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【ヤマト】纏向は王権の礎の地だったか【マキムク】

1 :1:2006/12/15(金) 13:01:16
関連スレは、「邪馬台国畿内説を議論するスレ10」
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165300615

ここでは、上記スレ中に出てきた次の発言(>240)について、みんなで議論しましょう。
 (240さん。勝手コピペしましたが、ご寛恕ください)

>2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>ただしすんなりと発展したのではなく、様々な政権奪取というか
>内部抗争があったとは考えていいでしょう。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165300615/240

2 :1:2006/12/15(金) 13:35:07
次も同じ人のご意見です。

>「単純でない」というのは
>唐古・鍵などの畿内のクニがそのまま発展したという昔の畿内説や
>九州島のみで邪馬台国連合が成立していたとの、これまた昔の九州説
>はたまた神武がどうしたとかいう東征による建国など
>考古事実に反する説が淘汰されたという意味です。

>纏向が邪馬台国かどうかはさておき、倭人伝に記された時期に
>列島最大の勢力が存在したのは纏向です。
>そしてそこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>それだけを踏まえたうえで考えたとしても、選択肢は多くはないでしょう。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165300615/241

3 :1:2006/12/15(金) 13:39:29
つづきです。

>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165300615/241

4 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:43:12
>>2
マキムクに日本全国から物が集まり
逆に権力の象徴である古墳は
マキムクから全国に広がっていっている。
もろ、当時の日本の中心じゃん。

5 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 14:00:45
ところで纏向っていつ頃の話?

6 :1:2006/12/15(金) 14:06:51
>>4-5
レス、ありがとうございます。

纏向の年代については、関連する前レスでの応答がありました。
重要な点だと思いますので、このあと貼り付けさせてもらいます。

7 :1:2006/12/15(金) 14:13:43
以下「質問者」と「老教授」の応答の部分です。

>:質問者 :2006/12/10(日) 20:39:23
>質問@ 箸中山古墳の築造年代(=実年代)は?

>11月に香芝市の二上山博物館であった邪馬台国関連シンポに行ってきました。
>シンポ2日目のパネルディスカッションの冒頭で、石野博信館長が、パネリスト全員に、上記の質問をされました。
>老教授さまにも、これはぜひお尋ねしておきたいです。

8 :1:2006/12/15(金) 14:17:37
>:質問者 :2006/12/10(日) 20:51:44
>ちなみに、そのときのパネリストの回答です。
>(聴講しながらの簡単なメモなので、不正確かもしれませんが)

>森岡秀人:250年頃
>山田隆一:250年頃
>大久保徹也:布留0
>岸本道昭:庄内の一番新から布留
>菅原康夫:おおまか250年代
>岸本直文:  同上
>菅原康夫:250年代の後半

>石野博信:わたしだけが違うなあ(と苦笑)。280年ぐらい

9 :1:2006/12/15(金) 14:20:40
>:質問者 :2006/12/10(日) 21:03:25
>菅原さんは、
>「画文帯同行式神獣鏡が出た萩原1号墓が3世紀前半と考えられ…
> ……VL3……黒谷……中山……」
>とかブツブツおっしゃってから(私わからん)、「250年代の後半」と
>2度目の発言で「後半」を付け加えられました。

10 :1:2006/12/15(金) 14:25:11
これに対する「老教授」氏の回答です。

> :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:11:39
>いきなりキツいご質問を(汗)
>森岡先生だけでなく岸本さんや菅原氏まで250年代ですか・・・
>私は実は280年から300年までの間と見ています。
>布留0をどう捉えるかによってもちろん前後する訳ですが
>それ以前に築造技術そのものが旧態依然なのが気にかかるんですよ。
>もしかすると2重構造というか、追葬による改築があった可能性も否定できませんし。
>ただ被葬者が女性かどうかは、かなり疑問ですね。
>倭人伝に登場した卑弥呼の墓という認識は持っていません。
>また気になるのが木製鐙の存在です。石野先生も「落ち込み」ではないと仰ってますし。
>でも大まかに逃げるのはちょっと卑怯ですね。
>ここは男らしく「280年代後半」としておきましょう。

11 :1:2006/12/15(金) 14:33:34
ホケノ山古墳の年代についても質疑応答がありました。

>:質問者 :2006/12/10(日) 21:20:47
>質問A 纏向勝山古墳、ホケノ山古墳の築造年代は?

>例の年輪年代法での、奈良文化財研究所の発表です。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm

>いまもう一度読み直しますと、公式?発表は
> 「この木材の伐採が200年ごろです」
>と言っているだけで、べつに勝山の年代は何も述べてませんでした。
>盛んに述べているのは考古学者さん。マスコミ相手に……(苦笑)

>で、勝山を200年ごろとするのは、ほんとうに妥当なのでしょうか?
> (私は250年ごろかと思っていて、うわ古い!と驚いたのですが…)

12 :1:2006/12/15(金) 14:36:16
:老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/10(日) 21:26:29
>伐採は200年で間違いないと思います。
>しかし実際に使用されたのはもっと後でしょう。
>私は早く見て230年、本命はは250年あたりだと考えます。
>ホケノ山もその範囲内です。
>光岡さんは「木材のそりによる歪みが極めて小さいことから、
>相当な期間置いてあったと考えられる」とも仰ってますね。

13 :1:2006/12/15(金) 15:00:40
次にコピペするのは、邪馬台国=畿内マキムク政権、とお考えの方です。「老教授」と同一人物かどうかは分かりませんが。
しかしマキムク政権の性格について、興味あるご意見を述べておられます。
これは倭人伝や記紀など文献史料とも関わる問題と思いますので、議論の叩き台として引用させてもらいます。

>:日本@名無史さん :2006/12/10(日) 19:18:34
>イメージとしては、強力な軍事勢力が各地を支配下に置いたのでは無く
>主に経済的メリット、そして不可侵条約的な決め事があったグループと見ていただければありがたいです。
>三輪山祭祀にしても、「市」としての纏向を正常に機能させるために
>いわば商取引の宣誓として、各々の神に誓い合ったのが元だと考えられませんか?
>そのために神官、つまり卑弥呼という役職が居たのだと。
>魏が彼女を女王と認定したのは「王の資格とは神との交信が出来る者」という
>中華思想に基づいてのものだと、まあ仮説ですが考えています。

14 :A:2006/12/15(金) 15:02:56
乙です。

纏向に生活感を感じないのは一体なんなんでしょう。女王の都と位置付けるには余りにも殺伐とした環境。千人の従者を考えれば
その者達が営む為に排出される汚物の量たるや、想像を絶するものが?
纏向の周辺環境を考えると、とても大所帯を抱える環境ではないように、考える次第です。

15 :1:2006/12/15(金) 15:04:33
そのつづきです(多分)。

>:日本@名無史さん :2006/12/10(日) 19:25:39
>纏向衰退というか放棄は、4世紀末頃と考えられています。
>同時に吉備や九州にあった、いわゆる纏向タイプの新設都市が
>意図的に埋められて放棄されています。
>この辺りから前方後円墳が異常な巨大化を始めるんですね。
>具体名を挙げるほどの確証は無いですが、例えとして
>崇神タイプの神官系為政王から、応神タイプの軍事的為政王へと
>畿内王権が変化した蓋然性は高いと考えます。

16 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:14:28
>>15
ちょうど、応神天皇の頃、半島を進出しだした頃だよね。

あとは記紀の解読が待たれるな。



17 :1:2006/12/15(金) 15:17:42
他にも前スレでは、さまざまな意見が出ておりました。
しかし全部コピペするわけにもまいりません。
 (さっきスパム禁止令にひっかかっちゃいました)(苦笑)

まあ、以上のような諸論点からとりあえず出発てす。
それでは議論を始めましょう!

>>14
Aさん、カキコありがとう。
まず、トイレの問題ですね。とても面白いと思います。
纏向遺跡がすべて発掘されたらいいのに・・・と、スレ主は願望だけ述べて、しばらく休憩。

18 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:24:10
マキムクが重要なのは、記紀に
垂仁、景行の二人の天皇の時の宮で
この時代にほぼ全国統一したということです。
だから、邪馬台国云々というよりも
大和王権の成長過程をしる手がかりになるわけで。

19 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:57:40
>>14
国語の質問。

>女王の都と位置付けるには余りにも殺伐とした環境

「殺伐とした」じゃなくて、「寂寞とした」のつもりだったのでは?
大量の武器とか、頭蓋骨だけがゴロゴロ…なんて出てきたのならともかく。

20 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 17:04:18
女王卑弥呼というのは、結局
政教分離体制のヒコ・ヒメ制度の巫女だったんだろう?
で、その邪馬台国という国では
政教分離問題で争っていたと...




21 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 17:28:06
>>18
>マキムクが重要なのは、記紀に
>垂仁、景行の二人の天皇の時の宮で

垂仁の宮が「纒向珠城宮」、景行が「纒向日代宮」、ということだね。
たしかに両天皇の宮が纒向の地にあった、と文献に記載してるのは、とても重要だ。

でも、この新スレは、べつに両天皇の宮址を探るのが目的ではなかろう。
考古遺跡としてのマキムクを、歴史的にどうとらえるか、だな。

22 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 17:38:43
マキムクにどんどん作られる古墳に畏怖の念を抱いて離れていった。
応神王朝が違う系統ならなお更だね。

23 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 17:47:32
>>22
ん? 誰が「畏怖の念を抱いて離れていった」んだい?
古墳づくりの労働者たちが、ってこと?

24 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:10:44
>>23
普通墓の横に人住みたがらないでしょ。神道でも死者は穢れた存在なんだし。
今の日本は街中に墓あるけどね。そういえば韓国の人が日本に来て墓の隣に住んでて怖くないの?って驚いてたな。

25 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:32:54
今度、本が出るらしいな。2ちゃんの書き込みだけど
古事記、日本書紀を二倍年暦で換算して
西暦に直しているやつらしい。

自分もいろいろ調べてみたら、日本書紀、古事記は共に二倍年暦で
即位期間、干支没年だけじゃなくて、
各天皇の寿命や年齢など全部、総合的に見たら
仁徳天皇だけ在位期間(日本書紀)が不自然なんだなw

古事記の応神天皇、仁徳天皇の寿命から考えたら
日本書紀の仁徳天皇の在位期間だと、
仁徳天皇はもっと長生きしないと無理w

仁徳天皇の在位期間だけ二倍にして、神功皇后を卑弥呼の近くにしようとしているw
しかも、記紀の編纂者は、最初のほうは二倍年暦だと計算していない間抜けさw
だから、年代が大混乱してしまった。
しかし、日本書記の唯一の年代誤魔化しは
古事記の発見によって、訂正されそうだわな。

あと、古事記は古い天皇の年齢は正確なのに、新しい天皇の年齢は?
これって、不自然だってサイトを見つけたけど
何のこと無い、新しい天皇の頃は、二倍年暦→通常暦へ移行したから混乱しただけ。


26 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:48:00
>>24
>普通墓の横に人住みたがらないでしょ。

どうかな。日本の大都市は住宅が密集してるから、
イヤでも墓地のそばに住まなきゃならない、てこともあるんだろ。

おれは子どものころから、お墓はあまり好きじゃなかったな。
幽霊の話なんかを小ちゃい頃、よく聞かされたからかな。

でも怖いのは、小さなお墓だよ。
ピラミッドとか、あんなにデカくなったら、そんなに怖くないよ。
旅費タダだから見に来い、て言われたら、すぐ行く。

古墳はね、あの鬱蒼とした樹木の繁みが、なんとなく陰気だけど。

27 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:52:17
>>25
こんな新すれ、立ってたぞ。

「2倍念暦」の真実
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1166152776/l50

二倍年暦論だったら、そっちの方が思う存分ディスカッションできるぜ。

28 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:56:13
関裕二先生。来てらっしゃったら、コテってくださいね。

29 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:55:48
昔から疑問なのは、
何故庄内の初めに突然、倭国大連合(邪馬台国体制)が誕生したのか?
という事。

昔の畿内説なら、
筑紫の鉄ルートを奪うため、畿内吉備東海丹波越が団結した、と説明していた。
しかし村上の論証からも、
畿内は筑紫の鉄ルートを奪取していないことが明白になっている。
むしろ古墳時代以降も、鉄に関して筑紫>畿内。
筑紫は鉄技術を畿内との外交カードとして、有効に利用していたのでは?と思われる。

このことからも、筑紫が倭国大連合の主要メンバーではなかったことが分かると思うのだが。

30 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:50:15
突然じゃないと思うよ。

おそらく庄内より前、後期後半の後半に吉備を中心とした
瀬戸内の連合はできていたと思う。

山陰は山陰で場合によっては後期の早い時期から連合ができていたふしがある。
青銅祭祀が一斉に終了することや、土器が広範囲で斉一化するということがあるから。

一方、東海と畿内は古くから仲良しこよしだった気配がある。
近畿式銅鐸の新しいタイプは東海からゴロゴロ出てきてるし。

瀬戸内の連合に畿内が加わるのがいつか、瀬戸内と山陰の関係はどうなのか?
このあたりがこれからの課題かな。

山陰との関係では西谷3号墓に共献されていた吉備の特殊器台が
一つの鍵だと思うけど。

31 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:28:39
>>30
誰も、弥生後期に各地で広域の首長連合が出来ていたことは否定していない。
吉備の特殊器台、畿内東海の銅鐸、出雲の四隅突出型墳丘墓、筑紫の広形銅矛だな。
弥生後期を通じて、各地域での経済ブロックが成立・成長したと。

しかしあくまで「各地域での」という前置きが必要。

これら、各地の地域首長連合が、なぜ倭国大連合を希求したのか、
という問いであって、それが「突然だ」と書いてるんだよ。

32 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:50:44
だから各地で連合が成立して行く延長線上にあるんじゃないの。

「各地域での」といっても各地でもいきなりでかい連合ができるわけじゃなくて
おそらくはまず小さい連合ができて徐々に広がっていったんだろ。

その延長線。

突然というニュアンスとはだいぶ違うと思う。

33 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:04:24
>>32
いやね、君には「日本が一つの国」という思い込みがあるよ。
「ひとつの国だから、まとまっていく方向は当たり前だ」という固定観念。
小国が分立する状態を不自然と捉えてしまっている。

実際のところ、江戸時代だって小国分立といってもいい状況だし、
対外関係の緊張など特殊な状況が無い限り、中央集権国家を志向することはない。

大連合を成立させるためには、それまでの特権階級、保守勢力の権力を制限することに
他ならないからだ。
多くの血が流れるし、そこまでして中央集権化する必要が、平和時には存在しない。


もっと分かり易く言えば、3世紀の日本がひとつの国として纏まる必要は何だったのか?
という問いなんだよ。

34 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 03:00:38
>>33
あんたの方が突然できたという思いこみを持ってるんじゃないの?
突然だって言う根拠はなによ。

秦始皇にはどういう「対外関係の緊張など特殊な状況」があって、「中央集権国家を志向」したんだろうね?


35 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 03:29:26
鎌倉時代なんか
その土地の任命権と収入を得る権利が真っ二つ
実質2勢力がすみ分けてる状態

で、その後地方で一円化がだんだんされると
1勢力の朝廷側は完全に没落したが
今度は地方だけで勝手に独立、群雄割拠の戦国時代だ

この400年間は完全にばらばらだな

36 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 03:45:45
ふーん

37 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 04:49:16
まきむくは3世紀初頭
資料からは崇神がこの時期に一致するね

38 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 04:54:26
>>34
中国史にしたところで、統一を常態と見るか、分立をそれと見るかは、
議論の分かれるところなのだが。
まあ、それは置いとくとしてw

始皇帝やら織田信長などは、確かに個人的野心の延長線上、
もしくは狂気で、統一王権を目指したのかもしれない。
ヨーロッパ統一を目論んだナポレオンなども同じと言えるだろう。
しかし、彼らの統一はあくまで軍事的手段に訴えたものであって、
問答無用、弱肉強食の論理である。

これを、マキムク王権の成立と同列に語ることは出来ないだろう。

マキムクはあくまで各国が政治的手段、利害調整で大連合したもの。
女王の共立という離れ業を用いている。
各国の王たちに、自分より地位が上の女王の存在を承認させ、
彼らを説得、納得させるためには、大義、もしくは利益誘導などの
方策が必要になる。

39 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 07:50:36
倭国の大乱が各地の勢力の結集を招いたって事でいいのでは。

40 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:50:50
>>38
で、突然だって言う根拠はあんたの頭の中以外には何もないのね。

41 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:19:53
葛城王朝の欠史八代とはヒコヒメ制の全盛期だったんじゃないか?
神武が亡くなると、その継承争いで、神武が故郷に残した子である
タギシミミがヤマトの義母者でヒメタタラを后とし、ヤマトの祭祀権を掌握しながら、腹違いの兄弟である
カムヌナカらの抹殺を計ったんだけど、結局のところは失敗に終わり、返り討ちに遭い殺されてしまう。
結局、何が言いたいかって、この時の王位継承争いで、九州は破れ、出雲の推す人物が王位に
就き後継者になったったと読取れない?

先代の王の后を手に入れ、自らの妻とすることは祭祀権の掌握を意味し
王位の継承権を得ることを意味したんだろうが、九州、、あえなく失敗。

で卑弥呼の時代の到来。

以後9代まで土着の諸豪族の娘を后として迎え入れることで
ガッチリとヤマトの基礎が出来上がる。



42 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:38:24
>>38
実際突然じゃん。庄内甕もマキムク型も。
ある時を境に、マキムク発の文化が全国的に拡散していく。
倭人伝も、女王を共立させて、大連合したと書いてるし。

庄内初期に、畿内から九州に至る拠点集落の再編が突如起きていて、
何らかの政治的妥協、解決があったと見るべきでしょ。

43 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:01:17
>>41
記紀を素直に読めば、
神武からの欠史八代は、その時代のことを詳しく書くと
出雲王権の家臣だったのがバレルからだろう?
古事記では、神武から数代は出雲系の嫁が来ているのに
日本書紀では、そのことを全く触れていない。

44 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:03:28
>>43
つか素直に読んで貴方が出雲王権の家臣だと思ったんならその理論は通用しないんじゃ

45 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:04:33
>>39
絡むわけじゃないけど、倭国乱が起きた原因は何か?という議論でもあって。

僕は、倭国乱の原因は、後漢動乱による、筑紫倭国王の権威失墜であろうと思う。
で、後漢に代わる公孫氏と親密であったのが、畿内マキムク王権であったと。

新しく出来た畿内王権は、公孫氏経由で、華北東部で製作された神獣鏡を一括入手。
各地の王たちに配布して、連合の新しいレガリアとした。

46 :1:2006/12/16(土) 14:27:26
スレ主です。さっそく活発なご議論を始めていただき、ありがとうございます。

けれども、すこし物足りなく思いますのは、みなさんのレスが、現に見つかっている纏向遺跡の遺構や遺物などには、ほとんどと言っていいほど、お触れになっておられない──という点です。

で、纏向遺跡について要領よくまとめてあるサイトを、下にリンクしておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
http://www.begin.or.jp/sakura/maki01.htm
リンクをたどったり、グーグル検索なども行えば、さらに纏向関連の考古情報が得られます。

みなさんそれぞれ持論・自説もおありでしょうが、できるだけ具体的に纏向の遺構・遺物、あるいはその特徴などにお触れになり、議論を進めていってもらいたい、と強く希望します。

47 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 15:25:41
>>44
日本書紀では出雲のそのことを触れたがらない。
崇神が出雲から国を奪った形になったから。

日向(熊襲?)の神武天皇がわざかな軍で畿内へ進入、
最初の河内戦で兄が戦死、和歌山の裏手からひっそりと侵入
たったん20人しか生き残らず、それなのに畿内制圧?
その後、出雲王家から妃を数代もらいつづけ、
しかも、領地は大和盆地の南半分だけ...

要するに欠史八代は、まだまだ畿内の一部分程度の領主であり
出雲王家と婚姻を進めることによって、自分の立場を守っていた天皇家と。

48 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:09:07
どこからその人数を割り出したのか未だ不明だが。
20人ってお頭の数だろ?つまりは付き従った神々の数だろうなあw

ニギハヤヒは単独だがイワレビコはそうじゃない!
臣下になった豪族の頭数だろうなあ。

49 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:23:43
神武東征って軍事的にみたら
どう見ても、皇軍敗戦なんだよな...

河内の最初の戦いなんて、苦し紛れに戦って
兄貴は死ぬし...20人って頭の数っていうけど...
いずれにせよ、かなりの大損害を出している...

神武から欠史八代を通過して、崇神天皇の時代になって
初めて出雲・吉備を倒したことを高々に語っていること思えばね...
って感じ。

50 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:54:55
>>49
吉備は倒したというより、同族化の話だろ。

51 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:00:46
>>42
>実際突然じゃん。庄内甕もマキムク型も。

纏向だけ見てたらね。
もっと広く見回せば別に突然でもない。

>庄内初期に、畿内から九州に至る拠点集落の再編が突如起きていて、

大阪は後期に入ってすぐ解体してるし、吉備は後期後半に解体してる。
「再編が突如起きてい」るということもないね。

52 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:49:15
>>51
庄内甕以前に、列島広範囲に出土する土器があったのか?
寺沢のいうマキムク型という共通の祭祀方法が各地で取られることも、
弥生後期には見られなかったことだろ?


>大阪は後期に入ってすぐ解体してるし、吉備は後期後半に解体してる。
>「再編が突如起きてい」るということもないね。

それはそうなんだが、あくまで吉備や中河内、地域限定で起きたことだろうな。
吉備地方、大和川水系の首長連合の成立。
あくまで別個にキビ国、ヤマト国が成立したことを示唆するに過ぎない。

結局のところ、各地域での首長連合成立と、庄内開始、倭国大連合との
相違を決定的に見誤っている。君はずっとそうだな。
地方予選と全国大会の違いだ。分かるかな?

53 :A:2006/12/16(土) 18:47:39
排泄物の扱いを間違えると、衛生上問題になるのは、今も昔も変わらない
海の側で川のある場所が、最も衛生上大人数の排泄物を処理できる
海から離れた場所の大所帯は不適切

54 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:04:54
わざわざのスレ立て、ご苦労様です。
ちなみに1氏が引用されたレスは総て私の書き込みでありますので、文責は私にあります。

ここで提案なのですが、書き込みを拝見したところかなりお詳しい方々が多数参加されておられる様ですので
ここはひとつ畿内説がどのような根拠に基づいて成立しているのか
またその中でもどのような説に枝分かれしているかを、まず提示してみませんか?
それによって見当違いな反論を防ぐ事ができ、ループによる無駄も省けるように思います。
また各説の参考文献などもご提示いただければ、より効率的にスレが進行いたします。
私もいくつか提示させていただきますので、ご協力いただければ嬉しく思います。

それと平行して、興味深いご指摘には出来るだけ回答させていただきますので宜しくお願い致します。

55 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:14:28
先にA氏より>>53において慧眼のご指摘がありましたので、それから始めましょう。

纏向を例に取るならば、大溝と呼ばれる水路遺構における寄生虫卵の化石の密度からして
ほぼ便槽並みの汚染度であったことが判明しております。
また纏向が特例ではなく、弥生全時期においての環濠(壕)からは例外なく排泄物の化石が山ほど出土いたします。
これは海や河川のそばに限ったことではありません。
但し非常に優れた着眼点であると思います。
集落廃棄の主要因のひとつに、衛生状態の悪化が有力説として考えられておりますので。

56 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:14:38
馬鹿ほど、邪馬台国論争に拘るというからなw
あんな中国人の旅行者の曖昧な記述に拘ってどうするのよw

唯一の救いは、魏略に「当時の日本が四季を知らなかった、
なぜか長寿の人が多かった」ということが分かったこと。
あと、狗奴国という軍事強国の存在か?

57 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:27:44
しかし>>14においての「生活感が無い」と言うのは良いご指摘です。
実際それまでの一般的な後期遺跡とは、明らかに性格が違いますので。

現時点での纏向の大きな謎のひとつとして
「これだけの開拓や墳墓造営を行った人たちは、どこにどうやって住んでいたのだろうと思わせるほどの生活感の無さ」
が挙げられます。
無論各地の外来式土器は多数出土しておりますが、それに比例するほどの住居跡があまりにも少ないのです。
第1次産業従事者がほとんど居なかった事はほぼ間違いないのでしょうし
未発掘部分がまだ大多数を占めるのも事実ですが、あまりに出なさ過ぎますね。
例の小規模高床式建築物にしても、住居としては不適切でしょう。
それについて私自身は、取引見本用の倉庫、今で言う「上屋」の役目を持っていたのではないかと見ています。


58 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:32:42
昔は金肥(キンピ)ていって、糞尿は、肥やしにしてたんだろ。
江戸時代の大阪の街には、わざわざ金肥集めに、河内の農家やってきたって。
それも見返りに、野菜なんかくれるんだ。つまりクソが売れるってこと。
なんかの本で読んだ覚えがある。

59 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:33:53
あと>>29 >>30の両氏は、基本的に互いに同意見のようですよ。
あれを「突然」と見るのかどうかですが、確かに連綿と続く関係は中期から存在しますし
庄内開始と拡散は、これまた今までに無い大事件です。
ここは「エポック・メイキング」であったとの用語で共通認識を図りましょうよ。

60 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:38:38
>>57
最後の「上屋」のとこ、分かりましぇん。上屋、知りましぇん。
解説キボ。

61 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:44:06
>>56氏のご指摘も興味深いですね。
これに関しては「果たしてその記述が3世紀当時の倭国の現状を正しく言い表しているか」
それについての検証が必要となってきます。
結論から言うと、間違っている部分もあるということです。
当時の列島に、貫頭衣を造れるような一枚布を織れる機織り機は無いと考えられております。
また牛馬無しは正しくとも、なぜ養豚に関しての記述が無いのかも謎です。
このあたりは、佐伯有清氏の「魏志倭人伝を読む 上下」に詳細があったはずです。


62 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:49:43
>>61
中国人いわく、
なぜ、日本人はもっと自分の史書を見直さない?
中国で書かれている日本の内容だって、非常に不正確だとw

そんなわけで、中国共産党は、金を出して
日本書紀・古事記・万葉集の解読を進めています。
とくに日本書紀とかは、漢文という古代中国語で書かれているわけですから
中国人にとっては外国語ではないのですよ、一応w
その利点を生かして、日本の文献史学を制覇しようと企んでいる。

63 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 19:54:12
続いて長寿についてですが、これをして二倍暦の根拠のひとつとされる方がおられますが
例えば60歳(通常年暦)の老人が自称120歳だと語ったのだとすると、二倍暦使用が判らなかったかもしれません。
しかし同時に10歳の子供も「ハタチ!」と言っていたことになりますので、それならそうとはっきり書くでしょうね。
そう書かずに単に長寿だと書いてある時点で、根拠には成り得ません。
陳寿がこの記述を外した理由も、情報が不確定だからだと感じたからではないでしょうか。

>>60
すみません、港湾施設などに見られる「関税課税前の一時的な保管場所」の事です。
纏向においては「商品見本の保管庫」だったのではないかと見るのが私の考えです。

64 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:56:23
>>62
度重なるコピペご苦労

65 ::2006/12/16(土) 20:00:14
>>63 老教授

>陳寿がこの記述を外した理由も、情報が不確定だからだと感じたからではないでしょうか

老教授。推測での主観的発言は感心できません。

66 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:00:18
>>62
その試みは多分に政治的な匂いがしますね(笑)
確かに戦前戦後と、日本歴史学はイデオロギーによって様々な回り道を余儀なくされたおの一面はあります。
しかし先頃お亡くなりになられた白川静先生のように、全く意に介さなかった方も大勢居られます。
願わくば皇国史観、マルクス史観など、どちらにも囚われずに我々はやっていきましょうよ。

67 ::2006/12/16(土) 20:01:23
>>63 老教授

>陳寿がこの記述を外した理由も、情報が不確定だからだと感じたからではないでしょうか

老教授。推測での主観的発言は感心できません

68 ::2006/12/16(土) 20:03:39
>>65>>67の ダブル投稿失礼しました

69 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:04:16
>A氏 >>65
うーん推測といえばまあ推測ですね(笑)
ひとつの見方であり、これをして根拠や自説とするものではないと念押ししておきます。
せっかくですから、他に何かご指摘はありますでしょうか?

>>64
あららコピペだったのですね・・・まだまだ修行不足でした。

70 ::2006/12/16(土) 20:15:29
>>69老教授

これは私の主観なのですが、纏向を中心とする周辺に『安定』を感じるのですが
見当外れでしょうか?

71 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:20:33
続いて>>21氏へ
>垂仁の宮が「纒向珠城宮」、景行が「纒向日代宮」、ということだね
崇神や後の応神も含めて、興味深い話ですね。
実際このあたりをどう解釈するかが、古代史の面白さの真骨頂なのですが
おそらくこれに言及する研究者が居ない事に、皆様ご不満をお持ちではないでしょうか?

申し訳ありません。実在を証明するものが何も無いので語れないんです(汗)
これは記紀の信憑性云々以前の問題でして
例えば焼失したとされる天皇記や国記などの写本逸文でも現存していればまた話は違ってくるのですが
もう今のところどうしようもないです(笑)
ですので記紀に即して語る際には
「崇神(ミマキイリヒコ)と書かれた人物、また彼の治世にあったとされる事象」みたいな
歯切れの悪い表記にならざるを得ないという事をご了承くださいませ。
もしくは、そういった考えを前提にしているとのローカルルールを決めておいた方が良いかもしれません。


72 :1(:2006/12/16(土) 20:27:41
老教授さん、よくお越しくださいました。勝手コピペご寛恕のほど。
スレ主として >>46に書きましたが、もう少し纏向遺跡の具体的なことを、議論の俎上にあげていただきたいと思っています。私は考古学大好き〜、なんです。博物館に行けば丸一日居座るタイプなんです。
で、いそいで語句だけ、ピックアップします。

 大水路(大溝・小溝)  導水施設
 不整形円の土抗(祭祀具の捨て場?)
 鶏形木製品  石見型木製品   弧文円板   絹製の巾着袋?
 韓式系土器   搬入土器(東海系多し)
 纒向型前方後円墳   箸墓古墳   特殊器台

老教授、いま全部でなくて構いませんから、上記の中からとくに興味深いものに二、三ついて、歴史的な解釈・解説をやっていただけませんか?
教授が「面白いぞ!」とお思いのものだけで結構ですから。


73 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:35:21
>>70
「安定」ですか・・・また難しいご質問ですね。
ちなみに「安全」は相応確保されていたと考えられます。
まず環濠や物見やぐらも含めて、防御的施設が一切無い事。
にも拘らず一大流通拠点として機能し、新様式の墳墓(纏向型前方後円墳)が生み出されている事。
更には方墳、円墳などとも共存している事。
布留あたりから更に面積が拡大し、太田地区に隣接して一気に開発されている事。
それと関連して、3倍近い人口増大がなされている事。
最大の特徴として、列島各地の葬送儀礼が次々と投入される事。
にも拘らず、纏向だけでなく列島内での対立を示すものがまるで無い事。

実際、本当に狗奴国と「物理的な戦争」があったのかどうかさえ疑わしいですし
そういった点から鑑みますと、安定と言って良いかもしれません。
まあいつの時代でも、政権内部はドロドロだったんでしょうがね(笑)

74 ::2006/12/16(土) 20:36:37
>ですので記紀に即して語る際には
「崇神(ミマキイリヒコ)と書かれた人物、また彼の治世にあったとされる事象」みたいな
歯切れの悪い表記にならざるを得ないという事をご了承くださいませ。
もしくは、そういった考えを前提にしているとのローカルルールを決めておいた方が良いかもしれません



まったくその通りかと
未だに(記・紀)の内容を語るとき『カムヤマトイワレビコ』ではなく『神武』との記載が見受けられますので

75 ::2006/12/16(土) 20:44:49
>>73老教授

>実際、本当に狗奴国と「物理的な戦争」があったのかどうかさえ疑わしいですし

一般的な見方ですと『狗奴国』との戦争状態がさも常識的なようですが、この根本的起因
はなんなのでしょう。
文献を斜めから読もうが、逆さに読もうが
狗奴とのトラブルを見つけることができません。

76 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:50:12
>>1
お邪魔させていただいております。では今回は簡単に・・・。
後日詳細を各種論文ソースを含めてご提示させていただきます。

>大水路(大溝・小溝)
ご存知の様に、前代未聞の大工事です。
掘削技術そのものは既に西日本全域に広まっておりましたが
側板加工技術が吉備のものに酷似しているとの論文が出ております。
ところが唐古でも似たようなものはあるんですよねぇ。
これからがお楽しみです。

>導水施設
纏向オリジナルと見る向きが多かったのですが、加美遺跡(河内)に先んずるものが出ているようです。詳細は居って報告いたします。

>不整形円の土抗(祭祀具の捨て場?)
さあて、これが諸説ありまくり(笑)
単なるゴミ捨て場なのか、葬送儀礼に密接な関係があるのか
はたまた捨てることそのものが儀礼なのか?終わったモノは要らないとの宗教観なのか?
この辺りについての活発なご意見をば、私もお待ちしております。


77 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:52:10
「主に経済的メリットによる連合」はわかるのですが
前方後円墳祭祀もまるで各地の祭祀を足して割ったみたいに
ビジネスライク(?)にできあがるものなんでしょうか?
弥生宗教って結構軽いものだったのかな?

78 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 20:59:37
>>75
ちょっと毒を吐かせていただきます(汗)
皆さんカッコイイ戦闘国家が好きなんですよ。
戦後まもなくから長い間「平和な平等社会」との幻想を弥生は持たれていました。
その後高地性集落などの詳細な研究成果から「侵略と戦争の時代」だと解釈され始めました。
その名残を引きずっておられるのではないかと・・・。
現在では「謀略と権謀術数の時代」だと見る向きが多いですね。

私も考古学的にも文献解釈的にも、トラブルと言いますか「両国間での戦争」は感じられません。
「素より和せず」とは政治又は政策的対立を指していると考えます。


79 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 21:07:42
>>77
>弥生宗教って結構軽いものだったのかな?
実はこれこそが自説(仮説)のキモなんですよ(笑)
最新テクノロジーの付加価値として、宗教がオマケとしてついてきたとは考えられませんか?
あえて想像を飛躍させるならば、こういう事です。
「古来より日本民族にとって神とは技術であり、技術信仰こそがすべての日本宗教の根底である」

ああ、怒涛の反論が目に浮かぶわ・・・。


80 ::2006/12/16(土) 21:08:34
>>73老教授の
>ちなみに「安全」は相応確保されていたと考えられます。
まず環濠や物見やぐらも含めて、防御的施設が一切無い事

この発言は大変意味ある発言かと。
これは基本的に攻撃的ではない種族の経営と、読み取ることができるからです。
古今東西支配地域拡大を試みたことの在る種族なら
例え安定的経営の波に乗ったとしても、必ず無意識的に防御体制を怠らないからです
畿内地域に共通することかと思いますが、
全体に安全地帯を保ってきたように感じ取れるのです。


81 ::2006/12/16(土) 21:18:32
>>79老教授

『・・其官狗古智卑狗不属女王・・』ですので、(官狗古智卑狗は女王直属の部下ではない)
と書いてありますし。
皆さんかなり誤解釈されてるように感じます。



82 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 21:23:21
>鶏形木製品 石見型木製品
導水施設と絡めてですが、畿内特に奈良盆地東南部が山陰と密接な関係を持っていた可能性が高いです。
勿論大和川水系には、吉備の影響が強い集落も複数存在します。
例の楼閣絵図土器片ですが、鳥は寄り神であり生産の象徴でもあったと見る意見に、私は強く惹かれます。

>弧文円板 特殊器台
さあ一番厄介なのが来たぞ(汗)
これも後日やりたいですね。
自説を簡単に言うと「宗教的流行」です。

>韓式系土器 搬入土器(東海系多し)
これに関しては定説に従っておきます。

>纒向型前方後円墳 箸墓古墳
最近、石野先生の「長突円墳」の方が的確ではないかと考え直しております。
円墳プラス方墳では無いと見た方が、成立過程や築造技術的には上手に説明出来るのではないかと。

83 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 21:33:26
>>80
これはあくまでも仮説、いやそれ以前の推測にしか過ぎませんが
「意識して防御施設を廃した」との見方も面白いかと思います。
非常に近代的な例えになりますが、こういうのはいかがですか?
「様々な利害関係にある各クニが、円滑な商取引を成立させるために
 あえて非武装中立地域として纏向を設定した。
 ここにおいてのルールとして、お互いの神に真っ当な取引を誓い合った。
 更に想像するならば、これがウケイの正体である」

実際、考古事実の羅列だけでは面白くないでしょうから
これくらいの脱線は大目に見てやってください(爆笑)


84 :1(スレ主です):2006/12/16(土) 21:36:01
すみません、議論の最中ですが、ちょっと質問。
私は>>30さんの見解には?なんですが、>>30さんが出雲の西谷3号墓に注目されているのは、とてもいい視点だと思うのです。
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/nisidani%20funbogun.htm

で、西谷に副えられた吉備の特殊器台ですが、あれは向木見型ですよね。また中心主体は木槨構造の可能性が言われていたようにも思います。
すると、吉備の楯築墓に、かなり近い感じがします。西谷は四隅突出で、墳形は違いますが、玉・剣の副葬は同じ。また両方とも鏡は、なし。

で、楯築は、吉備の中枢ともいうべき場所(倉敷)にあり、特殊器台は、最も古いとされる立坂型です。
ところがその後につづく向木見型は、吉備中枢(倉敷・岡山市)からだいぶん分布域を拡大しているにもかかわらず、吉備の中枢部に楯築に匹敵するような、あるいは楯築を上回るような王墓が、どうも見当たらないような気がするのです。
なんか、向木見型の時期は、どうも出雲の西谷の方が上になった感じがするのです。
教授は、いかがお考えですか?

85 ::2006/12/16(土) 21:38:42
>>79老教授

>「古来より日本民族にとって神とは技術であり、技術信仰こそがすべての日本宗教の根底である」

ああ、怒涛の反論が目に浮かぶわ・・・。

古代信仰の原点である対象は『女性』 新しい命を(生み出す)ではないでしょうか?
そして、古代の祠の原点が、自然を利用した(夫婦岩) と、考えますが・・・


86 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 21:39:43
今夜はこのくらいにして、飲みにいってきます。
そうそう、前スレにも面白い疑義が提示されていましたので、それも含めて後日参上いたします。
基本的に週1回程度の頻度となりますが、ご容赦くださいませ。

・・・最近、笠木忍ちゃんの後釜に、あいり・めいりがお気に入りです。
こんな私でよければ今後もお付き合いくださいませ。

87 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/16(土) 21:50:31
鋭いご指摘が同時に来ましたので、オマケ。
>>84
同意見です。ただ楯築が特異点と言うか、とんでもない例外である可能性はまだ捨て切れません。
吉備と山陰の密接な関係は、後期前半の出土土器からも明らかですし
両者が独自性を発揮するのは、やはり後期後半から終末期にかけてですから。
>>85
それら(生産)を安定させる為の技術や祈りに対して、より効果的なものをチョイスしていったとお考えください。
言い換えれば、効果が薄いものが消えていった。
それが終末期から古墳前期にかけて、一段と加速したと考える次第です。

88 :1(スレ主です):2006/12/16(土) 21:52:57
老教授さん、Aさん、ありがとうございました。
また論じ合いましょう。
わたしもちょっといっぱい、行ってこよ♪〜

89 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 21:54:37
おまいらがあんまり無邪気に質問攻めするから
教授いっちまったじゃないか

90 ::2006/12/16(土) 22:09:11
ありがと

91 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:11:28
>>52
>庄内甕以前に、列島広範囲に出土する土器があったのか?

だから段階的にといってるわけだが。
吉備の土器も山陰の土器も西日本の広範囲で出土するだろ。
その延長線に庄内式の拡散があるといってるわけだが。

>寺沢のいうマキムク型という共通の祭祀方法が各地で取られることも、

その纏向型の設定にかなり懐疑的なのだな漏れは。
そもそも纏向の勝山は纏向型じゃないし。矢塚もかなり怪しい。
それに「マキムク型という共通の祭祀方法が各地で取られる」といっても、
ほとんど布留0以降だろ。物によってはずっぽり古墳時代だったりするし。
纏向型云々という切り口そのものを否定したいところなんだな、これが。
まあ、残念ながら、そういってしまうだけの材料はまだ持ってないのだが。

>地方予選と全国大会の違いだ。分かるかな?

地方予選の延長線上に全国大会があるんじゃないのかね?
地方予選もなしに全国大会が「突然」開催されるなんて、普通はあり得ない。


>相違を決定的に見誤っている。君はずっとそうだな。

こういう人を見下した言い方はいいかげん止めるべきだと思うが、烏賊に?


92 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:12:36
日本の歴史・遺跡・考古学などのニュース専用のサイトはありますか?
あれば教えて下さい。

93 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:35:07
>>91
>>相違を決定的に見誤っている。君はずっとそうだな。

>こういう人を見下した言い方はいいかげん止めるべきだと思うが、烏賊に?

見下しているつもりはないのだが。
そう取られたのなら謝るよ。

ただ君が何に拘っているのかも分からない。
畿内王権の成立が画期的なのは誰もが認めてることだし、

昔ながらの畿内勢力自生説の人なのか?

94 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:52:59
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か

>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。

http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html


743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742
安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。

95 :1(スレ主です):2006/12/17(日) 08:27:31
>>92
>日本の歴史・遺跡・考古学などのニュース専用のサイトはありますか?

考古学ニュースだったら、なんといっても、「考古学のおやつ」サイト、でしょう。
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/index.html

白井さんという方が、おそらく多大な労力を費やされて、維持してくださっています。本当に頭が下がるサイトです。
ただ、各紙のニュース記事に対して直リンクは、されておられません。各新聞社の、「リンクはトップページへ」との世迷い言?に、しぶしぶ従っておられるみたいです。
それで、考古ニュースの記事に速く行き着きたいなら、ヤフーの、「>ニュース>社会>考古学」カテゴリが、お勧めです。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/archaeology/

しかしいずれにせよ、新聞社サイトの記事そのものは、古くなれば削除されていきますから、「これは!」という記事を見つけたら、すぐさま自分で保存しておくことです。
中近世や近代も含む「日本史一般のニュース」となると、考古好きの私では、回答不適任です。日本史板の別のスレへ行ってお問い合わせください。

96 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:21:48
>>93
何を問題視しているかもわからないまま、

>相違を決定的に見誤っている。君はずっとそうだな。

こういう無礼な言葉を投げつけてきたのか?
正直相手する気なくした。

97 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:41:30
>>96
正直、何を問題視してるのか、自分でも上手く言えないんじゃないの?

まわりくどく書かず、要点を書いてよ。

98 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:51:39
邪馬台国体制が生まれた原因というのを、後漢末の動乱と結び付けたい訳だ。
184年黄巾の乱、189年公孫度の楽浪侵攻。204年公孫康による帯方郡設置。
このあたりの後漢の統制力の低下により、それまでの倭国の政治体制に混乱が起きて、
それがマキムク誕生のトリガーになったと。

99 :唐松山:2006/12/17(日) 13:13:51
ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm


 アスス暦  年号より干支を割出す 式です。
B3欄の数字を 干支に直します

=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
この式で神武を見ると 眼からウロコ



100 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 13:14:59
100

101 :唐松山:2006/12/17(日) 15:02:25
ほつま 増し で年表を作りました。  考慮中ですが

チ=治世年数...タ=太子に成る...ア=天皇に成.ウ=世継ぎ誕生...リ=立太子...シ=死亡 年齢です
m=増し前...天皇に成った年よりり引く(=前の天皇と同じ)
n=増し中...太子が生まれる前に引く
g=増し後...立太子から死亡まで  
太子が生まれてから立てられるまで よく解りませんのであまりいじってありません。
キサキは11才とか在りますので 増しは 適用されていないようです(子供だからか?)。

1年の誤差、訂正されていない所は ご容赦

神武 チ 76 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。シ127。。。。。。。。。m..n..g35
チ 18
綏靖 チ 36。。タ 17.。。ア52.。。ウ 56.。。リ 72.。。シ 84.。。。。。。。。。m.35.n.00.g12
  チ 25。。タ 00.。。ア17.。。ウ 17.。。リ 37.。。シ 37.。。
安寧 チ 38。。タ 21.。。ア33.。。ウ 36.。。リ 45.。。シ 70.。。。。。。。。。m.12.n.00.g26
チ 12。。タ 21.。。ア21.。。ウ 25.。。リ 32.。。シ 32.。。
懿徳 チ 34。。タ 08.。。ア36.。。ウ 00.。。リ 57.。。シ 69.。。。。。。。。。m.26n.12.g12
チ 10。。タ 08.。。ア10.。。ウ 00.。。リ 00.。。シ 19.。。

孝昭 チ 83。。タ 18.。。ア31.。。ウ 75.。。リ 95.。。シ 113.。。。。。。。。m.12.n.44.g14
弟 チ 25。。タ 18.。。ア19.。。ウ 24.。。リ 43.。。シ 43.。。
孝安 チ 103。。タ 20.。。ア34.。。ウ 85.。。リ 110.。。シ 137.。。。。。。。m.14.n.46.g26
チ 32。。タ 20.。。ア20.。。ウ 25.。。リ 50.。。シ 51.。。
孝霊 チ 78。。タ 26.。。ア52.。。ウ 71.。。リ 88.。。シ 127.。。。。。。。。。m.26.n.4.g37
チ36。。タ 26.。。ア26.。。ウ 44.。。リ 57.。。シ 61.。。
孝元 チ57。。タ 18.。。ア60.。。ウ 69.。。リ 85.。。シ 117.。。。。。。。。。m.37.n.5.g34
孫 チ 19。。タ 18.。。ア23.。。ウ 25.。。リ 40.。。シ 41.。。



102 :唐松山:2006/12/17(日) 15:03:16

開化 チ60。。タ 16.。。ア51.。。ウ 59.。。リ 78.。。シ 111.。。。。。。。。。m.34.n.4.g33
チ 24。。タ 16.。。ア17.。。ウ 21.。。リ 39.。。シ 40.。。
崇神 チ68。。タ 19.。。ア52.。。ウ 81.。。リ 102.。。シ 119.。。。。。。。。。m.33.n.19.g18
チ31。。タ 19.。。ア19.。。ウ 29.。。リ 49.。。シ 49.。。
垂仁 チ 99。。タ 21.。。ア42.。。ウ 62.。。リ 79.。。シ 137.。。。。。。。。。m.18.n.13.g60
チ 27。。タ 21.。。ア24.。。ウ 32.。。リ 49.。。シ 50.。。
景行 チ 60。。タ 18.。。ア81.。。ウ 86.。。リ 126.。。シ 140.。。。。。。。。。m.60.n.20.g10
チ 30。。タ 18.。。ア21.。。ウ 26.。。リ 46.。。シ 50.。。

これで 崇神から景行までほぼ90年 たたねこ 長生きしすぎ


増しで  景行 を精査
西暦 239年から 268年
西暦 239年 景行 天皇に成る...60年の増し
西暦 242年 タケウチ生まれる..尾張行幸..ワカタリヒコ生まれる...景行4、5、6,7,8、は同年
西暦 244年 景行12年 熊襲叛く(九州王朝に対し)要請を受け8月15日出立...景行12,13,14は同年
西暦 247年 景行17年 再度出向 九州各地を転戦
西暦 248年 景行18年 クマノガタ平定、閏7月4日筑紫のオオミケ死亡
西暦 250年 景行20年 五百野姫14歳を伊勢より筑紫に入れる(約100人の兵隊、付き人共)
西暦 257年 景行27年 熊襲また叛く 12月コウス下向...景行28=40
西暦 258年 景行40年 武尊(コウス)2月九州と穴門平定、より帰都、10月伊勢、関東下向
西暦 259年 景行41年春 武尊 尾張に帰る、同武尊死亡、
西暦 264年 景行46年 ワカタリヒコを太子とする...景行46、より51年は同年
西暦 266年 景行53年 景行関東下向...(景行52年は、53年と同年として見た方が自然)
西暦 268年 景行55年秋 景行死亡...景行55年、=景行60年



103 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 15:46:58
卑弥呼の邪馬台国は佐賀県、狗奴国は九州南部。

その同時代に、畿内のマキムクで崇神天皇の政権が肥大化しつつあった。


104 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 16:15:53
>>97
またそうやって人を見下すようにものを言う。

もう一度読み返してみなよ。
あんたが「突然」を示す根拠として上げたものはすべて否定されてるだろ。
つまり、「突然」じゃなくて弥生後期からの連続した動きの中の
最終段階として大連合があるんだ。

くどいが、「突然」じゃない。連続した流れ。

長い歴史の中で古墳時代初頭が画期であるのは事実だが、それは庄内の初めじゃない。
実際の畿内王権の影響力が全国に及ぶのは布留0になってからで、
庄内は弥生時代から古墳時代への過渡期にあたっている。
庄内の間に列島(特に東海以西)のありようが大きく変わったという意味で
庄内全体を画期と呼べる。

実際に、吉備の独自の祭祀も、山陰の四隅突出型墳墓の祭祀も庄内の間は継続している。
それが畿内型の祭祀にリプレースされるのは布留0になってから。

弥生時代におきてきた「くに」の連合の延長に大連合があり、
大連合がおきた後で、画期といわれるような変化があり、
布留0に完成した。

以上。

105 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:21:35
>>104
はあ、庄内より布留に画期があったって言いたいんだね。

確かに吉備や筑紫が本格的に畿内王権に参画したのは、布留以降だと考えてるんで、
それは僕の考えとも近いんだが。


>あんたが「突然」を示す根拠として上げたものはすべて否定されてるだろ。

この辺りよく分からない。否定もなにも、君が「突然じゃない」と言ってるだけだと
思うのだが。

まあ、正直、突然でも画期的でも、用語はどちらでもいいので。
君が「突然」という単語に拘ってるなら、画期的という言葉でもいいよ。
まあ。エポックメーキングって、普通、突然起きることだけどね。

106 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:46:36
>>105
>この辺りよく分からない。否定もなにも、君が「突然じゃない」と言ってるだけだと
>思うのだが。

つまり人が書いたものをろくに読まずに人を見下して適当にレスしていると。
ほんとうにふざけた男だな。参加するだけ無駄みたいだから消えるよ。

107 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:27:13
>>106
いや、読んだ上で分からないと書いてるんだが。
感情的な反論は止めてくれ。

庄内のマキムク造営開始とか、それまでの畿内勢力を考えると、
突然、じゃなかった、画期的だとは思わないか?

結局君の言わんとしてることは、
見る銅鐸を共通の祭器とする畿内王権のようなものが、
マキムク以前の弥生後期からあって、庄内に画期的に成立したものじゃない
という主張?

108 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:53:24
庄内開始が卑弥呼共立の頃、2世紀末〜3世紀初頭だとすれば、
布留0は西暦250年くらい。卑弥呼が死んで、箸中山を造った頃になるか。

卑弥呼共立を画期と見るか、初の前方後円墳に卑弥呼が埋葬されたことを画期と
見るかの議論。

結論は、どっちでもいいだろう、ということ。
どっちも画期的だっただろうし、あえて一つに絞る必要などはない。
お疲れ。

109 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:32:07
やれやれ。はじめからいかないと駄目かい。

最初はこれだった。

>>29
>昔から疑問なのは、
>何故庄内の初めに突然、倭国大連合(邪馬台国体制)が誕生したのか?
>という事。

ここで発せられている疑問は【誕生】が【突然】であったということについて。
それまでの流をたち切って誕生が突然であるということは、
そこに突発的な何がしかの事象が生じたことを意味していて、
それゆえに上の『なぜ?』という疑問が出てくる。

それに対して【誕生】は【突然ではない】と書いたわけだ。
誕生が突然でなければ、ここでいう『倭国大連合』の成立の事情を考察するには
弥生時代の後期後半の社会的な構造や要請というところから考えていけばいい。

だから、【突然誕生した】のか、【連続的な流れの中で誕生した】のかでは、
議論の方向が全く異なる。それだけ重要な違い。

(続く)

110 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:33:54
で、突然と考える理由をきいたところ、

1)庄内の拡散
2)旧来の集落構造の解体
3)纏向型の広がり

があげられた。でこれらの点について、

1)庄内の前に吉備系、山陰系の拡散があり庄内式の拡散はそれの後追いをしただけ。
つまり庄内の拡散はその前代からの事象を引き継いだだけのもの。(>>30)

2)集落構造の解体も弥生時代の後期のうちから徐々に始まっているものであり、
その弥生時代からの動きの最後の段階が唐古などの環濠の埋没なのであり、
これも前代からの連続した事象である。(>>51)

3)は纏向型といわれているものは古墳が定型化した布留0期以降のものが大半であり、
『倭国大連合』の【誕生】の【突然性】を示すものではない。そもそも纏向に纏向型でないものがあるなど、
纏向型という類型化そのものが疑問である。(>>91)

以上によって【突然誕生した】という根拠は消滅した。

111 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 08:48:09
>>109-110
何か特別な理由などなく、倭国大連合が弥生後期からの流れから必然的に生まれた、ということかい?

しかし倭国全体の連合化の流れが必然と、言い切るのはどうだろうか?
庄内の直前に、何らかの契機、例えば公孫氏の楽浪侵攻(189年)
とかがあったためではないだろうか?

112 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:33:50
そもそも各地域毎に首長連合が出来ていったのは、
各地域同士が競争関係にあったからだと思うよ。それが倭国乱だったんだろうし。
高地性集落を見ても、一筋縄に倭国大連合が出来たとは思えない。
むしろ小規模の争い、小競り合いは日常茶飯事だったんじゃないのか。
そのような地域間競争を、突然終息させたのがマキムク王権であって、
それには高度な政治的決着があったのではないか、
というのが私の説。
ていうか寺沢説だな。

113 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:53:30
このスレで、畿内説の話しもされているのですね。
では、趣旨に沿っているかわかりませんが、
気になっています事の質問をさせてください。

よく言われます、玄界灘沿岸と比較して、
マキムクの鉄の少なさについてです。

比較される玄界灘は、近代まで日本の海外交易の拠点で、
鉄鉱石の産地である韓半島にも近く、
ある程度裕福な商人であれば、
鉄製品を簡単に手に入れられるから、
鉄が多く出たと考えていいのでしょうか?

大水路や大型古墳などは、
鉄が無くても出来るものなのでしょうか?

熱田神宮に保管されている草薙の剣は、
銅剣ではないかと言われていますが、
鉄が少ない事が、諸国を抑えるのに不利になったりするのでしょうか?

114 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:09:46
銅鐸の消滅と纏向遺跡の出現の関係はどうなんだろう。
なにやら、武力の影がちらほらするのだが。

以前の寺澤説では、近畿地方はこの時期、過酷な運命を辿ったと言っていたように
記憶しているのだが。

115 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:09:57
ここの畿内説の人は、全ての根元は畿内から起こった、
全ての広がりは畿内から始まった、
全ての起源は畿内でなければならない人達だから
あまり真面目に討論しても疲れるだけだよ

116 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:27:07
何故マキムクに竪穴式住居がない都市みたいなのができたのか
経済連合の中継都市とか同盟の証としての都市とか言われてるけど
俺は信仰の聖地としてだれかがここだとか言い出して作ったような気がするんだよなあ

117 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:27:44
おまえの脳内の話か?相変わらず成長が無いなw

118 :唐松山:2006/12/18(月) 18:42:12

崇神6年を 西暦193年と見ると合点が行きます。
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。

この飢饉で出雲の国は、崩壊(種籾まで食べ尽くした)
国譲り



119 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:33:04
>>118
>伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、
>食糧を求めて千余人も来た』とする。

これに関して、その朝鮮史書の年代に疑問を感じる。
そもそも、その朝鮮史書は、西暦10世紀以降に書かれたもので
楽浪郡なんかも無視している。


120 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:19:04
>>115
そんな大和中心史観の畿内説は、かなり減ったと思うが。

庄内に各地のオウが集まって出来たのがマキムク。
明治維新とか鎌倉幕府とかのような政体を想像して貰えれば。

121 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:52:17
>>113
畿内の鉄の過少についてはよく言われてます。
弥生後期、畿内の石器量減少からも、鉄がある程度普及していたのでは?
と言われてます。
しかしまあ、鉄に関しては圧倒的に筑紫>畿内であることには変わりがないです。

酸性の土壌で溶けたとか、希少な鉄を何度も再利用したとか。
なかなか苦しい言い訳をしてます。

ただマキムクの大土木工事や、ホケノの鉄副葬を見る限り、
少なくとも庄内以降は、畿内でも鉄器がある程度あったとみていいでしょう。
ただそれでも、筑紫>畿内の図式は変わらないのですが。

122 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:57:05
おまえら、あんまり知らないだろうが
外国からの輸入品が多いのは
古代に限らず、中世、近世を通しても変化がない。
鎌倉時代だって、博多が一番、栄えていたというし
戦国時代だって、九州の大名が最初に鉄砲隊や大砲を装備した。

でも、結局、日本列島内での政治的・軍事的に強いのは
畿内以東の勢力。

123 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:00:54
>>122
明治維新は違う。

124 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:07:52
>>123
それが工業化革命ってやつでしょう?

農業時代とは明らかに性質が違う。


125 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:23:08
>>122
維新は西側の薩長によって
江戸幕府が倒されたことをお忘れなく

126 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:41:28
>>125
だからさ、それが工業化社会の前兆ってのだろう?
農耕社会では、基本的に
農耕生産量=人口=動員兵力がものをいう。
でも、工業化社会では、それ以外の要素が大きくなる。


127 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:06:27
>>125
維新によって首都が九州に置かれたという事実はない。

128 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:23:50
>>127
源頼朝は京都ではなく鎌倉に幕府を置いた。
徳川家康は、三河ではなく江戸で幕府を開いた。
薩長は、東京に首府を置いた。
日本の伝統かな?

>>126
言っている意味がわからない。
古代でも、金属器特に鉄器が重要な役目を果たしたのは、ヒッタイトを見れば
明らか。それに弥生時代後期の畿内の人口は多くない。
むしろ、少ない。南九州の半分以下と考えられている。北九州より少ない。

129 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:48:00
>>128
食料生産量の方が重要だったんじゃないか?
動力も人間や家畜だしな。

130 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:52:31
>>127
笑っちゃう屁理屈だな

131 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:42:39
>>126
倒幕と工業化は関係ない
適当な理屈を振り回すな

132 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:18:43
>>130
負け惜しみだけがお上手で。

133 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:24:01
>>128
弥生後期の畿内の人口は分かってない。

ヒッタイトと日本の地形は違う。

134 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:33:48
畿内が北部九州に比べ、極端に遅れてた、ってことはないでしょう。
一応、マキムク大連合の首都に選ばれてるくらいだし。
唐古鍵の大環濠も鉄を使ったとみるべき。

135 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:42:07
ではなぜ、弥生後期の畿内で鉄が殆んど見つからないのか、というと、
それは弥生後期に畿内に首長墓の発展が見られないことと根が一つだと考える。

つまり、北部九州などにくらべ階層化が進んでいなかった畿内では、
鉄などの希少財産は部族で管理され、個人の墓に副葬されることがなかったためではないか、と。
都出の意見に近いと思うのだが。

136 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:35:24
>>135に付け加えると、マキムク以降は爆発的に畿内からの鉄器出土が増える。
それまで無かった副葬品も含めてだ(ホケノ山)。
これを北九州や吉備の影響下と見る説もある。
少し前までは鉄器輸入ルートの簒奪だとする説もあった(白石)が、今では少数意見。

庄内以前は明らかに北九州のほうが鉄の出土が圧倒的だが、一気に逆転している。
しかし村上や北條が提示したように、木材加工に必要な最低限度の鉄器はすでに関東まで普及していた。
唐古鍵の大環濠やマキムクの大溝などは、それらで加工した木製工具で築いたと見られている。

137 :136:2006/12/19(火) 14:00:37
そこで老教授氏に質問です。
私はマキムク造成の実労働勢力としては、阿讃、畿内、東海などの周辺諸国。
プロデュースの役割を北九州、吉備が担っていたのではないかと考えています。
蓋然性からいえば、この確率が一番高いと思いますがどうでしょうか。

もうひとつは氏の指摘する、わずかに成立可能性の残った九州説を具体的に書いてもらえませんかね。
いい加減、ここに跋扈する妄想九州説にはお腹一杯ですから。


138 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:28:10
弥生時代後期で、鉄器の出土が圧倒的に多いのは熊本。
熊本を南九州とするならば、北九州よりも南九州のほうが発展していた可能性
もある。また、地元で取れる褐鉄鉱で自給していたこともわかっている。

また、鳥取県の青谷上寺地遺跡から出土した人骨の傷は、鉄剣か鉄刀によるもの
であるされる。時期は2世紀後半(弥生時代後期といったほうが無難かも)。
青谷上寺地遺跡からは、殺傷痕を持つ多数の人骨が出土しており、その中には
女性や子供も含まれる。よその地域から攻撃されたものと思われる。

鉄器の普及に関して畿内はかなり遅れていたものと思われる。
むしろ、北部の近江あたりのほうが畿内よりは進んでいたとされる。

139 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 18:29:19
弥生の鉄に関して、九州や山陰にくらべ、畿内が立ち遅れていたのは、
みんなの言う通りだと思う。俺もまったく異存はない。
だが、138氏の次の3行は、本当か? 信用して大丈夫か?
>>138
>弥生時代後期で、鉄器の出土が圧倒的に多いのは熊本。
>熊本を南九州とするならば、北九州よりも南九州のほうが発展していた可能性
>もある。また、地元で取れる褐鉄鉱で自給していたこともわかっている。

とくに、おしまいの、「地元で取れる褐鉄鉱で自給していたこともわかっている」、だ。
そんな製鉄遺跡が見つかってるのか? 俺の勉強不足かもしれんが、具体的ソース希望。

140 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:37:27
136氏にも訊いておきたい。大筋では同意見なんだが。
>>137
>私はマキムク造成の実労働勢力としては、阿讃、畿内、東海などの周辺諸国。
>プロデュースの役割を北九州、吉備が担っていたのではないかと考えています。

ここで出てきた国名だが、>>1に挙げてある国々より、ちょっと数が少ない。
抜けてるのは、出雲、播磨、丹波。
まあ、播磨と丹波は、君の言う「周辺諸国」に入るだろうから、問題は出雲!
出雲勢力がマキムクにどう関わっていたか、君の考えを聞いておきたい。
仮説でいいからさ、それを提示しておくと、老教授の回答が楽しみになるだろ。

141 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:22:00
庄内で、畿内の鉄が爆発的に増える、というのは、白石が言っていた
畿内による鉄ルート奪取説と同じじゃないか。

村上の言ってるのは、庄内以降、畿内>九州にはなっていない、
畿内は九州の鉄ルートを奪取していないとの反論でしょ。

142 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:37:24
>>140
吉備筑紫のプロデュースと言うが、「なぜマキムクを造ったか」の理由を
聞きたいな。

弥生後期からの連合化の流れがあり、当然の帰結と言う人もいるが、
自らの本拠地を遠く離れて、都やら古墳を造るという行為は、
そんなに単純に説明できるもんじゃないだろうと。

143 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:54:50
>>142
発言を捏造しないように。必然性があるなんてことは一言もいってない。
書いてないことをひたすら読もうとする者には正直付き合い切れない気分だ。

そもそも歴史に必然なんて存在しないだろ。
人間は多数の選択肢の中から偶然に左右されながらある特定の一つを選択し、
そして現在残った歴史がある。

144 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:19:13
>>143
じゃあ君は「なぜマキムクが造られたか」をどう考えるの?

145 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:20:02
>>139
確か、村上氏も著書で同じことを言っていたと思うが。
たとえば、阿蘇の小野原遺跡でもそのようになっていた。

http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/hakkutsu/kekka/konobaru/

このページのQ6あたりに書いてあったと思う。

146 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:26:03
>>136
>マキムク以降は爆発的に畿内からの鉄器出土が増える。
>それまで無かった副葬品も含めてだ(ホケノ山)。

ホケノは阿波の影響が強いと見るべきだろう。

以前にも言ったことがあるが、鉄の多寡のみで古代史を語るのはどうだろうか?
いい加減、北部九州を過大評価するのは止めた方がいい。

吉備にしても、近藤が言ってるだけで、実際畿内王権に参画したのは、
布留以降と考えるべき。
浦間茶臼山など、畿内とは別に王墓を造っており、畿内王権とは明らかに
別の王権があったと見るべきだろう。
倭人伝でも、投馬国とされ、邪馬台国とは別国とされている

147 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:27:49
でたな。こっちが言ってもないことまで微妙に付け加えたり
勝手に言い換えたりして、どんどん煙に巻いていく手法
ここの畿内説の人と議論すると最後はこうなる。もう病気だよ

148 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:34:52
>>147
誰に対して言ってるのかも分からんし、
最低限、もうちょっと会話のキャッチボールしようという意思を見せてよ。

正直こういった書き込みは、見ていて気分のいいものじゃないな。

149 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:52:44
本人にはわかってるからいいんだよ。
それ以外の人はそんなことしないんだから

150 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:03:47
>>149
気持ち悪いレスだな。

151 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:12:46
>>150
ほんとね。客観的にみれば気持ち悪いと思うけど
ここの畿内説の人にはそれだけ陰湿なことされてきたんだよ
本当のことだけどもうやめとくね。議論どうぞお体お大切に

152 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 00:10:56
脱線なんか九州説の方が多かったけどな

153 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:31:05
>>145
リンク先を見てきたが、弥生の熊本で鉄器を、「地元で取れる褐鉄鉱で自給していた」、なんて一言も書いてない。
君は、鍛造と鋳造の区別も、できないのか。
鉄鉱石から地金をつくるにはまず精錬しなければならないが、それも理解していないようだ。

日本列島で鋳鉄用の炉が使われるのは、古墳時代も半ばを過ぎてからだ。
弥生の鉄利器は、鍛造か、タガネを使って工作したもの。
地金はすべて大陸(半島)から輸入していた筈だ。
阿蘇谷の小野原遺跡でも同じだろう。製鉄の炉が無いのだから。

ベンガラは、鉄利器ではない。ありゃ赤い色を出す顔料。
それなら褐鉄鉱を焼けばいいから、小野原遺跡でもできただろう。
それと鉄器とを混同するな。

154 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:34:46
>>146
>浦間茶臼山など、畿内とは別に王墓を造っており、畿内王権とは明らかに
>別の王権があったと見るべきだろう。
>倭人伝でも、投馬国とされ、邪馬台国とは別国とされている

浦間茶臼山をどう評価するか、という問題に関わってくるが、君の意見には賛成できない。
浦間茶臼山古墳(岡山市)は全長138m。都月型の円筒埴輪が出ている。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu15.htm

一方、箸中山(箸墓)古墳(桜井市)は、全長約280m。
都月型円筒埴輪も出ているが、それに先立つ宮山型特殊器台も多数の樹立が報告されている。
したがって、箸中山の築造は、とうぜん宮山型の時期まで遡る。

箸中山と形状はそっくり、サイズは2分の1、しかも箸中山より明らかに後でつくられた浦間茶臼山を、
どうして、「畿内とは別に王墓を造っており」、などといった評価ができるのか。
明らかに、畿内王権下の前方後円墳体制に組み込まれた古墳だ、と俺は思う。

投馬国に、王名の記載はない。あるのは官名である。「官曰彌彌、副曰彌彌那利」。
このことも併せ、ぜひ再考してほしい。

155 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:55:03
>>153
スラグが多量に検出されているので、製鉄の可能性が高い。示したHPにも
そのように書かれていたはず。スラグは、ベンガラを作った残滓という説も
あるらしいが、では、どうして朝鮮半島から遠い、阿蘇で大量の鉄器が
出土するのか。大陸に近い福岡県とは比較にならないくらいの大量の鉄器が
出土する理由がつかめない。

また、単に、製鉄の有無を否定するだけで終わる問題ではないと思う。

重要なのは、弥生後期において、熊本県が圧倒的な鉄器の出土を誇ること。

抜粋すると、『阿蘇町では、今までに狩尾遺跡群、下山西遺跡、陣内遺跡、
宮山遺跡など、弥生時代の村跡が発掘調査されました。これらの調査の特徴は、
鉄器の量が際立って多いことです。小野原遺跡でも、1,200点以上の鉄器が
出土しています。』とある。

また、『玉名郡岱明町の斎藤山貝塚では列島最古の鉄器(鋳造鉄斧片)が
発掘され、菊池郡大津町の西弥護免(にしやごめん)遺跡では
当時の列島内出土鉄器量を倍化させる鉄器が出土し、玉名郡菊水町の
諏訪原(すわのはる)遺跡では鉄器製作に伴う廃棄鉄片が確認されています。
また、山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡では、多量の鉄器と
ともに石包丁の形をした鉄製品(国内3例のうち2例)が出土するなど、
熊本地域の鉄器は質量ともに豊富な内容を備えている、と認識されていました。』
とある。

阿蘇では、鉄器製作をしていた村がたくさんあるとも書かれている。

要するに、九州は北九州だけではない。弥生後期の鉄器は熊本。
古墳時代になると、宮崎が九州の主役になる。

156 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:00:45
畿内説の常套手段なんだよな。

>こっちが言ってもないことまで微妙に付け加えたり
>勝手に言い換えたりして、

勝手に言い換えて自分が言ってないこと付け加えて勝手に展開・自己完結する。
はっきり言って、必死にごまかそうとしているとしか見えん。

157 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:09:20
>>156
それはいえるかもしれない。こちらはベンガラについては一言も言っていないのに
勝手に「ベンガラは鉄利器ではない。(中略)それと鉄器とを混同するな。」
だって。言ってもいないことで怒られた。

それはともかく、赤色顔料のベンガラもけっこう重要かもしれない。

158 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 08:38:16
>>154
初期ヤマト王権は連合政権と考えてるので。
吉備は相対的地位は低くても、
別国であった可能性は高いと思う。

あくまで吉備がヤマトの前方後円墳を取り入れただけで、同国化したとまでは言えないのでは?

栄えていた河内地方に初期古墳が見られないのは、ヤマトからの何らかの規制があったと考えられ、
つまり河内がヤマトの直轄地であったためだろう。
七万戸は恐らく大和川水系、大和・中河内のことであり、
邪馬台国の直接支配はこの範囲まで。

それ以外は卑弥呼を共立する盟邦に過ぎないだろう。

159 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 08:49:32
>>157
おかしな書き込みで粘着してる奴に同意してると自演だと思われるぞ。



160 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:44:45
結局、マキムク最大の問題点は、遺跡の実年代が何時か、てことだろよ。
遺構・墳墓・遺物、いろいろ出てるんだから、それらを吟味すればよろしい。
邪馬台国は九州だからマキムクはもっと遅いぞ・・・・なーんてのは、本末転倒。

けど、邪馬台国=マキムクだから纏向は3世紀前半だ・・・・てのも同じく本末転倒。
マキムクの年代を知る手掛かりは、纏向遺跡の中にないのか? そんなことねえだろ。

161 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:22:32
>>158
連合国としての首都マキムクを建設した。
そして吉備のようなクニの有力者もマキムクに住み。
次第にマキムクの経済的基盤として河内が発展していき
地方の代表として集まっていた有力者家系も畿内系になっていく。
マキムクの経済的基盤だった河内が政権を奪取して応神王朝誕生。

こんなところでどうですか

162 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:51:48
>>161
どうですか、と言われても、それはダメなんですが、
あなたの考え、というか、「考え方の態度」、といったらいいのかな、
あんがい褒められるべき点もあるように、私には思われました。
それは何かというと、古代の氏姓制度等へつなげる歴史的な視点ですね。
こういってはナンですが、邪馬台国九州説の、とくに極端な妄説を書かれる方は、
位置論しか眼中になく、方位や旅程・里数だけをイジッテひとり悦に入ってる、
そんな方が多いような気がします。
遊戯パズルみたいで、ぜんぜん歴史を論じる態度とは思えません。
あなたの、「河内が政権を奪取して応神王朝誕生」、には全く賛成できませんが、
レスの前段あたりは、氏姓制度の芽生えを匂わしておられるようにも読め、
久々に好レスが来たように感じた次第。
マキムクをあつかうこのスレも、もっと古代ー中世…という流れを意識し、
きちんと歴史学の問題として論じてくれないものか、と思います。

163 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:32:07
考古学の遺跡だけじゃ、古代史は分からん。
ちゃんと記紀を解読しないとね。

考古学で分かることといえば、3世紀中期に
マキムクに全国の物産を集約する一大拠点が誕生しただけ。

それと、記紀の崇神天皇〜景行天皇の記述が一致するので
今、注目されている。

164 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:24:37
>>163
古代史の研究は、文献史学と考古学とが相補って、深められていくものだと思う。

垂仁陵は、考古学者の中には、疑問を持つ人がいるぜ。

165 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:45:31
>>163
庄内開始が3世紀中期ですか。
かなり古い考え方ですね。

166 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:39:40
史学のほうでは「記紀王統譜の否定的解読がいまだに圧倒的に主流」
        (↑と、先日某講演会で聞きました)
だそうですが、崇神、垂仁の実在を疑う論は最近のも含めて聞いた事がない。
(景行、応神捏造説)は若い先生たちの学説でもいまだよく聞く。
なぜ崇神垂仁親子のみが、あらゆる王統譜批判論のなかで
実在ないし古伝承の実在、を否定されずにいるのか。不思議でなりません

167 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:55:52
系図で分かりやすくすると

スサノオ(宇佐の王)━(数代)━┳神武天皇
                    ┗━━(数代)━━卑弥呼


168 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:56:41
>>166
それって、どういう学会ですか?



169 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:02:16
>>166
それは、マキムクの件と三韓征伐の件があるんでしょう?
マキムクが出てきたから、崇神は否定しようが無い。
ただ、応神の場合は、三韓征伐の件があるから
マルクス史観の関係から、なかなか圧力があって抜け切れない。

結局、何が何でも、正史の天皇家の年代を修復しなきゃいけない。

そして、神代の部分での一部の改竄(天照が男なのか?
スサノオは出雲神話ではなく、宇佐神話なのか?
神武東征の地は、宮崎ではなく、本当は宇佐の日向じゃないのか?)
の部分を修正していくしかない。

なぜ、持統天皇・藤原氏が記紀の一部を改竄したかといえば
天皇家にとって本来の宗家だった物部氏を追い落とす意図があったはず。
物部氏は日本全国に根をはっていた勢力だから。

170 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:36:48
>>169
こういう陰謀説に取り付かれた九州説論者が
学問の発展の足を引っ張るんだよな。

171 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:46:24
>>170
陰謀論は不味いけど、
でも、なぜ、持統天皇や藤原不比等が記紀を改竄しなきゃいけなかったのか?
ということから考えないと、なかなか答えが見えてこないから。

よく、「記紀は嘘っぱち!」という意見を言う人が居るが
じゃあ、なぜ、持統天皇や藤原不比等が記紀を改竄しなきゃ
いけなかったのか?
いったい、彼らは、どの部分を改竄したかったのか?
そういう部分から考察しないとなかなか見えこてこないよ。

本当のところを言うと、新しい史料が発掘でもされないかぎり
確実なことは見えてこないが、よく物部氏系の神職の人の多くが
伝承で、天皇家は自分たちと同族だったとか、
天皇家は元々は分家の家系だったとか、
天照は実は男だったとか、そういうのをよく聞くから
そのせんから調べていかないと駄目なわけで。


172 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:13:15
>>171
物部氏とかが天皇家と同族だったというのは
神代系図からいったら、その通りだわなw
ただ、天皇家は男系思想で、女性神・天照の父なし子だから、
男系で見たら、物部氏は天皇家とは別系統。

ああ!!、その天照がもし男だったら、様相が違ってくるのか?

んじゃ、天照を男から女にしたのは、
天皇家が自分の家系を物部氏などの同族から分断したかったため?

173 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:49:30
記紀は、天皇家を権威付けるためのでっち上げ、デタラメだ。
と言う人に限って記紀から何を隠蔽してるか読み取ろうとするよね・・
普通に読んで分るような秘密ならそれは隠してると言えないのではないだろうか?

174 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:16:06
>>172
物部氏というのは、天皇家と同じで、イザナギの末裔を名乗っていて、
どちらも、元々は高木神を祭っていた。

そして、物部氏は日本全国に分家が多く居て
そういう意味では、神武天皇後胤の天皇家や蘇我氏や
中臣氏から分派した新興氏族の藤原氏を遥かにしのぐ勢力だった。

ひとつ違えば、神武天皇の後胤である天皇家を
屈服させる力があった。どちらも、同族だしね。

だからこそ、天皇家は自分の先祖にアマテラスという女神を挿入することによって
男系では物部氏と家系を断絶させる必要があった?

175 :174の続き:2006/12/21(木) 13:21:21
本来、高木神が皇祖だったはずの天皇家が
アマテラスという新興の女神を作り出すことによって
世間では、そちらのほうが皇祖ということにした。
そうすることによって、物部氏を皇祖の子孫から外した。
ただし、宮中祭祀では未だに高木神を皇祖と扱っている。

また、高木神のほうも昔と同じままではなく、
様々な神様を合体させることによって
高皇産霊神という意味合いが少し違う神様を作り出すことによって
元の原型を隠す必要があった。

176 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 15:09:36
>>173
大人は嘘からも真実を見つける事ができるのさ。

例えば九州説は、文献や考古学からの我田引水が甚だしいものだが、
よく読めば大事なキーワードが見えてくるというようにね。

それと文献や考古学のキーワードだけではなく、
世間から相手にされず、学会からも見放されて路頭に迷い、
それを不当な圧力だと思い込んで妬んだり荒そうとしたりする
九州説論者の姿そのものなんかもね。

177 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:14:38
どんな史書だって、嘘と本当があるだろうw

それを、どこが間違っていて、どこが真実なのか
それを見極めるのが学問だと思う。

自分は邪馬台国に関しては、九州の宇佐と思うよ。
ただ、卑弥呼の死後、東征なんて無かったと思う。

卑弥呼以前に、宇佐の日向から出て
高天原(金剛山高天台)にある本家へ入婿に入ったのが神武天皇だと思う。

詳しい年代に関しては
サガミハラハラさんの研究に任せるしかないw

178 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:26:55
日本書紀によると、ニギハヤヒ(饒速日命)は、天磐船に乗って高天原から
やってきた。その一族が、あとになって日向からやってきた神日本磐余彦
(神武天皇)と戦って敗れる。
ニギハヤヒは神武天皇に忠誠を誓い臣下となる。これが物部氏の先祖。
したがって、饒速日命と神日本磐余彦が同族であることは記紀に示されている。

要するに、記紀に従えば、それなりに筋の通った一つの歴史が見えてくる。
この記紀の歴史が自分の思っているのと違う場合、自分の考えを修正するか
それとも、記紀は間違っていると主張するかのどちらかになる。

179 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:39:47
>>178
自分はそこで、天皇家が万世一系の男系継承にこだわっているのに
なぜ、自分の先祖に、アマテラスという女性神を入れて
彼女が夫なしに、天皇家の先祖を産んだのか?疑問に感じていたんだよ。
この男系継承というのが大きなキーワードだった。

この場合、天皇家というのは男系で見たら、アマテラスの次から始まっている。
しかし、アマテラスがもし男だったら
天皇家の最初の先祖はイザナギということになる。
これは、物部氏、出雲国造、海部氏などと同族ということになる。

物部氏の子孫の伝承で、アマテラスは男だったというのがあるけど、
そこに秘密が隠されていると思ったわけ。

180 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:08:56
マキムクは生活痕のない広大な区域を有する遺蹟だけれど、
なんでみんな"倭国大連合の首都"とか"新タイプの文化都市"とかドリーミングなの?

ここで、"造営中に破棄された首邑"というのはないかな?
各地から有力者を招聘するにあたって物産を掻き集め、広大な邑域を確保したが、
計画主体の連合首脳部が瓦解、いつでも再開できるよう準備は続けられたが、
ついに首邑としては完成せず、放棄された、そういう形では。


181 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:20:21
>>179
皇居にある三殿の真ん中にあるのが賢所で天照大神を祀ってある。
ちなみに、賢所の両脇にある、神殿は八百万の神様を祀ってあり、降霊殿は
歴代の天皇が祀られている。
また、全国に何万とある神社の中で別格の扱いを受けている伊勢神宮も天照大神を
祀ってある。皇室にとって天照大神が最も重要なのは確かだと思う。

記紀によると、天照大神は独身で夫はいない。ただ、天の安河の誓約のとき
天照大神の首にまいていた五百個の御統の玉を須佐之男命が噛み砕いて
噴出したときに生まれたのが天忍穂耳命となっている。

天忍穂耳命の子がニニギノミコト(邇邇芸命)で日向に天下りする。
ニニギノミコトのひ孫が神日本磐余彦(神武天皇)になる。

このようにみると、天照大神は女性でないほうが、物語としては完璧なものが
作られたような気がする。独身の女性ということで、連続性に疑問が
出てくるわけだし。

このことから、むしろ、女性である天照大神を外すことは出来なかったと
考えるべきではないかと思う。つまり、実在のモデルがいたということ。
しかも、その女性が皇室にとって非常に重要な存在だったと考えられる。

個人的には、ニニギノミコトの母系の祖父である高木神(高皇産霊尊)も
非常に重要な存在だと思うのだが。

182 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:39:48
神代のなかでは、アマテラスやスサノオの親である
イザナギから、男女の営みによって
子供が生まれるという設定になるから
おそらく、それ以降から実在のモデルなんだろうね。

>>181
そう。確かに天照大神を最も重要視しているように思うよ。
ただね...これについて話すと、話が長くなるわな...
実際、中で行われているのは少しイメージが違うらしい。

前から思うんだけど、皇室って万世一系がうりなので
男系で見たら、アマテラスの次から始まるんだよね。

しかし、アマテラスがもし男とされたら、どうなるだろう?
おそらく、イザナギから皇祖が始まるということになる。

じゃあ、もしアマテラスが男だったとして、なぜ、女に変えたのか?
それは、イザナギが皇祖だと不味いから。
更に掘り下げてみると、イザナギから男系で繋がっている一族と
同族扱いされるのは、まずいからとも言える。

183 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 22:19:22
こんばんわです。
ざっと拝見したところ、論点の共通認識がなされていないやり取りがいくつかあるようですので、ここはひとつ簡単な纏めを試みてみましょう。
まず庄内開始時期の実年代ですが、西暦200年前後と見る事で宜しいでしょうか?
それ以外の時期を前提とする説をお持ちの方は、まずその旨を明記の上自説展開を願います。
次に鉄器保有勾配ですが、基本ラインとして村上恭通氏の見解に沿うと言う事で合意しませんか?
ただ村上氏は鉄器保有量と国力は正比例しないとの見解をも同時にお持ちですし、それに対する的確な反論も見当たらないようですので、これまた基本ラインとして抑えて置くべきですね。

184 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 22:36:54
老教授さんこんばんは。

>>138〜157あたりの、熊本の鉄器の話題については、
事実に即してはいるということでいいのでしょうか?

しかし、九州説の方から、人口においても九州は特に多かったという説もあり、
東日本の方が人口が多かったという説もあり、
そのあたりはどうだったのでしょうか?


185 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 22:39:58
さらに鉄器に関しては、出雲(と言うより山陰全般ですね)、丹後、伊予、阿波などからも次々に出土報告が上がっています。
>>145氏からのやり取りにもありますように、肥後を中心とした加工遺構の分布は無視できないでしょう。
それとひとつ気になりましたのは、>>153 >>155氏のやりとりにある「鍛造と鋳造の区別」と「スラグ痕」です。
ベンガラ製作の可能性はさておき、私自身も弥生期に「鋳造」はあっても「鍛造」が行われていたとは、現時点での出土遺構からはまだ考えにくいかと思います。
しかしながら、少なくとも半島と同等の「鋳造技術」があったことは認めてもいいのではないかと思いますがいかがでしょうか?
これも出来ますれば共通認識として、前提においた議論がなされる事を願います。

186 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 22:43:15
>>183
老教授さん、こんばんわ。
なかなか議論がマキムクに収斂していかないので、スレ主としてどうしようか、なんか交通整理みたいなことを私がレスしないといけないのかな、と思っていたところでした。
渡りに船(笑)。ぜひ、まとめをお願いします。

まあ、庄内の年代も、鉄器についても、わたしは全く異存はないのですが、他の方々があっさり合意してくれるかどうか…。
でもまあ、それはそれ、しばらく老教授さんにお任せしますよ。
これからどういう点で議論をしていけばいいのか、どういう点がいまマキムク王権を論じるに際して問題とされる点なのか、ぜひ分かりやすくお示しください。

187 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 22:46:17
>>184さん、こんばんわです。
出土事実に関してはその通りかと。
それをどこまで解明し「解釈」するかは、これからの課題かと思います。
人口に関しては、あくまでも「推定」でしかないと見ておいた方が良いでしょう。
特に終末期以前の各クニは政治的に独立していた、つまり各地にそれなりのオウが居たと見られますので、単純に地域単位でのひと括りは出来ないはずです。

188 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 22:47:54
>>185
失礼ながら、「鋳」と「鍛」、逆のような気が…

189 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 22:58:04
>>181
明治時代からだよ。アマテラス信仰が皇室の中心なのは。

欽明から鎌倉まで八幡大神→八幡菩薩が国家信仰だよ。東大寺の規模見ろって。

190 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 22:58:38
>>186 差し出がましいことをして申し訳ありません。
反論に関しては、根拠つき(引用論文)でなら議論対象になるかと思います。

それとひとつ提議させていただくならば
「果たして纏向は、最初から王権の地として開発されたものなのか?それともある時期からそこに王権と呼ぶべき勢力が誕生したのか?」
まずこれについてのご意見を伺いたく思います。
寺澤氏は弥生都市論の条件のひとつに王権の存在を挙げられていますが、王権抜きでも都市として機能した時期が初期にあったのではないかとの疑義が捨て切れません。
むしろ私は初期ヤマト連合の「市および宗教施設」の地が、次第に王権化したのではないかと見るべきかとも考えます。
そこに「天才的イデオローグ」が出現したかどうかは判りませんがね。
「天才的デマゴーグ」は居たように思いますが(笑)


191 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 23:01:33
>>188
やっちまいました(汗)。訂正いたします。

ベンガラ製作の可能性はさておき、私自身も弥生期に「鍛造」はあっても「鋳造」が行われていたとは、現時点での出土遺構からはまだ考えにくいかと思います。
しかしながら、少なくとも半島と同等の「鍛造技術」があったことは認めてもいいのではないかと思いますがいかがでしょうか

192 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:03:39
逆にね、朝廷・幕府の政治は古代から中世までずっとアマテラス完全無視だよ。
伊勢を全く見ていないし、現在の皇室の形は江戸から明治にかけてかなり
変わったからね。今の状態と古代史は全く相容れないものだよ。




193 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 23:12:35
>>190
難しいなあ。
過去読んだ本なんかでよく言われていたのは、三輪山の祭祀ですよね。聖なる山とか、カンナビ、でしたっけ。
ああいう信仰は、いつごろからあったんでしょう?
三輪山の祭祀が急に庄内期開始と同時に始まる、ってのもなんだかヘンな…。

それに三輪山の、いまの大神(おおみわ)神社と、纏向遺跡とは、ビミョーに位置がずれてるような気が…。
最寄り駅はJRの三輪駅と巻向駅ですから、ひと駅離れています。
ま、ホケノ山と箸墓は、すこし三輪駅寄りだけど…(笑)。

194 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 23:14:29
>>136氏のご質問ですが、基本的にそれが現在考え得る九州説のひとつです。
一種の東遷説と言っても良いかもしれませんが。
ただそれだと説明しにくくなるのが、庄内甕の分布状況です。
もし北部九州内の任意の勢力がプロデュースしたとするならば、もっと明確な形で葬送儀礼が類似するはずです。
吉備にしても非常に中途半端な画策であった理由が説明できません。

私は吉備を仲介にして、北部九州形式の葬送儀礼を「輸入」したのではないかと見ます。
そこでは副葬品の意味よりも物量こそが憧憬の対象であったと見た方が、ホケノ山での鏃形式などが上手く説明できるのではないでしょうか。

195 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:16:16
>>191
阿蘇のベンガラ製作は事実でしょう。
阿蘇に長目塚という柄鏡式前方後円墳があります。
全長は111.5m。この古墳を発掘調査したとき、大量のベンガラが流れ出て、
川を赤く染めたそうです。この古墳の主は実は女性だそうです。
30歳代。人骨が出土しています。

また、阿蘇の発掘調査によると、住居跡にも大量に使用されていたそうです。
北東方向に多く撒く習慣があったようで、これから考えると、どうもベンガラは
魔よけというか、清めるような意味を持っていたように思えます。

なお、阿蘇では最近でもベンガラが良く使われているそうです。
凧なんかを真っ赤に染めるらしい。

196 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:18:11
>>195
ちょっと書き忘れたけど、倭人伝にある「其山有丹」。
これはベンガラのことでしょうね。

197 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:21:35
自分は記紀読んだら、どう考えても
神武天皇ってのは
それまで畿内にあった王家(物部氏)の傍流で
分家から本家へ婿養子に行った話しだと思うんだな。


198 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 23:22:59
>>193
現在(と言いますか中世以降)の三輪山祭祀が太古の形を留めている化と言えば、必ずしもそうではないようです。
>>189 >>192氏の言われるように、更に明治期に大変革を起こしておりますし。
実は「市および宗教施設の地」と書きましたが、仮に今後宗教施設的な遺構が出土したにしても、それを主目的に築かれた都市では無いように思えます。
あくまでも付属品です。また庄内開始に宗教的必然は感じられません。これも純粋に技術的要素で論じれるのではないかと考えます。


199 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 23:29:13
>>195-196
そうそう。
ベンガラで思い出しましたが、赤い色の問題が、つまり「朱」ですが、今までまったく論じていなかったですね。
楯築も、西谷3号墓も、棺に入れた朱の量は、並大抵ではないですね。
あの死者に対して行う「赤い色の儀礼」は、その後の古墳時代にもずっと引き続いている印象を持ちますが、じゃあ、「赤い色の儀礼」の本家本元は、西日本のどの地域だったのでしょう?

200 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 23:30:55
>>195
さておきってのが悪かったですね、言葉足らずでした。
ベンガラに関しての詳細説明ご苦労様です。仰るとおりです。
ただ「丹」かどうかは今のところ未定にしておきましょうよ。
長崎の立場が無くなっちゃいますよ(笑)

>>197
私は神武記を読むと、これが一人の人物の事跡には思えないんですよ。
いくつもの時代の違うエピソードに肉付けされた、非常に人工的なお話だと思いませんか?
熊野で眠っちゃった後なんか、まるっきり別人ですよ(爆)


201 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:35:11
「市および宗教施設」の「市」とは、交易の拠点という意味なのでしょうか?
大量の広域搬入土器から、人の移入は理解できますが、
交易を主目的として発生した「都市」というとどうももうひとつイメージしきれません。
なにか考古学的な裏付けがあるのでしょうか? 素人の疑問ですみません

202 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:37:11
>>199
これについてはかなり古いと思います。
たとえば、吉野ヶ里遺跡から出土した最も大きな甕棺は、弥生中期前半と
されています。紀元前1世紀くらいかな。この甕棺には朱の跡が見られます。

東小田遺跡(甘木市付近)から出土した甕棺には、前漢鏡が2面副葬されて
いるのですが、この甕棺も内部は真っ赤です。

九州では少なくとも、弥生中期からの習慣だと思います。

どのあたりで始った習慣かについてはちょっとわかりませんが。

203 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/21(木) 23:48:19
>>199
きわどいご質問ですね、酔いが醒めそう(汗)
朱の起源は、今の段階ではきちんとした仮説を提示しにくいですね。
それでも何らかの形で彩色する風習は、新年代観においての縄文期からあったと見るべきですので
その中でも朱が儀礼色として重視され始めたのは、国内ではおそらく弥生後期後半の北部九州でしょう。
ほぼ同時期に出雲から上越では青丹に彩られた甕棺墓が出土していることから
これは一種の「流行的感覚を帯びた儀礼」だとも考えられますしね。
これが後の神社などに直接影響したと見るのは、早計かと思います。

204 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 23:49:12
鉄の問題は、わたしはこう考えるんです。

弥生期、畿内は、みんさんおっしゃるように、鉄では後進地域です。私もそれは認めざるを得ません。
唐古・鍵遺跡でいっぱい木製の農具が出ていますが、あれ、石器だけを使って製作したんでしょう?
なかなか大変だったろうなあ…と。

で、鉄加工の技術力のある九州とか、出雲・丹後でもいいんですが、そういう技能集団が奈良盆地に来てくれるんだったら、めっちゃ嬉しかったんじゃないかな、って。(笑)
半島との鉄材流通ルートも、いっしょにね。
「ようこそ、わが大和盆地に来てくださいました。どうかあなたがたの鉄のノウハウで、もっともっとこの大和盆地を良くしていってください」、と頭を下げて、迎え入れたのでは?
邪馬台国九州説の方からは、「あんた、ばかタイ!」、と、呆れられるかもしれませんが。(苦笑)

205 :1(スレ主です):2006/12/21(木) 23:55:51
もう12時ですね、わたしはそろそろ…。余力のある方は、どうぞこの後も議論を続けてください。
老教授さん、みなさん、ありがとうございました。明朝、読ませていただきます。
どうかみなさんのお力で、今後もこのスレを盛り上げていってください。

206 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:56:59
ベンガラ、朱、どれもこれも中国の文化色の強い習慣ですね。


207 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 23:57:06
そうか、朱・・・
前漢がほろんで、新王国がおこり、その政治に不満をもった
民衆が立ち上がった歴史がありましたね。
確かAD40年ころだから、倭の国王が後漢の光武帝から金印
を授受されたのが、AD47年ころ
ちょうどその時代に眉を朱で染めた民衆の反乱があり、新王国
が後漢になるという歴史が隣の中国でありました。
なにか、飛躍しすぎですかね。

208 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/22(金) 00:02:42
>>201
考古学的な裏付けと言いますか。仮説の根拠のひとつとして度量貫の統一が挙げられます。
纏向の建築物遺構は魏尺によって設計されております(寺澤1999)
ただこれを以ってして「市」であると強弁するつもりはありません。あくまでも仮説のひとつです。

とりあえずは纏向が「何らかの理由で」「各地の同意の下に」「計画的に創造された」
これの理由を一番上手く説明できるのではないかと考える次第ですので、他に蓋然性の高い理由があるならばいつでも変更いたしますよ(笑)

209 :日本@名無史さん :2006/12/22(金) 00:07:05
>ようこそ、わが大和盆地に来てくださいました。
>どうかあなたがたの鉄のノウハウで、もっともっと
>この大和盆地を良くしていってください

人類の歴史は戦いの歴史ですから、武力に優位な方が、
弱い勢力を制圧するのが、常識ではないかと思います。
大和のために、鉄文化を普及させるほど、単純ではないでしょう。
弥生中期の古墳群は有明海沿岸に集中しているとの考古学の研究
からも、筑紫方面から、北九州または宇佐を経て、畿内に勢力が
移ったと考えるのが妥当かと思います。
青銅器の筑紫から、畿内に移り、畿内で銅鐸文化が栄えたと考えて
います。

210 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/22(金) 00:09:14
>>204
では私もそろそろ・・・。
しかしそれは大いにありえますよ。
もともと唐古・鍵そのものが畿内でも特殊な分類に属する弥生遺跡ですから。
そういった「他の地区の最新技術を尊ぶ風潮」は主に河内、大和の大和川周辺に多く見られます。
でも全部が全部、石器で削ったものではない事だけはご認識くださいな。
量は少なくとも木製農具を作るだけの鉄器は、弥生後期には東日本にまで普及していたと見るべきですから。

211 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:10:42
>>207
中国では4千年前から今現在まで 赤・朱は吉兆の色です。正月も結婚式も赤一色。

九州では熊本にまつわる、古代中国移民説が多々あります。
例えば熊本特有の河童民族、馬民族。全部中国移民だとか・・まあ、口承ですが。
鉄器に関する技術なども、おそらくそうでしょうね

212 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:14:33
距離については、倭人伝の記述はかなり信憑性が低いという事でいいでしょうか?

三国志、倭人伝の距離について、
帯方郡から狗邪韓国まで七千里で、
一里450mでは大きすぎるというのが九州説の根拠でした。

一方、同じ三国志では、
洛陽から帯方郡までを五千里、
大月氏国が洛陽から万六千余里などまで見れば、
恐らく一里450mで計測したと見る事ができます。

そうすると、三百歩は一里で、一歩は1.5m。
卑弥呼の墓は直径150mである。

213 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:19:01
>>207
その頃に乱を逃れて、現在の熊本辺りに移民した可能性は十分に
考えられると思いますが・・・地理的にも自然な流れですし飛躍だとは
思いませんがね。例えば吉備の秦氏族もそうですし。


214 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/22(金) 00:20:10
>>209
おまけです。
鉄器のの充実がそのまま武力勾配を形成すると言うことは有り得ません。
むしろ経済力の差を生むと見て、そこから構築されたほうが宜しいかと思いますよ。
あと弥生中期にもし九州からの「勢力」が東進したのならば
祭祀や遺物にもっと九州色が発揮されても良い筈なのですが、それが全くと言って良いほどありません。
それは畿内だけでなく、吉備や出雲もそうです。
そういった跡がいくつかあれば、仰るようにシンプルなモデルを提示できるのですが
無いから困っているってのが、実情なんですよ(笑)
なので皆さん色々と頭を捻っている訳です。
あくまでもそれは「文化的影響によるハイブリッド化」ぐらいに見た方が、面白い説に発展すると思います。


215 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:24:31
>>212
日数で書かれている距離は、真面目に取り合うだけの価値もないと思いますが。

三国志でもかかれてあるように、里で描写されている部分は倭人伝の前半を見ても
決していい加減なものではないと思います。当時の測量技術を考えて、多少のズレは
当然考慮すべきものの、当て推量の価値はおおいにあると思いますね。

216 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2006/12/22(金) 00:34:44
>>212
おまけのおまけ。
>距離については、倭人伝の記述はかなり信憑性が低い
陳寿や郡使を責める訳ではないですが、そう言わざるを得ないでしょうね。
ただ九州説の中でも、いわゆる短里説はごく少数であり
大方は倭人伝記述にはそこかしこに瑕疵があるとの認識で成り立っている筈です。
そこに恣意的な解釈を加えたものは論外としても、記述を鵜呑みに出来ないと言うのが文献史学的サイドからの基本提示でもあります。

ついでに言うと、記紀を読むと特に古事記などでは見事なくらいの構成力で神代が描かれているにも拘らず
神武以降は結構ぐだぐだになっているのに気付かれるかと思います。
隠蔽にしては、ちょっと下手糞ですね。
これをどう解釈するかも、なかなか奥の深い話です。
文献からの考察を試みる方は、このあたりに着目されても面白いですよ。

さてお酒のアテに焼き鳥でも買いに行きますか(爆)
それではまた後日に。

217 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:37:46
>>214
>鉄器のの充実がそのまま武力勾配を形成すると言うことは有り得ません

いえ、鉄器は産業革命に値するほど重要ですよ。過小評価しすぎだと。
熊襲+鉄器は至上最強ですねw?

ただ自分は九州王族「勢力」の東遷はなかったと考えているので後の部分はよく
頷けますが。

218 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:41:17
>>212
広辞苑に里の説明が中国から詳しく載ってましたが・・・昔は6町で約670mと
ありましたから、一応それで計算してたんですが。


219 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:46:28
まずね、倭人伝の距離ですが、口伝で「10日、20日、一月」
これって、「ひとつ、二つ、あとはたくさん」これ位のレベルだと思いますね。
4日とか8日じゃないんだからw

今でもポリネシアやインドネシアの原住民はこのレベルの、口伝の日数による距離の地図だそうで
例えば数時間で着くような場所でも1日、などと言ったりするそうです。
まともに考えないほうがいい。

220 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:48:14
だいたい、ごちゃごちゃ言う前にもっと大きな視点で
東アジア一帯の西から東への文化の伝達系統を素直に考えれば、
大まかに中国→朝鮮経由→日本と来れば、
舟で今の関門海峡を抜けて瀬戸内を通って畿内にたどりつくまでの道は、
常識で考えてまず九州北部に一大拠点ができる、
それから後のこと畿内なんかの話になるのは。
中国や韓国のまともな学者に聞いてみても、
九州を飛び越して直で畿内などありえない

221 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:54:24
朝鮮経由は本州島の日本海側辺りだと思ったほうがいいね。

九州は地理的にも中国からダイレクトだよ。もちろん、朝鮮からも
あるが中国から朝鮮経由九州のルートは北部中国からのみだ。地理的に。

あと、古代に関わって忘れがちだが・・・太平洋が開けて日本が開国する
江戸後期まで、ずっと九州が外国船の玄関口だった。
というか、九州と北海道。これは偶然でも政策でもなくて地理と潮流によるもの。

どうしても現代の感覚でとらえて九州を「端」だと思い込んでいるひとが多すぎる。
飛行機とか大型軍艦ができて太平洋を普通に海路と使うようになったのが
いつからか考えてから文化の流れも考えるべき。

222 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:57:33
本州島のど真ん中の山の中、しかも太平洋側で九州からの影響なく
勝手にどこからか発達して朝廷ができたという思想がどうしても理解できん。



223 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:58:07
>>220
言ってる意味がよくわからん
弥生時代に九州北部に一大拠点が存在したってのは畿内説でも常識だ
それが3世紀中頃にどうなったのかを論じているんだよ
誰一人飛び越したなんて思ってないが

224 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 01:06:25
>>214  村上はその逆のことをさんざん言っていますよ。
鉄器については、畿内(特に奈良)は最終的に普及した地域であり、畿内王権なるものが、
自分の地域を差し置いて周辺地域から先に鉄器を分配したことはあり得ないと。
村上は、金属考古学の成果を畿内説が無視し続けてきたことやその背景を『古墳時代像を
見直す』で厳しく批判しています。

祭祀や遺物については、三種の神器が九州で早くから始まっていることは常識では?


225 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 01:08:29
九州の影響がない 鉄器がない = 九州まで勢力が及んでいなかった 畿内辺りだけのクニ

226 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 01:16:00
>記紀を読むと特に古事記などでは見事なくらいの構成力で
神代が描かれているにも拘らず
神武以降は結構ぐだぐだになっているのに気付かれるかと思います。

古事記神代が見事な構成力で描かれているかといえばそうでもない。
単純な矛盾すら少なくない。有名なの八嶋士奴〜遠津山岬帯まで15柱の系譜を列挙したすぐあと
「以上合計17柱の神々であった」と記してるところとか。
『古事記は相当あわてふためいて編纂されている形跡がある』的な指摘は
国文学のほうではよく耳にする。

227 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 01:20:54
>>223
畿内説はありえないということ。素直に考えれば
これまでの長年の経緯をみれば
日本国内だけでうじゃうじゃ議論しても、らちがあかない。
中韓の学者の意見も聞きながら取り入れながら
日本国内でも平行して日本書紀や古事記の見直しを進めて
東アジア一帯のレベルで考えないと常識的な結論にたどりつかない

228 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:01:57
天照大御神は元々は男の神で、当初は重要視されなかった。

>宮廷に関わる神様の祀り方が書かれている「延喜式」によると、
>天照大御神が登場するのはごくわずかでそれも「伊勢にいます神」と
>いう名で登場するのみだそうです。

>また天皇の即位の後行われる重要な祭りの一つである新嘗祭
>(にいなめさい)でも古くから天照大御神を祀ったという記録はありません。
>「延喜式」によれば新嘗祭の準備のためにもうけられた斎場の中心は
>高御産巣日(たかみむすひ)神となっているそうです。

http://www.loops.jp/~asukaclub/hmemo/hmemo013.html

229 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:04:26
おまいら教授が帰ってからいっせいに吠え出すってのはどうかと思うぞ

230 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:04:59
邪馬台国が無くなったあと、畿内へ東征するとは思えんがな。

邪馬台国は、宇佐にあったんだと思うよ。

ただし、神武天皇が邪馬台国に居たのは
卑弥呼よりも100年以上前の話でしょう?

231 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:16:04
おまえら、もっと記紀を真剣に読めよ。
記紀を嘘っぱちって最初から決め付けるが

じゃあ、その嘘っぱちと決め付けたお前の想像のほうが
よほど信頼性が無いだろうがw

記紀の編纂者は、500年前のことを研究して書いているけど
嘘っぱちという研究者は、2000年前のことを
たいして研究もせずに、想像で叫んでいる。

232 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 03:29:40
鉄器については、熊本が群を抜いていると書いたが、古墳については宮崎。
宮崎には非常にたくさんの古墳群がある。

北九州の古墳について畿内との関連性が言われることはない。熊本の古墳も同じ。
しかし、宮崎の古墳については畿内との関連性がよく言われる。

弥生時代に通じるといわれる土器棺が出土した西都原81号墳。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm

箸墓と相似形といわれる生目1号墳。
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/

日本最大の木槨が出土した檍(あおき)1号墳などは興味深いと思う。
http://www.yu-ji.com/shinbun2-3.htm

男狭穂塚、女狭穂塚なども面白い。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_om/

畿内説の人は、鉄についてもあまり語らないが、宮崎の古墳についてもあまり
考えていないような気がする。

233 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:19:28
>>227
中国の記紀研究の成果って何かあるのか?
倍年暦とかって言い出さないよね?

>>231
記紀を読めば全てがわかるような論調こそが嘘っぱち。

>>232
鉄と宮崎の古墳は、少し上で片付いただろ。

234 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:31:30
古代の神話の時代の解明

アマテラスは男性で高天原(畿内南部の高天台)で家督を継いでいたが
跡取りの子供が居なくて、弟のスサノオ(須佐で分家していた)に家督を奪われるのを恐れていた。
で、兄弟は争ったみたいだが、最終的には仲直りして
その弟の子供の一人を養子に貰ってたみたい。

スサノオの須佐は現在の宇佐で、神武天皇もそこの出身でその子孫。
西暦1〜2世紀頃、神武はその須佐(宇佐)分家から
畿内(高天原)本家に婿養子に入った。
また、須佐(宇佐)は山戸の州都であり、その山戸は
後に魏志では邪馬台国と言われている。

西暦3世紀の邪馬台国は、高天原(畿内南部の高天台)本家の
宇佐分家の王朝であり、卑弥呼はそこの巫女だった。
宇佐(須佐)は、男王が政治をし、巫女が祭祀をする、政教分離体制を整っていた。
魏志に出てくる邪馬台国の時代は、スサノオや神武より後の時代。

235 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 13:14:25
アマテラスは男って、流行があるのかね?

昔聞いた根拠では、アマテルを男性神としている神社と江戸時代あたりの著作物が少しあるのと、
スサノオが高天原に来たときにミズラを結った事と、
天戸隠れでウズメが下腹を見せて踊った事だったかな。

どれも説得力は弱いし、ミズラなんかは、持統天皇が勇ましい女帝を書かせたかったから
というのもあるだろうしな。
逆に、ヤマトタケルは女装したから女になるのかというのもあるだろう。

236 :太国 :2006/12/22(金) 15:03:37
うんこ同然ですが何か?

237 :太国:2006/12/22(金) 15:08:04
>>236
妨害に来た余のニセ者です。

238 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 15:48:15
>>235
アマテラスが男なんて、絶対的な根拠は無い。
ただ、男だと思わせる形跡も結構ある。
まあ、いずれにせよ、神話時代ということだから
それについて、ムキニなっても意味が無いんだが...
もし、その神話が何かの事実の形跡なら
全くは無視できない問題だな。

239 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:10:13
記紀を読むとわかると思うが、天照大神はあまりかっこよくない。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)から高天原を治めるように命を受けたが、
須佐之男命の圧迫を受け続けて、乱暴に耐え切れず、結局、天の岩戸に
隠れてしまう。

岩戸を出てからも、葦原中国の平定などがあるが、これは高皇産霊尊(高木神)
が主導権を持ってやっているように思える。

そのような天照大神がどうして皇祖神として重視されるのか理解に苦しむ。
記紀を読む限り、皇祖神として最も敬われるべき存在は伊邪那岐の命では
ないかと思う。

にもかかわらず、天照大神が皇祖神として敬われるのには何か理由があると
思う。思うに、日本で記録が始った頃、最も記憶に残る古い人物が天照大神
だったのではなかろうか。つまり、天照大神は実在の人物で、伊邪那岐命は
架空の人物として見られていたのではないかと思う。

240 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:18:37
※天照大神の語源解明から性別不問である。
・「天」⇒“a-ma(me)”=東の山(水生む聖地)の意=「高天原」。
・「照」⇒“딸리다”(ttal-li-da)=付く、属する、の語幹=所属、出自。
・「大神」⇒尊、日子。
∴「高天原出自の大神」、である。
卑彌呼も「最高位の尊」であり、性別を問わない。


よって、天照大神とは

高天原出自の大神、
東の山に出自をもつ、あるいは属する日子。
水生み聖地に出自を持つ、あるいは属する日子。

みたいな意味。


高天原=東の山、水を生む聖地ってどこよ?

畿内南部のことをいっているんじゃ?
三重県とか和歌山県とか十津川周辺とか?

241 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:36:32
雨が降るなら、ほとんどの山から水は湧くんじゃないかな?

242 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:38:49
どうでもいいけどさあ
「鍛造」と「鋳造」を間違えるってどういう事よ?
日本語からみても間違えんだろ普通
しかも何度も使ってるのに気がつかないなんて
かなりひいたよ

243 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:26:45
纏向遺跡は、どうして「巻向遺跡」の表記にしなかったんだ?
わざわざ日本書紀の「纏向〇〇の宮」から引っ張ってきたのか?
だとしたら、考古学の遺跡命名方法としては問題アリ、と思われ。
それによ、イッパツで漢字変換、できんじゃないか。

244 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:12:25
倭人伝が記載する、邪馬台国までの行程の方角については、どうなっていますか?

混一彊理歴代国都之図(龍谷図)に対する
混一彊理歴代国都地図(本光寺図)による反論は
勇み足だったって事でいいのでしょうか?

龍谷図
http://www.ryukoku.ac.jp/university/kouhou/shuppan/kohoshi/kohoshi60/11_treasure/treasure.htm
本光寺図
(PDF) http://www.pref.nagasaki.jp/bunkaDB/bunkazai/pdf/00459.pdf

西洋人の手による東アジアの古地図は、東に傾いているものも多いようですが、
そのあたりも含めて、評価はどうなっているのでしょうか?

245 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:55:25
>>243
なんか鋭い指摘だな。
やっぱり小難しい字で表記する方が真実っぽくみえる発想だろう。
畿内説派の思い入れが表れてるな

246 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:28:08
考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作

誰か、年輪年代法の詳しいサイト、知りませんか?
以上のことを調べたいのです。

247 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:34:18
>>245
記紀の内容を証明出来たことがよっぽど嬉しかったのだろう。

戦中天皇が軍国主義に利用されたことへの反省、
津田以降のマルクス史観などのせいで、
戦後、考古学会にも記紀批判が蔓延り、
記紀の内容は兎に角信用出来ないとしていた時代が、
確かにあったのだから。

248 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:54:27
>>247 どうみても逆!
記紀の裏付けなら橿原が神武東征の地。
しかし、橿原では大規模な発掘はしないし、するつもりもない。
「まかり間違って、王宮跡なんかが発見されたら、神武東征の裏付けにされかねない。」
というのがマルクス主義史観の考え。

そこで、崇神天皇からが実在という前提で纏向を重視して、橿原を無視する。
纏向重視には、橿原無視という記紀捏造思想(欠史8代)が内包されている。
しかも、纏向の年代を遡上させて、神武東征も否定。
それが現時点での本流のマルクス主義史観。

249 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:10:52
宮内庁が許可すれば
巻向全部発掘してやるよ

250 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 05:36:17
>>248
キモいなあ

251 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:36:46
マルクス主義史観の功功罪は、戦前皇国史観へのイデオロ
ギー対決にもかかわらず、各論では方法論の継承あるいは
形式論理的否定によるコインの表裏に終わってしまった事
なんだよ。一番陵墓発掘の運動をしているのは共産党だし。

>記紀の裏付けなら橿原が神武東征の地。

どこを縦読みしたらそうなるのですか?



252 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 10:08:48
老教授とやらが何役も演じてるからしょうがない

253 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:52:29
>>190
>むしろ私は初期ヤマト連合の「市および宗教施設」の地が、次第に王権化したのではないかと
>見るべきかとも考えます。

初期ヤマト連合が、大和・中河内中心の東瀬戸内地域だけならそうなんでしょう。
ただ、唐古鍵とどう違うのか?という疑問も。

私は庄内の畿内王権が出現した理由とは、
瀬戸内海航路の安全を保障出来る新しい権威が、時代に要請されたのでは、
と考えてます。
で、大和・中河内の連中が、三輪山の神官の宗教的権威を根拠に、
新しい王権を築いたのだろうと。
つまり、王権が先で、マキムクが後であろうと、考えてます。

吉備の楯築墳丘墓も、瀬戸内海航路の安全性を希求する、
先駆的試みであったでしょう。

254 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:01:10
いえば、畿内王権とは、大陸や半島との交易を、
筑紫などを介さず、直接行おうという運動であったのでしょう。

畿内の人々は西新町まで直接商品(主に鉄)を買い付けに行く。
彼らの瀬戸内海の往来は、畿内王権成立以降、
紛争などの危険に巻き込まれること無く、
途中の寄港地で関税をかけられることも無くなったのでしょう。

255 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:03:10
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ

256 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:18:12
>>240
そういえば、高天台から紀ノ川を下れば、
南海道の鹿児島まわりで韓半島を目指せるね。

最も出雲の影響を受けない航路だ。

257 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:53:38
さて・・・纏向にかえらふ

258 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:03:30
「高天原」と「高千穂」は名前はよく似ているけど
記紀を読んでみたら、全く違う場所である。

高千穂に降臨したのは、ニニギノ命(アマテラスの孫)でしたが
高天原のほうは、アマテラスやスサノオが降臨したところです。

上位関係は、高天原(畿内?)>>>高千穂(九州?)

高千穂は九州のどこか(佐賀県か?宮崎県の北端か?など)だと思いますが
高天原のほうは奈良県御所市の金剛山高天だと思う。

259 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:04:33
>>256
日本で一番降水量が多いところは、三重県じゃなかったか?

260 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:59:07
>>257と貴殿が促しても、いつこうに纏向に帰らうとはせぬ。
纏向遺跡は見たくないでつ、できれば避けて通りたいでつ・・・・という浅ましくも愚かな幼児的願望の表れであらう。

261 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 02:58:47
関西人でさえ、奈良の一部と三重は部落村と朝鮮部落の集まりだとか
言葉が汚い田舎といって馬鹿にするね


262 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 03:39:30
>関西人でさえ、

てゆうか、関西人だから、ね。
奴らは差別好き。

263 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 05:36:53
画期的な年輪年代法

この大型建物は、有名な吉野ケ里遺跡の建物よりも200年ほど
古い時代のもので、中国の影響を思わせるように、
建物の向きは東西南北にきっちりと合わせて建てられています。

しかも、出土した柱根のなかには最外年輪まで残っているものがありました。
さっそく光谷さんが柱根の年代を測定したところ、
やはり思わぬ結果が出ました。
紀元後1世紀後半と予想されていた建物の年代が、
年輪年代法では紀元前52年と出ました。
定説よりもやはり100年も古いのです。
前年の二の畦・横枕遺跡のケースとまったく同じです。

考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。
じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が
主張していた年代観にかなり近いものでした。
「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。
権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、
もはや、彼らの主張を無視することも、
年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。
定説を根本から再検討する必要があったのです。
そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。

これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。
弥生時代の近畿と九州が、同じ年表に並んだ瞬間でした。

http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai03.html

264 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 05:39:51
>>256
おまえ韓国人だろう?
韓半島なんて、韓国人しか言わない。

それに別に韓半島を目指せるなんて言ってないだろうが...
要するに、紀元前1世紀ぐらいには、すでに
日本がある程度、国家統一していたということ。

265 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 09:12:51
62)2002.8.26 弥生時代へ

琵琶湖の湖南地域に邪馬台国の主勢力があったとする推理があります。
滋賀県の守山市・栗東市一帯で近江富士を望む地域です。
野洲町・大岩山からは1〜2世紀に東海勢が作った「三遠式」と
近畿勢の「近畿式」銅鐸が混在するように24個出土している。

この推理を組み立てているのは次の点です。

紀元前三世紀...丹後・扇谷遺跡の鉄屑ー中国との交易が推定される

紀元前一世紀...丹後・奈具岡遺跡の玉類加工していた大規模集落
            針などの鉄製工具も大量に出土している

紀元前後...若狭湾ー琵琶湖北西岸地域…塩の道として機能し鉄製品の交易ルートか

          滋賀・熊野本遺跡の高地性集落で大量の鉄が出土
          土器の交易と重なる鉄の交易ルートー琵琶湖の湖南経由か
       
紀元一世紀前半...丹後・三坂神社墳墓群の中国製太刀ー朝鮮半島では鉄の技術低い頃

          当時、鉄の交易先は東海・北陸方面と考えられている

紀元1〜2世紀末...湖南の伊勢遺跡群などの都市ともいえる大集落群

http://www.geocities.jp/arashiyamabungaku/tango6-6.html

266 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:10:40
240 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 19:16:55
サガミハラハラさんの倍年暦補正計算で算出したら
西暦230年〜264年が崇神天皇の在位期間。
(計算間違っていたら、ごめんなさい)

これを信じるのなら、記紀では崇神天皇5年に飢餓が起こったということだから
倍年暦で補正したら、西暦233年くらいに飢餓が起こった。

ちょうど、その時代に卑弥呼が邪馬台国の国王になっている可能性がある。
つまり、飢餓のせいで、即位間もない崇神天皇が妹の御真津比売命に
祭祀政治をさせた可能性がある。

台与(とよ)というのは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)で
初代・斎宮になった人物じゃないのか?

107年の倭国王・「帥升等」シシトは、
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)の可能性あり。
孝安天皇の在位期間(サガミハラハラさんの倍年暦で83年〜133年)
の可能性が高い。

サガミハラハラさん、あなたの倍年暦計算を
崇神天皇以前は、日本書紀の即位期間を信じて愚直に計算してみるべきでは?

問題は57年の奴国王の金印ですね。これは、どういう意味を表しているのか?

267 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:15:33
>>266
誰か、マキムクは人の生活の匂いがしない。
祭祀施設云々で、宗教的な匂いがするとか言ってなかったか?

それって>>266みたいな理由じゃないのか?
記紀では、崇神5年に疫病が流行ったとか言っていたから
その社会情勢が切欠で、マキムクが作られたんじゃないのか?
また、それと同時に、崇神の妹による祭祀政治が出来上がった。
その妹こそ、女王・卑弥呼であると...


268 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:05:14
もうメチャクチャ

269 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:32:02
>>266-267
良い線まで言ったw

ただし、一つ間違っている!
少しづつ、絞られてきてないか?
卑弥呼は、崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫だと思われ。



270 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:28:47
>>263
光谷氏は、法隆寺の心柱の伐採年代を594年としている。しかし、法隆寺は
670年に全焼したことがわかっている。再建されたのは、8世紀始め。
文献上も、瓦の年代からも再建が8世紀始めであることは動かない。
つまり、100年以上の誤差がある。

では、年輪年代の結果をどのように受け止めるか。これは二つしかない。
一つは年輪年代が間違っているとすること。
もう一つは、伐採されてから100年以上も保存された木材が再建に使用された
こと。

しかし、光谷氏が最初に年輪年代法で測定した紫香楽宮の場合は、年輪年代に
よる測定結果は、742年。この年は、紫香楽宮が造営されたと文献に記されて
いる年である。つまり、伐採と同時に使用されている。

正倉院の宝物の中の木材については、年輪年代法と文献の記述に数百年の
誤差があるものもある。

これをどのように考えたらよいのか。

伐採されてすぐに使われたものもあり、100年以上たって使われたものもあり、
中には500年も600年も経ってから使われたものもある。

池上、曽根遺跡の木材の紀元前50年頃の伐採が本当だとしても、何年たって
使われたものであることをどうして決定できるのか。

数々の疑問のある年輪年代法によって、庄内期は遡ったわけだが、
これに対して疑問を持っている人も多いと思う。

271 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:42:38
>>270
つづき。
光谷氏は、年輪年代の詳細なデータを公表すべきだと思う。
誰でもが追試でき、納得できるものを公表しないと信頼性に乏しい。
これは誰でもが感じていることではないかと思う。
しかし、畿内説はその信頼性に乏しいデータを信じており、
これによって、土器の編年の実年代が遡ったのは事実である。

272 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:47:05
>>269
年齢から言ったら
崇神天皇の叔母の倭迹迹姫?じゃないのか?
妊娠して、陰部に箸を突き刺して死んだわけだから。


273 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:42:06
>>270
年輪年代法で遺跡の年代を特定するには、
同じ時期に伐採された木が大量に出てるとかじゃないと特定はしにくいね。
正倉院宝物の木材と池上曽根遺跡の違いは木材の大きさじゃないかな
池上曽根は2本ほど紀元前52年に伐採された木とされてるから
建築年代もわりと近いんじゃないかな。

274 :とりあえず、まとめ:2006/12/25(月) 01:00:04
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。

57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか?
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、
使節を送ったのではないだろうか?

107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)

崇神天皇の時代(230.5-264)

崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。

そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)

この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。

また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。

崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。

275 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 04:23:45
>>数々の疑問のある年輪年代法によって、庄内期は遡ったわけだが

そうそう・・・
どれもこれもw

276 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 07:44:45
もう科学じゃないよねw

自説に有利にさんざんいじくり回した上で都合いい部分だけ公表
するんだから。ナチスみたい。

277 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 08:30:49
貨泉が弥生後期初めの土器と一緒に出てることからも、
弥生後期が一世紀に始まった、というのは確定してるだろ。
年輪とも合致。
まずはこの辺りは認めてくれないと、話が前に進まない。

278 :徐々に修正・いずれ学会はこれで確定:2006/12/25(月) 09:25:39
サガミハラハラさんの二倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。

57年の漢委奴国王が金印。
漢委奴国王は、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。
最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので金印を貰えたか? あるいは偽者なのか?
これより約200年後の魏志倭人伝には、
邪馬台国(やまと国、「台」は「と」と読むべき、「やまたいこく」は誤った読み方)の
対外出先機関が伊都国にあったというふうに書かれていたから、
そういう重要な関係上 、伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。漢委奴国王は天皇ではないと思う。

107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
倭国王・帥升(すいしょう)と学校では習ったが、これは間違いである。
帥升等の「等」は「〜など」という意味ではなく、帥升等で「シシト」と人名である。

崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、
この蛮族は狗奴国(宇土半島に拠点、熊襲とことか?)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。

279 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:37:48
4時間ほどかけて、ここまで一気読みしました。酒を飲みながら。
彼女いないクリスマスイブに飲んだくれ夕方には酔いつぶれて寝てしまい、
クリスマス当日は検索で引っかかったこのスレを読みながら色々と貼られてるサイトを読んでおりました。
以降は門外漢のチラシの裏でございます。スレ汚しご勘弁を。
マキムク遺跡というのを読んでいて、デロス同盟というのを思い出しました。
デロスは、同盟している諸ポリスの共同財産を管理する場所でしたな。
デロス同盟はアテネによって乗っ取られましたが。
アテネで思い出すのが、処女神を王家(皇室)始祖とする神話です。
吉田敦彦氏の著書などでアマテラスとの比較をされていて、面白かったです。
神話の神代記などは、吉田敦彦氏や大林太良氏の本などを読んでると、
あそこから歴史的事実を嗅ぎ取ろうとするレスには違和感を覚えました。
朝鮮、高句麗、蒙古、スキタイなどと類似するものや、
江南、沖縄、東南アジア、ポリネシアなどと類似するものが記紀神話には見受けられますし、
日本神話は構造的にかなり緻密な構造をもっているとする河合隼雄氏のような指摘もありますし。
神代記が実在の人物の歴史的業績を反映しているとは。
以上、門外漢のチラシの裏でした。ひと時、今日がクリスマスで、世間はカップルであふれているとか、
年明けには卒業がかかった後期試験があるとか、嫌なことを忘れることができました。


280 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:41:14
>>277
貨泉は、西暦14年から西暦40年にかけて作られたことがわかっているから、
貨泉が出土する遺跡は、西暦14年より前ではない。
貨泉からわかることはこれだけである。
出土した貨泉がいつ日本に渡ってきたかを特定することは出来ないし、
いつ捨てられたかも特定できないからである。

これを言うと、伝世鏡を持ち出す人もいるが、卑弥呼の鏡の場合は、
日本に渡って来た年代が決まっているので一緒にすることは出来ない。

また、三角縁神獣鏡は、もらった年代からしばらくは全く出土せず、
一定期間経た後、どっと出土すると考えられて伝世鏡の理論が出来たので
あって考え方が違う。

281 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:59:08
279でございます。チラシの裏ですいません。
酔った勢いで書いております。
卒業が危ないです。
残りは16単位だけなのですが。
就職の内定が決まり、就職先の会社が卒業証書を見せて確認させろというわけでもあるまいと、
後期は大学に全く出席せずに、これが社会人になるまでの最後のモラトリアムの期間だと、
楽しくバイトをして、旅行したりしておりました。
就職先に勤めている、親しいゼミの先輩と飲む機会で、
「こいつ卒業できないですよ」って言う馬鹿がいて、
「どうなんだ?」って先輩に聞かれて、
「正直、やばいっすね。けど、卒業証明書持って来いってないでしょ?」と答え、
「まぁな」と笑って先輩は答えていました。
先日、就職先の部長さんからお電話があり、
「卒業しなさいよ、ちゃんと、内定取り消すとかはないけど、卒業見込みで内定だしたんだからさ」
などと、色々言われました。
正直、今頃そんなことを言われても、どうしろというのでしょうか。
飲むしかないね。

282 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:07:25
>>279
シュリーマンはギリシャ神話からトロイの遺跡を発掘したわけだから、
神話も馬鹿にならない。

日本の記紀の場合は、基本的に歴史書を作ろうとしていたわけで、
記憶のない時代のことが神話になるのは仕方がないとしても、
基本的には事実の反映だと思う。

少なくとも、皇室が先祖を美化しようとして作ったという感じは受けない。
あまりかっこいい人物は登場しないからである。
神武天皇(神日本磐余彦)にしても英雄というにはちょっと泥臭いし、
天照大神も須佐之男命に苦しめられっぱなし。

そうでなくても、日本の古代を知るには記紀しかないので、ここから事実を
掴み取ろうとするのは当然のことだと思う。

考古学の場合は、古代の「文化」を研究する学問だから、歴史はわからない。
もし、考古学で歴史がわかるのなら、文献に登場しない弥生時代前期の歴史を
教えてもらいたいものだと思う。


283 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:21:46
>>282
トロイはもうギリシャ神話でも神代のお話ではなく、人代のお話ですよ。
もちろん、ギリシャ神話ですから、英雄にギリシャの神々がいたずら的な介入したとしていますが。
少なくとも、神々が主役の神代記はちょっと歴史からおくべきではないかと。
例えば、アマテラスとスサノオとの間におこった出来事などは、
大地母神の性質を持つ女神と死の国(根の国)の神の諍いとしては、
同質の構造とモチーフを持つ神話がユーラシア北方で分布していますし。
天孫降臨神話も広く、分布しています。
降臨した王が、川を越え(日本神話では海)、新しい征服地を持つという神話も、
これまた分布しています。
箸墓の蛇の神を見て、夫婦離別というモチーフも、広くあります。
こういった同一のモチーフが比較神話学などで世界的な視野で考察される神話は、
そこから歴史を読み取るのは違和感をすこし感じた所存です。

284 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 12:32:18
>>281さん

申し訳ないが「チラシの裏」の称号は 渡せない

285 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:45:42
>>283
天照大神と須佐之男命の争いについては、卑弥呼と狗奴国の争いの反映では
ないかと考えられていて、神話と考えるのはどうかと思う。
もちろん、そうでないと考える人もいるだろうが。

魏志倭人伝に書かれている倭国の状況と記紀の高天原の状況が酷似していると
最初に言ったのは、アジアの神話、民族、言語などにも詳しい東洋史学者の
白鳥庫吉。

記紀に、神話の部分があることは否定しないけれども、神代を全て神話で
かたずけられるものではないと思う。少なくとも、天照大神からは
事実の反映だと思う。個人的には、伊邪那岐命の部分にも現実的色彩を
帯びているものがあると感じる。

これは、中国の歴史書からも感じることが出来る。

286 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:49:26
アマテラスとスサノオは卑弥呼とは全く関係ない。
なぜ、今まで、こういう珍説があふれていたかたというと
記紀の年代が明確に算出できなかったから。

記紀の年代が明確になりつつある今
>>278みたいな回答が導き出される。

287 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:05:05
>>286
倭人伝に記述によると、

288 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:05:38
>>285
そのような見解も成り立つのかもしれませんね。
太陽の神アマテラス:豊饒の神デルメルに対する海の神スサノオ:海の神ポセイドンの乱暴
これに起因して太陽の神アマテラスの岩戸隠れ:豊饒の神デルメルの天界から隠れる雲隠れにより世界は真っ暗になり混乱:世界から豊饒が失われ、
八百万の神々が集まり対応を協議:神々主催するゼウスなどか知恵をしぼり、
世界が再び秩序を取り戻す。
というモチーフは、広く見られてるんですが。
あと、これはハイヌウェレ型(日本神話ではウケモチの神の惨殺です)の、
富を無尽蔵にもたらす女神が殺され、その死体などから富が再生産されるという神話に関するものですが、
60年ほどで、文字を知らない社会ではその伝承が変容していたという記録があります。
無尽蔵の富を吐き出す少女を村人が怖くなって殺したというものですが、
最初に記録されたときは、穀物であったり、金の皿などだったのが、
60年後には、洋服等の舶来品になっていたという記録です。
口承伝承では、そういう危険があります。
日本書紀などの、一書が複数あるのも、そういう口承伝承の変容の容易性から来るものもあるかと思われます。
地名ですら、イザナギが鎮座した場所ですら、近江なのか淡路なのか。
まぁ、私は、歴史や考古学は門外漢ですが。

289 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:45:39
>>288
沖縄神話あるいは朝鮮の神話を少しみたことがあるけれども、似ている様な似て
いない様な、あまり良くわからない。

記紀が現実の繁栄と考える視点からは、記紀によると、天照大神は岩戸を出て
からは影がうすい。高皇産霊尊のほうが主役の様な気がする。日本書紀では、
天孫降臨も高皇産霊尊が行ったことになっている。

一方で、三国志によると、卑弥呼は、狗奴国との争いで、魏に助けを求めて
いるようなところがある。帯方郡から張政という役人がやってきて、仲裁をしている。
その頃、卑弥呼は亡くなる。男王が立つが、国中が納得せず、千人あまりを殺しあう
内乱になる。壱与という13才の少女が王になり、国中は平和になる。
その後、また男王が立つ。中国からの爵命を同時に受ける。

要するに、狗奴国との争いが須佐之男命との確執に反映され、卑弥呼の死が
天照大神の岩戸隠れに対応する。
千人あまりを殺しあう内乱を、高天原が真っ暗になったと表現し、
壱与の登場が天照大神の岩戸から出てくることに相当する。
高皇産霊尊が男王と対応する。

290 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 13:47:11
>>289
続き。

もしこれが事実の反映だとすれば、高皇産霊尊が主導して葦原中国の平定、
つまり、出雲を支配する。さらに、邇邇芸命の日向への天下りもある。
恐らく、饒速日命の大和への天下りもこの頃。
前後して、ほかの地域にも派遣された人がいただろうと思われる。

やがて、日向に行った天孫の子孫である神日本磐余彦が東征する。そこから、
四道将軍の派遣となり、畿内周辺の征服といったような一つの物語が出来る。

このように考えれば、饒速日命が大和に行ったのは、3世紀後半。
神武東征は、300年前後ということになる。ニギハヤヒを庄内期。
神武東征を布留期と考えると非常に有力な説である。

これに待ったをかけるのが、庄内期の始まりを2世紀初頭と考える考古学の
一部の説ということになる。

291 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 13:55:46
>>295

その前に、卑弥呼と狗奴国の争いなんて、何処の史書にも書いてないし

292 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:01:59
>>291
プラム氏は漢文の読み方がおかしい。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状

つまり、倭国からの使者は、互いに攻撃しあっている状況を説明したと
読むのが普通ですよ。

293 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:13:04
まぁ、なんというか、口承伝承では、筋書きというかモチーフというか構造というものがありまして、
そこを埋めいく単語みたいなものはコロコロかわるんですが、構造自体は維持されるのではないかと、
レビィストロースさんなんかを読みかじってみて、前歯を折った程度の私ですが、そう思うのですね。
まぁ、歴史的事実の反映かもしれませんね。
しかし、60年程度で、変わるんですね、そのパーツというか、人名やら地名やらは。
記紀が編纂された時代から、魏志倭人伝の卑弥呼の時代の年数は遠いです。
文字があれば、伝承というのは固定化されます。
稲荷山古墳の鉄剣の銘が500年代ですか。
300年ごろに文字で伝承を固定化していたのならまだいいですけど。
あと、天下りというのを、ある根拠地から征服地への歴史的事実の反映とするのもどうかと。
天孫降臨は、朝鮮、蒙古の民族に広く伝わってます。天下りしまくりです。
始祖王が、根拠地を出発して、川(瀬戸内海)を順調にわたり、
山(熊野)で困難に出会い、
神の助けで建国なんていうのも、朝鮮にもあります。
大林太良さんが考察しておられますが。
沖縄の神話でいえば、三輪山の神様が蛇でしたっていうのはもろにあります。
というか、山城の風土記に丹塗り矢の同じ神話があります。
同一構造の神話が広く分布していて、これは歴史的事実の反映による創作だと見るのは、
すこし違和感を覚えますが、まぁ、私は考古学も歴史学も門外漢なんでよくわかりませんね。
程よく酔いつぶれました。寝ます。

294 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 14:21:04
>>292

不和で攻撃状態にあるモノに“與”等は使いません。
それに、何故あそこの部分だけ『狗奴國男王卑彌弓呼』と、長ったらしく書かねば成らないのか?

295 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:32:00
>>293
おい!門外漢!たった16単位だろ?通年なら4コマ、セメスターでも8コマじゃねーか。
今からでもなんとかなる!
こんなとこでカキコしてる場合じゃないぞ!寝るな!酔い覚めにコーヒー飲んで勉強しろ!

296 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:32:09
>>294
そこの部分も、卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は素より不和。
でいいんですよ。
倭人伝のほかの部分で同じような記述は、「下戸與大人相逢道路」があるけど、
これも、「下戸と大人が道で逢うと」でいいのです。
仲が良いか悪いかで変わるわけですか。

そうでなかったらどのように訳します?

297 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 14:46:26
>>292

それに、
『…官狗古智卑狗不属女王』で、(官狗古智卑狗は女王の直属部下に非ず)と、この文章では述べてます。詰まり、他にカキコされてる“官”は直属部下で有るが、狗奴国の“官”は違っていたと………。
(ただそれだけの事)


・攻撃状態の原因人物は→『男王卑彌弓呼』

・攻撃原因は→素不和(前からずっと仲がよろしくない)

298 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 14:57:07
>>296

先人達は何故『與』の文字を(くみ‐する)と、訓じたの?
攻撃状態であるから?
ちがうでしょう。

下戸と大人の関係は敵対関係だから挨拶するの?
上下の違いは有っても、同じ範囲内で共通しあうからではありませんか?

299 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 15:01:32
文献解釈も結構なんですが、それとマキムク遺跡の関連性とかをもっと絡めたレスを見れることを期待します。

300 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2006/12/25(月) 15:22:46
>>299

>纏向を絡めた意見


そりゃ無理だは。
倭人伝に纏向は登場しないし、登場するのは(紀)だったね

これはとんだスレ汚し。
失礼しました。

では、退散します。

301 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:50:54
>>280
前段は言ってることは分かるが、
後段がさっぱり。

もろ、貨泉が100年以上伝世したって説じゃん。
後漢光武帝から印綬貰ってるし、倭国でも新
の時代が終焉してることは知ってただろうしな。
わざわざ100年以上秘匿する意味がない。

あとさ、卑弥呼の時代からはしばらく出土せず、とか書いてるけど、
その実年代の根拠は何なの?
最近の畿内説では、三世紀初めに公孫氏経由で画文帯神獣鏡が舶載され、
そのすぐ後に三角縁が、ってことになってるし。

302 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:59:16
>>280
土器の併行関係、ってものを分かってますか?
弥生後期を二世紀にすると、九州の遺跡から出土する中国遺物との整合性もとれなくなるのだが。
だから九州の考古学者は、昔から弥生後期の開始を一世紀と主張していた。

中国遺物の少ない畿内では、小林行雄の
「弥生後期の開始は、倭国大乱の終結後」という思い込みに振り回されていただけなんだよ。

303 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 20:31:29
>>283
比較神話学からのアプローチが殆んど無かったので、興味深く読んでます。
たとえば天孫降臨にしても、北方神話で広く見られるモチーフ。
それをそのまま史実と考える輩がいて、困っていたのが正直なところです。
神話学を学んだ上で論じるのならまだいいのですが、
神話から安易に史実を引き出そうとしてしまうんですよね。
ていうのは、古代史愛好家の中には根強く、九州東遷説を唱える人がいて、
その説にとって、記紀の「天孫降臨」やら「神武東征」などが、非常に都合が良いものだからです。

304 :303:2006/12/25(月) 20:44:34
例えば、ヒラバルを発掘した原田は「アマテラスの墓を発見した」と電波を飛ばしました。
あと、安本という人は、甘木市周辺地名と大和周辺地名の類似を発見して、
邪馬台国東遷説を唱えました。
そこまでならまだ理解出来るのですが、
天皇平均在位10年なる珍妙な似非科学を持ち出し、
卑弥呼=アマテラスを大真面目に論じる始末。

記紀自体、神代と人代を明確に線引きして書き分けてますし、
神話を持ち出す以上、ある程度比較神話学などの素養を持っていて然るべきだと思うのですが。

305 :303:2006/12/25(月) 20:56:01
で、ここからが質問になるのですが、日向三代についてです。

記紀神話の中で、明らかに日向神話が、浮いてしまってるのではないか?と。
後から付け加えました、みたいな感じが有り有りです。

まず最初に出雲の国譲りがあり、
天孫は何故か大和でも出雲でもなく宮崎に降臨。
三代を経た後、神武の時にようやく東遷して、大和で即位。初代天皇、ハツクニシラスになります。
逆に言えば、日向三代は天皇とは認められなかった。
初代天皇はあくまで大和で即位する必要があったわけです。

306 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:00:43

一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。こ
れをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」という
結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説と合わなか
ったからだ。

 さらに同遺跡の下層には別の遺跡があり、推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓(て
っさい‖製鉄した後の残留物)が発見されたほか、縄文式とも弥生式とも異なっていて、
中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものとよく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土し
ている。
http://www.minyu.co.jp/shasetsu/0305gatsu/0523s.html


307 :303:2006/12/25(月) 22:31:25
ふたつのクランが同族化する時に、始祖伝承やら神話・伝説などを共有する
といったことは、広く世界で見られることです。
で、神話を共有化するには神話を書き換える必要があって、
手っ取り早いのが、二つの異なる神を同一化してしまうことです。
日本書紀で神の何に亦の名が多いとか、いくつか別伝があるのには、
こういった要因が考えられます。

例えば、ヒコイマス王は畿内北部の諸豪族の始祖ですが、畿内北部の首長連合が
結成された時に、共通の始祖王として創作されたものとされています。
吉備地域の首長連合の場合は、吉備津彦になりますね。

308 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:37:19
>>301
伝世鏡理論が出た頃は、卑弥呼の時代と三角縁神獣鏡の時代は合わなかったわけ。
だから、卑弥呼がもらった鏡は、しばらくの間伝世され、その必要がなくなった
時に副葬されるようになったという理論が作られた。

長らく通説だった3世紀頃庄内期は始まるという年代観に対して、新しい
年代観が出たのは最近のことになる。

何とか年代を遡らせたい人達がいて、年輪年代の結果に飛び乗ったという印象
を受ける、と書いたら語弊があるかな?

309 :303:2006/12/25(月) 22:39:14
氏族の同族化は繰り返し行なわれ、その度に融合して新しく創作された神話を、
古い時代に上乗せしていく。
その繰り返しの結果が、8世紀の日本書紀の神話になったのであろうという訳です。

長々と書いて何が言いたかったのかというと、
宮崎(西都原)と畿内王権との同族化が起きた時に、日向神話が採用された。
で、天孫は宮崎に降臨することになった。
そして初代天皇を大和で即位させるために、神武はわざわざ日向から大和へ
東征してくる必要が生まれたという説明です。

結構、昔から言われている説なんですが。

310 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:57:26
>>303さんのスタンスを支持します。
細かいところは異論あるもののスレの趣旨と大きく異なるので自粛。
てか、アマテラスとかスサノヲとかニギハヤヒとか、その手の話題は
ここではもうやめませんか?

311 :唐松山:2006/12/25(月) 23:00:45
天孫降臨とは?

天= 天文 簡単に言ったら 暦
天孫= 暦を持った子孫
天孫降臨=暦を持った子孫が各地に入植

神武の入植した 日向 6年間耕作をしたが 山の腐葉土、毎年田に入れたが、
それでも収量の少ない痩せ地だった。

高天原
天体観測(毎年同じ山から観測する)の山の中腹の原

312 :唐松山:2006/12/25(月) 23:22:37
記紀に倭国大乱 を見つけられなかった人の為に
ホツマの景行 をお勧めします


ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

 アスス暦  年号より干支を割出す 式。
=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")


崇神6年を 西暦193年と見ると合点が行きます。
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。

増しで  景行 を精査
西暦 239年から 268年
西暦 239年 景行 天皇に成る...60年の増し
西暦 242年 タケウチ生まれる..尾張行幸..ワカタリヒコ生まれる...景行4、5、6,7,8、は同年


313 :唐松山:2006/12/25(月) 23:39:04
訂正

西暦242年=景行3,4年
西暦243年=景行5,6,7,8年

暦の見方は、 このページの最初に書き込みました。



314 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:49:10
>>308
まず最初に、これを押さえておいてくれ。

@弥生中期後葉から後期前葉への、甕棺に副葬される中国鏡の種類の
変化から、弥生後期の始まりを1世紀後半とする主張が
古くから九州の考古学者に言われていた。

で次にこれ。

A中国遺物の出土が殆ど無い畿内では、弥生中期後葉に
石鏃の大型化や出土量の増加、高地性集落の増加するなどの理由から、
畿内の学者は、これらの事象を倭人伝の倭国大乱を示すもの、とし、
弥生後期の始まりを2世紀末とした。

これで分かる通り、従来言われていたAの根拠が実にいい加減だかが
分かるだろ。
で、年輪だとか貨泉だとか考古学の新発見の全ては、
@が正しいことを示している訳。

畿内の学者が遡らせようと捏造してるとか、誰が言い出したのか
知らないが、このあたりの学術論争を知らないんだろうな。

315 :古代史トーシロー:2006/12/26(火) 00:02:13
>>308
 何とか年代を遡らせたい人達がいて、年輪年代の結果に飛び乗ったという印象
を受ける、と書いたら語弊があるかな?

同意します。纏向遺跡のホケノ山、箸墓古墳の年代測定は間違っていると思う。
古くても3世紀末。4世紀初頭かもしれない。

316 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:11:09
巻向は長脛彦の本拠地だろ。

317 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:11:30
>>315
>古くても3世紀末。4世紀初頭かもしれない。

論拠を述べよ。

318 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:19:14
>>316
長脛は生駒の豪族、他にイクメイリ(垂仁)、伊支馬等がその辺の支配者

319 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:21:04
3世紀末なら従来の主張と同じで、どこも間違ってないような気がするんですが・・・


320 :古代史トーシロー:2006/12/26(火) 00:24:01
>>317
15代応神天皇は4世紀末。
崇神天皇まで遡るとその辺り。

321 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:36:20
>>320
>15代応神天皇は4世紀末。

論拠を述べよ。

>>320
>崇神天皇まで遡るとその辺り。

ホケノ山と崇神天皇がどう関係しているのか。
それを言わないと、論拠を述べたことにはならない。

322 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:43:39
箸墓4世紀論者って、考古学者的には何%くらいなの?

323 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 01:06:49
>>322
もういない。
で、邪馬台国東遷説は完全に消滅した。
あとは安本が「畿内派が捏造して、実年代を遡上させている」みたいな
訳の分からない被害妄想を炸裂させてるだけ。

324 :古代史トーシロー:2006/12/26(火) 01:09:20
>>321
応神天皇…広開土王碑文
崇神天皇…箸墓とホケノ山古墳の類似性

325 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 01:22:45
古代史トーシローさんに訊ねますが、「宮山型特殊器台」という言葉をご存知でしょうか?
宮山型特殊器台は、「珍品」ともいうべき遺物で、日本全国でまだたった5箇所の遺跡からしか出ておりませんが、
その5箇所をご存知でしょうか?

326 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 02:19:28
>>303
スレ汚しもここまで来ると開き直らせていただきますが、
日向神話は全く浮いてません。これは、広く、同種のモチーフが見られます。
日向神話は、異郷に対する支配の力を王家が手に入れるモチーフです。
古代の世界観が綺麗に反映されていて、興味深いです。
世界を3つの世界に分けてますね、高天原と中つ国(人間界)と根の国:黄泉(死者の世界)
で、この中つ国も三つに分けてます。野と山と海(川であることが世界の、大陸の神話でよくあり)
先ほどハイヌウェレ型の神話を書きましたが、日本のハイヌウェレ型で、
富を嘔吐する女が、野に向かっては畑なっで栽培されたものを吐き出し、
山に向かっては獣の肉を吐き出し、海に向かっては魚を吐き出すというものがあります。
この現世の三世界観の反映でしょうね。
さて、日向神話ですが、これは要するに、稲をもって下りた稲の神様(ニニギ)である野の世界の主催者が、
山の主催者(オオヤマヅミ)の娘と交渉をもち、そして、海の主催者の娘と交渉をもち、
この三世界の主催者としての資格をそなえるというモチーフです。つけたしでもなんでもないです。
そして、これは現世での支配者となるアマテラスだけでなく、常世の支配者となるオオクニヌシの家系も同様です。
ちゃんと、山の神と海の神の支配者の娘たちと交渉をもって生まれた王家として、常世の王家となってます。
あと、日向神話ですが、南方系の匂いがきついですね。
コノハナサクヤヒメとイワナガはバナナ型の典型で南方ですね。
海幸彦山幸彦も南方系の分布ですね。
日本神話の寄せ集めはよくいわれますけど、おもしろいですね。
あと、東遷なんですが、王家の始祖が、川(日本では瀬戸内海)という明確な異郷との境界を越えて、
王国創設の地に至るっていうのは、本当に世界に広くありますよ。
そして、そこにはめこまれる地名や人名なんてのは、コロコロと変わりますよ。
ハイヌウェレ型の神話は、日本では各地の山姥伝説となり、同様の構造を持ちながら、いろんな地名が当て込まれてる民話が、
日本各地で収集されてます。口承伝承の地名や人名なんていうものは、そんなものです。
以上、極悪スレ汚しでした。ごめん。

327 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:32:19
>>306
ここでも黙殺されてんな。

しかし、どうして現在も又最新の年代測定法で鑑定しないのかな。
畿内説者が邪魔したりしているんだろうか。

328 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:35:43
国東といえば、まさに豊前の中津、宇佐と全く同じ領域。
紀元前から鉄製の剣はもちろん数トンに及ぶ鉄が出てくるとはね。
実のところ、別におどろきもしないが・・・


329 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 06:00:23
ウトウトしてしまいました。古代史トーシローさんも、どうやらオヤスミのようですね。
自分の書いたスレ(>>325)読み返すと、なんかテストじみた、まことに失礼なカキコミしちゃってますね(←反省)。というわけで、ともかく、「正解」を、書いておきます。

確実な宮山型特殊器台が見つかっている遺跡は、今のところ、次の5箇所の墳墓です。

 ・宮山古墳?(宮山墳墓群内) … 岡山県総社市三輪
 ・箸墓古墳(箸中山古墳) … 奈良県桜井市箸中(はしなか)
 ・葛本弁天塚古墳 … 奈良県橿原市葛本町(くずもとちょう)
 ・中山大塚古墳 … 奈良県天理市中山町大塚
 ・西殿塚古墳 … 奈良県天理市中山町西殿塚

名前でぐぐれば、いろいろ情報が得られると思いますので、興味がある方はやってみてください。
箸墓は、ご承知の通り、三輪山の麓に位置しますが、へーえ、総社市にも「三輪」があるんですね。
それと、じつはもう一つ、確実とは言えないものの、「宮山型特殊器台に近いものではないか」、とされる小さな土器片2個が、天理市内の古墳で見つかっている、との報告もあります。でもまあ、それはまた後日。

330 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 06:59:53
古代史トーシローさんは>>324で、「箸墓とホケノ山古墳の類似性」、ということを言われました。それと>>315のカキコとを合わせますと、
 「箸墓古墳とホケノ山古墳は類似しているから、ともに3世紀末〜4世紀初頭ぐらいの年代だろう」
とのご意見のように思われます。
しかし、類似面ばかりではなく、異なる面もあることを、私は古代史トーシローさんに理解してもらいたかったので、あの>>325の不躾な質問をしました。

ホケノ山は発掘調査が行われ、さまざまな情報が得られました。けれども、壺は出ましたが、特殊器台や円筒埴輪の類いは、何一つ、見つからなかったわけです。ここは大事な違いです。
また、ホケノ山の前方部(突出部)は、ダラダラとした緩やかな傾斜でもって、その端(前方部端)までおりてきているのに対し、箸墓の前方部端はかなり高く造ってあり、拝所から見るとまるで崖のようです。
平面図だけでは、この前方部端の違いはあまり分かりませんが、側面図で見たら、はっきり認識できると思います。

もう一つ大きな違いは、言うまでもなく、墳丘の規模です。箸墓はとてつもない大型古墳です。
また、箸墓の主体部の構造が分からないので比較はできませんが、ホケノ山が木槨構造を持っていたことも、気になるところです。大和では、ホケノ山の木槨は、初めて検出例だったのです。
以上、>>325>>329と本レスは、私、スレ主(>>1)のカキコでした(笑)。古代史トーシローさん、本当に失礼しました。どうかまたご意見を伺わせてください。

331 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:03:50
箸墓の前方部は異様に細く、それ以後の前方後円墳とは違うように感じます。
話に聞くと、あれは円墳部が半ばできた頃に、棺と副葬品をソリに乗せて引き上げるためのスロープで、
引き上げたのちには不自然でない程度に盛り上げて墳の一部にした、という話があるようです。
前方後円墳の最盛期のものは事実、前方部の下辺の角が一番傾斜が緩いそうです。

ところで、古墳の本体は単なる土盛りなのでしょうか?
中国同様版築によるものでしょうか?

332 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:41:28
過去スレにこんなのがあった。

結局、邪馬台国はどこにあるの?part3
http://mentai.2ch.net/history/kako/975/975949507.html

畿内説が物証を根拠に展開しているのに対し、九州説は妄想と中傷で成り立っているところなんざ、今とまったく変わらん。
今から6年ほど前のスレだけど、これひとつ読むだけでいかに九州説論者がたちが悪いかがよくわかった。
重藤遺跡についても触れている箇所があるから、>>327は読んでみ。

333 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:53:00
畿内説は物証を根拠に展開って、どのような邪馬台国に関する物証があるのでしょうか?
鏡はもうだめですよ。

334 :日本@名無史さん :2006/12/26(火) 12:57:27
畿内説が物証を根拠に?
物証て何?
まさか、三角縁の鏡か(景初4年物も多数出るまがいものですが)

鉄剣、や銅矛の分布状況が北九州に圧倒されて、
ついに、畿内説の方はここまで事実をねじまげるのか。

335 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:00:19
ここも興味深い。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/
この中の、(座談会)邪馬台国近畿説眉にツバT、U、Vでは白石太一郎に痛烈な批判を浴びせている。
畿内説の中でも支持者の少ない白石説ではあるが、少なくともここの九州論者は物的根拠を提示して批判しているのは評価してよい。



336 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:08:15
>>333-334
三角縁なんぞを根拠にしている畿内説なんていまどき無いってw
あったにしても少数かつ異端の説だよ。
鉄剣?その分布がどうして3世紀の王権につながるんだ?
同じく銅矛なんて弥生後期の祭祀具だし、平型銅剣や銅鐸も含めて邪馬台国とはまるで時代が違うじゃない。

337 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:20:52
ここに常駐する九州説住民ってのはな、要するに基礎的知識に欠けるってわけさ。
ちょっと調べればわかることですら知らずに書くから、矛盾しまくりになっちまう。
たとえば巻向が4世紀以降だったとしたら、同時に九州の各遺跡も年代が繰り下がるってことにも気づいてないじゃん。
土器編年って知ってる?それが各地で相互に繋がっているってことを知ってたら、そんなに変な答えはでないはずなんだがな。

学生社から「邪馬台国時代のツクシとヤマト」って本が出ているのだが、これ読んでみ。
考古学的事実に基づいた九州説と畿内説、両方が公平に記されているから。
少なくともこの本に書かれた程度の知識は持った上で語ってくれよな。


338 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:35:06
△は卑弥呼時代の邪馬台国とは無関係だろう。
むしろそれ以降の副葬品だということでけりがついている。
これは畿内説も九州説も同じ。

339 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 15:57:40
>>336
邪馬台国の時代って、範囲限定できるのか?

340 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 16:18:21
>>314
弥生時代は土器に地域性があるから、独自性があってもいいと思う。
弥生後期が何を意味するのかわからないが、北九州と畿内を無理やり合わせる
必要はないのではないかな。

重要なのは、池上・曽根遺跡から出土した木材が年輪年代法によって紀元前52年
とされ、それによって、畿内第V様式が100年ほども遡ったこと。
これは重要で、それまでの考古学の常識からすると100年もの違いがある。
それにつられるかのように、庄内式を含め全体的に年代が遡ったこと。

前にも書いたが、年輪年代法による測定結果が妥当だとしても、伐採した
時期と使用された時期が異なるのは、当たり前のようになっている。
誤差が500年あるものもある。つまり、紀元前52年に伐採されたものが
いつ使われたかどうかはわからない。

年輪年代法が正しいとしても、確実に言えるのは紀元前52年より前ではない
ということだけである。つまり、従来の説も十分の可能性がある。
にもかかわらず、第V様式は100年も遡った。

年輪年代そのものにもブラックボックスとの批判もある。
また、C14については、誤差がかなり大きいというのは外国の例でも明らか
である。
年輪年代法の結果によって年代を遡らせたことについて疑問を持つのは
当然だと思う。


341 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:30:33
良く、考古学的には、畿内説という声を聞く。
しかし、考古学はもともと古代の「文化」を研究する学問。
歴史的なことに口を出すのは、畑違いなのである。

その証拠に、文献に記述のない時代、たとえば弥生前期や中期の歴史的ことは、
考古学では全くわからないといっていい。
どういう人物がいて、何をしたかなどを考古学で知ることは出来ない。
また、そういうのは考古学ではなく歴史学の分野である。

邪馬台国問題も同じで、魏志倭人伝などの文献がなければ、弥生前期などと
同様になる。考古学では、邪馬台国などの国の名前もわからないし、卑弥呼の
存在すらわからない。

卑弥呼が魏から鏡をもらったこともわからないし、径百歩あまりの墓を
作ったこともわからない。

だから、考古学者の多くは邪馬台国問題には首を突っ込まないと思う。
これをいうと、語弊があるかもしれないが、少なくとも良識のある考古学者
ならば歴史学的なことについて断言するようなことはないと思う。

342 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:52:44
>>341
>その証拠に、文献に記述のない時代、たとえば弥生前期や中期の歴史的ことは、
>考古学では全くわからないといっていい。

あまりにも意味不明!
「弥生前期」「中期」・・・こんな言葉をオマエが使えるのも、考古学のおかげじゃろうて。

343 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:02:15
>>340
遡った遡ったと言うが、それまでいい加減に決めてた実年代が修正されただけでは?

344 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:07:26
遡ったも何も、倭国乱との絡みだけが根拠の昔の実年代観を、
何故そこまで信用するのかが理解不能。

345 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:44:51
倭国大乱とかいう記述を特別扱いしすぎじゃないのか?
倍年暦で修正したら、せいぜい、
5年くらいの乱でしょう?
こんなのは、戦乱というよりも、クーデター程度の話。

346 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:46:11
>>341
>その証拠に、文献に記述のない時代、たとえば弥生前期や中期の歴史的ことは、
>考古学では全くわからないといっていい。
>>342
>あまりにも意味不明!

そりゃそうさ。DQNだから「歴史」の意味を履き違えてるのさ。
弥生時代には、縄文の頃には無かった青銅器がつくられ、
銅鐸をわざわざ九州〜本州またにかけ運んだ人間がいたらしいことなど、
「そんなもの歴史じゃない!」って思い込んでるわけよ。ケッ。
http://page.freett.com/fukudaks/foto/2000/nagasaki/yosinonen.htm

347 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:59:13

一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。こ
れをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」という
結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説と合わなか
ったからだ。

 さらに同遺跡の下層には別の遺跡があり、推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓(て
っさい‖製鉄した後の残留物)が発見されたほか、縄文式とも弥生式とも異なっていて、
中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものとよく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土し
ている。
http://www.minyu.co.jp/shasetsu/0305gatsu/0523s.html


348 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:08:15
>>345
倭国大乱は157年から183年卑弥呼即位までの桓帝霊帝の間です。

349 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:16:41
吉野ヶ里の銅鐸はですね、AD40年代の出雲国譲りの時に、戦利品として吉野ヶ里に運ばれてきたものです。
これは歴史です。
出雲の銅鐸が吉野ヶ里で発掘されたとき、それは出雲の悲劇を物語る生き証人として登場したのです。


350 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:56:18
日本は弥生前期頃から鉄器時代に入ってたんか。

351 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:05:40
>>347
>推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓

どう考えてもありえない。
単位を間違っているんじゃないか?

352 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 07:07:49
あったんだから仕方がない。 

事実を無視して自説の辻褄合わせのために発掘物を間違いとしたいのかな?

353 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:03:26
>>352
古い時代の研究によるオーパーツであるなら、
後代の文明に繋がっていると確認できない。

それは黙殺する以外に方法があるのかな?

354 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:21:36
オーパーツは他にもあるしな。何らかの間違いとして無視しても仕方がない。
それが考古学の限界でもあるわけで。

まあ、話題をマキムク王権に戻しましょう。

355 :古代史トーシロー:2006/12/27(水) 09:53:49
>>330さん
 >>325の件はまったく、知りません。
私はコテの通り、トーシローです。書き込みに間違いがあれば、即座に指摘ください。
ありがとうございました。


356 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:56:20
倭国大乱の時期がポイントなのかな?

357 :古代史トーシロー:2006/12/27(水) 10:04:16
>>329さん
箸墓と吉備の関係ですか。まったく知りませんでした。

358 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:40:54
マキムク遺跡の考古学的な分析だと
ここって、祭祀都市であって、住居あとが見つかってないんだろう?
あと、前方後円墳もここから始まっている。
そうだよな、たしか。

記紀では

崇神天皇の記載では、飢餓や疫病が蔓延していて
叔母の巫女による神権政治とか始めたとある。

また、崇神の時、飢餓などによる社会混乱の影響で、各地で反乱が起こっていたが
なかでも、遠い地の蛮族の反乱の記載がある。
これって、狗奴(くと)国=宇土(うと)半島の反乱じゃないのか?

崇神の次の垂仁天皇の時、古墳に埴輪を埋めるようになったと書いてあるが
ちょうど、3世紀後半ぐらいから畿内で埴輪が見つかるようになる。

マキムク、卑弥呼、崇神
全部、繋がってくる。

359 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:42:01
>>358
このスレでは、纏向遺跡は、竪穴式住居ではなく、
高床式住居だったのではないかという見解になってる。

考古学では、まだ住居だけ、年代が遡っていなかったということか。

360 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:48:08
サガミハラハラさんという人が年代を出そうとしているけど

自分も年代を出そうとしているんだけど、
紀元の年代の出しかたってややこしい。

小数点で出すと、たとえば
紀元345.5年と出すと、これは
345年なのか、346年なのかで、頭が混乱するし、
紀元前のまたぎの計算だと、紀元0年というのがなくて
紀元1世紀の前が、紀元前1世紀だから、やたら、ややこしくなる。

361 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 14:53:07
纏向勝山古墳の築造年代については、畿内説の考古学者の中には、3世紀前半と
する人がいる。これは、出土した木材の伐採時期が年輪年代によって、西暦200年
前後とされたためである。

新聞記事では、「邪馬台国は古墳時代!ヤマト政権説強まる」となっているらしい。

しかし、勝山古墳からは布留0式の土器も出土している。3世紀後半から始る
とされる土器である。つまり、勝山古墳を3世紀前半の築造とすれば、布留0式も
その時期となり、その前とされる庄内期もさらに遡る。

池上・曽根遺跡から出土した木材の年輪年代法による測定により100年ほど遡り、
さらに、石塚古墳から出土した木材の年輪年代法による測定により、さらに
80年ほども遡ることになる。

たった一人の人間の出した結論によって、古代の年代観はいいように左右される。

362 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 14:58:35
>>361
>たった一人の人間の出した結論によって、古代の年代観はいいように左右される。

たった一人の人間て、誰よ?

363 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:10:39
>>362
光谷拓実。

364 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:12:47
>>361
邪馬台国畿内説は、マキムクの遺跡もさることながら
記紀の年代測定からのほうが説得力がある。

新聞では畿内説が有力になっているけど
それでOKだと思う。



365 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:24:13
>>363
光谷拓実という人が出した結論は間違ってる、てこと?

366 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:32:09
>>365
たった一人だから、検証のしようがないということ。
誰でもが納得できるようなデータが公表されていないということ。

にもかかわらず、それを信じて、土器の実年代を遡らせる考古学者がいること。

367 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:18:22
そういえば国東半島の夷谷の川底には鉄滓みたいなのがゴロゴロしてるな

368 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:31:41
>>366 概ね同意だけど。年輪年代自体は、たぶん正しいと思う。

木材が西暦100年に伐採されたことが判明しても、確実なのは西暦100年より
前にその木材が使用されていなかったことのみ。
その木材が使用されたのが伐採直後なのか、10年後か100年後かは別問題。

畿内説論者もよく見ると年輪年代=使用年代と断言する者はほとんどいない。
発掘担当者などの見解として、「伐採直後に使用されたはずである。」との意見が
流布されているのを黙認して、さりげなく年代特定に利用しているだけ。


369 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:59:07
最近も、実年代については確定と言える程の根拠はまだない、という見解が主流なんだろう。

若手の考古学者は、実年代なんかより、土器編年で語ってるしな。
昔の人ほど、倭人伝にこだわる。
考古学的発見がまだ少なくて、倭人伝で補強するしかなかった時代だったのだろう。

邪馬台国も客寄せパンダとして利用してるだけ。

畿内説遡上派が、とか訳の分からないこと言ってる人は、ちょっと冷静になれ。

370 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 19:31:36
実年代を特定出来ないとして無視して、土器編年で語る。

弥生後期を通じて倭国には4つの首長連合が誕生、成長していった。
筑紫(広形銅矛)、
畿内・東海(銅鐸)、
吉備(特殊器台)、
出雲・越(四隅突出型墳丘墓)。

で、弥生終末期(庄内)に、筑紫に大和の影響が見られるようになる。

つまり、倭人伝にあるように、筑紫を影響下に置けるような王権は、筑紫と畿内のどちらかしかない。

宇佐やら西都原などは、その発展が庄内以降なので、邪馬台国足り得ない。

実年代を無視しても、邪馬台国は、筑紫か畿内のどちらかになる。

371 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:15:48
なあ、土器の種類だけで、
その地域がその地域を影響下に置いたなんて
分かるものなのか?

いや、外国ではさ、同じローマ帝国内でも
地域によって出てくるものは違うし、
また、支配者であるローマ帝国が、逆に被支配者の文化の
影響を受けることだってあったわけだし...

とにかく、日本の古代史は史料が少なすぎるから
あまりにも、土器とかそういうもので
全てを決め付けようとしている。

372 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:30:49
>>361
新聞は早合点だが、
邪馬台国=大和王権=卑弥呼時代=崇神時代
は、ほぼ正しいと思う。

また、崇神天皇時代が確実なら、それ以前の欠史八代時代も、信憑性が正しくなる。

日本書紀も古事記も干支は、雄略天皇の在位期間中に
二倍年暦〜通常暦に移行したことは分かっている。

ただ、日本書紀のほうは、記述を深めるにあたって
神功皇后を卑弥呼にだぶらせるために、他の天皇の在位期間を
間延びさせたり、年代に虚構年をもうけたりして、
後世の人間の歴史解釈の混乱の元になっている。

逆に古事記のほうは、干支没年と寿命しか載せてないぶん、
淡白なので、意図的な改竄はしていない。
間違っているとしたら、欠史八代の孝元と開化の二人の天皇の寿命と
在位期間を勘違いして載せている。

373 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:45:14
>>358
住居跡が無いというか、当時の住居の主流の竪穴式住居が出てこない。
さらに他の遺跡では鋤と鍬では鍬のほうがたくさん出土するのがマキムクは逆
その鋤は土木工事に使われたものと思われる。
この辺から計画的に作った特殊な場所だったのは間違いないわけで
あまり、邪馬台国と結び付けて考えたくないけど、連合国の首都的な感じがしますね。

374 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:57:16
>>366

年代測定が間違っている可能性はあっても、参考にはすべきじゃないか?
欧米よりも測定が難しくとも、精度が上がれば使用可能という考え方は間違っていないのだから。

375 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:11:11
>>371
>なあ、土器の種類だけで、
>その地域がその地域を影響下に置いたなんて
>分かるものなのか?

土器だけじゃなく、「土器編年」だからね。
一緒くたにしちゃいけないよ。

那珂八幡とか明らかに大和の影響。
あと、庄内以降、中国鏡が畿内を中心に出土するようになるなど、
劇的な変化が見られる。
畿内>北部九州になった瞬間だな。

376 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:22:37
>>374  多くの研究者により検証が可能になるまでは、「参考」止まり。
以前はC14とのマッチングをして年代が整合するとの結果を発表していたが、
そもそも年輪の基礎データーが不明で意味なし。

最近では、C14は海、湖、河口など水場の近くでは古く出ることが判明したが、
マッチングで年代が整合したという過去の調査が、逆に疑問となる。
とにかく他の研究者による検証のない数値であると言うことは致命的。

377 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:03:37
>>376
C14や年輪が頼りないのはそうなんだが、
他に実年代の根拠無いからね。

だからといって、昔の実年代観が正しい訳じゃないのにな。
C14や年輪よりもっと根拠薄弱だろ、と。
安本哀れw

378 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:11:20
>>375
いや、俺はマキムク以前も
政治的には畿内のほうが強かったんじゃないのか?って。
ちょうど、江戸時代初期みたいなもん。
徳川時代初期は畿内のほうが有利だったけど
後期から江戸が有利になった。

マキムク以降は完全に総合的に畿内有利になった。
俺が思うに、マキムクの建設というのは、
飢饉や疫病の流行による社会不安が大きな要因なのでは?と。
その結果、かえって、畿内中心に求心力が逆に高まったのでは?と。
マキムク以前も畿内王権があったけど、比較的に緩やかな体制だったのだが
マキムク以降は畿内中央集権体制化が進んだのでは?と。

379 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:28:33
>>377  安本は最近、説を変えたようだ。
庄内の開始を200年頃として、畿内の庄内の一部を古く見ている。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm

この考えは、同じ鏡種が庄内期、布留期の遺跡から出た場合と古墳から出た場合とで
同位体比に大差があること(新井、東アジアの古代文化129号)とも整合する。

現時点での結論としては、以下のとおり。
1、庄内→布留と画一的に変化したのではなく、地域によっては重複期間がかなりある。
2、(古墳前の庄内、布留)→(古墳期の庄内、布留)とでは、時代が明確に異なる。
3、(九州の庄内)→(九州、瀬戸内の庄内、布留)→(畿内の庄内、布留)→(古墳期の
  庄内、布留)という年代順で見れば、データーと整合する。
4、庄内、布留の年代が遡っても、古墳時代が遡ることにはならない。

380 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:29:43
>>378
>飢饉や疫病の流行による社会不安が大きな要因なのでは?と。
>その結果、かえって、畿内中心に求心力が逆に高まったのでは?と。

人口の減少やら集落の消滅は、弥生中期後葉。
弥生後期は一貫して、人口増であったようである。
考古学で言えば。

381 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:36:47
畿内の場合は、弥生後期に鉄がないからねえ。
甘く見ている人もいるかもしれないが、これは古代を考える場合は致命的。
唐子・鍵も一生懸命、鉄を探したけれども結局出てこなかった。
よって自生説は消滅。
溶けてなくなったなんて奇妙な説も現れたけど、これが畿内説の焦りを
象徴していた。最近は鉄は無視して、土器の編年に集中している感がある。
銅鐸についてももう少し調査して欲しいものだが。

余談だけど、唐子・鍵遺跡の土器に書かれた絵から建物が復元されたときは
笑ってしまった。

382 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:43:22
>>381
なんかイヤミな感じのレスだな。
唐古を2回も変換ミスして気付かないのもヘン。

383 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:39:49
>>381
弥生中期すでに関東まで鉄器は伝播している。
畿内の弥生後期の石器の出土量の減少は、鉄器の普及を示している。
唐古鍵の大環濠の掘削量は、巨大古墳の質量に匹敵。鉄器が用いられたことを暗示する。

これらを踏まえた上で、次の文を読んで欲しい。


農器具が鉄器で作られるようになると、農地の開拓が進んだ。
中世の日本では鉄は非常に貴重なものだったので、
鉄製の農機具は政府の持ちもので、
朝借りて来て夕方には洗って返すことになっていた。
私有地を耕すのには鉄の農機具を使う事が出来なかったため、
良い農地は政府の所有であった。
すなわち、中世の日本の貴族は鉄の所有権を通して遠隔地にある荘園を管理した。
鉄無くして京都のような首都を持つ中央集権国家は有りえなかったといわれる。


つまり、畿内は鉄を国家で一元管理していた、と。
記紀に見る石上神宮などの伝承はそれを示唆している。
小国家乱立、富裕な商人たちが多くいた北部九州は、
鉄器が商人の墓に副葬される機会が多かったと。

まあ、古墳時代になっても、鉄技術に関しては北部九州>畿内は変わらないんだけどね。

余りにも前時代的な発言なんで、ムキになってしまったが。
村上とか読んで、勉強し直した方がいいよ。

384 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:49:02
>>383
鉄問題はこれで解決だな。
大体、合っていると思う。

弥生後期の畿内は、階級差の無い社会で、特定個人が崇拝されることもなく、
首長墓も築かれなかった。
その代わり、庄内開始と同時に、鉄が爆発的に増えるんだけれど。
つまり、見る銅鐸を捨てた大和・中河内の首長連合がマキムク王権を誕生させ、
首長霊祭祀、前方後円墳の祭りを創始したのだと。

村上の言う通り、鉄を政治と結び付けて考える愚はいい加減に止めた方がいい。

385 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:05:44
>>383
鉄は溶けて無くなった的な理論からあまり抜け出していない。

>唐古鍵の大環濠の掘削量は、巨大古墳の質量に匹敵。鉄器が用いられたことを
暗示する。
これは単なる想像に過ぎない。縄文時代の三内丸山遺跡では巨大な建物が
建てられているが、これは鉄でなければ建てる事が出来ない、というのと
同じで、鉄があった証拠には全くなりえない。

>畿内は鉄を国家で一元管理していた。

これを考古学的にどうやって説明するんだろう。まるで、畿内に鉄がないことなど
ありえないというのを前提に考えている。
単なる都合の良い想像に過ぎない。

九州と畿内を比べた場合に異なるのは、畿内では鉄加工の痕跡が全く見られないこと。
鉄を加工すれば、製作ゴミが出てくる。仮に、国が管理していても同じこと。
管理していれば、修復の必要もあり、なおのことその痕跡が顕著になると思う。

いい加減に鉄がなかったことを認めたら?


386 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:08:23
残念ながら、鉄に着目した九州東遷説は現在は否定されてしまっている。
前方後円墳における九州の影響が余りにも少ないから。

鉄至上史観からの脱却が、現在の古代史研究に求められることだろう。

考古学は早くにそれに気づいていたんだけれど。

387 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:16:18
>>386
古墳についても、九州には古いものがある。
西都原81号墳は、纏向型と呼ばれる前方後円墳で、日本最古級と考えられている。
ひょっとすると、宮崎の古墳のほうが畿内よりも古い可能性もある。
西都原古墳群には、未調査の古墳も多いので、発掘調査が進むと、
新しい発見があるかもしれない。

http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm


388 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:18:35
>>387
ないよ、残念ながら。
西都原の土器が古い、という説も、現在は否定的に語られている。
ちょっと期待したんだけれど

389 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:25:08
>>385
>鉄を加工すれば、製作ゴミが出てくる。仮に、国が管理していても同じこと。
>管理していれば、修復の必要もあり、なおのことその痕跡が顕著になると思う。

いやだからね。
庄内以降も、鉄に関しては北部九州>畿内なんだって。
九州東遷説が否定されるのは、このことからも分かるでしょ。

鉄技術に優れた北部九州が東遷すれば、庄内期に飛躍的に
鉄の痕跡が増える筈。
実際はそうじゃない(鉄器の副葬は増えるけれども)。
庄内以降も鉄に関しては北部九州>畿内が続いている。

390 ::2006/12/28(木) 01:28:52
>>384
おれも畿内説だから内ゲバみたいになっちゃうが、
大和・河内だけでは、前方後円墳は築造できないと思う。
埴輪、葺き石、竪穴式石カク、朱・・・・
そして最大の問題が、銅鏡の多数副葬という弥生期には北部九州にしかない埋葬儀礼。
どう説明する?

391 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:33:57
>庄内以降も、鉄に関しては北部九州>畿内なんだって。
>九州東遷説が否定されるのは、このことからも分かるでしょ。

確かに、マキムクでも鉄の痕跡は少ないからな。
副葬品としての鉄器は爆発的に増えるけれども。

392 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:43:07
>>390
>大和・河内だけでは、前方後円墳は築造できないと思う。

確かにそう。東瀬戸内地域の影響は大きかったと思われる。
阿波、讃岐、播磨地域。
瀬戸内海航路が生命線だった初期ヤマト王権にとって、いずれも
重要なパートナーだっただろう。

しかしマキムクの立地は、瀬戸内海より、東海や北部近畿を向いている。

393 ::2006/12/28(木) 01:52:14
>>392
鏡の大量埋納の解釈を頼む。

394 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 02:36:56
>>390
それを否定する人はあまりいないじゃないかな?
むしろ九州や吉備やらの影響うけてるからこそマキムクは連合国都市ぽいと言われてるんでしょ

395 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 04:08:55

で、纏向で王宮跡や有力家臣の邸宅跡が発見されたのか?


396 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 04:16:42
畿内説の考古学としては、どうして銅鐸が消えたのかも研究課題では?

397 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 04:18:55
答え:邪馬台国滅亡

398 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 05:36:03
>>396-397
違う。
>397の答えは、畿内邪馬台国が銅鐸祭祀の国、という誤った前提に
基づいている。
銅鐸というあれほどの特徴のある祭器について、倭人伝は何も記さないではないか。

畿内説であっても九州説であっても、3世紀前半の倭人は銅鐸の祭祀を
もうほとんどやってなかった、ということだ。

399 :太国:2006/12/28(木) 07:34:36
>>372
最下段の論はどうだか知らぬが、あとはほぼ全部間違い。

400 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 08:41:27
>>390
鏡の崇拝は確に北部九州発。
しかし、畿内の古墳のマツリ自体が各地の葬送儀礼のパッチワークに過ぎず、
鏡だけを取り上げて、九州の影響が強いとかは言えないだろう。

畿内首長連合が、神獣鏡を銅鐸に代わる新しいレガリアとして採用した
という解釈でいいのでは?

401 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 15:45:18
>>399
太国は、ほぼ
あちらこちらで論破されまくり。


402 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:08:26
記紀だって銅鐸に言及してないじゃん

403 :神奈川県民:2006/12/28(木) 16:49:46
この国は天皇家の大和朝廷によって徐々に国家統一されていった。
しかし、その大和朝廷の磯を築いたのは素戔鳴の子、大歳(大物主)であり
最大の功労者でもある。
天皇家は三輪山に眠る大物主を国の守り神としてたそうだ。

404 :唐松山:2006/12/28(木) 17:03:18
記紀に 銅鐸の出てこないわけは、記紀をかかれた時点では、忘れ去られた 物体だったから、
では 何故忘れ去られたか
銅鐸は、サホコの国の祭器であり 巻向政権はそれを受け継がなかったから
いつか?
崇神のところに出ている 国譲り
西暦193年 崇神6年 が妥当だと思います。


405 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:43:43
崇神天皇と西暦193年は妥当ではないだろう?

あと、魏志倭人伝の7,80年前に大乱というのも
二倍年暦での倭人の計算だと考えて
3,40年前ぐらいとするべき。

406 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:45:24
大物主とかって、本当に出雲なのか?

実は三輪山の人間だったんだけど
出雲へ追いやったんじゃないのか?

どうよ?

だからこそ、出雲国風土記と記紀の出雲神話は整合性がとれない。

407 :唐松山:2006/12/28(木) 18:24:48
崇神6年を 西暦193年と見ると合点が行きます。
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。

この飢饉で出雲の国は、崩壊(種籾まで食べ尽くした)
国譲り
国譲りを受けた崇神 ハツクニ...
ここから 本当の70−80年後 景行

408 :唐松山:2006/12/28(木) 18:32:01
出雲というと すぐ 山陰 を思い浮かべてしまうから 間違う
サホコの国は、連合国家 唐古から近江、丹波、山陰、九州北東部


409 :唐松山:2006/12/28(木) 18:41:23
崇神の時代の 四道将軍 
この 国譲りの後始末
大ひこ をして 越の主
その他 各地に支配者を置く ほとんどサホコの国


410 :唐松山:2006/12/28(木) 19:14:02
畿内の騒乱は、おおむね収まったのですが九州では、ずーっと続きます。
そして 九州では、卑弥呼を建てて 治めようとしましたが、
治まらず 疲弊 景行に出動要請。


411 :唐松山:2006/12/28(木) 19:36:15
山陰 出雲では (鳥取か) どざえもん まで神様として祭ってる。


412 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:44:11
というか、国家統一と分裂・反乱を
たえず繰り返していたように思う。
統一したら、そのままではなく、また二百年くらいたったら
各地で反乱が起こるのを繰り返していたように思う。

413 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:27:55
この板の住人一人一人が全く違う考えを持っていることがわかった

414 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:36:48
纏向遺跡というのは、纏向1式から4式(庄内0〜布留1)まで存続し、
古墳の作られた時期は勝山、石塚などほとんど布留0式。
つまり、遺跡が出来てからかなりの年月の間、古墳は造られなかったと考えて
いいのかな。

415 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:40:55
うむ

416 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 01:22:31
>>414
纏向遺跡近辺にある全長100メートルほどの5基の古墳の築造時期が、論者によって少しずつ違うのです。そこがなんとも難しく、悩ましいところです。
5基とはもちろん、 石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山  です。

次のリンクは、アマチュア古代史ファンの方のサイトですが、実によく考古学を勉強されておられ、とても参考になります。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/index1.html

けっこうボリュームがありますので、とりあえず、 「纏向の初期古墳」、「土器の編年」の二つのページを、じっくりお読みになればよろしいかと。

417 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 02:33:15
以前はこれら5基の墳墓を、「纏向型前方後円墳」と言ったりしましたが、石野博信さんなどは最近は、「突円墳」(長突円墳、バチ形突円墳)などと言い換えておられるようです。
その石野さんが最も古い年代観をお持ちのようで、石塚を庄内期のかなり早い段階の築造と、とらえておられるようです。

これに対し、最も新しい年代観の考古学者は誰か、といいますと、おそらく岡山大学名誉教授の近藤義郎先生だろう、と私は思います。
近藤先生は、纏向遺跡近辺にあるもう一つの大古墳、すなわち箸墓古墳こそが最古であって、前記の5基墳墓は、箸墓と同時期か、もしくは少し遅れて築造された、というご意見のようです。

他の考古学者の大半は、その中間的な年代観、と言ったらいいのでしょうか、まあ箸墓を布留0とし、残りの5基のほうはやや遡って庄内3式ぐらいの時期を考えておられる方が多いのではないでしょうか。

418 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 04:07:59
東田大塚古墳──ひがいだおおつか、と読みます。
石塚・矢塚・勝山の三角形から少し離れて、田んぼの中にポツンと墳丘を見せている古墳です。この古墳は平成9〜10年に発掘調査が、ごく部分的ですが、行われました。
その正式報告書が今秋ようやく発刊され、PRのページが、東京の考古学専門書店(六一書房)サイトと、桜井市役所のサイトに出ております。
http://www.book61.co.jp/recomend/2006/higaida.htm
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/event02.html

ちょっと驚くんですが、ありゃりゃ、値段が違うんですよ。(笑)
それで、私は、「こりゃぜったい桜井市埋蔵文化財センターで買うべきだな。市役所サイトには来春に、この調査を手がけた橋本輝彦さんの講演会予告も出てるから、久しぶりにマキムクを歩いて、センター見学して、講演聴いて、そのついでに……」
なんて一石四鳥を狙っておりまして、まだ中身は全く読んでおりません。(苦笑)
でも上のリンクで目次を見ますと、全体の3分の1ほど、すなわち100ページ近くも「考察」編に充ててあり、東田大塚ばかりでなく、纏向の墳墓全体を取り上げてくださってるようで、相当に期待がもてる内容だろうと、いまワクワクしている次第です。

419 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 14:58:01
箸墓築造(布留0)を西暦250年、卑弥呼の墓だとすれば、
先行する石塚、勝山などは、卑弥呼共立以前の男王の時代、倭国乱の頃の、
畿内王家の墓ということか。

420 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 15:46:48
>>419
時代から考えて、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の時代だやな。



421 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:55:38
記紀禁止スレが欲しくなってきた
頭痛い・・・・・

422 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:33:06
>>395 マクムクで王宮跡が発見されたという話は聞かないが、
「マキムク王権」とは莫大な発掘費用を正当化するためのカマシか?

423 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:34:58
欠史八代は、葛城地方の山河の古い神々を天皇に追加しただけ、とされてますけどね。
銅鐸神のことなんでしょう。
おそらくは天皇記国記を編纂した蘇我氏(自称・葛城後裔)の意向が
反映されているのでは?

ただ孝霊は、吉備との関連が深い天皇。近藤の言うように、吉備から迎え入れられた大王かもしれない。

424 :神奈川県民:2006/12/29(金) 22:54:22
中国の物が出てこないんじゃあしよーがねえ

425 :唐松山:2006/12/29(金) 22:57:40
巻向は、崇神の時代まで 神武以来の 弱小国家
国譲りを受けて大きくなった。
記紀に国譲りと 書いてあるのに 7,80年後の卑弥呼を持ってくるのか
西暦190年すぎ

426 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:58:37
>>423
それは、現代人の一人の想像に過ぎないからな...



427 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:04:29
>>424
二世紀末から三世紀初頭の製作の画文帯神獣鏡は畿内中心に出土。
いい加減に認めなさい。

428 :唐松山:2006/12/29(金) 23:37:20
古代 天皇家の シノギは 種貸し(農事暦付)
国譲りを受けて 万物が集まるようになった。
でも まだ 九州まで軍隊を送り込む実力は無い
戦は 在ったかも知れないが そこまで
魏誌に書いてある 倭国乱れる とは 戦の事ではなく(脇から見たらその様に見えるが)
乱れる とは (身分の)上下の乱れ 黄蕃で収めるのは 上下の乱れ 
景行に出ているのが 其れ。

429 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:15:09
>>428
初期ヤマト王権は山口組みたいなものでしょう。
物量にモノを言わせ、地域暴力団の跡目争い、抗争に介入。
勢力を拡大していった。
各地の首長たちは、自身の王権を、より強大な王権に承認してもらおうと、
こぞってマキムク傘下に加わろうとした。
いやむしろ、マキムクに認められないと、
マキムクのバックアップを受けた他勢力の追い落としを受ける危険性があった。
この場合の代紋(山菱)は前方後円墳、三角縁神獣鏡だったのだろう。
庄内以降、倭国全体で畿内式古墳が造り続けられたのは、そういうこだと。

430 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:21:14
垂仁天皇は3世紀後半が活躍の舞台だった人物
その理由


3世紀中葉〜後葉になると、畿内に出現した前方後円墳に
特殊器台形埴輪およびそれとセットをなす特殊壺形埴輪が新たに出現している。
この特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪の分布の中心は吉備から畿内へと移動しており、
その出現に際しては畿内側の役割が大きかったものと推察されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、
前方後円墳に特殊器台形土器・特殊壺形土器が採用されていることは、
吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。

日本書紀垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)(出雲国出身)が
日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、
これを埴輪の起源とする。

431 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:25:28
>>429
後漢の権威失墜によって、後漢に代わる権威が要請された。
それがマキムクなんだろう。
そして問題となってくるのが、なぜ三輪山の神官がそれ程の権威足り得たのか?ということ。

432 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:45:37
>>430
垂仁が三世紀後半に実在したかどうかは別にして、
垂仁が出雲と関係が深いのは事実。
ホムツワケ神話は、聖なる王子が出雲を祭祀する話。
垂仁紀の半分を使ってまで語られるホムツワケとは一体誰なのか?

433 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:54:04
>>431
あと、気候変動で
年輪年代測定方法では3世紀の日本は寒冷期で
この時代に飢餓や疫病が流行った模様。

434 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:59:32
>>427 じゃあ、ホケノ山は180〜200年頃? ありえないね。
紀年にすがりつく画文帯、三角縁の年代論は今や「カルト」のレベル。
日本以外では1枚だけ楽浪郡から出た同向式を舶載鏡とするのも無理。

画文帯は邪馬台国時代以降はもはや共通認識。伊都国、奴国からも出ない。
画文帯の大半は300年以降、三角縁330年以降で結論が出ている。
いい加減に認めろ。

435 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:36:04
>>434
>画文帯の大半は300年以降、三角縁330年以降で結論が出ている。

>434さんの上記のレスについて、そのご主張の真意が私には解りにくかったので、確認させてください。
「330年以降」、「330年以降」と、年代を書いておられますが、次の」二通りの意味のどちらにでもとれるので、@の意味でおっしゃったのか、それともAの意味でおっしゃったのか、ぜひ明確にしてください。

@日本の古墳から出土した画文帯鏡のすべては300年以降に築かれた古墳の副葬品であり、三角縁鏡のほうはすべて330年以降に築かれた古墳の副葬品である。
A(世界中の)画文帯鏡はすべて300年以降に鋳造されたものであり、三角縁鏡のほうはすべて330年以降に鋳造されたものである。

 (@は要するに「鋳造年代については論及していない」との立場です。念のため)

さて、>434さん。いったい@かAの、どちらの意味でおっしゃったのでしょうか? あるいは、@やAとはまた別の意味でおっしゃったのでしょうか? 返レスよろしくお願いします。

436 :435:2006/12/30(土) 01:39:53
上文3行目のところ、書き違えました。失礼しました。

× 「330年以降」、「330年以降」と、
       ↓
〇 「300年以降」、「330年以降」と、

437 :神奈川県民:2006/12/30(土) 01:58:52
熱い論争してる!!
纏向遺跡に関してはあまりよく知らないので教えて欲しいぐらいです。
しかし重要な中国製のものが出てきてないと聞きましたが

438 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:08:29
>>430
神武天皇は東征の折、吉備の高島宮にかなり留まっている。
古事記によると8年。日本書紀によると3年いて、船舶、兵器、糧食を
整えたとある。

439 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:12:51
>>434
ホケノ山は布留0式の土器が出ていて、この時期の古墳とされる。
また、木棺もだいたい布留0から1とされていて、このあたりが妥当だとされる。

布留0式の古墳からは三角縁神獣鏡が出土していて、これを3世紀前半まで
遡らせる考古学者は、畿内説の人も含めいないらしい。

440 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:57:42
>>439
>布留0式の古墳からは三角縁神獣鏡が出土していて、

それは権現山51号墳のことをおっしゃっておられるのでしょうか?
もし別の古墳のことを指しておられるのであれば、ぜひその古墳名をご教示ください。お願いします。

441 :434:2006/12/30(土) 03:24:04
日本で出土した画文帯の大半は、300年以降に日本で製造。同向式は全部日本製。
画文帯は一部が250年以降に日本に来て、300年以降に模倣が始まる。
三角縁は全部日本製で330年以降。紀年鏡も含めて。

日本でしか出土しない多種多様の三角縁が日本製なのは、当たり前。
むしろ、いまだに大半を舶載とする学者の脳構造の方が疑問。
画文帯から三角縁は一連の流れであり、画文帯の大半は日本製。

442 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 03:48:49
>>441
起きてらしたんですか。どうもわざわざ済みませんでした。おかげでご趣旨はよく判りました。
日本で出土した神獣鏡の類いがほとんど日本製作であろう、というご意見は、まったくその通りだろう、と私も思っています。
できれば、鏡の鋳型がどこか日本の遺跡で出てこないか、それなら決着がつくのになあ、と思うことさえあります。ただ銅鏡は、そのほとんどが(大型銅鐸もそうですが)粘土を使って鋳型をこしらえたそうなので、鋳型の出土ということは、あまり期待できないみたいですね。

443 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:36:28
>>441
>画文帯は一部が250年以降に日本に来て、300年以降に模倣が始まる。
>三角縁は全部日本製で330年以降。紀年鏡も含めて。

このようなご主張を>441さんはされるわけですが、私には少々疑問の点がありますので申し述べます。次に、古墳から出土した2枚の銅鏡を掲げます。大変に有名な鏡です。

・景初三年銘、画文帯神獣鏡(同向式、四神四獣)、和泉黄金塚古墳/大阪
http://inoues.net/enjoy/mirror11.html
・景初三年銘、三角縁神獣鏡(同向式、四神四獣)、神原神社古墳/島根
http://www6.pref.shimane.jp/cgi-bin/odbget.exeWIT_template=INPAKU_MAIBUNGRPDISP&WIT_oid=DAaz914tVpgFl0udfIVyp2dmOhPLdII92LapI91

>441さんは、「同向式は全部日本製」、ともお書きですから、和泉黄金塚鏡も、また三角縁の神原神社鏡も、いずれも日本で鋳造された、と思っておられる筈ですよね。
そうすると、ご主張に従うかぎり、和泉黄金塚鏡は300年以降の製作であり、神原神社鏡が製作されたのは330年以降、ということになりますが、私はそれだと、「ちょっと妙だな」と思うわけです。(つづく)

444 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:37:46
(つづき)
いちど製作した銅鏡も、それに粘土を押し当てて鋳型を再び起こしてやれば、また同じ文様の鏡がコピーできます。コピーのコピー、そのまたコピー……、とやっていくことも可能でしょう。
和泉黄金塚鏡も、神原神社鏡も、その可能性はゼロとは言えません。なにか、元になった鏡が別にあったのかもしれません。
しかし、そのように辿っても、いちばん最初は、鏡の工人が手作りで文様を彫った──そのような「オリジナルな」鏡が、必ずあった筈です。仮にですが、「オリジナル鏡」、と呼ぶことにします。

私が問題にするのは、和泉黄金塚鏡や神原神社鏡のオリジナル鏡です。まあ、出土した鏡自身がオリジナル鏡なのかもしれませんが、オリジナル鏡がまだ地下に眠っているかもしれません。ここは棚上げしておきます。
しかし、和泉黄金塚鏡も、神原神社鏡も、工人がてづくりで鋳造した一番最初のオリジナル鏡は、絶対に存在した筈ですよね。(つづく)

445 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:42:19
(つづき)
>441さん。
この「オリジナル鏡の製作の場面」を、ぜひ頭の中でイメージしていただけませんでしょうか。
>>441さんの主張に従えば、オリジナル鏡であっても、和泉黄金塚鏡は300年以降の製作であり、神原神社鏡が製作されたのは330年以降、そして両方とも日本での製作、ということの筈です。

和泉黄金塚オリジナル鏡は、どんなに古く見積もっても西暦300年の製作、というご主張になりますが、私が「妙だな」と思うのは、なぜその製作時の紀年ではなく、61年も前の景初三年(239年)の紀年銘を彫りつけたのか、ということです。

三角縁神獣である神原神社オリジナル鏡のほうは、441さんの主張に従えば、どんなに古くても西暦330年の製作──。
景初三年(239年)からはすでに91年も時が経ってしまっているのに、どういう理由でそんな昔の古い年号を紀年銘として彫りつけなければいけないのでしょう?

>441さん。ぜひ納得のいく説明をいただきたいと思います。よろしくお願いします。

446 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:58:36
>>443です。
神原神社鏡へのリンクURLが間違ってました。ごめんなさい。張り直します。

・景初三年銘、三角縁神獣鏡(同向式、四神四獣)、神原神社古墳/島根
http://www6.pref.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=INPAKU_MAIBUNGRPDISP&WIT_oid=DAaz914tVpgFl0udfIVyp2dmOhPLdII92LapI91

447 :唐松山:2006/12/30(土) 09:53:12
鏡 は、日本製 多分そのとうり
殆どの三角縁は日本製だと思います 
鏡の利用目的 朝廷がもののふ(武士)に下腸した あしかがみ(悪鏡)です。

448 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:13:19
443氏に横レスさせてもらいます。
鏡の銘文の内容は、神仙などについて
が多く、政治的な文では無いですよね。
これは、私の知る限りでは紀年鏡も同じ
です。一方七支刀の銘文や稲荷台の「
王賜」銘などは一見すれば政治的な文
とわかります。これは、三角縁神獣鏡
と七支刀の意味合いが違うことを示して
います。よって三角縁神獣鏡に、七
支刀で想定された「献上」や「下賜」な
どの政治的事態がある可能性は低いと
言えると思います。

449 :448:2006/12/30(土) 10:28:40
448が紀年の真偽とどう関連するかと言
いますと、景初や正始年間の出来事は
あくまで政治的事件であり、神仙などと
は全く関係ありません。ここから言え
る事は、神仙に関する銘文を景初や正始
で修飾する必要は無いということです。
つまり年号を偽ってまで景初にする行為は
意味が無いことです。よって、景初三年銘は正しいと考えて宜しいと思われま
す。

450 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:38:14
>>449
>景初三年銘は正しいと考えて宜しいと思われます。

景初三年銘鏡は、まさに景初三年(239)に作られたということだね。
で、アンタは、景初三年銘鏡はどこで製作したと思うの?

451 :唐松山:2006/12/30(土) 16:47:26
 鏡は 下腸品 だと思います ほつま の鏡
      マスカガミ マフツのカガミ ヤタカガミ ミカガミ カンカガミ マルカガミ ウラカガミ ヲキツカガミ ヘツカガミ

ホ28330 カンヲヂを ナンヂにさづく ツトメとて ミカサにかえり タラまつり ナンヂヲシクモ
しかときけ ムカシつかえて ミカガミを たまえばワレラ タのトミぞ
ホ30066 キミトミの ココロひとつに ミヤコトリ カタチはヤタミ クビはキミ カガミとツルギ
マテのハネ モノノべはアシ カガミトミ

452 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:49:33
>>434
中国語だけど、黄初年号の同向式が中国で出土したと書いてるぞ。

ttp://72.14.253.104/search?q=cache:sMJXYE36R2EJ:www.xiangyata.net/data/articles/e01/185.html+%E5%90%8C%E5%90%91%E5%BC%8F%E3%80%80%E9%84%82%E5%9F%8E&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5

453 :441:2006/12/30(土) 18:45:08
景初三年銘鏡は、多種多様の三角縁の変遷や出土する古墳の年代から見れば、
三角縁のなかでも後期以降の製作。

三角縁が多種多様であることの説明として、魏鏡説からは、
1、日本に送るために試行錯誤して何種類も作って全部渡した(岡村)。
2、239年以降も20〜30年位日本向けの特注鏡を作り続けるなかで変遷した。
などの見解があるが、検討に値するかどうかも怪しい。バカバカしい愚論。

魏鏡説からは、三角縁は239年〜270年頃までに全部製作されたことになるが、
400年頃の古墳からも出土することの説明として、伝世鏡とする。
しかし、古墳の年代に対応して、三角縁の種類が変遷する点で伝世は成り立たない。

紀年鏡を魏鏡とすると、三角縁の変遷を無視して、紀年鏡を変遷の出発点にする必要が
あるが、かなり無理のある暴論。紀年鏡は370〜400年頃の製作とするのが合理的。
最大限遡っても350年頃がせいぜい。文様はパッチワークなので、オリジナルを魏で製作
したとする必要はない。

454 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:55:03
>>453
452に対する反論は?

455 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 19:25:05
>>454  >>452に何かいてあるのか分かるのか?翻訳よろしく。

456 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:44:04
>>453
>景初三年銘鏡は、多種多様の三角縁の変遷や出土する古墳の年代から見れば、
>三角縁のなかでも後期以降の製作。

考古学の基本的知識まったく無し。 支離滅裂。wwww

457 :448:2006/12/30(土) 22:01:53
>>450
>448に書いた通り、三角縁神獣鏡に政
治的銘文は有りません。せいぜい「位至
三公」ぐらいなものでしょう。つまり
政治的な目的で創られたとは考えにくい
代物です。ですから中国側から下賜さ
れたとは思えません。私は国内で製作
されたと考えています。

458 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:21:19
三角縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡を粘土に押し付けて型をとり、それに三角縁を
つけたものという説があるらしい。さらに、それに日本独特の模様をつけた。
奥野正男氏の説なのだが。

年号の刻まれた鏡としては、景初や正始が有名だが、実は「赤鳥」と刻まれた
鏡も二枚出土している。赤鳥というのは、景初などと同じ頃の呉の年号。
どういうわけか、こちらはあまり取り上げられないのだが。

これは何を意味しているのだろう。魏と交流があったころ、呉とも交流して
いたのか。
そうでなかったら、呉の年号を知っていた人が作ったということで、
呉の工人が日本にやってきて作ったという説も現実味がある。

とにかく、年号の刻まれた鏡は、青龍三年(235年)から赤鳥七年(245年)
という10年間がほとんどで、それ以外の年号は一枚だけというのが面白い。

459 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 00:29:03
>>455
手のかかる奴だな。

1)同向式神神獣鏡、二枚、湖北鄂城五里坂の呉の墓より出土、現在湖北省博物館に所蔵。
1枚は外区の銘文に「黄初二年11月丁卯朔廿七日癸巳、揚州会稽山〜」


460 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:02:46
>>434
>画文帯は邪馬台国時代以降はもはや共通認識。
共通認識じゃない。

>伊都国、奴国からも出ない。
そう。画文帯は畿内王権が一括入手、配布したとされている。
初めて畿内を中心に出土する中国文物として、畿内王権の成立を語る上で、
重要視されている。

>画文帯の大半は300年以降、三角縁330年以降で結論が出ている。
そんな結論は出ていない。
根拠を出してれないと反論も出来ないな。

461 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:31:32
>>459 で、それは画文帯なのか?


462 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 23:55:29
来年も纏向で会いましょう
それではよいお年を

463 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 00:00:06
あけおめ

464 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 04:27:39
age ome

465 : 【大凶】 【1184円】 :2007/01/01(月) 10:02:47
をめ
大吉なら纏向が日本の首都になる

466 : 【凶】 【581円】 :2007/01/01(月) 10:14:25
ワロス
>>465

467 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 00:43:52
縁起の悪いスレだなww

468 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:07:14
>>460
>画文帯は畿内王権が一括入手、配布したとされている。
根拠は?

469 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:32:55
799 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/01/01(月) 02:52:09
日本が90度曲がった地図も有名だが、
今日、本屋で、西が上になった日本地図を見た。
唐招提寺のものだ。行基図とは逆なわけ。
これは、唐招提寺だから、中国に敬意を表わして
中国を上にしたのではないかって書いてあった。
ちなみにその本は邪馬台国に関する本じゃないよ。

806 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/01/01(月) 10:04:46
>>799

最古の行基図とされる仁和寺のものも
混一疆理歴代国都之図の制作年代に近い
1305年のものと言われていて、
それも九州が上に書かれている。

行基図が東西南北が正しく書かれていると確認できるようになるのは、
江戸時代に入る頃からのようだ。

470 :唐松山:2007/01/06(土) 10:18:50
 神武 東征時の都

ホ20118 イカルガの ミヤにうつりて そのアスカ ウテナにヨモを のそむヲリ シラニハヤマに カラスとふ
      クマノとをもひ ミヤうつし ときにコヤネは はやかれと ヲホモノヌシも とゝめける 
斑鳩に大物主等と最初の都建設 斑鳩は大物主の都となる?。

ホ20140  モロはかり ついにうつして アスカガワ クルハにほりて ミソギなすかな
ホ29250  モノヌシに ミヤコうつさん クニみよと ミコトをうけて めぐりみる カシハラよしと
 もふすとき キミもおもひは をなしくと アメトミをして ミヤつくり 
ホ30048  ミソギなす ときにカシハラ スメラキの ミヨアラタマの スズサナト
飛鳥川 川辺に環濠を作る 橿原の都 唐古辺りか?
神武 政権の始まり 暦サナト 神武58年です。 書記編纂時の間違い

ホ35017  ニイミヤコ うつすマキムキ タマキミヤ 新都 巻向は 垂仁です。
ホ39003  マキムキの ヒシロ     は 景行

471 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:25:01
年末年始は魑魅魍魎跋扈だったのか。
いちおうアゲときます。

472 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:44:46
>湖の出口の川の河床を掘り下げれば水位が下がる。
>琵琶湖の水位は瀬田堰で調整できるんだよ。

奈良の盆地湖はこれで干拓したんだって・・・
琵琶湖も簡単に干拓できそうだね(^^

473 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:13:12
湖岸線の発掘調査するから、琵琶湖の水位を下げてくれといえば出来るわけか。

474 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 18:04:01
新年明けましておめでとうございます。
溜まったご質問へのアンサーです。
>>224
村上氏が指摘されておられるのが、畿内王権による鉄の簒奪は有り得ないという事であり、これには同意です。
まあぶっちゃけあれは、白石センセへの反論なんですよね。
つまり政治的地位は確かに庄内もしくは古留に畿内が逆転しているが、その原因は鉄ルートの簒奪などではないと言うのが氏の趣旨です。
これは現在では定説と言っても良いかと思います。
要するに簒奪だとかの物騒な出来事はこの時代には起きていないと。
ですので、何が逆転の原因かを探る事が3世紀の列島の状況把握に直結するのではないかと考えます。
繰り返し述べておりますが、私は技術、情報、人材の集結が纏向に向かった結果、必然的にそうなったと考えております。
そのトリガーのひとつとして、魏への朝貢と女王認定が相当なウェイトを占めているのではないかとも考えます。

475 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 18:25:08
>>243
>纏向の命名
これは石野先生が命名者ですね(笑)
元は太田遺跡と呼ばれていたのですが、どうやらその周辺も含めてひとつの遺跡だと考えられるようになった為
JR巻向駅の近所だと言う事と、ご指摘のように崇神、景行両天皇の記紀上の宮も意識されたとおっしゃってます。
一応陵墓も近いことですし、大した意味は無いですよ(笑)
ましてや纏向が崇神と関係があるのかどうかなどは、現時点では仮説すら提示できる状況ではないです。
第一、彼が実在したのかどうかさえ怪しいのですから。
それともし崇神記の内容を信用するならば、一番のキモである疫病のくだりが考古学的事実に反します。
特に古留あたりから畿内は人口が爆発的に増加しますので、疫病蔓延は考えにくいでしょう。
それと出雲系の祭祀が取り入れられた形跡はありません。むしろ皆さんよくご存知のように吉備が席巻します。
景行だともっと矛盾が出てきますし、それと成務サンの立場が無いじゃありませんか(爆)
記紀の扱いとは、こうお考えくださいな。
「個々の伝承は事実の反映かもしれないが、それがきっちり時系列通りに並んでいる訳でもなく、また推定や架空の事象も大いに含まれている。
 それは隠蔽や捏造と言うより、編纂者自身が正確な歴史を掴んでいなかった為である。
 その中で必死に辻褄合わせを試みており、これは一種の記紀的な仮説提示と見た方が正解である。
 無論、伝承の採用には恣意的な部分も多くあるであろうが、極端な改竄はしたくても出来なかったであろう。」

476 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 18:38:25
>>253-254
瀬戸内航路及び半島貿易の確保が主目的のひとつであるとのお考えには同意ですが
果たしてその当時、三輪の神官にそれらを統治するだけの政治力があったかどうかは、かなり疑問です。
ここでもよく語られておりますが、後の大和朝廷における宗教観も含め、特に終末期から古墳初期にかけての畿内の祭祀形態は西日本各地の寄せ集めです。
そこには畿内や東海で栄えた銅鐸祭祀は全く姿を見せず、唐古・鍵における鳥形木器も早々に姿を消します。
ですので、その寄せ集め宗教が肥大化した結果だと考えた方が辻褄が合うのではないでしょうか。
前方後円墳にしても、受け入れた地域とそうでない地域が混在しておりますし
纏向でさえ円墳、方墳、前方後方墳が庄内期には入り乱れております。
これはもしかすると古留に入っても同様であった可能性が高いです。

477 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 18:45:57
>>271
年輪年代のデータは、埋文関係者なら申し込めばすぐに見れますよ。
また九州国立においても、追随する研究者が常駐されておられます。
もしお確かめになられたいのであれば、橿原か太宰府にアポを取られてみてはいかがでしょうか。
コピー代実費持ちでしたら、応じていただけるかもしれません。
また私の知る限りでは、関東では東大、明治、国学院、関西では同志社、関大、龍谷などにファイルがあった筈です。
いずれも事前に申し込めば、閲覧可能です。


478 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 18:53:11
>>282
>シュリーマンはギリシャ神話からトロイの遺跡を発掘したわけだから
これはよく誤解される方が多いので、この際書いておきます。
あれ、トロイの遺跡では無かったんですよ(笑)
ギリシア文化に関係する遺跡であるのは確かですが、神話とは無関係です。
これって日本の古代史で例えれば、飛鳥が舞台になっているのでその辺りを掘ってみたら、なんか出てきたっていう大雑把なお話です。
そりゃあ当然出てきますって(汗)
その程度のお話です。

479 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:00:01
>>302
こういったごく当たり前の事をベースにして語っていただけると
あまり珍説、迷説が出てくることは無いと思うのですが・・・。
何故か土器編年を避けて語ろうとするんですよね、そんなに難しいですか?
図説入りの年表なんて、そこかしこに載っているのですが・・・。

どこかに簡潔かつ明快に纏めて下さっているサイトなどは無いものでしょうかねえ。

480 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:07:28
でもって、鉄に関しては>>383-389の各氏のやり取りで決着という事で宜しいでしょうか。
畿内には古墳時代に入っても潤沢な鉄器があったとは考えにくいです。
ただ九州においてはそれまでの北部九州中心から中南部に拠点が移動するとの見方も出ています。
いずれにせよ鉄器ルートの簒奪が無かったにも関わらず、畿内が纏向を拠点に王権化した。その理由は何故かを問う段階に入っておりますので。



481 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:19:16
>>306 これはコピペかもしれませんが、一応お答えしておきます。
重藤遺跡にて発掘された鉄剣と木炭は「違う地層」から出土しております。
木炭は書かれた通り、縄文期にあたる下の地層から出ておりますが、鉄剣は別です。
また鉄滓が発見された事実はありません。
当初「数万トンもの鉄滓があると見られる」との発表がありましたが、後に訂正されています。
ちなみに、あの文様をトウテツ紋と見るのは、少々強引かと・・・。
それは東北のある民謡がヘブライ語で読めるといった話と同レベルです(汗)

これって、前にも書いたような気が・・・。

482 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:29:42
>>392
これは慧眼のご意見ですね。
確かに瀬戸内よりも以東、以北を意識した立地だと考えるべきです。
纏向建設の謎のひとつに「何故わざわざ低湿地と微高地が混在する不便な場所を新規造成してまで使用せねばならなかったのか?」が挙げられます。
それは河内平野では駄目だったのか、唐・鍵を再開発した方がよほど楽ではないかなど、候補地選びに関しての謎があります。
私はこれを「既に人口が密集していたクニに立ち退きさせてまで開発することなど出来なかった。
言い換えれば、地元合意の上での拠点開発であり、武力などによる強権発動はこの事からも考えにくい」というものです。


483 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:32:17
まあ、今の考古学会で主流になっているのは
3世紀中葉に、畿内を中心しとした流れが出来ていたということだな。
それがマキムクだった。
そして、年輪気候学の見地だと
240年ころが寒冷化のピークだった。

484 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:45:11
あとは三角縁や画文帯についてですが。
もしかすると記年鏡は例の百枚の一部かもしれませんが、断定するだけの材料はありません。
同時代に別のルートで手に入れたことも十分に考えられますので。
それと後漢鏡に比べると神獣鏡は、美術品的にも品質的にも更には通貨価値的にもひどく劣るんですよね。
特に後期の踏み返しときたら、爆笑モノです。
初期製作に限り、楽浪産であるとの見方も有力です。
魏から授かったものを配布して墳墓に副葬させたかどうかは、現時点では言及できません。

画文帯は畿内各クニにおける宗教的流行に過ぎないのかも知れませんし
これまた任意の王権による一括輸入及び配布とは考えにくい状況です。
それはむしろ三角縁が担った役割でしょう。


485 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 19:51:21
>>483
そういう事です。
ただ寒冷化の影響を示す「人的及び文化的な遺物」が今のところ無いんですよ。
例えば耕地面積を広げたとか、籾の保存を工夫したとか。
それを庄内甕に当てる方も居られますが、それだけでは弱いでしょう。
度重なる祭祀具の変遷などは、案外該当するかもしれませんが。


486 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 20:08:49
こんなもんかな・・・。
あとは三種の神器に関してですが、あれをして弥生後期の北部九州と纏向以降を直接結びつけるのは無理です。
私も纏向創設に平原が関わっていたのではないかとの考えがちらっと浮かぶこともありますが
例の鳥居型遺構も含めて、纏向を始めとする畿内各地または吉備では「似て非なるもの」が採用されています。
基本的に北部九州における祭祀具は三種どころか十数種に及びます。その中でクニやオウによって二種か三種がチョイスされているのに過ぎません。
多いところだと逆に五種以上出土します。
三種の神器という考え方は、古墳時代終末か下手すれば飛鳥時代に入ってから創設されたと見るべきです。

ちなみに神武から九代を橿原や葛城あたりにお考えになられる方もちらほら見受けられますが
庄内以前のこの地には、クニどころか纏まったムラさえあったかどうかも怪しいです。
まあ彼等9人が仮に実在したとしてもそれは
「名前も事跡も時代も場所も血縁関係も忘れられ、単に先祖が九代あったというだけの伝承のみがあった。
 もしくは神武オタクだった天武あたりが、無理矢理ねじ込んだ」
この程度の解釈しか出来ません。あとはそれにどのような理由をつけても推測であり、仮説には成り得ません。
新年早々、夢も無く面白くも無い話ですみません(汗)



487 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:10:49



あの証拠全く無いですよね?



488 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 20:18:51
>>487
ちょっとご質問が簡潔すぎて(笑)真意が図れないのですが
基本的にこれまで出土した遺物の分布や出土状況、また遺構における築造技術の変遷などを物証として構築しております。
そのあたりは私だけでなく、現在の考古学見地による畿内説は全てそうだと考えております。
文献にあまり言及しないのは、先にモノが出てからでないと確かなことは何一つ言えないとの慎重な立場を採っておりますので
面白味に欠けるのはどうかご容赦下さいませ。


489 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:33:14
考古学だけでは分からんね...
たとえば、中世とか近世だって
考古学だけなら、徳川幕府、足利幕府、鎌倉幕府みたいな
全国政権が出来たことはわからん。
考古学的に見たら、これらの時代ですら、地域によって特色があるんだよ。
文献史学のおかげで、そういう全国政権が誕生していたのが
分かっているだけだ。

490 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:39:56
>>485
日本書紀だと、崇神天皇5年に、疫病や飢饉で、社会混乱がおきて
崇神天皇が叔母で巫女のモモソ姫の占いに頼っていたことが分かっている。
あと、全国の神社なんかでは、崇神天皇の時の建立のものが
その前後の天皇に比べて激増している。

240年ころの寒冷化・疫病・飢饉と
祭祀政治が微妙に関係しているんだろうね。

491 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/08(月) 20:55:08
>>489
これは仰るとおりですね。
ただ困ったことに相互検証が可能なだけの文献資料が無い時代の話ですので
これはどうしようもないですね(汗)
その為我々は「畿内王権」だとか「初期ヤマト連合」だとか呼んで、文献上の「邪馬台国」と区別しております。
まあ邪馬台国なるものがどこにあったのかなどは、実のところあまり興味が無かったりします(笑)

>>490
難しいのは、それが事実かどうかの検証が不可能であると言う事なんですよ。
特に神社縁起による建立時期は、これがもう悲しいくらいに信用できないんです。
これは逆に記紀の記事を根拠にしてそういった設定にしたと考えるべきですね。
それでも個人的にと前置きしますが、これらの祭司的エピソードが崇神、垂任や景行に集中して語られるというのは示唆的ですね。
これまたそういう構成にしたと言われればそれまでですが。

492 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:11:46
>>491
邪馬台国がどこにあったか?というのは、
商売向けの話で、考古学専門の人にとったら
興味にとっての二の次の話でしょうな。
こういうのは文献史学の分野だから。

それにしても、もし、卑弥呼がモモソ姫なら
魏志の247年は、崇神10年ぐらいということになるし
(崇神10年は、崇神天皇が派遣していた四道将軍を北から引き戻して
謀反を起こした武埴安彦・吾田媛を討った。また、モモソ姫が死んだ年でもある)

それより7,80年前の倭国大乱は、
孝霊天皇(モモソ姫の親父)のころの話になる。
(欠史八代の天皇の中で、この天皇の時に吉備を平定した話が古事記に出てくるのは異質)

493 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:14:09
倭国大乱は、7,80年前で確定してるんですか?

494 :プラム:2007/01/08(月) 21:15:09
七年八年十年だ

495 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:21:44
>>493
そこは二倍年暦じゃないんじゃないのか?
というのは、魏志では、中国の皇帝の名前出して
その時期だと言っている。
そういうふうに計算すると、107年の倭王・帥升等(ししと)は
孝昭天皇(オシヒト)になるんだよな、ちょうど。

496 :1(スレ主です):2007/01/08(月) 21:30:41
みなさん、明けましておめでとうございます。
なんだ、えらく遅いぞ!と言われるかもしれませんが、元日からパソコンとは無縁の日々。元日の朝、九州の某県(秘密)の実家に帰省しまして、それから7泊しました。
つい今しがた、近畿地方の某府県(絶対秘密)の我が家に、戻って来たばかりなんです。8日ぶりに2ちゃんを開いてみると、あ、マキムクスレ、案外上位だ、良かった〜。(笑)
老教授さん、レス頂きまして、ありがとうございます。ちょっとの時間差だったなあ。またいろいろ質問させてもらいますので、よろしくお願いします。

一昨日は、福岡県の前原市伊都国歴史博物館と春日市奴国の丘歴史資料館を、昨日は佐賀県の吉野ヶ里遺跡を、それぞれ見学してきました。伊都国と吉野ヶ里は2回目でしたが、奴国(須玖岡本遺跡)はまったく初めてでした。
レンタカーを駆っての遺跡巡りで、老母と一緒だったのですが、まあ良い勉強になりました。纏向との印象の対比なんか、今後すこしレスするかもしれませんが、その折には皆さん、よろしく。

497 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:04:09
>>495
二倍暦はともかくとして、
第五代の孝昭の息子と孫がニニギ系でオシヒトってのは面白い。

498 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:09:07





あのこのスレズッコケですよね?






499 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:11:21
二倍年暦で謎のなのは
崇神天皇に関しては、月の15日以降も出てきて
この時代は、一倍年暦だったのでは?と思わせるんだよね。
もし、そうなら、日本では一度、一倍年暦を導入して
再び二倍年暦に戻したことになる。

500 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:15:36
>>475
>それともし崇神記の内容を信用するならば、一番のキモである疫病のくだりが考古学的事実に反します。
>特に古留あたりから畿内は人口が爆発的に増加しますので、疫病蔓延は考えにくいでしょう。

人口が爆発的に増加したから疫病が蔓延したんじゃないの?

501 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:26:35
日本で疫病と言えば、鎖国解禁でペストが流行したのが有名だよね。
倭国大乱と疫病、セットになる気がする。

502 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:31:49
>>501
疫病は、絶えず定期的に起こっているだろう。
また、人口が激増した後は、たいがい
人口調整の意味で、疫病や飢餓が起こっている。

503 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 10:57:47
葛城で葛城氏の館跡と思われるものが発掘されてるな。

現在のトロイの遺跡は誰が発見したの?
シュリーマンは、先に出てきた遺跡を更に掘り返してトロイの遺跡を
発見したと本で読んだけど。

504 :唐松山:2007/01/09(火) 19:20:15
崇神6年を 西暦193年の
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』。
この記事にあわせると
この飢饉で出雲の国は、崩壊(種籾まで食べ尽くした)
国譲り

505 :唐松山:2007/01/09(火) 19:54:34
上記の記事 6月と言う所が ミソ
5年度の 凶作に続き 6年度 田植えに失敗(通常8月の刈入れ)
作付けに失敗した 民は、耕作放棄 流浪の民となって都会(畿内でなく九州)へ流れ込む


506 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 19:58:01
>>503
はい、そうですね、トロイの遺跡は何層にもなっていて、
シュリーマンが発掘したものは時代的に、新しいとか。
確かに、神話的な、神代の時代の物語と思えるものに歴史的事実があることもありますよね。
中国の夏王朝も伝説と思われていたのが、甲骨文字やら遺跡やらで実在したかもってお話もあります。
しかし、神代のお話が全く関係なかったりもします。
例えば、トロイで言えば、ローマはトロイ人がトロイ滅亡後に難を逃れでやってきて、
建国したことになってますが、これは全く事実無根なんですね。
言語の面からも、人種の面からも、トロイ滅亡と推測されてる時代の遺跡なんかも、
ローマの近辺にはなんにもない。
文献だけで推測すると危険ですね。
その反対に、古代イタリア半島を統一したのはローマであることは紛れもない事実と文献でわかっていますが、
一切の文献がなく考古学だけに拠ったら、
おそらく、エルトリア人がローマを併呑したと理解するしかないでしょうね。
考古学的資料だけで推測するのも危険ですね。

507 :唐松山:2007/01/09(火) 20:08:44
弥生時代 弥生人は、中国、朝鮮から渡ってきた

では、何故これらの言語と一致しない 日本語なのか? 

508 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:51:06
>>506
逆だったような。
トロイよりは古くて、もし実際にあったとしたらシュリーマン自身が破壊してるとか読んだ気がする。
もともとシュリーマンは神話の発掘というよりはお宝探して一発当てようとしてただけだから、
お宝がでなかった上層は無茶苦茶な堀りかたしてたとか。

509 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:43:54
>>491
>…その為我々は「畿内王権」だとか「初期ヤマト連合」だとか呼んで、
文献上の「邪馬台国」と区別しております。

この「初期ヤマト連合」が中期(?)になる画期は、考古学的にはどのあたりからなのでしょうか?

510 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 14:38:50
継ぎ目 発見

ついに 天皇の 継ぎ目 が判りました!!
まず 4代 懿徳 元年1月1日庚辰 10年か20年、末年1月1日戊寅(2月己酉と丁未でも同じ)
次  5代 (弟)孝昭 元年1月1日丙戌。 戊寅と丙戌 繋がりません
そして
8代 (孫)孝元 元年1月1日辛未 24年、末年1月1日戊寅
9代 開化 元年1月1日庚午。  戊寅と庚午 繋がりません

繋がるのは、懿徳 末年1月1日戊寅と 開化 元年1月1日庚午
注 誤差 数日あります(殆どの天皇の治世中も同じこと)

孝の字4代を抜くと
景行40年(西暦260年頃)から178年(ほつま)前に 神武東征 西暦80年頃

計算は1年 354日 閏1回30日



511 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:20:06
訂正

孝元 元年1月1日辛未 24年、末年1月1日戊寅  ×戊寅 ○己巳

3,4年 狂いがあるます



512 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 03:20:54
>>510-511
うーん、それもあくまで一つの説

513 :日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:24:30
老教授に質問です

>>481
重藤遺跡にて発掘された鉄剣と木炭は「違う地層」から出土しております。
木炭は書かれた通り、縄文期にあたる下の地層から出ておりますが、鉄剣は別です。
また鉄滓が発見された事実はありません


鉄剣が「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」ではない
ということになるんですか?

514 :日本@名無史さん:2007/01/17(水) 23:49:58
>>476
>果たしてその当時、三輪の神官にそれらを統治するだけの政治力が
>あったかどうかは、かなり疑問です。
>ここでもよく語られておりますが、後の大和朝廷における宗教観も含め、
>特に終末期から古墳初期にかけての畿内の祭祀形態は西日本各地の寄せ集めです。

確かにその通りです。
畿内発の前方後円墳祭祀は、はっきり言って、いいとこ取りの急ごしらえ。
それまでの宗教的伝統を無視して、新たな宗教的権威なるものを
急造したかのような観があります。
それまでのオウの上に立つ「大王」を創造した、というか。

では、何故そのような西日本全体を包括するような広域王権が、要請されたのか?
という設問ですが。

515 :514:2007/01/18(木) 06:50:47
後漢の動乱により、それまでの倭国王=筑紫の権威が失墜し、それに替わる権威が
必要とされた。
東瀬戸内、東海などが連合するため、連合の象徴として、
「大王」が必要とされた、とでも言えばいいのでしょうか。

つまり、三輪山の神官が「宗教的権威として君臨出来たのか」ということではなくて、
筑紫に替わる権威がまず最初に必要とされていて、その権威として担ぎ出されたのが
三輪山の神官であったのだろうと。
明治維新時の、明治天皇の扱われ方に似ています。

516 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 22:29:21
やっと規制解除されましたので書き込みます。

>>514
確かに後漢滅亡とその後の大陸及び半島情勢の激動化が、連合形成に大きく寄与したとは考えてよいかと思います。
しかしそこで一気に象徴とはいえ「オオキミ」が選出されたかどうかについてはまだ疑わしいのですよ。
史書には「一女子を立て」とはありますが、まずそれを補強、検証するだけの史料がありません。
むしろ考古学的には(連合結成を実年代で2世紀末あたりと見た場合)3世紀中庸までは「オオキミ不在」のままで運営されていたとも取れるのです。
この場合初期ヤマト連合は各クニの首長連合であったとの解釈となります。
卑弥呼に代表される神官(巫女)は魏が女王と認定するまでは、その単なる寄せ集め宗教の代表者程度の権威しか有していなかったのではないでしょうか。

前に私は為政王と祭祀王による一種の変形2元政治の可能性を提示いたしましたが
こと発足当初に関しては、祭祀者には連合のオウとして担ぎ出されるほどの権威は無かったとの意味でもあります。
また勿論の事、連合で採用された新宗教はヤマトの土着宗教を礎にしているとはさすがに考えられません。
卑弥呼や台与が「どこの出身であったか?」なども現時点では探りようもありませんし
それどころかこの新宗教と為政王たちにとっては、それすらも大した問題では無かったのかもしれません。
まあ、台与の場合は「どこのクニが連合の実権を握るのか」で相当に揉めたとの解釈も可能ですが、これまた現時点では推測に過ぎません。


517 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 22:39:16
また初期ヤマト連合にツクシ連合(王権)がいつから、そしてどこまで関わっていたかにつきましても
これを風俗や宗教的観点から探るには材料があまりにも少なすぎます。
むしろ弥生後期まで畿内や吉備に相当な影響を及ぼしていたはずの出雲の影が墓制にあまり反映されていないことなどを検討してみるのもひとつの手でしょう。
葺石などは出雲の発祥ではあっても、実際には播磨や丹後の工法を使用していると見られますし。


518 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:45:16
2世紀後半の倭国大乱は、
古事記に出ている 孝霊天皇の吉備平定の可能性が強い。
そして、この倭国大乱後、卑弥呼が擁立されたそうだが
孝霊天皇の皇女がモモソ姫。

519 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 22:48:42
>>509
中期…と言って良いのかどうかはまあアレとして(笑)
おそらく4世紀末から5世紀初頭にかけてでしょうね。
高句麗南下による半島の再動乱化に端を発した、連合内での軍事勢力台頭が大きな転機だと見ます。

このあたりの記憶がホムダワケやオキナガの記事に反映されていると…
まあそれくらいは「妄想」させていただきましょうか(笑)

520 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 22:55:54
>>518
吉備には弥生後期から終末期にかけて、他者から平定されたなどの形跡はありませんよ。
孝霊サンの実在はさておき(笑)記紀的にはモモソトトちゃん登場のネタ振り程度にお考えになられてはいかがかと。
彼女自身も次のミマキ君の祭祀王的エピソードのネタのひとつですしね。

521 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:03:12
>>513
その解釈でよろしいかと。

あとここでは出来るだけ土器編年でなく実年代で語るように心がけておりますが
これは編年で語っても、もしかしてほとんどの方がピンと来ないのではないかと考えるためです。
この実年代への変換は「あくまでもひとつの仮説」でありますので
異論のある方は出来ますれば根拠と参考文献付きで御提示下さい。
私の場合、主に土器や祭祀具、各種加工品などと古墳や遺構など築造技術、これらの編年が根拠になっております。

522 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:05:41
あ、勿論IMSや年輪年代もそうですよ(汗)

523 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:06:09
>>520
いや、形跡があるのよ。
だから言っている。

524 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:15:30
>>523
どういう部分ででしょうか?
四隅や山陰式土器との交流に関してですか?
それとも楯築のことを指しておられるのでしょうか?
まさか庄内甕では無いと思いますが…
また何らかの戦跡や他地区からの平定を示唆する遺物などが出土したとは聞いておりませんし、そのような論文は無いと思いますが。
宜しければご説明願えませんか。

525 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:26:37
6代目の孝安がオシヒト(大倭帯日子国押人命)で帥升等の事だという説も面白かったですね。

あと、後漢の光武帝、安帝、霊帝が、それぞれ神武、安寧、孝霊に対応するというのは、何を意味するのか。

526 :日本@名無史さん :2007/01/18(木) 23:29:12
2世紀後半の倭国大乱は、九州の部族連合の争い。
その頃の畿内はまだ、初期農業部落で石器時代でしょ
当時は、畿内より吉備の方が戦力的にはずっと優れて
いるから、吉備からの侵略はあったかもね。


527 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:31:08
あとは…何やら神獣鏡についての様々な解釈が他スレで議論されているようですが、これに関してはどうしましょうか?
現在では踏み返しを除けば、漢鏡T〜X式の後に楽浪郡で作成された2級品であるとの見方が強まっておりますが。
私は二神二獣の亜流であるとの流れで、ほぼ固まったと見ております。
実際今では洛陽産だとか全て国産だとかを唱える方は数えるくらいですし
これまたそういった共通認識で、今後の議論に繋げて行きましょう。

528 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:40:22
>>525
ははあ、そんな説があるんですか
私は定説通り奴国と言うかツクシ連合出身のオウだと見ることにしますね。
>>526
>畿内はまだ、初期農業部落で石器時代
いえいえ畿内どころか東海、関東や上越に至るまで相当に進んだクニが群雄割拠していますよ(笑)
>吉備からの侵略はあったかも
吉備や出雲は古くから河内や大和川流域との交易を続けておりますので、それは考えにくいかと。
基本的に弥生後期から古墳前期にかけては、列島のどの地域でも侵略や平定と言った勇ましい出来事は見当たらないんですよ。

529 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:46:11
老教授に質問です

出雲と吉備はいつ頃から文化が発展したと考えられてるんですか?


530 :日本@名無史さん :2007/01/18(木) 23:47:51
そうなんです、畿内には侵略や平定といった戦闘的集落が存在
しないのです。
だから2世紀後半に畿内から、吉備に侵略することは想像すら
出来ないことなのに、平気でそのことを主張する人がおられます。

北九州は、吉野ヶ里をみても分かるとおり、他国からの侵略に
備えた集落が存在します。倭国の大乱は北九州であれば、納得し
ますが・・

531 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/18(木) 23:49:05
あ、すいません。
例外的に終末期に三河・尾張については「平定」に近い事が起きていると見られます。
この時代、各地の大型環濠集落が次々と放棄されるのはご存知でしょうが
唯一と言って良いほど、武力衝突の影を匂わせるのが朝日遺跡に代表される東海地区です。
近畿以西は…拍子抜けするくらいなんにも無いですね。
あとこれも例外的と言うか突発的に、上越から陸奥にかけての日本海側で第3次とも言える高地性集落ピークが見られますね。

してみると関が原以東の方が倭国乱にふさわしいのかしら(笑)

532 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:49:50
老教授さん、すみません。いま帰宅したばかりで、議論はよく読めておりませんが、ご挨拶だけでも。
「今後の議論に繋げて」、なんてお書きですから、そろそろお暇まされるんですか。いつもすれ違いになるなあ。

スレ主としては、「マキムクのその後」を、ぜひやりたいのです。布留1期、つまり天理・桜井市に続々と大きな前方後円(方)墳がつくられる時代ですね。
そして議論は少し布留2にかかってもよし、としたいのですが、いかがでしょう。
昔から「謎の4世紀」なんて言われてますが、考古ファン遺跡ファンのスレ主としては、やりがいを感じます。(笑)

533 :1スレ主:2007/01/18(木) 23:52:30
>>532は私、スレ主のレスでした。HN入れ忘れました。ごめんなさい。

534 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:55:38
では、倭国大乱は、景行や仲哀・神功の熊襲平定になるのかな?

535 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:02:57
東海で武力衝突で、越が軍事的な緊張ということは、
四道将軍とヤマトタケルの遠征もある。

536 :1スレ主:2007/01/19(金) 00:03:08
それと、実年代論は、このスレの最終盤までとっておこう、としたいと思います。
レス番850〜ぐらいから実年代論を徹底して集中討議することにし、しばらくはこの話題は留保しておきたいと思うのですが、いかがでしょうか。

537 :日本@名無史さん :2007/01/19(金) 00:03:49
>景行や仲哀・神功の熊襲平定・・

その記紀の神話部分と倭人伝の記述を同居させている理論は
理解できません。

古事記には、神話部分は年代ははいっていません。
日本書記は当時の勢力が意図的に作成した書物で、年代も
はいっていますが、それが果たして正確かどうか疑問がある
と思っております。

538 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/19(金) 00:04:05
>>529
うーん、石器時代(笑)
それは冗談として、クニの元となったと見られる任意の勢力が認められるのは
前期後半から中期前半にかけてでしょう。
ただ中期には吉備と出雲はお互いに密接な交流があったと見られています。
土器様式などに共通点が多いんですよ。
これが目に見えて独自性を発揮しだすのは四隅出現以降ですね。
そのあたりから出雲が北部九州から半島寄りに交易を展開していくのに対して、吉備が畿内や東海をターゲットに動き始めます。
ですので独自の路線を歩み始めたとの意味では、後期後半の早い時期だと見てよいでしょう。

>>530
九州でも中期後半に入ると戦乱に備えると言った意識が相当薄れるのですよ。
環濠などは、実は土砂やゴミで埋まるまで放置しています。
その後仕方なしにでしょうか、前よりしょぼいモノを掘るんですよね。
大体2〜30年のスパンでこれは繰り返されています。
これをして「防衛施設」と呼ぶには抵抗ありますよね。
初期には「防犯」としての意味合いはあったのでしょうが、次第に環濠は「境界」程度の認識となっていったと考えられています。


539 :1スレ主:2007/01/19(金) 00:09:24
天理・桜井市の4つの大型「陵墓」の立ち入り調査ができないので、古代史解明に大きなネックとなっている、てなことも、誰か発言してくれないかなあ。(言っちゃった)

540 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:12:53
マキムクと九州のかかわりはどうお考えなんでしょうか?
土器の様式は九州の物はあまり出てきてないみたいですが、
中継地点としての瀬戸内海があるから畿内まで土器が到達しにくかったからなのか
単純につながりが希薄だったのか

541 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/19(金) 00:13:42
>>532 1氏
遅くまでお仕事お疲れ様です。
ご提案の纏向以降ですが、私も実は布留1期以降のほうが専門なんですよ。
ですのでご提案の四世紀論には大変興味があります。是非参加させてくださいませ。
あと実年代については、一応の目安と言いますか、議論のたたき台としての提示ですので、最後に纏めてやる方が判り易いですね。
そうしましょう。

すれ違い申し訳ありませんが、0時過ぎちゃいましたのでお暇させて頂きます。
撮り溜めている「地獄少女」をアテにお酒飲みます(笑)

あいちゃん、可愛いよ、あいちゃん…(滝汗)

542 :1スレ主:2007/01/19(金) 00:17:56
へ? あいちゃんって何だろうなあ?

543 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 00:22:00
>>542

>あいちゃん、可愛いよ、あいちゃん…(滝汗)

卓球でも録画してたんじゃないの?  ロリ????・

544 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:22:39
>>528
鳥取県の弥生時代後期後半の青谷上寺地遺跡からは、大量の人骨が出土して
いて、傷ついたものがかなり多いようです。中には女性や子供もいて、
これは戦乱を意味するのではないかと考えられているようです。

骨の傷を分析すると、鉄剣の痕もあるようです。
かなりの戦闘能力を持った集団の侵略も考えられると思うけど。

545 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/19(金) 00:23:05
おまけです。
>>539
今年から不完全ながらも立ち入りが開始されますので、次はトレンチ実施を目標に頑張って行きたく思います。
あと九州見聞記、お待ち申しております。お時間のある時に是非。
>>540
今のところ希薄であるとの説が多数ですね。
但し北部九州(これをツクシ連合とここでは呼びます)内でも、地域によってヤマト連合寄りのところとそうでないところがあるんですよ。
比恵・那珂などは前者、伊原、須玖、西新町などは後者だったのではないでしょうか。

546 :1スレ主:2007/01/19(金) 00:26:05
じゃ、みなさん。レス番600あたりから、奈良盆地東南部の、前期の大型古墳群(オオヤマト古墳群)がどのように形成されていったのか、そのような話題をやってみたいと思います。
ちゃんとこれから予習して、できるだけスレ主も議論に加わりたいと思いますので(思うだけになるかもしれませんが)、よろしくお願いします。

547 :老教授 ◆DaLsTNW7DE :2007/01/19(金) 00:28:24
>>544
おまけのおまけ。
青谷上寺地については次回詳細に述べさせていただきます。
結論から言いますと、あれは内乱か疫病患者の始末だと考えられています。

>>542
「閻魔あい」でググってくださいな。
ついでにようつべあたりでご覧になられるのもよろしいかと(爆)
では、おやすみなさいませ。

548 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:41:18
>>522
あんだ?IMSって?まさかAMSじゃないよな。
いや違うな。どう考えてもこんな間違いやろうと思っても出来ない。

549 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:42:36
倭国大乱と卑弥呼死後の乱のうちの、
1つが朝日遺跡ということなのかな?

もう1つはどこだ?
奴国滅亡の倭国大乱が青谷上寺地遺跡の内乱で、
卑弥呼死後の乱が朝日遺跡か?

奴国が根国で、卑弥呼死後の乱が東海の狗奴国との争いであれば、
それで色々とピッタリくるんだけど。

550 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:44:41
倭国大乱って、何か
特別でめったに起こらないことのように考えるむきがあるけど
中世とかだって、断続的に戦乱があったわけだから。

よって、古代でも
孝霊、崇神、景行など、絶えず戦乱があったと考えるべきだと。

551 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:50:07
>>547
女性や子供を巻き込んだ戦闘といえば、まず考えられるのは外敵の侵入でしょう。
なんだか、とりあえず内乱ということに、という感じがするけど。

552 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:53:56
>>551
始末と記述してあるところを見ると、反逆罪に問われた一族の処刑?

553 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:33:55
ヤマト王権発生のプロセスを語るにあたり、
都市が先か?王権が先か?の問題があるようですね。
老教授さんはまず都市が先だと。
マキムクに物資や人的資源の大規模な集積がまずあり、その中で王権が生まれた
という解釈でいいでしょうか?

554 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:38:17
しかし、庄内開始と共に西日本各地で起きている拠点集落の解体・再編。
マキムクが何もないような場所に計画的に造営された宗教都市である点など。
王権が先であるような傍証が多いような気がします。
「マキムク」という事業を主導した王権を想定しないことには、
これらの事象は説明出来ないのではないかと。

555 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:57:14
キチガイの巣窟かと思われた邪馬台国関連スレにも
まともなところがあったとはw
てかここまで分かってたんだな
素直に感心した


556 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 09:13:04
老教授は王権の前段階として各地の首長連合がまず発足し、それがマキムクを造営したと考えてるんじゃね?
この時点ではマキムクに王はいないと、あくまでも首長たちが主導して運営している
これが庄内開始であってそれが次第にマキムクにあらゆるものが集まり、元々の運営母体を凌駕するに至った
それが庄内の終わりか古留開始あたりであって、朝貢がその逆転の引き金の一つになった
素人だが俺もそう見たほうが自然だと思う



557 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 09:52:07
>>549
朝日遺跡も青谷上寺地遺跡も弥生後期、つまり卑弥呼共立以前の時代だよ。
北九州が後漢滅亡で衰退していくのに対して
ヤマト王権はいち早く楽浪にすり寄って勢力をつけたわけだ。
結果かつての北九州中心の勢力図が書き換えられて、各地に分散した混沌状態が倭国大乱を指すのであって
実際にドンパチやってたってことじゃない。
だいたいそんな国単位の戦争なんてその時代には不可能なんだって。
まさに鉄の過大評価だよ、まさか本気で当時のもろい鉄剣でチャンバラやってたとでも考えているのだろうかね。

558 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:38:04
都市と王権がセットで出現するというのは、東アジアに広く見られる現象だそうです。
王権によって計画的に都市が造られ、王権の消失と共にその都市は放棄されるのだとか。

559 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 11:58:31
纏向はその環境から(都市と墓の関係)成熟した空間設計と 考えられる。
中国でも古くは、王城域と陵墓は密接であり一体化され造られたが、都市や墓が拡大するにつれ、その空間は次第に別々な空間へと移動していった。
纏向の古墳群は、そういった別空間への移動期に当たるのではないかと思考します。

560 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 13:41:07
>>555
おおむね賛成だが、自分は中国古代史に疎いので、補足説明を願いたい。

秦・前漢・後漢の巨大帝陵群は、都城内ではなく、長安・洛陽の北郊に築かれていると聞く。
で、プラム氏の
 >中国でも古くは、王城域と陵墓は密接であり一体化され造られたが、都市や墓が拡大する
 >につれ、その空間は次第に別々な空間へと移動していった。

の、「その空間は次第に別々な空間へと移動」とは、上記のような(秦漢期の)ことか。

いや、そうではなく、殷・周期(殷墟遺跡とか)にもすでに、居住地・一般墓地・王墓の
空間分化が始まっていて、空間を一体化しなくなっている、という意味か。

自分的には、纏向以前の、吉野ヶ里遺跡の墓地のありよう(一般甕棺墓地、首長の墳丘墓と
分化している様子)に、なにかしら殷代の名残り?のようなものを感じてならないのだが。

561 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 13:44:17
>>560アンカーミスした。>>555誤→>>559正。スマソ。

562 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 14:30:33
>>561


私が一体型と表現したのは、生活区の範囲(範囲の設定にも定義は必要でしょうが)に陵墓が築かれる事です。
そして時間の経過と都市の拡大につれ、陵墓の造営は郊外へと、その場所を設定された。

胤の時代は区分されていたとは言え、郊外型と比べかなり密着型かと……?
どおでしょう?

563 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 15:09:59
>>562
纏向で、まだ一般庶民の住居集落が発掘されてないのが痛いね。
竪穴式住居は、まだ十ちょっとぐらいかな。
でも、居住地が無い筈はないのであって、あれだけの大古墳(箸墓)をつくるの
だから、大勢の人々が、どこか通える範囲に住んでいないことには・・・

もっと初瀬川(大和川本流)寄りの辺りを掘れば、集落跡が現れそうな気もするが・・・。

まあ、たしかに纏向遺跡は、庶民が居住した生活空間と王墓とが、吉野ヶ里などよりずっと
分化傾向にあるのは確かですね。これはプラムさんのおっしゃる通りだと思う。

564 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 15:47:23
奈良盆地内って…何故か中途半端?
いくつかの弥生遺跡が確認され、その遺跡の墓制は(周構墓)
それがいきなり郊外型しかも大型の纏向古墳群へ


何故間の過程が存在しないの?(私がしらないだけか?)

565 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:25:49
巨大な前方後円墳というのは、もちろん大王墓には違いないのだが、
単に死者の亡骸を納める場所、という通常の意味での「墓」の機能だけでなく、
もっともっと多様な意味、多様な機能の働きがあるのだと思う。
古代エジプトや中国にも肉薄する規模の、あんな巨大な墳墓(状)構築物を、
日本列島のような小さな島国国家がつくり得たのは、深い理由があると思う。

そこでプラム氏に教えを乞いたいのだが、あの秦の始皇帝陵のことだ。
あれも、どうも突出している、という印象をもつのだが、どうだろう。
ま、世界一とも言われるから、「突出」と書いても役には立たぬかもしれぬが、
秦以前に、あれの2分の1とか、4分の1とか、そんな帝陵があったのかな。
つまり、君主の墓は段階的に規模を増す、なんてことが、世界史的にみて、
普遍的にあり得る歴史の流れ、歴史の法則かどうか。そのことを伺いたい。

566 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/01/19(金) 17:21:42
>>565

>そこでプラム氏に教えを乞いたいのだが、あの秦の始皇帝陵のことだ。
あれも、どうも突出している、という印象をもつのだが、どうだろう。
ま、世界一とも言われるから、「突出」と書いても役には立たぬかもしれぬが、
秦以前に、あれの2分の1とか、4分の1とか、そんな帝陵があったのかな。
つまり、君主の墓は段階的に規模を増す、なんてことが、世界史的にみて、
普遍的にあり得る歴史の流れ、歴史の法則かどうか。そのことを伺いたい。


そのような法則を見出す事は今のところないと考えます。

私が言いたいのは、いきなりと感じられるほど極端な変化なんです。
大型の墓を郊外に造るという・・・

567 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 18:32:06
>>557
では倭国大乱は吉野ヶ里遺跡のあたりで
>>538から、弥生時代の中期の中ごろということになる?

568 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:54:12
>>556
庄内開始時の「各地の首長連合」の範囲って、どこまでなんでしょうか?
大和川水系と阿讃播までくらいなら、私の考えに近いです。


庄内初期に大和川水系首長層を中心としたプレ・ヤマト王権が生まれ、三輪山の神官がオウに選ばれる。

布留0で、大和・吉備・淀川水系・東海・九州などが一人の巫女を女王に共立し大同団結。
箸墓を築造し、前方後円墳の祭りを創始。
西日本全体を包摂する、倭国史上初の大王権力が誕生する。

つまり二段階の連合化を経て、成立したのがヤマト王権であろうと。

569 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:08:36
>>568
>庄内開始時の「各地の首長連合」の範囲って、どこまでなんでしょうか?

纏向大溝の土器からすると、吉備から東海まではガチ。
山陰・北陸はよくわからね。

570 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 00:37:50
>>565
始皇帝と言うのは、徐福に不老不死の薬を探されたと言う話がありますね。
何とか、生き続けたいと思っていたらしい。
ところが、墓である始皇帝陵は、生きているうちに作り始められたらしい。
完成までにかかった歳月は40年。
日本の古墳は死後だろうか生前だろうか。

巨大な古墳は、不死を願う気持ちとか、死後の世界観とかが関係しているの
かも知れませんね。

考古学者は、このようなことに関心を注いで欲しいと思うのだけど。

ところで、始皇帝の葬儀は大々的に行われたそうです。
喪主の立場が跡継ぎを意味するために、威信をかけて葬儀を行うそうです。
権力の大きな大王の墓は大きいと言うことになるのかも。

571 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 00:55:36
古墳→寺社という経路を見るに、死後もしくは現世利益の信仰から古墳が作られたのではないだろうか?

572 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 03:01:25
>>569
>纏向大溝の土器からすると、吉備から東海まではガチ。
>山陰・北陸はよくわからね。

土器が出たからと言って、ヤマト王権の参画者であると断言までは
出来ないと思いますが。
せいぜい交易相手と言えるくらいで。

573 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:31:24
まだ大きな集落もできてない段階で大溝は掘られ、その底から吉備や東海系の土器がわんさか出てくる。
これは、溝を掘る段階から参画していたとしか考えられないわけだ。
つまり、纏向計画が策定されている段階から何らかの形で関与していたということだな。

計画の中枢にいて立案にたずさわっていたか、あるいは、労働力を求められてホイホイ出さざるをえない、
被支配に近い立場であったか、それは紫蘭が。

574 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:16:39
>>573
マキムクの搬入土器が、全体の15パーセントを占めるという事実を
どう捉えるのか、だとは思いますが。
必ずしも東海や東瀬戸内、吉備などの人々の大規模入植を考える必要は
ないのではないでしょうか?
85パーセントは畿内の土器なわけですし。
ただ東海や吉備の大規模入植を否定するわけではありません。
そういう可能性もあるでしょうが、搬入土器がその根拠だというのは
弱いのではないかと。
唐古の頃からも各地からの搬入土器はありますし、それを入植とは
普通解釈されません。交易の証拠とはされますが。

搬入された土器の内容物は、おそらく酒や塩、保存食物であったでしょうし、
それはマキムクに大規模集住した労働人口の需要を満たすために各地から
運ばれたと考えるべきではないでしょうか?

575 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:41:25
>>574
50人学級で7、8人が外国人という状況を考えて味噌。
十分多いぞ。

576 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:50:51
>>575
うーん。上手く伝わっていないみたいで。
土器の比率がそのまま人口比にはならないんじゃないかと。

577 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:01:20
じゃあ、もっと外来の人が多かった可能性も認めるわけだ。
外来者が在地の土器を使うのは普通の事だからな。

578 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:29:53
>>577
そうですね。

>ただ東海や吉備の大規模入植を否定するわけではありません。
>そういう可能性もあるでしょうが、搬入土器がその根拠だというのは
>弱いのではないかと。

は、そういう意味で書きました。

579 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:09:54
つまり、同じことをもう一度書けということか。

>まだ大きな集落もできてない段階で大溝は掘られ、その底から吉備や東海系の土器がわんさか出てくる。
>これは、溝を掘る段階から参画していたとしか考えられないわけだ。
>つまり、纏向計画が策定されている段階から何らかの形で関与していたということだな。

交易拠点にもなってない段階で出てくるものを、どうして交易によるものと言い張るのか。

そして、外来性の土器は外来の者しか使わないが、
在地の土器は在地の人も外来の人も使っていた可能性がある。
だから、外来性の土器の割合は人口比率のミニマム。


580 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:26:33
>>579
>外来性の土器は外来の者しか使わないが、
>在地の土器は在地の人も外来の人も使っていた可能性がある。

そもそも、なぜ搬入土器が搬入されたかについて。
何らかの中身を詰めて運ぶために使用されたんじゃないかと思うのですが?
日常生活に使用する土器なら、わざわざ遠方から運ぶ必要はない訳ですし。

つまり搬入土器から言えることは、外部からの物資の流入までで、
そのまま入植者の数、というのは言い過ぎではないかと。

581 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 11:04:50
だから、なんのために何もないところへ来たの?
何もないところへきて、溝を掘ってるんだよ。集落ができる前に。
継続して拠点として機能していた唐古とは全く事情が異なる。
ほとんど人もいなかったところにやってきてまず溝を掘ってるんだよ。

582 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 13:54:12
>>581
>だから、なんのために何もないところへ来たの?

難しいところですね。ただの想像になりますが
まず最初に王権が生まれ、宗教的計画都市の造営、灌漑やら造墓の労働人口
のマキムクへの流入があって、
そのために生活物資の需要が生まれたためではないでしょうか?

583 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:29:07
まさかと思うけど、在地の土を使った外来性の土器もあることを知らないわけじゃないよね?

584 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:58:13
>>583
ああ、そうなんですか
マキムクの搬入土器の何パーセントくらいがそうなんですか?

585 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:05:07
それは知らない。
この分だと輸送に関係ない高坏なんかが出てるのも知らなそうね。

586 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:01:21
>>585
現地で作った土器を「搬入」土器と呼ぶのは、名称として間違っているように
思いますが。
高杯は確かに輸送とは関係なさそうですね。


587 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:28:40
>>586
『「搬入」土器と呼』んでいるのはあんた自身だということを確認してね(ハート)
俺は書いてないから。書いてないことを批判されても知らんよ。

588 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:57:33
>>587
「搬入」土器が15%なのは、別に僕が言ったことじゃなく、
一般的に言われていることだと思いますが。

改めて言いますが、各地からの入植者の存在を否定してる訳じゃありませんので。
(ホケノとか、阿波の影響が強そうですし、阿波の人が埋葬された
 のではと考えてます)

搬入土器の割合から、単純に東海や吉備からの大規模移住があったという説に
疑問を呈しているわけで。

589 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 00:12:23
報告書『纏向』には搬入土器と書いてあるからね。
しかしこれは20年以上も前に出されたもので、
その後の研究で現地で作られたものもあることがわかってきた。
だから結果的に全てを搬入土器とよぶことは間違っているわけで、
自分は意識して搬入土器とは書かずできるかぎり外来性土器と書いている。

搬入土器と書いているのは、あ・な・た!

590 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 00:26:47
>>589
「搬入」でないことを証明するには、地元の胎土を使用したという根拠の
提示が必要だと思いますが。

何度もいいますが、あなたの言う「外来性」土器だけで、
外部勢力の大量入植の根拠とするのは弱いのではないでしょうか?
他に根拠はあります?

591 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 01:35:37
>>590
知らないなら自分で調べなさい。つきあいきれんよ。

592 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 01:44:41
>>591
いや、自分で調べろと言われても。
自分で知ってる範囲で喋っているわけですし。
その上で、マキムクはあくまで大和川水系や東瀬戸内の首長たちの連合だと。

出来ればきちんとした反論を希望します。




593 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 11:24:51
マキムク初期の大和川流域はどのくらいの発展だったんだろうね。
他の地方種類の土器で東海系が一番多いは
やはり東海地方との繋がりを重視するために大和川水系や瀬戸内海連合が主導して作ったのか、
はたまた東海系の人々が吉備などのの祭祀を取り入れてできたのか

あと土器に関しては時代を追うごとに河内系の割合が増えてるみたいですが
マキムクが誕生してから河内地方が発展していったとも考えられますね。

594 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:22:03
マキムク以降は、王権主導による大規模灌漑が可能になり、
大和盆地、次に河内平野の開墾が進展していったのだろう。
本拠地や王墓の移動とも一致する。

595 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:31:42
天津神、国津神、葦原中津国の話は

神話学の見たら、要するに、

天津神=高原、山岳部の水源を押さえている勢力
国津神=平地の河川部の勢力。
で、葦原中津国=その平地の河川部(国津)の湿地帯。

のことであり、水源を押さえている勢力が、
平野部・河川部を支配したという意味に取れる。

おそらく、大和盆地の山岳部の水源や木材利権を押さえている勢力が
徐々に下っていて、畿内の平野部を次々と抑えていったんだろう?

これと似たことをやったのが、戦国時代の松平氏。
松平氏も山岳部から三河平野へ下って、勢力を拡大した。

596 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:58:10
実は藤原宮ができるまであの巻向のあたりは使われていたんだから、奈良時代
になってから確立した交易路で各地の土師器が集まっただけじゃないか?

人が住まなくなると泥土で遺跡は埋まっていくが、人が住みこまめに掃除して
いれば地層もできない。溝から各地の土師器がてんでバラバラに無造作にでる
のは投棄痕だろ。

思ったより新しい時代になってから文物が集積された結果といってもおかしく
ない。その点、唐古・鍵のほうが正しい時代示準になりそうだと思うね。

597 :日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:52:04
>>596
巻向も唐古遺跡も
距離的に近いわけだし...

祭祀は巻向で行って、経済の中心地は唐古じゃないのか?


598 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 03:38:19
箸墓が「大市」と呼ばれる「市」の地に築かれたってところが
妙にひっかかてならない

599 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 10:44:32
>>506
おいおい
考古学的史料だけに拠った場合エトルスキのローマ支配は前475年くらいで終了するというのが一般的な理解なわけだが…
更にラティウムでは前6c以降エトルスキ支配を示唆するものが発掘されてないわけだが
にもかかわらず当該主張をなす史料でも持ってるの?
それとも無知な素人さんの妄言?

600 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 15:23:21
>>597
経済の中心地という意味では、大和川流域だと思う。

601 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 19:34:51
>>600
経済の中心地と祭祀場所は
必ずしも一致しない。

まあ、マキムクも唐古遺跡も大和川流域を両岸だし。
距離的に近いわけだから、
同じような場所と見て良いだろう?

602 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 00:05:23
要は庄内式土器をどう解釈するか、ですよね。

以下は想像ですが、吉備などからの入植者が多かった中河内で
庄内式が発生して、やがて大和盆地南東部でも製造されるようになったと。

ただ、窯跡があるから経済の中心というのも別問題な気がします。

例えば須恵器生産拠点である陶邑にしても、石津川水運を使って
大量輸送出来ること。燃料としての木材資源が豊富にあり、
また良い土があること等、いくつかの要件に左右されて選定されたのだろうと。

土器の生産地を必ずしも経済の中心と見る必要は無いのではないでしょうか?

いや別に、マキムクが政治経済の中心地であったことを否定してる訳じゃないですよ…

603 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 05:20:16
経済の中心地。
実はこれがよくわからない。
「市」というと、折口ではないがどこか祭祀関係的なイメージが重なってしまう。



604 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 10:53:03
スレ主です。
>>532>>546で提案し、老教授さんから>>541でご同意をいただきましたので、これからしばらく、「マキムクのその後」、といったところについて、みなさんにご議論いただきたいと思います。

「マキムクのその後」と言えば、土器編年上は「布留1」と呼ばれる時期になります。
布留1期の古墳は、最近は全国でかなりたくさん知られてきたようですが、とくに大きなものは、やはり奈良県に、とくに盆地の東南部にあたる天理市と桜井市に群在しており、近年ここは、「オオヤマト古墳群」と呼ばれるようになってきました。
スレの主題である纏向遺跡も、大きく見れば、この「オオヤマト古墳群」の中に形成された遺跡、と言うことができます。
で、このあとスレ主が、「オオヤマト古墳群」の道案内みたいなものをカキコしますので、しばらくおつきあいください。

605 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 10:55:06
纏向遺跡への最寄駅は、JR桜井線の巻向駅です。
JR桜井線は、奈良盆地東南部を走るローカル線で、JR奈良駅〜高田駅を結んでいます。これが全通したのは明治32年(1899)でした。ただし巻向駅は、じつは戦後、昭和30年(1955)の開業です。桜井線の各駅の中では一番新しい駅になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E7%B7%9A

そのJR桜井線の、天理駅〜桜井駅までの間は、次の6駅です。北の3つが天理市内、南3つが桜井市内となります。

 天理(旧丹波市) … 長柄(ながら) … 柳本 … 巻向 … 三輪 … 桜井

このうち、長柄駅〜柳本駅〜巻向駅の区間沿線には、古墳時代もっとも初期の前方後円墳・前方後方墳が集中しており、研究者によっては、「オオヤマト古墳群」、と言われたりしています。

606 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 10:57:29
「オオヤマト古墳群」──。
次にリンクする地図上の、すべての古墳をひとまとまりとして、「オオヤマト古墳群」の名称で呼ぼう──、というわけですが、これは比較的新しい呼び名であって、まだ広く親しまれているとは言えません。反対される学者も、おられるようです。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn02.htm

地図の北の方に、二十いくつかの古墳が、わりとビシッと固まっています。一番大きなのは西殿塚古墳です。
じつは、この北部の一群の古墳に対しては、以前から、「大和古墳群」という言い方があるため、話がヤヤコしくなるのです。「大和古墳群」の読みは、「やまと古墳群」ではありません。「おおやまと古墳群」、と読むのです!

607 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:03:18
西殿塚古墳が所在するこの北の一帯の古墳(=「大和古墳群」)を訪れるには、JR長柄駅で下車して歩けばいいわけですが、長柄駅のすぐ近くに、由緒ある神社が鎮座しています。大和神社(おおやまと神社)です。
じつは大和神社の存在が、「大和(おおやまと)古墳群」という言い方に関係しています。
大和古墳群が所在する現天理市の萱生町・佐保庄町・成願寺町・中山町・兵庫町…といった大字は、すべて大和神社の宮座を形成する旧村で、中世には「大和郷」(おおやまと郷)と呼ばれる地域だったのです。

それにしても、「大和古墳群」とは、なんとも誤解を招きやすい表記です。それがためか、考古学者によっては、この北一帯の古墳群のことを、「萱生(かよう)古墳群」と呼んだりもしました。そのような記述をした考古学の本も、割りとあります。
しかし萱生は、この地域中の一大字名に過ぎません。萱生町以外にも古墳はたくさんあることが、「萱生古墳群」の表記では伝わってこない──、ここにまた問題があります。

608 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:07:00
大和(おおやまと)神社の宮座地域が、中世では「大和(おおやまと)郷」と呼ばれていた──、と書きました。
が、さらに古く、律令体制下の奈良朝期やもっと以前では、ここら辺りは単に「和」や「倭」と書かれ、「ヤマト」と呼ばれる地であった──、との意見があり、かなり有力な説のようです。論者によって少し違いはありますが。

つまり、初めは奈良盆地内のある一角を呼称する地名として「ヤマト」があった、それが次第に奈良県全域を指すようになり、さらに「日本国そのもの」を表す言葉として「ヤマト」が用いられる──。
直木孝次郎、岸俊男、和田萃、熊谷公男、吉川真司氏などの歴史学者によって追究されてきた、こうした「ヤマト」の本源地を探る研究は、考古・遺跡ファンのわたしには、ちと難しくはありますが、とても興味深く思っています。

609 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:09:11
また「オオヤマト古墳群」の地図を見ましょう。ややこしいですから、もう一度言いますね。
「オオヤマト古墳群」は、天理市・桜井市にまたがる古墳群の総称です。その中の、北にまとまって位置する一群が、大和(おおやまと)古墳群でした。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn02.htm
そこから南へ歩を進めると、ちょっと切れ目というか、古墳が見当たらない地帯があって、それからまた一群の古墳の固まりが見えてきます。柳本古墳群です。
柳本古墳群には、行燈山(崇神天皇陵)と渋谷向山(景行天皇陵)という二つの大型前方後円墳を含んでいます。また多数の三角縁神獣鏡が見つかって話題になった黒塚古墳も、この柳本古墳群の中にあります。
JRの駅名にもなっている「柳本」は、旧村名であるとともに、江戸時代は織田家1万石の藩名でもありました。柳本藩陣屋は、ちょうど黒塚古墳のところにあり、付近一帯は城下町(陣屋町)として賑わいました。

610 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:12:37
今度のリンクは、地図は同じものですが、さきのサイト中の別ページです。纏向古墳群の説明があります。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn10.htm

地図の南の方、破線で囲っているところが、纏向遺跡のおおよその範囲です。箸中山古墳(箸墓)やホケノ山、石塚・矢塚・勝山、東田大塚など、すでにお馴染みになった古墳名が記してありますね。
それで、纏向遺跡のあたりにあるこれらの古墳を総称して、「纏向古墳群」と言うようになったわけですが、先の大和古墳群や柳本古墳群に較べると、地図で見るかぎり、纏向古墳群は全体としての一体感がなく、あまり「古墳群」という感じがしません。
ただ箸中山古墳の後円部東側の箸中地区には、ホケノ山や小円墳の集中が見られるので、ここを「箸中古墳群」、あるいは「箸中支群」と呼ぶ場合はあります。「支群」という言い方ですと、石塚付近の4墳は、「東田支群」です。

611 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:15:42
以上、「オオヤマト古墳群」の、およその輪郭を説明してきました。
識者によっては、さらに南方にある独立的なメスリ山古墳と桜井茶臼山古墳も、「オオヤマト古墳群」の中に含められる方がいるので、話がよりいっそう錯綜します。また大いに疑問ですが、「磯城古墳群」という用語を使われる先生もあります。
私としては、字数を費やして長々とカキコしたのは、盆地東南部の初期古墳を「オオヤマト古墳群」とひと言で総称しても、その内実は、かなり複雑な様相があったのではないか、という印象を持つからです。具体的には、

@中間地帯にあたる柳本古墳群の形成は、少し時代が下るのではないか。つまり最初はすこし距離を置いて、纏向(南)と大和(北)とで、別々に古墳群の形成が始まったのではないか。
A大和古墳群と纏向古墳群中の古墳を一つ一つ仔細に見れば、形状がかなりバラエティに富んでいる。とてもじゃないが、「定型化した前方後円墳」との一様な概念では、くくリ難い。

といった点でしょうか。

612 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 11:17:26
さて、みなさん。しばらく議論を、「マキムク以後」に少しシフトして、再開していただくにあたり、みなさんに一つの論文を読んでもらいたいと思います。いわば、共通宿題──です。(笑)
ここは2ちゃんですから、古代史や考古学の勉強を始めたばかり、という方もいらっしゃるとは思います。そういう方々にはやや難しいとは思いますが、それでもぜひ読後感なり、ご意見等を、レスしてみてください。

 ◆赤塚次郎 「古墳文化共鳴の風土」、『[愛知県埋蔵文化財センター]研究紀要 第7号』 2006 愛知県教育・スポーツ振興財団
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo07/0705akat.pdf (PDFファイル約1メガバイト。10ページ)

執筆者の赤塚さんは学生時代、土曜日曜も遊びになんか行かず奈良県立橿原考古学研究所に籠り、所員の誰もが面倒臭がってサボっていたメスリ山古墳出土の巨大円筒埴輪の接合・復元を、一人でコツコツやってのけた──、という伝説?の持ち主です。ほんとかな?

613 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:54:58
>>604
>「マキムクのその後」と言えば、土器編年上は「布留1」と呼ばれる時期になります。

マキムクのその後なら布留2の間違いだろ。
古墳の立地が動くだけでマキムクは健在だぞ。

614 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:25:24
>>613
>マキムクのその後なら布留2の間違いだろ。

「マキムク以後」とか「マキムクのその後」という言い方をしました。ご指摘を受けて考えてみましたが、たしかにわたしの言い方は不用意で、ある意味「文学的」なところがあったようです。

纏向の辻地区でしたか、おっしゃるように布留2式に併行する土器が見つかっており、この時期にも纏向遺跡の領域内で人の営みがあったことは確かですね。
ただ、「マキムクのその後」という文学的表現?で、わたしが議論の論点をすこしシフトしたいな、と思ったのは、上述のように、オオヤマト古墳群に代表される初期古墳の時代を、どのように捉えればよいか──そこに大いなる関心があるからなのです。
纏向遺跡がどのように終焉を迎えたか、というのとは、ちと違うのです。そこをご理解ください。

615 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 20:29:55
>>614 HN入れ忘れました。スレ主です。つづき。
これまでの議論を見ると、「マキムクの成立」というような点に、多くの方の関心が向いている様子が窺えます。
纏向遺跡の始まりは庄内期で、おそらく邪馬台国論争との兼ね合いから、肯定的であれ否定的であれ、論者の方の興味を呼ぶのだと思います。東遷説なども、それにいっそう輪をかけるのでしょう。

ただ、纏向遺跡が営まれている最中に、箸中山古墳というとてつもなく巨大な前方後円墳が出現し、前方後円墳の時代はその後300年以上もの間、ずっと続いていくわけです。これはきっと「ヤマト朝廷」──畿内大王権と、何かしら関係があるのだろう。
歴史的学的には、日本史的には、こちらの方も重大事で、大いに論じる必要がある──、そういうわたしの問題意識が、「マキムクのその後」という表現になってしまったわけです。

616 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 20:31:58
「布留式」も、論者によってすこしニュアンスの違いがありますが、とりあえずここでは、畿内で須恵器製作が始まる前の土師器に付けられた土器型式名、とお考えください。
それを前半・後半に分け、「布留1」「布留2」ということにしましょう。ただし庄内期の末期にほぼ重なり合う「布留0」の段階も、考古学者の意見にしたがい、やはり設定しましょう。
そのように考えれば、オオヤマト古墳群の多くは、「布留0〜1」と見なすことができると思います。
もちろん「布留2」の入り口のところも重要です。意見をお持ちであればぜひお寄せください。ただ私の本意は、「布留2限定で議論しろ」、ということでは全然ないのです。
やはり「布留1」を、「箸中山古墳築造に始まる古墳時代前期の前半」を、論じていただきたいのです。よろしくお願いします。

617 :1(スレ主です):2007/01/26(金) 20:49:14
>>615訂正 下から2行目 

歴史的学的には(×) → 歴史学的には(〇)

618 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:40:13
スレ主さん、ご苦労さまです。
スレを正常運営しようという真摯な態度には敬服します。

私自身の考えとしても、箸墓と柳本古墳群との間には隔絶があるという考えです。
箸墓以降、柳本とイワレ地域にそれぞれの造墓集団がいて、
ある種、二統が相争っていた時代があったんじゃないかと。
結局柳本が勝つ訳ですが、前方後円墳祭祀が定型化するのはその決着がついて以降なんでしょう。

619 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:06:00
>>618
そこら、歩いたことがあるが
ほとんど同じような場所だぞ。
距離的に近いし。

620 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:18:59
>>618
>箸墓以降、柳本とイワレ地域にそれぞれの造墓集団がいて、

「イワレ地域」とは?
そ、それ初耳でつ。詳説キボン!

621 :日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:22:39
>>619
要は、桜井茶臼山とメスリ山を大王墓と見るかどうかによって
違ってくると思います。

大王墓と見るなら、@西殿塚、行燈山、渋谷向山とA桜井茶臼山、メスリ山の
二系統の大王家が、箸墓以降並立したことになるわけで。

初期ヤマト王権の実態が、畿内有力豪族の連合政権であった事を考えると、
そうはスンナリと大王位の一氏族独占は有り得なかったんじゃないでしょうか?

622 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 01:21:58
>>614
ちょっと待て。あんさんは、布留1が纏向後だと書いているのだぞ。
言い方を変えれば、布留0で纏向は終わりってことだ。
文学的だのなんだのくだらん言い訳せずに、素直に訂正すればいいんじゃないのか?

なぜそれをしないのか。
纏向とはなんの関係もなく、布留1、つまり古墳時代前期前半の話をしたいだけなんだろ?
丸っきりのスレ違いだ。
即刻この話を止めて別のスレでやることを提案する。

623 :1(スレ主です):2007/01/27(土) 20:15:07
>>622
オオヤマト古墳群中の古墳時代前期前半の古墳と、纏向遺跡とは、何ら無関係であった──、きっとそのようなご持論をお持ちかと推察するのですが、ならば、そうお考えになる理由をも含め、このスレ上で議論に参加していただければ、と思います。

スレ主としては、まったく逆のことを考えています。纏向遺跡は、奈良盆地はおろか、全国の多くの場所において、古墳時代前期前半の古墳形成と何ほどかは関係があったろう、と。
少なくとも、南北5キロメートルほどに収まるオオヤマト古墳群の範囲で、箸中山古墳の存在を知らず新たな別の古墳をつくる人は、まず居なかっただろうと思います。

別スレを立てるつもりは、ありません。悪しからず。

624 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:38:59
つーか奈良盆地西の二上山は「サヌカイト」「凝灰岩」「金剛砂」の有史来の
大産地であり、縄文人達は数千年に渉って、この山の恩恵に預かっていた。鏃
や石斧などの石器材料として使用されたサヌカイト。近畿一円の古墳の石棺に
使われていた凝灰岩。金属器等の研磨材として不可欠なザクロ石(金剛砂)はこ
の山が当時、北限の産地であった。遠くからこの山の石材を採取する為に、縄
文時代から物流経済の集積があったのは否定できない。
古くから全国的に知られていた地であったのだから、各地の土器が出るのはさ
ほど不思議ではない。唐古・鍵からも様々な土器が出土するのと同じだ。
九州や出雲から鉄や青銅の利器が一般に普及するまで、生活必需品だったのだ
から。


625 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:02:52
オオヤマト(マキムク型含む)と柳本では根本的な築造技術に大きな差があるらしいね。
これが佐紀や百舌鳥になるとさらにまた違いが顕著になる。
基本はみな同じ前方後円墳(帆立貝型含む)なんだが、オオヤマトはむしろ前方後方墳に近い
後方部の付け足しのような築造方法を採っているようだ。
寺沢などは後方墳は後円墳の亜流だと言い切っているが、赤塚は根っこは同じだろうと見ている。
まあ赤塚の東海贔屓を差し引いたとしても、これは結構重要な争点だと思うな。

626 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:02:58
>>623
あんたが無関係と考えてるから『纏向後』という表現になったんだろ。
いいかげんに見苦しい言い訳は止めたら。
なぜ素直に間違いを認めない?布留1は明らかに纏向後ではないのに。

>別スレを立てるつもりは、ありません。悪しからず。

別スレを立てなくても該当するスレは沢山あるよ。
とにかくスレちがいの話題をふるのは止めろ。適切なスレで好きなようにやれ。


627 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:07:01
>>624
>>625
スレ違い。

書くならなら『纏向が王権の礎の地だたっか』というテーマと必ず関連づけるように。


628 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:29:46
>>627
俺は625だが、なんでそんなすでに決着のついた話をいまさらせにゃならんのかね?
ほかの邪馬台国糞スレと同じレベルに落とせってことか?
少なくとも古留0にはここに王権が誕生していたことは間違いないんだからね。
スレ主の表現の悪さはあんたの言うとおりだが、あんた、ここでもマキムクに鉄がなかったとかの大嘘レベルの話したいのかい?
ホケノどころか小学校用地からも鉄鍬が出土しているのは当然知ってるよね。
>>624などは、おそらく外来式の出土比率が突出していることすら知らないみたいだろ?
そんなのを相手にしていきたいのかい?

629 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:31:49
>>627
俺は625だが、なんでそんなすでに決着のついた話をいまさらせにゃならんのかね?
ほかの邪馬台国糞スレと同じレベルに落とせってことか?
少なくとも古留0にはここに王権が誕生していたことは間違いないんだからね。
スレ主の表現の悪さはあんたの言うとおりだが、あんた、ここでもマキムクに鉄がなかったとかの大嘘レベルの話したいのかい?
ホケノどころか小学校用地からも鉄鍬が出土しているのは当然知ってるよね。
>>624などは、おそらく外来式の出土比率が突出していることすら知らないみたいだろ?
そんなのを相手にしていきたいのかい?

630 :629:2007/01/27(土) 23:33:43
連投スマソ てか重いぞゴラァw

631 :629:2007/01/27(土) 23:57:25
627サンはいっぺん最初からスレ読んでみるといい
『纏向が王権の礎の地だったか』を問う連中の情けないくらいの低レベルに辟易するぞ
マキムクの墳墓が郊外型だぁ?阿呆、ホケノも勝山も石塚も都市のド真ん中にあるわい。
神殿がないだとぉ?魏尺で作られた大量の高床式は無視ですか、ああそうですか
唐古鍵が労働者キャンプだって?マキムク開発の恩恵を受けて生き延びた集落なんだよ、あそこは。
庄内以降の3つの集落分裂ぐらい知ってて書いてるんだろうなぁ
ひどいのになると高杯出土すら知らん奴までがいるわいな

あのなあ、そんな程度(本当に『そんな程度』なんだよ、嘘偽りなく)も知らんで、邪馬台国がどうとかマキムクがあれだとか、無茶にもほどがある
おっと素人の直感とか言い訳されたら困るぞ
古代史なんてフルマラソンに参加するようなものなんだ
せめて完走するだけの基礎体力が不可欠なように、最低限の知識は必要なんだって
このたとえは佐原先生や網野先生が好んで使われたものだ
自称素人連中は胸に刻んでおいてくれ



632 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 00:01:18
>>628
>俺は625だが、なんでそんなすでに決着のついた話をいまさらせにゃならんのかね?

決着が付いているならこのスレはもはや不要ということなので安楽死させるまでの事。
すれちがいの話題をわざわざここでやるための遁辞にしてはとあまりに稚拙だとは思わんかね?

633 :629:2007/01/28(日) 00:24:34
そこまでスレタイに意固地になる必要があるのかと思うんだわ、俺
必要ならば2で変更すればいいじゃんか
あんたの言うように、1の答弁はやや的外れだ、俺もそう思う
だが軌道修正ってことでいいんじゃないかね

実は正直なところ俺は老教授氏の4世紀論を拝聴してみたいんだわ
3世紀についてはずいぶん前に氏が語った論説がさすがプロだけあって見事なものだったし
あれ以来九州説が壊滅し、電波だけがかますびしく嘘八百を連日書きまくるようになったのを目の当たりにしたからな
当時古代史のコの字も知らなかった幕末オタの俺がその面白さに目覚めたのは氏のおかげかもしれない

ここは軌道修正を容認するってことで、あんたも積極的に参加してくれるとうれしいんだけどね
どうやら相当な力量の論客みたいだし

634 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 04:16:20
ガラの悪い低俗な人が書き込んでるみたいで。

635 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:49:42
>>634
自己紹介、乙

636 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:18:34
>>631
>唐古鍵が労働者キャンプだって?マキムク開発の恩恵を受けて生き延びた集落なんだよ、あそこは。
>庄内以降の3つの集落分裂ぐらい知ってて書いてるんだろうなぁ

下品な文章だな。

まあ、唐古鍵も、マキムクの中心勢力の一角だったと思うけどね。


637 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:07:13
マキムクに巨大交易拠点が誕生した理由。
これがヤマト王権発生メカニズムの要点だろうと思う。

つまり、空前の大土木工事による労働力の結集により、
大規模な食糧需要が生まれたからだろうと。

で大土木工事を主導したリーダー層が大王権力に発展していったと従来は考えられていた。
東アジア的専制国家で解釈すればそうなる。
いや、大王が誕生したからこそ、大土木工事が遂行できたと、私は思うだが。

638 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:39:19
>>637
んだ、オラもそう思うだ。

639 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 20:16:02
ヤマト王権は、旧大和湖の湿地帯を開墾しようという、大プロジェクトの
ことなんだよ。

640 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 08:36:33
>>637
いや、単純に税として、大量の物資や労働者が集まっただけでは?
その物資を捌くために、市が立てられたと。
まあ当時は、税というより、神殿への供物、といった形だろうが。

641 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:45:20
大阪平野が水没してる時代なので大和の地は平野だったからです

642 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:52:07
>>640
ところがマキムク以前の畿内には、各地からの土器が大量に集まった例はないんだ。
畿内どころか結果的には日本全国でどこにもなかったわけだが。
大和川流域で吉備や山陰や三河などの外来土器が全体の数%出土はしているのだが
それがマキムク造成というプロジャクトが始まってから一気に増加する。
上にもあるように、ただの煮炊き用や保存用の甕だけならまだしも
各地特有の高杯などの祭祀土器が、一括で大溝の最下層から出土していることから
まず造成プロジャクトありきで、各地から合意の上で終結しているとしか考えられないんだ。

643 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:06:49
高杯が出土するから各地が合意、って議論はどうだろ?
何か飛躍がない?

644 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:41:07
高杯が「搬入」された筈がないという意見も疑問。
搬入もされてただろうし。

645 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:36:12
王権の無かった畿内に、突然王権が生まれたと考える方が、
巻向の突発性を説明し易いのでは?
敢えて、複数の外部勢力が大量入植、
やがて王国を建設した、みたいな無理矢理なストーリーを創らなくても。

646 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:03:18
■-允恭天皇の病を治した医師-■

 『日本書紀』に「三年春正月、使いを遣して良き医くすしをシラキに求む。秋八月に、医、シラキより至(もう)でたり、
即ち天皇の病を治めしむ」とあるが、『古事記』は天皇即位の時「シラキの国主、御調物(みつぎもの)八十一艘を貢進す。
爾(ここ)に御調の大使、名は金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)という。この人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を
治め差いやしき」とある。
 『古事記』にはシラキから来た医者の名が記されている。『日本書紀』には、日本側が医者を求めたところ、
シラキが大使としてこの医者を日本国に送り、允恭天皇の病を治したとある。
 允恭天皇は、西暦454年に39歳で亡くなったが、この時代(4〜5世紀)、日本と新羅(シンラ。辰韓)は敵対関係にあり、
ヤマト朝廷は、新羅を征伐するために何度もシラキに軍を派遣している。433年に、日本領=百済と志羅紀が、新羅・高句麗=連合
の侵略から国を守るために同盟を結んでいる。この事実は、允恭天皇の治世において日本と新羅が敵対してことを示している。
 したがって、シラキから大使として送られた医者=金波鎮漢紀武は、新羅人(ワイ人。朝鮮人)ではない。
允恭天皇の時代に日本に来た金波鎮漢紀武は、志羅紀人(シラキ人。倭人)なのである。日本民族の国である志羅紀(弁韓)から、
コムハチムカムキムは派遣されたのだ。
 允恭天皇が亡くなった翌年、西暦455年に高句麗が百済を攻撃するが、この時、志羅紀が百済を救っている。
允恭天皇の時代には、百済と志羅紀の間に強固な同盟関係が成立していたことが分かる。
 512年〜525年頃に、新羅の侵略により任那と志羅紀は一時滅びたようだ。しかし、544年に高句麗が百済を攻めた時に、
志羅紀が百済を救援しているので、544年以前に、ヤマト朝廷の支援により志羅紀と任那は復活したのだろう。


647 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:10:54
高杯を搬入する意図って何だろう?

648 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:19:38
そもそも高杯の使用目的は?

649 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:45:24
しばらく離れていて、昔のスレが読めないのでお聞きします。
老教授さんが九州説を論破したのですか?
それを見たかったなぁ……
私が見ていた頃は、植物学をやってる人がヤマトにあてはまらなくって
九州ですって盛り上がっていた頃だったので。



650 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:55:14
老教授の昔のログみたいね。


651 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:55:53
論破ではないと思うな。
そもそも破るべき『論』なんてなかったし。
その後しばらく静かになったのは事実だが。

652 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 22:57:55
論破は出来ないでしょ。蓋然性の問題だし。
そもそも、ここは邪馬台国スレじゃないよ。

653 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 23:01:34
>>647
例えば、キャラバンのリーダーである貴人が、旅の途中で行なう祭祀
(もしくは食事)に使用したんでは?

あとは、単に珍しいから持ち込んだとか。

654 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 23:22:35
そんなかさ張るものを持ち歩くなんて面倒なキャラバンだな。

655 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 01:32:45
>>654
まあ確かにそうだ。当時の人にとって祭りはそれだけ大事だったと。
峠やら灘などの難所越えは命がけで、神頼みなのも分かる。

貴人の食器なら、まあそこまで考えなくてもよい。

656 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 02:29:57
つーか、なんでただの物資の輸送にそんな貴人がつきあわなきゃならんのさ。
おまいらあほだろ。

657 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 04:32:45
老教授の成果は『論破』というより『淘汰』だったんじゃね。
現在ではありえない説を、なぜそれが消えていったのかを分かりやすく説明し
その上で議論を推し進めていこうとしていた。
結果的にほとんどの九州説がそこで否定されてしまったわけだが、同時に畿内自生説も過去のものだとも論じていたっけ。
彼自身も、可能性は低いが考古成果に反しない九州説はありえると公言しているわけだし
それでもいわば蓋然性の問題として、マキムク説が学会スタンダードとして通説化しており、自分もそれに従うとの立場なんじゃないかな。

ハンドル由来も確か、荒しや煽りを華麗にスルーし、軽妙かつ紳士的な語り口で進める態度をして
『まるで老教授が血気盛んな学生をいなすようだ』と評されたところから、自虐的に名乗り始めたんじゃなかったかな。

658 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:34:14
>>656
商取引のため。古代の商人=首長層と考えるべき。

あと無礼な書き方は止めなさい。
自説の弱点をつかれて感情的になってるの?

659 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:41:36
>>657
「邪馬台国」論争自体が、所詮倭人伝の考察になってしまうからさ、
議論が堂々巡りになり、結局住み分けした、っていうのが実情。

もう少し実年代が判明すれば、倭人伝と考古学のすり合わせが出来るのだろうが。

660 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 08:58:49
天皇陛下万歳

661 :日本@名無史さん:2007/02/02(金) 18:50:42
大量の外来性土器が出土することから類推出来ることは、
「各地と交易していたこと」「物資や人の流れがあったこと」まで。

各地域から大量の入植者が大和に移り住んだ、は言い過ぎ。
寺沢は昔そんなこと言ってましたが、今も言ってるのかな。

662 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:44:26
各地域から畿内へ、大量の移住者がいた、というのは間違いではないが。
それは弥生時代全体を俯瞰した上での話であって、
庄内開始時点で突然起きた、というのは非常に恣意的解釈と言わざるを得ない。
高杯が証拠とかは論外。ていうか論理に飛躍があり過ぎ。

663 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:52:47
畿内に西日本各地から多くの入植者があったのは間違いないだろう。
弥生時代の推定人口の推移、当時の文化レベルにおける西高東低を
考えても、弥生期の畿内はド田舎であったと言える。
弥生人たちのフロンティアだったのかもしれない。
入植者はそれぞれ集落を営み、「弥生時代を通じて」土着していった。
しかし、弥生時代を通じて畿内は力を蓄積し、終末期には遂に逆転してしまう。
それは「弥生時代を通じて」起きた事象と捉えるべきだろう。

664 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 20:23:17
>>663
そういう長いスパンでの人口移動というより
政治的な単位で移動があったのか
また他の地域へ入植する過程で移動先と元の交流が続いたのか
その交流が連合の基礎となったのか

665 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 21:39:03
>>664
うーん。なぜそのような短期間で考えるかな。
庄内の数十年間はせいぜい2世代程度で、
各地からの大量移住、彼らの土着による畿内豪族化、
豪族連合による王権樹立など、
どう考えても時間が足りない。

666 :東四国のひと:2007/02/03(土) 22:21:52
もう少しすれば萩原2号墓の話がでてくるはず。
なぜホケノと阿波が関係するのか?
阿讃になにがあったのか?

奈良県立橿原考古学研究所 友史会
http://www.oct.zaq.ne.jp/afadl905/reikai0609oasa.htm

667 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:28:15
もう少しって、今発掘でもしてるの?

668 :東四国のひと:2007/02/04(日) 07:40:28
>>667
2月から埋葬施設の調査が始まったようです。
副葬品は1号墓より豪華でしょう。

669 :東四国のひと:2007/02/04(日) 08:36:42
重要な遺物が出る前に宣伝しておきます。
現時点ではこの説に賛同者がほとんどいない
ことを確認するという意味もあります。

東四国説
http://www.geocities.jp/yamatai4/
都の位置−大麻
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/index.html


670 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:48:11
>>668
それは楽しみ。れぽよろ。

671 :144:2007/02/04(日) 10:13:01
東四国説に賛同者がいないのは事実だが
萩原2号墓がマキムク型のルーツのひとつではないかとの見解はたいていの研究者が持っているよ。
築造技術には阿波・讃岐の影響が強いってことでね。

672 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 20:58:49
他スレでは鏡についての議論が熱いね。
なぜ九州説が畿内説が重視していない鏡の議論に拘るのかと思ったら、
九州説こそが、神獣鏡が製作された時期を4Cに編年しなければ成り立たない説なのか?

673 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:17:23
阿波や讃岐がヤマト王権成立に深く関わっていたのは事実でしょう。
ただ阿讃は、古くより畿内と同じく銅鐸文化圏ですし、
畿内経済ブロックの周辺という捉え方が正しいように思いますが。
敢えて、弥生終末期〜古墳初期の畿内と東瀬戸内地域を別国と考える必要はないのでは?

674 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:49:39
倭人伝で、投馬=吉備、邪馬台=大和と仮定すれば、
東瀬戸内地域は一つのクニという認識が当時あった筈。
確かに、畿内を東瀬戸内と切り離す必要はないだろう。
東瀬戸内=瀬戸内海航路の掌握があってこその、ヤマト王権な訳だし。

675 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:52:37
>>672
そういうこと。
三角縁にしても畿内説は国産でも中国産でもかまわないんだが、
九州説は中国産ならシボン。だから必死。

676 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:03:30
>>673
よく使われてる銅鐸文化圏という表現は、見方を誤ると凄く思うのは俺だけですか

677 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 01:15:10
>>676
まあ実際、弥生後期はいくつかの文化圏に分かれ、その一つが畿内、東海の銅鐸。
って見方は間違いないんじゃないでしょうか?

678 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 01:53:25
弥生後期、見る銅鐸の頃の畿内の実力を、安く見積もるから、
庄内開始と同時に突然畿内が勃興した、みたいな言説になる。

外部勢力主導とか、巻向「市」論のような奇抜な論を唱えなくても、
筑紫や吉備で起こったような首長連合→広域王権の誕生の流れが、
畿内東瀬戸内地域でも起こったと考える方が自然だろ。

679 :東四国のひと:2007/02/07(水) 20:29:17
>>673
5世紀初頭まで時代が下がらないと
畿内の影響が東四国、特に阿波には
あまり波及していない、ということ。
多分愛宕山古墳くらいから畿内の影響が
はっきりしてくる。
銅鐸圏でひとくくりというのは危険でしょう。

680 :東四国のひと:2007/02/07(水) 20:30:46
どこかで引用したんだけど、こういうこと。
「古墳時代の研究 6土師器と須恵器」p.234-235より

「庄内様式圏を離れての庄内式土器の波及度は、近畿地方
周辺ではさらに弱かった。近年具体的相が判明しつつある
北四国や東四国の地域性を考えてみたい」

「東阿波型土器は徳島県内の要地に広がるだけではない。
淡路・摂津・播磨や河内など環大阪湾地域に確実に搬出
されている。」

「東阿波・東讃岐にはそれぞれ庄内式甕に替わる地域性の
強い甕が分布し、その個性とそれを保持した集団の勢力
が基因して庄内様式の定着はおろか、河内や大和からの
搬入現象は極力拒まれている。・・・四国東部ではむしろ
流出土器が目立っており、畿内およびその周辺地域にその
証左を残している。」

681 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 20:48:52
>>675
文献的、歴史学的には九州説しかない。
そのために、考古学的には畿内説という看板を掲げる必要があった。
その看板をずっと背負ってきたのが、三角縁神獣鏡。
畿内説は、三角縁神獣鏡で首の皮一枚つないできた。

しかし、それに破綻が見え始めると、卑弥呼の時代を古墳時代に含めて
しまおうという戦略に出た。最初の頃は、箸中山古墳を卑弥呼の墓に
することが目的だった。宮内庁が管轄し、発掘調査のされていない
箸中山古墳を卑弥呼の墓に想定してしまったのである。

畿内説は土俵を割りそうになりながらも、土俵を広げながら
持ちこたえている説だと思う。

682 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 21:37:06
東阿波型土器は、朱や玉を入れて搬送するための「入れ物」に過ぎない。

あくまで物資の流れを示すだけで、必要以上に政治的に解釈するのはどうだろう。


683 :東四国のひと:2007/02/08(木) 05:37:45
>>682
もちろんこういったことは解釈問題ではあります。
ただ、当時畿内の文化の影響が強く東四国に
及んでいたとは主張しにくいのではないでしょうか。
あとは三角縁の出土数が少ないことがあげられます。

マキムクに参加した有力豪族の一つが阿波の豪族であり、
東四国と畿内勢力との関係はイギリスとアメリカ
の関係のような関係であったのではないかと
推測します。

684 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 09:16:04
>>681
畿内説は神獣鏡には依存していない。、
神獣鏡で首の皮一枚つながっているのが九州説。

685 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:11:08
>>683
まさに解釈の問題で、東四国に三角縁や初期前方後円墳が少ないのは、
@すでにマキムク王権の影響下にあって、古墳造りの規制を受けていた。
A大規模な労働力を動員できるような王権が存在していなかった。
B平野部が少なく人口自体が少なかった
などとも考えられるかと。

686 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:49:06
考えてみれば、巨大なマウンドを造るという発想自体が、農業国家的である、と。
灌漑工事で残土を積み上げる延長線上に、古墳築造があるのではないか。

いや、勿論これは言い過ぎなんだけど、
古墳築造という大土木工事を可能とするには、
農業生産に裏打ちされた豊富な人口が必要。
海商国家では成立し難いのではないか?

687 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:21:10
>>686
東アジア的専制国家で考えれば、あながち間違った意見じゃない。

特定指導者層が灌漑工事を指揮、民衆を動員していくプロセスの中から
最初の王が誕生したと。
つまり、農業国家での王権誕生の説明だ。
国家建設に当たって、最初に蛇が殺される神話が多いのは、
水神殺し=灌漑工事のメタファーなんだろう。

ただマキムクの場合、王権誕生と大土木工事がほぼ同時平行的に
起きているようだが。

688 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:24:00
灌漑工事意味取り違えてるぞw
漢字良く読んでみろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

689 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:34:29
>>688
意味がわからん。
もうちょっと詳しく教えて

690 :一応九州王朝説:2007/02/08(木) 23:45:55
>>681
それからは、常に論証の前提に「かくあるべし」という前提をおく構造のままですよね。
でもって、一点突破型も変わらない。他説に排撃的・排他的だし、バランスも総合的な
アカデミズムにも欠ける。上手くいかないと「発掘屋が馬鹿だから」とか。

出土品や遺構によって大々的に世間の耳目を集め、自説の欠陥を覆い隠そうとする、
そんな非学問的スタンス。


691 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 00:56:42
>>690
うーん、どうなんだろう?
畿内説の大抵の人間は、ヤマタイコクがどこにあってもいい、というスタンスだと思うが?
実年代も今のところ確定していないので、土器編年で語り、
倭人伝、ヤマタイコク所在地論争の不毛さから卒業していると思うのだが。
興味の中心は、マキムク王権の成立プロセスに移っている。
マスコミ発表は客寄せパンダみたいなもの。

692 :666:2007/02/09(金) 05:38:35
>>691
邪馬台国問題に関しては、「卒業」というよりも
「あきらめ」のように私は見えます。

これは方法論上の問題ですけれど、「邪馬台国」と
いう文字は文献にしか現れていないわけで、文献
データと上手にすりあわせできるような候補地があ
るかどうかを問うことが、本来は先です。
これは効率の面からそうなのですが、効率が悪いほう
が政治的にはよいこともあるので、ちょっと複雑です。

もちろん、古来から文献の解釈があまりに恣意
的すぎて、出土した遺物や遺構などからしか物
を語るべきではない、というストイックなスタンス
になってしまったという経緯もあるのでしょう。

「恣意的」とは、たとえばこういうことです。
邪馬台国の比定といいながら、24国すべてを、文献
どおり地図上に比定している案はまずありません。
傍国21国を「次々」に並べていない以上、国名の類似
に関する統計上の有意性はまずありません。
それでも「比定できている」という主張こそが、恣意的
なのです。そんなことはどの地域でも可能なのですから。

693 :669:2007/02/09(金) 05:59:57
>>685
前方後円墳は東四国発祥だという説があります。
それほど巨大なものは作らなかったのですが、
それこそが「発祥」の根拠でもあります。
北條氏の説
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2001/0920.htm

もし古墳築造に関し規制ができるほどの影響を畿内
が東四国に及ぼしていたとすれば、二級品の三角縁
を副葬しないのは妙です。
三角縁以外にも副葬品や外表施設全般に、畿内の
ものと類似した何らかの影響が生じているのが自然
です。

694 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 08:36:40
>>692
あきらめ、というのもどうなんでしょう?
本来、考古学、土器編年などが今ほど精緻化してなかった時代は、
倭人伝解釈しか方法が無かった。それで邪馬台国論争が始まったわけです。
そもそも邪馬台国自体が副次的なもので、本題は古代史、日本の成り立ちの解明では?
このスレでも、畿内王権とかマキムクとか、邪馬台国=倭人伝を外した論が一般的。

C14や年輪で実年代がある程度確定出来るなら、倭人伝と考古学の擦り合わせが出来るのだが。

695 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 08:41:55
あと、倭人伝のデータを全面的に信じるのもどうかと思うが。
地理に不案内な外国人が、通訳を介して外国人から聞いた話。
当時の倭人の測量技術を考えても、見えない二点間の距離や方角を正確に知り得たとは思えない。

696 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 08:46:19
まだ、マキムク厨が、倭人伝の方角を畿内になるよう
主張してるのか。

697 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 13:46:28
>>696
いや、やろうと思えばどこにでも誘導できるってこと。
倭人伝解釈だけならば。

698 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 17:38:13
>>696
九州説が学会はおろか出版物でも生き残れず
ネットの一部でしか主張できないのと違い
歴史学では>>691みたいなスタンスが一般的だからね。
なんだが九州じゃないとヤダ!って感じが微笑ましくもあるが
度が過ぎた馬鹿が迷惑かけているってことは自覚してほしいな。

699 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 19:40:08
もう畿内説vs九州説っていう次元じゃなくなってる
具体的な場所が曖昧でバラバラな九州説とマキムクがそうだと主張する畿内説
魏志倭人伝解釈に興味がある九州説とマキムク遺跡の実態に興味がある畿内説
いわゆる畿内説は、畿内説という呼び方はもはや副次的なもになっていて
マキムクが邪馬台国かどうかという位置づけにすがらなくて良い状態になってる。

700 :日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:39:10
ヤマタイコクにしろ倭人伝にしろ、倭国のある一時期を切り取っただけなんだよな。
一時的に北部九州が復権してた時代とか、吉備に突然楯築墳丘墓が造られた時。阿波の萩原1号とか。
一時期、隆盛しただけのクニかもしれない。
実年代が分からない以上、倭人伝解釈は幾通りも成立し得る。
つまり不毛と。

701 :669:2007/02/10(土) 07:42:53
>>700
萩原2号墓が、その「不毛」という思い込み
を消し飛ばしてくれる可能性がある2番目に
重要な墓。1番ではないし、卑弥呼の墓でも
ないけれど。

どこかに既に出土している年号入りの鏡
たちのルーツとなるオリジナルの鏡が眠っ
ているとは思わないかな?

702 :669:2007/02/10(土) 07:44:16
楽浪鏡の踏み返しとされる画文帯が副葬
された萩原1号墓の築造年代は200年前後と
されている。そうすると、探し出すべき墓は
その数十年後の墓であるべき。

その画文帯の存在は、阿波の豪族が卑弥呼
の時代から遡ること数十年前にすでに
楽浪とつながりがあったことを示している。
海洋航海に長じていれば、大陸とつながりを
持つことは難しい話ではない。

なぜ卑弥呼が郡に使者を送ったのか。
皇帝から与えられた品々の大きな特徴は鏡であり、
優れた鏡の獲得であったことは推測できる。
郡に使者を送れば一級品の鏡が獲得できることを
知っていて、その実力があったのはどこか?

703 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 10:51:57
>>701
不毛と言ったのは、倭人伝のみを解釈して、ヤマタイコクはどこか?とかいう議論に対してです。
考古学の新発見で定説が覆るのはいいことかと。

704 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 12:53:34
マスコミでも、徐々に
畿内説で確定路線を匂わす報道をしだしたな。
やはり、内々では真相が分かってきているのか...

孝霊天皇の吉備平定=7,80年前の倭国大乱

狗奴国(畿内の奴国<難波国>の南部に拠点)
男王・卑弥弓呼(ひみここ)=武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)
官・拘右智卑狗(コウチヒコ)=河内彦(カワチヒコ)

卑弥呼(モモソヒ)

705 :一応九州王朝説:2007/02/10(土) 13:11:04
>マスコミでも、徐々に
>畿内説で確定路線を匂わす報道をしだしたな

それは昔からだってw
朝日の担当が京大なのは有名な話。△が出るたびに「邪馬台国決定か?」
漫画かよって感じw

706 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:04:27
>>705
いい加減、邪馬台国はどこか?みたいなオールドタイプの議論は止めません?

最早、「倭人伝」「邪馬台国」抜きで、大和王権成立のプロセスに
肉薄出来るまでになってるんですから。

マスコミは大衆プロパガンダだから、一般の人に分かり易いように
邪馬台国を客寄せパンダとして書いてるだけ。

707 :一応九州王朝説:2007/02/10(土) 14:28:56
>>706
それはマスコミに言ってください。
私はそういうスタンスではありませんから。
文献史学一辺倒でもないし、なにがなんでも九州説というわけでも
ありませんから。そのせいで太国さんからはこうもり野郎と罵られて
ますがねw

あなたの言うように、考古学的成果から積み上げていくことは王道
だと思いますよ。
ただ、それならすぐに「邪馬台国」について言及する畿内説の学者
さんはどうなんですかね。更に、九州についての不審な部分も「弥生
晩期以降は停滞」一辺倒、土器編年の拡大解釈、鏡についての歪ん
だ議論・・・。九州説の有利な部分も無視乃至スルー、それが新しい
という頃でもないでしょう。
大学者でもうさんくさい事言ってるのは感心しません。

まあそれこそあなたに言うべきことではありませんがw

708 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 17:08:16
フジのドラマでもやっていたな。

卑弥呼VS卑弥弓呼
=媛命(ひめみこと)VS彦命(ひこみこと)
=百襲媛命VS武埴安彦命

倭国大乱
=孝霊天皇の吉備平定(古事記、桃太郎伝説)
→卑弥呼擁立(孝霊天皇の皇女・百襲媛命を擁立)

でも、九州説には頑張ってもらわなきゃいかん。
何故なら、このまま邪馬台国論争が収束し沈静化したら
発掘調査の資金が集まらず、研究にとってマイナスだから。
だからこそ、愛好家主体の九州説論者を裏で煽っている側面もある、
学会の偉いさんたち(畿内だろうと思っている)は...

ちなみに、神武東征は、紀元前1世紀か、西暦1世紀くらいの話。
畿内本家の大国主に娘しかいなかったので、
九州分家の神武さんが入り婿に入りましたとさ。
その時に、畿内本家により近い分家の物部氏の祖先と一悶着あったとさ。

709 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:57:08
>>707
実際、考古学者のパネディスとか参加したことある?
若手の研究者で、真剣にヤマタイコクとか言ってる人は皆無だよ。
要は、それ位温度差がある。

ヤマタイコクを使えば予算が付き易い、人が集まる。そういう実利的な意味合いで利用してるだけ。
畿内説がマスコミと結託して世論操作、とか陰謀史観も甚だしいよ。

710 :日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:03:14
学会のえらいさんは、邪馬台国云々には興味ない。
大和朝廷の兆しが2〜3世紀にあり、
それがマキムクというのに興味があるだけ。
邪馬台国の話はその次いでって感じ。


711 :一応九州王朝説:2007/02/10(土) 23:59:54
>>710

つまり私の問いにたいする返答は出来ないというわけですね。
だから根強く在野に不信感が存在するのに。オナニーですよね。

クニの形を明らかにするのに、中国の一級資料を無視するのは
お粗末すぎwww

712 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:12:04
>>711
>土器編年の拡大解釈、
>鏡についての歪んだ議論・・・。
>九州説の有利な部分

このへんを具体的に書けばレスがつくかもね。

713 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:32:45
>>711
まあ、邪馬台国に固執したいなら、別に構わないんですが。
このスレは大和王権の話だから出て行ってね

714 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:43:47
普段過疎のこのスレが盛り上がって上がると
邪馬台国厨も増える悲しい運命
まさに古代史学会のジレンマを具現化したスレですねここは

715 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:36:08
邪馬台国に拘泥する人間は旧人類。
我々は新たなる人類の可能性を探さなければならない。

716 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:36:53
邪馬台国厨は馬鹿でいいのでは?

717 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:56:20
>>714
スレ主がみんなに宿題を出してるぜ>>612 これ読んで意見書けってさ。

 ◆赤塚次郎 「古墳文化共鳴の風土」、『[愛知県埋蔵文化財センター]研究紀要 第7号』 2006 愛知県教育・スポーツ振興財団
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo07/0705akat.pdf (PDFファイル約1メガバイト。10ページ)

ざっと読んだが、ようわからん。
マキムクに全国から集合して、巨大な古墳をつくったが、これは各地からの文化の寄せ集め、
政権は幻みたいなもんで強制力なし、マキムクは情報発信基地なんだ、・・・・てな書き方だったが・・・・。
マキムクを過大評価するなよ、ってことか? それにしては古墳はでか過ぎると思うんだが。

718 :669:2007/02/11(日) 07:36:14
>>703
なるほど。
この問題がいかがわしくなくなるような証拠
が出てくることを私は期待しています。

「中国正史の記述について、作業仮説を立てて
考古学によって検証できるか」、というのは本来
まともな学術的問題です。

初期の作業仮説の立て方があまりに恣意的だっ
たためにこうなってしまったのか、意図的にこの
方向に誘導されたのか。きっと複雑に絡み合って
いるのだろうけど。

719 :一応九州王朝説:2007/02/11(日) 18:10:46
私は文献史学だけにこだわってはいませんがね。前にもいったように。
文献史学も一材料として、弁証法的、論理的に組み合わせる事は可能だし、
考古学、文献学、その他各論が独立してしかも同じ結論を指す、というのは、
理想ではあっても必要なことでしょう。全く無視も出来ない。
鼻につくのは、「ヤマト政権の初期」というレトリック自体が古くさすぎて黴の臭い
ぷんぷんなことですよ。単純に奈良盆地南部→盆地内制圧→河内→その外
という経緯を辿ったとしても、それ以外の勢力はなんなのか、王権と呼べる規
模の存在はなかったのか。神武がいたとしても、彼が「俺はヤマト王権の初代
なんだ」なんて思ってる分けないw こういった用語の乱用・誤用が無数にある
のが古代史学ですよね。
まあ降って湧いたマキムクが輝けるヤマト王権のスタートで、その後は記紀の
通り、っていうのは、かたまった脳内には予定調和で心地よいんでしょうが。

>>717
見れないようですね。そこ。再うpしていただければありがたいですが。
ただ、古墳がでかいからその在地勢力がでかいかどうかは。被征服地の人た
ちがかり出されたのかもしれず、その主体の本拠が何処なのかも現段階では
なんとも言えない。見せしめに作らされたとしたら、征服前の抵抗が強いほど
墓もでかくなる可能性だってあります。ピラミッドが公共事業という話もあります
が、だからといってクフ王の名前すら長年忌避されるほどの難工事だった事実
は変わりません。伝仁徳陵だって、当時の人口考えても、とてもじゃないけど喜
んで作ったとは思えない。

720 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 18:35:26
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

721 :日本@名無史さん:2007/02/11(日) 19:13:53
>>719
再うpって・・・・愛知県埋文のサイトだぞ、そこ。
今落とせたし。

722 :日本@名無史さん:2007/02/12(月) 04:05:34
>>719
見れない? こっちから入っても、駄目か? 愛知県埋文の資料集ページ。
http://www.maibun.com/DownDate/kiyo.php

それか、PDFファイルだから、パソコンにAdobe Readerソフトをあらかじめインストールしとかなきゃ
見れる筈ないぜよ。ひょっとして、やってないんじゃないか?
どこかご近所の自治体サイトにでも行けば、Adobe Reader無料配布先のリンクが貼ってあるはず。
そこへGoして、ソフトだけをダウンロードすればいい。
ああ、なにがなんでも最新のAdobe Readerをダウンロードすりゃいい、ってなわけには、いかんぜよ。
自分のWindowsのバージョンに合うAdobe Readerをダウンロードすること。

岡山県埋文も、発掘調査報告書すべてUPしてくれてるが、あそこのはデジャヴだから、また別のソフ
トが要るぜよ。それはそうと橿考研は報告書のデジタル化、いつ頃になるのかね? 誰か知らんかァ?

723 :一応九州王朝説:2007/02/12(月) 08:44:13
失礼。見れました。
「伊勢湾周辺地域における弥生時代の平野地形について」、これがとても
勉強になりました。件のレポートは・・・。また見ます。今日も家族サービス
で・・orz


724 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 08:34:18
>>719
なんかトゲのある文章だなあ。
実際「巻向以降は記紀の通り」なんて考えてる人はおらんでしょ。
ただ、巻向の王権が後の大和政権に繋がる、と言ってるだけ。
陰謀史観といい、極端なことを書き過ぎだな、君は。

725 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 21:41:18
マキムク開始と同時に、突然巨大な王権が生まれたというのは幻想ではないのか。
所詮は各地のオウたちの連合、寄せ集めに過ぎないと。

連合するにあたり、オウの上の存在として、オホキミを創造。
視覚的に納得させるため、連合各地の葬祭儀礼を
恥ずかし気もなくパッチワークして、前方後円墳祭祀を急ごしらえする。

マキムクの共立王は、大王権力を必要とした有力首長たちに創られたものであって、
必要とあれば簡単に首がすげ換えられるような存在だったのだろう。倒幕勢力が明治天皇を利用して結集したのに似ている。

726 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 21:49:48
おそらく、大王権力の強大化、中央集権化が進むのは、四世紀末以降なんだろう。
この頃より、一氏族による大王位の独占、世襲が行われるようになったと。
大王権の拡大の過程で、他の豪族たちとの軋轢が深まる。
雄略の頃には吉備、葛城を討ち、継体以降は各地に多数の屯倉を置くようになった。
筑紫が完全に大和の風下に立つのは、磐井の乱以降だろう。

727 :日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:57:24
巻向を建設したのは、当時
気候が寒冷期を迎えたので、
飢饉が各地で起こって戦乱が絶えなかったので、
死者を弔う祭祀を国家が完全に支配することが重要だった。
よって、巻向が建設されたと。

よって、巻向から、巨大な政権が出来たかは分からない。
モモソ媛が卑弥呼なら、少なくとも2世紀後半の倭国大乱の時も
西日本を中心とした全国政権が誕生していたわけだし。

マスコミなんかは、モモソヒメ=卑弥呼の観点から
崇神天皇だけじゃなくて、その曽祖父の孝霊天皇の存在まで
焦点を当ててきている。

728 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 08:31:53
>>727
弥生中期後半に大幅な人口減があったのは認められるが、
弥生後期はずっと人口増だった筈だが?
倭国乱についても、実際の戦乱があったかどうかは疑問視されているしな。

孝霊実在、は確かにやり過ぎ。
欠史八代は葛城地方の山や川の神々を皇統に加上したと見るべきだろう。
ただ、孝霊の家族たちが吉備で祀られている点は興味深い。
吉備と大和が合同した時に、それぞれの系図を繋ぎ合わせる必要が生じ、
その結接点として生み出された天皇なのかもしれない。

729 :日本@名無史さん:2007/02/17(土) 20:29:38
中期後半の人口減少って何?
根拠は?

730 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 00:00:33
>>729
弥生中期後期の境で、人が住まなくなる地域が見られるようになる。
西日本全体に見られる傾向。

731 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 00:17:50
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

732 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 03:18:04
>>730
具体例は?
ただし、気象変化や洪水で集落立地が変わっただけとかも考えるべきだと

733 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 11:38:51
>>732
土器や集落の数が極端に減少してる訳だし、
東瀬戸内では石鏃の大型化、高地性集落が増えるなど、戦乱を思わせる痕跡が見られる。
もうちょっと勉強してから書いて。

734 :唐松山:2007/02/18(日) 15:01:22
人口減少は、崇神5,6年の 大凶荒 
及び
西暦193年(お隣の国の記録)にある
倭人1000人以上の渡海 (全員 食料にされた のかな?)


735 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 15:01:47
>732 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/02/18(日) 03:18:04
>>730
>具体例は?
>ただし、気象変化や洪水で集落立地が変わっただけとかも考えるべきだと

>733 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/02/18(日) 11:38:51
>>732
>土器や集落の数が極端に減少してる訳だし、
>東瀬戸内では石鏃の大型化、高地性集落が増えるなど、戦乱を思わせる痕跡が見られる。
>もうちょっと勉強してから書いて。

「具体例は」と尋ねられて、直接関係のないことをもっともらしく言ったあげくに
「もうちょっと勉強して」で逃げてちゃさ、「根拠無し」と認定されても文句は言えないよ。

736 :唐松山:2007/02/18(日) 15:22:48
この 崇神6年から70、80年後は、景行17から40年です。
西暦193年から247年 少し足りない


737 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 15:38:57
>>735
土器や集落の数が減っているのは、人口減の具体的な証拠だと思うのだが。
よく分からない絡み方をするよね。

738 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 15:56:55
だから何処でさ?

739 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 21:03:55
>>738
根拠があることは理解できたのかい?

740 :日本@名無史さん:2007/02/18(日) 21:46:20
>>739
> >>738
> 根拠があることは理解できたのかい?

あは!具体例を言わなきゃ理解できないだろうが。

741 :唐松山:2007/02/18(日) 21:48:39
この 寒冷化 が 
種貸し屋の大親分(古代天皇家等)の発行する 暦への不信となり
九州での 乱に繋がると想います。


742 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 08:26:12
>>740
子供の喧嘩じゃないんだからw
で、あなたは、弥生後期の始まり頃に、人口の落ち込みがあったことを否定したいと。
一般的に言われていることだけどね。

743 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 13:04:02
邪馬台国総論
http://yamatonokuni.seesaa.net/




744 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 20:21:15
>>742
> >>740
> 子供の喧嘩じゃないんだからw

何故に「子供の喧嘩」なのかな?

> で、あなたは、弥生後期の始まり頃に、人口の落ち込みがあったことを否定したいと。

何でそう思うの?
ただ、あなたが「具体例はありますか」と言う質問にひたすら答えないだけですよね。

> 一般的に言われていることだけどね。

「一般的に言われている」ことは知っているが「具体例」は知らないと言う事かな?

745 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:06:33
>>744
具体例書け、ってさ。めんどくさいじゃん。本見ながら書くのw
スレではおおまかなアウトラインでいいのでは?素人なんだし。
少なくとも、一応考古学者が書いたり言ったりしたことを書いてるんであって、
君のようにいい加減に思いつきで書いてる訳じゃないよ。

746 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:21:38
そもそも、弥生中期の終りに大幅な人口減があったかどうかは、このスレの議論から離れているんだよ。

弥生終末期、長引く飢饉やら戦乱がヤマト王権成立の契機になったという言説に、
果たしてそうか?という疑問を投げ掛けてるわけ。
それに対する反論は?

747 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:33:28
連合を保つ手段が何かだよな。有力者の婚姻関係、宗教、交易、軍事的支配などなど
宗教を信仰するにあたっては、飢饉なんかの自然災害は重要な要因にはなりますな

748 :唐松山:2007/02/19(月) 22:42:02
飢饉の時 私なら 食料確保の道を約束してくれる方に付くな

使える 暦と 寒さに適した 種
この両方を持ち帰ったのは、タジマモリ  です。


749 :日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:31:07
>>747
うーん。
飢饉や災害などで宗教者が力を得るのは分かるが、
それは弥生後期を通じて起きた、特定首長層の誕生、その権力の発展
の中に見るべきだろうな。

弥生終末期に起きたのは、そんな単純なことじゃなくて、
もっと政治的な色合いが強いだろう。

750 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 01:20:59
>>745
> >>744
> 具体例書け、ってさ。めんどくさいじゃん。本見ながら書くのw
> スレではおおまかなアウトラインでいいのでは?素人なんだし。
> 少なくとも、一応考古学者が書いたり言ったりしたことを書いてるんであって、
> 君のようにいい加減に思いつきで書いてる訳じゃないよ。

出典が手元にあるならタイトルとか著者名だけでも紹介して「読め」って言えばいいじゃん。
それとも、何かの読み違いだったことに気付いちまったのかな?

で、結論は「関係ない」ってことなんですねw

751 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 03:53:46
>>745
横からすまんが、具体例を書くのが「めんどくさい」ってのは、イタイ奴だな。
専門家とか素人とか関係無しに、それじゃ自分の持論の証明が出来ない。
そんな水掛け論の応酬なんざ、学問じゃない。

せめて、どの学者の説を元にして言ってるかぐらい書けっての。

752 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 08:30:23
>>750-1
面倒臭いなあ、また家に帰ったら、本を探して書くよ。
何、そんなにムキになってんだか。

弥生終末期の話をしてるんだからさ、もうこの辺りでいいんじゃない?
それとも、そっちに話がいくのが怖い?

753 :いろいろと問題の多い『安本流数理』:2007/02/20(火) 11:35:11
いろいろと問題の多い『安本流数理』歴史学批判

古代の王、一代十年説
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#junen

安本ダイアグラム
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#yasumoto

754 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:16:36
弥生終末期〜古墳初期の話なのに、なんで弥生中期にこだわってる奴がいるの?

755 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:20:51
弥生型社会は、弥生中期中葉から後葉、すなわち前2世紀〜前1世紀にかけて
200年近くにわたって、ほぼ安定的に継続した。
しかし弥生中期末から後期初頭を境にして、近畿弥生社会が大きく変化する。
近畿地方では一部を除くと、殆どの環濠集落は濠が埋没し、再び掘り直される
ことはなかった。
弥生型社会の象徴であった環濠集落は消滅してしまうのである。
こうした変化は近畿だけのものではない。九州から南関東までの
広い範囲を見渡しても、中期以来の拠点集落がそのまま後期まで
順調に続くことは稀である(福永伸哉)


近畿第X様式前半は近畿も東瀬戸内も集落が少ない。
土器の数も少なく、期間自体が短かったのかと思えるくらいだ。
弥生中期と後期の境で人が住まなくなる地域も存在し、それは
全体的に見られる傾向である(森岡秀人)

756 :日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:30:52
>>754
自分の説に対する「違うんじゃないか」という質問に、
きちんと反論しようとはせず(または出来ず)、
違う方へ目を逸らそうとしてるから。

弥生終末期〜古墳初期の話をするスレで、中期末〜後期初の論争は
スレ違いなのに、あえて突っ掛かってくる。
相手にする方の身になれ。

ヤマト王権の成立を、飢饉やら疫病、戦乱が原因だったという
自説に、是が非でも導きたいようだ。
やれやれ。
倭国乱とか崇神の記述に引き摺られ過ぎだな。

757 :日本@名無史さん:2007/02/21(水) 01:10:54
>>755

 やはり、元ネタはそれだけなんだね、でも、福永さんも森岡さんも
 キミが言うような「弥生中期後半に大幅な人口減があったのは認められる」なんて結論は出してないね。

 中期から後期まで「継続」する拠点集落は少ないってことだろう。
 社会・経済的システムの変動で集落が新しくなっただけなら「人口減」なんて言えないだろう。

758 :日本@名無史さん:2007/02/21(水) 01:21:36
>>757
うーん。確かに人口減までは言い過ぎかもしれない。
ただ、森岡はこの前の二上山シンポで、弥生中期と後期の境で
人口減があったと考えざるを得ないと言ってたけどね。
要は、考古学的事象をどのように解釈するかであって、
当然違う見方も存在する。

弥生中期末の高地性集落のピークに戦乱や富の収奪などがあって、
人口減。弥生後期を通じて人口が回復していった、と
少なくとも俺は考えていると。

もう、弥生中期の話はこれくらいでいいんじゃないの?
スレ違いなんだし、弥生終末期に話を戻そうじゃないか。
しつこいと嫌われるよw

759 :日本@名無史さん:2007/02/22(木) 08:34:22
前方後円墳造りが日本列島内で長らく盛行した理由、
それを考えれば畿内王権成立のプロセスが見えてくるのでは?

つまり、前方後円墳というのは、雑徭、労働税によって造られたものであって、
古代日本における統治体制のひとつだったのだろうと。

オホキミの墳墓を築造する大義名分で地方からマンパワーを集める。
普段は陵造りの他、灌漑工事などにも使役。有事に際しては兵隊に転用。地方に対する反乱抑止効果もある。

760 :日本@名無史さん:2007/02/22(木) 19:25:39
巻向以降、マウンド造りが突如列島各地で流行することには、昔から違和感があった。
巻向の前に楯築があったが後には続かないし。
前方後円墳の祭りが日本で大流行したのかな、と適当に考えてたけど、
その後数百年にも亘って前方後円墳が造られたのは、何らかの特別な意味合いがあったんだろう。

761 :日本史@名無しさん:2007/02/22(木) 23:14:58
前方後円墳=畿内王権と、誰が決めたの?
初歩的な問題すらクリアできてないんだよな。

762 :日本@名無史さん:2007/02/22(木) 23:22:23
>>761
畿内王権自体が、前方後円墳の造墓集団のことだろ。

763 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 00:04:49
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

764 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 03:00:00
>486
また、老教授とやらは性懲りもなくデタラメを言ってるな。
平原の再調査くらい読め。
未だにこんな九州軽視の化石が残っているとはあきれたもんだな。




765 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:27:33
>>764
三種の神器についての見解なら、教授の内容で概ね合っていると思うが。
そもそも三種の神器っていう考え方自体、記紀以降だし。

766 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:42:11
ヒラバルも楯築と一緒で後に続かないからな。マキムクはむしろ、吉備や東瀬戸内の影響が強い。

767 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:42:30
>>765
まてこれは老教授降臨期待の釣りだ

768 :日本@名無史さん:2007/02/23(金) 09:31:38
三種の神器も少なすぎるよな、セコすぎる

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