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フッサール『デカルト的省察』を読みたい!

1 :カッコ:03/10/21 00:56
わたしは、最近哲学に興味を持ちました。
何冊か入門書を読む中で、特に現象学というものが面白そうだと感じました。
そこで、現象学の哲学書を読もうと思って『デカルト的省察』を買ったのですが、
なにぶん初心者なので一人で読んで理解する自身がありません。

これからこの本を読んで、要約と疑問や思ったことなどを書いていきますので、
疑問や質問に答えてくださる方、一緒に読んでいきたいという方は、
解説やご意見や質問を書き込んでください。

なお、
・中央公論 世界の名著『ブレンターノ フッサール』
・岩波文庫 『デカルト的省察』
この二冊がありますが、わたしの要約での用語やページなどは岩波文庫のものを使います。

要約は、1日1節は書くようにがんばります。(できる限り)

2 :考える名無しさん:03/10/21 00:57
あなたはこのスレッドを立てた時、 どれだけのレスがつくと思っていましたか?
500?それとも1000?
今現在、モニターの前でどきどきしながらリロードを繰り返していることと思います。
でも残念ながらこのままのペースでは、自作自演でもしない限り レス100も突破することなく、
数々の駄スレと同じ運命をたどって 奥深く埋もれていくことは確実でしょう。
「自分の立てたスレは他の奴らが立てた”駄スレ”とは一味違う!」
きっとあなたはそんなふうに思っているのでしょう。ですが、
客観的に見てあなたのスレッドは、残念ながら「低レベル」と言わざるを得ません。
あなたが立てた「一味違うスレッド」というものは、
普段あなたが一笑に付し軽蔑している「駄スレ」の正にそれなのです。
ちょっとした勘違いから生まれたスレッドによって、深く傷つくあなた。
そんなあなたが気の毒でなりません。 人は誰しも幸せになれるはずなのに・・・。
だからあなたにこのレスを書きました。sageも入れないでおきました。
私のこのレスが「レス100突破」に微力ながら貢献できるのならば、
そして私のこのレスによるageが、スレッド再燃に微力ながら貢献できるのならば、
こんなにうれしいことはありません。2ちゃんねるという場所ですら、周りと噛み合うことができなかった
不器用なあなたに、両手いっぱいの幸せが訪れますように・・・。

3 :カッコ:03/10/21 00:57

■■■ 序論 ■■■

● 第一節(p.17)
デカルトの省察は哲学的な自己反省の原型である。

 ■デカルト『省察』と超越論的現象学の関係
 ・超越論的現象学は、デカルト『省察』の研究によって直接刺激を受けて、
  超越論的哲学という形態をとるようになりました。
 ・超越論的現象学は、デカルト『省察』の動機を徹底的に展開します。
 ・超越論的現象学を「新デカルト主義」と呼んでもいいぐらいです。
 ・ただ、動機をデカルト以上に徹底し過ぎて、
  デカルト自身の学説を否定する結果になるかもしれませんが。

 ■これから話すこと
 ・はじめに、デカルト『第一哲学についての省察』での動機が持つ永遠の価値について
 ・つぎに、超越論的現象学の方法と問題設定について、
  それを形作ったデカルトの動機の変革と改革の特色について話します。

 ■デカルトの思考の道筋
 ・デカルト『省察』の方法的懐疑がどういうものだったか思い出してみます。
 ・その目標は、哲学を、絶対的に基礎付けられたものへと全面的に改革することでした。
 ・デカルトにとってあらゆる学問は、唯一普遍的な学問=哲学を構成する各部分として
  体系的に統一されるてはじめて真正の学問となるものだったので、
  哲学の改革は、全ての学問の改革でもありました。
 ・歴史の流れから発生したままのたくさんの学問にはこの真正さがかけていました。
 ・だから、デカルトは、絶対的で理性的な基礎の上に、
  学問全体を統一した哲学として建て直そうとしたのでした。
 ・デカルトの建て直しは、主観の方に方向を向け、二つの段階を経ておこなわれました。

4 :カッコ:03/10/21 00:59
 ■第一の段階
 ・真剣に哲学者になろうとする人は、一生に一度は自分自身へと立ち帰り、
  自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を転覆させ、
  それを新たに建て直すよう試みるのでなければなりません。
 ・この目標へと向かって決心することは、無知から始める道を選ぶということです。
 ・デカルトの省察は、哲学を始める人すべてに必要な省察の原型なのです。

 ■第二の段階
 ・次の段階は、哲学する自我、純粋な「思うこと」をする「我」に立ち返ることです。
 ・これは、「方法的懐疑」によって行われました。

 ■デカルトの方法的懐疑
 ・デカルトは、自然に生活しているあいだは確かだと感じているものでも、
  疑える可能性がある限り疑っていき、
  最後に疑うことのできない絶対に「明証」なものを得ようとしました。

 ■「思うこと」をする純粋な「我」
 ・自然に生活しているあいだは確かだと感じているものでも、
  方法的懐疑で、確かだとは言えなくなります。
 ・なので、世界があるということも当たり前のことと思ってはいけません。
 ・だけど、「思うこと」をする純粋な「我」だけは、絶対に疑えないものとして残ります。
 ・この「我」からデカルトの一種独我論的な哲学が始まります。
 ・まず、「神の存在」と「誠実」が推論されました。
 ・つぎに、そこから、「客観的な自然」「有限な実体」の二元論が推論されました。
 ・「我」がもともと待っている原理だけから全てを推論してゆくのです。

5 :カッコ:03/10/21 01:07
今日は要約を書くだけで遅くなってしまいました。
思ったことや疑問は明日書きます。

6 :考える名無しさん:03/10/21 01:08
>>5
よろしく。頑張ろう。


7 :考える名無しさん:03/10/21 01:10
>>1
奇遇だな。
おれも今、世界の名著のデカルト的省察を4章まで読んだところ。
このスレ参考にするよ

8 :考える名無しさん:03/10/21 01:20
できれば、レジメは「省略されました・・全てを読むにはここを押してください」にならない程度の長さにしてもらえると嬉しいな。
あくまでも第三者の勝手な希望ですが。

9 :考える名無しさん:03/10/21 01:33
こういう地味でまじめなスレが30個くらいは欲しいな、哲板に。

10 :考える名無しさん:03/10/21 01:36
・この「我」からデカルトの一種独我論的な哲学が始まります。
 ・まず、「神の存在」と「誠実」が推論されました。
 ・つぎに、そこから、「客観的な自然」「有限な実体」の二元論が推論されました。
 ・「我」がもともと待っている原理だけから全てを推論してゆくのです。

ここが怪しいんだよ、デカルト!

11 :考える名無しさん:03/10/21 01:44
>>10
それ疑ったらあとのがすべていみなくなるよ

12 :地獄極楽丸:03/10/21 01:49
原理的な思考って本当に可能なんだろうか?

例えば方法的懐疑に限っていえば、方法的懐疑の前提となる道具、「思う」こと自体に必要なこと、は疑われない。
順序、言語、論理、、、、とか。
これらがないと「思う」ことすらできないため、それら自体は疑われない。(疑いようが無い。)
しかし、わたしには、そもそもここに問題があるのではないか?という気がしてならない。
(以下、明日。)

13 :地獄極楽丸:03/10/21 01:51
>>11
イミないどころか、後世、ここが問題となるところですよね。
神の存在論的証明とかね。

14 :考える名無しさん:03/10/21 02:02
まあ、デカルトは失敗したと、フッサールはこの後の節で批判するわけだから、
それまでは待とうや。 その間に『省察』あたりを熟読しとく時間も稼げるし。


15 :考える名無しさん:03/10/21 02:12
>>10
そうだよな。
ただデカルトの場合、怪しいと思いながらも
教会に目をつけられないためにやっていただけのような気もする。

16 :考える名無しさん:03/10/21 02:50
>>15
それは違う。彼はかなり真面目に考えてる。
「省察」に付録する7つの「反論と答弁」を読んでみな。

一つだけいえるのは、宗教問題はかなりややこしいので、「教会」と一くくりに
するのは大変危険だということ。  事実、オランダでデカルトを攻撃したのは
正統カルヴァン派。デカルトは「隠れた無心論者」「新たなヴァニーニ」ではないか、と。


17 :11:03/10/21 05:33
あーそうか>>13みたいな見方もあるなあ。俺的には
・「我」がもともと待っている原理だけから全てを推論してゆくのです。
が一番検討に値するかな、と。批判的にね。もちデカルト自身は後世になんの責任もないけど
それを受容した連中を批判的にね、ってことやけど。

18 :カッコ:03/10/22 00:04
もっと要約を短くした方がいいというご意見がありました。
今のわたしにはどこが大切でどこが削ってもいいところなのかがまだよく分からないので、
結果として、実際に本を読んだ方が分かりやすいような長い要約になってしまっています。
どうもすみません。要約の仕方や書き方についてアドバイスがいただけると助かります。

今は、段落ごとに順序通り要約するという方針を採っています。
それと、この本は講演が元になっているそうなので「です・ます」調にしました。

「我」だけからの原理的な思考について、フッサールは「我」から始めることには大賛成のようですが、
デカルトが「我」から結論を導き出すときに無前提ではなかったことが第3節で指摘されています。
その先にも出てくるかもしれませんが、まだあまり先の方までは読んでいません。

まだ、序論なので専門的な言葉が少なくて、それほど難しいと思ったところはありません。
フッサールの文章も、あまり飾り気がなくて簡潔な文章なので、意外と読みやすいと思いました。
ひとつだけ本当に初歩的過ぎて恥ずかしい疑問なのですが、
「現象学」と「超越論的現象学」は同じものをさしているのか違うものなのでしょうか?
そんなことすら分かっていないというのがわたしの哲学に関する知識の状況です。

19 :カッコ:03/10/22 00:05
● 第二節 (p.21 序論1/2) 
  哲学を根本的に新しく始めることが必要である

■ デカルトの省察に意義はあるか
 ・はたして、このデカルトの思想から、
  永遠の意義、現代にとっての意義を求めるべきなのでしょうか?

■ 超越論的な主観主義への転換
 ・実証的な学問はデカルトの省察をかえりみてきませんでした。
 ・それらの学問はさらなる発展のために明瞭な基礎付けが要ると分かっていても、
  デカルトまでさかのぼろうなどとは思ってもみません。
 ・しかし、哲学にとって、この独特な省察は画期的なものでした。
 ・素朴な客観主義から超越論的な主観主義への徹底的な転換が起こったのです。
 ・このような転換は、不十分な形でなら何度も試みられてきました。
 ・それは、歴史が私たちに課した課題だからなのではないでしょうか?

■ 現代の哲学分裂状態1
 ・現代の哲学は、ヘーゲル学派崩壊後、衰退して分裂状態にあります。
 ・近代の初めに宗教が衰退したときは、知識人が自律的な哲学や学問への信念を持ち、
  新しい文化を作ろうと、意気揚々としていました。

■ 現代の哲学分裂状態2
 ・しかし今、その信念は力を失っていきました。
 ・というのも、その哲学が統一性のある生き生きとしたものではなかったため、
  結果的に、互いに関連のない哲学文献の山を作るだけだったからです。
 ・見せかけの報告、見せかけの批判の応酬なのです。
 ・哲学の会議に人は多く集まりますが、哲学は集まりません。

20 :カッコ:03/10/22 00:06
■ いまこそ新たな省察を始めるとき
 ・このような状況は、デカルトの青年時代の状況とよく似ています。
 ・いまこそ、デカルトの徹底的な姿勢を甦らせるときなのです。
 ・この状況をデカルト的な転覆の中に投げ込んで、新たな省察を始めるときなのです。
 ・いかなる偏見もない無前提から始める哲学、
  自らの内から引き出した究極の明証から自立的につくり、絶対的に自己責任を持つ哲学、
  それを求めることが、真の哲学の根本的な意味なのです。

■ 唯一の実りある復興
 ・近年、昔の活気を求めて、新カント学派など、さまざまな復興が行われています。
 ・しかし、唯一の実りある復興は、デカルトの省察を復興させることです。
 ・だからといって、デカルトの全てを引き継ぐのではありません。
 ・まず必要なのは、「我思う」という根本からはじめる姿勢の意味と、
  その永遠の価値を明らかにしてゆくことです。

■ 超越論的現象学への道筋
 ・以上が、超越論的現象学への道筋です。

■ 新しい省察の開始
 ・それではこれから、根本から哲学を始めるものとして、私たちの省察を始めます。
 ・批判的精神を持って、デカルトやその後継者が陥った過ちも明らかにしながら進みましょう。

(第二節 要約おわり)

21 :地獄極楽丸:03/10/22 01:15
いやー、いいねー、今日も続いている。
最後までこの本読まずに、このスレだけ読んで済まそうかな〜

22 :考える名無しさん:03/10/22 01:25
ガンガレ1!!

23 :でもやっぱり、もう少しまとめて欲しいなあ。。。いや、:03/10/22 01:33
あくまでも勝手な希望です。気にしないで続けてください。

24 :はじめ:03/10/22 02:38
我疑う、ゆえに我あり。

25 :カッコ:03/10/23 00:29
まだ今日で3日目です、もちろん続いていますよ。
できれば本と比較して間違った理解があれば指摘して欲しいです。
とは言っても、今はほぼ元の文そのままで表現を切りつめているだけですが。

できるだけ短くまとめようと思っているのですが、今日のものも長くなってしまいました。
すみません。

26 :カッコ:03/10/23 00:32
まとめ方や書式はこれから試行錯誤してゆきたいと思っています。

27 :カッコ:03/10/23 00:33

■■■ 第一省察 超越論的な我への道 ■■■(第三節〜第十一節)

●第三節 (p.26) 
学問のデカルト的な転覆と、それを導いている絶対的な基礎づけという目的の理念

 ■省察のスタート
 ・ここから、私たちは、自ら根本から哲学を始める決意をした者です。
 ・今まで通用してきた確信や学問をすべて認めないところから省察をスタートします。

 ■普遍的学問という理念
 ・私たちの省察が向かう先にある目標は、デカルトのときと同じく、
  絶対的に基礎付けられた一つの普遍的学問という理念です。

 ■この理念は実現可能か
 ・しかし、今まで通用してきた確信や学問をすべて認めないとなると、
  そのような理念は実現可能な目標なのでしょうか?

 ■デカルトを規定していた宿命的な先入観
 ・もちろん、この目標でさえも前提としてはならないものなのです。
 ・論理学も含めて全ての学問は転覆されるべきなのですから、
  いわゆる自明な論理形式なども前提にしてはなりません。
 ・ところが、デカルトの場合、幾何学や数学的自然科学を学問の理想としていました。
 ・この理想が、数世紀にわたって宿命的な先入観として、批判が加えられないまま、
  哲学やデカルトの省察自身をも規定していたのです。
 ・なので、デカルトが当然そういうものだと考えていた普遍的学問のありかたとは、
  公理という基礎の上に、幾何学の秩序に従って立てられた演繹体系、というものです。
 ・そして、普遍的学問において、幾何学でいう基礎となる公理はにあたるものは、
  自らに公理的原理を持つ「我」の絶対的な確実性でした。
 ・もっとも、「我」という基礎は、幾何学自体をも基礎付けるようなより深いものとされましたが。

28 :カッコ:03/10/23 00:35
 ■デカルトよりも徹底的に
 ・自ら根本から哲学を始める決意をした者は、
  デカルトのようにすでにある学問を規範となる理想として持ってはなりません。

 ■目標設定
 ・かといって、学問を絶対的に基礎付けるという目標は、
  捨てるべきものではなくて、この省察を進めてゆけるようにするもとでもあり、
  省察が進むことによって具体的に規定されてゆくものでもあります。
 ・この目標は慎重に設定しなければなりませんが、
  具体的にどのように設定したらよいのでしょうか。

 ■暫定的な仮定
 ・普遍的学問という目標の理念は、まだ仮定されただけであって、
  実現可能なのかも分からない、はっきりとした規定もないものです。
 ・しかし、私たちのこれから行う省察は、
  この理念を暫定的な仮定として取りあえずそこからはじめることになります。
 ・そしてまず、その理念が可能性としてどのように考えられるかを考察し、
  つぎに、それがどのように実現されるかを考察してゆきます。
 ・威勢のいいことだけ言って終わらないためにも、我慢強く進めてゆきましょう。

(第三節 要約おわり)

29 :考える名無しさん:03/10/23 00:43
乙  >カッコ
sage進行の方がいいのかい?

30 :カッコ:03/10/23 00:50
>>29
いいえ、特にこだわっているわけではありませんよ。

31 :考える名無しさん:03/10/23 00:59
>>カッコ
乙!。何回も要約していくうちに、うまくなっていくでしょう。
というか何回もやるしかない。



32 :考える名無しさん:03/10/23 01:00
なんで要約なんてしてんの?
要約なんかするより、議論したほうがいいんじゃねぇの?

33 :考える名無しさん:03/10/23 01:07
>>32
レジュメって知ってる?


34 :カッコ:03/10/23 01:09
議論したいんですが、まだ読んでる途中なので、
議論するための予備知識がないのです。

なので、はじめからじっくり読んで理解してゆこうと思っています。

まだはじめのほうなので、深く突っ込んだ話題は出てきていないのでしょうか?
デカルトの推論についての話が少し出ましたが、ここは重要なところですか?

35 :カッコ:03/10/23 01:16
レジュメというのはどういう意味ですか?

36 :二酉:03/10/23 01:43
>>35
演習の時やプレゼンの時に使う資料の事です>レジュメ
ハンドアウトと言ったりもします。
前者のレジュメでは語釈・注釈をつけたり、その本文について
考えた事を書いたり、他の研究者が言及している部分があれば、そこを
引用してきたりします。そこまで加えるのは大変ですが、カッコさまが
こう読んだよ、というのや辞書を引いたらこうだったよというのを
()などで加えておいたりすると論点がより明確になるんじゃないですかね。

37 :カッコ:03/10/24 01:16
>>36
ありがとうございます。


第四節は急に難しくなったので、今日は要約だけ書きました。
「判断」「認識」「明証」など、理解に自信がないところがありますが。

表題の「ノエマ的な現象としての学問」は、世界の名著の注によると、
ここでは、「すでにある学問」という程度の意味でしかないそうです。

ですが、「ノエマ」は大事な用語だと思うので少し調べました。
明日書きますので、わたしの理解が間違っていたら指摘してください。

38 :カッコ:03/10/24 01:16
●第四節 (p.29)
ノエマ的な現象としての学問のなかに入り込むことによって、
学問の目標がもつ意味を開示する

 ■指導理念を明瞭にすること
 ・第一にすべきことは普遍的学問の指導理念を明瞭にすることです。
 ・すでにある学問は、普遍的学問は区別されていますが、
  普遍的で真正な学問になることを求めています。
 ・なので、すでにある学問が求めていることを調べることで、
  普遍的学問の指導理念が明瞭になっていきます。

 ■すでにある学問の活動に入り込む
 ・では、それはどのように調べたらよいでしょうか?
 ・すでにある学問をあらかじめ信じてしまっては省察になりませんが、
  その学問の活動に「入り込み」、内側からその学問の本来の目標を
  明晰判明にしていくという方法ならかまいません。
 ・この方法で普遍的学問の理念の構成要素が明らかになっていきます。

 ■判断と基礎付け
 ・すでにある学問に入り込むためにはまず、
  判断する働きと、判断されたものを明らかにする必要があります。
 ・判断には、「直接判断」と「間接判断」があります。
 ・間接判断とは、ほかの判断を「前提にしている」判断です。
 ・つまり、間接判断は、すでにある信念のために生じた信念なのです。
 ・つぎに、基礎付けの働きについて明らかにする必要があります。
 ・判断の 真理-虚偽 は、基礎付けの 成功-不成功 の証明だからです。
 ・間接判断をたどっていって直接判断を一度基礎付けて真理と証明しおくことで、
  そこからつながる間接判断を繰り返し真理として「認識」できるようになるのです。

39 :カッコ:03/10/24 01:17
 ■明証という理念
 ・このように進んで、基礎付けや認識の意味をさらに調べていくと、
  すぐに「明証」という理念に到達します。
 ・判断の作用とは、ただ「○○は××だ」と思うことです。
 ・判断の内容とは、ただ「○○は××だ」という思った内容のことです。
 ・判断の対象とは、そのように思われた事象や事態のことです。
 ・思った内容と思われた対象とが一致した判断を「明証」と呼びます。
 ・「明証」とはにおいては、事象が「それ自身」として判断した者に現れます。
 ・単なる判断は、この「明証」を目指して行われています。

 ■あらゆる学問において目標となる理念
 ・ここまでで浮かび上がってきた、あらゆる学問において目標となる理念とは、
 ・それは、基礎付けが完全でないような判断は、
  学問的な認識として有効なものとしない、ということです。

 ■言語表現に関して補足
 ・判断と明証は、前述定(言葉で表現される以前)的判断と前述定的明証から
  区別する必要があります。
 ・一般に学問は、言語表現によって判断し、真理を保持します。
 ・しかし、言語表現は、思ったことと一致しないことのあるものです。
 ・つまり、言語表現自体が、明証であったり不明証だったりするものです。
 ・なので、言語表現の明証-不明証が学問的真理の理念も規定してしまっているのです。

(第四節 要約おわり)

40 :考える名無しさん:03/10/24 02:01
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/frame.html

41 :考える名無しさん:03/10/24 02:07
乙なのよ >カッコ

42 :q17u6:03/10/24 02:36
おやすみ>太郎?

43 :カッコ:03/10/25 02:04
「ノエシスとノエマ」については、見たことのある言葉だったので重要だと思って調べてみたのですが、
やはりよく分からなくなってしまいました。

「意識すること」と言うものを分解すると、
意識する作用(ノエシス)と意識された対象(ノエマ)とに分かれるそうです。
たとえば、
自分が、見ていることを、意味のある何かとして意識しているという普通の場面で、
実際見ている(目に入ってくる)のは、それだけでは意味のない光ですが、
それを、パソコンだとか本だとかキーボードだとかの意味のあるまとまりにする作用が
意識作用(ノエシス)で意味のあるまとまりが意識の対象(ノエマ)。

と、思ったのですが、どなたかこれが合っているかどうか教えてください。

第五節を要約していく中で、第四節のときの「明証」の理解が間違っていると思いました。
事象や事態それ自身と一致する判断が明証だと思っていたのですが、
第五節では、明証には完全なものも不完全なものもあると書かれています。
これではどうも矛盾するような気がします。
でも、判断と事象や事態それ自身とが一致していると何故いえるのでしょう?
そもそも、事象そのものとは何でしょう?
まだよく分かりません。そのあたりについて教えていただけると助かります。

第四節と第五節は要約しながら読んでもしっくりした感じがありませんでした。
第十一節までの要約終わったら、
第一省察全体を一度あらためてまとめてみようかと思っています。

44 :カッコ:03/10/25 02:05
●第五節 (p.33)
明証と、真正な学問という理念

 ■ここまで分かったこと
 ・ここまでで、あらゆる学問が今はそうでなくてもいつかはそうなろうと目指しているのは、
  絶対的に基礎付けられて正当化された一つの普遍的学問であることが分かりました。

 ■先なる認識から、後なる認識へ
 ・明証とは、精神が、事象や事態そのものを直接見ていることです。
 ・精神の見ているものが、事象や事態そのものでない状態を「明証の否定」と呼び、
  そのとき見ている内容を「明証的な誤謬」と呼びます。
 ・明証には、狭い意味での全ての経験が属しています。
 ・なので実際には、明証には完全なものも不完全なものもあります。
 ・完全な明証と、純粋で真正な真理とが目指すのは、「認識」を得ることです。
 ・日常生活では、相対的な明証と相対的な真理で十分なのですが、
  学問は、絶対的な真理を追い求めて、無限の地平に入っていくのです。
 ・学問は、絶対的真理に近似的に接近していくことによって、
  日常的な認識と自分自身を無限に乗り超えてゆけると考えています。
 ・そこには、先なる認識から、後なる認識へ、と言う順序があるということです。
 ・その順序は、任意なものではなく、事象そのものの本性によって決まるものなのです。

45 :カッコ:03/10/25 02:06
 ■第一の方法的原理を作るという予備作業
 ・学問に「入り込む」ことで、目標になる理念の主要な部分が分かりました。
 ・これらは自明なことで論理学的な話なのではないか、と思いませんでしたか?
 ・でも自明だからと油断したらデカルトについて指摘したのと同じことになってしまいます。
 ・省察を進てゆく全体への第一の方法的原理を作るという予備作業も、
  自分たちの明証や事象そのものの経験で作ったもの以外は通用させてはいけません。
 ・それぞれの明証がどこまで及ぶものかは、後ほど吟味して明らかにします。

 ■学問における表現と言う側面
 ・学問は、完全で明証的な述定(言葉で表すこと)を目指しているので、
  学問における言葉の「表現」と言う側面も顧慮されるべきです。
 ・日常の言語は流動的で多義的なので、
  学問的な洞察にのっとって基礎付けることが必要となります。

 ■全ての認識に先行する認識
 ・普遍的認識の体系全体を支える最初の認識とは何でしょう?
 ・学問的な認識がまったくない状態から省察をはじめる私たちにとって、
  それ自体でそれが全ての認識に先行する認識だと分かるような明証が必要です。

(第五節 要約おわり)

46 :考える名無しさん:03/10/25 06:53
明証には根源的明証と非根源的明証がある。
例えば、昨日会った人の髪が黒かったか白かったか自問するとする。
このとき、できることは、その人にまた会うか、もしくはその人をよく
知ってる人に聞くか、自分自身で思い出すよう努力することがあるよね。
後者ふたつの場合、人に聞いたりしてほぼ確実だと思ってても、
間違う場合がある。これは非根源的な明証だ。
前者、直接会って確認する、すなわち彼を「知覚」して
確認する、これは間違いようは無い。根源的明証。
「明証とは、精神が、事象や事態そのものを直接見ていること」
(後者ふたつ、これもよく考えると知覚の様態が変わったものだ。
昨日の彼を思い出すとき、今の意識は昨日知覚した彼についての想起だね。
「精神の見ているものが、事象や事態そのものでない状態」)

ここでの問いは、対象から離れていることから生まれてきているもので、
もし対象がそこにあったらどのように自分で見るか、確認するかを自問するところに
すべての問題は帰着すると言える。

数学的な定理なんかはどうか。ある定理が与えられたとして、
それが正しいか確認するためにはどうするか。
実際に実験してその結果を知覚するしかない。正確な検討をし、
その定理の真理を証明する活動を実際に行うことで、
いわば定理が充実する。ここで私たちは根源的明証、定理の知覚を得るわけ。
ここでのポイントは、ずばり知覚。フッサールは知覚にすごく重きを置いている。
で、根源的明証があらゆる意識の基準となることがどこで保証されるのかという問いがある。
明証を保証するための絶対的明証、これをフッサールは「われ在り」という
デカルト的イデーによって方法的に確保しようとしたわけ。

こんな感じでいいかな?間違ってたら修正よろしく。

47 :考える名無しさん:03/10/25 12:33
ちと一回上げて、良く読む。

48 :カッコ:03/10/25 21:38
>>46
ありがとうございます。
「明証」であるということは、結果的に「判断」と「事象や事態それ自身」とが一致していても、
目の前に見て確認しているかそうでないかの違いで、
「根源的明証」「非根源的明証」とに分かれるということで、
その意味での「完全」「不完全」だったのですね。


すみませんが、土曜日と日曜日は、要約をお休みします。
第六節は来週の月曜日に書きます。

49 :考える名無しさん:03/10/26 07:54
>判断と事象や事態それ自身とが一致していると何故いえるのでしょう?
フッサールの立場は検証理論に近い。
意味を知っているとは検証方法を知っているということ、これが検証理論。
フッサールの用語だと、「充実のされ方が志向の意味を決める」になる。
こっからちょっとフッサールを離れて検証理論の話。
「彼の髪は黒い」という命題をいかに検証するか?
会って実際に見てみる。触ったり匂いをかいだりしてもいい。
ここで、「これは夢かもしれないし、こんなことしても完全には検証され得ない」
という方向で考えると、デカルト流の懐疑精神に突っ走る。
一方で、検証というのは命題が真であることを証明するためのものではなく、
命題の意味そのものを定めるものと理解する立場もある。
検証方法を指定することではじめて命題の意味が定められる。
「彼の髪は黒い」ということの意味は、彼の髪の色はこれこれこういう
方法で検証されうるという方法の指定をもってはじめて決定される。
「もし対象がそこにあったらどのように自分で見るか、確認するかを自問する」だ。
経験によって「彼の髪は黒い」という事象の真偽を決定することは、
これらを前提としてなされる二次的な仕事に過ぎないわけ。
この立場だと検証方式が指定されている以上、命題は必ず検証可能になる。


>そもそも、事象そのものとは何でしょう?
「事象そのもの=直接経験」と言ってよい。
直接経験とは、わたしたちがものを見たりするそのありのままの姿。
http://www.erzwiss.uni-hamburg.de/Projekte/Syndromanalyse/DoWi0001/Do5-Dateien/image002.gif
有名なマッハの自画像の画像。私たちにとって世界ってのは上の画像のような
"主観的な"光景からしか現れることができない。
この直接的な経験から出発しようというのが現象学の基本的な立場。
フッサールが知覚を重要視するのもわかってもらえると思う。
世界と聞くとなんとなく地球の映像を思い浮かべたりするけれど、これは概念による構成物だ。
「事象」とは、概念に先立ち知覚に於いて与えられるものとして、
概念的構成物を検証し、訂正するために常に立ち返らなければならない「原直観」と取るのが正しい。

50 :考える名無しさん:03/10/26 07:55
>「ノエシスとノエマ」
>どなたかこれが合っているかどうか教えてください。
正しいんでないかな。
これは意識の志向性の話だから、話題を先取りすることになる。第十七節かな。
例えば、ひとつの箱の前に立って、周りをぐるりと回ってみる。
箱の見え方は刻一刻変わっていくよね。
ある場所では表の面が見えてて裏は見えず、屈みこめば上の面は見えない。
だからと言って、わたしたちは立つ場所が変わると別のものを見ているとは思わない。
多数の現われを通して、同じひとつの箱を捉えている。
次々に与えられる知覚(現出/射映)を同じひとつの箱(現出者)として総合している。
対象について、私たちは意識に直接与えられている知覚を"超えて"、
対象そのものを総合構成している。知覚対象が「超越物」といわれる所以。
現象学は現象(現われ、事象)についての学問だけど、
その現象自体が現出と現出者の二義性を孕んでいることがわかるかと思う。
で、箱があることがあたりまえだと思っていたら、実は知覚内容を元にして総合構成した
ものだってことがわかってきた。フッサールはこの構成された対象のほうを「ノエマ」、
ノエマを構成する意識の作用のほうを「ノエシス」とした。
「ノエシス−ノエマ連関」=「意識の志向的総合」

51 :ちっともわかりません!先生!:03/10/26 09:33
今、ちょうど「自己」とか「こころ」とかを考えている。
そんなもので現象学とクオリア関連の著作を読んでるんだけど...

現象学って、用語がわかりにくいんだよなあ。
このスレの解説してくれる方、助かります。

「志向性」というのは、現出から現出者を構成すること、でいいんですかね?
なんとなくだけど、知覚と認識のことを指している気がする。

52 :ちっともわかりません!先生!:03/10/26 09:38
例えば、ピラミッドを正面からみたら、「三角」と「知覚」される、とする(正確には知覚はそんな単純には行われないとは思うが、いちおう単純のためそしておく)。
上からみると「四角」と知覚される。
しかし、われわれはそれを「三角の図形」「四角の図形」とは「認識」しない。「ピラミッド」と認識する。

53 :ちっともわかりません!先生!:03/10/26 09:41
クオリア関係の本を読んでる限りでは、今の生物学では、この「知覚」とニューロンの「発火」との関係が調べられているだけで、「認識」に対しては、検証方法がないため、まったく手付かずらしいです。

54 :考える名無しさん:03/10/26 13:29
明証性は何ら真理性や客観性を保証しない。見ている当の主観に取っては疑いなく
そう見える程度の意味しかないだろう。

55 :考える名無しさん:03/10/26 16:17
>>50
箱の裏に回って見るだとか、事物が現に与えられている射影だけでないこと
くらい猫にだって分かっているわけで、言語や理性より以前の知覚の段階で
把握されてるわけだろうけどね。

56 :カッコ:03/10/28 01:39
解説をしていただいたおかげで(特に「明証」について)、
第六節は用語ではあまり躓きませんでした。
ですが、文章の言い回しがとても複雑で分かりにくかったです。

明日の第七節は短いので、できれば今まで出てきた用語について
振り返って整理しようかと思っています。できればですが。

57 :カッコ:03/10/28 01:40
●第六節 (p.38)
さまざまな明証の区別。
哲学はそれ自体で最初の、疑いの余地がない明証を要求する

 ■十全な明証
 ・はじめが肝心なので、私たちの省察をもっと深めていきましょう。
 ・「絶対的な確実性」「絶対的な不可疑性」という同じ意味の二つの言葉を明確にしましょう。
 ・そうすることで、「明証」の完全性が、詳しくは、いくつかに区別できることが分かるからです。
 ・私たちの持つ学問以前の経験と明証には、完全なものも不完全なものもあります。
 ・明証が不完全であるということは、
  事象や事態そのものが、不十分、一面的、相対的に不明確、不明瞭であるということで、
  つまり、「経験」に、予備的思念、付帯的思念といった要素がふくまれている状態のことです。
 ・不完全な明証が完全になるには、事象や事態そのものが、十分明瞭になるような経験をし、
  経験に含まれていた付帯的思念が満たされることです。
 ・「完全性」に対応する理念は「十全な明証」です。
 ・私たちがこの理念に到達することが原理的に可能なのかはまだわかりません。

 ■必当然的な明証(岩波の「疑いの余地がない」は文が読み難くなるので世界の名著のを採用)
 ・「十全な明証」は、学者たちが常に目指している理念です。
 ・なのに、学者たちにとっては「必当然的な明証」という理念の方が高い権威となっています。
 ・「必当然的な明証」とは、「十全な明証」と別のもうひとつの完全性で、
  明証が、特定の意味の範囲内では絶対に疑えないという性格を持つ状態のことです。
 ・学者たちは、この性格を、あらゆる原理に対して期待し、最高の権威とします。

58 :カッコ:03/10/28 01:41
 ■必当然的な明証の特徴
 ・明証とは、事象や事態そのものを確実性をもって捉えることですが、
  あらかじめ、後になって疑わしくなる可能性に開かれたものです。
 ・それに対して、必当然的な明証は、事象や事態を確実性もって捉えるだけでなく、
  はじめから絶対に疑わしくなる可能性がない、という特徴を持つ明証です。

 ■哲学を始めるにあたっての最初の問い
 ・「絶対に疑うことができない」といえば、デカルトの原理でもありますが、
  私たちの省察において、この「必当然性」がどのように役に立つのかが問われるべきです。
 ・これまでのことから、哲学を始めるにあたっての最初の問いは、
  それ自身であらゆる明証に先行する洞察を必当然的に伴い、
  その明証自身も必当然的と洞察されるような明証は示せるか?というものだと言えます。
 ・その明証は、十全でなくても、必当然性によって絶対に確実な存在内容を持つはずです。
 ・哲学を必当然的に確実な基礎の上に立てることが可能か、どのように可能かということは、
  後の課題として残しておきます。

(第六節 要約おわり)

59 :カッコ:03/10/29 00:11
今日、ここまでに出てきた用語の整理をしようと思っていましたが、
ここでやってしまうのは少し中途半端な気がするので、
第十一節が終わって第一省察のまとめをするとき一緒にすることにします。

60 :カッコ:03/10/29 00:12
●第七節(p.42)
世界が現にあることの明証は、疑いの余地がないものではない。
それは、デカルト的な転覆の中に投げ込まれる

 ■世界が現にあるという明証
 ・それ自体で最初の明証は何かと尋ねれば、すぐに「世界が現にあること」が挙がるでしょう。
 ・日常生活での実践も、この世界とかかわるものですし、
  学問でも、科学は直接的に、アプリオリな学問は間接的に、この世界にかかわっています。
 ・私たちは、世界が存在するという明証を、目の前に持続的に経験しているので、
  わざわざひとつの命題で表現するまでもない自明なこととしています。
 ・ですが、目の前に見るという感性的な経験を直ちに必当然的とすることはできません。
 ・統一された個々の経験の連関が、「脈絡のある夢」という仮象にすぎない可能性もあるのです。
 ・ですから、世界の存在という経験の明証を、批判的な吟味をしないで通用させてはいけません。

 ■世界の存在は最初の判断の基盤か
 ・ではしかし、世界の存在まで疑いはじめてしまったら、
  私たちに、判断のための存在の基盤となるようなものは残っているでしょうか?
 ・そもそも、世界とは、存在するものの全体を意味するもののはずです。
 ・ということは、もし、批判的な吟味で世界の存在が必当然的でないとなれば、
  私たちの省察はそこで挫折することになるのでしょうか?
 ・しかしここで、世界の存在さえも、最初の判断の基盤ではなくて、
  さらにその基盤となる何かに支えられているものだと考えることはできないでしょうか?

(第六節 要約おわり)

61 :考える名無しさん:03/10/29 03:22
何度か言ってるが、存在は論証されることは無い。知覚にのみ存在確認ができる。
目の前のリンゴですら存在の証明はできない。見たり触ったり食べたりして確認し得る
だけなのだ。

62 :考える名無しさん:03/10/29 16:27
>>61
まあ 落ち着いて、文章まとめ見守ろうよ。
それから言えば良いじゃない。

63 :カッコ:03/10/30 02:23
>>61
>>62

ありがとうございます。
わたしの要約の進みも、理解の進みも遅いのですが、
多分、この本自体も、蟻の列のように一つ一つ丁寧に詰めて並んだ論述なので、
とてももどかしく感じることが多いと思います。

要約は要約で進めて行きますので、
詳しい方同士では、出てきたことについて議論していてくださってかまいません。
わたしも本の内容について疑問に思ったことは質問していくつもりです。
いまは要約するだけでイッパイイッパイですが。

ポールさんが書いていた『現象学辞典』はまだ持っていませんが、
今日は『哲学小事典』という小さな哲学辞典を買いました。
これでいくらか理解しやすくなりました。
第一省察のまとめと用語の整理のときにもこの辞典を参考にします。

64 :カッコ:03/10/30 02:24
●第八節(p45)
超越論的な主観性としての我思う

 ■「我思う」への基盤の転換
 ・今こそ、デカルトの方法を正しく行うことによって、超越論的な主観性への大転換をしましょう。
 ・「超越論的な主観性」への転換とは、
  判断の基盤を、「世界が現に在ること」という、実は必当然的でなかったものから、
  必当然的で確実な、究極的な判断の基盤である「我思う」へと転換することです。

 ■世界の存在は現象に過ぎない
 ・いま、根本から省察する私たちには、学問も、存在する世界もありません。
 ・世界は、直接的に存在するものではなくて、存在を要求してくるものに過ぎなくなりました。
 ・ほかの我(他者)の存在についても同じことが言えるので、もう「私たち」と言ってはいけません。
 ・社会や文化によって形作られたすべてのものも、物理的な自然も、環境世界全体も、
  私にとって、存在しているのではなく、単に存在と呼ばれる現象に過ぎなくなりました。

 ■信念から身を引いた我
 ・世界の存在という現象は、あくまで現象ですが、私にとっての現象である限り、無ではありません。
 ・なぜなら、世界が存在するかしないかの決定も、私への現象があってはじめてできるからです。
 ・感性的、感覚的な経験の信念から身を引くことによって、
  私の経験的な世界の存在が通用しないものになったとしても、
  この身を引くこと自体はそのまま残り、私の経験する生の流れ全体とともにあります。
 ・生の流れ全体は、つねにその時の知覚によって根源的にありのままに意識されています。
 ・また、想起によって、それぞれの時を過去として意識することができます。
 ・私はいつでも、反省によって、現在を現在、過去を過去としてありのままに捉えることができます。
 ・こうしていま、私は、信念から身を引いた哲学する我として、反省的注視が行えるのです。

65 :カッコ:03/10/30 02:24
 ■世界は現出し続ける
 ・反省する生においても、経験されている世界は以前と同じように現出し続けますが、
  私は哲学的に反省するものとして、それを通用させません。
 ・世界の存在を前提とするようなすべてのもの(判断、理論、価値、目的等)も通用させません。
 ・通用させないと言うことは、経験の場から消えると言うことではなくて、
  「単なる現象」としてとどめるということです。

 ■エポケー
 ・信念から身を引くという態度決定、つまり、客観世界の「現象学的判断停止」=エポケーは、
  私を無の前に立たせるものではありません。
 ・むしろ、私の生、つまり、現象の全体が自分のものとなることなのです。
 ・エポケーという根本的で普遍的な方法によって、
  私は、自分を、純粋な意識の生を持った我として純粋にとらえることになります。
 ・この意識の生の中で、経験、知覚、想起、思考、判断、価値付け、欲求などをすることで、
  客観的世界の全体が存在するようになっていたのです。
 ・これらのことをデカルトは「我思う」と呼びました。
 ・世界とは、「我思う」において意識され、通用してきたのです。
 ・無反省的(直進的)に世界が存在するととらえる信念から身を引いて、
  この生そのもの、世界についての意識に目を向けることによって、
  私は自分を純粋な我として捉えることができるのです。

 ■超越論的な現象学的還元
 ・こうして、世界の存在という、自然的で二次的な基盤が前提していた、
  純粋な我とその思うことの存在という、超越論的な存在の基盤が示されました。
 ・エポケーによって超越論的な基盤へとさかのぼらせるという現象学の方法を、
  超越論的な現象学的還元といいます。

(第八節 要約おわり)

66 :考える名無しさん:03/10/30 05:37


67 :699:03/10/30 17:02
良スレ上げ!

68 :カッコ:03/10/31 02:35
とても難しくなってきたので、書き込む時間がどんどん遅くなっています。
よく読んでくださった方には分かったでしょうが、第八節も消化不良です。

そして、第九節も消化不良のまま何とか要約しました。

69 :カッコ:03/10/31 02:35
●第九節(p.50)
「我あり」がもつ、疑いの余地がない明証がどこまで及ぶか、その射程

 ■超越論的還元による不可疑性の意味
 ・この超越論的な現象学的還元によって、
  超越論的主観性の存在についての明証は、必当然的なものになるのでしょうか?
 ・もし、超越論的な我の自己経験が、必当然的な基盤とないならば、
  必当然的な認識の体系全体を建てるという見通しも立たなくなってしまいます。
 ・デカルトは、そのことをすでに洞察していて、
  「我疑う」ですら「我思う」を前提にしていたことを強調していました。
 ・そのときデカルトが問題にしていたのは、経験の世界を疑えるものとして通用しないようにしてから、
  自分自身にのことに気づくような我なのです。
 ・先に言ってしまいますが、この我が、超越論的還元によって持った不可疑性の意味は、
  実は、必当然的という概念と対応するものなのです。

 ■必当然性の明証のおよぶ射程
 ・まだ、必当然性の問題や基盤の問題は解決されていません。
 ・それなので、今の時点では、ひとつの疑問として、
  想起することで得られる過去というものは、超越論的主観性に不可分に属すものだろうが、
  それでは、過去というものに対して必当然性を要求できるだろうか?
  というものが出て来るでしょう。
 ・しかし、もし過去というものに必当然性が要求できないとしても、
  いま「我あり」の必当然性を否定しようとしはじめるのは間違っています。
 ・必当然性を否定が行われるのは、必当然性について十分に語られず、
  それがどういうものだったか分からなくなってきたときです。
 ・いま問題にしなくてはならないのは、必当然性の否定ではなくて、
  必当然性の明証のおよぶ射程(有効範囲)のことです。

70 :カッコ:03/10/31 02:36
 ■地平
 ・ここで思い出して欲しいのは、
  明証が十全であることと、必当然的であることとは、一致しなくてもよいという注意です。
 ・この注意は、まさに超越論的な自己経験というものを念頭に置いたものだったのです。
 ・自己経験において、我が自分自身にとって根源的に近づく経験によって得られるのは、
  「我思う」が表現している生き生きとした自己の現在だけで、
  その外には、無規定の一般的で推定的な「地平」広がっているだけです。
 ・この地平とは、必然性から考えることはできても、本来、経験することはないもので、
  そこには、我の、想起されることのない過去や、超越論的な能力や、習慣などが属しています。
 ・「外部的な知覚」というものも、事物それ自身の経験ではあります。
 ・しかし、それ自身がそこにあるという経験の場面でも、
  そこには、本来知覚されない、開かれた無限で無規定で普遍的な、
  そして、経験できることからなら示すことのできる地平があるのです。
 ・最初の認識の基盤があるということは絶対的に確かなのですが、
  「我あり」の生き生きとした明証が続いている間も、
  その背後には、まだ規定されていない地平が広がっているのです。
 ・必当然性の明証は、その有効範囲が限界付けられることになります。
 ・超越論的な我は、どこまでの範囲で絶対的に必当然的な内容を持ち、
  どこから先に誤謬を持つようになるのでしょうか。

 ■ある危険な地点
 ・仮に、とりあえず、必当然性という難問を置いておいたとしても、
  超越論的な我を設定することによって、この省察がある危険な地点に立ってしまったわけです。

(第九節 要約おわり)

71 :象の群れ、蟻の行列:03/11/01 01:26
非常にいいスレではあるかもしれない。
でも、もう少し咀嚼して、自分の言葉でまとめて書いてもいいんじゃあないかなあ、と思います。

いや、もちろんケチをつけるわけではなくね。

72 :カッコ:03/11/01 02:29
>>71
いえ、どんどんアドバイスしてください。


すこし振り返ってみただけども、反省すべきところがいくつもあります。

まず、きちんと咀嚼できていない言葉が、消化不良で、そのままの形で出てしまっているところ。
つぎに、ほとんどコメントをつけていないところ。
それに、一方的に自分の要約を書き込んで、アドバイスや解説してくれている人とも、
ほとんど対話をしていところ。自分でこのスレを見ても、まるで、人を拒絶しているように見えました。

いまは、岩波の訳と世界の名著の訳読み比べたり、注や解説を頼りにして書いています。
ごくたまに哲学辞典や、ネットで調べたりして自分なりに分かったつもりになっても、
要約を書くときにはそのままの言葉を使っていますが、
用語も自分の言葉に置き換えていった方がよいでしょうか?

73 :カッコ:03/11/01 02:32
●第十節(p.53)
付論 デカルトは超越論的な転換に失敗した

 ■デカルトの先入観
 ・デカルトの方法で、純粋な自我や思うことを捉えることは、簡単なことのように見えますが、
  一歩間違えば哲学の生死を分けるような、とても慎重な態度を必要とするものなのです。
 ・あらゆる先入観を捨てようと真剣な意志を持って省察を行ったデカルトにさえも、
  たくさんのスコラ哲学の考えが先入観として残っていたことが、最新の研究で分かっています。
 ・残っていた先入観は、スコラ哲学的な考えだけではありません。
 ・前にも述べたように、デカルトは哲学を幾何学的秩序にしたがった学問として、
  つまり、公理や仮説によって演繹的に説明する学問に、
  基礎を提供するものになるべきだとも考えていました。
 ・それと関連したことでいうと、必当然的で純粋な我によって、
  哲学する自我にとって唯一の疑えないものとしてせっかく発見した我を、
  世界の中にある小さな末端部分であるとしてしまってはなりません。
 ・そして、その我がもともと持っている原理から、その部分以外の世界を推論していくことが、
  そこから先のテーマであるのだと考えるのも、やってはならないことです。

 ■デカルトの致命的な転換
 ・残念ながら、デカルトは、目立たないが致命的な転換を行いました。
 ・その致命的な転換によって、デカルトは、我というものを、思う実体とみなし、魂または霊魂とみなし、
  因果律による推論の出発点とみなしました。
 ・そのせいで、デカルトは、後で述べる、「不合理な超越論的実在論」の父となってしまいました。
 ・エポケーによって示された我思うの場で、自分で「見る」もの以外は何も通用もさせず、
  言葉にも表現しないようにすれば、デカルトのような過ちを犯すことはありません。
 ・デカルトは、あらゆる発見の中でもっとも偉大な発見のすぐそばまで行き、
  ある意味すでに発見していたのに、先見的主観性の意味を捉えそこなってしまったため、
  真の超越論哲学の中には入っていけなかったのです。

(第十節 要約おわり)

74 :考える名無しさん:03/11/02 09:11
>>71
>もう少し咀嚼して、自分の言葉でまとめて書いてもいいんじゃあないかなあ、と思います。
目標はこんな感じで良いけれど、最初は中々難しいと思うからゆっくりがんばってね。
それと
要約したものと自分の言葉でまとめたものを二つあげても良いと思うよ。
要約は確かに理解した部分が反映されるけれど、自分の言葉で語る部分とはやはり差があるでしょ。
二つを示した方が、何処をどう考えているかこちらとしては見ていて分かり易いからね。
でも一番は無理をしないで続ける事だよ。
がんばってください。

75 :考える名無しさん:03/11/02 12:43
エポケーのやりかただが、例えばタバコの煙が立ち上る様子をボンヤリと眺める。
(まだエポケーになってはいないけど)とか、読んでいる文章を読まずに、ただ
模様として眺める。TVの画面も「視る」のでなく「眺める」などして、その状態を
維持する。
こんなところが入り口だろうね。

76 :考える名無しさん:03/11/02 15:35
>>75
エポケーは、判断停止している場面自体ではないよ。
模様を眺めるのは、文章の意味を取らないように考えているだけ。

エポケーは、模様を文章と判断する瞬間に対する自省の繰り返しによって
成り立つ。だから、判断停止どころかある瞬間についての判断を繰り返すような
作業だよ。エポケーは、判断を基礎づけるための理論的フィクションであって
ある行いを維持することそれ自体ではないよ。

77 :考える名無しさん:03/11/02 15:54
>>75自身は、入り口としか書いてないから、誤解していないかもしれないが、
例えば、>>75のような説明にあたるのがエポケーだと鵜呑みにすると、

chiba.cool.ne.jp/katagirirei/so01/epokh.html (Googleで一件目にヒットした)

******************************

エポケー
〔哲〕〔判断中止の意〕
(1)古代ギリシャの懐疑派の主張する哲学態度。現象に対して一切の断定を留保すること。
(2)フッサールの現象学の基盤をなす方法。純粋な事象そのものへ至るために、素朴な自然的態度を差し控えること。

■三省堂 『大辞林第二版』より■

辞書的な意味とかは上記のとおりですが、個人的には恣意的に、さらに追加しておきます。

既成観念を、鵜呑みにしない。
自分も疑りかつ他人も疑る。

******************************

こういう誤解に至りがちになる。上の人は、既成観念を鵜呑みにしないという観念を鵜呑みにしているし、
自分も疑り他人も疑るとまとめているが、自分も疑り他人も疑る自分を信じ切っていることにきづいてない。
辞書の定義(1)の人は、みな同じ。

(フッサールにとっての)エポケーは、単に判断停止すること自体に価値を置いているのではなく、
「判断の過程の瞬間ごとを切り、その断面に対して判断を加える」ことを、本質としている。
フッサールは、エポケーが、判断を保留するところに意義を見出しているのではなく、
エポケーが、判断を基礎づけるから意義を見出している。>>75は、エポケーがフッサールにとって
どういう意味を持っていたかに関係ない操作(辞書の定義の(1)の方)を勧めてしまっている。

78 :326:03/11/02 16:03
すみません。細かいですが、エポケーとはその名の通りただの「判断停止」という
「態度」を指すのではないですか?
76(77)さんが述べる「行為」は還元ではないですか?
違ってたらすみません。

79 :326:03/11/02 16:08
それとエポケー(判断停止)とは、世界の自明性という特定の態度(自然的態度)
に対するもので、先入観を抜きにするといった広義の判断停止とは違うような・・

80 :考える名無しさん:03/11/02 16:40
エポケー=「判断停止という態度」と定義すれば、定義された態度がエポケーだと考える、という理解の仕方が、フッサール哲学を考える上で誤解だと言ったの。
君は、その名の通り「ただの『判断停止という』という『態度』」を
行った後に、フッサールがいう還元ができると思いますか?

>>79>>77のリンク先の主の誤解に対するコメントならその通りだけど、
もともとの、エポケーは、>>79のような意味だよ。フッサール的には
違うけど。


81 :326:03/11/02 16:44
>君は、その名の通り「ただの『判断停止という』という『態度』」を
>行った後に、フッサールがいう還元ができると思いますか?

てか、純粋な還元を行うための予備段階としてのものでは? >エポケー

>もともとの、エポケーは、>>79のような意味だよ。フッサール的には
>違うけど。

フッサールのエポケーについて話してたんじゃないの?

82 :考える名無しさん:03/11/02 16:54
>>81
なに、いきなり態度を硬化させて、かみついてるの。
フッサール的には違うけど、と断って、もともとのエポケーの意味について
書いただけのところに、「フッサールのエポケーについて話してた」と
レスする意味があるのかな?

君は、フッサール哲学を正しく「語る」ために、フッサール哲学をやってるの?
それとも、現象学的な理解に興味があるから大事だと思っているから、
フッサールを勉強しているのかな? どっちかな?
>>81のような態度を見ると、僕には前者に見えてしまうね。

ここは、権威に頼らせてもらうよ。岩波哲学・思想辞典p.162によれば

「フッサールの現象学において<現象学的(超越論的)エポケー>は、
 自然的態度から現象学的態度へと態度変更するための 操 作 を意味し、
 この限りでは < 現 象 学 的 還 元 > と 同 義 で あ る 」

とある。

まるで、僕のほうがフッサール哲学を正しく語ろうとしているかのように見えるのが、皮肉だね。

83 :考える名無しさん:03/11/02 16:57
というかね、基本的に、「文字通り」を「理解」することができないのは、
哲学の文章を読む上で大きな障害ですから、改めた方がいいですよ。
「文字通りの理解」が、「文字通り」を「理解」したことになると思ったら、
大間違いですよ。


84 :考える名無しさん:03/11/02 17:01
>>83だけじゃ、不親切かもわからないので。

>>80
「君は、その名の通り「ただの『判断停止という』という『態度』」を
 行った後に、フッサールがいう還元ができると思いますか?」の意味を、
もう一度よーーーーーーく考えてみてください。僕が>>75-で言いたいのは、
これだけです。

85 :考える名無しさん:03/11/02 17:05
エポケー=還元てのは、どう考えても間違ってるね。

86 :考える名無しさん:03/11/02 17:06
85は、326なのか。そういうのはみっともないからやめた方がいいぞ。

87 :考える名無しさん:03/11/02 17:07
>>85
「どう考えても間違ってる」としか書けないなら、通常は君が間違っていると
判断されますから、そのつもりで。

というか、エポケーの定義どおりの態度が哲学の理論の中に含まれると考える
こと自体が滑稽だと分からないなら、哲学なんてやめた方がいいです。

88 :85:03/11/02 17:08
エポケーは還元遂行の過程の一部じゃない?

89 :326:03/11/02 17:11
怒らせてしまったようだ・・

90 :考える名無しさん:03/11/02 17:14
>>89
相手が「怒っている」と言う事で、自分の冷静さを強調したいんですか。
君が動揺しているのが良くわかりますよ。

>>82について何もコメントしないで、そういう風に書くわけですからね。


91 :考える名無しさん:03/11/02 17:16
>>88
君は定義や位置付けに拘るために哲学やってるんですか。
それに、>>82の説明については、どう考えるんですか。
少なくとも君の定義は、岩波の辞典には明確に反しているわけですが。

92 :考える名無しさん:03/11/02 17:18
>>88-89は、>>82は後回しでいいので、>>83-84>>87のいわんとするところを
よく考えてみてくださいよ。単なる大ボケだったと分かりますから。

93 :考える名無しさん:03/11/02 17:19
89はすげー見苦しいな

94 :326 (最後のレス):03/11/02 17:25
ここまで粘着されるとは思わなかった。

フッサールによるエポケーという概念の意味が「ここでの論点」だから、
「現象学事典」p42を見てみたら?
現象学的エポケーと普遍的エポケーについて説明されてるけどね。
岩波とどっちが正しいか知らないけど。
フッサールは引用箇所を探すのがめんどい。


95 :考える名無しさん:03/11/02 17:26
じゃあ、>>82だけでは分からない分からず屋さんたちのために、もうひとつご紹介。あくまで、>>83-84>>87の理解が先だということでお願いします。

前出岩波p.463「現象学的還元」には「現象学的(超越論的)エポケーと、基本的には同じである」とあります。
ちなみに、エポケーの項目を書いた人と、現象学的還元の項目を書いた人は、違います。

96 :85:03/11/02 17:29
「世界の実在に関してエポケー(判断停止)する」という言い方はあるが、
「世界の実在に関して還元する」と言っても同じだと思いますか?

97 :考える名無しさん:03/11/02 17:29
>>94
相手の批判を粘着呼ばわりするのは、お話にならないんじゃないですか。
現象学的エポケーと普遍的エポケーの区別があるとして、それは
還元と現象学的エポケーの意味が違うことの論拠にならないですね。

98 :考える名無しさん:03/11/02 17:32
>>96
それは言葉の慣用の問題でしょう。要するに>>96は、慣用に従って
哲学的理論を理解したと思っていたに過ぎないことを証拠立てるレスでしか
ないということです。

99 :考える名無しさん:03/11/02 17:35
94もすげー見苦しいな

つか、>>80で、降参しないのが謎。


100 :85:03/11/02 17:38
現象学でのエポケーが還元と同義であるという話は聞いたことは
無いですね。

101 :考える名無しさん:03/11/02 17:45
岩波の定義出されておきながら、それを無視して、
別の辞書から「区別」を持ち出すあたりが痛いな。
「定義」を持ち出すならともかく。

まあ、「定義」を持ち出せば、捏造しない限り
岩波と同じだろうから、出しようが無いんだろうけど。

102 :考える名無しさん:03/11/02 17:45
>>100
そりゃお前が聞いたことがないだけだろw

103 :326 (ホントに最後):03/11/02 17:45
デカルト的省察では8章だね。ということはこのスレではもう終わってるか。  >エポケー
中公では注として解説がついてる。まあ、見てのお楽しみ。
まあ、カッコさんが判断すれば良いんだけど。

104 :326 (ホントに最後):03/11/02 17:47
>中公では注として解説がついてる。

中公の「世界の名著」ではということね

105 :考える名無しさん:03/11/02 17:48
ポールサンデショ

106 :326 (ホントに最後):03/11/02 17:50
ハジメサンデショ

107 :考える名無しさん:03/11/02 17:51
何が(ホントに最後)だか。結局シカトか。最低だなおい。

108 :考える名無しさん:03/11/02 17:53
>>103-104
お楽しみ、カッコさんが判断、とだけ言って去るあたり、
カッコさんの誤解を期待してるんですかねえ。

なんで、あそこまで言われておきながら、そこの内容が
326にとって楽しみなのに、引用しないんでしょうねえ。

109 :85:03/11/02 17:58
還元はエポケーから本質の把握(本質直観)に至る過程でしょう。

110 :考える名無しさん:03/11/02 18:05
>>109
だから、なんで岩波の定義を無視するの。ずいぶん偉いんだなアンタ

111 :326 (ホントに最後、許して!):03/11/02 18:08
「眼前に与えられている客観世界に対するあらゆる態度決定を、
従ってまず第一に、世界の存在に対する態度決定を一切有効
なものと認めないということ、あるいはよく言われているように、
客観的世界に関しての現象学的エポケーを行うこと、または
客観世界を括弧に入れること」(デカルト的省察8章)

注)
「すなわち、このような定立作用そのもの(世界の実在の確信)を
「働きの外に置き」、その作用によって定立された対象を「括弧に
くくる」ことを要求する。一口に言えば、自然的見方で行っている
様々な判断を中止しようというのである。これが、現象学的見方を
開く第一歩としての「判断中止」(エポケー)なのである」

>>109
その通り。

112 :85:03/11/02 18:11
>>110
岩波のはともかく普通の現象学での用法を言ってるわけですよ。
有名な辞書・辞典でも、どうかなという解説は結構ありますよ。

113 :考える名無しさん:03/11/02 18:14
>>111
現象学的還元とエポケーが違うなんてどこにも書いて無いじゃん。

114 :考える名無しさん:03/11/02 18:17
>>112
どうかなという解説が、2項目、別の筆者によって書かれるんですか。

>>94>>111も岩波の定義に矛盾してないし。

115 :326 (次現れたら2chを絶ちます):03/11/02 18:18
>これが、現象学的見方(=還元)を開く第一歩としての「判断中止」(エポケー)なのである

116 :326 (次現れたら2chを絶ちます):03/11/02 18:19
つーか、アホらしくなってきた、さいなら。  >はじめ

117 :考える名無しさん:03/11/02 18:22
>>115
現象学的見方=還元というのは、どこから出てきたんですか。
それはあなたが付け加えたんじゃないですか。

2ch絶ちたければ、絶てばいいじゃないですか、誰も困りませんよ。

118 :85:03/11/02 18:23
同上   >はじめ

119 :考える名無しさん:03/11/02 18:23
喧嘩か?
喧嘩すんなよ。
恥ずかしいぞ。


120 :考える名無しさん:03/11/02 18:24
現象学的見方というのは、確立された超越論的主観性のことで、現象学的還元(エポケー)のことではない。

121 :考える名無しさん:03/11/02 18:25
最後まで見苦しかったな、ポールよ。

122 :考える名無しさん:03/11/02 18:25
>>115
痛すぎ

123 :85:03/11/02 18:25
同上って 116 に同じってことです。

124 :考える名無しさん:03/11/02 18:25
>>123
逃走ですか、そうですか。

125 :考える名無しさん:03/11/02 18:26
これが、現象学的見方(=超越論的主観性)を開く第一歩としての「判断中止」(エポケー=現象学的還元)なのである

おおっ、完全に筋が通っている!

126 :考える名無しさん:03/11/02 18:28
>おおっ、完全に筋が通っている!

筋書き通り

127 :85:03/11/02 18:29
第一歩がエポケーなのはいいのですが、本質直観まで行かないと
還元には成り得ませんよ。

128 :考える名無しさん:03/11/02 18:30
終わりか?
このすれ

       終  わ  っ  た  の  か  ?

129 :考える名無しさん:03/11/02 18:32
127は還元を「超越論的主観性の確立」か「本質直観の3段階」を
全て指す言葉として使っているようだ。なんという素晴らしい理解だ。

130 :考える名無しさん:03/11/02 18:33
85はKuriharaっぽいヨカーン

131 :考える名無しさん:03/11/02 18:34
>>127
逃げたんじゃなかったのか。

>>128
まあある意味「終わっていた」ことが明かされたわけだが。

132 :考える名無しさん:03/11/02 18:36
つか、>>80嫁。定義の争いはどうでもええから。

133 :85:03/11/02 18:48
ん?
>>80の文は判断停止と還元を使い分けているようだが・・・

134 :考える名無しさん:03/11/02 18:55
80が使い分けてるんじゃなくて、お前が使い分けているのが矛盾だろと
書いてるんだろうが・・・アホかよおまいは。

135 :考える名無しさん:03/11/02 18:55
80

エポケー=「判断停止という態度」と定義すれば、定義された態度がエポケーだと考える、という理解の仕方が、フッサール哲学を考える上で誤解だと言ったの。
君は、その名の通り「ただの『判断停止という』という『態度』」を行った後に、フッサールがいう

還元ができると思いますか?


136 :考える名無しさん:03/11/02 19:04
つまり、フッサールのいう還元は、操作的な意味でエポケーをふくんでいるけど、
エポケーの定義どおりの状態で哲学してることなんて考えられないから、
エポケーの理解は、結局「還元」と同じことになるわけ。分かった?

137 :考える名無しさん:03/11/02 19:06
あー、136「操作的な意味で」は、「説明的な意味で」の方がいい鴨。

138 :85:03/11/02 19:07
>>136
>>109を参照するように。ではね。

139 :考える名無しさん:03/11/02 19:08
やっぱり操作的の方がいい鴨。言葉って難しい

140 :考える名無しさん:03/11/02 19:09
>>138
>>129

141 :考える名無しさん:03/11/02 19:11
>>138
説明がありませんが。

142 :考える名無しさん:03/11/02 19:15
>>75の説明を鵜呑みにしただけで終わった人の末路

http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1067760104/l50

143 :考える名無しさん:03/11/02 20:37
>>75は哲学というよりむしろ、腐れ坊主がシロートを煙に巻くためによく使うような云い方です。

144 :考える名無しさん:03/11/02 20:41
で、還元というのはどういうことなのでしょうか?

145 :フッサール:03/11/02 20:55
いやー、申し訳ない、私の書いた物が読みにくいばっかりに、こんな極東の島国の方達にいらん混乱をさせてしまったようだ。
ホントーに申し訳無い。

146 :考える名無しさん:03/11/02 20:59
>>144
自然的・世界内部的な存在理解が妥当している条件を考察するために
それらが妥当しているという確信を保留して(疑うのではない)
それを考察対象とする態度のこと。エポケーと同じ。

147 :考える名無しさん:03/11/02 21:00
>>145
極東という言葉の使い方が、らしくて良いです。

148 :考える名無しさん:03/11/02 21:04
>>75-147
とりあえず>>1の要約まとうよ。
今のままだとただの荒し行為。

それまではこちらでやってくださいね。
♪ポールの 〜現象学的世界〜 ミラクル大作戦♪
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1060786451/l50
■スレッド立てるまでもない質問2@哲学板■
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1065938710/l50

149 :老工ンジ二ア:03/11/02 21:38
>>1さん
無理しないようにがんばってください。

私は、工ンジ二アとして、信じた哲学者は「デカルト」だった。
「我思う、故に我あり」という言葉が唯一無二である。
流れを読んでいませんが、とりあえずコメントしておきます。


150 :カッコ:03/11/02 23:31
みなさんありがとうございます。
荒らしだなんてぜんぜん思っていませんよ。

やはり、第八節は難しかったです。
>>80さん指摘してくださったとおり、
>>65で、わたしが、「エポケー」をひとつの「態度」とまとめてしまったのが大きな間違いで、
>>136さんの仰るように、「操作」か「方法」としないといけなかったんだと思います。

第十一節と、第一省察のまとめと、今まで出てきた用語の整理は、
明日の夜、書き込む予定で、まだほとんど出来上がっていませんが、
「エポケー」と「超越論的な現象学的還元」に関するところだけ、先に書き込みます。

参考にしたのは、岩波の本文、世界の名著の本文と解説です。
例によって、間違っているところもあると思いますので、どんどん指摘してください。

151 :カッコ:03/11/02 23:31
「エポケー」とは、あくまで哲学的に反省する立場の中で、
目の前の客観的存在への、「態度決定」を、有効なものとして働かせないようにする操作です。

わたしたちの普段の経験は、「自然的見方」、
つまり、「直進的(無反省的)」に世界を存在するものと捉える「存在信憑」の中にあります。
その中で、わたしたちは、目の前の客観的存在を、現実存在、仮象存在、可能的存在、推測的存在、
蓋然的存在、などとして判断(「態度決定」)しています。

そのことは、生きていくうえで止むを得ないことで、これからも変わらないのことなですが、
それはあくまで二次的なものなので、哲学的に反省するためには、それとは別に、第一の基盤に立つこと、
つまり、生の全体を眺め渡す「純粋な我」という地点に引き戻す(「超越論的な現象学的還元」)必要です。
そのための、根本的で普遍的な「操作」「方法」が「現象学的な判断停止(エポケー)」です。
「自然的見方」で行っている判断を全て停止して、「単なる現象」にとどめるということです。


世界の名著の解説によると、
「現象学的還元」とは、「自然的見方」から「現象学的見方」へ移るための操作の総称で、
大きく見ると、「超越論的還元」と「形相的還元」の二つのものがあるそうです。

今まで「形相的還元」という言葉は出てきていないと思うのですが、
これから出てくるのでしょうか?

152 :考える名無しさん:03/11/02 23:56
第34節には形相的分析や形相的現象学という言葉はありますが・・・

153 :カッコ:03/11/03 00:14
>>152
ありがとうございます。第四省察から出てくるようですね。
ということは、今のペースだと「形相的還元」にたどり着くまでは1ヶ月ぐらいかかりますね。

慣れてきたら、短い節が続くときは一日に二節は書き込んでいけるようになりたいと思っています。

154 :考える名無しさん:03/11/03 00:15
現象学的還元=現象学的エポケー=根本的で普遍的なエポケー≠エポケー
大体のところは上のとおりだとわたしは理解しています。

わたしがある箱を見るとき、その箱が存在していると見なすのは(存在措定)自然なことです。
ですが、その箱が遠くにあったりした場合、この存在措定は必ずしも十全ではありません。
近くによって見れば、実は箱でなかったりするかもしれない。存在措定の取り消しをせまられます。
確定されていなかった予想が原的な与えられ方に移行することで、
充実、確証、または当て外れにいたるわけです。
とはいえ、ここで根本的なひとつの確信があります。
わたしがどんな対象を立てるときもその基盤となる"世界"が存続しているという確信です。
あの箱は、認識を進めることで別のものとして現われるかもしれない、
しかし近づいたり裏に回ったりして"認識を進めるということは常に可能である"という確信です。
この、世界そのものの存在を信じることを「自然的態度の一般定立」(または、世界信憑)と言います。
また、箱の周りをぐるりと回るとき、背面は壁に接していて見えないということもあるでしょう。
箱が置いてある部屋全体に目を移し、そして窓の外を見ることもできるでしょう(空間を遊動できる)。
わたしの体験は、より多く対象を認識するための遊動空間を内に含んでいます。
ひとつの体験の対象が別の対象を指示しており、その指示連関の中で
わたしは体験を進行させているわけです。
そしてこの指示連関に親しんでいることを「地平意識」、
指示連関が開く可能的経験の遊動空間を「地平」と呼びます。

155 :考える名無しさん:03/11/03 00:16
で、わたしたちがなにかある対象に懐疑の目を向けるとき、わたしたちはその対象に対する
判断を差し控えるわけですが、その背後で世界信憑は続いていることが理解されると思います。
ある対象が主題となるとき、世界信憑が非主題的に働いているわけです。
存在に対して態度を取るのを中止すること、これが「判断中止(エポケー)」ですが、
これまでの議論から明らかなように、個々の体験における対象存在への態度を中止するだけの、
部分的な停止にとどまるエポケーでは満足できません。
現象学が行うのはあくまで、
"存在すると見なされた対象ではなく、対象がどのような非主題的な現出のうちにあるか、
現出がいかなる地平意識に埋め込まれているか"という分析でなければなりません。
つまり、世界そのものを視野にいれた"普遍的な"エポケーが必要になります。
ですが、現出と現出者に関する分析もまた対象に関わっている以上、現象学的分析も
エポケーの対象になるのではないでしょうか?
もしそうであれば、現象学をこれ以上行うことはできません。

156 :考える名無しさん:03/11/03 00:16
そこで、エポケーによって取り出されかつ維持されるような領域が確保されねばなりません。
普遍的エポケーは世界信憑に対する判断を停止するわけですが、もし意識が世界内の存在者と
同じ種類のものならば、意識に関する分析もまた停止され、行うことはできなくなります。
ですから、意識は世界内の諸存在とは根本的に異なるものであるということ、
つまり志向的意識は世界に属するものではないという命題が導き出されます。
さらに一歩進めると、世界とは志向的に現出するあらゆる諸対象の全体であり、
世界とは意識にとって志向的に現出すること以外のなにものでもないということです。
まとめましょう。普段私たちは、世界信憑の中で、意識もまた世界内の一存在者として、
世界は意識に依存せず存在するものと見なしています。
ある現出に対して目を向けても、その裏で非主題的に働いているものは看過されています。
現象学はそのような、世界は意識に依存せず存在するという世界信憑を止めて、
あらゆる存在を意識にとっての現出という場面に連れ戻すのです。
この「連れ戻す」ことがまさに「現象学的還元」なのです。
そして、志向的意識が世界から区別された以上、
この意識は"超越論的"であり、"超越論的現象学"が目指すのは超越論的我から出発して
世界という意識現象を解明することなのです。
現象学的還元とは、絶対的存在である超越論的意識という
新しい存在様式に近づく手続きと考えてください。
世界への判断を中止することで自我を自我自身から隠していたベールを剥ぎ取り、
自己意識のありのままの姿を開示することが問題なのです。

現象学的還元≠形相的還元
本質直観の方法である形相的還元は現象学的還元と
異なるとフッサール自身言っていたはずです。
これについてはまた機会があれば。

157 :フッサール:03/11/03 00:31
んーと、つまりはこういうことか?

1.我思う、故に我蟻、はちと雑過ぎ。世界がどうなっているか?をもっと丁寧に学として哲学する必要あり。
2.世界が「客観的に」そこここにある、ということもお単純には信じない(エポケー)。
3.世界はまず、確実なところとしては、「わたしの」「意識」に浮かぶものとしてしか存在しない。それが世界の「まずは絶対確実な在り方なのだ」(現象学的還元)。

ってことでいいかい?

158 :フッサール:03/11/03 00:36
で、なに?志向性って?
意識のなかに表れる個物はいろいろな見え方、ニオイ方をするけれど、それを「見えたまま。匂ったままのモノ」として受け取らず、それらを構成して、「あ、美少女フィギュアだ」とか考えちゃう、認識しちゃう、そういう意識のこと?志向性って。

159 :フッサール:03/11/03 00:40
主題的とか非主題的ってのはどういう意味?
なんとなくはわかるけど、きちっとはわからない。

160 :フッサール:03/11/03 00:41
だいたいフッサールの書いたもんはわかりにくい用語ばっかなんだよなあ、って、おれがフッサールじゃん!!

161 :よこから:03/11/03 00:59
>>159
特定の対象を見る(主題的)とき他のもの(非主題的)は「地」であり、その対象が
「図」であるというようなことですよ。「地」は背景とか地平とかも
言われます。

162 :フッサール:03/11/03 01:00
ゲシュタルトのことかい。

163 :フッサール:03/11/03 01:01
違うか。ようはそういうことね、うんうんわかったよ。

164 :よこから:03/11/03 01:02
>>162
そうですね

165 :フッサール:03/11/03 01:08
しかしなんか、地平からどろどろ〜〜って対象が立ち昇ってくる感じで、おどろおどろしいな。
もちっと、すっきりいかんかな。イギリス系の哲学みたくサ。

166 :フッサール:03/11/03 01:10
いやいや、どろどろでも別になんの問題もないんですけどね、シュミのハナシなのでね。

167 :カッコ:03/11/03 01:14
>>154-156
ありがとうございます。
第一省察のすごくよいまとめをしてくださっていると思いますので、
明日は、判断、認識、明証、十全な明証、必当然的な明証などの
用語の整理だけにさせてもらってよろしいでしょうか?

>>157
フッサールは、デカルトの「我思う」までは同意して、
そのあと、「我」を世界の中の実体でも魂でもあるものとしたことを批判して、
「不合理な超越論的実在論」と呼んでいるようです。( >>73 第十節 )

>>158
「志向性」というのはまだ出てきていないと思います。
でも、第四節の表題として「ノエマ」という言葉が出てきたときに私が質問して、
その解説をいただいたときに出てきました。( >>43 >>50 )

>>159
第九節の「地平」の話で出てきたものです。
地平は自分の経験の中には現れないもの、主題とならないものですが、
経験からの類推で、その背後に広がっているはず、と思われる領域のことだと思います。( >>70 )

168 :カッコ:03/11/03 01:16
>>162
ゲシュタルトって何ですか?

169 :よこから:03/11/03 01:23
162さんじゃないけど
Gestalt:形、形態で、ゲシュタルト心理学ですね。

170 :カッコ:03/11/03 01:31
「主題的」という言葉は、>>70や本文には書いててなかったかもしれません。
岩波の「地平」への注(p.291)で出てきます。

書きうつします。

Horizont 「地平線」とも訳せるが、「線」そのものが重要なのではなく、
主題的に関心が向かっている対象の周囲に、背後に、非主題的に広がっている背景を指している。
ここで語られている、「規定可能な無規定性の地平」は、
『イデーン』以来、フッサール現象学にとって重要な概念となっていたもので、
本書でも後に(第十九節)詳しく論じられることになる。


171 :考える名無しさん:03/11/03 01:45
フッサール「くっさーい」
ハイデッガー「さいでっか」


172 :カッコ:03/11/03 01:47
>>169
ありがとうございます。
ゲシュタルト心理学で検索してみました。「志向性」の話と似ていました。
ゲシュタルト心理学と現象学はどちらが先にこのことを言い出したんでしょう?

「志向性」については、第二省察から出てくるようなので、今聞くのはよくないかもしれませんが、
志向性によって捉えられたものは、その都度、立体的で感覚的なイメージとして作られるのか、
それとも、あらかじめ持っている言葉の概念のようなものに当てはめるのかが、
これから知りたいことです。

173 :よこから:03/11/03 01:58
ゲシュタルト心理学は19世紀中葉あたりからですのでフッサールより
先行してますね。フッサールが、はっきり言及してるかは知りません。

174 :よこから:03/11/03 02:07
>>172
意識は常に何らかの対象についての意識であるということが志向性ですが、
「立体的」というのは知覚的意識(知覚である意識)にとってのことです。
しかし、「立体とは何か」というような場合は知覚を抽象した概念的把握に
なるでしょう。

175 :考える名無しさん:03/11/03 20:56
今、「方法序説」が手元にあります。

176 :sage:03/11/03 20:58
>>173
訂正、19世紀中葉じゃなく末からでした。

177 :フッサール:03/11/03 21:47
ぼちぼち「デカルト的笑殺」読もうかな〜。
いま「力への縊死」なんかを読んでる途中だからなあ〜。

178 :考える名無しさん:03/11/03 21:48
それでそれで おしえて

179 :参考情報:03/11/03 22:01
こんなんありました。
http://www6.plala.or.jp/swansong/000014tetugakumokuji.html


180 :考える名無しさん:03/11/03 22:11
>179
明日 購入したいのですが 何処かありますか ?
実はヘーゲル全4,5も読みたいのですが
良い情報があれば お願いします。 

181 :179:03/11/03 22:20
>>180
誰かの間違いですね?ね?

182 :フッサール:03/11/03 22:25
志向性ってのは、ようは主観(ノエシス)と客観(ノエマ)のこと?

183 :考える名無しさん:03/11/03 22:30
>>182
誰に?

184 :考える名無しさん:03/11/03 22:59
>>182
志向性は
「意識は常になにものかについての意識である」ということでしょう。
結構古くからあるようです。

185 :フッサール:03/11/03 23:10
>>184
フッサール現象学理解ではそれでいいんでしょう。
が、「意識は常になにものかについての意識である」というところは本当のところ微妙ですよね。
禅とか考えると。あと寝てる時の状態とかね。

何がいいたいかというと、フッサールの現象学は非常に学としての厳密さを追求しているため、近い将来、自然科学に取って変わられる可能性が一番高い哲学だと思うんですよ。
だから、現代においてフッサール現象学を学ぶとき、どうしてもクオリアとかそういう脳科学系との対応を考えてしまうんですよね。うんうん。

186 :考える名無しさん:03/11/03 23:12
つーか、自然科学が対象とするもの全てを内包するのが
現象学だってのが彼らの言い分じゃない?


187 :フッサール:03/11/03 23:18
現象学の言い分は言い分でいいです。
本来哲学というのはそういうもの(自然科学を基礎づけるもの)ですし。

それとは別に、「わたしが知りたいこと」を知るためには現象学も脳科学もただの道具のいひとつな訳です。
使えるところは使える、使えないところは使わない。

188 :考える名無しさん:03/11/03 23:22
>>185
自然科学が将来的に「心」とか「世界」まで、全て解明するのかどうか
それは難しい問題ですね。

189 :フッサール:03/11/03 23:29
うん。
ギリギリアウトだと思う。コトが「この私が存在する不思議」にいたったらそれは自然科学の埒外でしょうね。
でもそこのギリギリまでは、自然科学の結果がでたところは自然科学で置き換えたほうがいいと思っている。

190 :フッサール:03/11/03 23:30
わたしが今いちばん興味あんのが、クオリアは脳科学の対象か哲学の対象か、ですね。

191 :考える名無しさん:03/11/03 23:31
あんたpika9でしょ?  >フッサール

192 :考える名無しさん:03/11/04 00:47
机を見るとき、この意識はそのまま視覚であるような意識であるが、見えている机が
ノエマであり視覚としての意識の対象側の極である。一方の意識の極がノエシスといわれ
見ている主観と呼ばれるものがそれなのであるが、この二つの極は一つの意識の両端である。

193 :考える名無しさん:03/11/04 01:09
更にこの机にデザインの美しさを感じ取るならば、それは一つの感動という
内部的知覚としての意識でもある。
この場合感動そのままの意識がノエマであり、それを自己了解していると
いう意味においてはノエシスでもある。



194 :考える名無しさん:03/11/04 01:10
>>189
悪いけど、他所でやってくんない?
ここは読書会スレだから。


195 :考える名無しさん:03/11/04 02:32
「現象学」というものを始めたフッサールの一番弟子と思われていたハイデガーは、
『存在と時間』をフッサールに捧げたが、同時にそれは強力なフッサール批判でも
あった。
 
フッサールの「現象学」は、我々の意識に直接的に現れてくるもの、つまり「現象」
を出発点にするということだった。これは言い換えれば、そうした現象以外のものを
前提にしない、ということである。こうした無前提から始めることが、フッサールの
言う「厳密な学」の基本である。

ハイデガーは、『存在と時間』を「現象学的な方法」に則るのだと言う。しかし、
その序文で「現象」の概念を、ギリシャ語の語源的な解明から始めた時、既にその
「現象」はフッサールの言う「現象」ではなかった。

ハイデガーは、「現象」とは、元々は「自らをあらわにするもの」という意味だった
とする。これはなるほど、「意識に直接与えられたもの」というフッサールの
現象概念をギリシャ語義によって補強しているように見える。しかし、フッサールの
現象学は、現象の学であるというよりは、現象を認識している我々の「意識」について
の学なのである。だから、ハイデガーが「現象」という時に、フッサールのそれから
抜け落ち、同時にフッサールへの批判となっているのは「意識」という観点について
なのである。

フッサールは数学から出発しており、ほとんど哲学のこと(哲学史)を知らなかった。
その点で、哲学者である以上に哲学史家であったハイデガーから見れば、フッサールの
考えは極めて幼稚なものであり、精々近代主観性の哲学の枠を超えるものではない。
実際フッサールは、後に哲学の勉強をしたときにも、熱心に読んだと思われるのはデカルト
でありカントという、近代主観性哲学の王道だった。これに対してハイデガーの視線は、
近代を遥かに遡って、否、そもそも哲学が成立したソクラテス=プラトン以前の思索者たち
に向けられていた。ハイデガーの理解では、彼等プレ・ソクラテティカーたちは、「フィシス
(自然)」について語ったが、それはプラトン以降、まして近代的な意味での「自然」ではなく、
「存在」そのものであった。


196 :考える名無しさん:03/11/04 02:37
>>193
ノエシスとノエマって逆じゃない?
俺が馬鹿?

197 :入門者:03/11/04 02:41

フッサールにはほとんど馴染みがないんですが、モノによっては「マルクス・
フロイト・ニーチェと並ぶ現代思想の源流」などと書いてあるので、興味は
持ってます。他の大物3人については明確なイメージがわくんですが、フッサ
ールはどうも一般には知られておらず、したがって漏れもイメージがわきません(藁)

自然科学その他の知的体系を基礎づけるべく、現象を認識する我々の「意識」を
吟味したということですかね?

これだと、なんかカントっぽいな?


198 :カッコ:03/11/04 02:47
すみません、あまり時間が取れなくて用語の整理はできませんでした。
できる限り早いうちにまとめたいとは思っていますが。

十一節の要約だけ書き込みます。

199 :カッコ:03/11/04 02:48
●第十一節(p.55)
心理学的な自我と超越論的な自我。
世界の超越性

 ■省察するものとしての我は世界の一部ではない
 ・経験世界の存在への現象学的判断停止によって残った、
  省察するものとしての、純粋な我と我の生は、世界の一部ではありません。
 ・その我は、「我あり」と言っても、「人間としての我がある」のではないし、
  もちろん、人間が持つという、心そのものに範囲を限定して我と呼んだのでもありません。
 ・私を含めた人間というものは、生物学、人間学、心理学といった実証的な学問に、
  「自然的」に捉えられた私として扱われるものです。
 ・心理学が語る心的生活は、あくまで世界内部の心的生活です。
 ・それに対して、現象学的なエポケーのうちに立つ、省察する我は、
  客観的な存在だけでなく、内的な経験の事実の存在への判断も通用させないし、
  自らをあらゆる根拠を支える根拠としているので、
  そこには、心理学的な自我や心的現象はないのです。
 ・心理学的な自我と心的現象は、「心理物理的(心物二元論的)」人間の構成要素です。

 ■心理学的自己経験から超越論的現象学的な自己経験へさかのぼる
 ・現象学的判断停止によって、私は、心理学的自己経験の領土を、
  すなわち、自然的な「人間的自我」と、「心的生活」を、
  「超越論的現象学的な自我」と、「超越論的現象学的な自己経験」の領土へと還元します。
 ・客観的世界が、そのつど自然的な私に対して持つ、すべての意味や妥当性は、
  超越論的な自我としての私から汲みとられるものなのです。

200 :カッコ:03/11/04 02:49
 ■超越論的―超越的
 ・この「超越論的」という概念と、その対である「超越的」という概念は、
  哲学的に省察する状況だけから、捉えなければならないものです。
 ・還元された自我が世界の一部でないのと同じように、
  世界も自我の一部ではありません。
 ・つまり、私の生の中に、「感覚与件」や「作用」の組み合わせというような
  「実質的」な構成部分として含まれているのではないと言うことです。
 ・世界内部のものそれぞれの固有の意味には、実質的に含まれないという「超越性」があります。
 ・この超越性は、私の、表象や思考や価値付けすることといった経験からのみ、
  意味や妥当性を得ているのですが、それでも私の生には含まれない(「超越的」)のです。
 ・それに対して、自我は、世界の意味や妥当性の必然的な前提なので、
  このことを現象学では「超越論的」と呼びます。
 ・この「超越論的―超越的」と言うものの相関関係から生じてくる哲学的な問題を、
  「超越論的現象学的な問題」と呼びます。

(第十一節 要約おわり)

■■■第一省察 おわり■■■

201 :考える名無しさん:03/11/04 02:52
>>195
現象学を継承しているのはリクールやメルローポンティなんかでしょう。
ハイデガーもサルトルも途中から見切りをつけたというか・・

202 :カッコ:03/11/04 02:52
>>195
『存在と時間』という本は、
わたしも、いつか機会があれば読みたいと思っています。
フッサールの本よりも難しいですか?

203 :入門者:03/11/04 02:53
なるほど、「判断停止」ですか。

>そこには、心理学的な自我や心的現象はないのです。

なんとなく、わかってきた気がしますな。


204 :考える名無しさん:03/11/04 02:58
もっと芸術分野とかにも絡めれば分かり易くなる。

205 :カッコ:03/11/04 03:02
>>204
わたし自身は要約をしてはいますが、まだよく分かっていないのです。
すみませんが、具体例をあげるのは、今のわたしには、ちょっと難しいですね。

206 :考える名無しさん:03/11/04 03:03
>>196
193は、机が対象ではなく、「感動」が対象です。すみません。
目を閉じると「机」は見えなくなりますが、「感動」はしばらく持続します。

207 :考える名無しさん:03/11/04 03:05
見るものは見えるものである

208 :考える名無しさん:03/11/04 03:07
ボルヘスとブニュエルの関係にも類似点があるよね

209 :入門者:03/11/04 03:49
>>202

「存在と時間」は、日本語で読むと、日常なじみのない用語ばかりが頻出して
大変なのだが、ドイツ語でなら、言葉自体はそう難しくないとか(まあ、ドイツ
哲学はたいていそんなものかもしれないが)。

もっとも、けっこう思考が深くて、用語に慣れていても、わかりやすくはない
そうです。


210 :考える名無しさん:03/11/04 04:48
>>206
「感動」は「賛嘆」や「崇拝」という「情動」であって、「対象」ではない。


211 :考える名無しさん:03/11/04 05:25
>>210
現象学は感情や情動も考察の対象にしていますが。

212 :考える名無しさん:03/11/04 16:11
誰かちんこに関してナイスな知識もってるやつ書け

213 :フッサール:03/11/05 01:47
191 :考える名無しさん :03/11/03 23:31
あんたpika9でしょ?  >フッサール

いくらなんでもそんなのと間違えないで欲しいな。

214 :カッコ:03/11/05 01:51
今、要約しているのですが、
P.60-7行目から段落の終わりまでの部分、
何度読んでも意味が分かりません。

215 :フッサール:03/11/05 02:03
194 :考える名無しさん :03/11/04 01:10
>>189
悪いけど、他所でやってくんない?
ここは読書会スレだから。

「ここは**スレなんだから」とかいう限定は私としてはどうかと思いますが、まあ、不愉快なようなら消えます。

216 :考える名無しさん:03/11/05 09:27
>>214
中公だと、どこにあたりますか?

217 :考える名無しさん:03/11/05 09:43
だれか僕の「存在と時間」100円で買って下さい。
売買スレ立てたら 消されるかな?

218 :考える名無しさん:03/11/05 22:08
>>214
>P.60-7行目から段落の終わりまで
わたしの見解を出します。
ここでの話題は、すべての知覚なら知覚、想起なら想起について
あらゆる概念に先立つ(先験的な、アプリオリな)
本質的で普遍的な経験の可能性についての学問は可能かどうか、だと思います。
これは>>172での質問とも若干関わりがあると思います。
本質直観、形相分析につながる話ですので、具体的には第三十四節で語られます。

本文に即して説明します。
経験と一言で言っても、いくつかの様態があります。
知覚、過去把持(これは後で出てくるので今は名前だけ)、想起などです。
そして経験には、知覚ならば知覚の形式(=可能性の全体)、
過去把持ならば過去把持の形式、想起ならば想起の形式というように、
それぞれの様態に対応する形式が属しているということです。
(対象はすべて、ある形式に従ってかのように経験される…「かのように経験」
言い換えれば、例えば知覚は、知覚の可能性の限界の中でしか知覚されない。
ここでの「かのように」は現実的経験を離れて可能性の領域に移ることです)
例えば知覚が知覚の形式に従ってしか知覚されえないとすれば、
この形式を取り出して経験の可能性についての学問ができるのではないでしょうか。
この形式についての学問は、存在の現実性ではなく、
先験的な(アプリオリな)経験の可能性についての学問、
現実をアプリオリに規制するその規則についての学問となるでしょう。

確かに本質直観などを知らないとわけがわからない部分だと思います。
わたしの説明もはなはだわかりにくいと思いますが、容赦してください。

219 :カッコ:03/11/05 23:33
>>216
私の持っている「中公世界の名著」だと古いので(昭和45年4月初版)
版が変わってページもずれているものがあるかもしれませんがp.208下段3行目から、
第十二節1段落目の後半、「あらゆる種類の現実的経験・・・」で始まる部分です。

第2段落の後半も同じように難くて、よく分かっていません。

>>218
ありがとうございます。これでなんとなく意味が分かるようになりました。
現実のものと対応する「イデア」のようなものと考えていいのでしょうか?

その部分も含めて、昨日書き込む予定だった第十二節全体のレジュメを書き込みます。


書式を少し変更しました。
岩波と中公で、段落の区切り方は違っています。岩波の区切り方で段落番号をふりますが、
中公のほうが区切りが細かいので、中公の区切りごとにタイトルをふります。
それと、「要約」ではなく、「レジュメ」と呼ぶようにします。
ページ番号は、中公のものも書きますが、上に書いたように、ずれているかもしれませんので、
そのときは知らせてください。

220 :カッコ:03/11/05 23:33

■■■ 第二省察 ■■■(第十二節〜第二十二節)
超越論的な経験の場を、その普遍的構造にしたがって開示する        

●● 第十二節 ●●(岩波p.59 中公p.207)
認識の超越論的な基礎付けという理念

 ■1■
 ● 超越論的経験の場
 ・これまでに明らかになったことがどんな意味を持つのかは、省察をさらに進めることで分かるでしょう。
 ・超越論的な我によって、哲学的に何を始められるのでしょう?
 ・デカルトの「超越論的な我」の発見で、「超越論的基礎付け」という理念が開かれました。
 ・「我思う」は、「超越的」な主観性というものを推論するための必当然的な前提ではありません。
  (デカルトはそのように扱ってしまいましたが)
 ・注意を向けるべきなのは、そこではなくて、
  現象学的な判断停止によって、超越論的経験の場という、新しい存在の場が開けたことです。

 ● アプリオリな学問
 ・全ての「現実の経験」の様態は、それに対応した、「純粋な想像(仮想)」の様態を持っています。
 ・「知覚」、「過去把持(過ぎ去った経験を後ろに引きずり保持する?)」、「想起」に対応するのは、
  「かのように知覚」、「かのように過去把持」、「かのように想起」というような、
  「〜かのように(可能性の領域に仮想された)経験」です。
 ・そのことを考慮にいれると、
  純粋に可能性の中だけを扱う「アプリオリな(経験に先立つ)学問」があってもいいと思われます。
 ・というのは、その学問によって、
  現実の経験に対応する、可能性の中の規則を、あらかじめ描きだしておけるからです。

221 :カッコ:03/11/05 23:34
 ■2■
 ● 「我あり」の絶対的な明証は超越論的な自己経験にも及ぶ
 ・しかし、そのように急き込んだ思考で進むと、いくつもの困難にぶつかることになります。
 ・なぜなら、我の存在の明証と、超越論的に示された存在の明証とは、
  すぐには一致しないものだからです。
 ・超越論的還元の態度では、知覚や想起として「思うこと(意識の対象)」も、
  絶対に疑いなく存在するものとはされません。
 ・それでも、「我あり」の絶対的な明証は、我の超越論的な自己経験にも及んでいます。
 ・ただし、その場合、明証の及ぶ有効範囲が限定されるかもしれません。

 ● 我の普遍的で必当然的な経験の構造
 ・詳しく言うと、
  超越論的な我の自己経験の中での、絶対に疑えない内容とは、
  「我あり」という単なる同一性ではなくて、
  我の、普遍的で必当然的な「経験の構造」が、自己経験で得ること全てを貫いているということです。
 ・「経験の構造」とは、たとえば、体験の流れに内在する「時間形式」などです。
 ・「時間形式」のほかに、この「経験の構造」に含まれるものとしては、
  我に対して、我自身が、あらかじめ示されること、などがあります。
 ・それはどういうことかというと、我自身が、
  必当然的に、体験、能力、素質といった、具体的内容を持って存在するものとして示されることや、
  あるいは、自己経験を、無限に完成させたり、豊かにしてゆくことによって、
  「地平」に近づいていく(経験可能な範囲が広がる)こととして示されることです。

(第十二節おわり)

222 :カッコ:03/11/05 23:54
最後の部分、
>「地平」に近づいていく(経験可能な範囲が広がる)こととして示されることです
ここは、間違って理解しているかもしれません。

223 :考える名無しさん:03/11/06 00:11
>現実のものと対応する「イデア」のようなもの
そうとってしまうと間違いです。
話題を先取りしてしまいますが、実例を挙げて説明します。
経験の可能性ということでいったい何を言わんとしているのか?
たとえば、色というものを考えます。目の前の机の茶色から出発して、
赤色、青色という風に想像力で変更を加えていきます。
ここで私たちは色の本質に基づく絶対不可能性につきあたります。
さまざまな色がありますが、"拡がりをもたない色はありえない、考えられない"
ということです。
われわれの意識は、拡がりをもたない色について考えられないという点で、
アプリオリに規定されています。可能性の限界ということです。
不可能性の意識が対象そのものの本質をあらわにします。
考えられないという仕方で色の本質があらわになったわけです。
現実と対応するイデアではなく、現実の限界と捉えたほうが正確だと思います。
現実を離れたなにかがあるのではなく、現実そのものに限界がある、ということです。
「経験の構造が、現実的および可能的な自己経験において個々に与えられるものすべてを
貫いて広がっている(p61 11行目)」といったとき、このことを考えていると思います。

対象を変更し想像することで、あらゆる個々の事例における同一の規定、
事例の変更を通じても不変の規定が浮かび上がってきます。
この不変の規定、これが問題になっている作用や対象の本質です。
変更と想像によって思考の限界を捉えることを「形相的還元」と言います。
ここで得られた意識の本質はあらゆる事例に必然的普遍的に当てはまります。
普遍的なもの、客観的なものが得られるわけですね。

224 :考える名無しさん:03/11/06 00:12
>ここは、間違って理解しているかもしれません。
「具体的に存在するものとして疑いの余地なく素描されているもの」
「経験の対象として地平において素描されているもの」
としての自我が
「自己経験によって近づくことができ、無限に完成される」
だと思いますが、どうでしょうか。

ところでわたしが持っているのは岩波文庫版のみですが、
p62 2行目「近づくことのできるようになり」というのは
ちょっと日本語としておかしいなと思います。

225 :フッサール入門者:03/11/06 00:37

結局、フッサールの「現象学」というのは、デカルト・カントの近代主観哲学
をベースにして、より厳密な認識論を展開したもの、というように受け取れる
んですが(違うかな?)。

現象学は、20世紀の哲学に大きな影響を与えたとされているわけですが、
実際にどのような影響を与えたんでしょうか?


226 :カッコ:03/11/06 00:41
>>223
ありがとうございます。
ということは、現実的に経験できることは、あらかじめ限界付けられていて、
経験できるもの全てが「〜かのように」というふうに、あらかじめ決まっている形でしか
知覚も、想起もなにもかも経験できないという意味ですか?

>>224
わたしがよく分からなかったのは、前に「地平」は「必然性」から推測されるだけで、
経験はされないものだと書かれていたのに、
「経験の対象として地平において」という言い方がでてきたことです。
「粗描される」というのが、必然性からの推測であれば分かるような気もしますが、
そういうことを言ってるようには思えませんでした。
たぶん、わたしはまだ「地平」がよく分かっていないんだと思います。

ちなみに、中公でその部分は、
 あるいは、自己経験を無限に完成することによって、また時には豊富にすることによって、
 接近されうる経験対象として地平的に予示されるということ、
となっています。

227 :考える名無しさん:03/11/06 00:44
>>225
まだ50〜60頁しか読み進めていない時点で
「結局〜」などという性急な取りまとめはやめておきましょう。

通俗哲学史や入門本の再確認をするために
原典を読むわけではないのですから。



228 :考える名無しさん:03/11/06 01:16
>「地平」は「必然性」から推測されるだけで、経験はされないもの
岩波p52のあたりでしょうか?
岩波では「本来的には経験されないが必然的にともに思念されているものの地平」とあります。
「経験にはその背後に必然的に地平が伴っている」と読み、
この本来的には経験されない地平を開示するための
現象学的還元と言う風に話が繋がるのだと思います。
地平についてはまた機会があれば説明を加えたいと思います。

>中公でその部分
これだと岩波とまるきり違いますね。
岩波訳の浜渦氏は現象学の専門家ですから間違ってはいないと思いますが…。

229 :考える名無しさん:03/11/06 01:18
>>226
予示されるのは「自我」でしょう。
「地平的に予示される」は「遥かな展望が開けている」位の意味では?

230 :考える名無しさん:03/11/06 01:45
>>226
「超越論的な我」は普遍・必当然的な経験の構造を持ちますが、自己経験を完全あるいは豊富
にすることにより接近できる対象として、(認識論的な)地平において、
素描・展望される。このことも「超越論的な我」の経験構造そのものに由来しているのです。

231 :カッコ:03/11/06 01:59
>>228
ありがとうございます。
「本来的に経験されない」=「経験不可能」と誤解していました。
「地平」とは、直接、経験することによって「ある」とされるのではなくて、
経験したことから、その背後に「あるはず」だとされるので、
経験できないという意味は、全く含んでいなかったようですね。



第十三節は明日にさせてもらいます。

232 :考える名無しさん:03/11/06 02:12
地平が本来的に経験されないというのは、はっきり観察しようとすると
主題的なものとなってしまい、地平の「地平性」が失われるからです。
言い換えると、地平である限り明確、詳細に規定できないという意味でもあります。

233 :考える名無しさん:03/11/07 00:03
フッサールの現象学をベースにして自身の哲学活動を展開したのは、ハイデッガー、
メルロポンティ、デリダなどです。

これらの、20世紀の現代思想におけるビッグネームたちを生んだわけですから、
現象学は現代思想の原点のひとつといえます。

現代思想が難解なのは、現象学のせいかも知れません・・・・・・・(泣)


234 :考える名無しさん:03/11/07 00:33
デカルトの創作観念ってさ、生得観念や外来観念の複合や分解と考えればいらないんじゃないか?

235 :カッコ:03/11/07 00:45
レジュメ第十二節、■2■の後半をまとめなおしてみました。

 ● 経験の構造
 ・超越論的自我の自己経験から、厳密に、絶対に疑えないものだけ取り出すと、
  ただ単に「我がある」という同一性が取り出されるのではなくて、
  「我がある、ということを必当然的なものとする「経験の構造」がある、ということが取り出されます。
 ・この「経験の構造」がどのようなものかというと、
  自我が、自分にとって必当然的に、
  体験、能力、素質などを持った具体的な存在として、地平の中に大まかにでも想定され、
  この想定は、自己経験を無限に完成させていくこと、豊かにしてゆくことによって、
  大まかなものから、より精密なものへとなってゆきます。

第十三節は今まとめています。

236 :カッコ:03/11/07 00:48
235では、「地平」をまだ経験されていないが、想定されていること、程度の意味にとって、
主題的かどうかはあまり考えていません。

237 :考える名無しさん:03/11/07 01:01
>・超越論的自我の自己経験から、厳密に、絶対に疑えないものだけ取り出すと、
>ただ単に「我がある」という同一性が取り出されるのではなくて、
>「我がある、ということを必当然的なものとする「経験の構造」がある、ということが取り出されます。


なるほど、デカルトの「我あり」だけでなく、「超越論的な我」の
「経験の構造」も、厳密に、絶対に疑えないものなんですね。


238 :考える名無しさん:03/11/07 01:09

「超越論的な我」・・・世界の意味や妥当性の必然的な前提


239 :カッコ:03/11/07 03:04
●● 第十三節 ●●(岩波p.62 中公p.209)
超越論的な認識の及ぶ範囲という問題を、さしあたり遮断しておくことが必要である

 ■1■
 ● 大きく高次な課題
 ・さきほどの「アプリオリな学問」を実際に作ろうとすると、とても大仕事になります。
 ・それは、超越論的な自己経験どうしの関係の形態や、その経験の全体的働きについて、
  批判的に吟味することが課題となるからです。
 ・また、この課題は、高次な課題です。
 ・なぜならこれは、対象と調和(一致)して進む超越論的な経験の、
  素朴に機能している明証を追いながら、経験で得られたものを調べあげて回り、
  その普遍的な特性を明確にした上ではじめてできることだからです。

 ■2■
 ● 超越論的現象学の二つの段階
 ・デカルト的省察を拡張して、「我思う」から超越論的な哲学へと入っていくことは、
  根本から哲学を始めようとする私たちにをしっかりと目標へ導く動機になるでしょう。
 ・「超越論的現象学」と呼ばれる、この一連の学問研究は、
  予想では、二つの段階を経ることになるはずです。

240 :カッコ:03/11/07 03:05
 ■3■
 ● 第一の段階
 ・まず、超越論的な自己経験の広い領土を見て周る必要があります。
 ・そしてそのときは、明証が及ぶ範囲を確定するための、必当然的な原理に対して、
  究極的な批判吟味をするという問題は保留にして、
  とりあえず、対象と調和(一致)して進む経験の明証に身を任せてます。
 ・つまり、自然科学者が自然な経験の明証に身を任せているのと同じようにふるまうのです。

 ■4■
 ● 第二の段階
 ・つぎに、保留にしていた、批判的に吟味することを、見て回った超越論的経験に対して行って、
  そして、それにもとづいて、超越論的な認識一般に対しても批判的な吟味を行います。

(第十三章 つづく)

241 :カッコ:03/11/07 03:06
すみませんが、残りの、■5■ 〜 ■7■は、明日にします。

242 :Gilles:03/11/07 22:00
面白そうなスレなのでときどき覗いている者です。おせっかいながら、>>214 以降で問題になって
いる、第十二節最終部分についての語学的注釈。

ドイツ語原文は次の通り(ドイツ語特殊文字は適宜置き換えて表示):

... dass das Ich fuer sich selbst apodiktisch vorgezeichnet ist als konkretes, mit einem
individuellen Gehalt an Erlebnissen, Vermoegen, Dispositionen seiendes, horizontmaessig
vorgezeichnet als ein durch moegliche, in infinitum zu vervollkommnende und eventuell zu
bereichernde Selbsterfahrung zugaenglicher Erfahrungsgegenstand.

243 :Gilles:03/11/07 22:01
フッサールに典型的な悪文ですが、修飾関係に注意してバラしていくと次のようになります:

... dass das Ich fuer sich selbst apodiktisch vorgezeichnet* ist
... 自我が それ自身に対して 必当然的に 予示されている* ということ

((その「自我」は どのようなものとして 予示されているのかと言えば:))
als < konkretes, [ mit einem individuellen Gehalt an Erlebnissen, Vermoegen, Dispositionen ] seiendes >,
< 具体的な、[ 諸々の体験・能力・素質についての 個別的内容をもちつつ ] 存在する ((自我)) > として

((上に「予示されている」* というのは:))
horizontmaessig vorgezeichnet*
地平というものをともなって 予示されているのだが、

((再度、どのようなものとして予示されているのかと言えば:))
als < ein [ durch (1) moegliche, / (2) in infinitum zu vervollkommnende / und
< ある [ (1) 可能な / (2) 無限に 完成させられる / そして

(3) eventuell zu bereichernde / Selbsterfahrung ] zugaenglicher Erfahrungsgegenstand >.
(3) 場合によっては内容的に充実させられる / (1+2+3 -->) 自己経験 によって ]近づくことのできる 経験対象 > として

こういうものを訳す人たちは本当に偉いと思う。今、浜渦訳が手許にないので対比ができないけれど、
上の修飾関係をいったん頭に入れて訳文を読み直してもらえれば、おそらくなぜそういう訳文になって
いるか、少しは理解しやすくなるかもしれません(ならないかもしれませんが)。

244 :Gilles:03/11/07 22:01
内容的説明は、>>218氏のおっしゃることで問題ないでしょう。

「地平」については別段難しいことはありません。ある対象を知覚する(例えば、目の前の箱を見る)ときにも地平
は現われるし、フッサールの考えでは、およそあらゆる意識内容には地平的構造が帰属しているのです。

ちょっと先の第十九節では、「例えば、あらゆる外的知覚には、<A:知覚対象の本来知覚されている諸側面>から、
<B:共に思念されているが、まだ知覚されておらず、単に期待という形で、さしあたり非直観的空虚として予期され
た諸側面>への指示が帰属している」という例があげられます。

目の前の箱を見る場合、その箱の正面(A)だけが見えて、側面や背面(B)は見えない。しかし、正面だけが見える
といっても、同時にその正面は「これこれの側面や背面をもつものとして」知覚されているのです。もちろん、直接
知覚されない以上、側面は「単に期待という形で」、つまり、例えば、箱の横に自分が移動したら見えるだろう、と
か、箱を回転させたら見えるだろうと「予期」されるにすぎません。その予期が裏切られる可能性だって当然あるわ
けですが、このような「予期」は、知覚ということが成り立つために必ず必要なものとして(フッサール流に言えば、
「本質的構造」として)知覚に帰属しているわけです。

第十二節のこの箇所でフッサールが示唆しているのは、これまでずっと問題にしてきた「自我」なるものが、そういう
本質的構造の絡み合いを自らの内容とする「経験対象」として(「≪私はある≫という空虚な同一性」としてでなく)
示されるかもしれないよ、ということなのです。

お邪魔しました。これからもがんばってください。

245 :考える名無しさん:03/11/07 22:02
>Gilles氏

お久しぶり!復帰期待してますよ〜

246 :考える名無しさん:03/11/07 23:32

プロですな。期待しています。


247 :考える名無しさん:03/11/07 23:57
oioiまじで大学のゼミでの読書会のノリだな。
こういうスレを待っていたぜ!!


248 :考える名無しさん:03/11/08 10:11
一切の主観的な判断を停止した後に残る、存在を絶対に疑えないもの。

それがデカルトの場合は、「考えているこの私」だったわけですが。

「私は存在しない」と言ってしまえば、ウソになる。存在しないなら、「私
は存在しない」などと考えることもできません。「存在を疑いだしたらキリが
ないのだが、自分自身の意識は、存在するのは間違いなかろう。これすら存在
しないなら、『存在』についてあれこれ考えることもできなくなる」ということ
ですね。

フッサールはそれを、「この私」だけでなく、世界全体に広げたんですか?
判断停止したあとでも、世界全体が「存在を絶対に疑えないもの」として
残ると?


249 :考える名無しさん:03/11/08 10:28
フッサールという人は、主観に基づいてドイツ観念論みたいな思弁を
展開するのを排除。直接の経験に基づいた現実を重視する人、という
ことでしょうか。それが「厳密な学」へとつながる道だと。

「超越論的な我」をハケーンしたのはデカルト。「超越論的な我」を
拡張して、「超越論的な哲学」を樹立するのがフッサール・・・・。


250 :考える名無しさん:03/11/08 11:47
この板で唯一まともなのが現象学系。

おれも一から勉強して議論に加わろうと思うので、それまで続けててくれ!

251 :考える名無しさん:03/11/08 17:32
>>250

「この板で唯一まとも」というよりも、20世紀の現代思想の中で、本来の哲学
らしい哲学といえるのが現象学系なのでは。


252 :考える名無しさん:03/11/08 17:44
マルクス・フロイト・ニーチェらをベースにして、社会革命とか精神分析に明け暮れた
20世紀の現代思想。そんな中で、本来の哲学らしい哲学と思えるのが現象学系なので、
難解ながらも、興味を持っています。

言語学、文化人類学、精神分析、分子生物学などは、哲学の本流たりえないと思います。

関係ないですが、現代の日本の思想界を差配している柄谷行人の一派は、どこまでいっても
左翼の革命理論家にすぎず、時代錯誤な存在です。

いまこそ、現象学を学んで、本来の学としての哲学に回帰したいです。


253 :考える名無しさん:03/11/08 19:04
>>227をも一度読んでくれ。
このスレをダシにしてくだらん自説でオナニーするのは勘弁。
Gilles氏をみならってくれ。

254 :考える名無しさん:03/11/08 19:10
>>253
同意。
現象学(フッサール)一般について語りたい人はこちらへ

【事象そのものへ!】現象学【phanomenologie】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1043847372/l50

255 :カッコ:03/11/08 19:46
>>243
ありがとうございます。おせっかいでもお邪魔でもありません。
岩波でも中公でも意味がとれず、しかも訳し方が大きく異なっている部分が出たので、
こうなってしまった場合は、原文との比較すること(をしてくれる人)が必要なのだろうなと思っていました。
序論を読んだ段階では、フッサールの文章は分かりやすいと思っていたのですが、
節が進んでゆくにしたがって、思っていたよりも、複雑な言い回しをする人だと分かってきました。

>今、浜渦訳が手許にないので

浜渦訳(岩波)のその部分(p.61十四行目から)を書いておきます。

 また、次のことが、この経験の構造と連関しており、また、この経験の構造そのものに属している。
 それは、自我が自分自身にとっては、体験や能力や素質の個々の内容を伴って
 具体的に存在するものとして、疑いの余地なく粗描されていること、
 しかも、経験の対象として地平において粗描されていること、
 そして、これが可能な自己経験によって近づくことのできるようになり、
 この自己経験は無限に完成され、場合によっては豊富にされるということ、これらのことである。


>>244
前に、「ノエシス」と「ノエマ」や、「志向性」の話題のときに、
意識が、対象の一部だけを見て、そこから意味のあるまとまりを作るのだ、
ということだったのですが、
その、まとまりを作ったときの、実際には見られなかった部分のことも、
「地平」と呼んでいいのですね。


ところで、第一省察に出てきた用語の整理をするはずだったのですが、まだしていません。
ノエマ、明証、地平、超越的−超越論的などは、用語と呼べるものだと思うのですが、
いまのところ、知覚、意識、思念(思惟、思う)、認識、経験、体験などの単語の意味は、
わたしが普段の会話で使っているような意味との区別を、わたしの中ではっきりつけていません。
やはり、フッサールは、これらの単語も、現象学用に特に限定した意味で使っているのでしょうか?

256 :カッコ:03/11/08 19:47
(第十三節 つづき)

 ■5■
 ● 超越論的現象学は客観的学問とまったく対立する
 ・この、超越論的現象学という学問は、これまでにない独特な学問です。
 ・この学問が対象にするのは、
  現実的あるいは可能的な、超越論的経験で具体的に得られる、超越論的主観性です。
 ・そしてまた、この学問は、これまでの客観的学問とはまったく対立するものです。
 ・たしかに、客観的な学問の中にも、主観性についての学問(心理学)がありますが、
  その主観性は、あくまで「世界に属している主観性」でした。
 ・それに対して、超越論的現象学の唯一の対象となる主観性は、
  「世界が存在するしないの決定と無関係にある、超越論的な我としての主観性」なのです。
 ・ところで、この学問は、純粋な「自我論」から始まって、
  超越論的であるといはいっても、一種の「独我論」へと向かってゆくものに見えます。
 ・実際、現象学的還元による見方からでは、
  「単なる現象としての他の自我」ではなくて、「超越論的な我としての他の自我」があるとされるのか、
  そして、他の自我が、現象学的な「自我論」のテーマとすべきなのかは、
  いまのところは、まったく予測ができません。

 ■6■
 ● 超越論的な独我論
 ・でも、そのような疑念を恐れないでください。
 ・超越論的な我への還元は、一見、独我論にとどまる学問のように見えますが、
  この学問を、それが持つ意味どおりに首尾一貫して展開してゆけば、
  超越論的な「間主観性(主観相互が意識の対象の意味を共有すること)」の現象学を経て、
  普遍的な「超越論哲学」へと展開されてゆくでしょう。
 ・実際、超越論的な独我論は、
  超越論的な間主観性の問題を、高次なものへと正しく設定するための低次の条件として、
  限界づけされる必要のあるものだということが後で示されます。
 ・ですが、このことは、今後私たちの省察を進めてゆく中で、完全な意味が証明されることなので、
  今の段階ではまだ、決定を下すことはできません。

257 :カッコ:03/11/08 19:48
 ■7■
 ● デカルトと私たちの分岐
 ・これまで、デカルトと同じ道を、はじめからたどり直してきましたが、
  本質的な本質的な分岐点から、私たちは、デカルトとは決定的に違う道に入りました。
 ・つまり、「われ思う」という命題の明証から、
  デカルトは、超越論的な判断停止の意味を明確にしなかったため、それを実りのないものにしてしまい、
  私たちは、超越論的な経験の無限の場を解明するという課題を掘り下げていくことになったのです。
 ・デカルトは、次の事実についても明確にしていませんでした。
 ・それは、「我」というものが、超越論的な経験によって、体系的に解明できる研究領域だということです。

 ● 我という研究領域
 ・この研究領域は、まったく固有で、他の学問と切り離された領域です。
 ・というのも、
  この領域は、全ての世界や客観的学問と関係があるのに、
  それらの存在の効力(妥当性)を、まったく前提していませんし、
  また、他の学問との区別のされ方は、同列にして境を接するという形でもないからです。

(第十三節 おわり)

258 :考える名無しさん:03/11/08 20:14
2chで、スレの参加者を限定して純血主義にするのは無理ですよ。
通りすがりの人も、テキトーに感想を書き込んで去っていくのが普通です(w

259 :Gilles:03/11/09 00:39
>>255

> 浜渦訳(岩波)のその部分(p.61十四行目から)を書いておきます。

どうもありがとうございます。誤訳ではないようですね。ただ、読みやすい訳文を作ろうとされている上に、原文の
修飾関係を正確に日本語に移そうとしているため、結果的に大意がとりにくくなっているかもしれません。

一つだけ。中公訳では「地平的に」、岩波(浜渦)訳では「地平において」、と訳されている horizontmaessig
は、名詞 Horizont 「地平」に、-maessig という接尾辞をつけた形です。この接尾辞は、「〜のような、〜らしい」
とか、「〜に合致した、〜としての、〜によって・従っての」とか、「〜に関する」とか、さまざまな日本語訳に相当
します。変幻自在である点で、日本語の「〜的な・〜的に」とちょっと似たところがあります。

だから、文脈におうじてさまざまな訳し方が考えられるのですが、岩波訳の「地平において」は、今ひとつわかりに
くい気がします。(>>243 では私なりの解釈で「地平というものをともなって」と訳しました)

260 :Gilles:03/11/09 00:39
> 前に、「ノエシス」と「ノエマ」や、「志向性」の話題のときに、
> 意識が、対象の一部だけを見て、そこから意味のあるまとまりを作るのだ、
> ということだったのですが、
> その、まとまりを作ったときの、実際には見られなかった部分のことも、
> 「地平」と呼んでいいのですね。

だいたいそういうことです。ただ、「意識が … 意味のあるまとまりを作る」という点をあまり強調するとまずいかもし
れません。フッサール自身が「意識による(における)構成」というような言い方をするにしても、まず原材料があっ
て、その原材料と向かい合っている意識が、それを何かひとまとまりに作り上げる、というような話ではおそらくない
のです。(もしそういう話だとすれば、いろんな「作り上げ方」があってもよさそうなものですが)

むしろ、意識が反省の目を向けるとき、いわば「つねにすでに」これこれの形で構成されてしまっている、という考え
方をフッサールはしているように見えます。言い換えれば、「意識による構成」には何らかの本質的構造がいつでも
見られるし、それが本質的構造である以上、それ以外の構成の仕方はありえない。フッサールが意識なり、志向
性なりに目を向けるときは、そういう本質的構造のようなものを取り出そうとしている、と言ってよいように思います。
(「志向性」というのも実はそのようにして取り出された意識の本質的構造の一つです。例えば、第十四節末尾。
なお、この本質的構造を取り出すための手続きが、>>223 で紹介されている「形相的還元」に相当します)

261 :Gilles:03/11/09 00:40
その意味で言うと、地平というのも、単に「実際には見られなかった部分」という意味だけではなくなります。およそ
あらゆる意識に必然的にともなう構造の一つ、しかも、極めて重要な構造だということになります。

フッサールは、意識がつねに「何ものかについての意識」という形をとると考えていますが、少なくともその「何ものか」
の部分は主題的・明示的に意識されているはずです。

例えば、>>244 で例にあげた箱の知覚でいくと、箱が「箱」として知覚されている限り、その手前の、今まさに知覚
されている面は主題的に意識されていることになります。その箱が、今まさに知覚されていない側面や背面をもつ
ことはほとんど意識されていない。でも、それは「何の意識もない」ということではなくて、いわば非主題的な形で意
識されているのだ、とフッサールは考えます。

というのも、もし仮に、私が箱の横に移動して、実はその箱と思われていたものが側面も背面ももたない、ホログラム
のような映像だったとわかったとしましょう(ベニヤ板に描かれた映画のセットのようなものでもかまいません)。そのとき、
私は自分が「側面」や「背面」のようなものを何らかの意味で意識していたと認めざるをえないでしょう。重要なのは、
このときもはや「箱を箱として知覚する」という意識が(少なくとも前と同じ形では)成立しないということです。それは、
フッサールに言わせれば、「箱」の意識に必然的にともなう構造(地平構造)が成立しなくなったからです。

これまでの例は知覚、しかも視覚の例なので、わかりやすい分、誤解を招くかもしれませんが、>>244 でも書いた
ように、およそあらゆる(主題的)意識には、つねに何らかの(非主題的)意識、言い換えれば、地平という構造が
ともなうのだとフッサールは考えています(それは最終的に「体験流に内在する時間形式」によって保証されるので
すが)。

262 :Gilles:03/11/09 00:40
> 序論を読んだ段階では、フッサールの文章は分かりやすいと思っていたのですが、
> 節が進んでゆくにしたがって、思っていたよりも、複雑な言い回しをする人だと分かってきました。

哲学史の悪文ランキングを作ったら、間違いなく上位に食い込むと思います。ただでさえドイツ語に多くなり
がちな、ゴタゴタした修飾語が羅列されるので、読むほうとしては辟易することもあります。

フッサールが原稿を速記で書いていたというのはよく知られていますが、主として鉛筆で書いていたそうです。
イメージとしては、数学者が紙の上に次から次へと計算を書き連ねるのに近い感じでしょうか。どんどんその
場で思いついたことを書いていくために生まれた悪文かもしれません。

難解という意味では、よく比較されるハイデガーも難解ですが、ある意味では非常に洗練された、読みやす
いドイツ語を書きます。マールブルク時代のハイデガー宅を訪ねたことのある三木清が、「ドイツ文学の古典
の全集がぎっしり並んで」いるのを見て、「いささか奇異の感をもって眺めた」と書いています(「ハイデッゲル教
授の思い出」)。

263 :Gilles:03/11/09 00:41
> やはり、フッサールは、これらの単語も、現象学用に特に限定した意味で使っているのでしょうか?

基本的にはやはりフッサールなりのニュアンスをこめて使っている場合が大半だと思います。また、フッサール自身
の中でも時期や文脈により、いろいろ意味合いが変わっていることもあるでしょう。

ただ、そういうことを気にしすぎると何も読めなくなってしまいかねない。特に『デカルト的省察』は後期の著作で、
さほど長いテクストでないにもかかわらず、それまでの現象学的研究の成果をあれもこれも盛り込もうとしている
ため、後のほうで説明される用語を前のほうで使ってしまったり、あるいは、どこにもはっきりした定義のないまま
導入してしまったり、いろいろ難しい部分があるのです。

フッサール自身が現象学の創始者としてパリの聴衆を前に講演するというシチュエーションも、「現象学はこんな
こともやってるんですよ」というところを見せたいがために、ちょっと講演者をサービス過剰気味(デカルトにならって
ゼロから省察を始め、最終的には当時のフッサール自身が格闘中であった間主観性の理論まで提示する)に
しているきらいもあります。

もしどうしても個々の用語をおさえながら読みたいのであれば、前にも名前のあがっていた『現象学事典』(弘文
堂)を参照するのがよいかもしれません。(面倒でしょうけど)

264 :カッコ:03/11/11 03:52
>>258
ありがとうございます。
もちろん、感想などは書いていただけたほうがうれしいです。
ただ、今までに出てきていない難しいことについては、
出来るだけ説明をつけていただけると助かります。

>>259-263
「志向性」についてはやっと本文に登場してきたところです。
岩波の注に、志向性が
「現象学の根本概念であり、現象学に対する評価も批判もこれをめぐって行われる」
と書かれていて、とても重要なところであるらしいのですが、
まだ、内容についても、なんとなくしか把握できていないと思います。
なぜ「志向性」がそれほど重要なのかもまだわかりません。
これから少しづつでも、はっきりと理解していこうと思います。

ハイデガー『存在と時間』は、いつか読んでみたい、という程度で、
今は、フッサールのこの本で手一杯です。でも、面白そうですね。

『現象学事典』は安く売っているのが見つかれば、いつでも買うつもりです。

265 :カッコ:03/11/11 03:53
●● 第十四節 ●●(岩波p.66 中公p.212)
思うことがもつ流れ。思うことと思われたこと

 ■1■
 ● 流れる意識の生
 ・それでは、「我思う」という分岐点から、デカルトが入らなかった道への歩みを進めていきましょう。
 ・それは、「(省察する)同一の我」で止まるのではなく、「流れる意識の生」へ向かって進むことです。
 ・なお、「流れる意識の生」の明証の必当然性がおよぶ範囲についてはまだ保留のままにします。
 ・「流れる意識の生」という、「同一の我」がその中で生きる、多様な「思うこと」、
  たとえば、感性的に知覚したり、表象したり、言表したり、価値づけしたり、意欲したりする生へ、
  反省のまなざしを向け、観察し、内容を解明し、記述(特質を完全に秩序づけて記載)することです。

 ■2■
 ● 「意識の心理学(心理学的意識研究)」と「超越論的現象学的意識研究」との区別1
 ・しかし、その記述は、心理学の記述とどこが違うのでしょうか?
 ・たしかに、「意識の心理学」は、「超越論的現象学的意識研究」と、ぴったりと平行するものですが、
  この二つを厳密に区別ことが必要です。
 ・この二つを混同することは、「超越論的な心理学主義(心理主義)」というものの特徴で、
  真の哲学を不可能にするものです。

 ● 「意識の心理学」と「超越論的現象学的意識研究」との区別2
 ・この二つの間の微妙な差を区別することは、哲学の正道・邪道を決定的に分けてしまうものです。
 ・私達が、たえず注意しておかなくてはならないことは、
  超越論的現象学的な研究全体には、超越論的還元を断固維持することが必要だ、ということと、
  この還元は、研究対象を「人間の心的な生」に抽象的に限定することではない、ということです。
 ・二の研究が、もし同じ所与を扱うことがあった場合、
  「意識の心理学」は、存在するものとして前提された世界の中のもの、
  つまり、人間の心を構成する要素として把握されたもの、として扱います。
 ・それに対して、「超越論的現象学的意識研究」は、そもそも世界というものを、
  現実としてではなく、ただの現実の現象としてしか通用させません。

266 :カッコ:03/11/11 03:54
 ■3■
 ● もう一つの決定的に重要なこと
 ・「心理学主義的な混同」が避けられていたとしても、
  そのほかに、もう一つ、決定的に重要なことがあります。
 ・それは、「超越論的現象学的意識研究」にとって重要なだけでなく、
  「意識の心理学」に対応した変更を加えることによって、
  「意識の心理学」にとっても重要なものとなるものです。

 ● 志向性
 ・これについて説明するために、まず見ておかなくてはならないことは、
 ・「意識(知覚・思念・・・?)する」ということには、「意識」している時点ですでにそこには、
  対象となる何ものかがあるはず、であって、
  たとえば、机についての知覚は、判断停止の前でも後でも、
  机についての知覚である、という事実に変わりはないということです。
 ・すべての「思うこと」(意識体験)は、「何らかの対象」を思念していて、
  「思念」ということ自身の中に、そのつど、「思われたもの(コギタートゥム)」がセットになっています。
 ・このような「意識体験」の特性を「志向的」とよびます。
 ・つまり、「志向性」とは、意識が、常に、「何かについての意識」であること、
  すなわち、「思うこと」としては、「思われたもの」を、常に自らの内に持っていることを意味しています。

(第十四節 おわり)

267 :考える名無しさん:03/11/12 10:56
フッサールのなかでは最も読みやすいと言われている「デカルト的省察」でさえ、こんなに難解だなんて……

268 :カッコ:03/11/13 03:14
すみませんが、第十六節は長いので、今日は■1■だけ書き込みます。

269 :カッコ:03/11/13 03:14
間違えました、「第十五節は」です。

270 :カッコ:03/11/13 03:15
●● 第十五節 ●●(岩波p.69 中公p.214)
自然的な反省と超越論的な反省

 ■1■
 ● 自然的な反省
 ・「意識の生」についてもっと詳しく解明するためには、
  「直進(無反省)的」な把握の作用と、「反省」という把握の作用とを区別する必要があります。
 ・直進的な把握作用は、反省という把握作用によってはじめて明らかにされるものです。
 ・たとえば、直進的に、ある家を、知覚して把握するときは、
  その家を把握してはいても、知覚することそのものを把握してはいません。
 ・反省によってはじめて、知覚することそのものと、知覚がその家に向かっていること、に向かうのです。
 ・日常生活の中の「自然的な反省」や、心理学的な学問の反省も、
  すでに存在しているものとしての世界という基盤の上で行われています。
 ・たとえば、「私はこのメロディーを聴いたのを覚えている」と言うときなどがそうです。

 ● 超越論的現象学的な反省
 ・自然的な反省に対して、「超越論的現象学的な反省」をするときは、
  世界が存在するかしないかを判断停止しているので、世界という地盤はありません。
 ・このような超越論的な経験では、反省する主体として、
  そのつどの「超越論的な思うこと」を、観察や記述はしても、
  自然的に「存在の定立(世界が存在すると肯定)」をすることはありません。
 ・そもそも、存在の定立は、「直進的な思うこと」に含まれるものだからです。
 ・しかし、反省というものは、自然的にであったとしても、超越論的にであったとしても、
  もとの体験に代わって、本質的に異なる体験として現れてくるものではあります。

271 :カッコ:03/11/13 03:22
 ● 反省によって、体験が本質的に変わる
 ・自然的な反省も、もとの素朴な体験を本質的に変えてしまいます。
 ・つまり、直接の体験であったものが、観察や解明の対象になったという事実によって、
  すでに、そのあり方は、「直進的」ではなくなっているのです。
 ・この、体験から観察への移行によって、新しく、「志向的体験」というものがもたらされます。
 ・「以前の体験へさかのぼって関係する」という、志向的体験の特性によって、
  以前の体験が、場合によっては明証的に、意識されます。
 ・まさにこのことによって、「志向的な(意識の)生」に関する知識や認識が可能になるのです。

 ● 超越論的現象学的な反省でも同じ
 ・このことは、自然的な反省だけでなく、超越論的現象学的な反省にもあてはまります。
 ・たとえば家の知覚という経験を反省する場合、
  自我にとっての反省する経験は、存在に対する態度決定から身を引いているといっても、
  それを構成する要因全てを含めて直進的な家の知覚という経験と、まったく同じものです。
 ・家の知覚で言えば、要因には、
  「流れる体験」としての知覚作用そのものや、純粋にそれ自身として知覚された家が含まれます。
 ・そこでは、「知覚作用」の方には、存在の定立が、信念として含まれていて、
  家という「現出」の方には、端的に現存するという性格が含まれています。
 ・現象学的な態度の自我が、存在定立を差し控える、ということは、
  自我自身の方がすることであって、知覚の方の問題ではありません。

(第十五節 つづく)

272 :q17u6:03/11/13 19:58
どうもー

273 :q1nu6:03/11/13 20:02
これからこのスレで俺のかいじょうのWを行おうかと思います!

274 :q1nu6:03/11/13 20:05


)=○)`Д)・∵.←q1nu6




275 :q1nu6:03/11/13 20:09
191→.∵・(Д´(○=(

)=○)`Д)・∵.←213


)=○)`Д)・∵.←q1nu6





276 :q1ou&:03/11/13 22:39

今日はこのぐらいにしといてやる
首を洗って待っていろよ!


277 :考える名無しさん:03/11/14 12:54
>読書会の皆様
結局、フッサールは、第一省察の中で、どんなときに現象学的判断停止が成立し、それによってどんな利益が得られる、と主張しているのですか?


278 :考える名無しさん:03/11/14 19:46
あらかじめ取り出す本質をある程度想定しているのですよ。そのためには多くの
先入見は夾雑物なので排除しておくわけです。しかし、様々な想像変更を実行し
ああでもない、こうでもないとひねくりまわしたあげくに何か本質的な発見があるのか
無いのか・・・適切な言葉も見出す、あるいは作り出す必要もあるでしょうし。
ハイデガーは存在の意味を問うために、まず日常ありきたりの人間の有りようを問うたわけですがね。


279 :考える名無しさん:03/11/14 20:43
机を机として把握する意識とはどのような意識であろうか?
と問いを立てると、多分「道具を使用する人間」としての意識が
取り出せるでしょう。

千円札は何らかの絵柄が印刷された紙切れに過ぎないとも言えますが
日常的意識にとっては「紙幣」なわけです。紙幣であることは千円札を
自然科学的に幾ら分析、観察しても出てきませんが、
「市場経済的に暮らしている人の意識」にとっては自明です。


280 :考える名無しさん:03/11/14 20:50
ここから更に、現象学的に「内面化された社会経済的ルール」とか
「実体化された関係性としての意識」とか「物神性」や「物象化」などを
考察もできるのでしょうがね..


281 :考える名無しさん:03/11/14 22:53
>>277
 >どんなときに現象学的判断停止が成立し
客観的と見られる事象に対しても内部経験的な事象に対しても、その存在や妥当性を
(そのままには)認めず、排除し、このような信念が(超越論的な自我において)どのように
成り立ってくるのかを考察するならば現象学的判断停止を行っていることになります。

 >それによってどんな利益が得られる、と主張しているのですか?
あらゆる認識(学問)の絶対的な根拠に到達し得ると。



282 :考える名無しさん:03/11/15 20:40
例えばですよ。「これは車である」という信念がどこから成立したかと言う事を考察すれば、私の意識に「郵便局に行こう」という志向性が在るからである。

こういうことを考えるのも「現象的還元」なのでしょうか。



283 :考える名無しさん:03/11/16 02:09
例を取り出すのは
誤解を招くことが多いから
極力減らした方がえーでー

284 :考える名無しさん:03/11/16 02:11
スレ値64でいいかこたえて?
志向性ってかないあいまいながいねんじゃない。

285 :考える名無しさん:03/11/16 02:21
>>284
うざってーな
32だ。

ここは荒らすな 頼むから荒らすな



286 :b:03/11/16 06:34
なるほどー。要約を読ませていただくだけでも、「本物」のすごさを感じてしまいます。
大変そうですが、読書引き続き頑張ってください。要約楽しみにしています。

287 :カッコ:03/11/18 03:21
間があいてしまってすみません。
第十五節はもう一度分けます。

288 :カッコ:03/11/18 03:23
>>270-271 つづき)

 ■2■
 ● 無関心な傍観者
 ・以上のことは、次のように記述しなおすこともできます。
  世界の中に入り込んで、何らかのしかたで生きている自我を、
  「世界に関心をもつ自我」と呼ぶとします。
 ・すると、現象学的な見方をしつづける、という態度をとる自我は、
  「世界に関心をもつ素朴な自我」から、「無関心な傍観者として分裂した自我」と呼べます。
 ・このように自我が分裂していることをとらえることができるには、
  「超越論的な反省」という、新しい立場からの反省のが必要です。
 ・この、超越論的な反省は、
  「無関心」とは言っても、観察して十全に記述することにだけは関心をもつ反省です。
  

289 :カッコ:03/11/18 03:24
 ■3■
 ● 純粋な記述
 ・世界に向かうあらゆる生にとってのあらゆるできごとは、
  「越論的な反省」によって、観察者の付帯的な思念や、予備的な思念からの影響なく、
  純粋に記述できるようになります。

 ● 超越論的な経験と記述の普遍性
 ・ここでまた、「デカルトの理念」が持っていた徹底主義を思い出しましょう。
 ・それは、「とことんまで必当然的に基礎づけされた普遍的な学問としての哲学」というものでした。
 ・「この理念」のを実現するための、絶対的に普遍的な「批判的吟味」には、
  なにか存在するものを、まったく、あらかじめ前提しないようにすることによって、
  「絶対に先入観のない世界」をつくりだす必要がありました。
 ・そして、それを可能にするものが、「超越論的な経験の普遍性」と、「記述の普遍性」なのです。
 ・つまり、
  ふだんの経験でのあらゆる「自然さ」をつらぬいている、普遍な「先入観」(「世界信憑」)を禁止して、
  純粋に先入観の無い状態へ還元された思念の場としての「自我論的な存在の場」のなかで、
  普遍的な記述に努力することによって可能になるのです。

 ● 純粋に与えられたもの
 ・そのような先入観のない「記述」だけが、普遍的な「批判的吟味」を支えることができるのです。
 ・超越論的な反省は、意識に純粋に「与えられたもの」と結びついています。
 ・「与えられたもの」は、与えられた以上の解釈を付け加えてずに、
  そのまま、純粋に「直感的」に受け取られなくてはなりません。

(つづく)

290 :考える名無しさん:03/11/18 23:33
現象学の方法と帰納法で何処が違う?
もしくは純粋帰納法=現象学なのでは?


291 :考える名無しさん:03/11/20 11:56
演繹法だよ、現象学は。

292 :考える名無しさん:03/11/20 21:40
え、演繹なの?
「世界を意識に現れるままに記述する」って帰納的じゃない?
その後演繹的に理論構築するにしても、その辺は永遠に「判断停止」ではないのか。


293 :考える名無しさん:03/11/20 21:51
直観による認識

294 :292:03/11/20 21:54
判断停止の意味を間違えているようですね。
俺が見たところ、現象学的判断停止とは、要するに、世界を意識(志向性?)を通して解釈してしまう誤謬に陥らないように、意識を観察することでしょうね。
その上で現れてきた「現象」を「純粋直感」とやらで検証するわけですね。
そのようにして、集められた、確からしい事実から、一般法則を見出すなり、なんなりして、確からしい世界理解を可能にするのですね。

違いますか?

でも、これ、科学じゃん。


295 :292:03/11/20 21:56
>世界を意識(志向性?)を通して解釈してしまう

意識ってか先入観ね。誤解の無いように。




296 :292:03/11/20 21:58
>294
いや、まだ違ってるな。
でも言いたい事は伝わるんじゃないかな。


297 :カッコ:03/11/21 02:32
このごろサボっていてすみません。
連休を利用してできるだけ挽回したいと思っています。
今日もお休みさせてください。

298 :考える名無しさん:03/11/21 02:36
いいんだよ。ゆっくりで。それよりカッコ君が
フッサールを読破することが大事だよ。
おおえんしてるぞ。

299 :考える名無しさん:03/11/22 19:26
良スレはけーん

300 :考える名無しさん:03/11/23 01:03
うん、ここはかなり良いよ。

カッコさん、ゆっくりやりなさい。
こういうのんは自分のためにやればいいの。
さぼるのも自分のためさー  

301 :カッコ:03/11/25 01:42
ありがとうございます。
お言葉に甘えて・・・、と、いうわけではなくて単なるわたしの怠慢で、
大十五節ののこりの部分しかできませんでした。
約束破ってばかりですみません。

302 :カッコ:03/11/25 01:43
 ■4■
 ● ノエマ的な記述とノエシス的な記述
 ・以上のような方法的原理に従った記述を、
  「思う(意識作用)」と、「思われたもの(意識対象)」という二つのテーマについておこなうと、
  「思うこと(意識)」についての「普遍的な記述」に、相関的な二つの方向が見えてきます。
 ・ひとつめの記述の方向は、それぞれの意識され方の中で、意識する私達が、
  その意識の向かう(志向・指向)対象そのものに属していると思いながら、
  対象に与えている「規定」や、「様態」(確実にある・可能性としてあるなど存在の様態や、
  過去・現在・未来にあるなどの主観的な時間様態など)に関しての記述の方向です。
 ・このような記述の方向を、「ノエマ的」方向と呼びます。
 ・それに対立するもうひとつの方向を、「ノエシス的」方向と呼びます。
 ・これは、「思う(意識作用)」そのものの様態(知覚、想起、過去把持など)を記述していく方向で、
  しかも、それぞれの意識作用の中に、「明晰性」「判明性」といった「様相的区別」をともないます。

303 :カッコ:03/11/25 01:43
 ■5■
 ● 生の背後にあり続ける世界全体の意識
 ・世界があるかないかに関すること一切を判断停止しても、
  現象学にとって、世界が失われたことにはなりません。
 ・「思われたもの(意識対象)」としての世界がありつづけるのです。
 ・このことは、そのつどの個別の意識に、そのつどの固別の意識対象として世界があるという、
  ただそれだけのことを意味しているのではありません。
 ・世界は、私達が個々のものを把握しようとするときも、
  常にそれにともなって、ひとつの全体として統一的に意識されています。
 ・また、この統一された意識自体が、把握する意識ともなっています。
 ・その場合、把握された「世界全体」は、それに固有な形式で意識されています。
 ・その固有な形式とは、「空間的時間的無限性」というものです。
 ・どのような意識がなされるときでも、自然的な生全体の背後に、
  世界が、唯一のものとしてありつづけるのです。
 ・ですから、現象学的還元を徹底しておこなう場合も、
  「ノエシス的」には、無限に開かれた純粋な意識の生が、ありつづけて、
  「ノエマ的」には、思われた世界が、ありつづけます。

 ● 普遍的な記述の主題となるもの
 ・ここで、以下のように言うことができます。
 ・「自然的な見方をする自我」としての私は、常に同時に、「超越論的な自我」でもあります。
 ・そして、現象学的還元によってのみ、私はそのことを知ることができます。
 ・このような新しい見方によって、はじめて見えてくることは次のようなことです。
 ・それは、私にとって、世界全体のすべての存在するものがあるのは、
  私の「思うこと」がもつ「思われたもの」として、私にとって、意味や効力を持つからだ、ということです。
 ・なので、超越論的な現象学者の私が、普遍的な記述の主題とするのは、
  もっぱら、意識の様式での志向的相関者としての対象だけなのです。

(第十五節 おわり)

304 :考える名無しさん:03/11/25 19:55
毒書スレ1位

305 ::03/11/29 00:02
半年振りに来た。
ここが続くなら哲学スレ見てみる。なぜなら過去、僕の専門だったから。
もし刺激があるなら・・・
いや、逆になんだかんだと邪魔しそうだな。
真面目はよいことだからがんばってください。

306 :女の内股から血を吸う男:03/11/29 10:55
>>305
そう云わず議論してあげれば?

307 :カッコ:03/12/03 04:17
今日から復帰するつもりですが、
こんな時間になってしまって、先が思いやられます。

以前、このスレで「ゲシュタルト」という話題が出ました。
そのとき、わたしは「志向性」と似ているといいましたが、
今回の十六節で、フッサールは、はっきりと「ゲシュタルト」の考え方と
現象学とが違うと言っています。

308 :カッコ:03/12/03 04:18
●● 第十六節 ●●(岩波p.77 中公p.220)
付論 超越論的な反省も純粋心理学的な反省も、我思うから始める必要がある

 ■1■
 ● 超越論的に解明と平行する心理学的に解明
 ・超越論的な「我思う」は、その「生の普遍性」の中に、
  開かれた無限の多様性を持つ、それぞれの具体的な体験を含んでいます。
 ・私たちの最初の大きな課題は、
  ひとつは、多様で具体的な体験を、それぞれの構造にしたがって、解明と記述をすることで、
  もうひとつは、多様で具体的な体験が結合して、具体的な我の統一が形作られる仕方の
  解明と記述をすることです。
 ・省察する現象学者としての私は、「超越論的な我」としての私自身を、
  私の中に含まれるすべての「志向的な相関者」とともに解明する、
  つまり、十分な具体性の中で解明するという普遍的な課題を自らに課すのです。
 ・ところで、第十四節■2■で触れたように、
  「自己を超越論的に解明すること」と、
  「自己を心理学的に解明すること」は、平行した研究です。
 ・「自己を心理学的に解明する」研究の場合、「私自身」とは、
  私の「心的生活」での、私の純粋な心的存在のことです。
 ・また、この場合の「心的生活」とは、
  私の「心理物理的(動物的)」な実在の構成要素として、
  私にとって「自然的に妥当している世界」の構成要素として捉えたものです。

309 :カッコ:03/12/03 04:18
 ■2■
 ● 「感覚理論」から始めてはいけない
 ・「純粋な内部心理学」(心理学の基礎として行われるべき学科)にとっても、
  「我思う」からはじめて、内的経験から汲みとったものを記述することが必要です。
 ・近代では、意識の理論を、哲学的なものと心理学的なものとで区別しようと
  試みられてきましたが、すべて挫折に終わっています。
 ・「感覚主義」のように「感覚理論」から始めると、
  意識の生を、「外的感覚」と「内的感覚」の感覚与件の複合である、
  と、まるで自明なことかのように解釈してしまいます。
 ・そして、感覚与件を、「要素主義(アトミズム・原子論)」に陥らずに、
  結合してひとつの全体とするために、「形態(ゲシュタルト)」の理論を基礎におき、
  部分に先立つ全体としての「形態質」を設定することになります。
 ・ですが、それでは先入観をもった意識理論になってしまいます。

 ● 無言の経験と純粋な表現
 ・はじめにあるのは、純粋な「まだ無言の経験」です。
 ・まず、その経験を本来の意味どおりの純粋な表現にする必要があります。
 ・実際に最初の表現は、「我思う」というデカルト的な表現です。
 ・たとえば、「私は家を見ている」「私は○○通りの雑踏を思い出す」といったものです。
 ・このような記述の第一の一般的特徴は、
  「思うこと」と「思われたものとしての思われた対象」が区別されていることです。
 ・感覚与件がどのように表現の構成要素として正当に閉めされるかは、
  解明・記述の作業によってのみ分かります。

 ● 伝統的な意識理論の欠陥
 ・伝統的な意識理論の欠陥は、そのような作業を欠いていたことです。
 ・伝統的な意識理論は、方法的な原理について無自覚でした。
 ・なので、「思われたものとしての思われた対象」を記述するという大きな主題も、
  意識の様式としての「思うこと」の特別な意義も見失っていたのです。

(第十六節 おわり)

310 :カッコ:03/12/03 04:25
>>308
訂正
 ● 超越論的な解明と平行する心理学的な解明

311 :考える名無しさん:03/12/12 04:47
ようやくフッサールのデカルト的省察を買ったよ。岩波でも新訳なのがいいよね。新訳なのが
非常に読みやすそうなので助かる。つかそういう文体の差別はいかんのだけど
やっぱり素人の若造は思うんだよね。
まあ文句はこの辺にして、俺もわかんないところがあったら書き込ませてもらうよ。
これほどの良スレが開いたままなのはもったいないしね。いやカッコさんの説明すごくわかりやすいと
思ったからさ。
…でカッコさんはもういないのかな? もしあれだったらレジュメ作りは一旦やめにして、
広く議論してみるのもいいかと思う。
よくわかってないのにこんなことを言うのは失礼かな。

あと、あやまりすぎるのも、あんましよくないぞ。びしっといこうぜ。ビシッとさ。

312 :考える名無しさん:03/12/14 20:30
現象学上げ!

313 :考える名無しさん:03/12/14 20:30
ええじゃないか!

314 :考える名無しさん:03/12/24 13:17
上げ

315 :考える名無しさん:03/12/28 19:26
現象学の入門書には、「いきなりフッサールから読むと挫折するから読むな」
という記述が多いんですが、やっぱ難しいんですかね。

316 :考える名無しさん:03/12/28 19:27
難しいと思う。けど頑張って読んでみて。

317 :あむうぇい:03/12/28 19:47
竹田さんが良いとおもふ。

318 :考える名無しさん:03/12/28 20:35
>>317
俺もいいとオウム。

319 :☆キキ+キ゚Д゚♪:03/12/29 16:33
☆キキ+キ゚Д゚♪の天才哲学しか必要無い!
天才に触れたかったらこのスレに来い!

http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1072621760/

みんな言い訳するのに必死になるからな( ̄ー ̄)
天才が2ちゃにいるってケースは初めてだからな( ̄ー ̄)


320 : ◆DwLlGwK0bM :03/12/29 16:44
OKか?

321 :考える名無しさん:03/12/30 06:14
駄目

322 :考える名無しさん:04/01/01 21:58
あけましておめでとう。

323 :ポール:04/01/02 11:34
再開楽しみにしています。
哲学書とのつき合いは粘りですよね。
僕も「存在と時間」を読み切ったのは何回か挫折した後の2年後でした。

324 :考える名無しさん:04/01/30 00:13
保守

325 :マユミ:04/01/30 01:10
                             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
          ,へ                  /             \  ,ハ百
         \ \              /                  ヽ ム.只
         /へ/)             l::::                  ::::|
    ∧_∧∩  )(             . |:::::    (●)     (●)  :::::| =夫=_
    (#´〜`)7   (  !      ____ |::::::ノ'""ゝ.\___/   :::::::| フi三iヽ
   ゚ .冂つム゚_」   Y       (_   ____)    ':; \/    ::::::::ノ  '─'
  ゜ ム_」」」」ゝ   人    ___) (__∠__   \
   (,_,,ノ `ー´   (  ';   (__________)   ~':;,,.
   ,' . / .'     ヽ (_        ,,;::'~            ~':::;;,,,_
  / / '        \ヽ.  __,,,,-‐''"~     ∧_∧   ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
   '0      __,,..l⊂Z_).⊃!         ∬・∀・∬   ̄ ̄ ̄ ̄) (二二二二二......  0
  0Π0- ‐‐'''""   |;;:.:. ヮ . .:::;|        ,べヽy〃へ  ( ̄ ̄ ̄             0Π0
  HΠH       ∩.∧_∧∩    ∧∧/  :| 'ツ' |  ヽ  ̄λ_λ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ ̄ HΠH
 EEE       (◎´∵`◎)   (*・_・). o |=デ=! o |  (0´く`0)ヮ    [`Д´] EEE
  |l|lil|ili|        瓜ゞッ=Lく   ,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」  厂〉=ッ冂づ ヌ Oヮ⊂[]ヨ  |l|lil|ili|
,,.<卅卅ゝ.__.,.,.,___.__.,.,.,(__)ヾZ)'_.,.,_じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ.,_.,_.(入ム]つつ.__,L!__. (_」つ.,<卅卅ゝ

326 :奴隷戦士マヤ:04/01/30 03:30
>>325
あなた、マユミじゃないでしょ?

327 :考える名無しさん:04/02/06 02:13
名前: 今はお腹痛くないPart2

また規制議論がはじまりました。
奴等の言動をしっかり見定めましょう。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3599/

328 :考える名無しさん:04/02/12 03:58
フッサールの相互主観性がよく理解できないんだけど
お勧めの解説書ありますか?

329 :考える名無しさん:04/02/12 04:08
これとかどう?

ttp://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/kanshukan.html

330 :考える名無しさん:04/02/12 06:03
>>329
よさげな本だけど7000円は高すぎです・・・

331 :考える名無しさん:04/02/12 18:53
ミ,,゚Д゚彡y─┛~~やれやれだぜ・・・・。

332 :考える名無しさん:04/03/10 03:24
保守

333 :考える名無しさん:04/03/21 17:53
上げとく。誰か引用部分だけのアンカー集を作ってください。後で見させていただきます。


334 :考える名無しさん:04/03/21 19:02
>>333
http://luzifer.hp.infoseek.co.jp/index.html

335 :目次(1/3):04/03/21 22:41
■■■ 序論 ■■■(第一節〜第二節)

●第一節(p.17) >>3-4
  デカルトの省察は哲学的な自己反省の原型である。

●第二節(p.21) >>19-20
  哲学を根本的に新しく始めることが必要である


336 :目次(2/3):04/03/21 22:42
■■■ 第一省察 ■■■(第三節〜第十一節)
超越論的な我への道

●第三節(p.26) >>27-28
  学問のデカルト的な転覆と、それを導いている絶対的な基礎づけという目的の理念

●第四節(p.29) >>38-39
  ノエマ的な現象としての学問のなかに入り込むことによって、
  学問の目標がもつ意味を開示する

●第五節(p.33) >>44-45
  明証と、真正な学問という理念

●第六節(p.38) >>57-58
  さまざまな明証の区別。 哲学はそれ自体で最初の、疑いの余地がない明証を要求する

●第七節(p.42) >>60
  世界が現にあることの明証は、疑いの余地がないものではない。
  それは、デカルト的な転覆の中に投げ込まれる

●第八節(p45) >>64-65
  超越論的な主観性としての我思う

●第九節(p.50) >>69-70
  「我あり」がもつ、疑いの余地がない明証がどこまで及ぶか、その射程

●第十節(p.53) >>73
  付論 デカルトは超越論的な転換に失敗した

●第十一節(p.55) >>199-200
  心理学的な自我と超越論的な自我。世界の超越性


337 :目次(3/3):04/03/21 22:43
■■■ 第二省察 ■■■(第十二節〜第二十二節)
超越論的な経験の場を、その普遍的構造にしたがって開示する 

●第十二節(岩波p.59 中公p.207) >>220-221 >>235
  認識の超越論的な基礎付けという理念

●第十三節(岩波p.62 中公p.209) >>239-240 >>256-257
  超越論的な認識の及ぶ範囲という問題を、さしあたり遮断しておくことが必要である

●第十四節(岩波p.66 中公p.212) >>265-266
  思うことがもつ流れ。思うことと思われたこと

●第十五節(岩波p.69 中公p.214) >>270-271 >>288-289 >>302-303
  自然的な反省と超越論的な反省

●第十六節(岩波p.77 中公p.220) >>308-309
  付論 超越論的な反省も純粋心理学的な反省も、我思うから始める必要がある

338 :考える名無しさん:04/03/23 01:05
素晴らしい。乙。

339 :考える名無しさん:04/03/23 11:40
山口一郎『現象学ことはじめ』によれば、『省察』の他者論は、
「受動的綜合(超越論的論理学・超越論的感性論)
(また『内的時間』よりも深まった時間論でもある)」の成果が、
十全に生かされていないらしい。

ちなみこの版にも信者が多い某氏の問題点も他者論の根本でもある、
「受動的綜合」への無理解にあると惟う。絶対的時間化や時間論でもある
受動的綜合への理解を欠いて他者論を考察するなど不可能であろう、
というか、そもそも彼は『フッサリアーナ』及び『草稿』群を(無論原文で)
読破しているのか、というのが疑問になる。
(まさか『イデーン』『省察』『危機』等の和訳のみで
書いているとは思いたくないが)概説書を書くならば最低限必要であろうと思われるが。

340 :関係ないが:04/03/23 11:56
>>339
>ちなみこの版にも

2ちゃんで「板」は「いた」って読むのよ。「ばん」じゃない。
「てつがくいた」であって、「てつがくばん」ではない。

341 :考える名無しさん:04/03/23 12:19
形式的論理学と超越論的論理学
いいかげん誰か訳してくれよお

342 :寺嶋眞一:04/03/23 17:13
個人主義と議論

「我思う。ゆえに我あり」である。
この場合、思うとは考えることである。
個人の存在は、個人意見で示すことができる。
選択肢を提供できない人たちの集まりにおいては、個人選択の余地はない。
こうした人たちは、自分の不平不満を揚げ足取りの形式で表す。不毛の議論に時間を費やす。
だから、個人の存在を個人意見で示すことはできない。
個人主義がなくては、実のある議論はなりたたない。
政党は、個人選びをするための手段である。
序列観念を基にした徒党を組む為のものではない。
223文字
You can read more at http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/





343 :考える名無しさん:04/04/04 14:52
age

344 :THE グル:04/04/04 16:17
                \ │ /
                 /. ̄\  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─(●∀●)< ていせつていせつ!
                 \_./  \_________
                / │ \
                     ∩ ∧ ∧.∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ .∩∧ ∧.∩\(●∀●)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >(●∀●)|     / \__________
________/ |     〈 |    |
              / /\__」 / /\_」
               ̄     / /
                    ̄




345 :考える名無しさん:04/04/20 08:27
age

346 :考える名無しさん:04/04/20 18:16
67j5

347 :考える名無しさん:04/05/07 19:55
良スレにつきageておきます。

348 :考える名無しさん:04/05/07 23:09
>>347=自演屋

349 :考える名無しさん:04/05/28 22:12
カッコがこないと盛り上がらんな。

350 :考える名無しさん:04/05/31 18:07
AGE

351 :考える名無しさん:04/05/31 18:14
またクソスレ。

352 :考える名無しさん:04/06/12 05:16
hoshu

353 :考える名無しさん:04/06/13 05:24
          

354 :考える名無しさん:04/07/10 23:31
だれかフッサールについて語れ!!!!

355 :THE グル :04/07/10 23:34
いいですか、
フッセルというと、
梶井基次郎の『檸檬』が浮かびますね。
どうかしましたか?

356 :考える名無しさん:04/07/10 23:38
なにが言いたいんだよ。
檸檬は中学の時、読んだけど内容は忘れちゃったぞ。
どんな内容だっけ、教えておくれよ。

357 :THE グル :04/07/11 00:00
>>356
いいですか、
グルが指している部分は、
主人公の私が、
寺町通でのスポットライト的明暗、
あるいは、
八百屋での檸檬の出会いや画集の描写などの、
世界観なんです。
この話は、
端的に表しにくいのですが、
即物的あるいは、
退廃的な主人公が、
檸檬との出会いによって契機を得るという様な話でして、
一見退廃的な中にも、
鮮やかな五感の描写などによって清澄感を感じる作品なんです。
どうかしましたか?

358 :考える名無しさん:04/07/11 00:17
>>357
おおうありがとう。やっぱり、グルさんは説明が上手いよね。
先生とかやっていたのかな。

檸檬は少し思い出した。
そうあれって、全ての事象が有で濃密な時間と、
それと、濃密な空気(存在感)があるんだよね。
確かに現象学的かも。
今度読み返してみようと思う。

実は今このスレ読み返してる最中。
このスレの登場を知って本を買ったはいいけど読んでない。w
そろそろ読まないとね。

他なにか知ってたら教えてよ。教えてくんで悪いけど。

359 :THE グル :04/07/11 00:33
>>358
いいですか、
ページにして10ページも無い小説ではありますが、
実に、
鮮烈な印象を以って迫ってくるんです。
といいますのも、
丸善には、
かつて好んだ即物的な対象である商品が数多あり、
そして、
丸善にいれば「私」の即物的な欲望は満たされるのですが、
一個の檸檬によってその「私」の価値観が破壊されたんです。
また、
檸檬にはそれだけの破壊力があったんです。
ですから、
丸善と檸檬は即ち、水と油であり、
そして、
即物的価値観を崩壊させるだけの破壊力を認め、
檸檬を爆弾に見立てているんです。
まあ、
此処はフッセルとは関係ない部分も含まれますが、
それを深く読むならば、
現象学的な世界観を読むことが出来るんです。
これが定説です。
どうかしましたか?

360 :考える名無しさん:04/07/11 00:51
梶井基次郎の『檸檬』は、
俺も読んだ。
印象が強烈だったね。
確か作者は、早死にしてたっけか・・・。

361 :THE グル :04/07/11 00:59
>>360
いいですか、
アレを読むと、
ガラス球を口に入れたくなるのですが、
そら豆オンリーなんです。
これが定説です。
どうかしましたか?

362 :考える名無しさん:04/07/11 01:41
2の予言は見事にはずれたな。
大体、人に説教口調で話すやつは信用ならん。

363 :考える名無しさん:04/07/11 01:46
>>362
どうしようもなくヘンなヤツがいるからな〜。
しかも定住してるし・・・。

364 :考える名無しさん:04/07/11 01:46
でも1ヶ月ちょいしか続かなかった。。。
少しづつでも続きやったほうがいいですかね。

365 :考える名無しさん:04/07/11 04:09
>>364
君は思い違いをしているけど、一ヶ月続けば充分だよ。
最後までやる必要はないし、続きをやるって言うのも、
おかしな話だと思うけどね。みんな理想を求めすぎだよ。
そして要求しすぎ。

366 :考える名無しさん:04/08/07 01:37



367 :奴隷戦士マヤ ◆VLrOo4idSE :04/08/07 01:51
なんであげたの?

>>365
そうですか。

368 :考える名無しさん:04/08/09 02:28



           o
              ヾッ
               ヾjツ  。
            ,ッ  ヾjン
            ヾソ  ヾjツ
           ヾjツ ヾjソ'      o
         ヾjソ ヾjツ
       ヾツ  ヾッ ヾjツ'     。
      ヾjツ   ヾv,jツ'
     ヾjソ'    ヾjツ'
      ヾjツ'   ヾjツ'          _   ∩∩ぶっぶっぶっ
    ヾjソ'   ヾjソ       〜〜〜ε((((( ・ω・)
     ヾjツ'   ヾjツ'`
     ヾjソ'  ヾjソ' 
    ヾiツ' ヾjツ' 
     ヾi゙' ヾjツ'
        ヾi゙'



369 :考える名無しさん:04/08/14 21:12
今、スレ読んで勉強してます。
とりあえず、あげ。

370 :考える名無しさん:04/08/20 18:16
この、不埒な大バカ者が。スレなどに頼らず、原書で勉強したまえ原書で。
まして、訳書なんぞもってのほかであるぞよ。
てなこと言えるようになりたいけど、無理か。ああー。

371 :考える名無しさん:04/09/16 20:13:17
人いないですね。落ちちゃうのももったいないので・・・

フッサールって・・はやんないのかな
読みようによってはすごく面白いんですけどね
まあ、面白く読んでくれる人も少ないわけで・・

372 :考える名無しさん:04/09/16 20:58:30
空アゲばかりすんなよ、このアホ

373 :考える名無しさん:04/09/24 11:03:44
そんでも、から揚げは好きかも。

374 :考える名無しさん:04/10/04 08:11:59
karaage

375 :考える名無しさん:04/10/24 19:00:00
みすずの現象学の理念……。
びびるな。

376 :考える名無しさん:04/11/01 00:13:38
保守

377 :考える名無しさん:04/11/09 15:13:32
>375
俺買ったのに読んでない。(苦笑

378 :考える名無しさん:04/11/23 14:01:05
股読んでないってか。
ま、気にすんなって。
毎度の事だろうが。

379 :考える名無しさん:04/11/30 04:09:57
>>1は
高校生くらいなのかな?
哲学を懸命に理解しようとする姿勢に好感が持てるね

気が向いたらまたつづけてください

380 :考える名無しさん:04/12/01 19:50:52
おいおい、378は超エラソーに言うじゃんかよ。
自慢しちゃうが、オレなんざ読みかけ本の数じゃ負けねーぞ。
文句あっか?

381 :しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/01 20:22:47
>>355-360
『檸檬』は自分が大好きな小説です

>退廃的な主人公が、檸檬との出会いによって契機を得るという様な話
>退廃的な中にも、鮮やかな五感の描写などによって清澄感を感じる作品
その通りですね

檸檬の凄さは、項数が少なく、主人公一人しかいないのに
豊かな世界を創り出しているところですね

(あんまり何でもかんでも括りたくないけど)
アスペクトの魅力を描いた理想的な作品です


382 :考える名無しさん:04/12/01 22:02:35
檸檬が時限爆弾で、それをごちゃごちゃした丸善に仕掛けて
にたにたしながら逃げ出してくる話しです。

383 :Ar=As-Ab/As:04/12/02 02:55:12
『時計仕掛のオレンジ』翻訳・原作、買いました。

384 :ロボトミー:04/12/02 05:46:41
ここは、

     削るもんすら、

                  ねえじゃねえかよ


                    おい。

         爆弾置いておきます。

            実は私です。


385 :【流れを】 新興団体 【読む】:04/12/02 06:54:06
うそです。                       

386 :考える名無しさん:04/12/05 18:41:44
そうですか。

387 :考える名無しさん:04/12/07 20:19:59
でそうですか。

388 :考える名無しさん:04/12/08 11:02:09
そうかですか。

389 :考える名無しさん:04/12/11 18:02:32
うっせー連中だな。
どうせだからオレもいっちょう。
どですかでんですか、でどうだ。

390 :考える名無しさん:04/12/19 19:43:12
糞スレのオン・パレ−ドだな。

391 :考える名無しさん:04/12/26 15:36:37
おう、そうよ糞スレの歳末大売出しだぜ。
この冬休みは糞スレ休みで決めようぜ。

392 :考える名無しさん:04/12/31 19:12:18
391だけに楽しませてやる訳にゃーいかないよ。
オイラもちゃーんと年末糞スレを開チンだ。

393 :考える名無しさん:05/01/01 19:15:36
明けましておめでとう。閉めましてサイナラ。

394 :考える名無しさん:05/01/02 11:53:53
うーん、早速の糞スレじゃな。
愛いやつよのう。
その調子で糞スレ正月で決めるのじゃ。

395 :考える名無しさん:05/01/02 13:28:55
第五省察からとたんにつまんなくなってきたんだけど
やっぱ全部読まなきゃだめ?

396 :考える名無しさん:05/01/07 18:19:40
やっぱ、糞スレ専門場って居心地がいいね、母さん。

397 :   時は流れない   :05/01/07 18:40:53
「姉さん…、」

398 :考える名無しさん:05/01/09 11:47:05
「いいのよ、判ってるわ。さ、早く脱ぎなさい。
姫はじめよ。」

399 :考える名無しさん:05/01/16 11:12:26
l

400 :考える名無しさん:05/01/19 19:35:47
フッサールと大森しゅうぞうって被ってねぇ?考え方とか。

401 :考える名無しさん:05/02/13 10:00:23
g

402 :宇野:05/02/17 21:50:35
大学生だか、大学院生だか。

403 :考える名無しさん:05/03/05 03:02:36


404 :考える名無しさん:05/03/20 21:30:37
f

405 :ローカルルール審議中:2005/04/08(金) 10:26:26
o

406 :ローカルルール審議中:2005/04/25(月) 14:32:44
からあげ

407 :考える名無しさん:2005/05/09(月) 00:56:52
そうですか。


408 :考える名無しさん:2005/05/22(日) 12:49:42
鶏のから揚げ?

409 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 07:56:47
申し訳ないが上げときます。

410 :考える名無しさん:2005/07/06(水) 16:57:25
申し訳ないが下げときます。

411 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 12:45:12
ありがとう、上げときます。

412 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 21:58:05
第2省察の17節から続きがあればいいわけね。はいはい。

413 :考える名無しさん:2005/07/30(土) 01:14:02
>>412
引き継いでくれますか?

414 :考える名無しさん:2005/08/04(木) 21:12:46
イデーン読んでる人いますか?
第3篇の3、4章が糞難しいのですが・・・

415 :考える名無しさん:2005/08/04(木) 21:21:19
フッサール『デカルト的省察』
勝手に読めよ・・・
>>1 よ、お前、歳いくつだ?

416 :考える名無しさん:2005/08/08(月) 18:43:02
もう終わっちゃったのかな、このスレ。

417 :考える名無しさん:2005/08/21(日) 15:05:30
|,,∧
|Д゚彡    .。oO(誰もいない……フサフサするなら今のうち?)
|⊂
| ミ
|
          ♪
       ♪
 ♪    ∧,,∧     ♪
     ミ,,゚Д゚彡⊃  フフサ フサ フサ
   ヽ⊂   ミ
    ⊂,,,   ミ
       し″...

      ♪
  ♪
♪  ∩ ∧,,∧   ♪
   ヾミ,゚Д゚,彡 フッサ フサフサ
    ヾ ⊂ ヾ     フッサ〜ル
     O-、 )〜
       U

          ♪
       ♪
 ♪    ∧,,∧     ♪
     ミ  ,,彡⊃ フッサ フサフサ
   ヽ⊂   ミ     フッサ〜ル
    ⊂,,,   ミ
       し″


418 :考える名無しさん:2005/09/05(月) 12:16:42
北風は(ry

419 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:10:42
カッコは死んだのか・・・・・・・?

420 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:06:51
不慮の事故だったようです

421 :考える名無しさん:2005/09/19(月) 23:36:53
フッサールは、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」の「われ」を、
あらゆる前提を取り除いたあとに残る唯一のものとして、
換言すれば、無限退行や循環に陥ることのない唯一の根拠として、
捕らえているように見えるのですが、はたして本当にそうなのか。
「われ」への吟味は十分だったのか、少し疑問です。

422 :考える名無しさん:2005/09/20(火) 06:27:20
あらゆる前提を確かなものとしないところに現象学の魅力を見出だしていたのにな。
実際どうなの?

423 :考える名無しさん:2005/09/20(火) 06:59:07
コギトというのは、cognition(認識)。ぐるぐる考える事に
根拠があるという事ではなく、感覚で知覚する事に根拠がある
ということでは?


424 :考える名無しさん:2005/10/01(土) 10:58:05
◆ 『超越論的方法論の理念』 エトムント・フッサール,オイゲン・フィンク/新田 義弘,千田 義光 訳
定価 7,560円(本体 7,200円 + 税5%)(2005年10月13日ごろ重版でき)
〔予定定価 7,560円(本体 7,200円 + 税5%)〕 2005年10月13日 復刊(1995年3月23日発行)

425 :サルトルからの伝言:2005/10/25(火) 19:17:39
「Cogito ergo sum」というラテン語の訳は
「我思う、ゆえに我あり。」でいいのかな、諸君!
「我思う、ゆえに我である。」じゃあないの。
「わたしは考えている。ほかの誰でもないよ、このわたしですよ。」
疑っても否定できないのはそのように考えているわたし自身である。
これが正しい訳だと「我思う」、諸君!


426 :考える名無しさん:2005/10/26(水) 08:56:08
こりゃダメだ。

427 :考える名無しさん:2005/11/26(土) 14:45:04
ははは!

428 :考える名無しさん:2005/11/30(水) 17:41:38
純粋意識と超越論的主観性の関係がわかりません。
ほぼ同義と考えていいのでしょうか?


429 :考える名無しさん:2005/12/01(木) 05:19:19
>>428
簡単な説明ですが、純粋意識とは心を作り出すはたらきのことです。
超越論的主観とは、純粋意識が作り出す心は、主観的な確信として
しか世界を経験することができないということです。

430 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:24:25
 

431 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:25:11
や、

432 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:26:04
と、

433 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:26:38
今日は金曜かね

434 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:27:03
私のテンションが高い日だがね

435 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:27:54
で、
この前のミスターXとの
論戦ですがね、

436 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:28:29
引退したと思ってるのかね?

437 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:29:11
否定で、ミスターXのスレに
書き込んでいますがね

438 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:31:01
ちなみに、まだ何も入ってませんがね

439 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:33:32
で、このまえのスレの結果を見ましょうかね

440 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:34:27
@ミスターX側の論争の見解

から、

441 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:34:59
194 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:52:27

昨夜、電波板に純一を誘導して、論争をした。

◆◇チンポ太郎博士 VS 精神障害者純一◆◇
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/denpa/1132934539/

結果は諸君が各自、上のスレを読めば分かる。


442 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:35:54
その2

194 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:52:27

肝腎なのは、論争の勝敗よりも、純一がリアルで精神に問題があるという事。
私も実は彼の「自演だろ?」という書き込みには好い加減辟易して、
こいつはリアルで分裂病かなんかじゃねえか、と思っていた。
そして実際にこのスレでもその疑念を表明しておいた。

しかし、実際に彼がリアルでそれに近い状態にあるということを知ってからは、
純一の扱い方をちょっと変えなくちゃいけないかなあ、と思い始めた。


443 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:37:10
その3

195 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:53:55

まず、純一はコテに執着する癖があるが、これは、
そのコテのように自分もなりたい(=人から注目されたい)という願望を彼が
持っているということを示している。これはパラノイアの典型だ。
しかし、彼は実際には哲学など門外漢の電波君なので、
コテとして華々しく哲学の薀蓄を垂れて注目を浴びたりすることは出来ない。
そこで、コテに嫉妬し、粘着して、自分の欲望の対象を破壊しにかかるのだ。

444 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:37:56
その4

195 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:53:55

ラカンの症例で、芸能人かなんかに被害妄想を持って、結局、
その芸能人を路上で待ち構えて切りつけた女がいた。
これもそれと似たようなものだ。

445 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:38:51
その5

196 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:56:48

俺が危惧するのは、それだけじゃなくて、彼が「自演、自演」と連呼するところ。
こういうのは自我がかなり危うい状態に陥った奴しか言わない。

ともかく、彼は今、ネット上で、自分のパラノイア症状を示している。
そしてこれは笑い事ではない。
もし彼がリアルでこういう行動に出たら、それは傷害事件に発展し得る。

446 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:40:36
その6

196 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/27(日) 04:56:48

純一よ、君はこのことをよく覚悟しておいた方がいい。

ネットというところはどんどん妄想が広がるところだから、ネットはやめろ。
ちゃんと医者と相談して、治療のカリキュラムを立てろ。

哲学どころじゃねえぞ。監禁されて、自分のしたいことは何も出来なくなっちゃうよ。

447 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:41:56
以上
>>440-446までが、

@ミスターX側の論争の見解

になりますがね?

448 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:43:25
@ミスターX側の論争の見解

はありますがね、

A純一側の見解

がありませんがね?

449 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:43:54
A純一側の見解

をまとめますがね?

450 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:45:04
289 :名無しちゃん…電波届いた?:2005/11/26(土) 04:25:05
そもそも純一は負けていない。
勝ちもいない。

451 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:46:25
>>450から、

ミスターX(チンポ太郎)の「自演」キャラ以外では、
ギャラリーのジャッジは決まっていませんがね?

452 :考える名無しさん:2005/12/02(金) 18:46:27
通報の仕方わかる人、大至急頼む!!

453 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:47:15
>>452
君に言っているのだがね?

454 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:48:40
ギャラリーの考察参考資料@

277 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/26(土) 04:18:47
あと、真面目そうなスレにちょっかいを出すな、ということね。

哲板の中には、真面目に哲学を勉強している学生とか社会人とかいるから。
そういう連中に不愉快な書き込みをしないこと。

あと、なんでも哲学なら、自分でスレを立て、その中でやればいい。
ほかに喧嘩を売りに行く必要はないでしょ。


285 :フルーチェ:2005/11/26(土) 04:23:07
>>277
同意。しかも感動。
私もそれがずっと言いたかった。

455 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:51:41
>>454を御覧くださいだがね?

277で出た発言に、
285で自演キャラを使って、
即相槌ですがね


456 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:52:48
資料そのA

337 :ギャラリー1 ◆M6R0eWkIpk :2005/11/26(土) 04:45:16
>>324
重複というのは同じ内容のスレのことを言うと思うが、
ぴかぁ〜にはそれが当てはまるとして、チンポに当てはまるか?

そもそもまじめそうなスレはなぜチンポガ立てていると思うのか、述べよ。

457 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:53:40
この

フルーチェ



ギャラリー1 ◆M6R0eWkIpk

ですけどもね?

458 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:54:38
>>457の、

フルーチェ



ギャラリー1 ◆M6R0eWkIpk

ってコテ、哲学板で見たことありますかね?


459 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:55:31
ってことはですね、

その場で作ったってことなんですがね

460 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:57:19
で、それによって、

>肝腎なのは、論争の勝敗よりも、純一がリアルで精神に問題があるという事。
>私も実は彼の「自演だろ?」という書き込みには好い加減辟易して、
>こいつはリアルで分裂病かなんかじゃねえか、と思っていた。

これは否定される。


461 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 18:58:47
また、前例からみても、

ミスターXは自演癖がある

との認識は一般的であるのだがね?

462 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:00:46
まとめるがね、

>肝腎なのは、論争の勝敗よりも、純一がリアルで精神に問題があるという事。
>私も実は彼の「自演だろ?」という書き込みには好い加減辟易して、
>こいつはリアルで分裂病かなんかじゃねえか、と思っていた。

@ミスターXは自演の癖がある
A見慣れないコテが論争時にだけ登場する

という事実により、

463 :ふむ:2005/12/02(金) 19:01:54

根本原理の探求の場です^^;

そして 美学もない^^;

知識に意味なく^^;知恵に意味あり^^;

動いてこそ知恵^^;心理でなく^^;

感情論より理論の場です^^;もちろん^^;でしょー^^;

464 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:02:46
「ミスターXのいつもの自演癖が発動した」

と考えるのが、普通なのだよ

465 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:03:17
>>463
深いですな

466 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:05:24
資料3

30 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/26(土) 01:33:07

おい、論争スレは疾走感が大事なのだから、連投できるようにわざわざ電波板に
来たんだよ。ぐずぐずせずに早く決めろ。

467 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:06:54
となると、
>>466は、自演キャラ以外をスレを入れないようにするための
策だったのかもしれないがね

468 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:07:47
大体、疾走感が必要な理由が
あやふやだがね

469 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:10:16
それから、他の論争スレでも同じパターンだがね、
何年同じ手口を使っているのかね

470 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:12:19
で、あとは引退についてだがね?

471 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:13:33
資料4

275 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/26(土) 04:16:49
まあ、純一よ、一つだけ約束してくれ。

なんでも哲学を提唱するのは君の勝手だ。
俺はそれについては何も言わん。
だけど、俺のスレに来てスレ汚しをするのはやめてくれ。
それを約束できるのなら、引退は取り消してやってもいいのだが、どうよ?

278 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/11/26(土) 04:19:17
>>275
@ジャッジが公正ではない(自演)
Aスレ汚しは君の重複スレが多いため
B@により、引退は決定していない
Cしかし、私の意志如何によっては去っても良い

472 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:15:39
>>471を言ったのだがね、

Cについては議論がされなかったので、
引退は決定していない

473 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:19:24
で、このスレの流れは、

◆◇チンポ太郎博士 VS 精神障害者純一◆◇
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/denpa/1132934539/

258で止まってますがね、
259で、自分勝手な勝利宣言をミスターXがして、

259 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :2005/11/26(土) 04:09:41
じゃあ、純一君、君の引退は決定だよ。


474 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:20:16
で、それ以降は、

純一を精神障害者とレッテルを貼って終わりですがね?

475 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 19:20:38



まだまだ続く








476 :考える名無しさん:2005/12/02(金) 20:05:49








   ホゃんすね?





477 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:09:32
>>476
どうかな?

478 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:30:32
ほゃんとは何かね?

479 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:30:57
>>476
別のスレでも聞いたのだがね?

480 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:32:27
誰か相談に乗ってあげてはどうかね?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1133281160/l50

481 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:34:08
:考える名無しさん :2005/11/30(水) 02:39:29
哲学や数学で現れる特有の拒否を受けたことにより
進路妨害,留年,追放にあったと考えているのですが
誰も信じてくれません.どうしたらいいですか?
ただわかってもらえればそれでよかったのですが
長期にわたり留年,休学して続けたあげくに
同分野のほぼ全員から嫌われ追放されてしまいました.
有利,不利という事よりもわかってもらうことの方が大事で
裁判で訴えることで認めてもらおうかと思っているのですが...
ここまでの消耗と経済的理由により研究で説得することは困難を感じました.
誰にも知られず餓死,飢え死にする可能性が高いです.
裁判で勝った事例等はありますかね.教えてください.

482 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:34:33
とのことだとさ

483 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:35:56
8 :4:2005/12/01(木) 05:10:31
アレルギーのようなもので一度発症されたらもう研究成果で説得することは困難なようです.
分野が近い人ほど拒絶が強くなるようです.
ドイツ人が大学に訪問したときに君は何をやってるんだ?と聞かれ
それに応答したところ突然怒りだしてクレイジーって言われました.
他大の先生の紹介で研究分野の近い先生を紹介して貰ったのですが
その先生も怒らせてしまいました.
これは鬱状態だったことと発表する事から遠ざかっていた事もあると思います.
ただ同じ種類の拒絶もあったかと思います.
あまりよく覚えていないのですが,歴史,蓄積を無視している,当たり前の事しかかいてない
などと言われたと思います.そして我慢のならなくなる状態になっていました.
まずい事になっているようです.あとは訴えて精算して遠ざかるのがいいのかもしれないです.

484 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:37:33
>4 :考える名無しさん :2005/11/30(水) 02:39:29
>哲学や数学で現れる特有の拒否を受けたことにより
>進路妨害,留年,追放にあったと考えているのですが
>誰も信じてくれません.どうしたらいいですか?

数学基礎論かね?


485 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/12/02(金) 20:38:27
数学やってたら、大体の人は怒りますがね
基礎論に

486 :考える名無しさん:2005/12/13(火) 09:43:44


487 :エスプレッソ:2005/12/15(木) 06:46:51
悪いことは言わない、逃げろ! 中毒症状が出る前に!
現象学に関わると魂をもっていかれるぞ

488 :考える名無しさん:2006/02/08(水) 17:06:20
age

489 :考える名無しさん:2006/02/10(金) 16:45:02
確信?
きみは何を持って確信したと判断するんだい?

490 :考える名無しさん:2006/02/15(水) 06:50:04
ほゃんかね?

491 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 23:09:25
フッサール [Edmund Husserl]
〔フッセルとも〕(1859-1938) ドイツの哲学者。

くそ。ずっと1889年生まれだと思ってた。図解雑学にそう書いてあるぞ。

492 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 23:18:10
どうでもいいじゃんバーカ

493 :考える名無しさん:2006/03/03(金) 23:23:35
年代見ながら、発言を考えるだろうが。

494 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 03:07:38
89年生まれならハイデゲールだろバカw

495 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 12:22:12
この糞スレを有り難がる馬鹿の気持ちがわからない。知りたくもない。

496 :考える名無しさん:2006/03/04(土) 13:28:49
こういう荒らし春厨の気持ちがわからない。知りたくもない。

497 :考える名無しさん:2006/03/05(日) 01:55:48
死んだスレに内容も書き込まずしつこく上げるのって板に対する荒らし行為だろバーカ

498 :考える名無しさん:2006/03/06(月) 09:03:20
バーカと言うシトこそ馬Oでちゅ。

499 :鉄額ロン:2006/03/06(月) 09:08:30

ヤケクソ ハナクソ ミソジ

500 :考える名無しさん:2006/03/27(月) 16:44:45
1000をとります。

501 :考える名無しさん:2006/04/07(金) 13:43:46
死んだスレに内容も書き込まずしつこく上げるのって板に対する荒らし行為だろバーカ

502 :考える名無しさん:2006/05/18(木) 02:49:13
∩( ・ω・)∩ばんじゃーい

503 :考える名無しさん:2006/06/23(金) 03:27:25
死んだスレに内容も書き込まずしつこく上げるのって板に対する荒らし行為だろバーカ

504 :考える名無しさん:2006/06/24(土) 09:38:32
ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ

505 :考える名無しさん:2006/06/26(月) 11:29:58
人は類的一般化/特種化の関係を、事象的なものから 純粋論理的に形式的なものへと普遍化する、
ないしは反対に論理的に形式的なものを事象化する本質的に他種の関係から鋭く区別しなければならない。
換言するならば、類的一般化は、例えば数学的分析において非常に大きい役割を果たしているような形式化とは全く異なるし、
特種化は、論理数学的に空虚な形式/形式的真理の脱形式化や『充填』とは全く異なるのである。


[Husserl: Ideen 1, S.32]

506 :考える名無しさん:2006/08/09(水) 03:02:33
geagea

507 :考える名無しさん:2006/08/10(木) 00:10:16
「砂糖は白くて甘い」というのが類的一般化。
これは標準化でもある。

508 :考える名無しさん:2006/09/07(木) 18:04:29
■目次
>>335-337


509 :考える名無しさん:2006/10/14(土) 11:39:53
乙!

510 :考える名無しさん:2006/11/13(月) 20:50:06
パスカル的省察

511 :考える名無しさん:2007/01/07(日) 11:41:18
test

512 :考える名無しさん:2007/01/20(土) 16:08:23
「生命の機械論と有機体論について、対比的に論じる」という論述の問題が
あるんですが、どなたか模範的な解答を作ってみてくれませんか?
この問題の条件として、「それぞれ代表的な哲学者の学説を踏まえること」
とあるんです。
例えば、機械論→デカルト、有機体論→シェリング、ヘーゲルの学説を踏まえて
論述するんですが…

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