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【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】

1 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 02:41:09
☆前スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.7【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!               江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
第208回 新春講演会「騎馬民族は来なかった」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
第209回 特別講演会 「古代日本の馬文化   『江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える』 」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
是か否か「騎馬民族征服王朝説」
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html
「日本」国の起源説について     騎馬民族征服説説 / 「日本」と名乗った経緯 / 天皇と名乗るまでの歴史
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/index.html

673 :白馬青牛:2007/01/28(日) 02:32:10
>>660
帰化民であろうと支配層に属し被支配層じゃあるまいし。
征服民と同じ上層部に属しとるよ。列島支配者は扶余系の方が
新羅系より伽耶の出土品や五組織制から可能性は強いたァ思うよ。
日本に頭を下げて住まわして貰ったと思っている?
笑うたが、そりゃあ、あんたが卑屈な奴隷根性を持ちよるんじゃろう。
英国の渡来系のアングロ・サクソン人やデーン人の末がケルト系の人に
そう云うたら面白い。笑いが止まらん。卑屈屋さんは面白いこと云うのう。
>>664
混血や相互影響はあっても人種において基本的に、ツングース・
チベット人・日本人は、北方人種グループで、華南や東南アジア人は
南方グループに属するよ。
>>671
日本列島において人種的に渡来系が土着系を制圧したんは明白じゃ
ないか。出自を明確にせん唐王朝や新羅はどうか?くだらんよ。
例外事項を無理やり設定し、全体的傾向を無視しとる。木を見て
森が見えんのじゃろう。

674 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 02:37:21
思うよ

675 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 05:02:14
>>661
そうなると、百済王家を我々は「(扶)余」という姓だと考えてるわけだが、
姓がそうだから、百済王家が扶余族だとは断定できないということだな。

>>668
この本だっけ?
でもこれは中国側が勝手に名付けただけだからな。「倭」という姓は。

日本の誕生 (新書) 吉田 孝 (著)
ttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%AD%9D/dp/toc/4004305101

ちなみに俺個人は、日本の天皇家にはもともと姓が無かったと考えてる。
以下のサイトと同じ考えだ。

皇室に姓はあるのか
ttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-38.html
2.皇室の姓は「倭」か
 『宋書』文帝紀元嘉二十八年の条には、
「秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。」(秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す。)
との記述があり、倭王である倭濟とあることから倭王の姓は「倭」であることが確認できる。この様な例は他にもあり、
百済王の「餘」姓は夫餘族の略、高句麗王の「高」姓は国名にちなむものと推定されている。しかし、ワカタケル大王
(倭王武)の名を刻んだ稲荷山鉄剣には、主人公ヲワケ臣の氏の名はない。当時の豪族はまだ氏の名を世襲して
いなかったのであろうか。

676 :675:2007/01/28(日) 05:05:21
3.倭人には元来「姓」がない
(略
倭王武の朝貢を最後に、一世紀あまりの間、中国王朝へ朝貢を行わず冊封も受けなくなった。西暦600年、
倭は随に使節を派遣した。
 『隋書』列傳・東夷・倭國に、
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩?彌、遣使詣闕。」(開皇二十年(600年)、倭王あり。
姓は阿毎(アメ「天」)、字は多利思比孤(タリシホコ「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王」)と号す。
使を遣わして闕(みかど)に詣る。」
『新唐書』列傳・東夷・日本には、
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」(その王の姓は阿毎氏。
みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。)

とあり、倭王の姓を「アメ=天」であると伝えている。
 以上のことから、天皇が姓を持たないことについては、以下のような説明が可能である。

 元来、我が国では、中国以外の東アジア諸国と同様に氏族の名と個人名を連称する制度や習慣は存在
しなかった。それどころか、中小の豪族や庶民には氏族の名すら存在していなかったのかも知れない。
しかし、中国の冊封体制下に入るためには姓を名乗る必要があった。そこで「倭国」にちなんで姓を「倭」とした。
しかし、遣隋使の派遣以後、倭は朝貢はしても終始一貫して冊封を受けようとはしなかった。よって冊封用の姓を
名乗ることもなかったが、姓を持たないことを不審に思った中国側から質問されて、苦し紛れに「姓はアメである」
と答えたりした。

_____________________________________________

こんな具合に、最初に中国が名付けた「倭」ではなく、
あらたに「天」と名乗ってることからして、天皇家にもともと姓があったと考えるのは難しいと思われる。

677 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 05:12:59
>>658
これだね。

【日韓】 百済遺民とされてきた唐の将軍、研究の結果「日本の物部氏」出身と判明[11/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1163861271/

678 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:17:05
>>673
>列島支配者は扶余系の方が

だから具体的に何天皇が扶余だとお考えなのかな?
でその証拠をあなたなりに言ってくださいな。
また得意の「論点はぐらかし」ですか?

679 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:27:02
>>673
>帰化民であろうと支配層に属し被支配層じゃあるまいし。
>征服民と同じ上層部に属しとるよ。

だれが秦氏が被支配層と言った?

>列島支配者は扶余系の方が
>新羅系より伽耶の出土品や五組織制から可能性は強いたァ思うよ。

ならその扶余がいつ来たのか?

>日本に頭を下げて住まわして貰ったと思っている?

秦氏は応神天皇に帰化を願い出たと思ってるが?

>英国の渡来系のアングロ・サクソン人やデーン人の末がケルト系の人に
>そう云うたら面白い。

アングロ・サクソン人やデーン人が秦氏のようならイギリスももっと平和なのにな。
笑いが止まらん。広島奴隷民は面白いこと云うのう。

680 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:32:49
>>657、658だが、

百済王家と秦氏は同族と考えている。
秦氏は新羅からきたという説が大勢であることも知っている。
それはともかく、こじつけに思えたら申し訳ないが、
弓月王の「弓(キュウ)」は音で「熊(ユウ)」に通じている。
百済の始祖「仇台」が「優台」とも書かれることと同じである。
優台の妻は、後漢の遼東太守公孫度であり、帯方郡を支配している。
この時期に、優台は一族を率いて遼東から帯方郡、馬韓と移動してゆく。
「弓」、「仇」、「優」はいずれも「熊(ユウ)」に通じている。
しかも、「新撰姓氏録左京諸蕃上」では、融通王(ゆうづうおう)は弓月君とあり、
ここでも「融(ユウ)」が使われ、「熊」を連想させる。また、
「弓」は音「ク」ももち、月は朝鮮語で「タル」だから、
「クタル」を「クダラ」と読めば、弓月王は百済王でもある。
さらに、仲哀天皇8年に来朝した秦氏の始祖功満王(こうまんおう)は、
弓月王の父でもあるが、「功満王」の「功」は音「ク」ももち、
「くまおう」とも読め、やはり「熊」でつながる。
百済の都のひとつに熊津がある。
百済王家と秦氏はもともとは「熊」姓であると推測している。
北方民族にも熊トーテムがあるが、八族の顔ぶれからいって、
主流は中国南方の呉楚の亡国人の集団で、主流は楚人、
この熊は楚王族の熊トーテムに由来していると思う。

681 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:38:11
>>680から続く

話は飛ぶが、秦氏の大酒神社だが、
大酒神社の「大酒」は秦酒公が祭られていることから改名されているが、
もともとは「大辟神社」といった。ダビデともいわれているが、
「辟」は辞書で調べると、君、天子諸侯の通称とある。
たとえば「辟王」ば君主の意である。
要するに「大辟神社」は「大君神社」でもある。
「大君(おおきみ/おおぎみ)」は古代の天皇の呼び名である。
つまり「大辟神社」は「天祖神社」の意である。
「天祖神社」といえば祭神は天皇家の祖神を祭る神社である。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ) であることが通例である。

なぜ秦氏の神社が天皇家の祖神を祭るのかといえば、同族であり、
祭神は天皇と同格だからと思う。秦氏のトップと天皇家はもと同姓であろう。

なぜ、天皇家は姓がないのか。愚考するに、楚の滅亡は紀元前223年、
秦の時代に遼東へ移り、そこにしばし留まり北方民族と主導権争い、
その後、朝鮮半島へ、一部は百済、一部は日本列島へと渡る。
落ち着くまでに何百年も経っている。いまさら新地で楚人時代の姓を名乗れば、
中国からは同族とばかりに侵攻される恐れもある。
百済は扶余にいたから扶余を、倭王は姓を名乗らず、
同族の秦氏は秦にいたから秦の名を借りたのだろう。
高句麗はまだ検討していないが楚呉越族と北方民族とのにおいがする。


682 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:44:20
>>673
ツングースは南方起源の可能性もあるがまた北方人種というわけだな
となるとますます同じ北方系のチベットとの関連がある可能性があるね
やはりツングースはチベットとモンゴルと南方系焼畑民族の混血の可能性はあると思うが

>>675
扶余というよりはむしろワイハク系部族集団だろう。おそらくは高句麗系の部族と戦い敗れて南下したのでは
ないだろうか?弥生時代の渡来系弥生人もおそらくこれ等の部族の一派だろう

683 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:56:06
>>681から続く

これもまだ詳細な検討をしていないが、秦氏は辰王朝に由来しているだろう。
秦氏は総称でいろいろな氏族が含まれ、分化してゆく。
古代天皇家の軍事・神祇を担った大伴氏は伴・幡・旗・秦氏、物部氏は物・勿・旗・秦氏、
で秦氏から分かれ、久米氏は熊氏でこのあたりは天皇家と同族、
紀氏は姫氏で呉系楚人である。





684 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:56:12
>>681
>高句麗はまだ検討していないが楚呉越族と北方民族とのにおいがする。
それはありえるかもしれない。実際高句麗には南方系の神話もあるという話もある
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htm




685 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:42:31
>>669

>扶余が扶余本国で、
 (吉野ケ里レベルの)都市に住みながら支配民族(あるいは支配層)皆兵を維持
 していたという実態をどう説明するのか?

その豊かな生活を営み、定住していた扶余がなぜわざわざ「民族移動」する
のか?
しかも辺境に。
>私は扶余とか満洲族とか特定して、その支配形態を比較したのだ
満州族が中国を圧迫した時代、女真族は中国から影響を受けていなかったか?
>お前は扶余に中国を攻めさせろと私を責めるが
「民族移動」するならそれなりに身に迫った危険はあったんだろう。
混乱している中国は魅力ある移住先と思えないかい?
>西晋が軍隊を派遣して 鮮卑を追い払ったからだ。この状態で扶余が中国に
 勝てというのは無理だろう
俺はわざわざ「強い時期」の西晋に攻撃を仕掛けろなんて言ってないぞ?
お前が言うには、「扶余の移動は3世紀後半〜4世紀前半」らしいが、西
晋は八王の乱から混乱している。
その時期になぜ扶余は西晋に乱入しなかったのかね。
>もちろん、扶余に支配され、したがって扶余の影響を受けたということだ。
扶余文化が日本にあるから扶余は日本を征服したなどということが本当なら
中国文化が日本にあるから中国は日本を征服したなどということもいえる。
お前はどうしても自分に不都合な事を認めたくないらしいな。
それじゃあお前の国が世界から見離されても仕方がない。


686 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:53:37
>>670

>一般的に言えば同族の間でこそ覇権争いは激しい

そう来ると思っていたぞ。
そうこじつけるしか説明できないものな。
では聞くが、扶余が朝鮮、日本を征服して王朝を立てたならば、それを
示す伝承やらがあるはずだ。
「もともとは1つの国だったが、裏切り者が出て分裂した」とかな。
少し考えれば分かることだろう?
それともお前なりの考えがあるのかな?

>少ないなりに馬兜や騎馬戦用の蒙古鉢型兜などが出る。

それで日本が歩兵「中心」でなかった。とは断定できないな

>では、高句麗からこれらのものがいくつ出たと思っているのか?

高句麗古墳群において、騎馬民族の性質を表す壁画が多く残されている。

>騎馬民族と言われるから騎馬中心なのか。

騎馬中心でない騎馬民族とは如何に?

>お前は扶余が騎馬民族だと言ってなかったか?


お前が扶余の「騎馬戦術」やらなにやら言い出したのだろう?

687 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:42:10
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
 日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、両民族の言語を分析すれば
すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】
空(そら)→ ハヌル
稲(いね)→ ビョ
家(いえ)→ チプ
 白(しろ) → ヒンセク
白い(シロい)→ ヒダ

 私(わたし)→ ナ(またはネ)
貴方(あなた)→ タンシン
頭(あたま)→ モリ
目(め)――→ ヌン
手(て)――→ ソン(またはパル)
足(あし)―→ ダリ
犬(いぬ)―→ ゲ
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム)
 猿(さる)―→ ウォーン(またはウォーンサンイ)

 刀(かたな)→ カル
 弓(ゆみ)―→ ファル
 槍(やり)―→ チャン

 比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
共通点が無いのである。なぜ、韓国人は「日本語と韓国語は、元は同じ言語だった」とウソを
つくのだろうか? 何かしら、良からぬ政治目的があるのは間違いないであろう。


688 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:43:03
■神輿の掛け声『わっしょい』について、韓国人の妄言■
【朝鮮日報HP:2005年/12月18日/06時59分の記事から】
 日本大阪では11月3日、「四天王寺ワッソ」という祭りが開かれる。
 日本の古代国家の基礎を築き上げた聖徳太子は、先進文明をたずさえて渡来した百済の使節を迎えている。
その様子を再現したのが仮装行列であるこの祭り。
 およそ4000人の参加者が大阪市内を練り歩く。四天王寺に至るまでの道路沿いには40万人あまりの人波が押し寄せ、
皆が口々に「ワッショイ!ワッショイ!」と叫ぶ。「ワッショイ」はハングルの「ワッソ(来た)」から来た言葉だという。

 もちろん、上記の朝鮮日報の記事は、何の根拠も無いデタラメである。
 『わっしょい』韓国語説を、最初に言い出したのは在日作家・金達寿(キム・タルス 1919―1997)なのだ
という。しかし、韓国語には『わっしょい』に相当する言葉が別にあるのである。

日本語     韓国語
わっしょい―→ ヨンチャ

 そもそも、我々日本人が神輿を担ぐのに、なぜ、いちいち異民族の言葉で「ワッソ(来たぞ)」と言わねば
ならないのか? 神道自体が縄文時代から続く日本の伝統文化であり、シベリア狩猟民族の子孫=韓国人は、
何も関係が無いのである。さらに、百済人も半島南部に住んでいた倭人(日本人)であり、韓国人とは別種の民族である。
 朝鮮日報の記事は「先進文明をたずさえて渡来した百済の使節」と誇らしげに書いているが、百済は古代日本人が建てた国
であり、百済の文明は日本列島の文明と同じレベルだったのである。百済も大和国家も日本民族によって運営されて
いたのだから、文明が同レベルなのは当然である。しかも、百済の文明は韓国人とは何も関係がないのだ。
 重要な事実は、古代日本に渡来した百済人は日本民族であり、韓国人の先祖であるワイ族は日本に来なかった(移住していない)
という事である。


689 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:22:06
>>681
>なぜ、天皇家は姓がないのか。愚考するに、楚の滅亡は紀元前223年、
>秦の時代に遼東へ移り、そこにしばし留まり北方民族と主導権争い、
>その後、朝鮮半島へ、一部は百済、一部は日本列島へと渡る。
>落ち着くまでに何百年も経っている。いまさら新地で楚人時代の姓を名乗れば、
>中国からは同族とばかりに侵攻される恐れもある。
>百済は扶余にいたから扶余を、倭王は姓を名乗らず、
>同族の秦氏は秦にいたから秦の名を借りたのだろう。

それはおかしいだろ。
それなら日本では「倭」姓を名乗るはずだ。
なぜ倭王だけ姓がないのかの説明になってない。
かつて宋書で「倭」姓で呼ばれたものを、
なぜ隋書で「天」姓に変える必要があるのか?
仮に別に本姓があって、それをあえて隠してるというなら
「倭」姓のまま貫いてればいいだけだ。

690 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:07:58

倭は他国が呼んだもの、あるいは国名で、自ら名乗った姓ではない。

691 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:11:47

矮小からきたのだろうともいわれる倭の呼び名が天皇の姓である筈がない。
最初に渡来した呉人の可能性がある。ワラと自称するらしい。
それに倭と呼ばれたのは秦氏集団の渡来前のことだ。

692 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:32:39





その呉王夫差(後述)のWine Vessel

http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/cina2005.jpg





693 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:43:09
 仁徳天皇陵は明治5(1872)年に前方部の石室が調査されてるんだね。
その時の副葬品のイラスト。
これが扶余と言えるかどうかは見る人しだいw
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/quest/k031.html

この水鳥の埴輪は津堂城山古墳からの流れだろ…
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/quest/k021.html

694 :日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:05:52
>>673
>例外事項を無理やり設定し、全体的傾向を無視しとる。木を見て
森が見えんのじゃろう。

話にならんな。
だいたいどこが無理矢理なんだよ?こんなの最初に感じる素朴な疑問だぞ。
おまえの方がよっぽど無理矢理な「法則」を設定してるだろ。
要するにおまえは木も見てない、森も見てない。
自分の「法則」にとって都合のいいものだけしか見えてない。くだらんよw

695 :日本@名無史さん:2007/01/29(月) 00:00:02
>>688
>『わっしょい』韓国語説を、最初に言い出したのは在日作家・金達寿(キム・タルス
> 1919―1997)なのだ
> という。しかし、韓国語には『わっしょい』に相当する言葉が別にあるのである。
>
> 日本語     韓国語
> わっしょい―→ ヨンチャ



韓国に神輿を担ぐ習慣があるなんて、はじめて知った。

696 :日本@名無史さん:2007/01/29(月) 01:04:57
>>680
扶余姓を名乗ったからと言ってほんとに扶余だとは限らないというのは分かるが、
しかしそこから発展させて、語呂合わせとまでは言わないが、
それでももって、百済王や秦氏が「熊」姓であり、中国南方系というのは無理があるだろ。

扶余の語源がツングース語で「鹿:ブヨ、buyo」だと考えられ、>>548
北方系が動物姓を持ってるということが分かるけど、
中国南方系民族が自らを北方系だと偽装した際、
そのほんとの姓が「熊」で、動物系だというのは論理矛盾だ。
動物姓なら、そもそもが北方系だという証拠だろ。
そうした語源追求の結果、推測できるのは、扶余族の一派である「百済」の語源が、

百済=クダラ、クタル、「弓」ク・「月」タル=弓月君/融通王(ゆうづうおう)

  「弓(キュウ)」≒「熊(ユウ)」で、

秦氏の始祖功満王(こうまんおう)=くまおう=熊王

で、いずれも「熊」から来ているということだけだ。
よって百済王家も秦氏も本姓は「熊」であり、
従っていずれも北方民族だということだな。
もし彼らが中国南方系なら、動物姓じゃなくて他の姓のはずだ。

まあ、確かに百済の武寧王が中国南朝との特別なつながりを持ってたことは事実ではあるが。

武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
>玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部にしか見られ
>ない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王自身の出自などを巡
>って論争が巻き起こった。墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、
>陶磁器など約3000点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが
>中国の南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。

697 :日本@名無史さん:2007/01/29(月) 18:47:54
騎馬民族説は扶余が4世紀に北九州を征服し、
4世紀後半あたりに河内を征服だったね。
で、5世紀の古墳にみられる馬具などの騎馬文化がその証拠だったね。

この説はやっぱり無理だな。

というのも日本の初期馬具(七観古墳や新開1号墳)は、
北燕の鮮卑系宰相・馮素弗(ひょうそふつ)(?〜414) の墓と直結してる。
という事は日本の初期馬具は5世紀(414年以降)であって、4世紀の事象とは関係ない。

>652でも言ったけど、
誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2領の国宝の「金銅製透彫鞍金具」も
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と「細部に至るまでほとんどまったく同一。
藤ノ木古墳の鞍も鮮卑、
新沢千塚126号墳も鮮卑だ。http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.html
キーワードは「北燕崩壊」と「鮮卑」だな。

つまり5世紀からの騎馬文化は北燕崩壊により日本にもたらされたというべきだろう。

698 :月光仮面:2007/01/30(火) 09:44:21
つまり、秦氏というのも鮮卑と接点がある。話は変わるが神功が応神の
成人式なんだろうか洋酒を飲ませるときの能書きはどうもワイン、ブランデー
の前工程の歌いながら葡萄つぶしをする光景のような感じがするなー。
「この酒ミキは、我が酒ならず、薬クシの神、常世トコヨに在イマす、岩立たす、
少御神の豊トヨ壽ホぎ、壽ホぎ延モトへし、神カム壽ホぎ壽ホぎ来るほし、
献マツり来コし酒ぞ。餘アさず飲ヲせ。ささ」
岩立たすというのはメンヒル造り、スクナヒコナというのは高句麗神話等の
天神だろう。ほきくるほしというのは秋田大黒舞ではないか。


699 :日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:37:46
誉田山古墳は応神陵と言われてるけど、
陪塚から出土した「金銅製透彫鞍金具」の年代から、
実際は允恭(443年即位461年に歿)天皇陵ではないかと桃崎先生は言ってる。

と言う事は、4世紀後半と言われる応神天皇が、
騎馬民族であった根拠なんて何も無いのだ。

700 :日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:52:33
小柄な和人の国はあったけども滅んでしまい、渡来人が次から次に移住するのが
流行した時期に来た大柄な背の高い角張った顔の人が

701 :日本@名無史さん:2007/01/30(火) 19:41:05
かやじんや、しらぎじん、こうらい人やくだらじんが大量にきたので
飛躍的に文化が進歩して古墳は造るし河川工事はするし万博景気みたいやった

702 :日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:21:56
江上さんが亡くなられた時、
騎馬民族説について、
考古学的にはすでに否定されてると新聞で読んだ。
俺のような素人には、何をどう否定されてるのか疑問だったのだが、
なるほど日本の騎馬文化は、
馮素弗の墓の副葬品が基点になっているのなら、
時代的に無理があるよな。
そういう事だったのか…

703 :日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:58:44
秦氏は権威付けをするために付けた名前で本名は色々な名前があった
渡来人集団であり

704 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:32:49
馮素弗の墓から出土した冠帽飾り。
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/Pict0024.jpg

見にくいが中央に胡坐をかいた仏の姿がある。
なら経典こそ渡来してないが、
「仏教徒」は5世紀に来てたんじゃないのか?


705 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:57:11
これから天皇陵の発掘も一部許可されていくそうだが、
5世紀代の天皇陵の副葬品から、
>704のような仏教系の装飾品が出てくる可能性大だな。


706 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 23:53:25
彡⌒ ミ
(◎д◎) 江上波夫

707 :月光仮面:2007/02/02(金) 13:28:39
http://www.yomiuri.co.jp/img/MM20070201195537210M0.jpg
明日香村で大規模な石垣出土、入鹿「谷の宮門」一部か
蘇我入鹿の邸宅「谷の宮門」にかかわると見られる大規模な石垣。右側には塀の跡も
確認された(奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で) 大化改新=乙巳(いっし)の変、
645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏
の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡
で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、
発表した。 蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描いた「日本書紀」の記述
と一致し、入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」に付随する要塞(ようさい)の一部とみ
られる。古代最大の政変である改新の前夜、飛鳥を覆った軍事的緊張を物語る資料と
なりそうだ。 石垣は南北15メートルにわたり、最大で50センチ大の花こう岩を6〜7段
積み重ねていた。高さは最高1メートル。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りで、渡来
系の技法が使われたらしい。塀跡は石垣の東約1・6メートルで平行して見つかり、約
5メートルにわたって柱穴4つが確認された。 「日本書紀」の皇極3年(644年)11月の
条には、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿の父子が、家の外に城柵を作り、兵で守らせたという
記述があり、蘇我氏が強大な権力を背景に、軍備の増強を進めていた様子がうかがえる。



708 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 02:38:29
2007年2月2日(金) 午後10時〜10時49分
総合テレビ

大化改新 隠された真相
〜飛鳥発掘調査報告〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070202.html
645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。『日本書紀』によれば、天皇を脅かす権勢を誇り、改革の障害
となっていた蘇我入鹿に対する中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターとされている。しかし、事件の舞台となった
都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた。
現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査されているが、これまで発掘された蘇我一族
の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総合すると、自らが盾となって都を要塞化し、あたかも王権を外敵から
守ろうとしていた蘇我氏の側面が明らかになってきた。
その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを
持っていた入鹿は、巨大帝国・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備え飛鳥の
防衛網構築に力を注いだ。その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東アジア諸国と
協調路線の外交を繰り広げようとした。それなのに何故、入鹿は殺されなければならなかったのか?
さらにクーデターの後、中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革についても、
『日本書紀』を古代中国語の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容の信憑性に疑いが
向けられ始めている。
一体、「大化改新」の真相はどこにあるのか?番組では、要塞都市としての飛鳥の全貌を浮き彫りにしながら、
大化改新の隠された真相に迫る。

【演出】
○ VTR構成
○ 現在の飛鳥の風景が、コンピュータ・グラフィックスによる古代の風景に次々に変貌していく映像加工技術
を随所に取り入れている。

709 :>>708の関連レス:2007/02/03(土) 02:53:53
蘇我入鹿から飛鳥の人々
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1131953570/  284〜
【栄華】蘇我氏マンセースレッド【4代】
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/  757〜

>天智天皇も中臣鎌足も守旧派(祭祀派・中国に強硬だが、危機感なし)で、
>蘇我入鹿が改革派(律令派・対中国警戒派)だったんだけど、
>守旧派の天智天皇たちが、入鹿らを暗殺した。その後、改革は後戻りした。
>しかし、それから10数年後、日本は白村江で中国に敗れ去る。
>それから、天智天皇らは慌てて、方針を大転換、中国式の律令体制を復活させた。
>そのことは、天智天皇らにとって、日本書紀を記すのは都合が悪かったということ。
>よって、記紀では、蘇我氏を悪く書くしかなかった。

>周囲の山に兵器庫を置いたのが扶余をまねたなんて韓国人によくある思い付きに過ぎないものだ。
>軍事の素養があったらそのような判断になるのは別に扶余のことを抜きにしても
>自然な判断であって、他に根拠となる具体的な証拠があるならともかく
>何もない。取り上げるべき発言では無いだろう。デンパでしかないね。

>白村江の戦いが如何にも愚かだったように見せるため
>絵に描かれた唐の小さな軍船(精々20メートル程度にしか見えない船)を巨大戦艦に仕立て上げ
>対称的に小さな倭軍の船が、敵うはずもないのに愚かにも向かっていくようにCGで描き歪曲するNHK

>唐はわざわざ海を渡ってまで日本を攻める気はあったの?
>瀬戸内、九州に作られた山城って唐を警戒してのものだったの?
>蘇我の館の配置って天皇の宮殿を包囲して威圧してるように見えたけど?
>だいたい、すめらみことを見下ろす場所に住むってどうなの?
>攻めてくる唐を警戒するってのより、自分たち蘇我を攻撃する地方の天皇派勢力の大和進入を警戒していたのではないの?

>>>>>あのあたりは、蘇我氏が活躍するずっと前から皇別氏族の豪族が防衛を任されていた場所なわけ。

>漢文の間違いを元に「日本書紀が最終段階で加筆されたのは事実なんです。」
>とか断定された時点で急激に冷めてしまったよ・・・

710 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 07:33:57
http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/tori1.html
飛鳥元興寺は、崇仏を背景に絶大な勢力を持っていた蘇我馬子が建立した寺であるが、
馬子の子、入鹿は『日本書紀』に、「更の名は鞍作」「鞍作臣」と記されており、
また入鹿の乳母は鞍作部の出身者と伝えられる等、
鞍作部と蘇我氏は非常に密接な関係にあったと考えられている。


古墳時代中期からの馬具が鮮卑であることが確実なので、
蘇我は胡人系という事だろう。

711 :月光仮面:2007/02/03(土) 16:38:48
天智なんてのは2.26事件の青年将校と変わらないなー。

712 :保存しましょう:2007/02/03(土) 16:43:31
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。←(注目!
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。

★565年に注目! 高句麗人は古代日本に移住していないという事実!!


713 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:36:26


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。



714 :白馬青牛:2007/02/04(日) 01:19:23
人大杉で、書かんかったが、スレは進んどるのう。
>>678
歴史に「証拠」なんぞ無いのに、馬鹿なことをゆうのう。
天皇家が土着系云う「証拠」も無いど。
>>679
渡来系が支配者で土着系が被支配者の関係をゆうたまでじゃ。
帰化した渡来系は今来で、少し古い渡来系が皇別とされたんじゃろう。
日本列島がそがーに平和じゃったんか?被支配民は奴隷化がつきもんじゃ。
奴隷民と書く処、あんた東国奴隷民の人か?

715 :白馬青牛:2007/02/04(日) 01:55:38
>>682
チベット系と東胡、貊等は長城地帯から東西に分かれたとも云えるけどね。
ツングースとモンゴルは混血云うより両集団の混在じゃろう。
南方焼畑民の苗族は華北地方から南下したんじゃろうが、現在の苗族は
人種的に南方グループじゃね。三上次男氏は列島倭人もワイ(濊)族じゃ
ないかとされるけど。ワイは元来満洲の漁撈集団で扶余・高句麗と近い。
韓人や倭人ら習俗的に東南アジア的要素の強い集団と違うように思う。
>>694
何つまらん戯言ゆうとんなら。わしの無理矢理な法則たァ何なら?
おどれが鎖国史観で妄想しとるだけのことじゃ。
>>700
角張った顔、エラが張っとったんは土着縄文系の人達じゃないか。

716 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:10:59
>>714
678ではないが、それだからはぐらかしだと言われるんだよ。

>だから具体的に何天皇が扶余だとお考えなのかな?

ここだろ、あんたが真摯に答えるべきところは。
言葉上の揚げ足ばっかりとってないで、ちゃんと考えて、答えてみろよ。

717 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:34:55
>>714
>歴史に「証拠」なんぞ無いのに、馬鹿なことをゆうのう。

信じられない事を言うな、あなたは。
江上さんの騎馬民族説の証拠は、古墳の副葬品としての「馬具」だったよね。
ところが日本の馬具の源流が北燕の馮素弗墓副葬品だとほぼ判明した。
馮素弗は415年没だ。
応神を4世紀後半だとして時代が合わない。
そして何よりも扶余ではない。
つまり江上説は崩れたんだ。
ましてやそれ以前の崇神天皇が騎馬民族なんてトンデモ説だ。

これから先研究が進み、馮素弗の少し前の墓が基点になったとしたら、
時代的には応神時代に合うが、だからどうだと言うのだ。
応神が鮮卑だとでも言うのか。
なんで彼らがあんな遠くから直接日本を支配しに来たと言えるのだ。

つまり○○族の副葬品があるからと言って、
埋葬者を○○族だと見る事は考古学ではやってはいけない事らしいのだが、
江上さんはそれをやっちゃったんだ。





718 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:32:02
さて、気になるのは伽耶の北方地下式木郭墓だが。

単純な疑問だが、あれは扶余の王家の墓なのか?
木郭というからには「即席」墓だろう。
さほど位の高くない人たちなのではないのか。
もっと言えば三輪王朝に雇われて、
鉄の産地を護ってた傭兵ではないのか?

719 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:17:35
人大杉ばっかで全体が見れん。
話が見えん
誰か教えてくれ

720 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:53:55
スサノオは牛頭天王とも言われるね。
これって仏教の話になってくるよね。
さらに新羅に来てから日本に来るとか、
須賀という地名に関係してたりする。

北燕崩壊後、5世紀後半あたりにやってきた鮮卑系の人だろう。
実質、日本に初めて渡来してきた「騎馬民族」だろう。



721 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:33:58
スサノヲは新羅には行っていないのです。
五十猛命の父は新羅に行っているのですが、その人物とスサノヲは伝承されるうちに
入れ替わって伝わったのです。
伝承ではこのように人物が入れかわって伝わることはままあります。

722 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:47:47
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。←(注目!
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。

★565年に注目! 高句麗人は古代日本に移住していないという事実!!



723 :白馬青牛:2007/02/05(月) 02:12:10
>>716
はぐらかし、全体で解釈せずわしの文脈の一部を揚げ足しとるんは、
オドレらじゃ。具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。
しかも文献上の天皇家まで。王権を確保したんは扶余集団の可能性が
強いと思うが、梅棹忠夫氏の云われるツングース水軍説は濊集団を
想定されておられるんじゃろうが、その見解もあり得る。具体的種族まで
はわし自身見解がまとまっとらんよ。じゃが渡来系が土着系を支配した
云う見解は何回も云うとるよ。
>>717
歴史を信じられないこと?信じる、信じないで解釈する処、やっぱし
宗教団体の人か?江上氏は、副葬品も含め全体論から解釈されたんじゃが、
日本の馬具が北燕云う漢人政権の国に限定出来まい。鮮卑慕容部や
北ユーラシアを含めた広い視点で解釈すべきであろう。
まあ、北燕を鮮卑と勘違いしとるようじゃが、北燕人に鮮卑人も
多数おったろう。あんたの独善的解釈で、トンデモ説じゃギャァギャァ
吼えるしか出来んたァ可哀想に。カルト君は信仰じゃけー仕方ない。
>なんで彼らがあんな遠くから直接日本を支配?直接日本列島を支配
したかは疑問じゃ、百済・伽耶経由で直接じゃないと思うが、
遼寧は海路で南下するんに不便はあるまい。黄海は波が穏やかで、
東支那海のような波の高い悪路じゃない。
考古学でやってはいけない云うんはあんた個人の願望じゃろう。
思想統制する全体主義国家の概念を振りまわらせてものう。

724 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:17:04
>>723
反論できなくなると、相手をカルトだの宗教だの全体主義だのと罵り出す。
持説を盲目的に信じるカルト信者はおまえだろうがw


725 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:22:56
>>723
>具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。

なんだよ、このいい加減な開き直りは?
だいたいの推測すらしていないのか?
よくもまあそれで自信たっぷりにあれこれ書けるもんだわ。呆れた。

726 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:29:13
>>723
あんたマジここから去ってくれ。
同じことばっかり言ってて本当にウザいし…

北燕は最初、高句麗人を王に立てたり、
漢人が鮮卑化し簒奪したりしてるみたいだけど、
五胡十六国の鮮卑系でしょが。

>江上氏は、副葬品も含め全体論から解釈されたんじゃが

江上さんの時代から比べ馬具の研究が進歩し、
あなたが言う「北ユーラシアを含めた広い視点」で見た結果、
日本の5世紀の馬具は鮮卑からの影響が確認されてる。
それは伽耶や新羅も同じ。
で、鮮卑が日本や伽耶・新羅を支配したなんて無理だし、
とんでもない話だと言ってるんだよ、すり変えないでね。
おそらく圧迫してくる高句麗対策に困ってた日本・伽耶・新羅が、
北燕と外交関係を持ったのだろう。
その舶載品が5世紀あたりから見られ、
新羅の金ピカ文化もそこからではないだろうか。

>具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。

それを言うスレだ、ここは。
応神が扶余だと言った江上説を検証するスレだろうが。
アホでハゲてるだろおまえ。
20年も30年も前に読んだ本の知識にしがみ付いてるおまえこそカルトだ。


727 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:44:31
>723
「渡来系が土着系を圧迫」って、4〜5世紀の話のつもりなの?
いくらなんでも無理あり過ぎ。
1万年前とか言うならまだわからんでもないが‥‥

もしかして、あなたは「渡来人」の方ですか?


728 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 08:04:23
>>708
これ再放送ねぇーの?

729 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 11:36:49
>>726


持説を他人に押し付け、受け入れない人をカルト呼ばわりするのが
生きがいなかわいそうな人間なんだからちょっと優しくしてやれ。






730 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:46:23
>>685
>その豊かな生活を営み、定住していた扶余がなぜわざわざ「民族移動」するのか?

答は簡単、鮮卑に負けたからだ。
しかしそれを言う前に、お前はまだ私の質問に答えていない。
もう一度聞こう。
東夷伝扶余条の記述は、「騎馬民族が都市に住めば国民皆兵制度を維持できない」
というお前の説に合致するのか?

>満州族が中国を圧迫した時代、女真族は中国から影響を受けていなかったか?

扶余だって受けていただろうよ。装甲騎兵戦術も中国→鮮卑→扶余と伝わった
という説もあるくらいだ。

>お前が言うには、「扶余の移動は3世紀後半〜4世紀前半」らしいが

人の言ったことを歪曲するな。私は「3世紀末」としか言っていない。
扶余は285年に第一次滅亡し、それから世紀末までの間に伽耶の北方化が
起こるのだ。
伽耶に行くか、中国に行くかの選択なら上記の短い期間の話だ。
そしてこの時期の西晋は強かったのだ。

>扶余文化が日本にあるから扶余は日本を征服したなどということが本当なら

「扶余化した」とはどういう意味か、というお前の質問に答えただけだ。
私は金官を倭と一体と見なしているから、金官は「扶余化した倭」でもある
のだ。

731 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:49:45
>>686
>そうこじつけるしか説明できないものな。

同民族間の覇権争いが「こじつけ」なのか?
そんなら源平時代や戦国時代の争いはなんなのか?

>高句麗古墳群において、騎馬民族の性質を表す壁画が多く残されている。

確かに多くの壁画はあるが、騎馬が出てくるのは多くはない。そしてそのなかの
たった1枚に、数騎の装甲騎兵が描かれている。これだけで高句麗の軍隊が
「騎兵中心」だったと結論できるのか?
だいたい「騎兵中心」の軍隊とはどんな軍隊なのか?
ジンギスカンの軍隊、中国の三国志時代の軍隊、日本の源平時代の軍隊、
中世ヨーロッパの軍隊、その他なんでもいいが、お前の言う「騎兵中心」の軍隊
のモデルはどれか?

>お前が扶余の「騎馬戦術」やらなにやら言い出したのだろう?

その通りだ。扶余が装甲騎兵戦術を持っていたのは事実だ。私はそれ以上
のことは言わない。扶余を騎馬民族と呼ぶかどうかは「どうでもよい」と
いう立場だからだ。
しかしお前は「扶余は生のままの騎馬民族」だと言ったのだ。お前の説では、
騎馬民族は「騎兵中心」なんだろう?それなら扶余は「騎兵中心」ということ
になるが。

732 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:09:40
何てめえらいつまでもシコシコやってんだよ。

みんなで仲良くシコッてるからいつまでも終わらないんだよ。

弥生人スレを見ろよ。

1人の異才が反旗を翻した事で劇的に形勢が変わって白黒が付いた。

有能な誰かが「騎馬民族説をウソを簡単に見抜くスレ」というスレを
立てて反旗を翻さない限り、こんなもの堂々巡りで永遠に終わらねえよ。

733 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:11:23
>>731

>同民族間の覇権争いが「こじつけ」なのか?

では聞くが、なぜ朝鮮神話や日本神話に「元は一つの神族が治めて
いた」なり、お前の説を裏付けるものがない?
何故古事記にそのことが書かれない?

>だいたい「騎兵中心」の軍隊とはどんな軍隊なのか?

当然お前の言うように「騎馬戦術」を中心にした軍隊だ
まあ騎馬戦術を少し組み込んでいただけで「農耕民族」
の扶余が日本を征服できるとは思えんが

いい加減、根拠の無い推測は妄想に過ぎないことに気づいてくれ


734 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:21:14
>>730

おっと、見落としてしまった

>答は簡単、鮮卑に負けたからだ

ほう、民族ごと移動せねばならない事態になったのか。
それはスゴイ!!ならば、なおさら何故侵入しやすい
混乱した中国に行かなかったのか?という疑問が深ま
るが。

>東夷伝扶余条の記述は、「騎馬民族が都市に住めば国民皆兵制度を維持できない」
 というお前の説に合致するのか?

国民皆兵制度を残せたなら、新羅も百済も日本もそうだったろうな。

>人の言ったことを歪曲するな。私は「3世紀末」としか言っていない
>伽耶に行くか、中国に行くかの選択なら上記の短い期間の話だ

・・・・その短い時期に鮮卑が扶余を攻撃したと?
その時期の鮮卑って強かったかなあ・・




735 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:17:04
近年、吉林省帽児山墳墓群で、3〜4世紀のものを含む
扶余の支配者層の墓が見つかってるらしい。
扶余は伽耶にいたのか吉林にいたのかどっちなのだ?

736 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:32:44
>>735

伽耶にいたなら満州のと似た・・
というか同じものが発見されるだろう。
なんてったって「満州から朝鮮、日本にまたがる大勢力圏」
を形成していたからな。文化的に。

扶余征服説を信じるならの話だが

737 :日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:52:52
>>728
今日、今からNHKで再放送だよ。


NHKスペシャル
「飛鳥発掘が覆す大化改新」

2月6日(火)00:00〜00:50 / NHK

738 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 00:04:06
>>731

ついでに言っておく
源平は祖を同じくするが扶余のように「分裂」したわけではない

739 :白馬青牛:2007/02/06(火) 02:16:17
>>724
反論出来ずに吼えとるんはワレど。カルト信者と指摘されたんに
腹たてるたァ、正直にそうじゃ。云うたらええじゃないか。
>>725-726
あんたらの推測たァ妄想じゃないか。鮮卑系の燕王慕容氏を討った高句麗の
高雲討って龍城に自立した北燕の馮氏は漢人系とされとるよ。
前燕・後燕・南燕は鮮卑慕容部じゃけど。日本列島・新羅・伽耶も鮮卑文化
の影響は強い云うか満洲以東は大雑把に鮮卑系文化じゃ。
鮮卑が半島南部や列島を支配した可能性がないとも断言出来まい。
支配も広い意味で王朝協力者の渡来系も含めると可能性は強くなる。
HLAで日本人、特に西日本人に多い、B52−DR15がモンゴル東部に
多いことも考え、更に古くから遼寧紅山文化が縄文期の玦状耳飾に影響を
与えたこと等、古代日本文化は遼寧文化圏の一部とも云えよう。
新羅の金ピカ文化に匹敵する物はアルタイ以東じゃあ出土しとらんのじゃ
ないか。金ピカ文化はアルタイ以西の中央アジアじゃろう。じゃが、
満洲は金の産地で新羅人が金を購入した可能性はあるが、新羅に比べ
金ピカ文化に乏しい鮮卑拓跋部・高句麗・百済とは嗜好の違いもあろう。
北・中央アジアの知識が無い者が視野を狭めて、ゆうても意味がないわい
のう。学説に古いも新しいも無いわ。カルト根本主義者の戯言で同じ言を
繰り返しとるんはどっちなら。

740 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:23:07
>>739
>馮氏は漢人系とされとるよ

また話を散漫化する。
必ずそう言ってくると思った。
人種の話をしてるんじゃなく文化なんだけどね。
とくに三燕(前燕・後燕・北燕)の。
どうやらそこに日本の騎馬文化の祖形があるという話だ。
その考古学的事実を言ってるだけで、あなたは何が不満なんだ?

>(鮮卑が)支配した可能性がないとも断言出来まい。

もしそうなら河内王朝開祖・応神そのものが鮮卑である可能性を考えた。
今のところ何十年の差で無理。
じゃ次の仁徳〜も違う。
というか一国の宰相の名前や没年まで分かってる中国史において、
半島南部や日本まで支配する征東大将軍的人物がいたら、
必ず中国史に出てくるはず。

>支配も広い意味で王朝協力者の渡来系

秦氏や漢氏がそうではないかと思ってるが、
亡国により帰化してきた渡来民だと思ってる。
土地を与えられたという意味ではその土地の支配者かも知れないが、
日本を支配しに来た天皇の協力者という意味ではない。


741 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:54:39
>>736
文化的に満州から朝鮮にまたがる勢力圏を形成してたのだろうが、
扶余という民族の支配者層の墓が3〜4世紀の吉林にあるという事は、
あなたが言う扶余による日本簒奪説に不利ではないのか?


742 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 06:32:32
>>739
>カルト根本主義者の戯言で同じ言を繰り返しとるんはどっちなら。

お ま え だ。






743 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:28:36
>>739
>王朝協力者の渡来系も含めると可能性は強くなる。

どういう意味か知らんが、その王朝が渡来系という前提なら、
何天皇が渡来系なのか言ってくれと何度も言ってるのだが。
それを言わない荒っぽい議論はいい加減にやめてくれねぇか?


744 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 22:25:54
>>739
「広開土王碑の碑文」によれば、404年、
倭が、「不軌(無軌道)にも帯方界に侵入」しているが、
鮮卑が直接でも間接でもそんな倭(日本や半島南部)を支配するなんて無理。
五胡十六国の時代にそんな暇もないし、だいたい動機が分からない。
じゃ何で鮮卑系の馬具が日本に伝わったかと言えば、
外交関係しかないだろう。




745 :日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:17:49
>>741

俺を白馬青牛だかいうカルトと同じにしないでくれ。
そう、お前の言う通りなんだ。
ってか、よく考えれば征服王朝説なんて成り立たないんだ

746 :白馬青牛:2007/02/07(水) 02:03:35
>>740
遼寧地方に、日本の騎馬文化のみならず漁撈文化も祖形があるじゃろう。
東漢氏の墓地ではないかとされる新沢千塚126号墳出土の金飾が、
遼寧省北票県鮮卑墓の金飾と同巧のものであること、東漢氏(坂上氏)の
北ユーラシアに多い神牛伝説、ツングースの哈拉(腹)氏族制等、
あんたの鮮卑文化人=渡来系漢氏説には賛成するよ。
じゃが、河内王朝が鮮卑系と関係ないとも言い難い。鮮卑系の前燕は
370年に崩壊しとるし、4世紀前後が世界的に北方民族の南下時期で
あることから日本へ渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないよ。
半島南部の伽耶地方のみの渡来じゃあじ大量渡来にならんけーのう。
中国史においても高句麗・百済あたりなら支配者の出自が扶余と
記述しとるが、新羅・伽耶・日本列島等直接接触した地域じゃないけん
不明瞭なじゃないか。列島記述は漢人商人のまた聞き見聞程度に過ぎんよ。
>>743-744
何天皇が渡来系か云うて、天皇陵とされる古墳人骨から調査出来たら解る
問題じゃが、現在調査すべき国民的合意も出来てない。じゃが、現在本土
日本人の大半が渡来系の子孫であることは事実じゃ。
「広開土王碑文」の「倭」が北方民族の系統で南下した勢力が故地に
挑んだと解釈してもええし、世界的な北方民族の南下が東アジアにおいて、
中原に限られる云う方が不自然じゃ。4世紀以降の朝鮮半島南部や
日本列島の北方民族化による国家形成と習俗の変化をもたらした云う方が
妥当であろう。
>>745
カルト原理主義信者は、経典を読むように文献の一語一句を文字通り
解釈する連中のことでえ。国粋鎖国史観者に該当する。
わしのどこがカルト根本主義者なら?

747 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:53:05
>>746
>4世紀前後が世界的に北方民族の南下時期で
あることから日本へ渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないよ。

>世界的な北方民族の南下が東アジアにおいて、
中原に限られる云う方が不自然じゃ。

そればっかり‥‥
何かといえば世界的、世界的って全身の細胞がアホで出来てるだろおまえ。
念仏のようにただ同じこと何遍も唱えてりゃ妄想が真実になるとでも思ってるのか?
個々の事象を精査しないで何がわかるってんだよ。

とにかくおまえのカキコにはもう飽きた。
これ以上同じたわごとを繰り返すなら、いい加減消えてくれ。


748 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 07:14:02
亡国の鮮卑系が日本に渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないけど、
それが何天皇かと考えてたらば、
妙〜な出自を持つ応神天皇というのが一番臭いんだけど、
その妙な出自も倍暦を知らなかった日本書紀編者達のミスだということだし、
何よりも応神=騎馬民族のイメージを作ってた国宝「金銅製透彫鞍金具」が、
応神天皇の時代でない事が分かり、
つまり応神天皇が騎馬民族などということは何一つ証拠がないし、
応神時代、百済から馬2頭送られてるなどという書記の記述は、
逆に彼が騎馬民族でも何でもない事を示してると思う。



749 :月光仮面:2007/02/07(水) 14:11:41
韓国にも倭人は楽浪海中から移動したんじゃないかという説があるようだ。↓
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1671751
山海経の倭人は燕の北方、檀石槐に拿捕される倭人も満州あたりか。Y染色体
遺伝子でもO-47zというのが大量に韓国に残留している。檀石槐に拉致されたのが
漁労技術者であることからバイカル・アムール・松花江・ウスリー水系方面、遼河方面
の出自であろうか。これは、秦系が通ったシルクロードであるとか、アルタイ・鮮卑系
とかとは少々趣を異にするようだ。


750 :月光仮面:2007/02/07(水) 16:04:57
山海経等の文例から「海中」という言葉を考察するに「(中華から周囲を見て、海を隔てた
対岸の)土地に」といった用例が多い。つまり楽浪海中とは楽浪海の沿岸部にということで
あり、倭人はソウルからフヨあたりの、つまり、後の百済に住んでいたということであろう。
ここで、この倭人を漁労の巧みな満州北部方面とするとフヨ人ということになる。そして、
山海経にも出てくる朝鮮という言葉がないことは、やはり、朝鮮族は漢四郡の下層にいた
ということで、これは、漢四軍と倭人を含む移動集団の原三国という構図があり、倭人が
原三国の典型的民族というのが、漢の認識であったと考えられる。

751 :月光仮面:2007/02/07(水) 16:22:37
原三国プラス列島倭を含む超大国のフレームワークで、纒向における邪馬台国
建国を考えると、その国名はヤマト(東)・トトヒ(龍日)・モモソ(百襲)国であったの
ではないか。(渤海なんかの建国に際しても東京龍原府なんていうものを作っている。)
さて、沖縄には
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/hazimeni/ryuuka.html
「明治以前に作られたと思われる琉歌(沖縄の短歌)の一つを示す。
百襲(ももそ)崇(あが)めてど、
  按司(あじ:地方豪族)も御万人(おまんちゅ:一般大衆)も
   汗はてど上る島襲(しまそ)くびり」というのがあるそうだが、沖縄のウガンジョ
(拝所)と似た構造の三輪神社に近い纒向で、もも‐しき【百磯城・百敷】
(枕詞「ももしきの」から転じて) 禁中。禁庭。禁裏。内裏。皇居。古今雑「山川の音に
のみきく―を身をはやながら見るよしもがな」
→〓―‐の【百磯城の・百敷の】
ももしき‐の【百磯城の・百敷の】
〓枕〓(多くの石や木で造った意、または、多くの石で造った城の意)
「おほみや(大宮)」「内」などにかかる。・・・これと百襲がおなじではなかろうか。
長ったらしくなったが、纒向建設の趣旨は超大国倭国の東方部分を列島と見立て
その中心に邪馬台国を建国するという趣旨ではなかったであろうか。



752 :月光仮面:2007/02/07(水) 16:28:13
龍が太陽を咥えたり、鹿が太陽を運んだりするのは中国、スキタイなど
ユーラシアに広く見られ、龍踊りなどのモチーフになっている。

753 :月光仮面:2007/02/07(水) 16:36:09
白村江の戦いとはそうした歴史的構図に決着し、日本と半島がそれぞれ別個の運命に
旅立つという歴史的な出来事ではなかったのか。ところで、こないだのNHK大化の改新
にあった戦艦ヤマトとか石投げ機械なんていうのは漫画の世界だよなー。模型を作って
お風呂場で実験すればいいのにさー。

754 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 18:45:00
鮮卑系の馬具は日本・伽耶・新羅からは出るが、
百済にはほとんど出ないらしい。
百済の王家が扶余系ということならそれも納得も出来る。
鮮卑と扶余はよく戦争してたからね。
俺は日本・伽耶・新羅は外交関係を通じて
鮮卑から騎馬文化を得たと思うのだが、
百済と鮮卑は相変わらず仲が悪かったのだろう。

ということは日本・伽耶・新羅は扶余ではなかったという事だろうw


755 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 19:45:10
>>753
扶余世界と中華世界の決戦だと思う。つまり中国の乱れに乗じて扶余世界ができて、
倭国がその小中華の地位にあったところに、新羅という裏切り者が中国を引き入れた。
白村江の戦いに敗れた倭国はもはや中華世界のなかにしか生きていく道はないことを
覚ったのである。

756 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 19:51:59
フヨ世界とチュウカ世界の決戦って‥‥w
妄想もほどほどになw


757 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:14:10
馬具の変遷を考えると、
鮮卑と関係があって、
なおかつ5世紀前後の半島南部・日本に関わってた部族…

やっぱり秦氏かなぁ?


758 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:25:30
しばらく見ない間にまた進んでるな

>>715
おそらくチベットと東胡も昔は新モンゴロイドだったがアルタイ語とチベット・ビルマ語に別れたかもしれないね
苗族は南方焼畑民だがチベット系のロロ族等に影響は与えたかもしれない
まぁスレ違いだから適当なスレや掲示板で話してみようと思っています
もちろんちゃんと礼儀を弁えるつもりです

>>748
さらに簒奪説の決定的な欠点はもし扶余が簒奪したとしてその際北方民族の首長の称号である
「ガカン」を全く使用していないという事と国名を変えていないという事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ガカンの語源の首長名は百済、加羅、高句麗でも使用されたが日本では応神天皇の名前は
誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
○○ノミコトというのは北方系ではない事を示してるし中国の文献にも倭という
国名は変更されていない。それに簒奪があったなら中国の文献にも載るはずなのにそれがない
これだけでも簒奪説が全くの与太にすぎないのがわかる

759 :日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:27:55
>>750
という事はワイ系部族集団(後の扶余や高句麗を結成する)は倭人とツングース、モンゴルの混血かもしれないね
そうなれば満州人やモンゴル人が日本人と顔が似てるというのも納得がいくしワイと名乗った背景も理解できるだろう
つまり百済と倭があれほど仲良かったのも同族という意識があったからかもしれない
もっとも倭人も越人とツングースとの混血だから北方民族の一つだったかも知れない

>>754
倭・新羅・伽耶に渡来した北方人はワイ系ではなかった可能性もあるね
もしかしたら室韋の可能性がある
というのも室韋の地はモンゴル東部にありHLA遺伝子で日本人に多いB52−DR15が
モンゴル東部と言われてるからである。さらに現在のこの地にはダフール族と言われる
モンゴル系部族やオロチョン族と言われるツングース系部族もおり遺伝子的には日本人に近いとか
もしかしたら東胡の一派で室韋と呼ばれるツングースとモンゴルの集団が
漢人に楽浪郡や衛氏朝鮮の崩壊等で南部朝鮮や倭に追われたのかもしれない
そして倭人に同化したのだろう。ちなみに彼等が小麦を伝えた可能性はあると思う


760 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 00:19:43
官のカンは「カーン」か?
王位じゃないから違うよね。

761 :白馬青牛:2007/02/08(木) 00:47:12
>>747
カルト君がまだ吼えとるんか。日本だけが特別云う鎖国史観にゃ、はあ、
あいだよ。あんたこそ、鎖国閉鎖国家の北朝鮮へ移住したらええんじゃ
ないか。
>>748
日本書紀が5世紀頃に書かれた訳でもないのに、4〜5世紀の事が解る
訳でもない。応仁天皇が騎馬民族である証拠も無ければ、騎馬民族で
無い証拠もない。記述は証拠にならんし、記述の一語一句だけが歴史と
するんなら、信仰宗教カルト信者に他ならん。故地から移住地に馬を
送ったとて何ら不思議は無いよ。
>>749
倭は、満洲や黄海沿岸の漁撈民(遼寧・山東・朝鮮)、列島漁撈民も
含めて様々な民族の漁撈民の総称でしょう。後世の倭寇の様に。
同族でも陸地の農耕民が韓人と呼ばれたのではないかと思います。
『魏志』倭人伝でも、倭人を漁撈民族として描いてますし、農耕民として
描かれてませんね。

762 :白馬青牛:2007/02/08(木) 01:43:35
>>758-759
内田吟風氏によると『魏志』蠕蠕伝に現れる「可汗」号は、
「遅くとも3世紀頃から鮮卑族の間で用いられた尊称で、蠕蠕の創始では
ない。社崙は、ただこれを皇帝的な尊称にまで高めたと云うべきである」
とされる。扶余の「加」が諸加であり、皇帝的な尊称でないことも
考慮して考察すべきと思うが。
オロチョン族より、遼河発祥の契丹の末裔と云われるダフール族の方が
遺伝子的に日本人に近いんじゃないか。
http://www.iias.or.jp/old/research/res_seimei/seimeikouen.html
「7 人類集団の遺伝子の多様性〜中国少数民族間の遺伝的近縁関係を
中心に〜」に、海南島に住む漢族・リー族・ミャオ(苗)族・
ホイ(回)族の中で、ホイ(回)族だけは、「東アジア北部のひとつである
日本人と比較的近縁であった。」
エヴェンキ族・オロチョン族・ダウール(ダフール)族について、
「これら3集団とも東アジア北部の集団との近縁性が強く現れた。
特にモンゴル語を話すダウール族は日本人集団との親和性が高かった。」
と云う結果。

763 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 06:45:33
>>761
>騎馬民族で無い証拠もない。記述は証拠にならんし、記述の一語一句だけが歴史と
>するんなら、

おまえふざけてるのか、いい加減にせい。
そう言い方するなら天皇が「アフリカ人でない証拠」もないだろう?
あんたは上の方で「扶余じゃろね」といいながら、
自説に対して何の証拠を出したんだ?

記紀で皇祖は日向となってる。
箸墓古墳や、崇神天皇陵と言われる行燈山古墳と、
「くびれ具合まで同じ規格の古墳」が南九州で発見されてる事を、
俺は偶然などとは言わない。
強い地縁があればこそだろう。
その皇流が応神で途切れたとは思わない。
したがって応神は騎馬常習北方民族ではない。
そういう事だ。


764 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 07:05:50
それでよ、おっさん。
>>762のレスで、
オロチョン族より〜から下は要らない。
遺伝子がどうこうの話やめてくれ、少しはスレタイ考えろ。
お前自分の知識を虚飾にしたいだけだろ。
女が化粧するのと同じというか、おまえ女みたいなやつだなw
おかま青牛に変えろw


765 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 08:39:10
>>761
>騎馬民族で無い証拠もない

応神時代に初期馬具文化がないというのは、
応神が騎馬民族でない証拠だ。
悪魔の証明ではないが、
応神が騎馬民族だと思うのなら、
思う人間が証拠を出すべきだろう?

766 :月光仮面:2007/02/08(木) 12:40:59
>>755
新羅は、「もはや中華世界のなかにしか生きていく道はない」、倭、高句麗を敵に回
しても、唐にくっついてゆけば生き残れるだろう。これにかけ、アルタイの盟友を裏切
ろうという賭けに出た。が、こうした裏切りは漢族に朝鮮族の民族的弱点を握られると
いう危険もあったのではないかな。

767 :月光仮面:2007/02/08(木) 12:41:50
>>759 九州、岩手に多い河童伝説はこうした漁労系民族渡来と関係があるのかも。

768 :月光仮面:2007/02/08(木) 12:42:46
>>761 白馬青牛さん
漁労だと、バイカル、アムール、スンガリ、ウスーリ、豆満江、水稲耕作だと長江、
黄河、遼河、漢江、錦江、洛東江といった人の流れがあり、ますが、海浜、水辺に
住むものを倭ということでしょうか。

769 :月光仮面:2007/02/08(木) 12:51:48
>>768
以前にシロコゴロフのトゥングース湖北省原郷説を紹介していただいたんですが、
遼河から松花江までは近いので、南方民族の北上という線はありますね。

770 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 12:56:29
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

771 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 19:12:24
>>765
>応神が騎馬民族だと思うのなら、 思う人間が証拠を出すべきだろう?

そういうまともな理屈が通用する相手じゃないってことは
これまでのスレの流れで明らか。

「これは世界的な趨勢で、日本だけが例外のわけがない」
「証拠なんて大した問題じゃない」
「応神が騎馬民族「じゃない」という証拠もない」

ほざくことは、こんなたわごとの繰り返し。
他人をカルト呼ばわりするくせに、
自分が一番カルトバカなことにも気付いてすらいないところが恐ろしい。

772 :白馬青牛:2007/02/08(木) 23:01:23
>>763-765
そう云うんなら、天皇家が縄文土着系云う根拠もないね。
記述が書かれたんは、後世の時代じゃし、各種族の伝説をまとめた物語の
編集と解釈するんが普通じゃが、カルト宗教集団じゃあ、一語一句を真実と
解釈するんかいのう。なるほど、米国の「福音派根本主義者」が進化論を
否定するんと同じか。理由は聖書にサルから進化したと書かれてない故、
証拠がない云う訳か。
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Essay/Es030430.htm
米国南部あたりじゃええが、米国北東部じゃあ云わん方がええで。
原理主義者さんよ。「悪魔の証明」云う言葉を使う自体、狂信者と云うか。
http://www.tokakushin.org/undou/no_net_uyoku/net_uyoku.htm
あんたらァ、第3回、3に出とる福音派、根本主義者の工作員じゃろ。
「古事記」「日本書紀」を建国の歴史として信奉し、西尾幹ニ氏の応援を
した訳か。民主主義には反対で専制国家を目指しとるんか。共産主義と
違わんのう。2で国粋派の小林よしのり氏にさえ妨害したらしいのう。
もっとも洗脳されたネット右翼らが、第4回の1にあるよう、密告云う
日本人にあるまじき行為を恥とせん者に愛国心などあるまい。
シベリア抑留でソ連の犬になった人達と同じ行為であり、共産主義国の
密告制度でも信奉しとるんじゃろう。あんたらも日本人の恥をさらした
「ちゃんねら」の一味じゃないんか?
権力を信奉する者は、真っ先に敵側に寝返る売国奴になるわいのう。
サイトの反対者を何でも反動的云う左翼的表現にはうんざりするが、
それ以上に腹立たしいんは愛国者気取りのネット右翼じゃわい。
日本人にゃあ、法以前に、義理・人情・やっちゃあいけん掟があるよ。

773 :白馬青牛:2007/02/08(木) 23:45:36
>>763
話が脱線したが、箸墓古墳は、4世紀前半とされる木製鐙が出とるのう。
日本の風土から騎馬戦は少なかったと思うが、全くの歩兵集団とも断言
出来んよ。
>>764
世界の諸民族が普遍的に化粧をするのが女だけと断定出来んのにのう。
フェミさんから差別じゃ・偏見じゃ抗議が来るど。
我が国に男が化粧する色小姓文化が無いと断言出来る根拠でもあったんか?
衆道と武家文化を否定する処、ユダヤ・キリスト教の原理主義的思考では
男色文化を否定しとるけんのう。あんたらの宗教の善悪倫理を歴史・文化に
持ち込むなや。あんたが、ええ青年でじゃったらケツぐらい弄ってやても
ええが、わしにつまらんカバチ垂れたけんのう。わしに抱いて貰うんは
あきらめえや。

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