写に誤り
がないかどうか、これは重要な問題であり、当時は全て人海戦術で見直しを行う。見直しはだれ
がやってもいいというわけにはいかない。検査員には仏教の学識のある僧を求める。京都で一
切経を校合するというような話があれば、無名在俗の元流刑囚である親鸞が呼ばれるようなこと
は決して無かったろう。しかし、平家を倒し、京都とは違った新たな文化圏の創設を模索していた
関東からは、親鸞のような人物の所にも白刃の矢が当たった。親鸞は、比叡山から下山した後、
久しぶりに一切経と出会う機会を得た。親鸞は、奇しくもここで教行信証を書けるそんなきっかけ
が降って湧いた。
 釈迦は多くの教を残している。その数は4万8000の法門などと称されている。しかし、釈迦の
教では話にならない。阿弥陀仏が念仏を直接勧めている経典はないか。親鸞はそれを探した。
しかし、世の中は上手い話がそんなにどこにでもあるということはない。阿弥陀仏が念仏を直接
勧めている経典などは存在しない。大無量寿経は、阿弥陀仏が念仏を直接勧めている経典では
ない。しかし親鸞は、その大無量寿経から念仏の教義を展開することにした。
 大無量寿経とは、将来の教育者を目指す若者に向け、学校経営の基本を明らかにしている経
典である。教育者を目指す若者が手本とすべき理想の教育者阿弥陀仏は、学校建設に当たっ
て48箇条の基本原則を設立する。48箇条の基本原則の根本は、当然その第一条に集約され
ている。基本原則の第一条は、「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取
らじ」というものだ。

325 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/24(木) 21:31:26
 小乗の基礎学問の修得を終えると、一部の修了生達は教育者を目指して教育学を学ぶ。大乗の
菩薩達は大乗の研修を受ける。大乗の学習を修得すると、彼らは教師となって全国に散る。教壇
に立った彼らは、生徒から「先生」と呼ばれる。
 阿弥陀仏の化身達は、自分が教えている教場から地獄、餓鬼、畜生の世界を駆逐していかなけ
ればならない。地獄、餓鬼、畜生の世界とは、知恵のない世界である。畜生の心で畜生の行為を
する者を畜生という。餓鬼の心で餓鬼の行為を行う者を餓鬼という。知恵もなく、欲望の思いだけは
果てしなく拡大しつつ、身動き一つできない状態を地獄という。
 自分が教えている教場に、なお、地獄、餓鬼、畜生の世界がある限り、自分は本当の教師にな
ったとは思うまい。教師は、どこまでもどこまでも地獄、餓鬼、畜生の世界を駆逐していく。それが、
迷いの輪廻を断ち切る唯一の道である。大乗の菩薩達は、阿弥陀仏の化身としてまさにそのような
教師になれ。大無量寿経はそのように説いている。
 親鸞は、そのような経典を換骨奪胎し、大無量寿経から念仏の教えを引き出して見せる。

326 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/25(金) 23:27:53
 親鸞以前、称名念仏の根拠は、観無量寿経から導いている。観無量寿経の下品下生段は言う。
 善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと。かくのごとく心を至し
て、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。 〜 念念の中におい
て八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。

 親鸞は、この記述が気に入らないようだ。この記述では釈迦仏教に対抗できない。親鸞の狙い
は、戒・定・恵という三学構造で組み立ててある時代遅れの釈迦仏教を粉砕し、称名念仏一本で
全てが満たされる阿弥陀仏教を提唱する。称名念仏の勧めは、阿弥陀仏自身の口から出てくるも
のでなければ説得力が無い。釈迦仏教に対抗できないのだ。親鸞は、称名念仏を観無量寿経から
導く伝統的手法を取らなかった。親鸞は、大無量寿経を換骨奪胎して経典の主張を変更し、念仏
を称えることは阿弥陀仏の勅命であるという独自の概念を作為的に創作する。
 大無量寿経から称名念仏の考え方を導くという手法は、親鸞のオリジナルということはできな
いかも知れない。その考えの芽は善導にある。少なくとも親鸞サイドからはそういえるだろう。
しかし、善導が創設した芽を奇貨とし、親鸞は善導の創作範囲を凌駕して巨大化した。

327 :考える名無しさん:2005/11/28(月) 10:34:49
渡海さんは現在の善智識は居られると思いますか?
居られるならどなただと思われますか?御教示ください。

328 :考える名無しさん:2005/11/28(月) 16:55:29
で、結局人は死んだらどういうことになるんですか?

在ることを証明できない事柄をいくら議論しても意味が無い。
現象学や実存論で「無の世界」、「お浄土」を考えてる人っていますかね?

もっと単純にイス○ムみたいに「死んだら天国行ってそこにはキレイな
ねえちゃんがいてウハウハだぜ!」って言い切ってくれるならそれでいいけど。

329 :考える名無しさん:2005/11/28(月) 17:34:13
>>328
その質問はご法度です。なぜなら今生きている人は死後の世界を見たことが無く、誰も知らないからです。
かといって死んだ人が生きてる人に教えてくれるわけではありません。
仏法を聞く人は皆、必ず救われると思い込んで(結局は皆救われず死ぬのだが)、
その行為で自己満足に浸っているにすぎません。
最終的には自分というものをしっかり持てば、こんなものは必要ありません。
ただこの情報化時代の世の中、なかなかそれが実現できないのは否めません。

ですので死後が救われるとか、地獄だとかはただの空想でしかありません。
ただ過剰な空想を持った人がいろんな教えを作り上げ、何かを信じ救われることで、救われると唱えているに過ぎません。
結局科学的に説明できないことを唱え、心に隙のある人を取り入れているだけです。
自分を不幸に感じている人を狙って勧誘していることは明らかです。
日本でも昔、雨乞いの儀式が行われていたのと同じように、こうした類は科学や心理学の発展で
廃れていることは歴史をひも解けば納得できるはずです。

330 :考える名無しさん:2005/11/28(月) 19:03:26
>>329
見事だね(嫌味でなしに)

じゃあ結局みんな「言葉遊び」ってことでいいんだよねw


僕は最近会社辞めたりいろいろ嫌なことがあって「絶対なる無」に憧れています。
そこは決して陰鬱でも否定的意味を持つものでもない世界であっていわば
「あるべきものが欠けている=無い」世界ではなく「もとから何も無い」世界、、、
どちらかというと般若心経の境地ですがそここそが「Pure Land」なのではないかと
思っております。
そこに行こうとするには何もかもが邪魔、自分の意思=自力本願も邪魔、そういう邪魔を
全て捨て去ることが絶対他力なのではいけね酔っ払あqswで5ftrghjきぉp;

ふじこもでないorz

331 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/29(火) 23:29:30
>>327
>渡海さんは現在の善智識は居られると思いますか?
    いると思っています。

>居られるならどなただと思われますか?御教示ください。
    親鸞聖人です。

>>328
>で、結局人は死んだらどういうことになるんですか?

 亡くなった方と言われるようになる。鬼籍に入る。生きている人と呼ばれる人の
グループから、亡くなった方と呼ばれる人のグループに移る。


 目下、超多忙。しばらくしたらまた書きます。

332 :考える名無しさん:2005/11/30(水) 00:32:48
>>331
>亡くなった方と言われるようになる。

残った人の世界ではね。
逝くものとしては何と呼ばれようとどんなグループだろうと関係ないのよ。

333 :法然:2005/11/30(水) 00:34:50
南無阿弥陀仏を唱えよ。


334 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/04(日) 23:12:39
 念仏を称えよと阿弥陀仏は言っている。親鸞はそういう。しかし、本当に阿弥陀仏はそんなこ
とを言っているのか。そんな話が大無量寿経から導けるのか。そんな話が仮に導けるとしても、
それをもって戒・定・恵という釈迦仏教を解体できるのか。親鸞は珍しい法を説いているんじゃ
ないんだと言いながら、常人などは到底考えも及ばない主張をしてくる。

 如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。

 大無量寿経の主題は阿弥陀仏の本願である。そのあらすじは名号である。親鸞はそういう主張
をしてくる。
 親鸞さんよ。おかしいではないか。大無量寿経には、将来、教壇に立つ若者に向け、教育者たる
ものが持つべきポリシーが書いてある。大無量寿経には著者がいる。阿弥陀仏の本願の実体は、
大無量寿経の著者が抱いた教育理念ではないのか。阿弥陀仏とは、架空の理想的教育者像では
ないのか。現実の大無量寿経の著者という存在を無視し、いきなり阿弥陀仏(真理)の本願である
と、どうしてそんな飛躍した話になるのか。

 親鸞は、真理を擬人化し、真理に阿弥陀物語を重ねた。人格は、意思と行動がある。願とは人格
の行動原理、すなわち意思にあたる。大無量寿経の主題は、真理を人格として捉えたとき、その人
格の行動原理つまり真理が具有する意思を表白しているものであるという。親鸞はそのように大無
量寿経を読んだ。法然上人の教えである浄土真宗では、大無量寿経をそのように考えるのである
。選択本願念仏集の製作を書写し、真影を図画し、自ら専念正業の徳があると大見得を切った親
鸞は、そう主張しているのである。

335 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/04(日) 23:13:13
 書物には、主題とあらすじがある。あらすじのない書物はない。大無量寿経のあらすじは名号
であるとはどういうことか。名号とは南無阿弥陀仏である。つまり、大無量寿経は、南無阿弥陀
仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という具合にストーリーが推移
している。親鸞はそういう。
 親鸞の主張は、誠に奇想天外という外はない。どうしてそんな話に飛躍するんだろう。読めば
分かる。大無量寿経には法蔵菩薩という一人の修行僧が登場する。法蔵菩薩は、世自在王仏とい
う教育者の下を尋ね、教えを請う。諸仏の浄土すなわち様々な学校の様子を教えて貰い、そこか
ら自分が理想とする学校計画を案出する。すなわち四十八願である。法蔵菩薩は、自分が理想と
する学校を創設すると、阿弥陀仏すなわち先生となって多くの人々を教育指導する。大無量寿経
にはこういう話が展開している。
 このあらすじこそ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀
仏である。親鸞は自らの主張を教行信証で展開していく。

336 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 01:32:13
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

337 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 01:33:52
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者

338 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 01:36:32
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円
・HP  http://blog.goo.ne.jp/tkatasi/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://life.2ch.net/psy/kako/1000/10001/1000165825.html
「親鸞仏教論 W」http://life.2ch.net/psy/kako/1012/10129/1012997700.html
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。

339 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 01:37:29
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

340 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 02:25:35
で?

341 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 11:06:56
とうみかた しね

342 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 11:33:55
336以下の書き込み者は渡海氏を大袈裟な像に見すぎている。彼の書き込みは興味深く読ませてもらっている。“興味深く”の意味は、決して彼の思考に全面的賛成ではないし、異論もあるが、しかし一応興味深く読ませてもらっている、という事。

343 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/06(火) 23:27:39
 親鸞は、真理を擬人化し、真理に阿弥陀物語を重ねた。真理には阿弥陀物語
を重ねることができる。人格には意思と行動がある。大無量寿経は、真理が具
有する意思を記載してある。真理が具有する意思は、阿弥陀物語の大無量寿
経から読み取ることができる。これは、結局、親鸞の仮説である。親鸞が死んで
750年近いが、その仮説の本格的な検証はまだ終了していない。僕はそう思っ
ている。
あらすじは名号であるとはどういうことか。浄土教では、大乗の菩薩は、礼拝・
賛嘆・作願・観察・回向という五つの修行を行って大乗の仏になっていく。当然、
法蔵菩薩もそのような道をたどらなければ、仏になることはない。親鸞にとって、
礼拝は南無阿弥陀仏、賛嘆は南無阿弥陀仏、作願は南無阿弥陀仏、観察は
南無阿弥陀仏、回向も南無阿弥陀仏に納まるということなのだ。礼拝から回向
まで全て南無阿弥陀仏に納まるから、大乗の菩薩が大乗の仏になっていく大
無量寿経のストーリーは南無阿弥陀仏すなわち名号であるということになる。
 親鸞の話は飛躍があってややこしい。クイズのようなものだと思うのは、僕だ
けではないだろう。

 「体は名号である」という謎めいた言葉の意味に気が付くのに、僕は20年か
かったんだ(苦笑)。

344 :考える名無しさん:2005/12/06(火) 23:39:09
いい歌舞伎振りですね、
そこまで出来るとなると、
まあ免許資格者かな

345 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/10(土) 23:19:57
渡海 「親鸞さんよ。まあ、いいや。大無量寿経には真理の意思が 記述してある。法蔵菩薩が
 阿弥陀仏になっていく話の流れは南無阿弥陀仏である。こういう話でもいいことにしようや。そ
 れじゃ、それだけ言えれば、釈迦仏教は解体できるのでござんすか?。」
親鸞 「まあ、急ぎなさんな。釈迦仏教を解体しようなんて考えちゃいないんだ。釈迦の教えの
 中には、核心部分と修飾部分とがある。修飾部分はもう時代遅れとなった。しかし、核心部分
 は不滅なんだ。だから、その不滅の核心部分をあぶり出そうというわけなんだよ。」
渡海 「ほほう。それじゃ、その核心部分が大無量寿経だと言うわけだな」
親鸞 「そうそう。おぬしは頭がいいな。」
渡海 「こんなところで褒めて貰っても嬉しくないな(苦笑)」
親鸞 「よく聞きなさい。それ、真実の教を顕さば、すなわち大無量寿経これなり。 〜 大無
 量寿経に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らかな
 る鏡、浄き影表裏に暢るがごとし。 〜 しかればすなわち、これ顕真実教の明証なり。」
渡海 「何これ?。これが証明?」

 親鸞の理屈は突然飛躍する。飛躍するから分かりにくい。しかし、親鸞の頭の中ではきちんと
論理が立っている。我々が親鸞の論理を分かりにくいと感じるのは、彼が立っている論理の基盤
と、我々が立っている論理の基盤が大きく違うからだ。親鸞の立っている論理の基盤をしっかり
認識する必要がある。

346 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/10(土) 23:21:28
 我々の認識では、物事には嘘もあり真実もあるという考え方をする。しかし、平安・鎌倉期の
僧にとって、少なくとも仏の教えに嘘はないというのが前提になっている。仏の教えに嘘がある
と仮定することは、仏教を学ぶ者にとって自己矛盾であるようだ。
 仏教の教えの中には様々な思想が凝縮してある。その中には、互いに矛盾する論説も少な
くない。嘘はないという前提で考えた場合、矛盾する議論の取り扱いが問題になる。そこで、矛
盾する思想の場合、いずれかは真実であっても、それと矛盾する思想は一時的に仮に説かれ
てある思想であると考える。親鸞はこの考えに立っている。
 大無量寿経には、「今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らか
なる鏡、浄き影表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまえること無量なり。未だかつ
て瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。 〜 」などと輝いた様子で釈迦が登場し、
説法をしたと書いてある。嘘はないはずだから、大無量寿経はそのように輝いた様子で説法を
したんだろう。しかも、仮の教えを説くときに、こんな輝いた様子を示すはずがない。だから大
無量寿経は真実の教えである。親鸞はそういう論法を取っている。

渡海 「おいおい。これって無茶苦茶じゃないの?」

347 :考える名無しさん:2005/12/16(金) 00:35:25
>矛盾する思想の場合、いずれかは真実であっても、それと矛盾する思想は一時的に仮に説かれ
てある思想であると考える。

ってこれwwwww何書き並べたっていいwwwwwってことじゃねwwww

>嘘はないはずだから〜

もうね、論理としてボロボロwwww

348 :考える名無しさん:2005/12/16(金) 00:35:55
もち、とうみさんのこと云々じゃないよ

349 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/17(土) 00:07:44
親鸞 「どこが無茶苦茶なんだって?」
渡海 「当たり前でしょう。仏の教えと言われているものには嘘がないという仮定を仮に肯定し
ても、『これは真実の教えである』という内容の文面が形式的に記載してあれば、それが真実
の教えであるということに何でつながるの?。『これは真実の教えである』という内容の文面が
形式的に記載してあっても、それこそが仮の主張であるということは無いのか?。
 しかも、『光輝いた姿で説いていました』という字句が書いてあるということと、『この経は真実
の教えであるという文面が書いてある』ということと、どうしてイコールになるの?。これを無茶
苦茶議論と言わなければ、世の中には無茶苦茶議論などは存在しなくなるでしょ」。

350 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/17(土) 00:08:14
 親鸞の議論は、論証主義的議論ではない。先に結論ありの議論である。そこをしっかり認識す
る必要がある。先に大無量寿経は真実の教であるという結論が決まっている。これは、直感でア‐
プリオリに導入した議論である。その上で、その結論に向けてぎりぎりまで論証を近づけたとい
うことだ。ぎりぎりまで近づけた結果がこの内容である。
 親鸞の議論は破綻しているというのもいい。論証主義的に見れば、誰が見ても破綻しているだ
ろう。「破綻していない」という人がいれば、それは本願寺のお坊さんくらいなものだろう。論証主
義的には、もともと非常に無理な議論をしているのだ。戒・定・恵という三学構造の釈迦の教学を
否定するため、釈迦に代わる教祖を立てる。そのような議論を、釈迦仏教の説明の枠内で行お
うとしている。無理は最初から分かっているのだ。中国に留学して帰国したエリート道元なら、教
外別伝、以心伝心という言葉でまとめるのかも知れない。他人はこれで納得する。しかし、無位
無冠無名在俗の元流刑囚である親鸞には、教外別伝、以心伝心で済ませるという選択肢はな
い。教外別伝も教内で伝達する。大無量寿経は真実の教であるというのは、まさにそういう議論
なのだ。

 大無量寿経は真実の教である。これは正しいか間違っているか。論証主義的なそんな話は問題
ではない。「法然上人が説かれたあの浄土真宗は、大無量寿経こそ真実の教であるという前提で
説かれている教えである」。親鸞はまさにそのように主張し、そこから戒・定・恵という釈迦の三学を
崩していく。

351 :考える名無しさん:2005/12/18(日) 15:20:39
【羊狼】 浄土真宗 燃えスレ  二重  【鳩鷹】
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1057914027/

72 名前: 渡海 難  ◆wd0AE5SZ4. 投稿日: 03/07/13 19:15
2チャンネル敗北撤退宣言

 非常に自由な掲示板は魅力でしたが、これ以上は落ち着いた議論ができま
せん。2チャンネルから去ります。
 2チャンネルでは、良識ある僧侶の方々に、たびたび不快な思いを多々抱か
せてしまっていたことは、この場を借りて心からお詫びします。

 僕は、今後も外部から発言を続けます。インターネットからの発言を止める
つもりはありません。他の掲示板に向かうか、自分で掲示板を立てるか考えま
す。

 私は、仏教界、真宗界に絶望した訳ではありません。良識ある僧侶の方々には、
大いに期待をしております。良識ある僧侶の方々に訴えたい。良識ある僧侶であ
れば、現代の教団のありかた、仲間僧侶のあり方に満足している方はいないと信
じます。現在の僧侶のあり方、教団のあり方に不足のものを感じる方は、どうか勇
気をもって、真剣に改革の声を上げていただきたい。そう念じます。

 これまで、繰り返し繰り返し叫ばれてきた月並みな言葉ですが、敢えて申し上げ
たい。親鸞を敬愛し、蓮如を敬愛し、真の仏道を歩もうとする方々に申し上げたい。
 親鸞に戻ろう。蓮如に戻ろう。親鸞の法を掲げよう。蓮如の心を掲げよう。
 良識をもって真剣に宗祖を敬愛し、その念仏を継承しようと思う方々とは、僕はい
つまでも親愛なる友でありたいと念じます。



しかも、ほとぼりが冷めたと思いこんでまた荒らし回っているDQN

352 :考える名無しさん:2005/12/18(日) 15:22:08
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1046530644/723

トリップのキーがバレる
         ↓
723 名前: 渡海 難 ♯k5arasu 投稿日: 04/03/21 22:30
                  ↑
トリップのキーより、渡海難は荒らしであることが判明

http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1046530644/726

726 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日: 04/03/21 22:46

(中略)

渡海 難  ◆wd0AE5SZ4に関しては、不覚にもキャップを全角で記入して公開してしまいましたので、
今回から、キャップの記載を変えます。

353 :考える名無しさん:2005/12/18(日) 15:24:11
【毛綱】 浄土真宗 燃えスレ  晨朝  【唐門】
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1063987345/495-496

495 名前: 渡海 難  ◆wd0AE5SZ4. 投稿日: 03/10/16 20:12
>>479
>とにかく清澤満之読め

 そんなもんは青二才のあんたが勝手に読んで、感心してればいい。そのうち夢
の中に「清澤満之の霊」がお立ちくだされば、お告げでも戴けるだろう。
 僕は忙しいんだ。しなけりゃならんことは山ほどある。いまさら仏教から学ば
なければならんもんなんか、僕にはもう、何一つ無いんだYO。 

>>480
>この見解では信心はただの習得物って事になるんですけど・・。
  <僕はあんたの家庭教師じゃないよ。分からんことは自分で考えなさいな。>

>>485
>音楽を愛する人が飽き足りなく音楽を聞くことに喩えてらっしゃいましたね。

 地方芸能に説経節というのがあるそうだ。浪曲の原型とも聞いた。
 仏教と芸能とをはき違えてる人は昔からいたようだ。
 クラシックといえば、バッハ・ベートーベンあたりが一流だろう。歌謡曲と言
えば美空ひばりを超える歌手は、まだ出てないようだ。気休め節、能書き節、開
き直り節など、三流ボーズの演奏でも、観客が下痢を起こさない内がお慰みだな。
>>491
> 葬儀屋の道具に成り下がった坊主の道も、もはやこれまでか。報恩講も、もうすぐ。また、いそがしくなるな。もう一つ仕事をやらないと食っていけない現実を本願寺はどうとらえているのか。

496 名前: 渡海 難  ◆wd0AE5SZ4. 投稿日: 03/10/16 20:15
>>495
491に対するコメントは特にありません。マウスが滑った単純誤記です。

354 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/22(木) 20:06:36
親鸞 「議論が破綻している?。う、まあ。破綻しているね。破綻していると言えば、破綻しているね。
 この議論が破綻しているというなら、それ以前に、既に釈尊先生の仏教が破綻しているんだよ。
 厳格な持戒僧で、謹厳実直、万民から尊敬されていたあの法然先生でさえ、流罪になるという時
代だ。釈迦の戒律はもう価値観を喪失した。戒律が崩れれば、三学の一角が崩れる。知恵も古く
なってしまった。正法500年、像法1000年、末法一万年。仏教を修行して僧が社会の指導者、
教育者になるという時代は、もう終わったんだ。
 ただ、終わったのは仏教のほんの一部だということも大事なことだろう。仮の部分が終わったん
だ。高僧を育て、それを社会のリーダとして送り出すという仏教が終わった。しかし、仏教の本質
はそんなところにはない。パン屋さん、おそば屋さん、警備員さん、建築やさんなどが、本当に困
ったとき、一寸先の足下を照らしてくれる仏教は、決して無くなっていない。
 パン屋さん、おそば屋さんは、お釈迦様のような仏様になる必要はないんだ。お釈迦様が500
人も1000人もぞろぞろと人を引き連れてラーメン一杯出前してきたらどうだい。そんなラーメン
なんか、とてもじゃないが食べられないだろう。パン屋さん、おそば屋さんはお釈迦様になる必要
はない。自分が人生で困ったとき、その困難を少しでも軽くできるそんな足下の知恵が自ずから
わき出てくるそんな教えがあればいいんだ。
 困ったとき、気楽な気持ちで座禅して念仏してご覧。きっと知恵が湧いてくるだろう。念仏申せ。
念仏する者は必ず救うぞ。そう教えてくれているお経がある。それが大無量寿経だ。大無量寿経
は素晴らしい経典だ。だから、私はそれを真実の教と名付けたんだよ。」

355 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/23(金) 00:11:11
渡海 「大無量寿経は、念仏を教えている経典ではないと思いますよ」
親鸞 「なるほど。ただ、まあ、それは、経典の読み方の問題だろう。大
   無量寿経は素晴らしいお経だよ」

356 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/25(日) 22:36:20
 教行信証は、教の巻、行の巻、信の巻、真仏土の巻、化身土の巻という全六巻で形成してある。
 真理には意思と行動がある。親鸞は、そのような仮説を立てて真理に阿弥陀物語を重ねた。そ
こから、親鸞は釈迦に代わる仏として阿弥陀仏を立て、釈迦に代えて阿弥陀仏を教祖とする末法
の世の新たな仏教を提唱する。
 真理は、人々に真理を求めさせ、真理を求めた者に栄光を付与してくる。真理は、コロンブスを
西に向かわせ、アメリカ大陸発見者としての栄光をコロンブスに付与している。真理は、ニュート
ンを物理学に向かわせ、ニュートンに万有引力の発見者としての栄光を付与した。

 阿弥陀仏は、人々に称名念仏を勧め、称名念仏する者に称名念仏者としての栄光を付与してく
る。親鸞は、大無量寿経を真実の教と呼称し、念仏を称えよという真理(阿弥陀仏)の言説と、称名
念仏者に与えられる栄光を大無量寿経から説き起こしてくる。
 称名念仏の勧めは、行為論、信心論、結果論という、大きく三つの議論を展開する。行為論は念
仏を称えるという行為を問題とするもので、称える意義と称える方法とを主要な問題として論議す
る。信心論は念仏の心を問題とする。念仏の心は、念仏を称えなさいよと呼びかけてくる呼びかけ
側の心と、呼びかけに応じた念仏者側の心である。親鸞はそれぞれを詳細に論じ、称えたらどう
なるのか、結果論につなげていく。

 親鸞は、多くの先人が様々に念仏を薦めているその言説の中から、念仏を称える意義と方法に
関する議論を選択して抽出する。念仏を称える意義は何か。親鸞はこれを、先人の文献から明ら
かにしていく。念仏を称えると言うことは、仏道界に入ることである。小乗の段階を一気に越えて大
乗段階に進むことである。大乗段階の大乗の菩薩の修行を完遂することである。親鸞はおよそそ
のような主張をしている。念仏を称える方法はどうするのか。念仏は座禅して称える。これが方法
論である。


357 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/05(木) 13:42:58
 念仏を称えるその意義と方法を、親鸞は、大乗仏教の先人の言葉から引用する。意義と方法の
議論が教行信証の行の巻の中心テーマである。念仏を称える意義と方法は、大乗仏教の多くの先
人が論じている。では、こうした先人による意義と方法の議論の本質は何か。親鸞はそれを念仏称
賛という概念から導く。
 偉大な業績あるいは偉大な人物というものは、本質的に称賛に値する。偉大な業績は、人々は真
理を忠実に学び、真理が具有する真理の本質を具体化することで実現する。偉大な人物とは、真
理の本質を具体化した功労者である。真理の本質を具体化する行為こそ、称賛に値する行為であ
り、真理こそが唯一あらゆる人々による称賛に値する。偉大な業績者の称賛の基盤は、真理その
ものにある。真理と称賛の関係はそのように関係づけられるのではないか。親鸞はそのように仮説
しているようである。
 念仏するということは、仏道の世界に正しく加われるということを意味する素晴らしい意味を有する
ことなんだ。念仏するということは、小乗段階を越えて正しく大乗段階に至るという素晴らしい意味
を有することなんだ。念仏するということは、大乗段階の修行を正しく行うという素晴らしい意味を有
することなんだ。大乗段階の修行を正しく行うということは、仏陀になるということと同じじゃないか。
念仏するということは、そんな素晴らしい意味がある。念仏は、座禅して行えばいい。まさにこうした
意義と方法論は、先人達による念仏称賛の言葉に他ならない。
 親鸞は真理を擬人化し、そこに阿弥陀物語を重ねた。親鸞は、阿弥陀物語の中から一句を取り
だす。取り出した一句を念仏称賛の基盤として示し、先人達による意義論と方法論とは、真理その
ものの本質に基づくと説明する。

358 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/05(木) 13:44:23
 真理はあらゆる人々による称賛に値する。阿弥陀仏はあらゆる人々からの称賛を受ける。念仏の
意義論、方法論は、人々による称賛行為である。しかし、念仏の意義論、方法論は、あくまでその称
賛の一部に過ぎない。称賛の全体ではない。それでは、真理が具有する称賛の全体はどこにある
のか。阿弥陀仏に対する称賛の全体こそ、世界中の仏教の歴史そのものである。親鸞は、教行信
証の行の巻を、本と末の二つの議論に分けている。行の巻の本の議論で意義と方法を論じ、末で
は世界中の仏教の歴史を議論し、そこから真理というものを人々が称賛してきた称賛の足跡を明ら
かにする。

359 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/10(火) 00:28:02
 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、
正覚を取らじ。

渡海 「それで、先生は、この言葉が称名念仏の基礎になるというんですね。『南無阿弥陀仏』
  と称えなさいよなどとは、どこにも書いてないじゃないですか?」。
親鸞 「『ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ』とあるだろ。『我が名』、これが
  南無阿弥陀仏だ。」
渡海 「先生。いいですか?。一つ一つ考えていきますよ。大無量寿経の阿弥陀物語が人格化し
  た真理に重ねることができるというのは、どういうことなんですか?」
親鸞 「大無量寿経に出てくる阿弥陀仏というのは、釈迦をモデルにしている仮想の仏陀、つまり
  教育者だろう。これはわかるか?。釈迦は、祇園精舎を建設し、真理に根ざした理想の教育を
  実現したんだ。その釈迦をモデルにして描いてあれば、阿弥陀仏は真理そのものを体現している
  と考えていいんじゃないか。阿弥陀仏の言葉は、真理そのもの意思を表明しているだろう。」
渡海 「ウーン。おかしい。釈迦は真理に根ざした理想の教育を実現したが、その全てが大無量寿経
  に描かれているわけじゃない。大無量寿経は、祇園精舎開校の精神を箇条書きにしてものだ。
  大乗仏教を学んだ教師達は、全国に散って人々を教育する。その時の精神的支柱を書いてある。
  いわば、真理に根ざした理想の教育者釈迦のごく一部が書いてあるに過ぎない。それをもって真
  理の全てを表していると考えるというのは説得性がない。」
親鸞 「おかしいか?。大無量寿経は、人格的に捉えた真理の核心部分を表しているんだ。」
渡海 「ウーン。祇園精舎開校の精神が、真理の核心だというんですか?。その理由は?。これは、
  あくまで先生の主観ですよね。
   まあ、これに対する賛否はちょっと保留させてください。次の問題に行きます。我が名という
  のが南無阿弥陀仏というんですか。これもおかしいんじゃないですか」
親鸞 「まあ、まあ、その問題に行く前に、『たとい我、仏を得んに、 …… 正覚を取らじ』という、
  この構文の意味は分かっているかい?。」
渡海 「あれ?。こんどは逆質問ですね。」

360 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/14(土) 00:18:56
渡海 「『たとい我、仏を得んに、 …… 正覚を取らじ』というあの構造は、
小乗基礎学習を終了し、教育を尊重する大乗の教育者として教壇に立っ
たとしても、教師として未熟な内は、自分は自分で教師として完成したと
は認識しないという意味でしょうね。」
親鸞 「まあ、そういうことだろうね。それで、法蔵菩薩、つまり祇園精舎
を目指した釈迦は、48箇条の目標を自分に課した。大無量寿経の作者
はそう考えたわけだな。大無量寿経の作者というのは、釈迦の弟子だな
直弟子か、孫弟子か、ひ孫弟子かは知らないよ。遠い昔の釈迦を、その
ように観察したわけだな。
 それで、48箇条の目標中、一番大事な目標はなんだと思う。」
渡海 「先生は常日頃、第18番だと言っていますね。」
親鸞 「そうだな。それでも、第18番というのは、本当はおかしいと思わ
ないか?。重要な事項としては、余りにも位置が中途半端だろう。18番と
いうのは、大無量寿経の著者の意思には反しているだろうね。それじゃ何
だった思う?」
渡海 「大無量寿経の著者の意思?」
親鸞 「そうだ。書物には必ず著者がいるんだ。著者の意思を無視して本
を読んじゃいかんのよ。」

361 :考える名無しさん:2006/01/14(土) 00:31:15
これを読めってか?

ごめんだぜ!

362 :考える名無しさん:2006/01/14(土) 00:34:13
渡海難とかいうキチガイはもう来ないでくれ!
ここはお前の脳内妄想を紹介するスレじゃないからな。

363 :初めまして!:2006/01/14(土) 01:05:41
聴きたい人もいますよ。顔が見えんと強いのぉ!!

364 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/16(月) 16:17:53
親鸞 「法蔵菩薩は、四八箇条の決意表明をしている。大乗教育学を修得して教壇に立つ人は、
四八箇条の決意表明を手本として自らも決意し、人々を指導してほしい。大無量寿経の著者はそ
う言っているんだ。
 かつて、浄土教の菩薩達は、自らを阿弥陀仏の生き写しとなり、生きた阿弥陀仏つまり生き仏と
して教壇に立つ。龍樹菩薩も世親菩薩も曇鸞大師も、阿弥陀仏の化身だった。教壇に立つ生き仏
の基本的な腹座りはどこに置くのか。大無量寿経の著者はそれを第一条に書いている。条文を列
挙する場合、全体を総括する事項は第一条に書くのが常識だからね。大無量寿経も、第一条が、
四八箇条に渡る決意表明の総論であり、出発点だ。

 『たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ』。
 これこそが、大無量寿経全体を貫く根本原理でだ。大無量寿経だけじゃないよ。釈迦の開悟以
後、一貫して仏教全体、特に大乗仏教を貫通する大道だと言うことを忘れてはいけない。
 畜生の心で畜生の行為をする者を畜生という。餓鬼の心で餓鬼の行為をする者を餓鬼という。欲
望は大火のように燃え広がっても、身動きひとつできない世界を地獄という。人間にとって、もっと
も愚かで悲しいことは、畜生となり、あるいは餓鬼となり、あるいは地獄の底をはい回ることだ。仏
教の考える教育は、少しでもそういう悲劇を無くそうと考えている。

 基礎的な学習を終了し、教職課程を学習し、先生と呼ばれる資格を得ても、少なくもと自分のクラ
スに地獄、餓鬼、畜生界にある人がいるかぎり、教師として一人前になったと思うのは止めよう。こ
れが大無量寿経の著者が主張する根元的な提案だ。四八箇条の決意表明は、この第一条が大き
く具体的に展開している。」

365 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/16(月) 16:22:58
渡海 「『たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せず
  んば、正覚を取らじ』というのは、十七条ですよね。問題の第十七条はどうなんですか」。

親鸞 「第十七条から二十条までは、第一条の実現手法だ。素晴らしい学校を作ろう。クラスを
  作ろうと思っても、生徒が集まらなければ、そんな決意は絵に描いた餅だろう。どうやって
  人を集めるのか。教師にとって最も重要な仕事は、ます人々から尊敬を受けることだ。人々
  から尊敬を受けるということは、世の中の指導的な人々から尊敬を受けるということだ。世
  の中の指導的な人々から尊敬を受けるような人になって、始めて生徒が集まってくる。つま
  り、第十七条は、自分自身が世の中の指導的な人々から尊敬を受けるような存在になろう。
  そういう決意表明だ。世の中の指導的な人々から尊敬を受けることを放棄した人は、教育者
  にはなれない。大無量寿経の著者はそう言っているんだ。

   世の中に立派な人はたくさんいる。『ああ、あの人は立派な人だ』と尊敬される人はたく
  さんいる。そういう人は、自分自身の人徳で周囲の人にそう賞賛させる。まさに釈尊とはそ
  ういう人だったんだろうと思うよ。」

渡海 「第十七条と念仏とはどういう関係があるんですか」。

親鸞 「真理は人格だ。人格として真理を認識すると、それは阿弥陀物語と重なる構造がある。
  これが親鸞の考えだ。立派な人は、真理を重んじる。真理を軽視する人で立派な人はいない。
   立派な人ほど真理に寄り添って思考し、行動する。立派な人の賞賛の基盤は真理にある。
  『ああ、あの人は立派な人だ』といわせる尊敬の基盤は、真理そのものにある。言い換えれ
  ば、阿弥陀仏にあると言っていいだろう。

366 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/16(月) 16:25:10
 立派な人とは何か。まさに教育こそが、人類のあらゆる価値観の基礎であるというのが大乗仏
 教の基本思想なんだ。教育こそがあらゆる価値観の基礎であれば、もっとも立派な人は教育者
 として存在する。大乗仏教はそう考える。もっとも立派な教育者こそ、最も立派な人格者だ。
 それは、例えばお釈迦様に現れている。お釈迦様は、多くの素晴らしい人材を育てた人類最高
 の人格者だ。

 教育者は何をするのか。人生の中で壁にぶつかり、身動きができなくなった人に光を与え、道
 を明るくする。道を明るくする光は知識であり、知恵なんだ。道を切り開く知恵を与えること
 が、教育者の最大の仕事だ。知恵が与えられれば、人は再び動けるようになる。継続の命を回
 復する。このように教育者は、知識に続けて命を与えてくる。釈迦は、人々に光と命を当たる
 源だった。だからこそ人々は釈迦を先生と呼んだ。限りない光をもたらしてくる先生、限りな
 い命をもたらしてくる先生と呼ばれた。釈迦は、無量光仏、無量寿仏と呼ばれた。

 浄土教は、もっとも立派な人格者の中に無量光仏、無量寿仏を認識する。古代印度の言葉でア
 ミターパ、アミターブハ、阿弥陀仏という。感嘆詞ああは、サンスクリット語でナーマスとい
 う。南無というんだ。
 真理は、世の中の指導的な人々に、その人格をもって「南無阿弥陀仏」と賞賛させる。南無阿
 弥陀仏と称えることは、真理を「南無阿弥陀仏」と賞賛する人々の仲間に参加することだ。親
 鸞はそう考えるんだ。」

渡海 「これは、親鸞先生の独自の考えですよね」。

親鸞 「どの様に考えるのもいいが、法然先生から貫いてきている考えだと言っておく」。

367 :考える名無しさん:2006/01/16(月) 17:04:29
浄土真宗は経典が基本的に3つでシンプルだ
しかも他力本願なので信だけで救われる
信者さんは他の神仏はかたくなに拝もうとしないのかな?

368 :考える名無しさん:2006/01/16(月) 18:23:25
>>363
omaemona

369 :363desu:2006/01/16(月) 23:20:00
ieteruna

370 :考える名無しさん:2006/01/16(月) 23:52:53
親鸞ってつまるところ開き直った俗物なんじゃないかな。
自堕落なところを阿弥陀仏への忠誠で融和させている。
それでも念仏以上の修行はしないという。

371 :考える名無しさん:2006/01/17(火) 07:53:41
>>367
>しかも他力本願なので信だけで救われる
>信者さんは他の神仏はかたくなに拝もうとしないのかな?

南無阿弥陀仏の称名は阿弥陀仏(真理)へ依ってたつ表明でしょう。
自分という煩悩具足の身と真理とを見比べながら生きていくことが肝要であるということ。
煩悩という大きな氷の塊も真理の光を受けること(他力)により少しずつ解けていく。
自力では千人に一人、万人に一人の修行者しか煩悩を消すことは出来ない。
だから、一般民衆の救済には他力しかないということからスタートしていますよね。
また、鬼神などの二元論的な対象物にだけ「すがる」宗教とも違いがあります。
阿弥陀仏像や阿弥陀仏の絵が描かれた本尊は単なる象徴で方便。
本来は南無阿弥陀仏の六字名号を本尊とすべきなのです。

372 :考える名無しさん:2006/01/22(日) 18:05:36

「信心」を専門家(貴族出身の僧侶)の占有物ではない、

大衆のものとしたのが法然上人、

親鸞聖人はそのインスピレーションを徹底的に体系化した。

373 :考える名無しさん:2006/01/22(日) 19:30:40
浄土教は中国からあるわけでしょ
徹底したと言えば経典すら持たずに遊行した一遍はさらに徹底してるんじゃないか?

374 :考える名無しさん:2006/01/22(日) 20:35:34
中国浄土教と日本浄土教はちょっと違うらしい

375 :考える名無しさん:2006/01/22(日) 21:19:43
他力本願ですべてを阿弥陀様のほうへ投げているわけで
徹底的な体系化をした気はしないな。
おそらく思考の徹底性では道元
思考の体型性では空海のほうが優れてる。
親鸞は何かというとやはりそういう生き方を選んだ倫理の人で
その倫理性が現代人にも通じるのではないか。

376 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/23(月) 00:25:19
 大無量寿経の著者は、未来の教育者に、賢人達から尊敬される人になれと教えている。これが
阿弥陀仏の第十七の願だ。法蔵菩薩は、教育者になろうとするにあたり、賢人達から尊敬される
人になろうと決意している。親鸞はこの記述から、真理はあらゆる賢人達から「南無阿弥陀仏」
「ああ先生」と賞賛されているという理屈を導いている。
 親鸞の思想はおかしい。大無量寿経の意味を逸脱している。そのように考えることも、必ずし
も不当なこととは僕は思わない。親鸞の思想は、一貫して極めて技巧的である。新古今和歌集が
完成したのが1205年、この年に親鸞は三十三歳、法然の選択本願念仏宗を書写している。非
常に技巧的な理論が尊重されていた時代背景を僕は感じる。
 世の賢人達は、悉く南無阿弥陀仏を称えている。親鸞の理屈を突き詰めていけばそういう理屈
になるだろう。言い換えれば、我々が南無阿弥陀仏を称えることは、そうした賢人達の世界に参
加することなのだ。南無阿弥陀仏を称えることは、凡夫の行為ではない。まさに賢人達の行為を
行為することである。親鸞はそのような主張をしていると僕は考える。
 
しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。
称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南
無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。

 念仏は、賢人達がまさに賢人になっていく行為であり、念仏を称えるとは、賢人達がまさに賢
人になっていくその働きの中に参加する行為である。僕は親鸞の考えをそのように理解する。

377 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/30(月) 19:32:52
 この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけん。世間道を転じて、出世
上道に入るものなり。「世間道」はすなわちこれ「凡夫所行の道」と名づく。転じて「休息」と名づ
く。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す。これを「凡夫道」と名づく。
「出世間」はこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、「出世間道」と名づく。「上」は、
妙なるがゆえに、名づけて「上」とす。「入」は、正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。
この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく

 賢人は真理を尊ぶ。賢人は阿弥陀仏を賞賛する。賢人達は、どのように真理を尊び、阿弥陀
仏を賞賛しているのか。親鸞は、無数の賢人の中から六人を選び、それを時代順に並べて、真
理を尊んで阿弥陀仏を賞賛してきた歴史を紹介する。龍樹、世親、曇鸞、道綽、善導、法照で
ある。
 龍樹(西暦150〜250) 初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した人物である。
大乗仏教では、釈迦に次ぐ第二位の高僧である。
 親鸞はこの龍樹から、念仏をすると初地に入るという概念を導いている。

 親鸞「この菩薩、つまり、念仏を称える者は出世上道つまり、大乗の位に入る。大乗仏教の入
口は、般舟三昧と大悲から生まれる。龍樹先生はそう言っているんだ。小乗の段階を越えてい
きなり大乗の段階に入る。これが念仏なんだ」。

 渡海「それはちょっとおかしいんじゃないですか?。念仏の話なんか、どこにも出てきてない
じゃないですか?。」

 親鸞「そんなこたぁ、ないだろう」

378 :tomato:2006/01/30(月) 19:59:12
一生懸命勉強しているのは分かるが親鸞がぜんぜん分かっていない

379 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/11(土) 00:40:10
 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を読もう。十住毘婆沙論にはなんて書いてあると思う?。龍樹菩
薩と言えば、釈迦に次ぐ仏教の歴史的聖者だ。その人が念仏をどのように言っていると思う?。
読んでみようじゃないか。

 般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく。般舟三昧つまり念仏行と、大悲つまり念仏の本願が
諸仏を育てる家である。賢人、哲人は、この念仏行と念仏の本願を家として生まれる。
 この中に般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。般舟三昧つまり念仏行は賢人、哲人を生み出
す父である。大悲つまり念仏の本願は母である。
 般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。別の考え方をしよう。般舟三昧つまり念仏行は
父、無生の法の認識つまり念仏の信心は母である。賢人、哲人は念仏行と念仏の信心を家として
生まれる。
 家に過咎なければ家清浄なり。家庭というものは、父母が正しければ正しい家となり、立派な子
が誕生する。般舟三昧、大悲、無生法忍は真実の教えであり、ここに誤りはない。念仏行・念仏の
本願・念仏の信心は真実である。真実であれば清浄である。
 清浄と言えば六波羅蜜・四功徳処である。六波羅蜜は方便般若波羅蜜を含む。つまり念仏は方
便般若波羅蜜、知恵を備える。
 方便般若波羅蜜は善慧なり。つまり知恵である。念仏には知恵と大悲がある。知恵と大悲があ
れば、仏が誕生する。
 この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなけん。念仏を称える者には、般舟
三昧、大悲、無生法忍、六波羅蜜、四功徳処など、真実の諸法が揃う。真実の諸法が揃うからこ
そ、念仏者は世間道つまり小乗の道を越え、出世上道つまり大乗の道に入る。
 この心をもって初地に入るを歓喜地と名づく、と。念仏を称える者は、こうした心を持つからこそ、そ
れだけで歓喜を得る。歓喜地に至る。つまり、大乗の第一段に入る。

 ほらみろ、念仏だけで大乗に至り、大乗の第一段に至ると言っているじゃないか。

380 :考える名無しさん:2006/02/11(土) 07:05:46
『十住毘婆沙論』って龍樹作か疑われてるいわく付きの書ですよ。
龍樹作として世親を合わせても善導までは浄土論は彼らの仕事のごく一部に過ぎない。

381 :考える名無しさん:2006/02/16(木) 22:01:25
いおうにむにん

382 :考える名無しさん:2006/02/16(木) 23:55:56
曇鸞第三祖が唱名念仏を教義の中心に据えたのは間違いない。

383 :考える名無しさん:2006/02/17(金) 21:31:15
親鸞の信心って、最終的にどういうスタイルになるんでしょうか。


384 :masami:2006/02/19(日) 02:33:53
親鸞の宗教思想ってなんですか?

385 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/20(月) 16:46:35
>>380-384
 問題の所在は了解しました。少し多忙です。できるだけ分かりやすく回答します。
 2〜3日待って下さい。


386 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/21(火) 13:25:37
>>380
>『十住毘婆沙論』って龍樹作か疑われてるいわく付きの書ですよ。

 こういう理論は、当方では確認できない。最近の仏教学研究の結果、龍樹作を疑うような説・又は
証拠が出ているのだろうか。昔からあって、それを浅学な僕が、単に知らないだけなのか。僕には
分からない。
 十住毘婆沙論が龍樹作でなければ、確かに別の意味で話は面白くなる。では、本物の著者は誰
なのか。そんな考えが広がっていく。まあ、今の僕には追求する手段がない。どなたかご存じな
ら、このスレ以外の所を介して教わりたいものだ。

>龍樹作として世親を合わせても善導までは浄土論は彼らの仕事のごく一部に過ぎない。

 言っている意味がよく分からない。単なる勘違いなのか、深い意味のある別種の主張であるの
か。よく分からない。
 
 「浄土論」という著作があることはご存じない方なのだろうか。「浄土論」は世親の著作である。
浄土論の著作は龍樹や善導の仕事ではない。全部どころか、一部だって龍樹や善導は浄土論
の著述に関与していない。浄土論の著述に、一部でも龍樹や善導は関与しているんじゃないかと
いう、そんな疑いを持っている人は、恐らく世界中、どこにもいないだろう。

 ただし、「浄土論」の著述に曇鸞が加わっているんじゃないかという疑問は持つ余地がある。
浄土論は原本が見つかっていない。恐らく、オリジナルは梵語だろうが、梵語原本どころか、原
本を訳した漢文の書も見つかってないそうだ。現在、「浄土論」として出回っているのは、曇鸞
が書いたと言われている浄土論註から推測的に後の学者が編纂したものだそうだ。
 その意味で、「浄土論」の著述に曇鸞が関与しているという推測は決して不当なものとは言え
ないだろう。


387 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/21(火) 13:27:17
 曇鸞が浄土教の高僧であることは疑いないと思う。果たして龍樹や世親が浄土教の高僧として
位置づけられるか。これは問題がありそうだ。浄土教とは何かという定義の問題とも絡むので、
簡単には言えないが、親鸞が引用した部分の十住毘婆沙論は、僕は浄土教の議論であるとは思
えない。親鸞が引用した部分で考えれば、龍樹は浄土教の祖の一人という位置づけは賛成でき
ない。
 本当は、世親も同じようなことが言える。浄土論が世親の著作であるという仮説を肯定すれば、
世親は浄土教の思想家であると言える。しかし、原本が無い以上、安易に結論づけることはでき
ない。世親の他の著作と浄土論との類似性、親近性はどうなんだろう。世親の他の著作と浄土論
とは、同一人物の著作とは思えないという主張を聞いたことがある。そのときはそれ以上の確認
はしなかったが、浄土論は唯識を論じるような人からは生まれにくいのじゃないかという疑問は、
僕に対しては直感的に説得力がある。
 それじゃ、浄土論を書いたのは誰?という問題になる。まあ、それは教行信証の問題ではない。
ここでは、親鸞の思想を外側から批判するのではなく、生身の親鸞は何を考えていたのかという
ことを考えていきたい。

388 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/22(水) 08:52:26
>>382
>曇鸞第三祖が唱名念仏を教義の中心に据えたのは間違いない。

 称名念仏というのは、天台・浄土の独占ではない。阿弥陀仏に限定しなけれ
ば、禅でも真言でも行う。日蓮は経典の名を称える。経典の名を称えるという
修行方法は、観無量寿経が起源だと思う。観無量寿経が起源なら、日蓮の唱
題は称名念仏の一変形だろう。

 仏の名を称えるという行法が登場する文献で最古は、恐らく阿弥陀経だろう。
阿弥陀経はサンスクリット語原典があるそうだから、仏の名を称えるという行
法はインドで発生したものだと思う。南方仏教でも古くから深く浸透している。
称名念仏は、古代インドで発生し、仏教全般で、非常に普遍的なものだ。起源
は、釈迦以前のバラモン教の中にあるのかも知れない。
 曇鸞は中国の古代の高僧だ。当然、称名念仏は修行していたと思う。しかし、
教義の中心に据えていたかどうかは分からないだろう。僕は、浄土論註以外
の曇鸞の文献を知らない。浄土論註は観念仏を教えている。称名念仏につい
ての記述はない。曇鸞は、自分でも称名念仏を行い、お弟子さんには口頭で
勧めていただろう。しかし、教義の中心に据えたという証拠は無いんじゃない
か。
 浄土教というものを、親鸞フィルターを通して概観するのは結構だが、親鸞
フィルターを外して考えることを忘れると、大事なものが見えなくなる。本質を
見失う。


389 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 10:38:13
>>383
> 親鸞の信心って、最終的にどういうスタイルになるんでしょうか。

 僕はあくまで僕の信心を語る。信心を得てない者の信心論はデタラメだ。僕はそう思っている。
信心は、信心のある人だけが語れる。渡海難は信心を得ているか。これは、僕にとって非常に難
しい問題だ。信心がなければ、渡海難が語ろうとしている信心論は的はずれということになる。
信心を得ていれば、それなりに説得力のあるものだろう。

 僕はあくまで僕の信心を語るんであり、他人の信心は基本的には語れない。僕は、僕の信心を
明らかにする。しかし、親鸞も僕も、同じ南無阿弥陀仏を称えている。称えている体は共通だ。
二人とも心臓は一つ、肺は二つ。僕の血液型はA型、親鸞の血液型は知らないが、機能は大同小
異だろう。親鸞は、大量の遺文を残してくれている。親鸞の主張に共鳴できるところは非常に多
い。

 僕は、浄土真宗の信心と禅宗などの見性と、本質は同じだと思う。座禅して念仏せよ。親鸞は
そういう(行の巻)。禅の坊さん(総持寺)はこう言う。念仏して坐禅しなさい、と。座禅して念仏した
結果と、念仏して坐禅した結果と、内容が異なればおかしなことだ。ただ、真宗はそれを見性とか
開悟とは言わない。信心という。禅も真宗も同じ仏教である。だから、向かっているものは基本的
には同じだと思う。親鸞は、釈迦が発見した悟りを非常にコンパクト化し、パン屋さんや、おそば
屋さん、郵便局員さんにもできる限り手が届くようにした。だからこれは僕にも手が届く。

 信心の有無は、信心のある人が相手を見定めて分かるものだ。信心のない人には、相手の信心
の有無は分からない。だからこそ、禅宗では師匠の印可を得ることを非常に重要視する。真宗に
はこの印可制度がない。結局真宗は、相手の信心の見定めが非常に曖昧になっている。いい面と
悪い面とがある。

390 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 10:40:16
 僕は、親鸞や蓮如の書いた物が透き通ってみえる。書いた本人の言っていることがよく分か
らないところもあるが、よく分からないところもありながら、その向かおうとしている先は見える
感じがする。つまり、透き通っている。ある程度先人と同じ価値観、同じ世界観にたてている結
果なんだろうと、今の僕は勝手に思っている。透き通ってみえるとはどういうことか、ここはも
っと説明する必要があるけど、それは別の機会にさせてもらう。透き通っているというのは、僕
は始めて使った言葉で、僕の中ではもっと熟成させたい。

 複数の選択肢に出会った場合、最悪の選択肢だけは選択しないで済む。困ったときには念仏を
すればいい。僕はそういう確信を持っている。念仏をすればいいとは、最悪の選択肢だけは選択
しないで済むようになったということだ。正確に言うと、今の僕は自分の人生にそういう感触を得て
いるということだ。
 最善の選択肢が常にみつかるというそんなうまい話ではない。最悪の選択肢以外の選択肢が外
になければ、最悪の選択肢以外には選びようがない。人生には、最悪の選択肢以外には外にない
という場合もあるだろう。そういう場合にはやむを得ない。しかし、複数の選択肢があるなら、最悪
の選択肢だけは選択したくないものだ。

 困ったときには念仏をすればいい。自分の精神状態の中で事態が混乱して見えている場合、念
仏すると混乱状態が透明になってくる。透明になると入力済みの情報が整理される。ただし、念仏
で新たな情報が入力されるわけではない。だから、最善の選択肢が常にみつかるわけではない。
透明になれば、入力済みで忘れていた情報は思い出してくる。入力済みの情報相互が回路でつな
がる。最悪の選択肢だけは選択しないで済みそうだとは、そういうことだ。入力済みで忘れていた情
報を思い出したり、回路がつながる減少を、僕は小悟と言っている。

391 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 10:40:58
 困ったときには念仏をすればいい。こういう確信が得られることは非常に意義がある。思い切
った挑戦ができるようになるし、ある程度の苦難にも耐えられる。苦難に耐えられると思えば、
挑戦もできる。

 「回心ということ、ただひとたびあるべし」。歎異抄はそういう。歎異抄の著者はどういうつ
もりでこれを言っているのか、いまいちよく分からないが、心に響いてくるものがある。日本語
でも、目の前が一瞬明るくなったという言い方をすることがある。明るくなるとは、僕はこれを
比喩だと思っていた。しかし、現実に目の前が明るくなった。確かそれは半日くらい続いた。恐
らく、肉体的には瞳孔がいつもより数%広がっていただろう。しばらく体が温かかったのは、血
圧も上がっていたんじゃないか。
 「なーんだ念仏だけでよかったんじゃないか。親鸞はこれを言っていたんだな」。非常にうき
うきした感じになった。「なーんだ念仏だけでよかったんじゃないか」という非常にうきうきし
た感じは、「浄土真宗はひっくり返るぞ」という小気味よさの感じが織り交ざっていた。親鸞・
蓮如の言っていることが透明になってきたのは、その後だ。
 このときの体験は、禅が言ういわゆる大悟というやつなんじゃないか。僕は勝手にそう思って
いる。まあ、大悟じゃなく、中悟、小悟、あるいは妄想かもしれない。しかし、それを禅の坊さ
んに確かめようと思ったのは、数年後だった。禅寺に通ったんだが、結局色んなトラブルがあっ
てタイミングが悪く、聞きそびれた。その内、僕は病気になり、手術をし、脚が曲がりにくくな
って禅寺とも縁遠くなった。引っ越しもあって、ついに確認が取れなくなった。いまでは、禅の
坊さんに確認するのも面倒になった。

392 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 10:42:00
 まあ、大悟でもあってもなくてもいい。困ったときには念仏をすればいい。念仏があればある
程度の苦難にも耐えられる。最悪の選択肢だけは選択しないで済みそうだ。気持ちが混乱しても、
もつれた糸は念仏で整理がつく。こういう確信は今の僕にとって非常に重要になっている。僕は、
最近、五分でも十分でも念仏を称える。可能なら1時間位称える。そうしないと逆に気分が落ち
着かない。そうした中で、僕にとっては非常に重要ないろんな発見ができている。 
 郵便局員さん、警備員さん、掃除屋さん、パン屋さん、おそば屋さん、そんな人々に、座禅し
て念仏してみませんかと親鸞が提案したくなっている気持ちが、僕には分かる感じがする。人に
は誰でも困難にぶつかるときがある。そのとき、もつれた糸が透き通って見えてくることがあれ
ば儲けものでしょう。僕には親鸞のそんな声が聞こえている。

393 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 11:20:58
>>389
誤 信心を得てない者の信心論はデタラメだ。僕はそう思っている。
  信心は、信心のある人だけが語れる。

正 親鸞の信心を語っても、自分が信心を得てなければ、そんな信心
  論はデタラメだ。僕はそう思っている。親鸞の信心は、同一の信心
  を得た本物の信心のある人だけが語れる。

誤 渡海難は信心を得ているか。
正 渡海難は、本物の信心を得ているか。


誤 渡海難が語ろうとしている信心論は的はずれということになる。
正 渡海難が語る親鸞の信心論は的はずれということになる。

394 :考える名無しさん:2006/02/24(金) 15:41:31
渡海さんに提案。親鸞思想からみた時代、として、現在発生する事件へ、親鸞ならこう言うだろう、ていう感じで書いてみてはいかがでしょう。例、酒鬼薔薇聖斗事件、少年たちによるホームレス暴力殺傷事件。

395 :考える名無しさん:2006/02/24(金) 15:44:19
或いは、ネットによる集団自殺、実娘による実母毒殺未遂事件、などなど。

396 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/24(金) 19:22:16
>>394
>親鸞ならこう言うだろう

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
 やむを得ない事情が生じれば、人はどんなことでもしてしまうでしょう。

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
 何が善なのか、何が悪か、私には分かりません。

たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
 あなた方が私に聞くことは、往生極楽の道です。人には実に思いがけないことが生じるもので
す。今は平和でも、いついかなる時にどんなことが起きるか分かりません。私に聞く事は、あな
た方ご自身の、自分の危機管理の方法です。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶ
りて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 親鸞がお教えできる危機管理の手法はただ一つです。それは、ただ念仏ということです。念仏
しなさいよと教えて下さった法然上人の仰せをそのまま信じる。その外にはありません。これが
私のお伝えする危機管理の手法です。

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと
 この先は、あなた方お一人お一人の選択です。親鸞流の危機管理に共鳴して念仏を称えるのも
自由。選択しないのもあなた方お一人お一人の自由です。

 人には二つの大きな仕事がある。それは危機管理と平生管理です。親鸞は、危機管理の専門家。
それ以外のことについては何も語っていません。
 酒鬼薔薇聖斗事件・ホームレス暴力殺傷事件・集団自殺・実母毒殺未遂事件などは、社会問題
です。それは、事件の当事者として、まさに我が身に降りかかれば危機管理でしょう。しかし、
当事者以外であれば、それは平生管理の問題です。それは親鸞専門ではない。畑違いの問題を親
鸞に聞いても、有意義な回答は出てこない。現代の平生管理の問題は、親鸞に聞くことではなく、現
代の我々が回答しなければいけない問題です。

397 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 00:22:35
渡海さんが引用した親鸞の言葉は色んな意味があると思います。色んな読み方が可能と思います。例えば“切っ掛けがあれば人間はどんな事でもやるもの”とありました。あれは、凶悪事件の犯人を自分とは別世界の人間とする見方とは明らかに違いますね。→

398 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 00:33:53
→つまり、我々の中の思考の操作、それにより安易に始末しようとする思考、その共同主観に風穴を開ける力がありますよね。あれは人間の行為に対する貴重な示唆だと思います。次に凶悪事件の加害者があるわけですが、加害者に対し、親鸞が何を言うだろうか、に興味が→

399 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 00:39:19
→ありました。それは悪を為した実存の救済の問題かと思えます。あの人達に救いがあるのか、てことです。これについて親鸞が何を言うだろうと思えた。それは社会問題でなく悪を為した人間は救われるか、て問いだと思います。我々は生の中で、→

400 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 00:49:16
→様々な悪を現したり、心に抱きながら生きている。誰かを殺したいと願ったり、憎んだり、荒み切った心で生きていることもままある。人としては堕ちる一方なわけです。信仰なんかカケラもない。むしろ馬鹿にしている。そんな人間は親鸞によれば救われるのか。

401 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 02:22:28
親鸞の時代て近代病院もまともな司法立法行政の
システムもないから、飢饉で餓死したり
子供を捨てたり殺したり売ったり、女は強姦されたり殴られたり
病人は差別されたりで、現代の世界が特別ひどいとは思わないん
じゃないかな。
サイコキラーやシリアルキラーの病気は昔からあったみたいだし。

402 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 10:52:24
それ↑に倣えば、荒れた時代に人々が浄土信仰にこぞって向うのかと言えば、そうではない訳でしょう。むしろ“何が浄土だ、馬鹿か”“死ぬまで念仏唱えてろW”的嘲笑は当時からあったのでは、とも思える。親鸞思想がそんな無信仰の時代をどう超えようとしたのか。

403 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 10:58:41
て言うか、親鸞の残した言葉に無信仰の時代は明らかに自覚され、意識されていたと思えるフシはありますね。唯円との対話で唯円が“念仏を唱えてもちっとも歓びが涌かない”と悩みを打ち明ける場面があります。それに親鸞は、だからこそ余計に往生は一定、と答える。

404 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/26(日) 14:50:57
>>399
>あの人達に救いがあるのか、てことです。
  救われた悪人と、救われてない悪人とは、何か違いがあるの?

>>400
>救われるのか。
 人は救われるとどうなるの?。救われた人と、救われてない人とは、何がどう違うの?
 救いって何?

>>401
>現代の世界が特別ひどいとは思わないんじゃないかな。

劫濁(戦争<アフガン・イラク・対テロ等々>、疫病<鳥インフルエンザ、エイズ、石綿被害>、
飢饉<北朝鮮・アンゴラ・ソマリア>、天災<地震・洪水・豪雪>)
見濁(拝金主義<ホリエモン現象>)
煩悩濁(貪り<拝金主義≪ホリエモン現象≫>、怒り<奈良≪騒音おばさん≫>、愚かさ<幼児
悪戯、誘拐殺人>)
衆生濁(子殺し・子供虐待)
命濁(短命化<年間自殺者3万人>)

405 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/26(日) 14:51:29
 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁、これを五濁という。社会の五濁を何とかしないと、今後
大変なことになる。五濁の世界はどうすれば立ち直れるのか。松下幸之助さんの答えは、電器メ
ーカを創建して人々に物質的豊かさをもたらすことだった。平山郁夫さんは、素晴らしい絵画を
世の中に送り出すことだった。小泉純一郎さんの答えは、規制緩和を実現して活気のある社会を
作ることだった。親鸞の答えは何だったのか。電気器具を作ることでもなく、絵画を描くことで
もなかった。社会教育者のプロとして、危機管理の手法を教えることだった。人々に念仏をすす
めることだったということでしょう。
 みんな五濁と必死に格闘している。貴方は五濁とどう戦いますか?。親鸞は、我々にそう聞い
ているんでしょうね。


>>403
>親鸞の残した言葉に無信仰の時代は明らかに自覚され、

 親鸞は、無仏の時代という意識を持っているようです。現代には優れた教育者がいない。あの
法然先生でさえ流罪となるような時代だ。優れた指導者は実現しない。その中では、人々は何を
学んでいけばいいのか。いつでもいい、どこでもいい。念仏を称えてごらん。素晴らしい人生が
開けてくる。親鸞は、草の根の社会教育者の道を選んだんでしょう。

406 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 17:55:34
>>404
現代も 五濁悪世っちゅうわけですな

407 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 18:00:17
オレは、管理とかよくわらかないんだけど、

「何かのため」ためにする念仏じゃないって気がするのよね。
それなくして、命が一時も立ち行かない。行き場のない、
善でも悪でも喜びでも怒りでもない、名付けられない胎から噴出すエネルギーが
六字になって飛び出てくる、みたいな。


408 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 18:50:40
“この世界にはびこる悪を何とかしないと今に大変な事になる”ていう発想を親鸞が採っていたか。という所。“世の中を変えて行こう”という発想は親鸞のものなのだろうか。そもそも、一人の人間を変える、或いは自己変革ていう考えが親鸞にあったか、疑問です。

409 :考える名無しさん:2006/02/26(日) 18:59:26
同様に“社会教育のプロ”も同じです。そこは渡海さんの独特な読みかと思いますが。つまり、親鸞は現世に適応できる、適応できない、て所を問題にしてないと思うんです。適応できる方が人として価値が高い、とかね。

410 :考える名無しさん:2006/02/27(月) 22:21:44
渡海難とかいう基地外が一人で自作自演してるスレはここですか?

411 :考える名無しさん:2006/02/27(月) 23:39:58
>>404
いや、日本の社会問題の話でしょ。
昔の日本は、生まれた子供が病気でバタバタ死んでたから人口が増えなかった。
今は医療が発達して、昔だったら死んでいたような弱い子供も簡単には死なない。
拝金主義の時代と言っても、それは一部。フリーターが増えて年収300万以下の
人が増えている。莫大な資産(同時に負債も)を得ているのは一部の人間。
大災害に遭っても日本では強奪や餓死もほとんど起きない。
統計のとり方をかえれば少年犯罪は減っている事になっているしね。
マスコミは不安を煽ってばかりいるが、今の日本社会はそれほど悪くない。
なぜ不安を煽るのか理解に苦しむ。

412 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:45:14
『歎異抄』の中に、次のような箇所があります。
《慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある。
聖道門の慈悲というのは、一切のものを、あわれみ、いとおしみ、養い、育てることである。しかし思うとおりに助けとおすことは、極めてまれである。→

413 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:49:16
→浄土門の慈悲というのは、念仏によって速やかに浄土に生まれ、仏となって、そのうえで仏の大慈悲心をもって、思いのままに、生を享けた一切のものにめぐみを与えることをいうのである。
この世に生を享けたこの身のままでは、どのように可哀相だ、気の毒だと→

414 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:52:32
→思っても、思うようには救うことはできないから、この種の慈悲は不徹底である。こうしたわけだから、念仏を称えることだけが、徹底した大慈悲心なのである。
と聖人は仰られた。》
 このような文言から何が読み取れるのかといえば、→

415 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:57:32
→人間の思考・善悪と、仏の思考・善悪のその規模のとてつもない隔たり、ということかと思えます。たとえば、人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力が、それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられるでしょう。→

416 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:03:33
→それが社会運動や政治運動でも、或いはもっと身近な教育を取ってみてもいいです。人間の及ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある。しかもそれを生じさせるプリズムを人間が見通すことは極めて困難だと云える。→

417 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:15:46
→また、我が身可愛さを簡単に捨て去る事も難しい。つまり、人間の思考や判断や行為やがたえず何らかの有限性に付き纏われるという点に親鸞は行き着いていた、と思われます。そうしますと、その他力信仰の根幹が念仏なので、日常における何らかの効果に意義を→

418 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:18:58
→還元するのはまずいのではないか、とどうしても思えるのです。余りにも現世での効果って場所へ念仏をですね、置き過ぎていはしないか。てことです。そが最も抵抗を感じるところです。

419 :考える名無しさん:2006/02/28(火) 19:58:06
私も還元されないと思います

420 :考える名無しさん:2006/03/01(水) 22:04:43
私にとって親鸞は懐かしい人それが一番の感覚。理屈なく御念仏すればいい。。阿弥陀如来様は自分の死後お助け下さる事、そのお助けの保障が御念仏であること。親鸞は一緒に苦しい現世を歩いてくださる人。これだけで私には充分です。


421 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 03:54:09
今の真宗の坊主はだいたいがだめ。そもそも自分で修行をしてない。親鸞は
長い修行をしている。そして、すべて2げん対立で考える。貧乏人とかねもち、
あほとかしこ、そして、阿弥陀仏の慈悲は貧乏人にもあほにもふるそそぐと
説明する。真宗はどこかでマルクス主義のルサンチマン思想が紛れ込んで
主流になったとしか思えない。そして、真宗僧はどの宗派より、勉強して
なくてぐうたらで自己弁護している奴が多い。本来の他力のはき違え。
他力他力といって、毎日の人間的努力も否定する連中に、親鸞を語る
資格はない。真宗マルクスはから脱皮しないとただのぐうたらルサンチマン
宗教に堕したまま。荒行に耐えた真宗坊主が他力を行ってはじめて
説得力がある。

422 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 16:11:46
421のいうとおり。だから、親鸞が偉くても真宗教団の連中に全く魅力
がないのでは。また、親鸞の教えが残っているのは、市井の素晴らしい
念仏者がずっと世の中で苦労して、他力に行き当たり、救われて、引きついて
来たのであって、僧侶が残してきたのではないと思います。

423 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 18:03:06
で、おがむ時は南無観世音菩薩か南無阿弥陀佛って
唱えればいいんか?

424 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 18:55:54
南無阿弥陀仏の一択本願ですよ

425 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 20:14:12
貴族は救われるけど、庶民は地獄行き、ってのがお決まりだった平安末期。
誰でも本願を信じれば救われる、といったら
庶民が救いの目当てであることは明白では?


426 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:07:02
だが「救いの平等」というものは、ともすると現実の不平等を隠蔽する装置として利用される可能性が少なくない。
「最終的にはみんな成仏するんだから、現世での不平等は我慢しなさい」という具合に。

427 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:22:44
>>426
理論的には「救いは平等」だけど、
信心はそれぞれが獲らなければならんということです。

>>420
ルサンチマンというけど、戦国時代とかをみると、自立・自治の方向に
向かっていて、必ずしもルサンチマンとか諦めとかには機能しなかったようだ。
ルサンチマン思想があるとしたら、近世宗学の問題なのだろうか。

妙好人とか、安心しきるところまではいいけど、
そのあとの展開はどうなるんだろうと思ってしまう。
戦国時代に妙好人っていたのだろうか。

428 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:32:13
極楽浄土は厭離穢土とセットでしょ
現世に執着のある現代人にはちょっと微妙だな

429 ::2006/03/02(木) 21:46:52
救いとは阿弥陀如来様に護られている絶対的安心感ですよ。人は裏切るけど仏様は裏切らないし、現実の不平等よりもっと大きい仏様の安心に住むほうが私には一番大事。

430 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:58:07
>>429
なるほど。

431 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:33:35
現世への執着が強い事は親鸞思想にとって、むしろ“尚のこと往生をなす”契機と考えられる。また、“念仏を唱えたからといって浄土へ行けるのか、或いは地獄に堕ちるのか、私は知らぬ、私はただ法然についてゆくだけ”“私はそのような愚かな人間。念仏をとるも捨てるも→

432 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:41:01
→あなた方の勝手になさったらいい”とまで言ったとされている。つまり浄土信仰の解体者としての親鸞がおり、そこで浄土〈不信仰〉と浄土〈信仰〉はほとんど同一の地点へまで解体され尽くしている。他力信仰を究極へまで突き進めていた事がわかる。

433 :考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:47:52
427がいうように近世教学の問題だ。清沢マンシが登場して、真宗をカントと
比べたりして理論家した。一方では、ただひたすら「信」によって救われる
人々もいた。これが微妙にミックスされて、真宗は片方で哲学になり、片方で
思い込み信仰重視、問答無用、となって行った。両方がおかしい点を内包して
いるように感じる。

434 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 00:37:09
それで日本は不信心な人ばかりなのか

435 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:33:45
不信心=理知的
信心=何か騙されているとの考えがあるので、信心を理論化する。
論理的に正しいから信じられないはずはないとなる。
これが真宗の難しい部分では?
個人的には真宗にこだわるよりも、大本の霊界を知るとか、日常の心構えは
安岡セイトクを読むとか、親鸞以外に救いというか、しっくりくる考えは
多い。真宗に行った人はなぜ、そこまで真宗の信心の正しさのみ証明したがるのか?

436 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:44:14
とにかく親鸞が素晴らしいのだから,親鸞に戻れば十分。
直接親鸞に「聴けば」いいと思うよ。

437 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:54:48
弱者や悪人が教義者だ、ということですね。
一方で、教義が弱者や悪人の為であるということになるようだ。
成功が保障されたり、善行を勧められるものでない。

だが、強者に怖気づいたり、敵意を抱いたり、
正義を振りかざしたり、善行と信じて世界を覆ってしまうことがあり得そうだ。

438 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 06:47:35
“教義が弱者や悪人の為という事になりそうだ”とは違う。契機さえあれば善なる意志は悪に反転し、途徹もない悪の生産にもなりうる、という認識がある。真の善悪の判断は人間には困難だという、認識の有限性を示唆している。そこが興味深い点。

439 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 06:55:33
対象ー善

対象ー善
     ⊃
悪行ー悪

下の図が困難とか、相対的とかでまかり通っている図

440 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 19:56:03
親鸞に「聴いても」よく分らんから議論になるんでしょう。
僕はよく真宗の学者が「親鸞聖人に聴け」というのが嫌いです。
一時は文学者や哲学者の解釈の方が好きでしたが、彼らも
かなりばらばらです。

441 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 19:57:06
吉本隆明と梅原猛の親鸞をどう思うか?

442 ::2006/03/03(金) 21:52:36
どうもしません、二人とも御念仏していないから。学者の解釈より私は過去の妙好人の信心の方が一番懐かしい。

443 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 22:07:34
妙好人語録とか読んでみると
結局最後にナモアミダブツとくっつければ何でもいいような気がしたw

444 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 02:11:02
妙コウニンといえば浅原才一を思い出す。
浅原はすごい悟りの境地やで。
諸君は読んでみたか?

445 :カナメ:2006/03/04(土) 03:26:20
『444』は縁起が悪いから書き込みwW

446 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 06:29:26
吉本隆明2冊と梅原猛4冊(親鸞関連)を読んでみたが、何の感慨もない。
ただ遠くから眺めて色々言っているだけのような気がする。
行も信も無い人が親鸞を語ってもね。

447 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 13:47:34
>>435
論理的な正しさというよりも、
安心、信楽の妙味を伝えたいということでは。

448 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 15:49:35
わしも吉本や梅原はだいたい読んだが確かにな。言われてみれば彼らは
「哲学者」であってお念仏はしていないのだった。気づかなかった。
では、五木寛之はどうやろな?彼はかなり信仰をもって解釈しとる。
447のいうとおりかもしれんな。ところで、447は安心、信楽の妙味を
体感したのか?わしはできていないから、よう分らん。
ところで、今でも妙コウニンみたいな立派な人に会ったひとは諸君の
なかでおるのか?わしの知ってる真宗学者はみなうそ臭い。




449 ::2006/03/05(日) 00:20:22
源佐さんが大好きです。私は神仏の大悲の海に歓喜して、安心してのびのび住んでいます。

450 :考える名無しさん:2006/03/05(日) 01:20:04
有り難うございます。
失礼なものいい済みません。

451 :考える名無しさん:2006/03/05(日) 21:09:12
大丈夫です、皆それぞれの道を歩み、皆仏様の暖かい御手に還るのですから。済みませんは阿弥陀様に。

452 :考える名無しさん:2006/03/06(月) 21:30:01
五木寛之を読むと自殺したくなるよ、希望がないから。苦しいから本買うのにね。

453 :考える名無しさん:2006/03/07(火) 00:39:09
そうか、五木寛之は希望を与えないのか。
自殺したくなる本ではあかんな。

454 :考える名無しさん:2006/03/07(火) 04:03:35
俺の場合、しんどい時期に五木寛之を読んで、
少なくとも苦境をじっと耐え忍ぶ力はもらった気がする。
どうにもならない局面で、下手に自力で動こうとせずにじっと辛抱する力。
「他力の風を待つ」とかいう表現があったかな。

五木寛之はたしかに自殺を必ずしも否定しないが、
(もちろん肯定もしないが、自殺者を責めたり、自殺者の人生が失敗だったようには言わない)
俺の場合、ひたすら「自殺はするなするなするな」と頭ごなしに説教されるより、
死にたい気分をそのまま、あるがままに受け止めてくれるような
五木の文章のほうが、安心感があった。
その安心感のおかげで精神的に余裕が出て立ち直れた。

暗い気分のときは暗い音楽を聴いたほうが癒されるという音楽療法の原理にも似ているかも?

455 :考える名無しさん:2006/03/07(火) 10:41:22
一種のカタルシスか

456 :考える名無しさん:2006/03/07(火) 17:36:42
454のいう事は分る。なるほど、わしも五木の「他力」は読んでみたいなと思っていた。
五木の「日本人のこころ」(全6巻)はなかなか面白い。
その中に真宗についても書かれている。

457 :考える名無しさん:2006/03/07(火) 21:38:37
みんな同じだよ、反発や共感する人も親鸞を必要とする人はみんな希望が欲しいから。

458 ::2006/03/07(火) 22:05:15
少しでも善く学ぶ為に、私の知らない皆さんの知る、易しい道理と法と教えを教えて下さい。

459 :考える名無しさん:2006/03/08(水) 01:40:37
親鸞に希望が欲しいのはわしも同じや。
しかし、親鸞で救われきったやつや自分でそういう人には何か堕落したイメージがあるのは
わしだけか?真宗学者とか、偉そうな地位にいて、親鸞を説く奴とか
自分自身もまだぐらぐらしてるのに生活には心配がなく取り合えず
親鸞を説いている奴とか。

460 :考える名無しさん:2006/03/08(水) 22:10:40
うん、僕は自分で直接の原点・原典を読むから、間に解釈する宗教団体を通さないよ。

461 :考える名無しさん:2006/03/15(水) 15:02:24
最近誰も書かんの。

462 :考える名無しさん:2006/03/16(木) 09:44:26
誰か
評判の良い教行信証の入門書、参考書を教えて欲しいのだけれど。

463 :考える名無しさん:2006/03/16(木) 13:17:01
『教行信証入門』石田瑞麿(講談社学術文庫)はなかなか良いとわしは思う。

464 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 00:40:26
>>461
> 最近誰も書かんの。

 そういう分けじゃないんだ。
 □■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/
 「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということはどういうことか、これを論じだしたら終われなくなり、
いま手一杯なんだ。
 No282 以降で書いている。


【教行信証】親鸞を語る【歎異抄】
 このレスのNo412〜420あたりのレスにはいずれ意見を書きます。
 行の巻論も続けます。

 




465 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 12:56:39
>>407
 全くのカメレスになってしまって申し訳ない。

> それなくして、命が一時も立ち行かない。行き場のない、
> 善でも悪でも喜びでも怒りでもない、名付けられない胎から噴出す
エネルギーが
> 六字になって飛び出てくる、みたいな。 

 仰りたいことが分からないですね。シンデレラの童話で、魔法使いの
おばあさんが、カボチャを馬車に、ねずみを馬に変えますよね。
 善でも悪でも喜びでも怒りでもない、名付けられない胎から噴出す不
思議なエネルギーが幻想とファンタジーの世界をつくって六字になって
飛び出してくるのでしょうか。
 夢と現実とが錯綜して不思議の世界にいらっしゃるような感じがするの
はぼくだけでしょうか。


466 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 13:06:21
>>408
>“世の中を変えて行こう”という発想は親鸞のものなのだろうか。そもそも、一人の人間を変える、
或いは自己変革ていう考えが親鸞にあったか、疑問です。

化身土巻の重要箇所を紹介します。

 国家社会の責任者である梵天は、釈迦に言う。
 「大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆえに、また皆かくのごとき分布安
置せしむ」。釈尊先生、過去の偉大な先人達は、東西南北の四方の世界に幸せが実現するよう、
様々な優れた社会構造を作りました。星を配置し、季節を分け、地域を分け、それぞれそれぞれ
に司つかさを配置し、優れた社会を作りました。

 「後において、その国土・城邑村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至、海
中宝洲・天祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの龍・夜叉・羅刹・餓鬼・毘
舎遮・富単那・迦 富単那等、かの中に生じて、かの処に還住して、繋属するところなし」。しかし、
現代ではそれが形骸化しています。国家、村落、公共施設、田畑、樹木、霊園、僻地、原野、河川、
防波堤、神社仏閣には、様々な精神達、才能達が乱雑・無秩序に居住し、行き場を失って彷徨して
います。

 「他の教を受けず」。なぜ、そのようになったのでしょうか。ものごとの道理が失われたからではない
でしょうか。

 「このゆえは願わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸鬼神、分布安置して、護持のた
めのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがためのゆえに、我等、この説において随喜せんと欲う、と」。
釈尊先生、この社会において、様々な精神達を、それぞれの持ち味を十分に生かせるように正しく配置
したいと思います。社会に幸福を実現したいからです。わたしは、先生の教えによって真の喜びを得た
いと思います。

 御念仏、心に入れて申して、世のなか安穏なれ、仏法弘まれと、おぼしめすべしとぞ覚え候う。
                                         (親鸞 消息集)
 社会人として自分たちは社会に責任を負っている。親鸞はそう思っていたと思いますよ。


467 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 13:15:26
463の勧める本を読んだ奴の感想をくれ。

468 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 18:24:45
出世間とサンガの設立が仏教じゃないの?
仏教の基本はアンチテーゼであってね。

469 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 18:29:57
いやまあ、上のは独り言。スルーしてください 

470 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 21:07:36
渡海難さんに親鸞さん聞くほど、落ちぶれていません、結局何が言いたいの?一言で言って。

471 :考える名無しさん:2006/03/17(金) 23:20:46
渡海 難は何故嫌われておるのじゃ?
途中から来たんでよくわからん。
渡海 難は本職はなんじゃ?

472 :考える名無しさん:2006/03/18(土) 00:17:48
渡海難さんの説はそれはそれで一解釈として読ませてもらっています。よく勉強してることも伝わってきます。だから全否定する気など毛頭ないんです。ただ、これこそが親鸞だ!と云われたら、それには頷けない。その理由は先のレスに書いています。

473 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 05:35:18
渡海難は坊さんではないようだが、何をしておるのじゃ?
そもそも、何故、そんなに親鸞に取り付かれておるのじゃ?
教えてくれ。

474 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/19(日) 08:38:59
 しばらく多忙です。

475 :考える名無しさん:2006/03/19(日) 15:10:59
誰か「教行信証入門」(石田・講談社学術文庫)の感想を書け。
わしは人に勧めたが分らん部分もあるのだ。

476 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:04:06
 カメレスで申し訳ない。

>>408
>一人の人間を変える、或いは自己変革ていう考えが親鸞にあったか、疑問です。

 御念仏、心に入れて申して、世のなか安穏なれ、仏法弘まれと、おぼしめすべしとぞ覚え候う。
   (親鸞 消息集)
 社会人として自分たちは社会に責任を負っているという意識は、親鸞にあったでしょう。 パ
ン屋さんは、パンを製造・販売することをもって社会の人に喜んでもらう。社会の人に喜んでも
らうという祈りを込めて製造・販売する。
 うどん屋さんは、うどんを製造・販売することをもって社会の人に喜んでもらう。社会の人に
喜んでもらうという祈りを込めて製造・販売する。世のなか安穏なれ、仏法弘まれと念じて祈る。
 親鸞は、一人の社会教育者として、社会教育に従事しながら、心を込めて人々に念仏を広め、
世のなか安穏なれ、仏法弘まれと祈っていたと思います。

477 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:06:23
>>409
>親鸞は現世に適応できる、適応できない、て所を問題にしてないと思うんです。

 現世に適応できない人は、やがて様々な壁にぶつかるでしょう。そんな壁の中には、突破でき
るものもあれば、できないものもある。
 突破できない壁の前では、人は、後退か、右折か、左折かしなければならない。これまでの意
思と行動は持続できなくなる。意思と行動を変えなければならない。そういう時がくる。意思と
行動が変われば、人は人格が変わる。古い自分が死に(挫折)新しい自分に生まれ変わらなけれ
ばならない(再起)。
 人はこれまで、繰り返し繰り返し、再起(生)と挫折(死)を繰り返してきた。再起(生)と
挫折(死)を繰り返しても繰り返しても、繰り返すことがある。これを迷いという。正しい知恵
を持てないからだ。
 今の自分の再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が繰り返し繰り返し行ってきた無数の
再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。今後、無数の人々が繰り返し繰り返し行って
行くであろう無数の再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。
 私の生死生死は、私の肉体の誕生で始まったものでなく、私の肉体の死で終了するものでもな
い。
 現世に適応できないことが、現世の問題ではなく、まさにその人の自身の愚かさの問題であれ
ば、これは同時に人類の普遍的な愚かさの問題でもある。人類の普遍的な問題を、人一人一人
から変えていこう。これが、社会教育者としての親鸞さんの中心テーマだ。

>>411
> なぜ不安を煽るのか理解に苦しむ。   主観の相違だと思います。


478 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:15:43
>>476 は、>> 466と事実上、内容的に重複しました。他意はありません。
既に476が書いてあったのを忘れていただけです。



479 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:16:23
あげ

480 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:28:25
渡海 難は上の方でバカのことをかいているの。
他力は消防署の人やパン屋さんにわかってもらって、東大寺の人らには
自力云々と書いておったが、バカじゃの。
他力は全部を対象にしておるぞ。自力無効という事を考えてみい。
座禅をするのも、法華経を説くのも背後に「他力」の一押しがあるからじゃ。
渡海 難も結局、そこらのあほ坊主と同様「他力」対「自力」の二元論から
出ておらん。これらは、対立しないのじゃよ。

481 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:32:02
真宗のバカ坊主は、まず、悪人正機を完全誤解しとる。
次に、自力・他力の事がわかっておらん。
この辺に宗門の堕落があるのじゃよ。
まだ、文学者や哲学者の解釈の方が少しはましなのはこの辺の理由からじゃ。
しかし、哲学者はいかん。心で理解した事を論理化しよる。
だから、吉本もダメなのじゃ。
渡海 難はところで、本職は何をしてるんじゃ?

482 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 21:09:45
お!本物キタ?

483 :考える名無しさん:2006/03/23(木) 21:27:49
いや、わしも偽者じゃ。というより、ようわかってない。
かって大谷大学真宗学科で真宗学を修めたものじゃが、
さっぱり分らんので、その後は政治学で別の大学院に行って、
それ以来、研究も仕事も全部政治を専門としとる。
しかし、親鸞が気になって
このスレを覗いたじゃ。

484 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 23:26:14
>>480
>「他力」対「自力」の二元論から出ておらん。これらは、対立しないのじゃよ。

 しかるに教について、念仏・諸善、比校対論するに、難易対、 〜 法滅利不
利対、自力他力対、 〜 あり。
                   (行の巻)

 御説拝聴いたしました。


485 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:15:58
>>412
>《慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある。

 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御ここ
ろざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
 親鸞は往生極楽の道を説いている。往生極楽の道以外については語っていないということは認
識しておくべきでしょう。
 我々には、二つの大きな仕事がある。世間道と、出世間道だ。親鸞は出世間道の専門家。世間
道は専門にしていない。
 自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがあるというのは、往生極楽の道での話だ。往
生極楽の道には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲とがあると言っている。

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき

 守りて先とする王法では仁義礼智信を守れ。世間道としての常識だ。国には憲法がある。法律
がある。条例がある。町内会規約がある。社員心得がある。学則がある。商人道がある。それぞ
れ、それぞれが属する世界においてルールがあり、倫理があり、道徳がある。これを守るのは、
国民として、地域住民として、社員として、学生として当然のこと。世間道においてこういうも
のが不要と言っているのではないことはまず、大前提として認識しておく必要がある。
 世間道を歩む一人として、世間道では仁義礼智信を守る。その上で、内心の深い信心において
は自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲とがあると認識していこう。

486 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:16:41
>しかし思うとおりに助けとおすことは、極めてまれである。

 国民として憲法を守るのは当然。法を守るのは当然。地域住民として町内会規則を守るのは当
然。一人の人間としては仁義礼智信を守らなければならない。
 その上で、内心には深く信心を蓄えよう。信心の価値観で、一切のものを、あわれみ、いとお
しみ、養い、育てることは難しいと知ろう。

>この世に生を享けたこの身のままでは、どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、思うよう
には救うことはできないから、この種の慈悲は不徹底である

 かつて釈迦は人々に三学を説いた。祇園精舎に入学を希望してくる者には、戒律を守ることを
約束させて入学を許した。有形の真理は知恵として示した。言葉で、絵画で、彫刻で、文字で示
したのだ。しかし、無形の真理は形にならない。無形の真理は、誰でも簡単に手が届くところに
おいた。彼は禅定という手法を示した。戒律・知恵・禅定を三学という。釈迦から三学を学んだ
人々は、世界中に散り、祇園精舎の分校を開いた。そこで、人々に戒律・知恵・禅定の三学を教
えた。さらに、忍辱・布施・精進を加えて六波羅蜜という。正見・正思惟・正語・正業・正命・
正精進・正念・正定を八正道という。釈迦はこれらを説いた。

487 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:18:13
 戒律は価値観である。二千年も三千年も昔の灼熱の熱帯で妥当した価値観が、二千年も三千年
も経った現代、雪降る北方の国で妥当するとは思えない。
 古代インドが当時、どれほどの文明国であったとしても、インターネットのイの字も知らない
知恵、パソコン会計のパの字も出てこない仏典を、パン屋さんやおそば屋さんが読んで足しにな
るとは思えない。
 二十年も、三十年も、極貧の中で粗食に耐え、禅定を続けて聖者の悟りを開き、さあ、それで
はこれから自転車に乗ってラーメンの出前の練習をしましょうなどということに現実味があると
は考えられない。
 かつて、戒律・知恵・禅定を学ぶことは素晴らしいことだった。しかし、今現在、戒律・知恵
・禅定、さらに忍辱・布施あるいは精進を、おそば屋さんや花屋さんが、仏教という看板の下で
学んで、それが社会のなかでどれだけ意味をもっていくるだろうか。大いに疑問だろう。パン屋さ
んはパン屋さんの学校で、パン屋さんに必要なルールと、知識と技術を学べばいい。おそば屋さ
んはおそば屋さんの学校で、おそば屋さんに必要なルールと、知識と技術を学べばいい。

 おそば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ること
が大事。どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、おそば屋さんや花屋さんが、三学や六波羅
蜜を教わっても、それで人々をお釈迦様のように救えるようになると思えば、幻想だろう。おそ
ば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ることが大事。
おそば屋さんはおそば屋さんになればいい。花屋さんは花屋さんになればいい。お釈迦様のよう
に生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではないだろう。
         続く。

488 :考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:26:59
おそば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ること
が大事。どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、おそば屋さんや花屋さんが、三学や六波羅
蜜を教わっても、それで人々をお釈迦様のように救えるようになると思えば、幻想だろう。おそ
ば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ることが大事。
おそば屋さんはおそば屋さんになればいい。花屋さんは花屋さんになればいい。お釈迦様のよう
に生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではないだろう。
              ↑

この辺は一見確かにそうなのだが、なぜ、蕎麦屋、花屋が仏から遠いのかね?
仕事を通うじて仏になっている人もいるやろ?お前は職業に仏になれるか
なれへんか決まると思っておるのか?浅はかやの。
唯仏與仏と融通念仏、人々唯識、本覚思想批判についても考えてみい。

489 :考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:36:03
お前の職業は仏になれんのか?
自衛官や警察官や職人は仏になれへんのか?
蕎麦屋がそばうち三昧するのも念仏者が念仏三昧するのも同じじゃ。

法然上人も三昧発得したぞ。長い文章引用する前にもっと自分の
考えかいてみい。

490 :考える名無しさん:2006/03/24(金) 16:18:15
渡海 難はいろいろ書物を読んではおるが、師匠がおらんの。
また、周囲に話しする人もおらんから、勝手な解釈で
終わっているの。

491 :考える名無しさん:2006/03/24(金) 18:27:23
哲板住人としては大拙や幾多郎まで勉強して行って欲しい。

492 :考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:48:35
そうじゃの。とかいなんは「日本的霊性」くらいは読んでおるかの。
勿論「善の研究」もな。まあ、読んだから分るとは限らんがな。

493 :考える名無しさん:2006/03/25(土) 09:35:14
鈴木大拙の母堂は秘事法門だったらしいという話を読みましたが
どうなんでしょう。

『神秘主義』(坂東性純さんが訳者の一人)岩波書店
『真宗入門』春秋社

は必読かもしれません。

494 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:40:46
>>487
 お釈迦様のように生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではない。
確かにその通りだろう。ただ、神戸で地震があれば、時間などに余裕がある限り、東京から身一つで駆
けつける人がいれば、それは尊い人だ。新潟で豪雪があれば、自分に余裕がある限り、ボランティアで
駆けつける九州のおそば屋さんがいれば、多くの人に感謝されるだろう。
 関東大震災では、北海道や九州から散髪屋さんや魚屋さんがボランティアで駆けつけるということは
なかった。しかし、現代には現代の知恵がある。交通機関も発達している。人々は救えない。これもで
きません。あれもできませんと言うべきではない。人が喜ぶことをしてあげれば感謝をされる。感謝され
ることをすることを、自力だ、偽善行為だなどという人がいれば、それはとても寂しい人だ。
 ただ、親鸞さんは、北海道のパン屋さんに、神戸に行きなさいとは言わない。九州のおそば屋さんに、
新潟に行きなさいとは言わない。世間道は親鸞の専門ではないからだ。

 かつて、彫刻も、建築も、絵画も、医学も、天文学も、土木も、文学も、みんな仏道だった。お釈迦様
は、王宮の学問を祇園精舎に持ち込み、そこで人々に最先端の知識を伝えた。やがて、その一つ一つ
が独立していった。土木・建築・天文学などが独立した。絵画も彫刻も、独立していった。医学も仏教か
ら独立していった。親鸞は、最後に残った倫理・道徳も独立させ、仏教はスリムになろうと提案している。
 かつては行基菩薩などは、全国で多くの潅漑用水路の築造を指揮し、人々から感謝され、菩薩という
称号で感謝された。弘法大師が日本で尊敬を受けたのは、医学に秀で、加持祈祷でサイコセラピーを
しながら、巧みに薬草を調合して人々特に高級官僚の病を治したからだ。しかし、現代では、ダムや高
速道路を建設したから菩薩、仏様になりましたと言う人はいないだろう。心臓手術をして命を救えば、名
医として有名になることはあっても、菩薩、仏様という人はいない。土木・建築技師を菩薩とか仏様とい
う人はいないが、そういうものは社会にとって無用という人もいない。医学が仏教から離れても、脳腫瘍
患者を治療する医師を、不徹底な善だ、自力だ、偽善者だと言う人はいない。


495 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:41:51
 倫理道徳を仏教という範疇から外そう。親鸞はそういう。いいことをすれば仏・菩薩になるという考えを
捨てよう。しかし、倫理道徳を仏教という範疇から外すということは、倫理道徳は必要ないということでは
ない。医学を仏教から外しても、医学は人間に不必要という人はいない。これと同じ原理だ。倫理道徳
は、その時代、時代、社会、社会の中で、人々が互いの合意の中で作っていけばいい。すくなくとも、坊
さんに相談しないと何が善で何が悪か決まらないという、そんな社会は時代遅れだ。
 仏教は、往生極楽の道。この一点に絞ってその解決を図ろう。親鸞は、そう提案しているんだ。

496 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:48:01
>>490-493
> は必読かもしれません。

 学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の
義といいつべし。 〜  このことわりにまよえらんひとは、いかにもいか
にも学問して、本願のむねをしるべきなり。 〜  学すといえども、聖教
の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。

 下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわり
て信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがた
めには、最上の法にてまします。

 皆様、まあ、お好きになさいませ。


497 :考える名無しさん:2006/03/25(土) 10:40:54
読んだら面白いよ、って言ってるんだけどなあ
大拙は南都じゃありませんよ。
妙好人を積極的に紹介してるじゃん

498 :考える名無しさん:2006/03/25(土) 13:31:19
西田幾多郎は門徒の家だね。
親友の鈴木とともに最晩年は真宗について多く語ってる。
禅宗と真宗ひいては仏教といわゆる哲学について考える上で参考になると思うよ。

499 :考える名無しさん:2006/03/25(土) 20:04:41
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3503_13512.html

500 :考える名無しさん:2006/03/25(土) 23:10:03
西田は禅から入ったが確かに晩年真宗的。鈴木も。鈴木は禅を海外に広めた
が、大谷大学教授をやっているくらいだから、真宗にも理解はあったのだろう。

しかし、と海難は何が言いたいのかようわからんの。
そもそもと海難は、あまりに自分だけで悦に入っておるの。

501 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:43:17
>>495
>浄土門の慈悲というのは、念仏によって速やかに浄土に生まれ、仏となって、そのうえで仏の
大慈悲心をもって、思いのままに、生を享けた一切のものにめぐみを与えることをいうのである。

 戒律は現代の価値観に合わない。知恵も古くさくなってしまった。禅定も、パン屋さんやお花
屋さんには不釣り合いだろう。それじゃ、もう現代では仏教から学ぶものは何もなくなったのか。
 そんなことはない。パン屋さんだって、警備員さんだって、消防士さんだって、人生の壁にぶ
つかることはある。これまでの生き方で、とうていやっていけなくなることもある。そういう時はど
うすればいいのか。

 釈尊先生は、祇園精舎に新入生が入ってくると、自分が「先生」であると名乗り、校則を渡し
た。生徒達は、そのとき始めて、世の中に先生という存在があることを知った。祇園精舎では、
釈尊先生を「先生」と呼んだ。かつて、お釈迦様のお弟子さん達は、問題を抱えて苦しんだとき
は、一人だけみんなから別れ、座禅しながら釈尊先生の名前を称えたものだ。
 大きな問題を抱えると、座禅しながら「先生、ああ先生」と念じたものだ。そうすると、意識は
深い禅定の中に潜り込んでいき、それまで見えなかったものが見えてくる。混乱していた意識
が整理されてくる。彼らはそんな経験を積んでいたのだろう。
 称名念仏は、巨大な伽藍の中で、厳格な作法に則り、荘厳な雰囲気の中で行わなくてもい
いんだ。居間で、台所で、あるいは公園のベンチで行ってもいい。歩きながらだってできないこ
とはない。

502 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:45:47
 パン屋さん、警備員さん、消防士さんは、気楽な気持ちで行えばいい。座禅の専門家から見れ
ば、そんなのはヘンチクリンだ。禅定ではない。偽物だ。まやかしだと言われてもいいんだ。真
似ごとでいいんだ。道具はいらない。どっかりと座って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称
えてご覧。南無とは、サンスクリット語で「ああ」という意味だ。「阿弥陀仏」とは先生という
意味だ。人生で困ったことがあれば、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、先生、ああ先生」と称え
てご覧。
 お前のそれは禅定ではないという人がいれば「いえいえ、私たちは禅定しているんじゃありま
せん。念仏を称えているだけです」と言えばいいだろう。
 現代にはお釈迦様はいなくても、実に、一切のものが我々にとって師となる。人類学者は猿を
先生にして人間の本質を猿から学ぶ。画家は花を師として絵画を学び、植物学者は花を師とし
て生物の起源を学んでいる。一休禅師は、蓮如の下を尋ね、転がっている漬け物石を「阿弥陀
仏」と名付けている。
 親でもいい。仕事でもいい。机でも、歌謡曲でも、他人にばれないように嘘っこで阿弥陀仏と
あだ名を付け、座禅しながら「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるといい。それまで見えなかっ
たものが、きっと見えてくるだろう。忘れていたものが思い出されてくるだろう。
 そんな念仏者をお釈迦様が見ればなんというか。かつてお釈迦様は弟子達に三学を教えた。六
波羅蜜を教えた。四諦八正道を教えたものだ。しかし、戒律も知恵も禅定もほとんどその意味を
失った時代にあって、なおも自分がかつて教えた称名念仏をする人を見れば、大変驚くだろう。
今なお称名念仏をする貴方は、三千年昔の阿難君と同じだ。目蓮君と同じだ。弥勒君と同じだ。
もう、仏陀になったのも同然の人々の仲間だ。同等だ。そう言って、きっと喜んでくれるだろう。

503 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:46:53
 称名念仏する者は、仏の仲間に入る。仏になったも同然の身となる。そういって、お釈迦様
だってきっと喜んでくださる。パン屋さん、警備員さん、消防士さん。そういう人々に仏教の戒律は
いらない。仏教の知恵もいらない。形式張った禅定もいらない。気が付いたとき、気楽な気持ち
でいいから座禅して念仏してごらん。きっと素晴らしい世界が開けてくるだろう。周囲にもきっと
素晴らしい影響を与えていくことだろう。

504 :考える名無しさん:2006/03/26(日) 18:17:05
誰かと海難に反論しろ

505 :考える名無しさん:2006/03/26(日) 21:09:47
現代人にとって「念仏申さんと思う心」が起こることは
奇跡だなあ

506 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 08:53:03
いやいや、現代人にも「念仏もうさんと思う心」は起こると思う。
しかし、これは理屈では起こらん。苦労した人生を送った人が
はっと、親鸞に出会って急に起こるもので、真宗の坊主などには
起こっていないであろうと思う。
真宗学者の大半も起こってないだろう。

507 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:28:04
>>415
>たとえば、人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力
が、それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられるでしょう。

 それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられても、自らが善と信じる
ことは、人は社会的常識において、しなければならんものだ。
 思いもよらない結果を作り上げるかも知れないという恐れを抱くことは必要なことだろ
う。振りかえることは必要なことだろう。しかし、自分が善と思うことは、結果を恐れず、
勇気をもって実行することこそ最も大事なことだ。これがあらゆることの原則だ。これは
忘れてはならない。
 勇気をもって実行することを忘れれば、世間道において人は卑怯者となる。社会人とし
て、非常識な人となるだろう。
 そういう人に対し、出世間道を専門とする親鸞は、言葉で非難をすることはないと思う。
しかし、親鸞以外のあらゆる人々が、社会の常識、社会の道徳に照らして弾劾の刃を向け
るかもしれない。親鸞だけが世界の全てではない。親鸞だけから非難されなければいいと
いうことでは決してない。
 思いもよらない結果を作り上げるかも知れない。だから何もしないでいい。そんなこと
は決してない。世間道における常識、倫理、道徳を忘れれば、人は世間道において非常識
人となる。世間道では文字通り卑怯者となる。怠け者となる。無知となる。社会的に卑怯
者となり、怠け者となり、無知となるような屁理屈を、もし聖教から導いたなら、出世の
みにあらず、世間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候(血脈文集)と
言って、親鸞も大いに嘆くだろう。

>>420
>御念仏すればいい。

 御念仏が済めば、出世間道の問題は完全に片が付く。御念仏が終われば、その後は大い
に汗をかこう。勉学で、仕事で、奉仕で大いに汗をかこうじゃないか。大事なことだ。

508 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:33:52
>>423
> で、おがむ時は南無観世音菩薩か南無阿弥陀佛って
> 唱えればいいんか?

 貴方がお好きに実践なさればよろしいのではないでしょうか。


509 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:36:27
親鸞には彼岸的な力によって人間の行為や言葉の及ぼす意味が変わることへの洞察があると思いますね。彼がなぜしつこく他力ということを繰り返したのか、そこから汲み取るという事。親鸞に我々が向き合うならば、そこが一つの分岐点になると思う。→

510 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:44:02
→“義を捨てなさい。はからいを捨てなさい。清浄を装うのをお止めなさい。身・口・意の乱れを取り繕うのをお止めなさい”“他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになった。義とははからうという意味です。”と『末燈抄』にあります。→

511 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:48:59
→なぜ人間の善や悪は浄土に生まれることと関係ないと断言できるかの根底がその他力信仰である。“自分が心正しいものだから、浄土に生まれることが出来るだろうと、思ってはいけない。自力のはからいでは真実の浄土に生まれることはできない。”と親鸞は語る。→

512 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:56:07
→何より大事な事は、他力の本願を信ずる事だ、それより他にはない。と到る所で親鸞は書いていますね。これを理解するか否かが親鸞を理解できているか否かの要だと言える、という事でしょう。“義を、はからいを捨てることが義である”と。親鸞は語る。しかも→

513 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 12:00:51
→そこに自然(じねん)という概念がまた深く浸透している。つまり、浄土に生まれるか否かは人間の意志や知の及ぶ範囲ではない、という事でしょう。ここから現世のマナーや道徳を導くことは不可能ですよ。また親鸞はその読まれ方は自分と関係ないと言うでしょう。→

514 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 12:08:03
→渡海さんの論理はその辺をすべて、現世の正しい行いや道徳に結び付ける。それは何の教えかは知りませんが、少なくとも親鸞の教えではないでしょう。仏教と現世の善悪を結び付けるのは、創価学会ならまだ解りますけどね。親鸞の教えとは思えません。

515 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 17:39:48
とかいなんについての反論分り易く書いてくれ。
とかいなんがオナニーしよるやろ。

516 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 21:31:59
>>513
同感です

517 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:40:12
>>509
>親鸞には彼岸的な力によって        <彼岸的な力!? 意味不明。>

>彼がなぜしつこく他力ということを繰り返したのか

これらの経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり(化身土)。
 末法の世には、三学が成立しない。親鸞は、三学を基盤とする釈迦世界の外に、
新たな仏教を模索しているからだ。

>親鸞に我々が向き合うならば、そこが一つの分岐点になると思う。
    まずしっかりと親鸞に向き合ってみなさいな。

>>510
>と、法然聖人は仰せになった。   <どこで仰せになっていますか?。>

>義とははからうという意味です。”と『末燈抄』にあります
   そんなことはどこにも書いてない。

>>512
>“義を、はからいを捨てることが義である”と。親鸞は語る。
    夢から早く覚めましょう。

 ぎ【義】 (広辞苑)
 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。「仁義礼智信・義務
・正義」

518 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:41:46
>>513
>ここから現世のマナーや道徳を導くことは不可能ですよ。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚す
るのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持
しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に
除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、
全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有するこ
とを確認する。  憲法

 第1条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。
         民法

 現世のマナーや道徳は、社会のルール・常識から導くんですよ。浄土に生まれるか否か
から導くんじゃありません。

 社会のルールに反する人はルール違反、社会の常識に反する人は非常識と言います。

>>514
>渡海さんの論理はその辺をすべて、現世の正しい行いや道徳に結び付ける。

 ことに外には王法を以て表とし、内心には他力の信心を深く蓄えて、世間の仁義をもっ
て本とすべし(蓮如)。

 出世のみにあらず、世間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候なり
(親鸞)。

 世間道を忘れ、王法を忘れれば、人間として最底だ。聖教を読み間違いしなさんなよ。


519 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:49:36
>>427
>そのあとの展開はどうなるんだろうと思ってしまう。
 後生の問題など、さっさと片づけたなら、安心して世間道で大いに汗をかこうということです。

>>428
>極楽浄土は厭離穢土とセットでしょ現世に執着のある現代人にはちょっと微妙だな

 宗教など必要のない人はいくらでいる。そういう人は宗教などに目を向けず、自分の本当の学
業・仕事、スポーツなどで大いに汗をかくといいだろう。

>>440
>僕はよく真宗の学者が「親鸞聖人に聴け」というのが嫌いです。

 「難しいことなんか俺に聞くな。おとといおいで。アハハのハ」と言っているんでしょう。自
分の馬鹿を棚に上げ、あなたを小馬鹿にしていると思えば半分は当たっている。

>>441
>吉本隆明と梅原猛の親鸞をどう思うか?    他愛のない商売のタネ

>>448
>五木寛之はどうやろな?彼はかなり信仰をもって解釈しとる。

 五木さんに手紙書いて聞いてみるといい。
 念仏称えていますか?。どのくらい称えていますか?。念仏称えだして、何か変わりました
か?。変わりませんでしたか?。

 返事がないのも返事の内。「念仏称えていますか?」という質問に対する向こうからの応答の
中身で本物か借りものか分かるだろう。
 信は必ず行を具す。行がなければ、信がない。
 称えていても、称える前と称えだした後で変化がないなら、化土の中。

520 :考える名無しさん:2006/03/28(火) 06:25:12
渡海難さん他人の説ばかり、孫引きしなすな自己の一言真実述べてみい。  

521 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 20:01:42
>>470
> 渡海難さんに親鸞さん聞くほど、落ちぶれていません、
結局何が言いたいの?一言で言って。

    落ちぶれてから聞きにきなさい。そうしたら教えてやろう。

>>514
>それは何の教えかは知りません

    常識のない人だ。どこのノータリンなんだ?。
    自由主義・民主主義・人道主義・博愛主義・自己責任主義

>創価学会ならまだ解りますけどね。
    創価学会は、少なくとも名無しの514よりは常識的でまともということだな。

>>520
>自己の一言真実述べてみい。 

 珍しき法をも広めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり。
 
 小人閑居して不善をなす。ノータリン教にかぶれてる暇があれば、豆腐の角に頭
ぶつけて昼寝でもしてろ。

                  2,3日多忙です。


522 :考える名無しさん:2006/03/28(火) 20:50:27
そうです。「義」とは渡海さんの書いている通りです。そうして、「義の捨てられていることが義である。」と親鸞は語っています。春秋社親鸞全集第四巻330頁の手紙で親鸞はそう語っています。確かめてみてください。さらに同書の323頁を開いてください。→

523 :考える名無しさん:2006/03/28(火) 20:55:22
→「さて他力は如来のお誓いですから、他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになったことであります。義とははからうという意味をあらわす言葉です。」とやはり親鸞は手紙の中で確かに語っています。違いますか?確かめて下さい。→

524 :考える名無しさん:2006/03/28(火) 21:03:34
→翻って、渡海さんの話を読んでいると、まさにその“義”ばかりです。それは親鸞の到達した境地とは違うでしょうと僕は聴いているわけです。「自力のはからいでは真実の浄土に生まれることは出来ないのです」と親鸞は言う。この意味を考えなきゃならないと思うのです。

525 :考える名無しさん:2006/03/28(火) 21:15:02
教行信証は親鸞さんが自分の為に書いたんやから、意味を考えても答えあらへんよ。


526 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:27:07
法然上人の三昧発得とは、実際に神仏の姿と御声見たという喜びですよ。比叡山降りたあと善導の霊に会ったと言われてますね。

527 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:33:09
すいません。
岩波文庫の「出家とその弟子」を読んで、感動してしまいました。

他に、親鸞関係でオススメの本はありますか?

528 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:36:17
どの場面の具体的ですか?

529 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:42:02
>>527
高史明さんのものがおすすめです

530 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:57:14
>>529
ありがとうございます。今度読んでみます。

531 ::2006/03/31(金) 23:25:23
岩波文庫の教行信証で、充分理解出来ましたので教行信証入門は読んでないんです、ごめんさい。

532 :考える名無しさん:2006/03/31(金) 23:27:16
教行信証りかいしますた。

533 :考える名無しさん:2006/03/32(土) 19:10:27
>>531
文庫本で教行信証を充分理解されたとは・・・・・

534 :考える名無しさん:2006/03/32(土) 19:44:30
100年掛かっても理解できないという大先生がたくさんいるのに・・・・・
親鸞さんより頭が良いのかな?

535 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:00:46
>>522
>「義の捨てられていることが義である。」と親鸞は語っています。
   ??。 ノーコメントとしておく。

>春秋社親鸞全集第四巻330頁   持っていない。

>>523
>他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになったことであります。
法然聖人は仰せになった? 知らんな。

>義とははからうという意味をあらわす言葉です。」とやはり親鸞は手紙の中で確かに語っています。
違いますか?
        ノーコメント

536 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:01:21
>>524
>まさにその“義”ばかりです。      当たり前だろう。

 於無宿善機、無左右不可許之者也 無宿善の者には左右なく許すべからず。(歎異抄)
 薬あればとて、毒を好むべからず 
 極楽を願い、念仏申す程のことになりなば、もと僻ごうだる心も、思い直してこそあるべきに、
その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。煩悩に狂わされ
て、おもわざるほかに、すまじき事をも振る舞い、言うまじき事をも言い、思うまじき事をも、
思うにてこそあれ。さわらぬことなればとて、人の為にも、腹黒く、すまじき事をもし、言うま
じき事をもいわば、煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえす
がえす、あるまじきことなり。

 親鸞仏教とは、パン屋さん、魚屋さん、警備員さんなどに向かって説かれているんだけど、常
識のない子供に向かって説かれているんじゃないんだ。大人に説いているんだよ。現代では、小
学校の常識もないないような子供に説いている教えじゃない。小中学校つまり義務教育も録に勉
強してない子供同然の大人に説いている教えでもないんだ。

 人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力が、それが思い
もよらない結果を作り上げるということは考えられるからと言って、人間が見通すことは極めて
困難だと云っても、有限性に付き纏われるといっても、日常は念仏だけしていればいいというこ
とじゃない。日常に働きかけないでいいということじゃない。
 パン屋さんはパンをしっかり作らないといけない。魚屋さんはしっかりと魚を仕入れてきて、
地域の人々に買って貰って喜んで貰う。これはとっても大事なことであり、それを疎かにしては
いけないんだ。親鸞仏教は戒定恵を仏教から外した。その代わり、社会の既存の常識を百%信頼
し、それを大前提にして構築してあるんだ。そんなことは、親鸞の仏教以前の当たり前のことな
んだ。

537 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:02:14
 ことにほかには王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁
義をもって本とすべし。

 蓮如の主張は、本願寺教団という教団単位のルールではない。本願寺教団という枠を越え、親
鸞仏教では基本的な大前提なんだ。念仏者である前に、常識人であれ。念仏者である前に、人間
であれ。念仏は一切の人に向けて開かれているけど、親鸞の教えは常識人に向けて説いている。
親鸞は、自分の考えを非常識な人間に理解して貰おうなどとは思っていない。
 小中学生のルールも知らない人には、念仏の教えの前に、表となる王法、根本となる仁義を真
っ先に教えなくちゃいかん。それでなければ親鸞仏教は始まらん。当たり前のことだろう。常識
のない人には、おもてとなる王法を教え、根本となる仁義を先に教え、それが終わってから裏の
仏道を教え、深い信心を明らかにするんだ。

>>534
>100年掛かっても理解できないという大先生がたくさんいるのに・・・・・

 大先生を辞めなさい。もっとほかにいい仕事はいくらでもある。

538 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 00:55:48
“何より先に常識人になりなさい。世の中のルールを知りなさい。信仰より何よりそれが大事です”という話は渡海難さんの説としては良いけれども親鸞とは関係ないです。彼の言葉を辿ればそんな話が出てくる余地はない。渡海教団の教えとしてなら問題ありません。→

539 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 01:06:03
→しかしそんな説を親鸞と関連づけるのは辞めてほしい。何より僕の引用した親鸞全集所収の言葉にシラを切る、というのはどういう姿勢ですか。手元になくとも図書館で読める筈です。親鸞の教義を語る人間の姿勢として相応しくないでしょう。貴方の支持者もそれでは→

540 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 01:10:10
→納得しませんよ。ちなみに僕は社会のルールを日常無視する人間でもないし、無視してよいとも思わない。ただ、それを親鸞の教義に結び付けるのはおかしいと言っているだけです。或いは別の宗教になると言っているだけです。貴兄の説明をそう受け取ります。

541 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:56:49
>>538-540
> 何より先に常識人になりなさい。世の中のルールを知りなさい。信仰より何よりそれが大事
>です”という話は渡海難さんの説としては良いけれども親鸞とは関係ないです。彼の言葉を辿
>ればそんな話が出てくる余地はない。渡海教団の教えとしてなら問題ありません。

 これは誰の手紙だと思いますか?。12月24日付けの親鸞の手紙を紹介します。説明上、一
部、蓮如の手紙を編集して加えました。浄土真宗の本質を考える上で、重要な思想です。
 人には、二つの重要な課題がある、一つは世間道、もう一つは出世間道です。世間道は王法の
世界です。出世間道は仏法の世界です。王法を先とし、仏法は内心に蓄えよというのは、蓮如の
勝手な考えではない。親鸞の考えの大前提、出発点です。

 なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の
放逸無慚のものどもの中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あ
るべくも候わず。
 どんな場合でもそうですが、聖教の教えをも知らず、浄土宗の真の底をも知らず、自分勝手な
ことをしている人の中で、悪は思う様に自分勝手にやっていいんだというそんな考えは決してあ
りません。どんな場合でも、世の中には常識というものがあるのです。

 北の郡にありし、善証坊と言いし者に、ついに、合い睦るることなくて止みにしをば見ざりけ
るにや。
 私が、以前、関東に住んでいたとき、あの善証坊という人とは、私は決して親しくしなかった
ことをご存知なかったでしょうか。

542 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:57:39
 凡夫なればとて、何事も思う様ならば、盗みをもし、人をも殺しなんどすべきかは。
 凡夫であれば、何事も思い通りにしていいというのなら、泥棒も、殺人もしていいというので
しょうか。

 もと、盗み心あらん者も、極楽を願い、念仏申す程のことになりなば、元僻ごうだる心も、思
い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべ
からず候。
 元々窃盗癖のあったような人でも、極楽を願い、念仏申すようになれば、以前は歪んでいた心
も、当然改心していくであろうと思いますが、その様子もないような人々に、悪いことをしても
いいんですよというような非常識なことは、決して言ってはいけないことです。

 煩悩に狂わされて、思わざる外に、すまじき事をも振る舞い、いうまじきことをも言い、思う
まじきことをも、思うにてこそあれ。
 煩悩に狂えば、思ってもなかたったこと、してはならないことをしてしまい、言ってはならな
いないことも言い、思ってもならないことを思うこともあるでしょう。人間には、してはならな
いこと、思ってはならないこと、言ってはならない常識というものがある。浄土の教えも、当然
そういうことを前提にして成立しています。
 「出世のみにあらず、世間の事におきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候」ということ
がある。世間の事は、軽んじてはいけない。親鸞の教えは、「世間道を転じて、出世上道に入る
ものなり。世間道はすなわちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟し
て涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す」。だからこそ、親鸞の教えは出世間道を明らか
にしている。しかしそのことは、世間道を軽んじていいということではない。常識を外れていい
ということではない。

543 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:58:16
 殊に外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄えて、世間の仁義をもって本と
すべし。これすなわち当流に定むるところの掟の趣なりと心得べきものなり。
 その外仁義をもって本とすべし。
 しかも他力仏恩の称名を嗜み、その上にはなお王法を先とし、仁義を本とすべし。
 「王法は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々ある
べきことなるよしに候う。
 また外には仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべ
し。
 まず王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に深く
蓄えて、外相に法流の姿を他宗他家に見えぬように振る舞うべし。

 さわらぬことなればとて、人のためにも、腹黒く、すまじき事をもし、言うまじきことをも言
わば、煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえすがえす、ある
まじきことなり。
 障害になるようなことではないからと言って、人に対し邪悪で、してはならないこと、言って
はならないことを言えば、煩悩に翻弄されているということではないでしょうか。煩悩に翻弄さ
れてはいけない。しっかりと倫理、道徳を守ろう。敢えてしてはならないことをすれば、決して
言い訳できるようなことではないでしょう。世の中には常識というものがある。

 鹿島・行方の人々の、悪しからんことをば、言いもとどめ、その辺の人々の、ことに僻ごうだ
る事をば、制し給わばこそ、この辺より出きたる徴にては候わめ。
 鹿島・行方の人々が、言ってはならないことを制し、特に歪んだことを抑えていらっしゃるの
は、そのへんのお考えによるものでありましょう。

544 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:03:09
どうどうめぐりだなこりゃ

引用文はかぎ『』で括って、出典を明記してもらえると
たすかるのだが

545 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:10:20
 ただ、したからん事をばせよ、振る舞いなんども、心に任せよと言えると候らん、あさましき
ことに候。
 ただ、したいことをしていい。やりたいことも、自分勝手にやっていいと言えば、これば愚か
なことでありましょう。煩悩に翻弄されてはいけない。親鸞仏教以前の問題として常識だ。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しき事をもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし。
 この世で、悪いことは止めよう。悪いことはしないということこそ、厭離穢土をもって念仏す
るということです。念仏していても、他人のために悪いことをし、悪いことを言っていれば、厭
離穢土の意味がありません。親鸞の教えは、世間道の常識を否定するものではない。

 されば、善導の御教えには、悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれとこそ、至誠心の中には、
教えおかせおわしまして候え。
 だからこそ、善導大師の教えに、悪いことをしたがる人からは、尊敬の念を以て離れていきな
さいということを、至誠心を説く中で教えてくれています。

 いつかは、我が心の悪きに任せて振る舞えとは候。
 いったいどこに、自分の悪い心の自由気ままに行動しろという教えがあるというのでしょうか。

 大方は、経釈の文をも知らず、如来の御事をも知らぬ身にて、ゆめゆめその沙汰あるべくも候
らわず。
 推測するに、ろくに仏典の文章も知らず、仏のこともろくに知らないからでありましょう。決
してそのようなことがあってはいけません。

546 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:10:29
それにしても「常識」はコロコロ変わりますからね。

野山で生き物を狩ったりする人は往生できないのが当時の常識でした

547 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:11:24
 また、往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず、如来の御ちかいに、任せまいらせたれ
ばこそ、他力にては候え。

 ようように計らいおうて候らん、おかしく候。あなかしこ、あなかしこ。
 自分勝手な考えを持っているのでありましょう。おかしな話であります。穴賢。穴賢。

>>539
>しかしそんな説を親鸞と関連づけるのは辞めてほしい。
 親鸞の消息集を無視するのは勝手だが、僕は親鸞の消息集を大事にするんだ。

>何より僕の引用した親鸞全集所収の言葉にシラを切る、というのはどういう姿勢ですか。

 シラを切るのではない。同じ言葉を使っても、定義が違えば意味が変わる。同床異夢の議論を
したくない。貴方が見ている夢の内容を吟味し、確信が得られなければ、僕は安易に同調はでき
ない。それまではノーコメント。当たり前の話だろう。

>貴方の支持者もそれでは納得しませんよ
 大きなお世話。親鸞の消息集を無視するひとに納得して貰おうとは思っていない。
 孤立無援、絶対的な一人説と言われても構わない。

548 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:11:37
それから渡海さんの引用される化身土巻の一節について。渡海さんが引用された箇所は梵天が仏に龍や鬼の配置について語る所で、面白い箇所ですね。他、世の悪を戒めている箇所があります。しかしよくよくその出典を辿ってみれば、→

549 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:11:51
あさましきことだ を 親鸞仏教以前の問題として常識だ 

なとど訳すのは誠意がありませんね!渡海さん。


それこそ親鸞仏教以前の常識として。

550 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:12:16
>>540
>ちなみに僕は社会のルールを日常無視する人間でもない

 まあ、そうであって欲しい。貴方のことを、本当は社会のルールを無視する人だと思っている
ということでもない。ものごとの考え方のすじみちを言っている。
 「王法は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」というのは、軽い言葉ではない。「慈悲には、
自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある」という歎異抄のこの言葉も、王法を額に
当て、仏法を内心に深く蓄えて読んでいく必要がある。それが考え方のすじみちだ。
 親鸞は出世間道の専門家。慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがあると
いうのは、往生極楽の道の話。額に当てた王法の話をしているのではないということはしっかり
認識しておかないと、いつのまにか王法が額から剥がれる。善証坊と同じ過ちを冒すことになる。

>親鸞の教義に結び付けるのはおかしいと言っているだけです。

 貴方の方こそ、世間道の話と出世間道の話をごちゃ混ぜにしてないだろかと心配になりました。
世間道の話と出世間道の話とをごちゃまぜになってなければ、僕は問題としない。

 それが社会運動や政治運動でも、或いはもっと身近な教育を取ってみてもいいです。人間の及
ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある。しかもそれを生じさせるプリ
ズムを人間が見通すことは極めて困難だと云える。また、我が身可愛さを簡単に捨て去る事も難
しい。つまり、人間の思考や判断や行為やがたえず何らかの有限性に付き纏われるという点に親
鸞は行き着いていた、と思われます。

551 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:13:59
 貴方が社会のルールを日常無視する人間でなければ、結構な話だ。僕には言うこともない。
 「人間の及ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある」。こんなことは
親鸞さんに言われて始めて驚くような話ではない。当たり前の話だ。常識だ。
 自分は、社会のルールを尊重し、日常性を大事するというのであれば、立派なことだ。人には、
社会運動や政治運動で大いに頑張らなければならんこともある。人間の思考や判断や行為では、
たえず何らかの有限性に付き纏われることがある。しかし、その中で、大いに努力し、仁義礼智
信を立て、それを額に当てて生きていかなければならん。それが人間だ。倫理だ。道徳だ。倫理
や道徳は親鸞仏教ではないというのは自由だが、親鸞仏教の中ではなく、親鸞仏教の外にあって
親鸞仏教の大前提を形成している大事な考えだというのであれば、僕は貴方と価値観を共有する。
 世の中は、親鸞だけでは済まない。民主主義・自由主義・自己責任主義・博愛主義・人道主義
等々、みんな大事な考えであり、自分たちの生き方の鏡とするものであるということはわすれて
てはいかんだろう。

552 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:14:11
まともな結論に落ち着きましたね >>550

よかった。

553 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:20:37
→そこで親鸞が引用している文の出典は『起信論』等大乗仏教の出典であり、親鸞がそれらの箇所と自分の思想をどう関連づけていたかは問題で、引用すなわち親鸞の立場、とみなすのはどうかと僕は思います。信仰を仏によるはからい(自然)、とみなす後の言葉→

554 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:20:38
>>544
>引用文はかぎ『』で括って、出典を明記してもらえると

 親鸞の手紙は、御消息集(広本)〔五〕 大谷派の本を使っています。本派ではどのような分類かは分かりません。
 蓮如の手紙はお文です。仁義というのは随所で出てくる。聞き書きにも出てくる。蓮如の思想の柱の一つでしょう。



555 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:34:20
→からすれば、あまりに人間の主体性重視に傾いている、と見えるからです。また、これらの立場を徹底させれば、浄土信仰的な帰衣とは別の思想に入っていった方がよいことになる。そこに親鸞の根幹をみるのは僕は戒めたいと思います。

556 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:41:57
親鸞と社会との関係についていまいち解らない所があります。他者の救済と親鸞の関係です。そこで初めて往相-還相が出てくるのではないか。そう考えたいた思います。浄土へ生まれ変わること、そうして現世に還ってくること、それなしに他者救済は貫き得ない→

557 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:45:49
→とするのが親鸞の思想でしょう。これは非常に彼らしい解決の仕方だと受けとめています。そこに僕の提起した有限性や、善なる意志・行為から悪への反転の問題は、まるごと包括されている。その意味で重要な概念だと思います。

558 :考える名無しさん:2006/04/02(日) 19:44:16
本質的には浄土教における利他行は後づけだと思う。

559 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/03(月) 00:46:23
>>555
> →からすれば、あまりに人間の主体性重視に傾いている、と見えるからです。

 余りにも馬鹿馬鹿しい議論なので、レスするのも憚れる。書くべきか書かざる
べきか(苦笑)。
 親は子に、教師は子供に責任がある。一人一人が真剣になって主体的に生
きようとしなかったら、社会はどうなるんですか。自分の人生は誰も代わってく
れないんだ。
 自由の裏には責任がある。自由主義も民主主義も博愛主義も人道主義も、
全て一人一人が社会に対して責任を負って始めて機能する。社会の一人一人
が、きちんと自らの義務と責任を果たすことで、果たそうと努力することで、始
めて社会は機能し、その中の一人一人は自由に生きていけるんだ。個人個人
一人一人の主体性こそ社会活動の原点でしょ。主体的に生きなければならな
いのは当たり前の話なんじゃないか?。生きた屍の集合体にどんな未来があ
るんだい?。

>浄土信仰的な帰衣とは別の思想に入っていった方がよいことになる。そこに
親鸞の根幹をみるのは僕は戒めたいと思います。

 あなたの親鸞は、主体的に生きてはいけないと教えているのか?。自由主義
も民主主義も博愛主義も人道主義もいりませんと教えているのか?。
 まさに、外道のカルトだね。

 数日間カキコ不能。

560 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:45:33
人間の主体性について、或いは自分が「主体的に生きている」とみなしている思考や判断・行為について、そうではなく、何らかの因縁によるに過ぎないとみなす思想が親鸞にはあります。『歎異抄』を読めば一目瞭然な話ですよ。→

561 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:51:29
→《「…一人でも殺せるような過去世からの因縁がないから殺さないのだ。己の心が善いから殺さないのではない。さらにまた、殺すまいと思っても100人或いは1000人殺すこともあるだろう」》唯円はそのような親鸞の思想へ見事な注釈を施しています。→

562 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:56:25
→《わたしどもが、己の心が善ければ往生の力添えになるとし、己の心が悪いのは往生の妨げになると考えて、不思議としての阿弥陀の誓願によって往生せしめられることを知らずにいるのを言われたのである。》と。→

563 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:01:40
→また一方、念仏についても同様に、《阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と仏をたのみ奉るとき、これを迎え入れようとおはからいになったのですから、人が自らのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然(じねん)→

564 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:06:51
→というのである》と『末燈抄』の書簡に親鸞は遺しています。つまり親鸞に於いては人間が自分で「主体的」と思い込んでいることへの徹底的な脱色が、現代思想風にいえば脱-構築が為されている。むしろ彼が書いた『教行信証』の世界はその標的になったのではないか→

565 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:15:29
→と僕にはどうしても思えます。明らかに晩年の親鸞はアレを脱色したがっていた。アレでは駄目だと考え、弟子等にはその部分を強調して口頭で、または書簡で伝えていた。人間の主観的な主体性について、彼は実はより絶対的な意志による受動態だとみなしたがった。

566 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 07:44:27
例えばマルティン・ハイデガーは人間の企投について、それは実は被投性によって支配される、或いは被投性と同義であり、よって企投とは実際には被投的企投であると述べています。その場合の被投の主体とは、〈時〉ということになる。人間はそれにより企投を→

567 :考える名無しさん:2006/04/03(月) 07:53:28
→強いられる存在である。そこでも主体性の脱色は為されています。そもそも人間の発語さえ、現存在の存在が言葉を集めることにより為されてゆくものだ。そういった、主体への脱-構築に親鸞と似た発想が認められる。親鸞の思想が現代に生きる可能性がそこにあります。

568 :考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:36:59
 渡海難氏と私の対話は噛み合わぬまま現在に至っている。氏による親鸞講釈は私には疑問(?)だらけである。
 だが一方、氏が念仏により光を授かったという体験は素晴らしいと感じている。この体験があればあとの講釈など無用じゃないかとさえ思える。→

569 :考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:44:23
→氏は念仏から光を授かった。それは何にも勝る掛け替えのない体験である。なぜそれだけでは駄目なのだろう。なぜ講釈が必要なのだろう。氏の解釈は、氏にとって念仏が生きる支えである、そのことを裏付けるためのものだ。そこには氏の固有な念仏体験が貼りついている。→

570 :考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:48:33
→氏がもしも、“私にとって念仏とは、親鸞とはかくかくのものだ。それは動かしようがない。私にはそれで十分だ。仮に他人が、その解釈は違うと言ってきた所で、そうか、それがどうした、と返すだけだ”と言うならば、私には氏に返す言葉はないだろう。

571 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:27:49
>>560
>とみなす思想が親鸞にはあります。『歎異抄』を読めば一目瞭然な話ですよ。
     それがどうしたの?。何か関係があるの?

>唯円はそのような親鸞の思想へ見事な注釈を施しています。
     それがどうしたの?。 何か関係があるの?

>わたしどもが、 〜 絶対的な意志による受動態だとみなしたがった。

 ちんぷんかんぷん。意味不明。 呪文の羅列なら、新聞の広告の裏にでも書きな
さい。文章は日本語で書いて下さい。

>例えばマルティン・ハイデガーは 〜 可能性がそこにあります。
  ちんぷんかんぷん。意味不明。 文章は人間の言葉で、日本語で書いてほしい。

572 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:28:31
>>568
>氏による親鸞講釈は私には疑問(?)だらけである。    <なるほど>

>体験は素晴らしいと感じている。           <貴方の勝手。>

>体験があればあとの講釈など無用じゃないかとさえ思える。

 どう思うおうが、それは貴方の勝手だと思うが、私にとってはいささか有り難くない。
 体験の評価には検証が必要。僕の念仏体験は、検証が終わっていない。
 検証できるときがくるのかどうかも分からない。今では検証などどうでもよくなった。した
いとも思わなくなった。


573 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:30:22
>>569
>氏は念仏から光を授かった。

 他人に評価的な解説をされたくない。一時の気の迷いだったかもしれない。妄想かも知れ
ない。僕には何一つ立証の手段がない。

>それは何にも勝る掛け替えのない体験である。
   大きなお世話。他人に評価的な解説をされたくない。他人には関係のない話だ。

>なぜ講釈が必要なのだろう。
 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え(化身土)、

 念仏が素晴らしいと先に分かった者が、そこに続こうとする者を導こうとすることは当たり前
のことだ。続こうとする者は、念仏が素晴らしいと先に分かった者を訪ねるべきだ。それが仏
教だ。

>氏の解釈は、氏にとって念仏が生きる支えである、
   痛くもない腹を他人に探られるのは、気持ちのいいものではない。

>そのことを裏付けるためのものだ。そこには氏の固有な念仏体験が貼りついている。
   大きなお世話。

>私には氏に返す言葉はないだろう。
   後に生まれん者は前を訪え。願わくは休止せざらしめんと欲す。

574 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 02:53:01
これまでに書かれた私への回答をもとに渡海難氏の立脚点を総括するとこういうことになる。
1.自由と責任の主体たる人間の確立こそ何にも増して優先させるべき事柄である。そうしないと日本は取り返しのつかないことになる。→

575 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:05:47
→2.親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪をやってよいとは言っていない。正しい道を歩きなさい、としか言っていない。これは自由と責任の主体たれ、世の中に貢献しなさい、という自分の考えとも抵触しない。→

576 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:11:33
→3.親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文があるが、それらは無視することにした。別に問題はない。
4.人生の壁にぶつかったら念仏を称えなさい。答えが見つからずとも最悪の道は避けられるだろう。ああ、先生。と称えなさい。

577 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:15:41
5.無知が栄えたためしはない。

578 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 09:02:55
>>574
>1.自由と責任の主体たる人間の確立こそ何にも増して優先させるべき事柄である。そ
うしないと日本は取り返しのつかないことになる。

 松下幸之助さんも平山郁夫さんも小泉純一郎さん愚禿親鸞さんも、一丁目のおそば屋さ
んも信号の前の花屋さんも駅前の工事現場の警備員さんもみんな主体的に生きようとし、
それぞれそれぞれ可能な範囲で必死になって主体的に生きてきている。
 日本が、まだまだ取り返しがつくなかにあるのは、日本人一人一人が、そのように主体
的に生きようと努力してきたお陰だ。

>>575
>親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪をやってよいとは言っていない。
 親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪人正機説では悪をやってよいと言っている。
 これは自由と責任の主体たれ、世の中に貢献しなさい、という自分の考えとも抵触しない。

>>576
>親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文がある

 親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文はない。
 書簡や弟子の聞き書きは、ほとんど透明に見えるという感触がある。

>>577
>無知が栄えたためしはない。
 主体的に生きなくていいなどという無知が栄えたためしはない。

579 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 12:45:30
悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、それは絶対性をもつとされる。なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるかというと、善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。それらは他力信仰にもとる。→

580 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 12:49:14
→悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。だから悪人の方が善人より浄土に近い。世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは悪人正機説に抵触するとしか思えない。

581 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 14:05:18
>>580
世の中に貢献しようとする意志そのものは悪人正機説とは関係がない。
自分が行う善を、「自分が浄土往生するための手段」にしようとするはからいが問題なだけで、
浄土往生のための自分の手柄だと思わずに純粋に行われる善は否定されたりはしない。

582 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 14:59:55
それはそうだね。渡海氏も解ってるじゃないか。結局親鸞とは実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。悪人正機説は同時に善人正機説でもある。しかしそれはそれらの善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。

583 :考える名無しさん:2006/04/05(水) 17:18:14
しかし、何となく善人正機なぞ書いたが、やっぱり悪人正機だろうな。善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。そっちの方が他力本願なわけで。《お任せする,委ねる》の意に適っている。

584 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:12:53
>>579
>悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、

   知らんなぁ。聞いたことがない。他力信仰って、どんな御利益があるんだい?。

>それは絶対性をもつとされる。

   絶対性?。なんだい?。寝言か?夢でもみているんじゃないか?。

>なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるか     寝言か?。

>善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。

   意味不明の寝言は布団の中で、他人に聞こえないように発言するものだ。

>それらは他力信仰にもとる。   何か悪いことなのかい?。悪いと救われないのか?

>>580
>悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。

    意味不明だな。宇宙人の寝言か?。

>だから悪人の方が善人より浄土に近い。世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは
悪人正機説に抵触するとしか思えない。

  悪人が善人で、善人が悪人と言うことか?言っていることがちんぷんかんぷん、支離滅裂。
理解不能。わけわからん。馬鹿じゃないのか?

585 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:14:18
>>581
>貢献しようとする意志そのものは悪人正機説とは関係がない。   <まあ、そうだろう。>
>手段にしようとするはからいが問題  ??
>自分の手柄だと思わずに純粋に行われる善は否定されたりはしない。      <??>

>>582
>それはそうだね。渡海氏も解ってるじゃないか。
         独り言か?。独り言は自分だけに言えばいいんだよ。

>実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。   意味不明。

>悪人正機説は同時に善人正機説でもある。   ハテ?。聞いたこともない。

>善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。
       地球攪乱のための宇宙人の怪電波かな。

>>583
>しかし、何となく善人正機なぞ書いたが、やっぱり悪人正機だろうな。
         宇宙人の独り言か。怪電波か。暗号か。

>善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。
       誰のことを言っているのだろうか?。

>悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。 <宇宙人の独り言?。意味不明。>

>そっちの方が他力本願なわけで。       <完全に意味不明>

>《お任せする,委ねる》の意に適っている。

 付き合い切れん。完全にシンデレラの魔法使いのおばあさんの世界(>>407,>>465)だ。「王法
は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」。王法と仏法の区別が無く、本来は複眼的にものごと
を考えなければならないのに、ファンタジーの恍惚の中で、判断力が混沌としておる。

586 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:15:46
 平生業成と生死の一大事、世間道と出世上道、俗諦と真諦、昔からいろいろな言い方で表現さ
れてきた。
 親鸞の専門は往生極楽の道(歎異抄)だ。世間道を転じて、出世上道に入る。世間道はすなわ
ちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、
常に生死に往来す(行の巻)。だからこそ出世上道が大事であると親鸞は言う。親鸞は、出世上
道の専門家だ。
 お医者さんは、医療が大事だと思うから自分は医者になる。自分は、医療が重要と思っても、
花屋さんや警備員さんは必要ないと思っているわけではない。パン屋さんは、パンが大事だと思
うからパン屋さんになる。しかし、自分はパン屋さんになっても、魚屋さんや八百屋さんは必要
ないと思っているわけでない。
 親鸞は、出世上道の紹介を自分の専門として選んだ。しかし、自分は出世上道を選んでも、世
間道は無意味であると言っているわけではない。世間道も大事だが、出世上道も大事だ。出世上
道には世間道にない重要な部分がある。世間道だけに偏らず、出世上道も加えた複眼的な見方を
しようと提示している。しかし、観点が複眼的にならず、単眼のまま、世間道が出世上道に単純
に入れ替わってしまうと、これは始末が悪い。「出世のみにあらず、世間の事におきても、恐ろ
しき申しごとども数限りなく候(血脈文集(2)」。これは、親鸞でさえ「合い睦るることなく
(消息集(5)」「同座をせざれ(4)」と言って手に負えなかった善証坊的病理現象だろう。



587 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:18:08
 親鸞の時代、複眼的にものごとを判断できないのは善証坊一人だったようだ。しかし、その広
がりは、親鸞の時代に芽があった。現代では坊さんのほとんどがこの善証坊だ。残念なことだ。

 世間道とは何か、出世上道とは何か。王法(お文)とは何か、仏法とは何か。往生極楽の道と
は何か。親鸞仏教の原点、基本的な枠組みが分かっていない。「渡海難さんに親鸞さん聞くほど、
落ちぶれていません」と言う人>>470も2ちゃねんるにはいる。善証坊には親鸞さんも手を焼い
たようだ。渡海難さんに親鸞さん聞くほど落ちぶれる必要はないが、そういう人物には、親鸞も
きっと手を焼くだろう。
 世間道と出世上道の違いをきちんと理解し、その両方を複眼的に受け入れようとする目と耳の
無い無宿善の機は、宿善開発の時期まで五百年はかかるんだろう。

 現代の浄土真宗教団の3大問題は、「善証坊現象」と「座禅の喪失」と「教学の消滅」だ。大
先生が100年掛かっても教行信証が理解できない現実は(>>534)、本願寺の「善証坊現象」
と「座禅の喪失」と実は一体のものだ。

588 :考える名無しさん:2006/04/06(木) 19:16:57
渡海って、あほか?
まあ、聞くまでもないことだが。

589 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:19:29
>>588
> 渡海って、あほか? まあ、聞くまでもないことだが。
    そんなに分かりにくい話だったか?。もう少し分かりやすくしよう

 善知識を愚かに思い、師を謗る者をば、謗法の者と申すなり。
 念仏を教えてくれる人を愚か者と思い、師匠を謗る者を謗法の者と言う

 親を謗る者をば、五逆の者と申すなり。
 親を謗る者を五逆罪の者と言う。

 同座をせざれと候なり。
 そいう人とは、決して同席してはいけない。

 されば、北の郡に候いし善証坊は、親を罵り、善信をようように誹り候いし
かば、近付き睦まじく思い候わで、近付けず候いき。
 昔、北の郡にいた善証坊は、親を罵り、善信を自分勝手にそしった人でし
た。そこで、付き合うのも止め、親しくはしませんでした。 

 何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずし
て、不可思議の放逸無慚の者共の中に、悪は思うさまに振る舞うべしと、仰
せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも候わず。
 どんな場合も、聖教の教えをも知らず、浄土宗の真の意味も分からず、
あっちゃならない自分勝手な生き方をしている者の中で、悪は思いのままに
行えなどと言っている者がおります。そのようなことがあるはずもありません。
   消息集


590 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:20:43
>悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、
 善証坊のような人こそ、仏が救おうとする正しい対象であるという考えがある。それが他力信仰である。

>なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるか
 親を罵り、親鸞に自分勝手誹りをした人が、親鸞よりなぜ浄土に近いと言えるか

>善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。
 親鸞には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。

>それらは他力信仰にもとる。
  親鸞の考えは他力信仰にもとる。

>悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。
 善証坊には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。

>だから悪人の方が善人より浄土に近い。
 だから善証坊の方が親鸞より浄土に近い。

>世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは悪人正機説に抵触するとしか思えない。

 親鸞は言う。世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入
れて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候(消息集)。
 世に、悪いことが起きれば、そのたびに念仏を深く称え、世のあり方を心に入れて祈り合いましょう

 世の中を良くしようという意思は善なる意思である。これは悪人正機説に抵触する。親鸞の考えは
悪人正機に反する。

591 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:21:32
>実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。
 善証坊などは自然のままに生きていた。これがいい。

>善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。
 善証坊に近づくな、親しくなるななどというのは、こざかしい量らいだ。

>善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。
 親鸞などは、善を積めばそのまま浄土に往けると思いがちだ。

>悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。
 善証坊などは、まさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。

>そっちの方が他力本願なわけで。
 善証坊の方が他力本願なわけで。

>《お任せする,委ねる》の意に適っている。
 善証坊は、お任せしている。委ねているんだ。

592 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:26:20
渡海難さんに親鸞さんを聞くほど、落ちぶれてないと言うひとは、
渡海難さんに親鸞さんを聞くほど、落ちぶれた時に思い出してくれ。

593 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:05:30
《信願房のいうところとして、悪は人間のならいであり、悪こそは人間の本来の姿であるからということで、心にも思ってならないことを好み、身にもしてならないことをし、口にも言ってならないことを言って良いようにいわれますけども、それが信願房の申し様とは→

594 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:10:59
→受け取れません。浄土に生まれるのに障りはないからといって、間違ったことを好みなさいと言ったことは、私にはありません。どうみても納得がいかないと思われます。》(『親鸞聖人御消息集』)
《また弥陀の本願を信じた以上は、義の捨てられたることを→

595 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:15:46
→義とするというのが、大師法然上人のお言葉であります。このように義のある限りは、他力ではなく自力であると解されます。また他力というのは、仏の智恵が心も言葉も及ばないはたらきであります。さて煩悩をまとった愚かなものが無上覚という最高のさとりを→

596 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:18:49
→得るということは、仏と仏とだけがおはからいになることであります。少しも念仏する人のはからいによるものではありません。ですから、義の捨てられていることを義とする、といわれるのです。義ということは自力の人のさかしらなはからい→

597 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:28:08
→をいいます。従って、他力に於いては、義の捨てられていることを義とする、というのであります。》(やはり『親鸞聖人御消息集』)ちなみに「義」とは@筋道。儒教の五常の一。A利欲にひかれず、筋道を立てる心。B公共のために尽くすこと。等をさす。→

598 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:48:58
→“義の捨てられてあることが義である”と言い、だが“悪を好みなさいと言ったことはない”と言う。これは矛盾していると写る。だからこそ混乱も生まれたのだろうと思われる。しかし私はここに、親鸞における無限者信仰があるのでは、と考える。→

599 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 05:05:09
→すなわち、どこまで行っても善悪の区別にとらわれる人間存在に対して、自己の力への過信を感じ、意識的な悪も意識的な善も、ともに否定していたのではと考えたい。

600 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:32:48
先日、さる浄土宗系寺を訪ねたことがある。入り口近く看板にスローガンが掲げてあり、“世界平和をめざす”“家族愛を大事にする”等と書かれている。中で読んだチラシにも同様の趣旨が書かれている。また、中で或る僧と話した際、昨今の少年凶悪犯罪について→

601 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:38:40
→「考えられないことだ!」と怒りを露にしていた。私は聴いていて、法然や親鸞だったら別の答え方をしたんではと思えて仕方なかった。そこにどのような因が潜むのか、それによって凶悪犯罪も起こる。と親鸞なら答えると思う。親鸞の犯罪概念は構造的だ。→

602 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:46:29
→また、その寺をみていて痛感したが、浄土教という宗教を、社会通念の補完物としている感を強く受けた。社会通念を越える洞察が中にあった筈が、骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果てに思えた。簡単にいって、とんでもない話だと痛感させられた。

603 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 16:29:51
ブックス・エソテリカ「親鸞の本」刊行

604 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 17:14:22
ちなみに“犯罪概念が構造的”とは、主体の概念が構造的である、ほどの意。内部からは宿縁のように、不可視な拘束性が、また外部からは学校社会のような過剰なストレスが、悪の因子を蒔いて行く。よって主体は知らずに悪に染まる、くらいの意。

605 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:05:17
>>598
>これは矛盾していると写る。だからこそ混乱も生まれたのだろうと思われる。

 親鸞の考えに矛盾があると思うのは貴方の自由だが、僕の理解では一点の矛盾もないんだ。親
鸞はおぬしより、百倍も二百倍も深く考えているだろう。親鸞に矛盾があるんじゃなく、自分の
理解に矛盾があるんじゃないかと、そんな風に反省してみる気持ちはないのか?。おぬしを見れ
ばがっかりする親鸞の顔が僕には浮かんでくるぞ。

>親鸞における無限者信仰があるのでは、と考える。

 本気か?。こんな意味不明の呪文を持ち出せば、どんなちゃらんぽらんなことを言っても正当
になる。全ての思考が停止するだろう。
 自分は、まだなんにも分かっちゃいない。何一つ理解できていないんだという反省がどうして
出てこないのよ?

606 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:07:33
>>599
>意識的な悪も意識的な善も、ともに否定していたのではと考えたい。

 考えたいと思うのは勝手だ。
 意識的な悪も意識的な善も、ともに否定して、それじゃ無意識の悪は肯定するのか。否定する
のか?。貴方の悪人正機説は、支離滅裂のちゃらんぽらんとは思わないのかい?

 北の郡に候いし善証坊は、親を罵り、善信をようように誹り候いしかば、近付き睦まじく思い
候わで、近付けず候いき。明法の御坊の往生のことを聞きながら、その後を愚かにもせん人々は、
その同朋にあらず候べし。無明の酒に酔うたる人に、いよいよ、酔いを勧め、三毒を、久しく好
み喰う人に、いよいよ毒を許して、好めと申し合うて候らん、不便のことに候。
 無明の酒に酔うたる悲しみ、三毒を好み食うて未だ毒も失せ果てず、無明の酔いも、未だ醒め
やらぬ身にて、おわしましおうて候ぞかし。よくよく、御心得られ候べし。なにごとも、申しつ
くしがたく候。またまた申すべし。穴賢、穴賢。

 無明の酒に酔うたる人に、いよいよ、酔いを勧め、三毒を、久しく好み喰う人に、いよいよ毒
を許して、好めと、無意識に勧める人は悪人正機で救われるのか、救われないのか。阿弥陀仏の
救いにあずかるのか、外れるのか。よく考えてみたらいいだろう。
 社会通念を越える洞察が中にあった筈が、骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果て
なのか、そうではないのか、どうか、吟味してみるといいだろう。

607 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:08:17
 親鸞は言う。いよいよ毒を許して、好めと申し合うて候らん、不便のことに候。いよいよ毒を
許して好めと言うのは、どうして不便(不都合)のことなんだい?。どこまで行っても善悪の区
別にとらわれる親鸞は、義つまり、計らいがある。自然ではない。
 仁義礼智信という儒教の教えに縛られている親鸞は、悪人正機に反しているのか、反していな
いのか。

 明法の御坊の往生のことをききながら、その後を愚かにもせん人々は、その同朋にあらず候べし。
明法坊が、念仏の世界に入られたことを聞きながら、それにつけ込んで愚かなことをなさった
人々は、念仏者の仲間ではありません。

 つけ込んで愚かなことをした人々は同朋でないという親鸞こそ、善悪の区別にとらわれている。
親鸞には、自己の力への過信がある。意識的な悪も意識的な善も否定してない。親鸞こそ「同朋
にあらず」。599よ、おぬしはこういう親鸞をどう思うんだい。

>>602
骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果てに思えた。簡単にいって、とんでもない話だ
と痛感させられた。

 人間に主体性はいらないという貴方がこんなことを言えば、聞いている方が片腹痛い。

608 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:14:05
親鸞の言葉は矛盾していると“写る”と俺は書いている。実際言葉尻をとらえると矛盾する。また、親鸞が何を言いたいのか解らず混乱した所に造悪を説かれ、ついていった人間が多数いたことは書簡に伺われる。いかに当時から伝わりがたい教義かこれで分かるよ。→

609 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:23:12
→“人間の知ではとうてい及びがたい力”“果てしもない知”を〈無限者〉と名付けるのは不自然ではない。阿弥陀の知を〈絶対知〉と訳す訳もある。ちなみに古代インド哲学の巨匠シャンカラの思想は親鸞と酷似している。シャンカラは無限者と有限者の対比を→

610 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:31:11
→思考原理としている。

意識は“はからい”を生む。意識とはからいは双子の兄弟なようなものさ。よって浄土から遠い。全然難しい話じゃないよ。

“世界平和をめざす”とか“地域社会に貢献する”とか→

611 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:38:35
→創価学会に任せておけばよいものをわざわざ浄土信仰のスローガンにしている。いかにも無難なスローガンを掲げて安堵しているが実は浄土思想としては自滅してるのと同じだ。愚かで救いようがない。ていうか俺のほうがまだいい笑→

612 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:47:48
→現代社会体制の補完物と化す、というのはラディカルさの喪失だ。世に常識の如く流通する観念を疑う力を捨ててしまって落ち着いている。阿呆らしい。そこらの先生とおんなじことを言うようになってる。浄土信仰の存在理由はもうそこにはない。

613 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 10:00:34
>>608
>親鸞の言葉は矛盾していると“写る”と俺は書いている。
    608さんよ、矛盾しているのは貴方の言葉だ。

>実際言葉尻をとらえると矛盾する。
 言葉の節々で矛盾している。親鸞の言葉尻を捉えているから、貴方はものを言えば言う
ほど貴方は自分で言っていることが矛盾してくる。

>いかに当時から伝わりがたい教義かこれで分かるよ。
 いかにあなたに伝わっていないか、二言三言でよく分かるよ。

 「善導の御教えには、悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれとこそ、至誠心の中には、教
えおかせおわしまして候え(親鸞消息集)」
 まず王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に
深く蓄えて、外相に法流の姿を他宗他家に見えぬように振る舞うべし(蓮如)。
 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき。
                                         (蓮如)

 これは、親鸞仏教を学ぶ者の大前提だ。この大前提を見失えば、「出世のみにあらず、世
間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく(親鸞消息集)」生じるだろう。
 「同座をせざれとそうろうなり」、「同朋にあらずそうろうべし」というのは、王法をもって本と
し、仁義を先としない人に向けての非常に重い言葉だ。王法をもって本とし、仁義を先とする。
こういう担保を信頼して親鸞は釈迦の戒・定・慧と別異の仏教を提示している。王法をもって
本とし、仁義を先とするということができなければ、親鸞仏教は、大衆に向かって主張する前
提の土台を失う。

614 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 10:07:23
 悪人正機も、聖道・浄土の慈悲も、「同座できない」「同朋にあらざる」と親鸞が言わざ
るを得ない人に向かって説いている教えでは決してない。王法をもって本とし、仁義を
先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に深く蓄える人に向かって説いて
いる。

 他力に於いては、義の捨てられていることを義とする、 〜 「義」とは@筋道。儒教の
五常の一。A利欲にひかれず、筋道を立てる心。B公共のために尽くすこと。等をさす
>>597)。こんなことを考えている人に親鸞は悪人正機も、聖道・浄土の慈悲も説いて
いない。時代、時代、社会、社会には、それぞれの常識・倫理・道徳がある。そういうも
のを軽視する人に、親鸞の考えが伝わるわけがない。こういう人には、親鸞の教えなど
矛盾して写るだろう。親鸞だってこういう人とは、「同座をせざれ」、「同朋にあらず」と言
っている。

 608に向かって説かれなければならない教えがあるとすれば、次の言葉だろう。紹介
する。「無宿善機、無左右不可許之者也(歎異抄)」

 608との議論も、ほぼ終わりに来たと考える。

615 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 13:04:38
 哲学板である議論がほぼ終結に近づいてきたと思います。
 親鸞思想の枠組みに関する議論だと思っています。興味ある方は覗いてみてください。

 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/412-614
 渡海 難の主張は485以降です。


616 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 16:19:27
>>615
 宗教板にリンクを張るはずの誤爆です。

617 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 21:54:30
ハイデガーは1927年に『存在と時間』を発表。当時の哲学研究者に電撃を走らせた、と言われている。そこにハイデガーは「本来的存在‐非本来的存在」「存在忘却‐存在奪取」等の斬新な対概念を盛り込んだ。しかしこの作品は上巻のみ発表されたまま下巻は発表されなかった→

618 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 22:00:50
→しかしハイデガーの探究は留まることを知らず、1976年の死まで続く。しかもそれらの思索はといえば、『存在と時間』で練り上げた概念をあたかも相対化せむとするものであった。人間の企投はそれを強いられる被投性と一つである。それはもともと『存在と時間』に→

619 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 22:12:19
→あった考え方だった。しかしハイデガーはその被投性を先鋭化させることにより、いわば『存在と時間』の主体主義を解体させむとした。それは展開であり、先鋭化であり、深化であり、しかし同時に『存在と時間』の解体なのである。私はこの過程に親鸞との類似をみる。

620 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 22:25:46
親鸞の『教行信証』は50代前半に初稿は完成したと言われている。そこに書かれた他力信仰をその後の親鸞はひたすら先鋭化させたのだと考える。それは先鋭化であり、同時に解体である。『末燈抄』等の書簡は80歳にならむとする年代のものだ。そこでは己の信仰さえ→

621 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 22:31:28
→相対化しないではおれないような境地が描かれている。それは他力信仰の徹底化であり、しかし同時に解体でもあった。よって片方のみで親鸞を捉えようとする試みは絶えずもう片方の親鸞に裏切られざるを得ない。そう私は考えてみたい。

622 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 22:45:11
それは興味深い

623 :考える名無しさん:2006/04/08(土) 23:55:37
前提として聞きたい唯一つ、皆さんは教行新証に救いを、解釈でなく安心を得ましたか、理屈は良いから。

624 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 04:22:55
『教行信証』は素晴らしいし感動もある。ただ語彙が難しいよ。ありきたりな意見だけど『歎異抄』の異義条々第三条はやはりいいねえ。“どうせ阿弥陀の誓願により浄土へ往けるのだから悪を恐れないとは何事か!”と宣う当時の僧に対して反論している。→

625 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 04:28:58
→《阿弥陀の誓願を恃みにし、いい気になってこそ、阿弥陀の〈絶対知〉のはたらきに身を委ねるところの〈信〉もゆるぎないものとなろう。》とか、しびれる殺し文句だと思うなあ。凄いです。

626 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 08:35:52
 しばらく宗教板の方に戻ります。まともに大人の話ができない617が冷静
になるのを静観しながら待ちたいと思います。
 617が冷静になって落ち着けば>>379の続きの議論をしたいと思います。

>>623
 安心して念仏ができるようになったのは、教行信証を読めるようになって
からです。当たり前のことでしょうが、教行信証を読んで、僕は親鸞の考え
を知りました。

627 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 08:59:57
またしても驚いた。私は“まともに大人の話ができない人間”なのだそうだ。失礼な嘲笑や中傷を517や幾つものレスでさんざん浴びせ、汚い、傷つける物言いをこれでもかと私に投げた渡海難氏からそう言われるとは!苦笑するしかない。→

628 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 09:07:31
→私は渡海難を当初は信頼していた。正座をして対話に臨んでいた。しかし度重なる嘲笑や中傷を見てからはあぐらをかくようになった。最後は寝っ転がっていた。まともに相対する気が失せた。日に何時間もの念仏を唱えることも氏はあるそうだ。→

629 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 09:16:45
→そんな人間がああまで堕落したおぞましい姿を曝すのだからよくよく念仏なぞたいした意味などないのかもしれん。対する私は渡海難を“バカじゃないか”呼ばわりすることは一度もなかった。嘲笑もしなかった。私の方が辛抱強かった。念仏って何だ?信仰って誰だ?→

630 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 09:23:37
→渡海難が一生懸命に主張するおかしな立論についてもこの際触れておこう。渡海氏の言う国家、社会、法律、ルールというのは親鸞も視野に入れていたに決まっている。人間が生きる舞台として見ていたと私は捉える。親鸞の関心は人間と信仰なのだから当然のことだ。→

631 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 09:30:18
→渡海氏が誤っているのは人間の生の条件として見るべきそれらの領域に対して、過剰な意味付けを施し、しかも親鸞の思想にとって一大事な如く触れ回るところにある。だから彼の話はいつも説教臭いし親鸞や唯円と違い、“皆さん、ルールを守り、→

632 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 09:35:05
→立派な社会人になりましょう!”といった、成人式での政治家の訓話のようになってしまう。そんなものは親鸞とは何の関係もない。

633 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 10:00:48
ほんまやなあ。それではいつのまにか鎮護国家仏教になってしまうわ

634 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 11:11:54
だよね。親鸞読みの親鸞知らずってとこか。

635 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 11:48:42
 誤解があるようなので、簡単に解いておきたい。傍観していられない(苦笑)。
 これ以上言っても無駄と思えば、その時点からROMに入ります。
 こんな話で理解して貰えるか?
 
消火器屋「奥さん。火遊びするお宅のお子さんのために消火器を置きませんか。みんな、
火事の時困っているんですよ。消火器があれば、子供が火遊びしても大丈夫ですよ。必
ず救ってくれますよ(悪人正機)。
 穏やかな毎日を過ごすのに、二つの道があります。子供に、火遊びしないようにしつける。
しかしこれはなかなか難しい(聖道門)。もう一つは、火事が出てしまった場合に備える。消
火器を置くという道です。簡単に穏やかな生活を守る(浄土門)」。

子 供「ワーイ。かあさんは消火器を買った。買った。消火器は火遊びする子供のためにあ
るんだよ。消火器があるから、もう大丈夫だ。消火器は火遊びする子供を救うためにあるん
だ」。
母 親「火遊びしちゃいけませんよ」
子 供「火遊びしちゃいけないなんていうのはおかしいよ。それは、火遊びする子供を救う消
火器屋さんの心に反する。」
母 親「消火器屋さんが火遊びしてもいいと言ったのは、火遊びしちゃいけないんだというこ
とを、十分分かっていることを前提にして、言ったんですよ。(薬あればとて毒を好むべからず)
 あの消火器屋さんの家でも、子供が火遊びしたことがあったそうです。消火器でぼやの内
に消したらしいけど、火遊びした子供には、きつくお灸を据えたと言っていたでしょう。」

636 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 11:50:32
子 供「そりゃ、消火器屋の言葉は矛盾していると“写る”と俺は言うよ。実際言葉
尻をとらえると矛盾する。また、消火器屋が何を言いたいのか解らず混乱した所
に火遊びを説かれ、ついていった人間が多数いたことは伺われる。いかに消火器
屋の言葉が伝わりがたいかこれで分かるよ。
 人間の知ではとうてい及びがたい力、果てしもない知を〈無限者〉と名付けるの
は不自然ではない。阿弥陀の知を〈絶対知〉と訳す訳もある。ちなみに古代インド
哲学の巨匠シャンカラの思想は消火器やと酷似している。シャンカラは無限者と
有限者の対比を思考原理としている。
 意識は“はからい”を生む。意識とはからいは双子の兄弟なようなものさ。よっ
て浄土から遠い。全然難しい話じゃないよ。火遊びしては行けないなどといえば、
浄土から遠い。
 ハイデガーはその被投性を先鋭化させることにより、いわば『存在と時間』の主
体主義を解体させむとした。それは展開であり、先鋭化であり、深化であり、しか
し同時に『存在と時間』の解体なのである。私はこの過程に消火器屋との類似を
みる。
 消火器屋の話は50代前半に初稿は完成したと言われている。火遊びする子を
救うという他力信仰をその後の消火器屋はひたすら先鋭化させたのだと考える。
それは先鋭化であり、同時に解体である。消火器屋の考えは、己の信仰さえ相
対化しないではおれないような境地が描かれている。それは他力信仰の徹底化
であり、しかし同時に解体でもあった。よって片方のみで消火器屋を捉えようとす
る試みは絶えずもう片方の消火器屋に裏切られざるを得ない。そう私は考えて
みたい。

637 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 11:51:50
 かあさんが言う国家、社会、法律、ルールというのは、消火器屋も視野に入れ
ていたに決まっている。人間が生きる舞台として見ていたと私は捉える。消火器
屋の関心は人間と信仰なのだから当然のことだ。
 かあさんが誤っているのは、火遊びしたいという人間の生の条件として見るべ
きそれらの領域に対して、火遊びしてはいけない意味付けを施し、これを消火器
屋の思想にとって一大事な如く触れ回るところにある。だからかあさんの話はい
つも説教臭いし、消火器屋と違い、“皆さん、ルールを守り、立派な社会人になり
ましょう!”といった、成人式での政治家の訓話のようになってしまう。そんなもの
は消火器屋とは何の関係もない。」

野次馬 「ほんまやなあ。それではいつのまにか消火器屋は鎮護家庭になってし
まうわ」野次馬 「だよね。消火器解説屋の消火器知らずってとこか」。

638 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 11:58:26
 本日、午後以降、数日間、カキコ不能

639 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 14:48:20
渡海氏の遊び心が見れて楽しかったな。面白い(笑)ただ結局何なのかはわからんかったけどね(苦笑)by矢印

640 :考える名無しさん:2006/04/09(日) 19:32:58
渡海氏の長文は『歎異抄』の中の《薬があるからといってわざわざ毒をのむこともないでしょう》を基にしたんだろうね。つまり造悪論への諫めだ。それはいいとして、俺との対論もそろそろ終かね。色々あったがまあ楽しませてもらったと最後に伝えておくよ。

641 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/10(月) 10:52:57
>>640
 多忙 詳細後日

642 :考える名無しさん:2006/04/10(月) 19:27:19
わしは、久しぶりに除いたが、議論が難しくなっておるの。

643 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/11(火) 23:04:21
>>639-640
 考え方に少し共感していただけたようで喜んでいます。

2ちゃんねるのみなさんへ
 本当は、もっと続けたいのですが、残念ながら、昨今の諸般の多忙な事情がそれを許してくれ
ないようです。宗教は私の専門ではありません。
 突然ですが、しばらく、2ちゃんねるから距離を置きます。1か月程度、数ヶ月、半年又は、1年以上に
なるかは分かりません。ご了解ください。

 メールは tkatasi@mail.goo.ne.jpへ送って下さい

644 :考える名無しさん:2006/04/13(木) 18:53:55
べつにと海難がさっても誰もこまらへんやろ。
自意識かじょうやな。

645 :考える名無しさん:2006/04/14(金) 00:55:43
人間というのは念仏しながらでも人を殺せる、
そういう生き物なのだという認識が親鸞さんにはあったのかもしれない。
悪人正機という思想は悪人が玩ぶには危険すぎる。
そのかわり渡海難のような善人には安全なんだね。
なんとなく微笑ましいやりとりでした。

646 :考える名無しさん:2006/04/15(土) 11:01:55
最近、本願寺派や大谷派と称する人たちの『歎異抄』解釈を読んだ。すると、悪人正機説について、“親鸞は軽い冗談のつもりで喋った発言です”あるいは“悪人とは具体的な存在ではない”といった解釈が書いてある。つまり、『歎異抄』における唯円や親鸞の言葉→

647 :考える名無しさん:2006/04/15(土) 11:13:48
→に対し、まともに受け取ってはならない言葉、あるいは仏教的な・専門的な知識がなければ理解できない言葉だとして、『歎異抄』にある思想的・根本的な意義に覆いをかけようとする作業が為されているのが判った。それらは親鸞の思想を不当に矮小化する試みであり、→

648 :考える名無しさん:2006/04/15(土) 11:23:33
→要注意な書物である。親鸞のもつ深さ・過激さが彼の自称後継者たちにとってさえ邪魔なものとなる現象は今に始まるものではなかろうが、不当な通俗化や神秘化ほど詰まらぬものはない。

649 :考える名無しさん:2006/04/15(土) 11:35:21
http://www.mnbvfrt6y7890p;lmnbvcdrty6789olkjnbvfdrty7u89olknbvcdfty7u8i9olkmnbvcdrty6789olkmjnbvcdrt6789olkjnbvcdrt6789okjnbvcdrty789okjnbvcdfrty7u8i9oknbvcdrt6y789olkmnb vcxdrty7u89iolkmnbvcxdrty7890oplkmnbvcdrt6789


650 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:11:28
蓮如の『御文』には幾つかの際立つ特色がある。まず、極楽往生には宿善が要る、と至る所で蓮如は説いている。宿善とは何かといえば、前世から今世までに積まれた善のことである。宿善は蓮如において根幹というべき往生の機である。『歎異抄』は現存する原典としては→

651 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:18:37
→蓮如による写し本が最古のものらしいが、その『歎異抄』の奥書には、蓮如の署名とともに、“宿善なき者には見せるべからず”の注意書きが添えられている。元々『歎異抄』には“むやみに外部に見せてはならぬ”の注意書きがある。しかし、宿善などという注意はない。→

652 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:33:57
→蓮如に於いては行者は悪を悔い改めることが大事であり、何らかの形で善根を造ることなしには往生できない。この善根の強調は親鸞とは決定的に異なっている。親鸞は蓮如とは違い、善に対して阿弥陀の摂取があるとはしていないのである。そのことは『教行信証』→

653 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:40:59
→化身土巻の巻中、親鸞の言葉に現れている。《ここにおいてはっきり、ひとえに念仏を修めながら、しかも定散二善の心をまじえる人は、溢れるような喜びの心をうることはない、とわかった。》《なんと悲しいことだ。煩悩にさえられた愚かな身でありながら、→

654 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:45:42
→無始よりこのかた、助業・正業をまじえ、定散二善の心をまじえてきたために、ついに迷いをのがれるときを持つことがなかった。》《およそ、大乗・小乗の聖者や一切の善人は、本願のみ名を称えて、それを自分の善根とするから、信心を起こすことができない。→

655 :考える名無しさん:2006/04/16(日) 03:51:01
→仏の智恵をさとることがない。いわば、かの仏の救いの因がすでに確立されていることをはっきりと知ることができないのである。だから、真実の報土にはいることはない。》宿善に執着する蓮如は親鸞の教義から遠い。また、親鸞教義の改竄をしているとしか思えぬ。

656 :考える名無しさん:2006/04/17(月) 21:33:31
>>646
誰の本?

657 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 14:54:51
つくづく蓮如の『御文』は面白いといおうか、この人が宗教家というより企業家と呼んだ方が相応しい人物なような感を抱かせる。それというのも、先に指摘したように、往生の機について、蓮如は宿善の有無を絶対的な機としている。信心の獲得もまた、宿善のお陰→

658 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 14:59:25
→なのである。そこから蓮如は独自の布教計画を確信する。すなわち、信心の獲得が宿善の有無に左右されるとすれば、宿善をもたない人間に向かって布教しても無駄なことになる。よって、蓮如においては、相手が宿善をもつか否かの見極めは何より大事である。→

659 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 15:11:35
→いわば布教の効率化のつもりだったのだろうか。蓮如の『御文』によれば、これは立派なマニュアルだったらしく、いかなる機の相手にも布教する風潮にたいして、“定められた通りに”布教はすべきだと嘆いている文がある。この人は面白過ぎる。

660 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 23:15:41

たとえば、山口・光市母子殺害事件
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1145367959/

に対して、前審で確定された事実にたいして
1)犯人
2)遺族
 にたいしてどういう行動をすべきなのか
宗教的立場から明確な指針を示すべきだ。
行動原理としての宗教のありかたとして当然だろう。

 犯人に対して自決せよ!というのも結論だ。
 遺族に対して復讐せよ!というのも宗教だ。

行動原理として機能しない宗教にたいしてヘドと嫌悪感を覚える。
単なるサービス業か?

親鸞はどう応えるのだ!!!

661 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 23:19:19
はっきり言おう。

行動原理として機能しない「宗教」は害悪だ。

本願寺は火炎のなかに消失しても当然だろう。

662 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 23:22:42

親鸞は釈迦を裏切った。逆賊なり。

663 :考える名無しさん:2006/04/18(火) 23:55:33
阿弥陀なんてちゃんちゃら可笑しい。
単なる想像上・イメージ上の産物にしかすぎぬ。ニセモノ。うそ。
あえて如来=仏といえるのは実在といえるゴータマ・ブッダだけだろう。
 大日、阿弥陀、薬師こんなの大乗と称する連中のでっちあげイメージ
にしか過ぎない。
 よーするに「神」とキリストの関係・構造を造りたかった、造った
そうだろ?
 釈迦の十二縁起・四聖諦説・戒定慧・無常観・非我感・十難無記など
という根本精神は全くスポイルされている。

 まあ、本願寺なんて商業サービス業で白足袋に毒された連中だから
♪ 何のことか解らない ど〜でもいいですYO ♪

 堕落宗教!!!


664 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/04/19(水) 00:01:30
しかし、学術参考資料としてアレは興味があるぞ。
まぁ、秘伝書みたいなもんだろうから公開はしない
だろうが・・・。

駄目?

665 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/04/19(水) 00:06:22
・・・あ、我が家は浄土真宗の檀家です(笑

666 :考える名無しさん:2006/04/19(水) 22:29:56
想像の嘘なら、過去の何千億の素朴な信者の信心が嘘か、お前は阿呆か。

667 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 00:14:26
秘伝書などないが。

668 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 15:35:04
信心は嘘ではない。
信心の対象がウソだ。

鰯の頭の類

ゴータマ・ブッダとの断絶を明確にし、

『仏教』を名乗るのは止めるべきだ。

669 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 16:02:01
>>668
そうですか。
なにか嫌なことでもあったんですか?

670 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 20:44:02
>>669
鰯がきらいなだけ。

671 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 21:18:09
縄文的センスと仏法をつないだのが親鸞。

ゴータマとつながらないのが仏教じゃないなら
竜樹はどうなの。

672 :考える名無しさん:2006/04/20(木) 23:24:47
 ここで問題にしたのは抽象論ではない。
山口・光市母子殺害事件 の
犯人及び被害者の母子さらに遺族にたいし
人間の根源的な行動規範を示すべき宗教が
どう応えるのか、ということだ。
 根源的な問題に応えるのが宗教だろう。

673 :考える名無しさん:2006/04/21(金) 00:03:44
商業主義的葬式「仏教」として、代金を戴いて
強姦され、むごたらしく殺された母と幼い子の
葬式をやればそれでいいんですか?

犯行当時18歳のふてくされた犯人に
本願寺はどうせよと声明(あえて)を示すのですか?
遺族の「恨み」にどうせよというのですか?

ブログで「嘆かわしい」とでも書いとくだけですか?

祇園でホステスを追いかけまわしているだけが能じゃないでしょ。


674 :考える名無しさん:2006/04/21(金) 09:07:26
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

675 :考える名無しさん:2006/04/21(金) 11:45:11
ここは本願寺教団の公式発言の場ではないです。

教団云々ではなく、それぞれが「親鸞の信心」に迫る、というような流れです。

676 :考える名無しさん:2006/04/21(金) 21:43:00
天地は公平無私、積善の家は栄え、積不善の家は滅ぶ。

677 :考える名無しさん:2006/04/21(金) 23:20:35
>>676
細木数子は、テレビに出っぱなしで、
霊感商法で得たあぶく銭で栄えているけど。

678 :考える名無しさん:2006/04/22(土) 00:06:22
人間の意志・判断・発語・行為には無数の宿縁が作用しているとするのが親鸞。細木の説教にはそのような洞察はない。だからあのような皮相な道徳説法に落ち込む。善悪のとらえ方は雲泥の差がみえる。

679 :考える名無しさん:2006/04/22(土) 01:35:11
>>678
おいおい、そんなに真面目に比較なんてしなくていいよ。
あっちは、もともと詐欺なんだから。

680 :考える名無しさん:2006/04/22(土) 22:51:05
細木数子を必要と人が居る以上、信じる自由意志を否定しない。人は愚かではない

681 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/04/22(土) 22:52:35
ちょっと書き換えて、麻原尊師を必要と人が居る以上、信じる自由意志を否定しない。人は愚かではない

682 :考える名無しさん:2006/04/22(土) 23:37:06
>>680
それが、現実には愚かにも欺される。
細木の霊感商法による墓相販売でどれだけ被害者がでたか。
細木数子を必要とするのは視聴率をかせげるテレビくらいで、
それをまともに信じた善人が欺される。
テレビは裏の事情は知っていても、外での商売は責任なし。

683 :考える名無しさん:2006/04/23(日) 21:23:05
じゃあどうするの?茶化したり、斜めに視て愉しいかい?

684 ::2006/04/23(日) 22:18:06
私は神佛を敬い、親鸞さんを師として、日々を生きてます。

685 :考える名無しさん:2006/04/24(月) 23:57:38
>>684
「神佛」は両立するのか。
 十二因縁及び三法印の立場から
 自説を述べ併せて反対説を批判せよ。

686 :& ◆G/Lfh0EcLE :2006/04/25(火) 21:51:23
阿含宗の方ですか?原始仏教阿含部ですよね、そういう言葉は。

687 :考える名無しさん:2006/04/26(水) 21:53:04
詐欺を弁護しないけど万人が納得し、1人も文句云わない幸せになる方法なんて存在しないし。

688 :考える名無しさん:2006/04/29(土) 10:28:35
浄土真宗はどんな人でも仏になれます
よってどんな悪いことをしても大丈夫です

689 :考える名無しさん:2006/04/29(土) 10:42:36
やっぱ親鸞だけじゃ駄目だな
法然の精神がないと

690 :考える名無しさん:2006/04/29(土) 10:59:57
法然・親鸞はセットだと思う。俺はいまの「宗派」にこだわらない。



691 :考える名無しさん:2006/04/29(土) 21:04:10
第一条
弥陀の本願には、老少・罪悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

倉田百三も聖道門の難行・自力修行の法が楽だと思ったと言っている。
善人には易行のほうが難しいらしい。無疑の信心は・・・・・・・・・・・

692 :考える名無しさん:2006/04/29(土) 22:19:22
ブッダが難行・自力修行で達した無上正等覚に果たして一念で達するかという
真宗成立の根本問題があるわな

693 :メフィスト:2006/04/29(土) 23:52:14
ケケケケ・・・
  そもそも「大乗」の超簡単ワープ論そのものが
  問題だっていまごろ気ずいた小ましな奴がやっと出たか。
  菩薩なんてのをでっちあげて、大衆化路線をひた走ったあげく、
  インテリ坊主の内容空虚な大伽藍でドシロート相手のこけおどし
  をやってオナニー状態なのが日本の仏教さ。

    だから、日本人は実質無宗教という「健全な状態」にいる。

                ケケケケ・・・・

 倉田百三・・・・そんな変態野郎もいたっけな(WWW・・

694 :メフィスト:2006/04/29(土) 23:57:12
「仏説」?

 おいおい、俺はそんなこと教えた覚えはないぞ

 勝手にでっちあげるな! と釈迦もいい。

695 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 00:16:32
>>692
立つ瀬が無い、ってこととは違いますよね?

696 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 00:41:05
念仏の心は生存地平の転換に他ならない。
親鸞はその転換を「自力を捨てて他力に帰す」という語で表現した。

「悪をもおそるべからず」「他の善も要にあらず」は、自力執心に対して言われたことだ。
造悪無碍説の異義もまた、自力執心の一環として起こったものだと私は思う。
彼らは己の悪業をもって他力を計らっているにすぎない。
造悪無碍をもって他力信心などと吹聴する輩には、
「善をもおそるべからず」「悪も要にあらず」と説くべきではなかろうか。

「他力」の地平に視点を転換してこそ、
「曾無一善(無量寿経)」の己の日常の所作が観察できるのであり、
煩悩による己の悪業の所作に深い懺悔をも得、「こんな己でさえ仏道に入れさせてもらえるのか」と歓喜する。
念仏からこの「二種深信」を外してしまえば、それは凡そ浄土仏教の教えではなくなるだろう。

697 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 01:16:08
己が善人であるか悪人であるかを問わない。
己が悪人であると気づくか否かをも問わない。
むしろ、悪業を懺悔して善人ぶることを警戒せよ。

凡夫の執着する善悪など取るに足らぬ。
親鸞さんの要請は自己というものの破棄にある。

698 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 01:26:33
>>696>>697も、どちらもある意味で正しい。
二種深信のない念仏は、ただの空念仏。
しかして、自己の場において為す懺悔や歓喜をもって
拠り所とするのであれば、他力信心ではない。

己のいかなる行いをも帰着点としないところに、親鸞の真髄がある。

699 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 10:01:11
 全く同感。ところがそれに対して現在の浄土教の僧は懺悔・悔い改めこそが往生の道だと説いている。悪は摂取されない、善行をこそ阿弥陀は摂取するのだ、と。つまり人間の善悪と阿弥陀の善悪を同一線上に置いて阿弥陀を人間化しているのだ。

700 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 20:06:04
でも現実自分に反省して自分を磨きたい、変わりたいという努力もはからいなのかな?悪人は開き直るよ

701 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 20:13:58
悪人とは自己の悪性であって、実際の犯罪行為やその他ではないんだと
仏性に目覚めていないこと自体とかなんとか

702 :考える名無しさん:2006/04/30(日) 22:52:39
自分を磨いたり自分を自分で変えたり出来るのだろうか?

見かけや行いは変えられても
自分の心の中はそう変わらないということではないか。


703 :考える名無しさん:2006/05/01(月) 00:53:02
「凡夫に仏性は無い」
それが叡山での苦行の果てに到達した親鸞さんの結論であった。
では、涅槃経に一切衆生悉有仏性とあるのは何故か?
法然さんがその答えをくれた。
阿弥陀仏の本願力こそが仏性だと。
「仏性、すなわち南無阿弥陀仏」

704 ::2006/05/02(火) 21:21:05
それは最澄と論争した徳一の主張だ。精進努力こそ佛性・宝なのに、私は変らないと自分に言訳しない。

705 :考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:22:33
「精進努力こそ佛性・宝」という人に易行の門は無用でしょう。
一般に、頭の良すぎる人は歎異抄が理解できません。

706 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/05/21(日) 10:24:06
>>658
>蓮如は独自の布教計画を確信する。すなわち、信心の獲得が宿善の有無に左右されるとすれば、
宿善をもたない人間に向かって布教しても無駄なことになる。よって、蓮如においては、相手が
宿善をもつか否かの見極めは何より大事である。

 音楽は万民のものである。人類の財産とも言えるクラシック音楽は、老若男女、あらゆる人々
に感動を与えるものだ。ベートーベン音楽にしても、サラサーテ音楽にしても、ショパン音楽に
しても、こうした名曲を嫌う人は、世の中に一人もいない。

 だからと言って、幼稚園生や小学校一年生に、ベートーベンの「運命」、サラサーテの「チゴ
イネルワイゼン」などを分からせようとすれば、中には聞き耳を立てる子もいるかもしれないけ
ど、多くの子供は聞こうともしないで、自分勝手なお絵かきや、粘土遊びを始めるんじゃないか。
幼稚園の子供には、その子達に理解できる童謡を教えるのが一番いい。ベートーベンや、サラサ
ーテを教える時期ではない。

 大人だって、義太夫や浪曲は好きだが、「運命」や「チゴイネルワイゼン」はバタ臭くていや
という人もいるだろう。
 こういう人に向かって、闇雲にベートーベンやサラサーテをおしつければ、反発はある。高い
芸術性のある音楽は、万民の救いになるということと、それを嫌がる人もいるということは、決
して矛盾しない。

707 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/05/21(日) 10:25:58
 幼稚園や小学校の時は、ベートーベンなど大嫌いだったが、二〇歳過ぎたら、急に大好きにな
るという人もいる。子供の時は好きだったが、大人になったら株の方が面白くなって、音楽など
は見向きもしなくなったという人もいるだろう。

 相手が受け入れるか否かというということは、そういう気持ちになっているかどうかが大きな
問題だ。

 「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえって
また曠劫を径歴せん」。(教行信証 序文)

 少し前まで、親鸞は何が言いたいのかさっぱり分からなかった。しかし、急に分かるようにな
ってきた。もしそういうことがあれば、分かるようになったことを喜ぶがいい。

 十歳の誕生日に父がベートーベンの「運命」のCDを買ってきた。毎日聞かされ、嫌になったもの
だ。そんな父に大いに反発し、半年後、そのCDをゴミとして捨てた。しかし、今、二十歳にな
って、改めて同じ曲を聴く機会があった。そしてそのすばらしさに、思わず涙してしまった。な
んと素晴らしい曲かと思った。今になって、クラシック好きの父の心が分かってきた。
 もしそんな人がいれば、音楽が分かる心を伝えてくれたお父さんに、遠くから感謝するといい
だろう。

 音楽などは知らなくても立派に生きていける人は少なくない。宗教などは知らなくても立派に
生きていける人は少なくない。「運命」や「チゴイネルワイゼン」を分からせようと思うなら、
相手の器量を見極めることが大事だ。時期と方法を誤れば、CDでもゴミとして捨てられ、反発
だけを買うだろう。時期と方法は、何かを伝えようとするとき、大事な問題である。相手の器量
を見極める目の無い人は、闇雲に宗教を他人に宣伝するものではない。当たり前のことではない
か?

 当分、カキコ不能。

708 :おっさん ◆AkQaZaQyXM :2006/05/27(土) 21:44:34
わしは最近
行をしている。お念仏である。
郵便をポストに入れるとき、無心に
一言南無阿弥陀仏を唱える。

これで、吉本や梅原と違った人間になった。

709 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 22:24:22
《自然の自はおのづからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるていう言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。→

710 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 22:28:01
→法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。→

711 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 22:32:45
→これが判って、すべてあらためて人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。》つまり、見込みがあるから先に布教しようとか、見込みがないから後にしようとかの発想そのものが→

712 :考える名無しさん:2006/05/27(土) 22:38:43
→姑息なはからいであり、そのような姑息な発想をすること自体、実は親鸞を解っていないことを露にしているといえます。宗教は数ではない。しかし、教団を中心に考えれば数は重要。蓮如は教団組織者としては優秀だったでしょう。しかし彼は親鸞を理解できなかった。

713 :おっさん ◆AkQaZaQyXM :2006/06/01(木) 08:47:44
おまいらは、南無阿弥陀仏を唱えているのか?

714 :考える名無しさん:2006/06/01(木) 13:05:18
スレ違いすいません。調べても分からなかったのですが、
暁烏敏の『わが歎異抄(下)』がいつ出版されるかご存知の方いませんか?

715 :おっさん ◆AkQaZaQyXM :2006/06/02(金) 11:58:02
本屋に聞くのが良いだろう。

716 :考える名無しさん:2006/06/03(土) 21:23:32
>>714
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/19912979
  ↑
  これか? 

717 :おっさん ◆AkQaZaQyXM :2006/06/09(金) 23:13:19
わしは、大衆を救うために無所属で
立候補(市議選)にでることにした。

これも他力や。

718 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 09:13:48
>>717
どこで立候補すんのか教えて
妄想だったらもうこないでいいよ

719 :おっさん ◆AkQaZaQyXM :2006/06/13(火) 23:03:28
京都市左京区や。
もう運動してるよ。
このスレに京都人はいるのか?
いたら、わしを特定できるかもな。

720 :考える名無しさん:2006/06/15(木) 15:52:47
どの政党から立候補すんの?
あと名前は?
選挙に立候補する人間が名前だすの恐れちゃだめだぜ?
名前覚えてもらうのが仕事なんだから

721 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/17(土) 21:11:26
 心と宗教板で「後生の一大事」を論じ始めました。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/397 以降です

722 :考える名無しさん:2006/06/29(木) 00:36:28
>>16
龍樹の研究ならちょうど今やってますよ


723 :考える名無しさん:2006/07/05(水) 23:19:41
>>59
それは 宿業 ということの説明ですね
「千人殺してくれないか」
と言われても、実行出来ない人は出来ない。
それは宿業がそうさせているからである。
反対に殺そうと思っていなくても殺してしまう時もある。
これもまた宿業によるものなのです。

つまり何事も自分の思い通りにいかない、ということ(思い通りに行くならば簡単に殺せるはず)
また、縁がくれば自分の意志に関わらず人を殺してしまうかも知れないし。

そしてどんな宿業が備わっていようとも、それを救うのが弥陀の本願、ということです。





724 :考える名無しさん:2006/07/12(水) 00:13:45
>>714
それ京都タワーの本屋に売ってたような希ガス

725 :釈親鸞:2006/08/08(火) 21:13:33
はじめてきましたが、議論が止まっているのでつか?

726 :考える名無しさん:2006/08/09(水) 01:29:50
500〜600〜700あたりで蓮如に影響受けた渡海難氏と武骨に親鸞を読み続ける名無しの論争が見れますよ。

727 :釈親鸞:2006/08/09(水) 01:46:17
論争は読みました。僕は僧侶ではないですが、親鸞が好きです。
しかし、O田に大学やR国大学の親鸞学者は信用してません。
ここで、生の議論をしたかったのですが、止まっているようでつね。

728 :考える名無しさん:2006/08/10(木) 19:54:23
>>727
誰ともなく議論を提出してみれば?
誰かが答えるかもしれないぞ。

なむなむ。

729 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/13(日) 17:43:02
葬儀論を書きました。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/

 なお、目下、宗教板だけで手一杯です。こちらにこれません。m(_ _)mスマン

730 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/28(月) 01:03:53
 人力飛行機さんという方が開いているホームページをたまたま見たら、僕がこのスレで議論してい
たことを扱ってくれていました。
 その中で、
 「 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべし(人力註:出典不明)」
 とありました。http://id6.fm-p.jp/book/page.php?uid=18891976&dir=127&bnum=3&num=4&mem_pw=&u_name[1]=&u_name[2]=&u_name[3]=&u_name[4]=&no=2
 出典を明らかにしておきます。人力飛行機さんのメルアドを探したんですが見つからないので、ここ
に書いておきます。
  お文(蓮如 3帖目 11番)

731 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 13:39:09
心と宗教板で、晴れて良スレの御認定を受けたことをお知らせします。
 □■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□ http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/

 上記スレは、ノートントラップという仕掛けを受けました。インターネットウィルスを擬装した仕掛
けだそうで、他の板では以前から大変問題になっていたようです。
 詳しくはhttp://ansitu.xrea.jp/guidance/?Trap#NortonTrap

 ノートントラップが仕掛けられると言うことは、2ちゃんねるの場合、反対者から「良スレ」である
という認定を受けたことを意味するそうです。自分たちには全く反論の余地がないからどうから、どう
か意見を述べるのを止めて欲しい、そういう良スレであるという認定です。

 今回、親鸞仏教(浄土真宗)質問箱は、2ちゃんねるで「本願寺様の有志の方」からそのような認定
を受けたようです。
 浄土真宗とはどういう宗教か、親鸞仏教はどういう宗教か、既成教団本願寺のお坊様が、発言を「ヤ
メテクレー!」と、言いたくなる思想はどういう思想か、一度ご覧ください。
 ここには、本物の親鸞仏教、本物の浄土真宗があると、本願寺様の有志の方が認定くださいました。

 なお、ウィルスワクチンにノートンをお使いの方は、無効化ソフトがあります。
 http://www.geocities.jp/cen_hp/program3.html

 接続会社でウィルスと誤認して閲覧を拒否する場合があります。セキュリティを解除する方法がある
と思いますのでご研究下さい。

 ノートントラップは、決して恐い仕掛けではないようですが、ノートンの高度性を逆手に取った子供
だましのおもちゃで、今回、本願寺様のお坊様は、これにより親鸞仏教(浄土真宗)質問箱を御認定く
ださいました。

732 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 13:39:54
なお、認定の背景が次のレスから見えてきます。
<続き>浄土真宗本願寺派 [19拍]
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/400
このスレで「門徒」「一般人」「通りすがり」とか書く奴は決まって坊主な件
   <「浄土真宗本願寺派 [19拍]」で、発言されている方は、7割〜8割程度はお坊様でしょう>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/481
普段からお前さんが小馬鹿にしたレスをしてなければもっとマシなレスを返してもらえたろうに
  <「渡海難」の発言に被害者意識のお坊様がいらっしゃるようです>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/494
開けないからといって別スレたてないようにな。隔離スレは1つでいいからw
 <「渡海難」の発言には反論の方法がないから、もう発言をしないで欲しいという意味です。>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/495
 ここにもコピペすればあいつ来れなくなるなw
<ノートントラップを浄土真宗本願寺派 [19拍]にも貼れば、渡海難がこなくなるだろうという意味
意です>

733 :考える名無しさん:2006/09/04(月) 11:37:55
>731-732
何言ってるの?このキチガイ

734 :考える名無しさん:2006/09/04(月) 15:08:09
自分が立てたスレにノートントラップが仕掛けられたぐらいで良スレと思い込むとは、めでたい奴だ。
残暑が続いて頭がおかしくなったんだな。

735 :考える名無しさん:2006/09/04(月) 16:30:48
ラカンだよ

736 :考える名無しさん:2006/09/11(月) 03:36:09
渡海 難 ← この方は真宗のお坊さんですか?

737 :考える名無しさん:2006/09/11(月) 19:25:48
はい

738 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 19:42:00
>>736
 書きました
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/24

739 :考える名無しさん:2006/09/12(火) 21:56:29
>>738
必死で言い訳してる

740 :考える名無しさん:2006/09/24(日) 08:50:33
おまえら全員三流の龍谷大学か!!

741 :考える名無しさん:2006/10/21(土) 08:11:41

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃                              ┃
┃【今日のピークパフォーマンス方程式】            ┃
┃                              ┃
┃ ■私たちは日々大量の情報に触れるが、100のうち100すべてが ┃
┃  入ってくるわけではない。無意識に自分の脳というフィルタ ┃
┃  を通して、必要と判断されたものだけが入ってくる。    ┃
┃                              ┃
┃ ■1000万部、数百万部の全国紙が読まれているが、誰一人   ┃
┃  同じ量の情報を受け取っていない。            ┃
┃  十人十色どころか、100万人100万色、1000万人1000万色だ。 ┃
┃                              ┃
┃ ■情報取得量は、立てているアンテナの高さと本数に比例する。┃
┃  アンテナの高さとは、目標の高さ。            ┃
┃  アンテナの本数とは、情報収集しているジャンルの数。   ┃
┃  可能な限り高い目標を可能な限り多く掲げたい。      ┃
┃                              ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「平成・進化論。」━━┛


742 :渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2006/10/23(月) 12:01:41
http://sakura02.bbspink.com/test/read.cgi/erochara/1150108904/
      。ρ。      
         ρ      
         mドピュッ
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) ) 他板で良スレ見つけちゃった〜
    /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
   (__/

743 :考える名無しさん:2006/10/23(月) 12:15:14
>>736
        人
       (::::::)  渡海 難  ◆Fe19/y1.mIの正体
      (:::::::::::::) 
     (:::::::::::::::::::::)  小中高といじめられてきた。その扱いはまさに虫けら以下だった。
    (:::::::::::::::::::::::::::)  高校を中退してからは、一日中家の中に引き篭もっている。
  /:::::::::::::::::::::::::::::::\  50歳過ぎた今でも無職。友達も恋人もなし。PCだけが俺の世界。
 (:::::::::::::::::|_|_|_|_)  更に、肥満、腋臭、禿、脂症、ニキビ面、インキン、真性包茎・・・
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ   どうして俺だけがこのような惨めな境遇なのか・・・。
  |::( 6  ー─◎─◎ )  
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)   
/|   <  ∵   3 ∵>
::::::\  ヽ        ノ\ 
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::

744 :考える名無しさん:2006/11/13(月) 22:48:11
教行信証の教巻、行巻についてみなさんの感想を聞かせてください。

745 :考える名無しさん:2006/11/23(木) 15:24:43
氏ね

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