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忠臣蔵の真実

1 :吉良:2006/10/28(土) 02:26:26
『忠臣蔵』を見たことがある人はわかると思うが
吉良上野介はめっさ悪者!!
でも浅野の方が悪くないか??
金あげりゃあよかったジャン。



2 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 02:30:08
アタイこそが 2へとー

3 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 03:07:40
>>1
ボケ忠臣蔵に吉良上野介なんか出てくるかよ!

4 :日本@名無史さん:2006/11/18(土) 01:20:34
もうそんな時期か4

5 :日本@名無史さん:2006/11/18(土) 01:25:21
>>3
突っ込みに不覚もワロタ

6 :日本@名無史さん :2006/11/23(木) 20:56:38
いちおう貼っとくか

【赤穂浪士は悪役】吉良側に立った忠臣蔵を作ろう!
http://tv8.2ch.net/test/read.cgi/kin/1098198061/l50

7 :日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:30:00
日本史板じゃ食傷気味か?


8 :日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:40:19
か弱い老人を闇討ちして惨殺した極悪人どもに対して
圧力に負けることなく法に従って公明正大な裁きを下した幕府の偉業話だろ

9 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 16:29:44
>>8
大勢の家臣達に守られた従4位の爺さんだから、
か弱いという表現はあてはまらない。
夜戦は日本古来の戦法で「闇討ち」はおかしい

10 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:04:25
まあ、真実が分からない以上、どちらが悪とも言い難いが、
時の天皇陛下を皇位から引き摺り下ろして崩御されるまで
20年以上に渡って鳥小屋同然のところに押し込め奉った
某吉良はそれ相応の報いが来たというべきか。

11 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 11:28:06
そろそろ時期だねぇ…毎年毎年TVでやって、話も大体わかってんだけど感動しちゃうんだよなぁ…。

12 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:39:25
実際は盗人みたいにこっそりと床下あたりからもぐりこんで
吉良を暗殺、殺してから偽装で討ち入りの真似でもやったのだろうよ

13 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:51:49
>>8
公明正大だったら浪人の夜討強盗で全員磔刑の筈だが。

14 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 13:52:39
47人でか?

15 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 16:14:26
家の間取り図を盗んで、深夜に鎖帷子で武装した浪人たちが
音もなく忍び込む、忍者や盗人のやり方だよ

16 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 01:08:55
ドラマ・映画が誇張されたものであることを
もうたいていの人はわかってるんじゃないの?

17 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 12:00:36
浅野内匠頭はさも名君だったように脚色されてるけど、
実際は短気で女好きの暴君だったらしいよね。

18 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 12:40:11
>>17
税金が高く取り立てが厳しかったらしい。


19 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 12:44:13
>>8
討ち入り時点では浪人
にも関わらず
武士としての体面を保つ切腹
ってのはかなり寛大な刑。

20 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 22:22:48
内匠頭が切腹したとき領民は赤飯をたいたらしい

21 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 22:31:34
毎度恒例となってるこの話は絶対におかしいよな。
新撰組と赤穂浪士だけは何かがおかしい

22 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 11:21:42
長矩が上野介を斬り付けた真相は諸説あるが、今はどの説が一番有力なの?

23 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 17:36:02
>>20
特に塩田労働者は喜んでたらしいね

24 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:11:11
>23
赤穂にある資料館の展示によると
塩田労働者は
1回5合のメシを1日4回食った。
つまり1日米2升。
それほどのエネルギー補給が必要な労働だったわけだ。

25 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:27:03
普通に考えて、若い衆の浅野が、じーさんの吉良にいきなり切りつけて
仕留められなかったというのは馬鹿殿の証明だね
刀を使ったことがなかったのだろう 馬鹿殿を持ったものの悲劇
現代でも、馬鹿社長や馬鹿上司で悩む人が多いから、共感を呼ぶのだろう

26 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:30:26
浅野内匠頭・・狂人
吉良上野介・・被害者
大石内蔵助・・殺人犯

27 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 21:41:12
>>25
そもそも脇差は斬りつけるものじゃないしね。刀の扱いを知らなかったか、よほど興奮していたからかわからんが。

しかし刃傷事件の真相は結局何だったんだろう?浅野長矩はただひたすら『遺恨あり』としか言わなかったらしいし。まぁ斬りつけた時にも『この間の遺恨覚えたるか!』て喚いたらしいから何かしらの恨みがあったのは間違いないんだろうけど…
吉良義央に対しての詮議はなかったんだっけ?

28 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 21:52:18
浅野内匠頭・・気違い
吉良上野介・・被害者
大石内蔵助・・テロリストの首謀者


29 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:34:04
何か電波が飛んできたんだろ

30 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 01:06:37
幕府が吉良邸を本所松坂町に移したのは、幕府批判を吉良に押し付けて
浅野浪人に対するスケープゴートにするためだったのか。

31 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:10:50
悲劇の浅野内匠頭と悪辣な吉良上野介の対立という構図は大間違い。
吉良家は、代々朝廷との外交を取り仕切る将軍側近の政治家。
その吉良に凶刃が浴びせられたのだから、政治事件として捉えるのが自然である。
三百年間まったく考えられてこなかった「権力抗争としての赤穂事件」を明らかにしたノンフィクション!

吉良始まったな・・

32 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:42:30
>27
どんな剣の達人でも一撃で相手を斬り殺すのは難しいので
必殺を期すなら刺すべきで
長矩はその点でも不心得
という批判は昔からある。


33 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 15:46:43
どう考えても徒党を組んで夜中にこっそりと忍び込みか弱い老人を虐殺して
正義のヒーロー面、忠義の士面をしている赤穂浪士の側が最低の悪人だろ

34 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 15:52:32
赤穂浪士のやった事なんて極めてえげつない。
徒党を組んで特定の人間を攻撃している時点でいじめと大差ない。
しかも夜中に吉良邸にこっそりと忍び込んで
か弱い老人を何十人もの男たちが取り囲んで虐殺するだなんて、卑怯以外の何ものでも無いし。

吉良に何か問題があったとしても罰せられなかった、
或いは浪士側が現代風に言うなら裁判所に起訴するようなマネをしなかったのは、
当時の法的に言えば取り立てて何か問題がある訳ではなく、
吉良側に巨大な過失があった訳ではないからだろ。

吉良に何らかの問題点があれば当時の法で罰せられる、或いは処分を受けた筈だし、
浪士側が現代風で言うなら上告や起訴をするようなマネもせず
極めてえげつない方法で復讐すると言う事は、
浪士側の考えの方が不自然、と言う事だ。

どうあれ浪士側にも問題が多そうだな。

35 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 04:03:10
>>31
これか?
803 名前:名乗る程の者ではござらん[] 投稿日:2006/12/08(金) 11:09:00 ID:NmRV2Asi
おそらくこの事件には絶対の禁句があったのではあるまいか。
「事件は内匠頭の個人的問題で起きたものではない」
こればっかりは口にできないのである。政治がらみの問題ということになれば、大変なことになる。
浅野一門、家臣一同にいったいどんな迷惑が及ぶかわからない。
だから内匠頭としては自分が全てを引っかぶる。周囲は内匠頭に押しつけてしまう。それ以外仕方ないのである。
執筆中もそうだったが、書き終えた後、余計気になってならないことがある。
「赤穂浪士たちの一部は、ひょっとしたら事件の原因に勘づいていたのではないか? 
実は本当のことを知っていてそらとぼけているのではあるまいか。
また、そんなことは幕府側の関係者も、先刻ご承知だったのではあるまいか。これまたとぼけているのである」
どうもそう思えて仕方ないのである。
要するに『忠臣蔵』は関係者一同の共通の不利益、「刃傷事件は政治事件だった」ことを隠す
ための虚構の物語だったということである。
もしそうだとすると、われわれが馴染んできた『忠臣蔵』とはいったい何だったのだろう?
 
腹のそこから変な笑いがこみあげてきて仕方ない。


政変「忠臣蔵」
ttp://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict033.htm
これは完全にキラ寄りじゃね?

36 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 08:11:00
>>32
そもそもこの時代は人を斬り馴れている人が少ないだろうしね

37 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 08:43:18
つーか、歩兵戦闘で攻撃側が一人も喪失なしという事はワンサイドゲームの
ジェノサイドだったという事。兵装が同じならば、紀州とはいえ、陣地攻略
に攻勢側はほぼ2倍の戦力が必要。
吉良側はまったくの寝込みを襲われ、戦意ある抵抗が皆無だったということ
だ。

しかしもし吉良側が邸内外に歩哨を立て、上杉から百名程度の軍兵を備えて
いれば逆に赤穂浪士は壊滅しただろう。そしてその場合はどのような裁断が
くだされただろうか。

38 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 09:30:28
まぁ仇討ちは必ず成功させなきゃならない訳だから奇襲は戦法としては良かったんだろうね

39 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:37:02
吉良義央が黄金堤を築いて地元じゃ名君だとか言っているけど、
わずか4200石で自前で築けるはずがない。相当上杉家とかに
金無心しているんだろうな。かなりの嫌われ者だったと思うよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

40 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:02:14
吉良家は武家源氏ではないよ。戦国物に登場しないのはそのため。足利政権ではいわば御三家で家康を源氏一門にしてあげたのも吉良家。故に高家。

41 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:31:18
>39
そもそも寛文の厳封事件
(綱勝公の変死)
について色々噂もあったし


42 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:37:48
大石内蔵助は吉良の首を本当に泉岳寺までもっていったのかね?


43 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:51:20
因みに、「大石 良雄」は「おおいし よしたか」と読むのが正しい。

前に、大石内蔵助の子孫がテレビに出て系図を見せて「よしたか」と
読むのが正しいとはっきり言っていた。系図にも「よしたか」とルビが
振ってあった。

44 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:52:31
>>37
無理だろう。相手の兵数は分からず、いつ襲ってくるかも分からない状況で
いくら警備体制を厳重にしていたところでいつかは防御も緩んでくる。実際に
吉良方は浪人者を100人以上も召抱えて警備体制を張っていたが、浪士の
奇襲に対して戦ったものは1割か2割程度で、後の者は長屋で震えていたそうだ
からな。


45 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 07:48:39
浪士側は吉良を殺しただけとは思えないんだけど。
廷内の略奪や女性への強姦の記録は残ってないの?
それとも芝居やテレビではわざとふていないだけ?

46 :日本@名無史さん :2006/12/10(日) 10:38:29
>>41
でもそれ
三田村鳶魚が史実扱いで年譜にのせたら
「お前は史実と作り話の区別もつかんのか」といわれて
撤回しちゃったやつだしね・・・

実際には死後に養子立てるという有り得ない相続の代償で領地半分に削られたんだし
そんなアホなお家のっとりはやらんでしょ。
むしろ討ち入り後に作られたお話なんでは。

47 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:11:42
>>45
討ち入りを果たしたのち死ぬのがわかってれば略奪行為に及ぶとは考えにくいが…

48 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:55:12
浅野の馬鹿殿は、吉良を後ろから襲ったのだろう 卑怯なやつだ
しかも、失敗している 二重にダメだな

49 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:28:35
この話は、水戸黄門と同じで
毎度おなじみの定番ショーと思えば
腹が立たなくていいな

50 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:00:34
初めからフィクションだと思って見てれば腹も立たない

51 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:40:45
藩対藩の戦いならばなんとかなるが
吉良・上杉にしてみりゃテロとの戦いに近い対策しかとれん罠

まぁ首謀者(と思われる)の所在を把握してたのに離してしまうし
諜報力軽視の走りだよな〜


52 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:43:31
>>45
ついでで略奪やら強姦をするくらいなら
普通に討ち入りなんて割に合わない
逃げ出したほうが多いくらいなのに

53 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:49:45
>>48
西の丸での刃傷事件、豊島刑部少輔明重(目付)が井上主計頭正就
(老中 横須賀城主6万石)を「武士に二言はない」と叫びながら脇差に
より正就を討ち果たしたときは、明重はその場で自害したが、この時、
明重を後ろで羽交い締めにして組み止めていた青木小左衛門忠精も
田楽刺しになって巻き添えで死んでいるからな。この位じゃないとな。
東郷平八郎が「浅野は突くべきだった。武士の風上にも置けない」と
言ったと聞いた。

(因みに、豊島事件の原因は豊島明重に井上主計頭正就が息子の結
婚相手の紹介(大坂町奉行兼堺政所奉行 島田越前守直時の娘)と取
り持ちを頼んでいて、婚約が整っていたのに、その後春日局がもっといい
他の縁談を正就に紹介したから明重の方が破談になって面目を潰され
激怒したため)

54 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 23:52:36
浅野本家は上手く立ち回ったね
とばっちり喰らってもおかしくなかったのに、内蔵助の遺児を取り立てたりし
て美味しい所持っていった木がする

55 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 04:58:23
大石主税は討ち入り前の京都で
お気に入りの男娼と
お互いの血を入れた別れの杯を交わしたときいたが

56 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 09:05:21
昔は毎年きちんと討ち入りしてたけど最近はさぼりぎみだね
討ち入り資金調達が難しくなってるのかな。

57 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:03:51
>>54
大石の子孫は内蔵助に似て無能揃いだったらしく代を経るに従い石高が減らされている。
維新後は浅野氏の執事になっている

58 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:39:52
悪者にされている家老の大野九郎兵衛が中々の賢者で大石の黒幕
資金提供、大石らの成果を見届けた
もし、失敗すれば大野大野九郎兵衛が率いる第二軍が襲撃する予定だった
と、見る

59 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:42:56
>>57
明治期の旧大名の執事って
家令(家老格)よりだいぶ下っぱ?

60 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:52:27
内匠頭は叔父さんが全く同じ事件を起こしてる。
カッとなる性格は母方の血なんだろうな。

61 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:54:58
>>57
大野とともに
高禄脱落者の代表
奥野将監(事件当時 番頭:譜代であることを考えれば
     ある意味大野より格上)
の墓は現存している。
戒名が”法号玄徳院節厳禅義居士”
単なる不忠不義の脱落者にしては立派な戒名
”義”や”節”の字が使われている。
そういう伝説は大野ばかり取りざたされるが
奥野たちにも何かあったかもね。

62 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:57:28
>>61
>>58へのレス スマソ

63 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:05:00
浅野といえば、大阪夏の陣のとき、真田幸村の家来が
「浅野殿、裏切り!」と戦場で叫んで周り、徳川方を動揺させた
という事件があったな 秀吉の子飼の武将だな

64 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:15:40
恐らく、討ち入る側の赤穂浪士は吉良の邸内にスパイを送り込み
吉良の動静を逐一、報告させていたのだろう 護衛の侍なんかを
買収していたのかもしれない あるいは討ち入り前に護衛の侍が
吉良を始末していたのかもしれない 討入りの後は演技だろう

65 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:58:06
この討入りで不思議なことは、赤穂浪士側の負傷者がほとんどないこと
これは、恐らく誰かの手引きでひそかに忍び込んで、寝ているところを
1人が口をふさいで、もう1人が心臓にグサリとつきたてたのだろう
吉良が倉庫に逃げ込んだとかいう話は作り話だろう 実際は寝所で
フトンをはぐってグサリとやったものだろう 後でカムフラージュで
タイコなど叩いたかもしれない 討ち入り側の負傷者がゼロに近い
というのは、ひそかに忍び込んで暗殺したということを意味している
手口から言うと、押し込み強盗のやり方に近い

66 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:25:57
政治は民衆の目を逸らすために、面白い出来事を用意する

67 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:00:26
吉良家はセコムに加入してなかったのが運の尽き

68 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:00:36
今日は何の日フッフ〜♪


69 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:24:08
>>60
kwsk

70 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 15:52:00
>>69
浅野長矩の母方の叔父の内藤和泉守忠勝も、増上寺での四代将軍家綱の葬儀の最中に永井信濃守尚長に対して刃傷に及び、切腹改易。

71 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:36:23
討ち入りの日かぁ、なつかしいな〜。

72 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:37:03
>>71
あの日は寒かったよな
雪とか降っちゃってさ
内蔵助殿なんて討ち入り太鼓とか鳴らしてて


73 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:41:55
ジングルベルの曲が流れていてカップルがいちゃラブしてたりな!

74 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:46:01
おまえら朝起きてビックリすんなよって感じだったなw

75 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 17:08:48
ワイドショーとかの取材もすごかったな
東海林のり子あのとき初めて生でみたよ

76 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:04:27
この板の方なら知ってる人がいるかもしれないので。
赤穂四十七士の中に在日朝鮮人がいたのは本当ですか?人から聞いたものでわからないんです。てか、ガイシュツ?
もし知っていたら誰なのか教えてください

77 :会津:2006/12/14(木) 20:28:00
>>76
祖先が外国の人ってなら
武林唯七
は中国系(孟子につながる一族と自称している)

朝鮮半島系は誰かいるかな。

78 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:58:45
>>77  ありがとうございました

79 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:57:25
夜半他人の屋敷に押し入って隠居を惨殺するはやくざごろつき以下の所業なり。

80 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:14:04
吉良邸から泉岳寺までの優勝パレードってやつを見たかったな。

81 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:23:40
>>79
討ち入った後のことを考えれば、『仇討ち』ってのは必ず成功させなきゃならない。
ましてや多数の護衛がいるとなれば夜襲は当然の手段だろ。

82 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:13:02
大石が凄いと思うのは、誰一人として内部から裏切り者を出さなかった
ことだと思う。江戸時代に徒党を組んで反乱を企てた者は、由井正雪にしろ、
大塩平八郎にしろ、内部の密告でばれ、だいたい失敗した。大石は、仲間を
何度もふるいにかけて本当に信頼のできる者のみにしたから成功した。
事件そのものに賛否は分かれるだろうが、この過程は賞賛されてしかるべき
だと思うんだよ。

83 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:16:05
やってることが全然違うだろ

84 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 07:35:24
>>77
浅野
大石
このバカっぷりは朝鮮人じゃないとできないよ


85 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 07:45:45
一週間に一度は若い女を抱きたいな。女の身体無しに、男のずるむけチンポは生きてイケないな。今日も精液をかける女をあさるかな

86 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 14:14:58
>>82
やくざの喧嘩レベルのことと、討幕運動を一緒にしてはいかん。

87 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:34:14
討ち入りなんてのはケチなヤクザ紛いだけどそもそも大石てめかけ囲うは昼行灯だはの放蕩者だったわけで。そんなのが取り潰し境によくも化けたもんだよな。

88 :会津:2006/12/15(金) 16:41:00
>>82
討ち入り不参加組にも

仮名手本の斧九太夫のように
敵に内通した者はない。

不参加者も不義不忠の徒で
はないことはたしかだな。


89 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:42:17
化けたんじゃなくて次の就職先がなかったからむしゃくしゃして討ち入る詐欺やって金集めるつもりが
それに気がついたヤツはどんどん離れていくのにそれでも40人ちょっと残ってしまって
どうにもならなくなって討ち入ってしまったと読むべきではなかろうか

90 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:49:10
そかな〜?

91 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 17:20:09
就職先あった人たちはさっさと逃げてるからな。

92 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:03:54
細木数子が番組で馬鹿な発言してたよ
松の廊下事件の際、なんで内蔵は居なかったって
内蔵が居れば事件は起こらなかったと
三勤交代とか筆頭家老って意味知っての発言かw?

93 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:07:05
かずこは本当に知識人とは掛け離れてるね^^

94 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:10:55
忠臣蔵ってヤクザの出入りですよね?まるっきり。良い悪い好き嫌い別にして。あれが日本の世間の元風景なんでしょうね。ヤクザ社会はその名残ですか。いまだに多くの人がなにがしか郷愁を感じてる

95 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:43:50
あの頃は言ってみれば安定した平和な時代だったのに、
いきなり屋内で年長者を斬りつける行為は
どう考えても許されない。
この話を美談と思ってる人は
戦国時代の合戦や敵討ちと混同して勘違いしてるんだろなぁ

96 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 02:34:02
真実がどうであれ『主君の無念を家臣が晴らす』っていうストーリー自体は普通にいい話だと思うけど。

97 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 03:28:40
>>82
ばれるもばれないも幕府も吉良をスケープゴートにして
喧嘩両成敗(喧嘩じゃないけど)の片手落ちから幕府へ批判が向くのを避けたいし
当時の学者は喧嘩両成敗をもともとが無法者同士が内輪の喧嘩を収める為の法であり
こんな原始的な方法を採用していること自体を批判していたが
市民は赤穂浪士に同情的な者も多く知っていても密告するような者もいなかった

酷いのは、討ち入りに参加しなかった者やその親族、子孫がなんの関係もない人間から
不忠だと罵られたり生活必需品を売ってもらえないなど露骨な嫌がらせを受けるので
討ち入り不参加だった者の血縁を隠して細々と暮らしていたらしいということだ

98 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 04:17:00
忠義の対象は藩主なのか、藩主の君主である将軍なのか、これは武士道の根幹をなす
大問題であった。
しかし忠臣蔵で忠義の対象はあくまで自分の藩の殿様であることが決定づけられてしまった。
これが最終的に幕藩体制を揺るがし、忠義の対象の一本化、すなわち尊皇運動に
つながっていくことになる。

99 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 06:21:16
浪士達にとっては、将軍(幕府)=吉良に与した側だっただろうしね。『まず忠義を貫くべきは藩主』だと考えたんでしょう。

100 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 06:31:29
しかし思ったんだが切腹した藩主が事件を起こした時に
吉良に何のお咎めがなかったと言う事は、
吉良に非はなかったと言う訳だし、
お咎めを受けるような悪事もしなかったと言う事だろ?
冷静に考えてみれば吉良は何も悪いこともしてなくて、
公の場で刃物を振り回したキチガイが罰を受けるのは当然だ。
それを不服と考えてか弱い老人を殺した赤穂浪士のどこに正義があるのかどうか解らない。

忠臣蔵に共感する日本人って、
ある意味、不思議な考え方をしている連中なんだと思う。

101 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 06:34:30
そもそも忠臣蔵って冷静に考えれば変な話だよ。

切腹した藩主にだけ罰を受けるのは、ある意味、当然なんだよ。
公の場で刃物を振り回しておきながら、
何の罪も受けないと言うのは変な事だからね。
吉良に何のお咎めがなかったのはある意味、当たり前だろう。
吉良は単なる被害者なんだから。

事件を起こした藩主に罰が落ちたのを不服と考えて
吉良を殺した赤穂浪士なんて論理が韓国人並みでキチガイ集団だろ。

102 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 07:26:33
吉良家臣からしてみれば主君が基地外に切りつけられて命も助かってホッとしたら
今度は隠居した先君が逆恨みした浪人に惨殺されてお家は取り潰し、
新しい主君は流罪、自分たちは失職だものな。

103 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:20:46
浅野→切腹、吉良→お咎めなしという結果から、吉良に落ち度がなかったとするのは早計じゃないかね。
1701年以前にも浅野は勅使響応役を仰せつかっている。つまり勅使響応がいかに重要な儀式であるかは承知していたはず。
にもかかわらず響応の最中に刃傷に及んだ。『この間の遺恨…』の文句と共に。この時の浅野の心理状態がどうだったのかが肝。
前回の響応役の時も指南役は吉良。当然吉良と浅野の接触はあったのだろうから、何らかの遺恨があったとしてもおかしくはないわな。
真相が謎とされる訳は、『喧嘩両成敗』であるにもかかわらず浅野のみが罰せられる、
浅野が取り調べに対してひたすら『遺恨あり』と述べ、その遺恨の内容を語らなかった、
取り調べた多門伝八郎に虚言癖があったとされておりその取り調べの記録が鵜呑みにできない、つまり遺恨について本当に浅野が述べなかったのか、それとも述べなかったことにされたのか、ツッコミどころが満載になってしまったことだな。

104 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:33:28
『か弱い老人を殺した赤穂浪士のどこに正義があるのか』という人もいるが、何十人もの護衛に守られた高家筆頭という立場の人物が果たして本当に『か弱い』のかというところだな。

105 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:59:52
長崎喧嘩騒動とは性質が違うのかな?

106 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:35:59
>>104
そんなの関係ない、全く筋違いだよ。
か弱いなんて全く思う訳がない。地位も名誉もある人だったんだから。

今と同じ安定した時代に
理性をわきまえない、ブチ切れ行為を犯した人が
罪に問われて当然ということ。
それに対して復讐行為を行うことに大儀はないということ。
今の時代、冷静に考えれば

107 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:47:22
忠臣蔵

浅野が吉良に切りかかった原因は…

小姓、つまり若い男を吉良からとられたことが憤りが原因です。
男色が普通だったご時世とはいえ男をとられたからといって切りかかるのはねぇ。
設立の発端は微妙に違うようだが、大奥が現代に伝えられるような
形式になったのは男色で全く女に興味を示さなかった家光から絶対に世継ぎを得るため故。

新宿二丁目の公園で男とったとられたで揉めて喧嘩になりついには殺人までいった数ヶ月まえの事件を思い出したよo(^^o)(o^^)o

赤穂浪士が参考したといわれる浄瑠璃坂の仇討だが、男色による仇討の参考にされてはムカツクだけだろう。
■浄瑠璃坂の仇討 - Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E


108 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 11:56:23
殿様が恨んで斬ろうとした吉良を、家臣達がかわりに討ち果たした。



109 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 14:18:10
忠臣蔵の47浪士の家系を調べたやつがいたが、全員つながっていたそうだ
つまり全員が親戚身内だったわけ、だから裏切りも出なかった
大石を中心とする親戚身内による敵討ちということだな

110 :会津:2006/12/16(土) 14:29:30
>>100
現代でも”責任能力がない”と免罪されるように
あの時代でも
キチガイ=乱心と認定されたら
藩の改易まではいかずに
長矩本人への処分だけで済んでいた。

111 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 14:55:32
基地外が訳の分からないことを口走って刃物を振り回したら、
斬られた被害者が悪いのか?

112 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:29:31
【速報】超人気歌手・安室奈美恵さん(30)死亡  
http://music5.2ch.net/test/read.cgi/musicjf/1164458146/

113 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:53:31
>>>111
気狂(きちがい)が人の頭を撲(なぐ)り付けるのは、
なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
難有(ありがた)い仕合せだ。

114 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:14:01
あの時代の法律は喧嘩両成敗だから。もめ事を起こした事態が悪。

115 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 21:11:48
>>110
内藤忠勝は永井尚長を斬り殺したが、
乱心認定されたのに次の日に切腹改易されているぞ。

他に乱心認定された傷害犯のケースでいえば
江戸城中で毛利師就を殺そうとして逆に取り押さえられた水野忠恒。
松本七万石は改易で、忠恒本人は叔父の邸へ幽閉された。
死罪にならなかったのも未遂だったからとか乱心だからとかじゃなくて譜代の名門だったからが定説。
叔父と庶兄が新規に旗本に取り立てられて、叔父の家系が後に大名に復帰したんで
どうも本人の幽閉だけで済ませてもらったと勘違いされているようだが。

116 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 21:27:11
>キチガイ=乱心と認定されたら
うっかり人違いして細川の殿さま殺しちゃいましたで日本史上有名な板倉修理も死罪改易でした。

>あの時代の法律は喧嘩両成敗だから。
江戸城中で起こった刃傷事件は十件以上ありますが
明らかに喧嘩両成敗(理由を問わず両方とも同等に処罰する)が適用されたのは
ガチで斬り合った多賀某と川口某の一件だけですが。

117 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 21:46:05
そもそも喧嘩両成敗は喧嘩じゃないと適用されないし。
成文法の規定(今川仮名目録、元親百ヶ条他)を実際に読んでみたまえ。
「攻撃されても手向かうな、ちゃんと成敗してやるから。応戦したら喧嘩扱いで両方とも成敗しちゃうよ」
としか解釈のしようがないから。


118 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:06:08
【喧嘩】(けんか)

当事者間の意思疎通に齟齬があるなどの理由によって争いになること。
武家社会においては、双方に言い分があるので、喧嘩両成敗が常道とされた。
但し、忠臣蔵においては全く意味が異なり、訳の分からないことを口走る基地外に
何がなんだか分からないうちに、一方的に斬りつけられ、被害者となることを指す。

119 :再就職運動:2006/12/16(土) 22:11:50
内蔵助が主家再興運動に熱心であった理由は、
藩取潰しと共に失業してしまった藩士を食わせる為だった。
元禄時代には、武士社会は固定してしまっていて、
実に厳しい就職難の時代だったから、
主家再興でもしない限り失業武士は食う事ができなかった。
しかし、主家再興の望みが無くなったので、
再就職運動に失敗した浪士を集め、討入を決行したのである。

120 :就職させてやる :2006/12/16(土) 22:14:56
「再仕官させてやる」とでも始めから甘言をもって釣られていたのか、
やがては死に場所になるそれぞれの屋敷へ、さながらまるで仕官しに行
くように勇んで行っている。到着してみて罪人扱いなのに大高源吾らは
(一杯喰った。柳沢にはめられた)と、はっとした。
覚悟をし、取りまいた儘でずっと監視し、弓鉄砲で囲んで見張りしている
のへ、「われらは死を承知の者、逃亡など致さぬ」と抗議している。

しかし、二十代の者は夢が捨てられず吉報が来るだろうとふざけ廻っていた。

121 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:15:21
明治時代にロシア皇太子を斬りつけた基地外は死刑にならずに済んだな
でも仮にその基地外を死刑にして基地外関係者が皇太子にトドメを刺しに行っても
美談どころか日本人が世界中から野蛮人扱いされるだけだけどな

122 :就職活動を有利に進めようという思惑:2006/12/16(土) 22:24:53
赤穂国元の藩士たちから成る後者は、仇討ちをすることで自身
の武士としての在り様を社会に示すことを意図しており、
その後の他家への就職活動を有利に進めようという思惑まで働い
ていたと憶測することもできる。
同じ仇討ち派であっても、立場により、温度差があったことは
否定できないのである。


123 :公務員心得:2006/12/16(土) 22:26:29
彼らは戦闘員と言うより、当時、既に地方公務員だったのである。
いきなり、職業軍人として実戦に赴くかどうか選択を迫られても、
戦闘員としての自覚、資質がない限り、一元的な武士道観を押し付
けられるのは不本意だったに違いない。

武士道とは、本来、個々の武士の生きる規範となるべき道徳律で
あって、主君だけに対する忠義であったり、主君に絶対服従を強
要する滅私奉公的な思想であったりするものではない。
『葉隠』おける「武士道とは死ぬこととみつけたり」という文句は、
一旦死んだ気になれば、何物をも恐れることなく、仕事に励むこ
とができることを示唆しているのである。武士道と言うより、
むしろ、「公務員心得」とでも言った方が、当っているかもしれない。



124 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:33:34
とりあえず忠義というものが美徳にされてたんだから
例え馬鹿殿のためとはいえ、仇討ちに走ったことは
当時にしてみれば評価されるのは当然じゃないのかな?

現代にしてみれば理解されない価値観であって
そんなものを放送し続けるテレビ局がおかしいぞ?って問題だろ

125 :葉隠:2006/12/16(土) 22:35:18
「葉隠」などは、赤穂浪士について、「あだ討ちするなら、
1年も時間をかけて準備などせずに、さっさと行うべきであった。
高齢である吉良殿が、病死でもしたらどうするのか?彼らは、
忠義者ではない。ただの卑怯者である」とさんざん非難しており
ます

126 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:39:40
>>103

切り付けられた側が悪いと言うのはよく解らない理論だな。
まるでいじめられた側が悪いとでも言ういじめ肯定理論にもつながる所がある。

どうあれ切りつけた側が罰を受けるのは当然。
殺傷事件を引き起こし、殺人未遂まで起こしたんだからな。
吉良に何のお咎めがないのも当然。
吉良は何もしてない単なる被害者なんだから。
吉良が浅野に対して刃物できりつけて、
浅野が吉良に対して逆襲したと言うのなら、
互いにきりつけあっているのだからお互い様と言う理論も成り立つ。
その時こそ、喧嘩両成敗と主張してもいいだろう。
だが吉良は一方的に傷つけられただけ。
吉良が浅野を傷つけてこそお互い様は成り立つが、それはない。

127 :浅野内匠頭は統合失調(精神分裂症):2006/12/16(土) 22:43:28
浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷に及んだ事件だが今から10年程前
に東北大学の心療内科の先生方と話した際に、浅野内匠頭の幼少の
頃からの行動がおかしいとの文献と刃傷について話題になった。
まず、吉良が烏帽子から斬られたとのことであるが、あの被り物は
鉄で編んでおり、斬りつけても大怪我を追わせられない。
もし殺そうと思えば刺したはずである。また江戸での奇行が多いこ
とから、松の廊下で「幻聴」が聞こえて刃傷に及んだとの結論で話
をしたことがある。最近、精神医学者も精神医学から見た忠臣蔵で
も「統合失調(精神分裂症)」との意見を寄せている。
ただ、分からないのが、そういう城主をなぜ命をかけて仇を討った
かが疑問として残るが・・・・?


128 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:48:13
だから、あれは就職運動のためのデモンストレーションですよ。

129 :統合失調症(精神分裂病)の理解:2006/12/16(土) 22:48:45
病名の変更について
 平成14年8月に開催された日本精神神経学会総会で
「精神分裂病」の病名は正式に「統合失調症」に変更されました。
これを契機に、この病気に対する誤解や差別が是正され、
日本の精神医療がよりよいものになり、よりよい社会になるよう
に関係者ならびに一般市民は努力していかなければなりません。

130 :統合失調症(精神分裂病)の理解:2006/12/16(土) 22:50:29
1)統合失調症(精神分裂病)の特徴:
(1)世界的に代表的な精神病であり、一生のうちで、
100人に一人(発病危険率1%)はこの病気を体験するといわれ
ています。日本では精神病院に入院している患者さんの約60%は
統合失調症です。

(2)この病気は、通常、思春期ないし壮年期早期に始まります。
発病に男女差はないが、男性の方が早く(約5年)発病する傾向
があります。

131 :現代精神医学から見た浅野乱心説:2006/12/16(土) 22:51:54
事件後、浅野内匠頭は極めて冷静な態度である。
幕府の取り調べにもキチンと答えている。落ち着いた態度で食事も摂り、
酒やタバコも欲しいと言っている。こんなに落ち着き払った人間が、
乱心なわけがない!

しかし、井沢氏の前掲書の中で現代の精神科医が浅野の様子を「診断」
した意見が紹介されています。
この、落ち着き払った所こそ、「乱心」の何よりの証拠だ、というのです。
殿中で刀を抜けば、その身は切腹・お家は断絶が当たり前。まともな神経
の人間なら、顔色が青ざめ、食事も咽を通らなくなる。しかも取り調べへ
の態度こそ冷静なものの、陳述は筋が通っていない。
自分は「遺恨があって吉良殿に刃傷に及んだ」と言っていながら、
「吉良のどこが強欲・悪辣で職務放棄だから、世のために斬ったのだ」
とは説明していません。
さらに「遺言」もおかしなもの。妻や弟もいるのに、用人:片岡源吾右
衛門に宛てて、「こんなことになって、さぞ不審に思うだろうねえ」と
いう内容。
「家を潰したのは忍びない」とか「吉良の強欲は腹に据えかねた」など
という釈明が一切ありません。どうも、「自分がしでかしたことの重大
性が分かっていない」らしい。
このあたりが、現代精神医学から見た浅野乱心説の論拠となっています。


132 :忠誠心:5%:2006/12/16(土) 22:54:45
忠誠心:5%
面子:25%
討ち入りで忠誠の志士として名を売っておけば再就職 (仕官) 
すんなりできるだろうという計算:70%

ぐらいだったんじゃないでしょうか?


133 :餓死する浪人:2006/12/16(土) 22:55:55
忠臣蔵のころは江戸幕府が揺らぎだしていた時代で
仕官 (就職) できずに食い詰めて餓死する浪人が大勢いたそうです。

食い詰めるくらいならいっそ一か八か、と思っても不思議ではないはず。

134 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:00:34
>>132
>>133
いやそれはないだろう
武士の無礼打ちや、果たし合いだとか
そういうのも厳しい決まりがあって
仇討ちでも奉行所に願い出て、許可が出なきゃ違法になる時代だよ

そんな甘い考えで出来るはずがない

135 :失業保険などもなく:2006/12/16(土) 23:07:34
播州浅野家には300人近い家臣がいたが、
それらが一斉に失業することになるのだ。
失業保険などもなく、再就職も容易でない時代である。
浪人となった家臣たちは、その日から困窮してしまう。

136 :再就職運動に失敗した浪士を集め:2006/12/16(土) 23:09:20
内蔵助が主家再興運動に熱心であった理由は、
藩取潰しと共に失業してしまった藩士を食わせる為だった。
元禄時代には、武士社会は固定してしまっていて、
実に厳しい就職難の時代だったから、
主家再興でもしない限り失業武士は食う事ができなかった。
しかし、主家再興の望みが無くなったので、
再就職運動に失敗した浪士を集め、討入を決行したのである。


137 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:09:41
>>134
無礼打ち、果し合い、仇討ちは、特に仇討ちは自分の家の家禄を守るため、
武士の面子のためにするものです。
しかるに、赤穂の連中は既にその面子(家禄)をなくした、いわば後は野垂れ
死ぬだけの浪人ですよ。一か八かの博打ぐらいしかやることはありません。

138 :細木数子:2006/12/16(土) 23:10:22
じゃ吉良上野介さん。ズバリ言うわよ!
アータね、名前変えないと毎年、毎年殺されちゃうわよ。
いやでしょ。一度しか言わないわよ!
良い名前考えてあるんだからさぁ。ドッコイさぁ。
『鈴木宗男』か『出川哲郎』どっちかお選びよ。


139 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:11:37
>>137
だからそうじゃないと思うよ

むしろどうせ食えなくなって死ぬなら、そのきっかけを作った吉良を道連れに・・・
みたいなもんでしょ
決してそんなこれで名を上げて他に仕官なんてのは当時の感覚でもないだろう

140 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:13:45
>>139
単なる無理心中というご理解ですね。
それなら分からなくもありません。

141 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:18:18
>>140
この忠臣蔵に人気者、堀部安兵衛は確かに高田馬場の決闘で名を上げて養子入りしたり
出世の道を歩んだし、あなたの武名で名を上げて仕官という考え方が当時あったのは確かに理解できるよ

だけど忠臣蔵は明らかに幕府の許可もない非合法なものだし
堀部安兵衛のエピソードから考えても、この堀部安兵衛という人物がとても義理堅いのが伺える
だから個人的にはやっぱり純粋な忠義だと思うなぁ忠臣蔵は

142 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:26:16
ああ、堀部安兵衛ね、彼なら確かに再就職の声も掛かったかもしれんな。
でも他の者はどこにも行き場のない人間ばかりでしょう?

143 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:47:11
>>142
原惣右衛門、大高源五を堀部安兵衛が説得して
急進派にしてる
むしろ大石がお家再興を願っていたが
それが駄目になって堀部に同調したと見るのがいいだろう

だからまぁ多くの人間は逆恨みかもしれんが
元から仇討ちを主張してた堀部安兵衛は完全な忠義からだし
表向きは忠義なんじゃないのかね


144 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:19:46
>>126
>>103は『吉良が悪い』なんて書いてないぞ

145 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:25:48
まあ、その辺がこの事件の複雑怪奇なところですね。
忠義が決まった形に示せるものでないだけに、忠義を弾除けに
内心では一か八かの博打をやったとしても、他人には分からない。
去った者たちが本当に不忠者であったかも分からない。
吉良を道連れに無理心中したのを忠義といえば言えなくもないし、
わたしのように就職運動の大博打と見る人間もいる。
難しいところです。

146 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:33:01
忠義だとしても法律違反には違いない。
しかも、浮き世の鬼を退治するならまだ分かるけど、
浪士自身、内匠頭がなんで斬りつけたか分かってないんじゃねえ・・・

147 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:54:42
真実がわからなければ、自分たちの主君の肩を持つだろうな

148 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:09:35
吉良は現代においては完全に『敵役』な訳だが、自領では人気があるらしいよね。何でも自領を良く治めていたとか…
でも実際自領に下ったのは生涯で一度だけなんでしょう?
それと吉良の響応役イジメは何も浅野相手に限った話じゃないらしいじゃない。吉良が刃傷事件に遭ったと聞いた時の東山天皇の様子なんかから察するに、吉良にも何かがあるような気がしてならないな。

149 :日本@名無史さん :2006/12/17(日) 08:02:16
討ち入りの口上書を見ても
赤穂浪士は刃傷の原因について言及していない。
知らなかったというより
初めから関心がなかったものと思われる。

150 :東山天皇:2006/12/17(日) 09:14:55
東山天皇や関白近衛基熈は、刃傷事件で切腹させられた浅野長矩に同情的
だったんだって。
傍観した柳原、高野ら勅使となった武家伝奏どもを叱責したほど。
なんせ上野介は後水尾〜霊元時代に、幕府の威光を嵩に虎の威を借る狐そのもの。

対して、紀伊家との繋がりで上野介とも所縁の伏見宮や前関白一条兼輝は
複雑な心境だったろうね。


151 :吉良が運動して十歳の新帝を立て:2006/12/17(日) 09:17:31
吉良が運動して十歳の新帝を立て、仙洞御所に竹矢来を張るには費用が勿体
ないからと、見せしめに今の京御苑に鳥小屋のようなのを建て、
廃帝を幽閉してのけた。が、皇国史観では真相は発表出来ず隠された儘、
今もそのままなのである。
「徳川家に野心を抱くごとき振舞いあるにおいては、何様であっても、
かくの如しなり」と意気揚々と戻ってきた吉良を柳沢は招き労い、
砂田重秀の発案を当人の口から聞かせた。


152 :いろいろな説:2006/12/17(日) 09:19:49
浅野が吉良に斬りつけたのも、
後光明・後西・霊元天皇間の皇位継承問題に吉良が介入したことを
以前から怒っていたからという説や、いや、それはカビの生えた話で、
ホントは、東山天皇の後をめぐる朝廷内の対立に吉良が介入したから
という説やらいろいろ。


153 :牡丹の花のごときもので義士である:2006/12/17(日) 09:21:59
父後西帝を御苑北隅の茅屋へ幽閉した吉良上野介を、
親王様は怨仇のごとく恨んでおられた故、赤穂浪士に対してまだ誰も
批判がましいことを言うのは遠慮していた時、
「牡丹の花のごときもので義士である」と賛辞を送っている。

154 :親王様の勘違い:2006/12/17(日) 09:23:54
吉良が毎年京へ行っていたのは、小判改鋳を言いつけた堺のえびす町の中村
内蔵介が、横領した小判で祇園の一力茶屋を借り切ってのだだら遊び(豪遊)
や、金蒔絵の盃を作らせ配ったり、小唄を流行させれば、女房は女房で、
嵐山で今で言うファツションショー(衣装比べ・何時の世も泡銭を持てば
馬鹿は何処にもいる)を始めだしての乱痴気騒ぎの監視のためである。
が、親王様は父後西様を見張るための上洛と勘違いして憎んでおられたの
だろう。


155 :吉良上野介を有名にし、恐れられた原因:2006/12/17(日) 09:41:32
「徳川家へ反抗なされば何様でもかくなるのである。見せしめとなさるが
よい」と若き日の吉良が思いきった前代未聞の暴挙をやってのけたので、
さすが豪気の後水尾帝もついに世をはかなんで延宝八年御崩御となる。
これが当時、吉良上野介を有名にし、恐れられた原因なのである。
その後吉良は「仏教興隆、神徒禁圧の大詔を出して頂くようにせい」と元
禄十四年に命じられると、(高家のため、江戸町奉行にも老中にも出世さ
せてもらえずのため)もう嫌気のさしていた吉良は、上洛したもののなす
処なく、京から戻って登城し、謝罪し、隠居願いを出した。
しかし柳沢は(御政道の裏向きを余りにも知悉している爺めをどうして野
放し出来ようか)と、最後の奉公納めとして、勅使饗応役を命じた。
そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて、吉良を憤らせ抜刀させようと
した。というのも、江戸時代というのは武士は矢鱈と刀を抜いてはいけな
いという定法があつたからである。


156 :水戸光圀:2006/12/17(日) 09:47:10
「京所代小笠原や京奉行松前が、将軍家側用心柳沢吉保の送り込んで
きた吉良上野介と密談し、何かを策しているのが怪しい」と光圀は、
彼らの謀みが何かを探るため、貞享二年二月に後西さまが窮死された
後も京へは何度もいった。
そして、「京こそ体制である」との後西さまの意志を世に広めんと、
湊川に楠木正成の石碑もたてた。
 もちろん光圀の行動は、柳生俊方によって次々と江戸へ報告され続
けて行った。
柳沢吉保は、「あの方がいては吾らの企てが駄目になる」と将軍家
の命令として隠居閉門処分にした。
そして一歩も常陸太田より他出させぬよう跡目の綱条に言いつけ
竹矢来で囲ませた。番人をつけさせた。
 何故かといえば金をカネとみない銀貨幣制の京で、吉良上野介が柳
生に言われた通りに、従来の大判小判を強制的に通用禁止し集め蓄積
していたから、その秘密を匿し通すためであったらしい。

157 :朕深ク 嘉焉賞ス:2006/12/17(日) 09:52:08
明治元年(1868)、京都を発った明治天皇の一行が東京城と改名
されたばかりの江戸城に入城するために東海道を進んでいました。
11月5日、品川・高輪泉岳寺前に差し掛かったところでその行列
が止められました。そして寺に明治天皇の勅書と金一封が届けられ
ました。その勅書は元禄15年(1702)12月14日に討ち入
りを行なった大石内蔵助良雄(よしたか)以下46名の赤穂義士を
表彰したものでした。勅書には「汝良雄等 固ク主従ノ義ヲ執リ 
仇ヲ復シテ法ニ死ス 百世ノ下 人ヲシテ感奮起セシム 
朕深ク 嘉焉賞ス」とありました。



158 :上野助は「憎んでも憎みきれない人物」:2006/12/17(日) 09:56:58
赤穂義士の討ち入り事件というのは朝廷にとって無関心ではいられ
ない事件でした。と言いますのは吉良上野介義央は当時の江戸幕府
の朝廷工作の中心人物で、幕府の度重なる干渉に朝廷の不満は高ま
っていましたから、朝廷からすれば上野助は「憎んでも憎みきれな
い人物」であったことがあります。また浅野家はもともと天皇家に
対する尊敬の念が強く、万治4年(1661)に焼失した明正院御
所の再建に内匠頭の祖父が力を尽くしたこともあり、江戸城での刃
傷事件については朝廷では浅野に同情的な声が多かったのです。


159 :「珍事々々」と日記に書いています:2006/12/17(日) 09:58:24
当時の東山天皇にもっとも近く、また朝廷の実力者であった関白
近衛基熈(もとひろ)は、3月19日にこの刃傷事件の知らせを聞き、
「珍事々々」と日記に書いています。何かふざけているというか、
愉快でたまらないと言った調子です。
翌日、この知らせを天皇に報告に行くと、この時点では上野介は生
きているのか死んでいるのか分からなかったのですが、天皇は「御喜
悦の旨仰せ下しおわんぬ」(「基熈公記」)とのことでした。



160 :政治的意図:2006/12/17(日) 09:59:36
このように赤穂浪士の討ち入り事件についてはもともと朝廷は同情
的であったわけですが、その約160年後に明治天皇が江戸に入っ
て真っ先に赤穂義士の表彰を行なうというのは、江戸の庶民に人気
のある赤穂義士の主人に対する命をかけた義と忠誠を称えることで、
新たな為政者である天皇への忠誠を江戸の庶民に呼びかけようとい
う政治的意図があったということなのでしょう。

161 :GHQと「忠臣蔵」:2006/12/17(日) 10:06:04
太平洋戦争敗戦のあと、GHQ(連合軍総司令部)は歌舞伎の上演
を厳しく規制し、とくに敵討ち関連演目の上演を禁止しました。
この規制は徐々に解かれましたが、最後まで残った大物が「仮名手
本忠臣蔵」でした。GHQがどれほどまでに「忠臣蔵」の思想を気
にしたのか、今の我々にはちょっと想像ができません。
敵討ちと言ったってたかがお芝居・娯楽じゃないのと思ってしまい
ます。しかし、明治以降敗戦までの「忠臣蔵」が背負わされてきた
「忠臣報国」の思想の重さを考える時、GHQにとってはいくら心
配しても足りなかったということは理解できましょう。



162 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:47:48
本能寺にしろ真珠湾にしろ、「謀ればかなう」と考える人多すぎ。
陰謀史観てやつ?・・・忠臣蔵にもあったんだ・・・これはこれで勉強に・・・

163 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:34:12
侍の本質というのは、カブキ者、カブレ者、今でいうところの不良だからな
赤穂の田舎不良が、江戸で大不良をやってのけた だから侍や町人が快哉した

164 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:08:38
殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者非分なる事なり

165 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:01:06
>>150-161
つまり吉良は朝廷や幕府にとっては厄介な人物で、浅野は実は尊皇家で吉良を消す為に利用されたって訳かい。

166 :会津:2006/12/18(月) 12:41:33
>>115
するとドラマなんかで
多門伝八郎が
罪を軽減して改易を免れるようにと配慮から
乱心という長矩の供述を誘導しようとするのは
フィクションとしても意味がない。?

167 :会津:2006/12/18(月) 12:57:58
>>161
戦前に関して

海音寺潮五郎が
---------------------------
戦前は
”忠臣蔵は直接の主君への忠義を謳い、
 将軍や天皇への忠義をかんがえてない
 小義の話だからケシカラン”
と軍部や官憲から圧迫を受けていた。
------------------------------
と述懐している。ほんとうなのかな。

海音寺のいうことが本当なら
昭和初期の戦前戦中も忠臣蔵は国家推奨ではなかったことになる。

ちなみ海音寺の”赤穂義士”が最初に世にでたのは
まさに戦中の昭和19年

168 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:37:35
つーか勝海舟が言うように
当時は言論統制があったから
政府への不満だとか皮肉を風刺した劇や話が流行ってて
忠臣蔵も同じようなネタで当時盛り上がったってことだろ

表向きは忠義を表した話だからお上からおとがめ無し
実質は上司に部下が痛めつけられてその手下が復讐という話

169 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:47:47
>>161
902 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2000/11/18(土) 04:35
オーストラリアでの本当の話
当時日独伊の捕虜がいたそうな、
ドイツ人は集団で穴を掘り収容所から脱走しようと試みたそうな。
イタリア人は全くのうてんきで、終いには収容所の門も鍵を必要なくなる程で、
近所の女の子と出来てしまう奴もおったそうな。
それをみた彼らは、ドイツ人は戦う為に生きていると、またイタリー人は
楽しむ為に生きていると理解できた。
しかし日本人は、気が付くと集団で自殺してしもうた。
彼らからは全くの理解不可能な連中だった。

943 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/27 18:44 ID:???
引用元が明記出来ないと、本来はまずかろうが・・・わりと知られた話なので一応。


ある時、米軍が、捕虜とした日本兵達に特別教育を始めた。
どんな工作をされるかと思ったら、それは何故かダーウィンの進化論の講義だった。
そんなもん学校の理科の授業でガキのころ習ってんのに、米軍の意図とはいったい?
と皆不思議がった。
そして講義が終了した後、教官役の米兵はこう述べたのであった。
「どうです、これで現人神などというものが存在しないことが、あなた達にも理解できた
でしょう?」

945 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/08/27 18:59 ID:???
>>943
あきれ顔で「そんなこと当たり前だろ。」と答えて絶句させた、
ってオチのあるバージョンもあった気がする。

170 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:46:02
>>169
そのUSAで
進化論を学校で教えるな。
という輩が今日無視できない勢力になっており
現政権の支持基盤ってのは
何の歴史の皮肉だろう。

171 :元禄十四年三月十四日:2006/12/18(月) 20:53:58
元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。
観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。
大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、
何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」
と柳沢吉保に言われた。「はあッ......」浅野はただ畏まった。
「本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。
其の方は抜刀しても咎めはせぬから、
吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。
よいか一切他言は無用ぞ」との藪から棒の命令。
何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって
背を向けていた。だから浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく
松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み
返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で
額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである。

しかし賢い吉良は、その手に乗ってこなかった。騒ぎを知らされ、
さては失敗とみてとった柳沢は観能の席から腹心の大目付仙石を呼び、
即座に浅野の口封じを命令した。検分役を仙石が付けて出したのは、
即刻始末させた浅野の首を持ち帰らせるだけのものだった。
本当の刃傷ならば、身辺整理をして覚悟してきているから、
一突きにグサリと刺すのが普通である。


172 :首と胴が別れてしまう :2006/12/18(月) 20:54:41
やにわに体当たりみたいにして相手を仕止めるのが、武士たる者の心得
である。千代田城刃傷は前後四回記録されているが、皆相手を仆し自分
も大番組の者に滅多斬りにされて即死。浅野のごとく背後から組み付か
れても未だもがき暴れて、未練たらしく、「武士の情けじゃ、そこ離せ」
などと憐れっぽいことを言ったような例は全然ない。

もう一息で、堪りかねて吉良が刀の柄に手をかける、と見て取っていたか
ら叫んだとしか考えられぬ。つまり、何の理由や説明も無しに上からの命
令で、浅野は吉良へ仕掛けさせられたが未遂で失敗。
柳沢は情け容赦なく約束を破って直ぐ監禁。二時間後に呼び出され、
首と胴が別れてしまう。


173 :口封じに始末:2006/12/18(月) 20:55:21
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。

174 :皇運招胤録:2006/12/18(月) 20:56:51
事の起こりは、箱根から東は金本位制で一両が四分、一分が四朱。
が、西は九州まで貨幣は銀本位制で何匁となっていた。
つまり江戸では金はカネだが、三島から先ではそうではなかったせいである。
人皇第百十一代後西帝の生母が仙台伊達綱宗の生母と実の姉妹と判明。
伝奏姉小路を使者に出したのは、王政復古の叛乱予備ではあるまいかと、
柳生よりの探索報告で、足利の血統で京では顔の利く吉良が上洛して諸
事処理した。そして、「帝不徳にして地震あり諸民苦しみ、よって退位
を求めた為なり」と『皇運招胤録』ではしている

175 :論功行賞:2006/12/18(月) 20:57:22
論功行賞として京所司代小笠原備後守は加増されて老中職。
京町奉行松前伊豆守も江戸南町奉行、そして砂田重秀は勘定奉行
にと皆出世。『角川日本史辞典』の江戸期役職表を見ても一目で
判るような大栄転をした。しかし吉良だけは高家という特殊な家
柄ゆえか現ナマの小判の分け前は貰ったが、ただそれだけて゜
止まった。大目付への役替えも空手形となった。


176 :喧嘩両成敗で自滅させる:2006/12/18(月) 21:42:38
「わしはおりる。隠居して米沢へ行く」と言い出したのである。
今で言えば合法的であっても偽金作りの一味である。
これを元禄の怪物柳沢が放っておく訳はない。
「江戸を避けて上方での鋳造が、うっかり吉良の口から漏れ、
天下に広まっては御政道の為にならぬ。自滅させ処分する良き方法は?」
と眉をひそめると、今は老中の小笠原が、当たりに注意してから、
誰もが納得する方法として、「吉良殿は御長男が上杉十五万石の当主、
娘御は御三家紀伊様へ縁づかれておられる。よって誰か田舎大名をそそ
のかして、喧嘩両成敗で自滅させるしかござりますまい」と進言した。


177 :にっこり大きくうなずきあった :2006/12/18(月) 21:43:10
「今になって自分だけ抜けると言い出しても、表向きには圧力は掛けられま
せぬ。此方の手は汚さずに誰かに大義名分のつく....尤もらしい始末のやり
方はござりませぬか」と砂田も賛成した。そして江戸南町奉行松前の方へ顔
を向けると即座に、「ならば恰好なのが居りまする。本所材木座火番の節、
何時も自分が陣頭指揮をとるのが評判で、今は神田橋御門火消しの大役を拝
しておりまする浅野内匠頭でござる」
「町奉行松前伊豆守の申すは可。火事好きとは喧嘩早い者とも世人は見ま
しょう。来る三月の勅使接待役につけ、吉良殿を後見にすればよろしゅう
ございましょう」と小笠原も賛成し、

「我らが居合わさぬ好機を見計らい吉良殿を挑発するよう、大老の口から
申付けなされば、たかが三万五千石の小大名め感激し、仰せの通りにすぐ
さま勇み立って実行に移りましょう」と答えた。一同もにっこり大きくう
なずきあった。


178 :吉良さんの墓に小便:2006/12/18(月) 21:54:36
今日日,赤穂が善,吉良が悪と未だ信じている人がおおいというのは,日本人の
民度の低さと思われかねない。
吉良に何らかの落ち度があったということは,少なくとも史料からは全く立証で
きないのに(浅野側の落ち度は枚挙にいとまなし),ここまで悪者扱いされたの
では吉良さんは浮かばれない。毎年この時期になると,吉良さんの墓に小便をす
る奴までいると聴いたことがある。


179 :吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決:2006/12/18(月) 21:57:34
実際今裁判をやれば、吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決が下
るだろう。にもかかわらずその吉良を集団で殺した赤穂浪士を未
だに手放しで礼賛する日本人には、テロリズムを非難する資格は
ない


180 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:05:47
日本人が礼賛してるのはあくまでフィクションの浪士だろ。フィクション吉良は確かに悪役だし。
まー、ワイルド7みたいなもんだ。

181 :日本@名無史さん :2006/12/18(月) 23:44:20
>>166
>するとドラマなんかで
>多門伝八郎が
>罪を軽減して改易を免れるようにと配慮から
>乱心という長矩の供述を誘導しようとするのは
>フィクションとしても意味がない。?

フィクションとしても意味がないというか
フィクションとしてしか意味がない。

ただ前に井沢元彦の小説読んでいたら
乱心と認められたら連座刑が軽くなるみたいな話があった。
赤穂藩は潰れても親類縁者がとばっちりくらうことはなかったはずだと。
例えば>>116 の板倉修理の場合でも確かに親類は数日程度の謹慎で許されている。
正直これは盲点だった。

182 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:45:26
>>180
そうね。
そもそも『(仮名手本)忠臣蔵』てのは『元禄赤穂事件』を元として大衆受けするように創られた物語だもんね。

183 :吉良上野介は無実、冤罪:2006/12/19(火) 21:16:54
元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討
ち入った日、として知られています。実際は14日深夜から15日未明だね。
太陽暦では1703年1月31日にあたるらしい。両国駅からちょっと行った先に
「吉良邸跡」っていうのを見つけることができます。
さて歴史上のこの「赤穂事件」の真相については様々な説が言われています。
が、まーくが一番信用できると思ったのが、歴史作家:井沢元彦.氏の説。
『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』という小説中のストーリーで現代人が
忠臣蔵の謎を解いています。F[04.05.17]参照。ポイントを紹介しましょう。

1 江戸時代のような伝統・閉鎖社会では礼儀作法は簡単に変わらない
2 間違った作法を教えれば、浅野だけでなく吉良の責任問題(切腹)に
よって吉良が意地悪をしようがない

3 塩の製法技術に決定的な違いなどない
4 渡した賄賂が少なかった、という確認もできない。指導謝礼は裏金ではなく、浅野家の帳簿に残るはずの公金。
5 大石も「吉良が強欲に賄賂を求めた」という非難をしていない
よって吉良が不満を覚えたとする根拠がない

6 浅野内匠頭の「伯父or叔父」が先年乱心して全く同様な刃傷事件を起こしている
7 内匠頭自身も以前から神経症に悩まされている
点から、

→ 浅野内匠頭が乱心・錯乱して、全く恨みもない無関係な吉良上野介に斬りつけた。

取り押さえられた後、「俺は恨みがあってやったんだ」と口走ったが、
最近の同種の犯罪と同じで、吉良は全くの巻き添え被害者。
それどころか、加害者扱いされてる点では日本史上、最大の冤罪事件、
と言えるのでは。


184 :吉良上野介:2006/12/19(火) 21:28:08
今年も、忠臣蔵の季節が近づいてきましたね?

おれは、毎年赤穂浪士の事件のあった日が近づくたびに、憂鬱ないやな気分になるのである。

日本人は、おおむね常識的で、大局的な判断を間違えない国民だと思うが、この件に関しては、なぜか正義と悪の観念がまるっきり正反対である。
それも、その価値顛倒を、かれこれ200年も続けている。壮大な勘違いだ。

今日は、なぜおれがこのように考えるのかを書こう。

吉良氏は、足利将軍家の血をひく名門中の名門で、世が世なら、将軍になれたかもしれない家柄で、上野介はその末裔である

185 :吉良上野介:2006/12/19(火) 21:30:13
三河国の領地でも、長年にわたって善政を敷いており、地元の人には今でも名君として慕われているそうだ。

江戸幕府では、前代の名門が任じられる高家の筆頭として、有職故実に関する豊富な知識を買われて、主に儀式面の担当をまかされていた。
一方、浅野内匠頭は、広島の浅野家の分家であるが、本家自体が戦国からの成り上がりであるし、家柄から言ったら吉良家とは到底比べものにすらならず、石高も低く、大名ランキングは全国300諸侯のうち、下から2番目であったそうである。

江戸幕府の評価も、暗愚、愚鈍と最低であり、精神的に問題があったという説もあるくらいだ。
要するに、バカ殿だね。

その日は、朝廷の勅使を江戸城にお迎えするという、きわめて大切な儀式を行う日であった。
これが、江戸幕府にとって、どれほど重要であったかは、歴史をあまりご存知でない方でも、容易に想像がつくだろう。


186 :井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役:2006/12/19(火) 21:37:10
井上ひさし氏は、米沢市の隣町の出身である。
米沢と吉良は血縁で深く繋がっていることから、
井上氏は幼時より忠臣蔵に関心を持たざるを得なかったという。
吉良上野介義央(よしひさ)の妻富子は米沢藩30万石上杉定勝
の4女で時の藩主綱勝は兄であった。

綱勝には跡継ぎが出来なかったので、義央と富子の間に生まれた
子供(綱勝の甥)綱憲を養子に迎え家系をつないだ。
綱憲を上杉家に出したため跡継ぎがいなくなった吉良家では、
綱憲の2男(義央の孫)義周(よしちか)を養子にして家系をつ
ないだ。

 このように吉良家と上杉家は一体化していたので、吉良義央が
悪役化されると共に上杉家も肩身の狭いものになる。
井上ひさし氏は忠臣蔵の映画がかからない所として、吉良町と米
沢市をあげ、さらに忠臣蔵という物語の世界で悪役視されている
所(家)を、「一に吉良、二に上杉、三、四、が無くて五に田村」
と述べる。


187 :井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役:2006/12/19(火) 21:37:43
五に田村と言われているのは、一関藩主田村右京太夫建顕の江戸屋敷
で浅野内匠頭が切腹したことに関わる。当時建顕は奏者番という役目
で殿中に務めており、下命により内匠頭を江戸屋敷に預かり沙汰を待
っていた。即日、切腹、お家断絶という命が下り、法にしたがって内
匠頭は田村屋敷で切腹したにすぎない。ところが、赤穂浪士ではなく
義士と言わねばならぬといった立場の人の中には、「大名を庭先で切
腹させたのはけしからん、それは田村の落ち度だ」と言うような人が
いるのである。忠臣蔵という物語を愛好するのは結構だが、たとえ五
番目位の軽いものであったとしても、理不尽な悪役視されたのではか
なわない。


188 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:43:52
忠臣蔵はほとんど嘘でっせ。

189 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:19:15
切腹は無罪なんだよね
斬首との違いはそこにある
綺麗な腸を見せることで無実を証明するのが切腹
死を以て無罪を得るわけだから座敷で行う

浅野は基本的に死刑
大名だから切腹の形は採らせたが
庭で腹を切るというのは切腹であって切腹でない
有罪だから御家は断絶になってしまう

義士は切腹
腹を切って無罪を勝ち取ったため各自の家は続く
大石も三男が家の再興を許されたし

190 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:34:23
無罪じゃないだろ。無罪なのに死刑って冤罪じゃん。
自分で不始末の責任を取ったからこれ以上は不問にする。って事なんじゃないの。
中国にも「刑は士大夫に上らず」ってあるじゃん。

191 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:53:16
>>185
吉良が三河の領地で善政を敷いた?
吉良って三河の領地に何回下ったの?

192 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 07:29:46
>>189
浅野も大石も名目は切腹だったけど事実上の打ち首
手を脇差しに差し出した瞬間に介錯された

193 :切腹どころか:2006/12/20(水) 08:21:15
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。


194 :田村建顕:2006/12/20(水) 08:26:01
田村建顕は、外様なのに綱吉に気に入られ、奥詰・奏者番にのし上がった男。
当時の本家伊達綱村は柳沢の上屋敷が消失した時、突出した見舞い品を届け、
吉保の歓心を買おうとした。
伊達宗春も院使饗応役を無事勤めあげている。
伊達一門は優等生だったわけで、それだけすりより、ごますりに長けたところが、
顰蹙を買い、悪意の宣伝がされてるんじゃないか。
城中での取調べ中ならともかく、切腹の場に及んで浅野が何を叫ぼうが意味がない。
田村も庄田も綱吉や吉保の傀儡なんだから。


195 :「これは上意だ」(=将軍の命令):2006/12/20(水) 08:27:21
庄田は幕府からの上使として目付の大久保権左衛門、多門伝八郎らと
ともに田村邸を訪れ、将軍の意向を告げて浅野切腹の沙汰を宣告した。
しかし庄田の運命が狂い出すのはこのあたりからである。
大名・旗本の切腹は座敷が慣例でそれ以下の小者が庭先とされていた。
そのため田村家でも座敷で準備に取りかかったが、
庄田は「切腹の座は庭先に用意するように」と命じた。
これには副使として庄田に従っていた大久保や多門も反対し、
「浅野殿は殿中で大罪を犯したとはいえ、れっきとした5万石の
大名です。庭先の切腹など有り得ません」と強く詰め寄った。
しかし庄田は静かに「これは上意だ」とかえした。
「上意」(=将軍の命令)


196 :浅野切腹否定説:2006/12/20(水) 08:27:54
ここまで幕府が略式に、しかも急いで切腹を行なったために
「浅野切腹否定説」まで飛び出る始末。
これは田村邸に到着した浅野はその場で何者かによって暗殺された
というのである。そのため切腹したという既成事実を作るために切
腹を急いだという説。こうした説が出るまでに刃傷事件発生から切
腹までの時間は短かった。もちろん庄田は幕府、ことに老中や三奉
行たちの意向を忠実に果たしたまでのことであった。
こうして5万石の大名浅野内匠頭は田村邸の庭先で切腹した。


197 :庄田に責任転嫁:2006/12/20(水) 08:29:48
翌15日に浅野家本家の芸州広島藩浅野家から田村家に対して
「何故庭先で切腹させたのか」と厳しく抗議され、各方面から
も幕府の処置に対して抗議の声が寄せられるに至った。
こうなっては幕府としても黙っていることは出来なくなり、
あの処置は大目付の庄田下総守の手落ちであったということにして、
事件から4ヶ月後に幕府は庄田に対して「指図上意に叶わざる
故・・・」という理由で大目付を辞めさせられた。
今でもよくある事例だが、幕府は大きな組織の誤りの責任を実際
の当事者に被せて逃れてしまったのである。


198 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 08:41:56
>>185
善政って
税金安くするとか
黄金堤のような工事を地元負担少ないでままやるとか
そういうこと。

その原資は上杉にたかったわけで、上杉から見ればえらい迷惑な爺


199 :忠臣蔵新聞 :2006/12/20(水) 08:48:28
老中の秋元喬朝さんと若年寄の加藤明英さんの前で、大目付の庄田安利さんが「滞りなく
内匠頭さんの切腹を見届けました」と報告しました。
 目付の多門さんらが口をそろえて、内匠頭さんの切腹の場所について私たちは絶対に納得
できなかので、その様に申し出た。庄田さんは『さっき絵図面によって承知している』という。そ
のうえ言い争いになるので一通り意見をいって切腹も終わったが、ことのほか粗略の扱いにつ
き、一通り申し上げたが、夜も更け先刻より柳沢さんも退出せず待っているので、将軍に申し
上げるにはあまりにも遅くなるので明日登城して申し上げなさいということになった。


200 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 11:36:46
200


201 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 11:46:18
>>198
なるほど。それは自領に1回しか下ってなくても出来るの?

202 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:51:41
>>201
江戸にいても指示や命令はだせるんだから行く必要ないんじゃないの。

203 :哀れなるは吉良じいさん :2006/12/20(水) 21:19:08
気の利かない上に癇癪持ちの浅野の乱心で斬られて
今度はそれを根に持った赤穂の家臣らに嬲り殺されて
しかも後世では完璧に悪人に仕立て上げられて

哀れなるは吉良じいさん


204 :吉良上野介義央公が地元では如何に名君であったか :2006/12/20(水) 21:20:01
吉良上野介義央公が
地元では如何に名君であったか。川崎出身の父はここ愛知は吉良町華蔵寺を訪れた際そう感じた
と言う。悪役は吉良公で赤穂浪士等が英雄とされる価値観が正反対になったと。ここには義央公
を含む吉良家の名代がまつられている。公の功績は例えば黄金堤(こがねつづみ)。吉良を流れる
矢作古川が度々氾濫を起こすため堤防を造り上げた。その他の活躍は数知れず。斯様な名君が何
故に仇扱いされて討たれる運命となったのか。父曰く偏に浅野内匠頭が愚将であったと。如何に
吉良公に恨みがあろうとて殿中で刀剣を振り回すようなみっともないことを行って家や家臣を路
頭に迷わせた愚か者の仇討ちをしてやる必要が何処にある。地元の文士尾崎氏は如何に赤穂の四
十七浪士の行いが不条理であったかを嘆く。


205 :尾ア士郎:2006/12/20(水) 21:20:59
小説『人生劇場』で名高い尾ア士郎は明治31年(1898)
吉良町横須賀に生まれました。大正末期から昭和にかけて文壇
で活躍した尾ア士郎は、吉良公や仁吉の生き方に深く傾倒し郷
土の風土と人情に深い郷愁を示したといわれています。
現在、尾ア士郎の生誕地には生誕地の碑が、福泉寺には墓と文
学碑があります。


206 :藩札:2006/12/20(水) 21:46:19
何故、一方的に吉良上野介が悪役に仕立てられ、討入をしかけた浪士た
ちは義士と仰がれるまで人気が高まったのだろうか……。その理由の一
つに、内蔵助が武士同士の義理は欠いても、商売上の信用を守ったとい
うのがある。当時、大名各藩では藩札という一種の兌換券を発行してい
た。これは、藩の財政の都合から現金にかえて発行したもので、いわば
現金又は現米の預かり証のようなものであるが、元禄時代には既に大名
は窮乏していた為、いったん発行した藩札をなかなか換金しようとせず、
踏み倒す事さえ稀でなかった。だから、藩札の信用は極めて低かったの
である。

207 :藩札:2006/12/20(水) 21:47:10
赤穂藩は窮乏していたわけではないが、当時商取引の支払いが
年2回の節季制度だったから、その端境期には現金が不足するの
でそれを補う為に発行していた。ところが、元禄14年に浅野内
匠頭が殿中で刃傷事件を起こした。これを聞いて大石内蔵助が
まず何をしたかというと、藩札の回収を命じたのである。一般
に藩札は領内だけに流通していたが、当時赤穂藩札は信用厚く
塩流通圏一円に出回っていた。特に大坂・京都等の商人は藩と
の連携を深める為にたくさん持っていた。それを全て回収した
のである。内蔵助は浅野家再興の為には商人や領民の信用が何
より大事だと考え、徹底的に藩札の回収を行った。そのため換
金されずに残った藩札は、現在わずか2枚しか発見されていない。

208 :藩札:2006/12/20(水) 21:47:49
他藩の藩札は、例えば明治維新等の際に、藩が無くなったのをい
いことに何万枚も紙くず同然で残されたりした。また、藩が倒れ
なくても、財政危機に陥ると幕府の了解を得て藩札を無効にし、
たまりにたまった債務を一掃したりした。だから、赤穂藩が残し
た藩札2枚というのは極めて珍しい例なのだ。同藩取潰しの為、
幕府から旗本榊原采女(うねめ)が出向いて赤穂城を受け取った時は、
藩札を回収した後だったので、現金はわずか70両しか残ってなかった。
幕府は赤穂藩の現金回収に失敗してがっかりだったが、商人や民
衆は赤穂藩の誠意に対する感謝の念を決して忘れなかった。


209 :藩札:2006/12/20(水) 21:49:02
大坂で「仮名手本忠臣蔵」の芝居をやると必ず大入りになった
といわれている。大坂商人が感謝の気持ちから、席を買い切っ
て空席を満たしたからなのである。赤穂浪士の人気の秘密は、
民衆の信頼を裏切らなかった"残った藩札わずか2枚"の為だっ
たのである。

210 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:50:15
吉良邸討ち入りの首謀者は浅野内匠頭未亡人・瑤泉院だった・・・。

ttp://www.tv-tokyo.co.jp/chushingura/index.html

211 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 15:12:53
>205
義央公
仁吉
尾崎士郎
が吉良の三大有名人です。

212 :武器対等の原則:2006/12/21(木) 20:33:55
喧嘩両成敗の原則に反しているという反論もあるかもしれないが、刃物をもっていきなり
  切りかかる行為は喧嘩ではない。喧嘩というのは、互いの武器が均衡していることが
  必要である(武器対等の原則)。したがって、喧嘩両成敗という理屈も成り立たない。


213 :江戸城を襲い、華々しく散るべきだった:2006/12/21(木) 20:40:10
裁定をしたのは幕府であり、浅野内匠頭に切腹を命じ、命を奪ったものは幕府である。
  この裁きが不公平で不満というなら恨むべきは不公平な裁きをした幕府である。
  ところがあろうことか、赤穂浪士は吉良を殺害したのである。赤穂浪士は裁定が不満だと
  言うなら江戸城を襲い、華々しく散るべきだったのである。


214 :喧嘩両成敗:2006/12/21(木) 20:42:41
武家法制史的に「喧嘩両成敗」の概念を確立させたのは、貞和二年発布の室町幕府法
追加法十五条並びに二十六条である。鎌倉時代にも原形となる概念は存在したが、これは
執行力を伴わないものであるからここでは考慮しない。
 この法令では、攻撃者側は道理にかかわらず有罪(所領没収・流罪)、被攻撃者側は
対処のしようによって無罪から攻撃者側と同等の処罰までケースバイケースで処理すると
規定されている。
 以後、室町幕府はたびたび追加で法令を発布してことこまかく規定を定めていくが、基本の
大原則は変わっていない。すなわち、
「攻撃者は理由にかかわらず、公権力が責任をもって処罰する。
 被攻撃者も、自衛の範囲を逸脱して応戦した場合は喧嘩と見做して処罰する」
というものである。
 室町幕府の権威が失墜するに伴い、幕府法もまた有名無実のものとなるが、「喧嘩両成敗」の
思想は公権力の主体が幕府から諸大名家に移る形で存続する。

「将又あひて取かくるといふとも、令堪忍、剰被疵にをいてハ、事ハ非儀たりといふとも、當座
をんひんのはたらき、理運たるへき也、兼又與力の輩、そのしはにをいて疵をかうふり、又は
死するとも、不可及沙汰のよし」(今川仮名目録)
「若一方手出於仕者、雖為如何様理、其者可行罪科事」(元親百か条)

 他の武家法制文献の規定も大同小異だから省く。要するに
「先に攻撃をしかけた側(加害者)が理由を問わず制裁を受けるという前提のもとで
 攻撃を受けた側(被害者)の応戦を制限する。」
これが現実に存在した「喧嘩両成敗」の趣旨に他ならない。
 留意すべき点は、この攻撃があくまで実力行使を伴ったものと規定されていることである。決して
「揉め事はどちらも等しく処罰する」などという安直なものではないのである。
 そして、こうした「喧嘩両成敗」の思想は江戸時代に至るも何ら変わらない。そのことは
江戸時代に起こった武家の刃傷事件の判例を確認すれば明らかである。


215 :「喧嘩両成敗」 には該当しない :2006/12/21(木) 21:23:24
殿中における刃傷事件というものは、過去にも例がありました。
そのいずれもが、刃傷を受けた側には不問としていました。
なぜならば、いずれの場合においても刃傷を受けた側は、即死または無抵抗で
一方的な刃傷であったからでした。

浅野内匠頭の場合においても、吉良上野介は無抵抗でした。
つまり綱吉の裁決は決して片びいきなものではなく、赤穂藩士の主張した
「喧嘩両成敗」 には該当しないものとなります。


216 :喧嘩両成敗法:2006/12/21(木) 21:25:41
喧嘩両成敗法は、戦国時代など非常時における内部秩序維持の
必要に迫られての窮余の策です。
幕藩体制が安定し、法の支配がより徹底されていた元禄時代には、
すでにその存在理由はなくなっていたはずです。
にもかかわらず、 幕府が喧嘩両成敗らしき方式をもって双方を
処断したのは、幕藩秩序が封建社会を基礎としている以上、
情誼的な君臣関係をないがしろにできなかったからにほかなりません

217 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 21:40:55
>武家法制史的に「喧嘩両成敗」の概念を確立させたのは、貞和二年発布の室町幕府法
>追加法十五条並びに二十六条である。

これはいわゆる故戦防戦法のことだね。
故戦防戦法は土地争いの裁定ルールで
故戦側と防戦側の区別を前提にして
原則的に故戦側の罪を防戦側よりも重くした。
このルールを争いごと全般に拡大したのが喧嘩両成敗と解釈しておけばだいたい間違いない。

218 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 12:50:30
赤穂は歴史を偽造する。

219 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 21:25:56
>>214
どこかで読んだ覚えがあると思ったら
>>6 のスレからのコピペか。

http://tv8.2ch.net/test/read.cgi/kin/1098198061/591-680
ここのあたりの流れすげえww

220 :『喧嘩両成敗の誕生』清水克行著:2006/12/22(金) 21:50:21
日本人なら当り前のように使う「喧嘩両成敗」という言葉。
ケンカをした両者に対して、その正否を論ぜず同等の処罰を与える
――というこの法は、考えてみればずいぶん乱暴な法ではないでしょうか
実は「喧嘩両成敗」という仕組みは日本以外ではほとんど例が見られないといいます。
では、この独特な観念はいったいどこから生まれてきたのでしょうか。
著者は、中世の日本人が、我々が考えている以上に荒っぽく、
損害を受けた際には復讐に訴えるのを正当と考えていたこと、
自らの利権を守るためには、自力で戦うしかないと考えていたこと、
それが当時の社会の紛争を激化させてしまう大きな要因となっていたことに着目します。
そこで、戦国武将が秩序を回復するための緊急避難的措置として、
「喧嘩両成敗」の法律をつくりあげていくという過程が細かに記されます。


221 :『喧嘩両成敗の誕生』清水克行著:2006/12/22(金) 21:54:14
喧嘩両成敗と裁判というのは、本質的に相矛盾するもの。
喧嘩両成敗は戦時ないし準戦時の特別立法であって、
平時の法令ではなかった。戦国大名にしても、織田・豊臣
政権にしても、また江戸幕府においても、最終的な目標は
喧嘩両成敗なんかではなく、公正な裁判の実現にあった。
これによって自らの支配権を公的なものに高めることを目
ざした。なぜなら、喧嘩両成敗は、権力主体からすると弱
さの表現でしかなかった。むしろ、喧嘩両成敗法を積極的
に普及させ、天下の大法(一般的な法習慣)にまで高めて
いったのは、公権力の側ではなく、一般の武士や庶民たちだった。
 この本を読むと、いかに日本人が昔からケンカ(争闘)
を好きだったか、いくつもの実例が紹介されていて、驚く
ほどです。こんな事実を知らずに、日本人は昔から平和を
好んでいた民族だなんて言わないようにしましょう。
日清・日露戦争そして第二次世界大戦を起こしたのは、
私たちの祖先の日本人だったのは歴史的な事実なのです。
これは自虐史観なんていうものではありません。

222 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 00:50:41
>>219

そこの
http://tv8.2ch.net/test/read.cgi/kin/1098198061/619
>ただ最初に言う事は、
>火病る、火つき、燃料投下、煽り、
>俺の最も嫌いな言葉が多過ぎる
>何を考えているのか
>2chの連中は不愉快な奴らだ

  ↑
自分でいっておいて
しっかり火病りまくってるのが笑いどころだな

223 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:36:35
仮に吉良が浅野をいびったとしても、あの時代に指南料を払うのは当然の礼儀で、
藩主が気の利かないキティでも、江戸藩邸詰めの重役たちがしっかりしていて、
ちゃんと礼儀に適ったことをしていれば防げた事件です。
主君が主君なら家臣も家臣。100%浅野側が悪い。

224 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:55:49
赤穂塩は有名だが、吉良にも塩田があった。
塩戦争じゃなかったのか? つう説はどうなったの?

225 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:52:01
あの当時の吉良に塩田はあったの?
往々あることだけど、後の時代の地域イメージが投影されてない?

226 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:56:18
【赤穂浪士は悪役】吉良側に立った忠臣蔵を作ろう!
http://tv8.2ch.net/test/read.cgi/kin/1098198061/

817 名前:名乗る程の者ではござらん 投稿日:2006/12/11(月) 11:57:08 ID:ShHGIZQQ
スレ違いだけど、仁義無き戦いのメンバーで作って欲しかった。

吉良:金子信夫
大石:菅原文太

以下略

821 名前:名乗る程の者ではござらん 投稿日:2006/12/11(月) 21:40:23 ID:???
>>817 金子って吉良役なかったかな〜?
 吉良>なんじゃあ、おどれらは。
 大石>首もらいますけん、ちぃ〜と
      辛抱してつかあさいや・・・

227 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:27:33
>225
饗庭塩は江戸時代どころか
寛正年代ぐらいからあった。





228 :吉良塩と赤穂塩:2006/12/23(土) 19:36:07
吉良家は鎌倉時代以来、三河国(現愛知県)吉良庄を領した足利氏一族と
いう名家である。吉良は矢作(やはぎ)・古川の三角州にある土地で、
後には米作の安定した農地になるが、当時は川の氾濫から米の収穫だけ
では生活にならなかった。そこで、海岸に塩田を作り、塩釜法による
製塩を行い、塩の販売で収入を図った。それまで江戸では、千葉県の
行徳(ぎょうとく)で焼いた塩が使われていたが、吉良塩の方がはるか
に品質が良いので盛んにもてはやされた。この吉良塩に対抗したのが
赤穂塩だった。


229 :吉良塩と赤穂塩:2006/12/23(土) 19:37:02
浅野家は元々、芸州(現広島県)浅野家の支藩で、常陸国(現茨城県)
笠間を領していたのだが、幕府の命令で赤穂に国替えさせられる事
になった。筑波山の盆地である笠間から、瀬戸内海沿岸の赤穂へい
きなり行っても、藩の経営の仕方がわからない。そこで、吉良家に
教えを乞うて、塩釜法を学んだのである。内匠頭や上野介の先代の
時のことだ。この塩釜製塩法を赤穂で成功させたのが家老である大
石内蔵助の先代で、良雄の代になってようやく塩の生産量が上がった。
塩の販売は、ふつう藩内の商人に任せるのが例だが、赤穂藩は家老
自ら先頭に立って積極的商法を展開した。堺・大坂・京都に赤穂藩
の販売出張所を設け、大石内蔵助は販売担当重役になって巡回する
のである。こうして上方での販売は成功を収めた。やがて、生産量
がどんどん上がるのに対して販売が頭打ちになってきて、塩がだぶ
ついてきた。

230 :吉良塩と赤穂塩:2006/12/23(土) 19:37:52
そこで、値崩れを防ぎ、生産量を落とさない為に、内蔵助は江戸
に販路を広げる事にした。菱垣廻船で塩を江戸に運び、塩問屋に
町売りをさせたが結果が思わしくない。三河の吉良塩が市場を独
占していたからなのだ。だが、内蔵助は一計を案じて将軍綱吉に
赤穂塩を焼塩にして献上した。将軍が朝に歯を磨くのに使っても
らったのだ。将軍御用達となると宣伝効果は抜群だった。
上方に対してコンプレックスの多かった江戸っ子にとって、
将軍のお膝元が唯一の自慢の種だから、将軍御用の塩ならと赤穂
塩の売行きがぐんと上り、かわりに吉良塩がおもわしくなくなっ
たのである。その結果、赤穂藩は財政豊かになったが吉良家は経
営危機に陥った。しかも、吉良家にとっては、塩釜製塩法を教え
たばかりに、恩を仇で返されたわけで当然面白くない。
ここに、浅野家と吉良家の確執が始まり、赤穂塩販売に対する吉
良家の妨害から江戸刃傷沙汰となり、忠臣蔵がはじまったのである。


231 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:02:42
>>223内匠頭長矩は、饗応役は2回目だし前回とやる事同じだから指導料を払わなかったんだろうな。
>>230恩義ある吉良家には、売り上げのなかからリベートを払ってもよいのにな。

232 :歯磨用焼塩:2006/12/23(土) 21:27:52
昔からの塩も工夫され、商品として売られていた焼塩である。
塩を壷に入れて焼いたもので、そのまま使うものと売りやすくするため
焼塩を型に入れ固めたものが売り出されていた。徳川家康が江戸に入
府したときに、江戸庶民の為に塩田(千葉県行徳)を拡張して供給させたが、
徳川家の使用する塩は三河吉良(静岡県吉良市)吉良上野介義央の所領
から献上する饗庭塩が使われ、江戸の一流の町人や有名料理屋などもこ
の塩を使っていたという。さて、正保2年(1645年)浅野長友は常陸
笠間で五万五千石を領していたが嫡子長短のとき藩州赤穂に転封になっ
た山国の大名が海に面した領地に行くに際して、藩の経営をどうしたらよ
いか苦慮した結果、三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い赤穂
の塩田の開発に努力した結果、赤穂の塩は品質、味、共に良いと評判を得て、
大阪、京都、堺など名声を博して食用以外に歯磨用焼塩をつくり売り出した。
当時将軍は毎朝七時に寝所を出る。そして御手水の間で畳の上に「毬子」
を敷いた上に座って顔と歯は自分で洗った。歯は奥詰口中医<「赤穂の塩」
と「吉良の塩」は歯磨剤の分野で商売仇となる。>の調合した歯磨粉、
焼塩、細紛した松脂の三種類を小皿にのせたものを、その時の気分で好
きなものを選んで房楊枝につけて磨いた。その後、髪を結い袴をつけ
仏間を拝し朝食をとった。

233 :歯磨用焼塩:2006/12/23(土) 21:29:09
この将軍が使う焼塩として赤穂の塩が五代将軍綱吉に献上されるに及ん
で江戸でも有名なブランドとなった。赤穂の塩がお上御用達となると、
困ったのは、行徳と吉良の塩である。行徳の塩はまだ江戸庶民用だから
問題はないが吉良の塩は焼塩として歯磨用に使われていたので、赤穂の
焼塩、塩の進出は商売仇の出現を意味した。このような状況下で元禄十
四年浅野長短に二度目の勅使接待役が廻ってきた。この接待役の指導に
あたるのが吉良義央であった。両家に経済上の対立があるとき、吉良の
浅野に対する感情は徒ならぬものがあり何か触発するものがあると不慮
の事態を引き起こすことは、至極当然である。元禄十四年三月十四日 
巳の刻(午前十時半)殿中、松の廊下で浅野長短が吉良義央に刃傷に
及んだ。後日、元禄十五年十二月十四日赤穂浪士の吉良邸討入りがあっ
た。その中に加わっていた堀部安兵衛、大高源五らが歯磨粉や歯磨用焼
塩を商った有名な芝の兼康祐見の看板を書いたり大高源五の弟である口
中医の小野玄人の金看板を書いたのも何か因縁があったのかも知れない。

参考文献 東京歯科大学名誉教授 長谷川正康著


234 :塩の価値:2006/12/23(土) 21:42:26
中国では紀元前7世紀に政府は塩の生産を規制し、各人の購買量の
下限を定めた。このことから塩の流通が紙幣の創出に結びつき、
紙幣で一定量の塩と交換できるようにして、紙幣の価値を塩で保証
した。他の国々でも物々交換の仲介品として塩が使われた。
13世紀にマルコ・ポーロは偉大な汗(カン)の時代に使われていた塩
の印章について書いており、山の中では塩のコインは大きな値打ち
を持って通用し、その地方では近年までそのお金が使われていたと
いう。エチオピアでも一部の所では1900年代の始めまで「アモウリス」
と呼ばれる塩の小さなタブレットが使われていたと言う。
  古代ローマでは兵士の給料に塩が支給(サラリウム・アルジェ
ンタム)されており、サラリー(給与)と言う言葉は由来している。
兵士はその塩で他の商品を得たことから、塩が貨幣的役割を果たした。
塩はあらゆる商品の価値を測る尺度であった。「彼は彼の塩ほどの
値打ちもない」とは奴隷を買うときの言葉で、その昔、人間の価値
を塩で判断したことがあった。20世紀でも花嫁をもらうのに塩をい
くら出す、と言うことが残っていた。


235 :「塩梅」という言葉:2006/12/23(土) 21:45:34
塩は、全ての味のベースとして重要な物資であり、調味の加減を表す
「塩梅」という言葉からもわかるように、古来、基本的な調味料は塩
と梅酢であった。江戸時代にはいって、様々な調味料が普及したため、
塩は直接の調味料としてより、漬物、味噌、醤油の原料として大量に
生産・消費されるようになった。広山堯道氏の試算によると、江戸時
代末期における全国の塩生産量470万石のうち、醤油醸造用約33万4000石、
味噌用49万4000石、漬物用125万石となっている。


236 :salt 「塩」を使う慣用句:2006/12/23(土) 21:48:28
I'm afraid we may have few politicians worth their salt.
残念ながら給料に見合う働きをしている政治家は少ないようです。
Do you think this textbook is worth its salt?
このテキストそれなりの価値があると思いますか。


給料(salary) の語源がラテン語の塩(sal) から派生した 
salarium であるというのは比較的知られています。 
この慣用句も salt を salary に置きかえれば意味は明白になるでしょう。


237 :土俵に塩:2006/12/23(土) 21:52:38
なぜお相撲さんは取り組の前に塩を撒くのでしょう。
相撲は昔、豊作を祈る祭りとして始まったもので、その土俵は
神聖な場所とされ、取り組みの前に清めるしきたりがありました。
その土俵を清めるのに昔から神聖なものとされてきた塩が使われ
ていたのです。また、塩の滅菌作用により、お相撲さんが転んで
怪我をした時も、傷口からばい菌が入るのを防ぐ役目もしています。
相撲に塩はかかせないものとなっています。

238 :清め塩:2006/12/23(土) 21:55:19
京都府宮津市が全戸配布する広報誌などで
「葬式での清め塩は故人の尊厳を冒涜(ぼうとく)することにならないでしょうか」
などと廃止を呼びかけたところ、
市民から「行政が口出しすべきことなのか」と苦情が出ている。
「清め塩をすることは死者をけがれた存在とみなしている」というのが市側の言い分だが、
宗教とかかわる葬式への“介入”に「政教分離に触れるのでは」と指摘する専門家も。
塩論争はさらに波紋を呼びそうだ。
同市教委は平成16年、市民の意識調査で「葬式には清め塩を出す」とした人が56・6%に上ったことが「意外に多かった」(市教委)として、“啓発が必要”と判断。
昨年6月から市広報誌(毎月約8600部発行)に「人権の小窓」というコーナーを設け、
「今まで親しんできた人を、亡くなった途端に、けがれた存在とみなすのは
人間の尊厳を冒涜することにならないでしょうか」と否定的な見解を示した。
さらに、市内の僧侶や葬儀関係者に意見を聴いたうえで、ほぼ同じ内容のチラシを作り、
昨年秋に全戸配布。
火葬申告に市役所を訪れた市民に慣習を廃止するようアドバイスも始めた。
申告の際に配られる専用チラシでは「清め塩の風習をなくしましょう」と、
廃止を呼びかけている。
市民から市役所に抗議の電話も。
同市内の男性は「日本人に受け継がれてきた風習で、市役所が口出しすることではないと思う」と批判している。
同市教委は、「市民に因習にとらわれない生活を勧めたい。
廃止を強制しているのではなく、あくまで再考のきっかけとなれば」と説明している。


239 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 06:32:48
長崎喧嘩騒動を映画化して欲しい。

240 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 11:57:00
>>223
当時の江戸詰め重臣は殿恋人と言う以外能がなかったからな。
大石内蔵助がいれば内々にまとめていたろうに・・・

241 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:20:20
>>223
元禄11年、同じく勅使饗応役となった亀井隠岐守茲親も義央から激しい
イジメを受けて、耐えかねて刃傷に及びそうになったのを家老の多胡真蔭
が察して茶菓子の中に金一箱を入れて吉良本邸へ持参して無礼を謝ったら、
翌日から義央の態度が急に優しくなったという話もあるからな。江戸の浅野
の家臣が気が利けば大事にならずにすんだな。

242 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:40:32
というか、授業料を払わなければ吉良先生も怒るよ

243 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 15:23:40
>>241
その話は
仮名手本忠臣蔵の加古川本蔵のエピソードの丸パクリだし。


244 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:29:17
>>243
吉良義央
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
> ちなみにこの時の話がモデルとなって歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の
> 桃井若狭之助(亀井?親)と加古川本蔵(多胡真蔭)が誕生したようだ。

亀井茲親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E8%A6%AA
> 『仮名手本忠臣蔵』に登場する桃井若狭助と加古川本蔵は茲親と多胡
> をモデルにしたものである。

『仮名手本忠臣蔵』がパクリ。

245 :唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪:2006/12/24(日) 19:12:56
細川邸での処刑で、実際に吉良邸へ抜刀し不法侵入したのは、
表門からの奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、片岡源吾、富森助右衛門
の四名である。
裏門からは赤埴源蔵で合計五名のみなのである。
他の十二名は武闘派ではなく、ただ戸外にあって上野介を討ち取る
までは邸内に一歩も入っていないで、塀の周りに立っていたきりな
のである。
だから、いくら大公儀の権勢をもってとはいえ、柳沢吉保が実際に
人を殺した者達と唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪にす
るのは酷いというのが、当時の同情が集まった処だろう。

246 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 19:32:11
>>244
1748年の『仮名手本忠臣蔵』以前から亀井のエピソードが明らかに存在していた(文献などで確認できる)なら
『仮名手本忠臣蔵』が元ネタにしたことで間違いない。

しかし
最初に桃井と加古川の元ネタが亀井だといいだしたのは
ずっと後の時代の蜀山人(戯作者)。
『仮名手本忠臣蔵』がパクリというなら
1748年以前から亀井のエピソードが存在していた証拠を説明できるよね?
wikipediaはソース書いてないけど。

だいたい
元禄11年の勅使饗応役は亀井にとって三度目。

247 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 19:47:12
亀井の話の出典は津和野藩の公式記録には出てきません。
「多胡主水伝」と「半日閑話」に出てきます。

「多胡主水伝」著者江木鰐水・文化7年(1810)生
「半日閑話」著者大田南畝・寛延2年(1749)生

「仮名手本忠臣蔵」作者竹田出雲・並木千柳・三好松洛・寛延元年(1748)初上演

248 :津和野小学校 Home Page:2006/12/24(日) 19:56:57
昔、津和野の殿様の亀井茲親が、偉い人にある仕事を言われました。
その仕事のやりかたを吉良上野介に教えてもらおうとしましたが、
その吉良上野介はその仕事のやりかたをちゃんと教えてくれなかった
ので亀井茲親は、おこりました。それを聞いた家来が、けんかをしては、
たいへんだと思い、下に小判をぎっしりしきつめた源氏巻をおくって
仲直りした、という説があります。


249 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 20:06:59
蜀山人が源氏巻の販促のために作った話だろ?
平賀源内の土用のうなぎみたいなもん。

250 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 20:41:55
内匠頭阿呆杉。 以上。

251 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:10:22
>>250
その阿呆杉のおかげで飯が食える人もいる。

252 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 22:11:27
>>249
蜀山人嘘つかない


253 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:47:56
決行を思いとどまり
未遂とすらいえない状態の
亀井茲親のエピソードが
(ニュースになりそうもないできごと)
世に知られるわけがなく
戯作者も知りようがないな。

あれが仮名手本のモデルというより
仮名手本成立後の創作された可能性高い。

254 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:01:01
慶応大のある国文学者が言ってたけど
忠臣蔵関係の回顧談や逸話伝やそれらしい文献とかも
創作箇所とか捏造ものが非常に多いので
取り扱いには注意を要する・・・と。

255 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:48:12
>>247
仮名手本の定本成立前に先行する作品がいくつかある。
それらの諸作品のなかに桃井ー加古川主従に相当するエピソードが
おりこまれているかどうか検討しないと。。。

256 :244:2006/12/25(月) 12:54:56
>>246
> 1748年以前から亀井のエピソードが存在していた証拠を説明できるよね?

知らねーよ。
wikipediaが『仮名手本忠臣蔵』がこの話をモデルにしたと書いているのでそう書いたまでだ。
wikipediaが間違っているならお前が書き換えろよ。
直るの楽しみにしてるぞw

257 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 15:48:02
>>256はなんで日本史板にいるのかな?
にほんしにきょうみのあるしょうがくせいなんですか?

258 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:48:20
wikipediaの受け売りかよ!
m9(^Д^)プギャー
シッタカブリツッコマレテギャクギレミットモネー

259 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:51:51
>>256
君も歴史好きならもっと探求心を持とうよ!
wikiの鵜呑みより、古今の色んな本を読んで
いろんな説を知り、自分でも考えていくという姿勢をもとうね!

>>255
寛延元年に大坂竹本座で初演される『仮名手本忠臣蔵』までに、
先行して制作されたであろう演芸演目を数えてみたけど、
元禄十六年の『曙曽我夜討』を嚆矢として23本ほど。
(増訂赤穂義士事典)を参考にしたので、
ほかの資料本や識者によって色々と説もあるかと思いますが
20本前後はあると思ってよいのでは。



260 :沢山の忠臣が集まった倉庫:2006/12/25(月) 20:52:09
沢山の忠臣が集まった倉庫みたいなものと、忠臣蔵の名前を付ける

261 :不忠臣蔵 :2006/12/25(月) 20:59:25
不忠臣蔵   井上 ひさし・著

元禄15年12月15日払暁、華々しき赤穂浪士の討入りに行けなかった、
行かなかった不忠不義の士19人の理由と言い訳。
忠臣蔵の先入観を塗りかえる第20回吉川英治文学賞受賞作

262 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 21:23:18
>>255
仮名手本忠臣蔵よりも前の芝居や講談に
桃井−加古川のエピソードがあったとしたら
よけいに作り話じゃんてことになるんだが。
ちゃんとした文献(日記とか)に亀井−多胡の実名で出てくれないと。

263 :でっちあげの与太話が多い:2006/12/25(月) 21:24:12
「赤穂浪士の話には、どうもでっちあげの与太話が多い。
作家は荒唐無稽な事を綴る反面、これが真実だというのも努力し
骨を折って見つけておかねばならぬ」と書いたのは太田南畝である。
さらに南畝は「まやかし物の筆頭は<芝泉岳寺中口上書>とか
<泉岳寺覚書>と題され、『浅吉一乱記』や『江赤見聞記』の中に
入れられてあるものだが、呆れ果てて何もいえもせぬ」とその
「半日閑話」の著作でずばり名指しで出鱈目ぶりを指摘している。

曲亭馬琴も、やはり偽書とはっきり決めつけていた<河田藤助物語>
のごときは、(無子無妻だった筈の武林唯七の妻と称して、討入りの
手引きをしたと女忠臣蔵では書かれてある女が、実は堀部安兵衛の
娘であったと、住まっていた長国寺には今も由来書が伝わり、
その子孫がいて、門前で花売りをして人々に本当にされている)と、
はっきり書いている。さて、江戸時代にどうしてこうした好い加減
な講談種には都合のいい俗書ばかりが次々と生まれたのかといえば、
訳がある。

264 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:18:33
>>263
だから、254も読めや。

265 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 13:01:41
製塩法を教えてもらった恩を仇で返すわ。電柱で後ろから斬りつけるわz。

浅野は人間のクズやな。

266 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:06:41
浅野大学がいい歳して部屋ずみに居たから変に大石達が御家再興に一縷の希望を見出だした。
大学をとっとと養子に出しとけばよかったんや。
そうすれば無駄な努力をしないですんだ。

267 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 21:26:17
深夜に老人を襲って殺す卑怯者集団

268 :赤穂鬼畜:2006/12/26(火) 22:06:58
吉良側の生存者の証言があって,
襲撃のとき「ほくりほくり」という音が聞こえたそうだ.
その日, 家来たちは支度や片づけで疲れきり
酒も入って泥のように寝ていた.
実際は切り合いとかなくて, 赤穂鬼畜は寝てる吉良家臣の首を
機械的に落としてった.

中には16の少年もいて, ふとんに隠れ
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル してるところを見つけて
面白半分, めった刺しで殺したそうだ.


269 :テロ集団:2006/12/26(火) 22:07:52
反幕府テロ集団が哀れな老人を虐殺して、
生首を掲げて江戸中を練り歩き、
庶民を恐怖のどん底に陥れ、江戸を混乱状態にした。


270 :なんで殺されなきゃならんのだ:2006/12/26(火) 22:08:50
上野介
「ワシがなんで殺されなきゃならんのだ。ワシがなにをしたというのじゃ?
乱心した内匠頭に斬りつけられ傷を負った上にそちたち(赤穂藩)からはなんの
詫びもないどころか、大挙してワシの舘を寝込みに襲い、大事な家臣たちは
次々に理不尽にも斬られこうしてワシはそちたちに刃をむけられておる。
のう大石とやら、説明してくれい。なにゆえに・・・」
内蔵助
「問答無用!」・・・グサッ!
上野介
「む、無念じゃ・・・」


271 :吉良さん:2006/12/26(火) 22:09:37
吉良さん。

○斬られ損
○言われ損
○殺され損


272 :十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています:2006/12/26(火) 22:10:59
正確には14日ではなく15日にはいった寅の刻(午前4時)ごろ、
完全武装の浪士たちが吉良邸内に押し入り、熟睡していた吉良家の者
たちを虐殺。浪士方には重傷者はおらず、吉良方では十七名の死者。
非戦闘員である十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています。
この事件を「義挙」と呼ぶ人々の神経が、私には理解できません。
(杉浦日向子氏が1994年の「季刊歴史ピープル」の座談会で仰
っている「社長の殺人未遂を社員が遂行」に全面的に賛成!)


273 :忠臣蔵も難しい時代になってきました:2006/12/26(火) 22:36:21
赤穂浪士に対してもっとマイナスなのは、彼らが「テロリスト集団」
だという認識が少しずつ広まってきていることです。
9.11テロ事件以来、世の中の空気は大きく変わり、テロこそ最も憎む
べき犯罪になりました。これまで単なる痛快勧善懲悪物語だった忠臣蔵も、
よくよく歴史を振り返って考えると、暗愚の殿様を持った故に浪人にな
った連中が、「名君」の誉れが高い吉良上野介を逆恨みして惨殺した
テロ事件にしか過ぎないと思えてくるわけです。ま、あえて極論を言っ
ていますけど。

 もしくは「仇討ち」という発想が、アメリカのアフガン空爆を想起さ
せるのかも知れません。やられたら倍にしてやり返す、という子供じみ
た発想。恨みと暴力の連鎖は決して平和をもたらさないと考えると、
赤穂浪士たちの大義も、アメリカの大義同様に胡散臭く思えてしまいます。

 正義の味方も立場を変えれば悪魔の化身。鉄人28号で横山光輝が訴え
たこのテーゼは、アメリカとアルカイダにも、赤穂浪士と吉良にも当て
はまります。忠臣蔵も難しい時代になってきました。


274 :杉浦日向子さんの漫画:2006/12/26(火) 22:43:05
杉浦日向子さんの漫画を読むと、忠臣蔵がまぎれもないテロであ
ることが書いてあります。義士たちも、仇討ちのそぶりも見せず
にずっと潜伏している「スリーパー」でした。(誤解のないよう
附け加えると、杉浦さん自身は討ち入りを善しとしているわけで
はありません。)一般 の日本人は、テロリズムという近代的な解
釈を加えることなく、読者として、また観客として、これらの殺人
あるいは殺人未遂の物語を愛してきたと言えるでしょう。
四十七士が切ったのはたまたま吉良家に仕えていた人たちで、
寝込みを襲われ何もわからないうちに斬られた者も多かったようです。
しかし忠臣蔵の観客にとっては君の悪事は臣の悪事でもあることが
大前提となります。 


275 :自爆テロのテロリスト:2006/12/26(火) 22:46:06
要するに「確信犯」として切腹もすんなりと受け入れた、
という赤穂浪士の態度は、自爆テロのテロリストそのものですよね。
やっぱり。で、それが「美談」とされる、ってのは、考え方として、
現代では「危険」って言われる可能性が高い。
「義」が「法」に勝るもの、とされると、国家という枠組みにひび
が入るからね。だからこそ、逆の意味で閉塞した現代には「光明」
と受け取られることもあるんだな。


276 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:46:38
大体、吉良が浅野の奥さんに横恋慕したのも、畳の張り替えをさせたのも、
鮒じゃ鮒じゃ鮒侍じゃと言ったのも、頭→背中と言う順で切り付けたのも、
大石が放蕩の擬態をしたのも、浪士どもが町人に扮して吉良邸の図面を手に入れたのも、
打ち入りで殺りあったのも、陣太鼓打ったのも、炭小屋で吉良が見つかったのも、
引き上げるときに町人が喝采したのも、浅野が名君なのも、
浅野が奥さんと仲が良いのも全てお芝居!

仮名手本忠臣蔵で高師直や塩治判官や大星由良助とその仲間達がしでかしたこと。
そのフィクションに実在の人物を当てはめてさも事実のように仕立てるのはおかしい。

277 :「忠臣蔵」ではなく、「テロリスト蔵」:2006/12/26(火) 22:52:00
忠臣蔵といえば、大石内蔵助が様々な苦労を乗り越えて亡き主君
(浅野)の仇・吉良を討つ美しい美談(重複表現で、誤り)……ち
ょっと待ってくれ。
 じいさんをよってたかってなぶり殺しにするところの、
どこがカッコイイのだ。潔く決闘するとかならまだしも、
やり方も汚い。「討ち入り」と言えば聞こえはいいが、
深夜に大勢で押し入り、罪もない吉良とその家来を虐殺──つまり、
ただのテロ事件である。人数はたしかに吉良邸にいる人間のほう
が多いが、浪士たちは武装が整っている上に、相手の寝込みを襲
うのである。これは私が考えた言葉だが、「卑劣なテロ」と言う
しかない。だから、「忠臣蔵」ではなく、「テロリスト蔵」なの
である。


278 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:13:52
>277
忠義とテロって相容れない反対語じゃないから
忠臣蔵かつテロリスト蔵でいいんじゃないの?

279 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:22:36
>>278
忠臣というには泉岳寺で切腹せす出頭している所に若干の打算が感じられるか、
忠義とテロは共存できる。
むしろ忠誠心や信仰心の強い人間ほどテロを実行する。

280 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:31:55
>>232
>三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い赤穂
これ書いた人って歯医者で
塩屋でもなければ歴史家でもない。
信用できる?

281 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:44:57
>>280
参考にする程度だな。
史書とは違うからアレだが、お芝居よりも信頼できるよ。

282 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 01:52:40
日本のテロリストは赤穂がふるさと。

283 :武士の実態:2006/12/27(水) 18:09:13
武士の為体(ていたらく)を嘆く、憂国の士によって
「武士道とは何か」と、再検討されたことは、必然的な成り行き
であった。
 そして驚く事は、「忠臣蔵」のモデルになった討ち入りした
四十七士も、こうした転職組の武士達であり、大部分は親の代、
もしくは本人の代になって、浅野家へ仕官した家臣で、祖父の
代からの家臣は数える程しかいなかった。

 では、浅野家・家臣四十七士は何故、徒党を組み、討ち入り
に参加したのか。
 それは彼等が親の代、あるいは本人の代になってからの転職組
であり、それ以前は浪人であった。彼等は浪人生活の苦しさを
熟知している。
 したがって浅野家断絶後、転職したり、町人に身を窶したりし
た武士も、相当に居たかも知れないが、再び浪人して苦しい生活
に戻るよりは、徒党を組んで、ひと暴れし、世間をアッと言わせ
る方を選択したと言えなくもない。
 しかし武士は「二君に仕えず」と言うけれども、これはあくま
で建前の事であり、本音は「飢えは恥じより苦しい」というのが、
当時の武士階級の偽わざる実情であった。
 そしてこうした伝統は、明治以降も続くのである。


284 :武士の実態:2006/12/27(水) 18:09:58
江戸時代において、二百有余藩が理不尽な理由で取り潰されている。
しかし忠臣を全うし、武士道を実践したのは、赤穂藩ただ一藩であり、
その一藩も、家臣三百人も居ながら、三百人中、主君の為に討ち入った
のは僅かに四十七人で、これは日本の武士階級の総数からすると、
余りにも少ない数字である。

 お家が取り潰され、お城明け渡しともなると、一度は
「籠城(ろうじょう)し、城を枕に討ち死にせん」と豪語する武士は、
必ず何人かがいる。時には、「家臣一同切腹して、その武士の生き態
(ざま)を天下に知らしめん」と、息巻く武士もいる。
 しかしこうした事は、一例もなく、二五十年間の中で、
赤穂浪士四十七士ただ一例だけが、討ち入りをして、主君の恨みを晴
らすという事に止まったのである。

 結局のところ、日本において、理不尽な横暴に対し、勇ましい掛け
声はかけるが、いつの間にか、一人去り、二人去るというのが実情であり、
最後は全員が浪人になったり、町人に身を窶(やつ)すというのが偽わ
ざる武士の実態であったようだ。


285 :武士の実態:2006/12/27(水) 18:10:55
江戸時代は、一見封建主義に見えながらも、実はそうではなかった。
 士分でありながらも、出世欲は旺盛で、商人同様に金勘定に聰(さと)く、
意外に主君や主家を平気で変え、条件の良い就職先や、他藩に転職
するという転職組も多かったのである。

 事実、賄賂政治と批判?され、天明飢饉などにより、失敗に終った
といわれる田沼意次(おきづぐ)・意知(おきとも)の時代は、
貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など幕政の積極的打開を意図したが
それは成就することがなかった。
 田沼時代(明和4〜天明6の20年間)の当来は、意次が小姓を経
て側用人となり、遠江(とおとうみ)相良(さがら)の城主に取り立
てられ、老中にまで登り詰める出世競争を考えて見ても、幕政の実権
を握った意次が、どの程度の武士であったか、容易に想像がつこう。


286 :武士の実態:2006/12/27(水) 18:11:49
徳川時代の大名家は拝領する領地なども、ヨーロッパの中世貴族
に比べて非常に狹く、また自立性に乏しく、思考性に欠け、
家臣は少なく、武力も貧弱であった。特に弱少の外様大名は、
こうしたことを後々までに強いられた。そして外様大名に対する
圧力は、徳川幕府と言う幕藩体制が「中央集権的封建制」と言う
独特な政治形態を作り上げていたからである。

 また弱少の外様大名でなくても、かつての加藤家(肥後国を領有)、
福島家(安芸・備後五十万石を領有)、最上家(山形五十七万石を
領有)まどの五十万石級の大大名であっても、徳川幕府に逆らえず、
易々と取り潰されたと言う歴史を持っている。彼等、大大名家は大坂
「冬の陣」や「夏の陣」の抵抗すらせず、まんまと幕府に取り潰され
ている。


287 :武士の実態:2006/12/27(水) 18:13:27
後の世の1897年には、徳川幕府は周知のように薩長二藩を母体
とする西南雄藩の反乱と、一部の浪人の暴動で、幕府は意図も簡単
に崩壊する。「尚武の国」と言い、「武士道の国」と言う武士階級
層が、この当時、一体どれほど、徳川将軍家に忠誠をつくし、
命を投げ出した忠義の旗本・御家人がどれほどいただろうか。

 それでも、佐幕の為に会津藩や桑名藩は、徳川幕府の為に人力
をつくし、戊辰戦争を勇敢に戦ったのである。しかしこの二藩は
徳川家遠縁の、今日で言う子会社的な存在であった。
更には、新撰組や京都見廻組は寄せ集めのガードマン的なものに
過ぎず、徳川家とは全く関係ない外部団体であった。


288 :二君に仕える:2006/12/27(水) 21:12:19
日本は「尚武の国」、「武士道の国」と言うが、忠義や忠誠と言う
観点だけに限定して以上を論ずるならば、日本人は本来忠誠心の強
い民族とは言えないのである。

 日本人の中にはその国民気質に、二君に仕える要因が多分にある。
それは歴史を見れば明らかである。


289 :変わり身の早さは唖然とする:2006/12/27(水) 21:13:01
徳川250年間を通じて、中央集権的体制を敷いた中央政府が、
二万五千人もの正規軍を持ちながら、下級武士や農民からなる官軍
の母体を形成した奇兵隊(幕末に長州藩で組織された非正規軍)に、
数年で呆気無く敗れているのである。
 そして驚く事は、東北で戊辰戦争が展開されている頃、旧幕臣の、
眼先に聡い旗本・御家人達は、就職先を明治新政府に求めて殺到して
いるのだから、その変わり身の早さは唖然とするばかりである。


290 :江戸無血開城:2006/12/27(水) 21:13:46
徳川幕府が崩壊した時、果たしてどれほどの幕臣旗本・御家人が、
西南雄藩の組織する官軍に抵抗しただろうか。
 勝海舟などは、自ら徳川幕府が滅びるように、江戸城の城門を開け、
官軍を進んで誘い入れたではないか。
 一言で、「江戸無血開城」というが、幕臣側から見れば、要するに
体裁の良い裏切りであった。そして幕臣・旗本・御家人の中で、
官軍に抵抗した集団は、新撰組くらいなものであった。
 旗本・御家人によって組織された上野の山の「彰義隊」など、
たったの半日で組織抵抗を辞めている。
 後の幕臣連中は、むしろ抵抗するより、積極的に滅ぼす側に廻って、
官軍の侵入を容易にし、時代の移り変わりに敏感に立ち回って、
ちゃっかり便乗して、明治新政府に就職の場を求めたのではなかっ
たか。


291 :武士とやらにフェアプレーを常とする公平さはない:2006/12/27(水) 21:16:17
忠臣蔵とか新撰組の事を調べていると、
とてもじゃないが武士とやらにフェアプレーを常とする公平さはないよな。
是は宮本武蔵にも言えるが。

忠臣蔵のあだ討ち方って言わば西洋的決闘のような、
自らも死ぬ危険性を冒してスポーツのように自らと相手が公平な状態で
正々堂々戦うような方法ではないよな。

相手の寝静まった所を徒党を組んで虐殺する。
是は新撰組でも言えるが、酔っ払った所を切り殺したり
相手の寝ている所を切り殺したり卑怯なやり方が多すぎ。
るろうに剣心を見ていると、やたらと武士や侍が美化されていると言える。
武蔵も小次郎との決闘の際にはわざと遅刻したり
無礼・ルール違反のような戦い方を常としている。

生麦事件の際には外国人を切り殺しておきながら
犯人の引渡しには応じないわ、とてもじゃないが反省しているとすら思えん。


292 :『忠臣蔵』は美しいか :2006/12/27(水) 21:17:58
かれらは本当に「忠臣」だったのだろうか。
「葉隠」流の武士道から云えば、家臣たちは藩主の弟を立て
て藩の再興を願い出るなど、もっての外のことである。
忠誠は前藩主に対してのみ捧げられるべきであろう。
藩再興の道が閉ざされた時、かれらは復讐の挙に出た。
しかも切腹せず、幕府の判断を待った。なお藩再興に賭けて
いたのではなかったか。

大仏次郎は「赤穂浪士」を書いた。そこには旧家臣たちは、
忠臣ではなく浪士ではなかったか、という問題提起がある。


293 :赤穂浪士の処分:2006/12/27(水) 21:28:23
幕府は赤穂浪士の処分を検討した。
 政治家だけではなく、知識人(儒学者)の意見も聞いた。
 室鳩巣・林信篤・伊藤東涯・浅見絅斎(あさみけいさい)らは赤穂浪士の行動を絶賛した。
「赤穂浪士は主君の敵を見事に討ち果たした。これこそ義の神髄である。なにとぞ寛大なお裁きを」
 が、荻生徂徠・太宰春台・佐藤直方(さとうなおかた)らは断固反論した。
「赤穂浪士は幕府の処分に対して見事に反抗してくれた。これこそ愚の骨頂である。なにとぞ厳格なお裁きを」


294 :復讐物語:2006/12/27(水) 21:32:31
「忠臣蔵」、「モンテ・クリスト伯」などの復讐物語は根強い人気をもっているのは何故か
暴力の当事者意識に迫ってみれば、「報復は報復を呼ぶ」
などと軽々と口にしてもスローガン、空語になってしまう。
 この宿題はあまりに重い。
やられたらやり返すという人間的な情念

295 :吉良君は従四位上・少将:2006/12/27(水) 21:40:07
吉良君は江戸城勤務の公務員でした。仕事の内容は,お城の中で
行われる各種行事の礼儀作法を指導,その責任者のようなことを
していたのです。年俸(給料)はあれこれ手当を含めて6,000
石弱の旗本クラス。こんな程度の年俸だったのですが,
従四位上・少将という高い位をもらっていた。

 それで浅野内匠頭(たくみのかみ)君はどうかと言うと,
年俸が50,000石だから,吉良君なんてまったく目じゃない。
当時は年俸が身分の上下のおおよその判断材料だったからね。
ところが,位はというと従五位下という,吉良君よりもずっと
下の位だったのですね。滋賀県の彦根出身のあの大老にまでな
った井伊直弼君だって25万石でしたが,従四位下。
やはり吉良君の方が地位が上なのです。

296 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:40:10
>>37
ワンサイドゲームの理由は、寒さと寝起きで身体が満足に動かなかった事、
完全な奇襲となった事による精神的ショック、浪士が完全武装していた事の三点だな。

仮に吉良側が手ぐすね引いて待っていた場合、
その情報を得た浪士たちは邸内に斬り込む以外の方法を考えるんじゃないんだろうか。
隠居の身とは言え外出はせざるを得ないだろうし、その際の護衛は浪士より多い事は無い。
桜田門外で水戸浪士が大老の井伊を斬ったように、外出中を襲うのが順当じゃないかな。

297 :事件のニュースです:2006/12/27(水) 21:42:00
事件のニュースです。
 12月14日から15日の未明にかけて、東京は隅田川沿いの民家を
複数の男が侵入し、抵抗した同家の住人を多数殺傷するという事
件が発生しました。実行犯らは警備当局に出頭、「我らの指導者
の死をもたらせた者への報復である」と主張しており、彼らは政
治的な意図のもとに同家の主人の暗殺を図ったものと思われます。
 …もし元禄15年に報道番組があればこういう風に報じたんだろう。

298 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:45:35
もちろん、暴力団の抗争事件として処理されます。

299 :劇場型テロの嚆矢:2006/12/27(水) 21:51:28
日本における劇場型テロの嚆矢だ・・・というのは置いといてマジレス。

「過去の戦訓」
帯と併せて鎖を使って装束を結えていたが、ある赤穂藩士が不審者と
立ち会った際に帯を切られてしまい動きが阻害された事例から、
考え出した対策らしい。

戦力の遂次投入の回避といい、機密コントロールといい、お手本だね。
メディアコントロールも完璧だ。
ビンラディンが忠臣蔵を愛読していてもおかしくないかも


300 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:27:58
>289、290
その手の変わり身をいうなら
昭和のA新聞なんか凄いぞ。
軍部や政府が青ざめるような鬼畜米英討つべし戦意扇動キャンペーン。
それが1945年8月を境に”平和マンセー。日本軍国主義は絶対悪でした”



301 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:57:46
>>283ー296
長文乙
「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」と言われても泰平の世の中ではやってらんなかったんだろう。

幕末の志士は初期はともかく中期は狂気テロリストだし、
新選組は特別治安組織お抱えの対テロ実行部隊。
その活動の綺麗汚いは自己完結していて、
姦臣汚吏(仲間内で定義する)を殺す行為に意義を見出だしていた。
新選組はテロリストを捕縛ないし殺すことが仕事であり、綺麗汚いは関係無かった。

302 :テロリズムには断固反対:2006/12/28(木) 21:57:13
どうも私は「忠臣蔵」が苦手です。どんなに脚色したって、
所詮は大の男が47人も集まって、お年寄り一人をリンチにかけ
るお話でしょう?どこが面白いんですか?バカ殿の家臣になって
しまった不運に同情はするけど、テロリズムには断固反対。

303 :映画 赤穂城断絶:2006/12/28(木) 21:59:57
私見では一番悪い奴は浅野内匠頭だ。こいつにもうちょいと思慮
分別というものがあったら、あんな悲劇にはならなかった。
この作品では西郷輝彦が演じ、「刃先三寸の差で、吉良を殺せな
かったのが、唯一の無念」などと、確信犯的なことを悔しそうに言う。
西郷の芝居は迫力あるけど、これって無茶苦茶なテロリズムの正当化。
吉良上野介(金子信雄)はいかにも憎憎しげな悪役だけど、
それはタリバンを悪役にして無実の人々を殺しまくったアメリカ
の情報操作と同一レベルだ。

「吉良を討とう」と大石内蔵助(萬屋錦之介)が言うと、赤穂城
に集まった家臣達が、いっせいに身を乗り出す。ピタッとあまり
に同時なので、なんかファシズムを感じて、私は引いてしまった。
ついでに言うと、殿様の時世の歌を聞いて、家臣たちがこれまた
一斉に泣き出すのにも、辟易したな。でも、この映画はこういう
「ピタッ」とか「一斉」ということに、非常に力を入れた絵作り
をしている。ひれ伏したり、おじぎしたり、顔を上げたり、
という複数の人々の仕草が、まるでシンクロナイズド・スイミン
グか北朝鮮のマスゲームみたいだ。ある意味とても美しいけど、
ちょっとファッショが入っている。脳みそ持ってるんなら、もっ
と自分の頭で考えろよ、といらだたしかった。


304 :時代背景 :2006/12/28(木) 22:18:06
時代背景 
1680(延宝8)年、徳川綱吉(父は徳川家光。35歳)は5代将軍となった。
1657(明暦3)年、明暦の大火が発生し、江戸城を再建したことにより、幕府財政はひっ迫していたところに、綱吉は、母桂昌院の願いで、護国寺を建立、
湯島に聖堂を建立するために、膨大な予算を注入したのだった。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせたのである。
1685(貞享2)年、生類憐みの令が出され、人の命より、蚊の命が重視される時代に、庶民の不満が高揚していたのである。
1695(元禄8)年、勘定吟味役の荻原重秀は、貨幣改鋳によって500万両を得た結果、猛烈なインフレがおこり、庶民の不満の高揚に、更に拍車をかけたのだった。
この6年後に刃傷事件が起きた

305 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 09:43:44
>>301
新撰組ってそもそもの成り立ちが現代で言えば警察が弱体化したら
仕方なく暴走族を警察の嘱託に雇ったって感じだから、
そりゃあきれいとか汚いって概念自体ないよな。
赤穂浪士は無理心中組(多分大石あたり)や、商腹組だから
きれいもとか汚いとかそんなこと言っている余裕なんてない。

306 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 09:49:51
本当に裁定に不満があったのなら幕府に対するテロを仕掛けるはずで、
そうしなかったのは名をあげて子孫の栄達を図ろうっていう計算高い商腹的発想でしょう。
なかには自分自身が栄達できると思っていた甘ちゃんも混じっていただろうし。
あとは将来に絶望して吉良を自殺の道連れにしようとしたやつとか。
それも徒党を組まなきゃ何もできないへたれ集団。
とにかく不純で汚い連中の集まり。
その人間にの弱さに焦点をあてるならともかく、褒め称えるなんて馬鹿じゃないの。

307 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:11:16
討ち入りに参加した人間を分けると
御家再興派の自暴自棄・・・大石ら代々仕えていた国元組
名を上げようとする就活組・・・堀部など新規お抱えの江戸組
浅野の恋人組・・・片岡など江戸の側近組
その他

堀部の君父の讐は自己PR以外何物でもない。


308 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 07:44:41
討ち入りに参加した者に、譜代の家臣が少なく、新参者が多かったことについては、
譜代の家臣の立場からの「我々は先祖以来累代に亘ってお家にお仕えしてきたのに
殿は身勝手にもお家を潰すような愚かな真似をなされた。これ以上は付き合えん」という
理屈があり、その理屈が武家社会においては割と通用する一方、新参者に対しては、
「浪々の身からお引き上げくだされた殿に、身命を賭してお仕えするのは当然」という
ある種プレッシャーのようなものが掛かったのではないだろうか。

309 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 09:59:39
江戸詰めの者で身分の高いものは参加していないから、「気がおかしくなってる」
って実感があったのだろうな。
切腹には疑念をもっただろうが、「吉良を恨むのは筋違い」って明確に判断できた。

吉良家は上杉家を介して紀州徳川家と縁戚関係にあったから、裁定の早さが吉良
への逆恨みを助長してしまった悲劇だ
本国へは風聞と下級武士の偏った報告しか行ってないから、(上役同士の文書の
やり取りでは、乱心について知らされていたと思うが、江戸家老の責任問題も絡ん
で公にはならないだろう)不公平で火急過ぎる裁定への不満は募る。
浅野家再興を前提にしていたから、幕府を攻撃対象に出来ない一面もあり、吉良に
嫌な役が回ってしまった。
大石自身は、吉良を討つことの理不尽を理解したうえで、「幕府の理不尽な裁定が
新たな悲劇を作った」形にしたのだろう。
世間が仇討ちを期待する方向にあったから、それを実行したほうが浅野家旧臣の
行く末にも良いとの考えもあったかと思う。

310 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:36:57
浅野内匠頭は名君であり夫として瑤泉院を深く愛した人
大石内蔵助は赤穂を支えた筆頭家老で内匠頭の無念を晴らした忠臣
吉良上野介は江戸期を代表する賄賂野郎!浅野内匠頭を貶めようとした悪党!
名君の誉れ高い浅野内匠頭の我慢の限界を超すほど陰険に苛め抜いたんだから殺されて当然!

英雄視すべき名君や忠臣を狂人やテロリスト呼ばわりして何が楽しいんだか。

311 :日本@名無史さん :2006/12/30(土) 22:04:16
         \   ∩─ー、    ====
           \/ ● 、_ `ヽ   ======
           / \( ●  ● |つ
           |   X_入__ノ   ミ   そんな餌で俺様が釣られクマ――
            、 (_/   ノ /⌒l
            /\___ノ゙_/  /  =====
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                \   ___ \__  (´⌒;;(´⌒;;
                  \___)___)(´;;⌒  (´⌒;;  ズザザザ
 



312 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:38:19
>>310は赤穂の土産物屋の生活を懸けた反撃です。

313 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 05:02:46
江戸時代の「仇討ち」を誤解してるから、浪士=義士という発想になるんだろう。
前にも出たが、吉良上野介が浅野内匠頭を殺した訳じゃない。
これだけでも、討ち入りは「仇討ち」に相当しない。
また敵の方にも「返り討ち」の権利がある。ちゃんと名乗って基本的にはタイマン(助太刀にも許可がいる)。
だから、徒党を組んで不意打ちは「仇討ち」に相当しない。

討ち入り後、改易された「吉良家」の方が哀れだ。今度は「両成敗」って事で処分されてしまったからな。
でも、あの場合どう考えても戦うしかないだろう。
トチクルった殿様と逆恨み浪士、吉良家もトンデモな連中と係わったもんだ。

314 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 13:47:01
日本最初の劇場型犯罪

315 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 13:51:22
>>312
案外泉岳寺周辺の土産物屋かもw
あそこの視界を遮るほどの線香の煙は害基地的だ
アレが切れやすい殿様と就活のためのテロ集団と認知されれば誰も行かないだろう。

>>313
吉良の現当主(孫)が逃げたとも果敢に立ち向かったとも言われているな。
どっちにしろ改易は可哀相だ。

316 :日本@名無史さん :2006/12/31(日) 15:10:28
これこれ浅野は名君ですよ。
切腹の際も取り乱したり
未練がましく赤穂藩の行く末を案じたりすることなく
何もなかったように湯漬けを食べておかわりし
煙草と酒を要求したのです。

赤穂の領民も殿様の遺徳を大いに惜しんで
もちをつき赤飯を炊いたのです。

317 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:32:05
浅野は姦国

318 :赤穂浪士を食い物にした:2006/12/31(日) 19:50:23
赤穂浪士を食い物にしたのは何も広岳院の坊主だけではない。
泉岳寺でも文化五年三月には大阪の天王寺まで出張して、
入場料を取って赤穂浪士遺品展の御開帳をやり、
文政二年になると亀田鵬斉なる儒者が、
自分が書いた碑文の石刷りというのを何百枚も売りまくってぼ
ろ儲けをしたという。
石刷りでさえ好事家には値良く売れるものならばと、
泉岳寺でも当時の和尚が、(義士の遺品)として見せていた物を一品残らず、
求められる儘に売り払ってしまって、
それで今日の寺門を建立したのだという。

319 :浅野内匠頭:2006/12/31(日) 20:23:19
赤穂浅野家に栄光あれ! 吉良に死を!

320 :100本以上の映画:2006/12/31(日) 21:22:52
映画は、明治時代(1868〜1912)の頃から現在にいたるまで、
100本以上の映画が作られています。かつて映画界には「企画に
困ったら忠臣蔵」という言い方があったといいます。
忠臣蔵映画は、作れば必ずヒットすると言われるほど国民的な
人気があります。「自らの命を賭して主君の名誉を守った」英
雄たちのストーリーが、日本人の好みにぴったり合ったことは
もちろん、登場人物が多彩で、映画として見せ場が作りやすい
ことも一因だったようです。各映画会社は、忠臣蔵映画をたく
さんの人気俳優を投入できるオールスター作品として位置づけ
て制作し、日本の国民はなじみの深い物語を、豪華な顔ぶれの
映画として楽しんできました。

321 :朝日新聞 12月14日:2006/12/31(日) 21:33:17
朝日新聞 12月14日
「義士を褒める 感覚わからぬ」翻訳業 一色 テリー 横浜市中区 75歳

 年末になると、多くの日本人は「忠臣蔵」を思い起こして、四十七士をほめたたえる。
私は幼時、父が商社勤めだったので米国で暮らし、戦後も日本の大学を卒業後、
米国の大学に学んだ。現在も仕事柄、外国人との付き合いが多く、彼らと話す中で、
少年期はいい話と思った忠臣蔵に疑問を持つようになった。
 武士として耐え難いイメージがあったとはいえ、勅使饗応役という名誉ある公務より、
私憤を晴らすことを優先した浅野内匠頭。この無責任さに激怒した将軍が、
内匠頭を切腹させた気持ちはよく分かる。
 無抵抗な老人を追い回して傷つけた内匠頭は、武士の風上にも置けない卑怯者。
一方、場内での抜刀を禁ずるルールを死守して抵抗を控えた吉良上野介は、武士の鑑といえる。
赤穂藩の「喧嘩両成敗」の要求は、お門違いと言わなくてはならない。数年前に見た映画に、
赤穂上の明け渡しの当否を決める大広間で下級藩士が
「短気なお殿様のせいで藩が取り潰され、多くの家臣と家族が路頭に迷うことになった」と
愚痴るシーンがあり、このせりふに胸がつぶれる思いがした。
 大石内蔵助らの行動も、徒党を組んでの大量殺人。義士などと誉めそやす日本人一般の感覚は、
外国人には理解できない。敵討ちという「美挙」ではなく、逆恨みの「愚挙」だからだ。

322 :赤穂浪士四十七士一覧表:2006/12/31(日) 21:44:02
氏名 諱 藩職 禄高 生年 享年 部隊 お預け先 家族

大石内蔵助 良雄 家老 1500石 1659年 45 表門 細川家  
大石主税 良金 部屋住み   1688年 16 裏門 松平家 父は大石内蔵助
吉田忠左衛門 兼亮 加東郡代・足軽頭 200石役料50石 1641年 63 裏門 細川家  
吉田沢右衛門 兼定 中小姓近習 13両3人扶持 1675年 29 表門 毛利家 父は吉田忠左衛門
原 惣右衛門 元辰 足軽頭・鉄砲頭 300石 1648年 56 表門 細川家  
片岡源五右衛門 高房 側用人・小姓頭 350石 1667年 37 表門 細川家  
間瀬久太夫 正明 目付 200石 1641年 63 表門 細川家  
間瀬孫九郎 正辰 部屋住み   1681年 23 裏門 水野家 父は間瀬久太夫
小野寺十内 秀和 京都留守居役 150石役料70石 1643年 61 裏門 細川家  
小野寺幸右衛門 秀富 部屋住み   1676年 28 表門 毛利家 養父は小野寺十内
間 喜兵衛 光延 馬廻・勝手方吟味役 100石 1635年 69 裏門 細川家  
間 十次郎 光興 部屋住み   1678年 26 表門 水野家 父は間 喜兵衛
間 新六 光風 部屋住み   1680年 24 裏門 毛利家 父は間 喜兵衛
堀部弥兵衛 金丸 元江戸留守居役 300石隠居料20石 1627年 77 表門 細川家  
堀部安兵衛 武傭 馬廻・江戸留守居役 200石 1670年 34 裏門 松平家 養父は堀部弥兵衛
礒貝十郎左衛門 正久 物頭・側用人 150石 1679年 25 裏門 細川家  
近松勘六 行重 馬廻 250石 1670年 34 表門 細川家 弟は奥田貞右衛門
冨森助右衛門 正因 馬廻・使番・江戸詰 200石 1670年 34 表門 細川家  
潮田又之丞 高教 郡奉行・国絵図奉行 200石 1669年 35 裏門 細川家  
早水藤左衛門 満堯 馬廻 150石 1664年 40 表門 細川家  


323 :赤穂浪士四十七士一覧表:2006/12/31(日) 21:45:32
奥田孫太夫 重盛 武具奉行・江戸詰 150石 1647年 57 表門 細川家  
奥田貞右衛門 行高 加東郡勘定方 9石3人扶持 1678年 26 裏門 水野家 義父は奥田孫太夫
矢田五郎右衛門 助武 馬廻・江戸詰 150石 1675年 29 表門 細川家  
菅谷半之丞 政利 馬廻・郡代 100石 1660年 44 裏門 松平家  
大石瀬左衛門 信清 馬廻 150石 1677年 27 裏門 細川家  
赤埴源蔵 重賢 馬廻・江戸詰 200石 1669年 35 裏門 細川家  
千馬三郎兵衛 光忠 馬廻・宗門改 100石→30石に 1653年 51 裏門 松平家  
中村勘助 正辰 馬廻・祐筆頭 100石 1656年 48 裏門 松平家  
木村岡右衛門 貞行 馬廻・絵図奉行 150石 1658年 46 裏門 松平家  
不破数右衛門 正種 元馬廻・浜辺奉行 元100石 1670年 34 裏門 松平家  
岡野金右衛門 包秀 部屋住み   1680年 24 表門 松平家 伯父は小野寺十内
岡島八十右衛門 常樹 札座勘定奉行 20石5人扶持 1666年 38 表門 毛利家 兄は原 惣右衛門
武林唯七 隆重 馬廻・中小姓近習 15両3人扶持 1672年 32 表門 毛利家  
貝賀弥左衛門 友信 中小姓近習・蔵奉行 2石10両3人扶持 1650年 54 表門 松平家 兄は吉田忠左衛門
大高源五 忠雄 金奉行・膳番元方・
腰物方 20石5人扶持 1672年 32 表門 松平家 弟は小野寺幸右衛門
倉橋伝助 武幸 扶持奉行・中小姓・
江戸詰 20石5人扶持 1670年 34 裏門 毛利家  


324 :赤穂浪士四十七士一覧表:2006/12/31(日) 21:47:11
村松喜兵衛 秀直 扶持奉行・江戸詰 20石5人扶持 1642年 62 表門 毛利家  
村松三太夫 高直 部屋住み   1677年 27 裏門 水野家 父は村松喜兵衛
杉野十平次 次房 札座横目 8両3人扶持 1676年 28 裏門 毛利家  
前原伊助 宗房 中小姓・金奉行・江戸詰 10石3人扶持 1664年 40 裏門 毛利家  
勝田新左衛門 武堯 中小姓近習・札座横目 15石3人扶持 1680年 24 表門 毛利家  
矢頭右衛門七 教兼 部屋住み   1686年 18 表門 水野家  
神崎与五郎 則休 横目付・郡目付 5両3人扶持 1666年 38 表門 水野家  
茅野和助 常成 横目付 5両3人扶持 1667年 37 裏門 水野家  
横川勘平 宗利 徒目付 5両3人扶持 1667年 37 表門 水野家  
三村次郎左衛門 包常 酒奉行・台所役人 7石2人扶持 1667年 37 裏門 水野家  
寺坂吉右衛門 信行 吉田忠左衛門附足軽 3両2分2人扶持 1665年 83 裏門    


325 :熊本藩細川家:2006/12/31(日) 21:54:05
赤穂浪士は大目付仙石邸から4つの大名家に分かれてお預けとな
ったが、大将大石内蔵助を筆頭とする17人は熊本藩細川家の中
屋敷へお預けとなった。熊本藩主細川綱利は赤穂浪士たちを手厚
く迎えて、非常に良い待遇をした。そして綱利は赤穂浪士たちは
必ず無罪放免になると信じていて、その暁には全員を熊本藩へ仕
官させようとまで考えていた。

326 :岡崎藩主水野監物忠之:2006/12/31(日) 21:55:14
岡崎藩主水野監物忠之の下屋敷には神崎与五郎ら9人がお預け
となった。水野家では熊本藩細川家と同じように浪士たちに対
しては丁重に扱い、世評も良かったという。
1703年(元禄16年)2月4日に浪士たちは切腹となったが、
直前に「浪士たちは死に装束に着替えて切腹の座に座らされた後
に無罪放免となる」というような噂がまことしやかに流れて、
各藩とも予定時刻になっても念のために執り行わず、
一時ばかり遅れて始められたと言う。

327 :松山藩松平家:2006/12/31(日) 21:57:31
各大名家へのお預けは赤穂藩士時代の禄高や家柄の順によっ
て定められた。ここ松山藩には大石主税(大石内蔵助実子)
を筆頭に10人が預けられた。松山藩主は松平隠岐守を名乗り、
浪士たちを預かったときの藩主は松平定直である。
当時の松山藩屋敷は現在イタリア大使館の敷地になっている。
当時の松平家庭園はほぼ当時の姿で残されており、史跡にも
指定されており、10人の切腹を記念する碑も建てられている。

328 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:58:01
>>316
暴君だった内匠頭の死を祝う気持ちで、赤飯を炊いた
という話を聞いたが・・。

329 :長府藩毛利家:2006/12/31(日) 21:59:00
赤穂浪士らは四大名家にお預けとなったが、
それぞれの大名家では浪士たちに対する待遇もそれぞれ異なっていた。
中でも長府藩毛利家の待遇は厳格で、まさに罪人を預かっている
という感じがはっきりと出ていたと言う。しかしこの待遇は毛利
家側がどう処置して良いか分からないでいた為で、毛利家でも他
の三家の情報が入り次第徐々に軟化したと言われている。

330 :一杯喰った。柳沢にはめられた:2006/12/31(日) 22:14:28
卯の刻つまり午前六時に泉岳寺に入った彼らは、夕方には十七人は
細川家高輪下屋敷、十名ずつが久松愛宕屋敷と水野家芝切通し屋敷、
残り九人が毛利家日ケ窪屋敷と、父子兄弟ばらばらに分けられ送られている。

「再仕官させてやる」とでも始めから甘言をもって釣られていたのか、
やがては死に場所になるそれぞれの屋敷へ、さながらまるで仕官しに行
くように勇んで行っている。到着してみて罪人扱いなのに大高源吾らは
(一杯喰った。柳沢にはめられた)と、はっとした。
覚悟をし、取りまいた儘でずっと監視し、弓鉄砲で囲んで見張りして
いるのへ、「われらは死を承知の者、逃亡など致さぬ」と抗議している。

331 :将来に夢:2006/12/31(日) 22:16:32
しかし、二十代の者は夢が捨てられず吉報が来るだろうとふざけ
廻っていた。『堀内伝右衛門覚書』によると、なにしろ当夜細川
越中綱利が自ら下屋敷へゆき、大石ら十五人に逢っている。
実にこれは残酷な話である。というのは、当時の習慣で、
殿に目通りするのは仕官の顔見せ儀式。現代でも入社試験の時に
は見られぬ社長の顔も、本採用となると並んで拝めるのと同じ事
である。だから若者達が鼓を打って戯れていたのも、既に本採用
が決定しているものと思いこんでいたゆえ、将来に夢があったか
らである。

332 :全員死罪の意見書:2006/12/31(日) 22:17:50
実際に吉良邸へ乱入した身分の低い軽輩十五人は死罪でも、
邸外に居た他の者は死一等を減じ遠島処分というのが当時の
常識だった。
「一名といえど生かしておいては、その口から他へ洩れては
天下の大事である」と、柳沢吉保は家来の萩生徂来へ厳命した。
彼は討入りの晩に激励の目付役に行った細井広沢と共に、
当時の学会の権威に働きかけ全員死罪の意見書を提出させた。
今のマスコミ利用である。



333 :精神科医の見た赤穂事件/中島静雄著:2006/12/31(日) 22:21:48
 『 この書物は決して吉良贔屓で書いたものではない。
 私は北海道に生まれ、北海道で育ち、北海道大学を出て精神科医となった者てある。だから赤穂市とも吉良町とも何の関係もない、そしてどちらの贔屓などというものでもない。ただ科学的に赤穂事件の歴史を調べて見て、精神医学上の一つの結論に到達しただけである。
だからこの書物は、理論的であり、学問的であり、事実に徹底的に忠実に書かれている。そういう意味において、過去の赤穂事件研究書とは根本的に異なっている。
 さて私は三十年の臨床経験をもつ精神科医である。当然歴史学者とも、其の他の研究家とも、その発想において、史料の判断の仕方において、そして論埋の展開において大きな相違がある。特にその人間解釈について決定的なちがいがある。
 歴史学者のように文献第一主義ではない、また一部の研究家や小説家のように興味本位でもない、いわば本書は一精神科医による浅野内匠頭の精神鑑定書である。
 昭和六十年六月二十三日、私の所属する日本精神神経科診療所医会総会(会員四百名、精神科医)という小さな学会で「浅野内匠頭精神病説」を発表した。また数年前から札幌市医師会雑誌(会員千八百名)に十数回にわたって連載発表した。
その反響は大きくいくつかの賛成意見があったが、いまだ反論は一つも出ていない。』(はじめに より一部抜粋)
 今もすべてが興味つきない衝撃の内容ですが、本書の特にすごい所は浅野内匠頭と羽田沖で逆噴射墜落した日航K(片桐)機長とを比較検討しているところです。まさに知的興奮の書と申せましょう。


334 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 22:24:33
「常識」で考えると、イジメがあったなんて考えられない。
浅野が饗応役の任を失敗したら、当然指南役の吉良にも責任は及ぶ。
映画見る人って不思議に思わないんだろうか。

二人に何らかの対立があった事は考えられるかもしれない(予算についてとか言われてる)、
また、吉良が浅野を叱咤した事も有ったかもしれない(でも相方の伊達も同様だろう)、
しかし、それは任務の上での事。キレた浅野内匠頭の名誉って・・・

335 :あの世でヤケ酒:2006/12/31(日) 22:33:04
よく「喧嘩両成敗でなかった」というが、斬り合いをしたのならともかく、あの場では浅野のほうが一方的に斬りつけただけである。今はやりの「キレる少年」ではないが、浅野は精神に異常があったという説もある。
 討ち入り(テロ)のあと、吉良家は処罰され断絶する。まず斬りつけられ、その後無惨に殺され、家まで滅ぼされた上に後世から悪人呼ばわりとは救いがないと言うしかない。
 江戸の民衆が赤穂浪士を支持したのは事実だが、これは単に幕府への不満があっただけである。浪人(反幕府の人間)が幕府の元高官をやっつけたとくれば、気分がいいのである。
幕府も自分たちへの不満をそらすために、吉良一人を悪者にしたところがあるという指摘もある。
 歴史物語で完全にキャラクターができあがってしまい、悪人呼ばわりという悲劇はよくある。吉良に限らずこの手の被害者は、あの世でヤケ酒を飲んでいることだろう。


336 :細木数子:2006/12/31(日) 22:42:11
じゃ吉良上野介さん。ズバリ言うわよ!
アータね、名前変えないと毎年、毎年殺されちゃうわよ。
いやでしょ。一度しか言わないわよ!
良い名前考えてあるんだからさぁ。ドッコイさぁ。
『鈴木宗男』か『出川哲郎』どっちかお選びよ。


337 :精神疾患:2006/12/31(日) 22:50:38
精神疾患を持ち出すと、浅野贔屓から睨まれそうですが、これは現代医学の立場から他の臓器の疾患と同じように考えていただくとして、松之大廊下での刃傷が奇異な行動であれば、精神分裂を疑わないわけにはいきません。であるとするならば、
その特徴的な症状として「幻聴」があります。スケジュール変更について二言三言喋ったことが自分に対する雑言と聞こえることは十分ありうることです。
さらにいうと、口頭述べた側近への意味不明な遺言は、冷静に読めばデジャヴということになるでしょう。これから推して精神分裂と決め付けることはできませんが、精神分裂の患者さんにデジャヴがよく起きることは精神医学のなかでは常識です。
内藤和泉守の乱心から遺伝だなどと決め付けるのは、言語道断(叔父甥の関係では精神分裂発作の生涯危険率は4パーセントほど。一般集団で1パーセントほど)で、かつて某精神科医が書いたものにも問題があるのですが、浅野長矩は、
さまざまな要因が重なって分裂発作を起こしたように見えます。そのトチガとなったのが、謎の時刻の間違いではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。

338 :堂々とした最期が好み:2006/12/31(日) 23:00:28
浪士たちに囲まれてオロオロ取り乱した挙句、「卑怯!」と一喝されて大石に刺される。。。
というのが古田忠臣蔵のデフォルトだからねえ。近年では一番繰り返されてるパターンだね。

俺も堂々とした最期が好み。
森繁のもそうだったけど、88年テレ東12時間の「大忠臣蔵」での芦田伸介も格好良かったよ。
最期まで浪士にへりくだったりせず、自害して果てた。
「峠の群像」の伊丹十三は脇差を振り回しながら果敢に抵抗、ズタボロに斬られて死んだ。
石坂浩二、田村高廣、菅原謙次らは瀕死の状態で引き出され、“無抵抗の抵抗”を示して斬られた。

吉良を矮小に描きすぎる作品は、そんな奴を必死になって殺そうとする浪士たちまでバカに見えてくる事がある。
やっぱり敵は存在が大きい程いいと思うのだが。


339 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 02:57:54
忠義を隠れ蓑にした就職運動です。

340 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 05:44:59
石坂さんの上野介は良かった。
地元では領民に慕われてる場面も描かれていたし。
しかし上野介は哀れだよ。
内匠頭の一朝の憤りはあまりにも多くの人を不幸においやった。
でもまあ、我慢出来なかったとはいえ内匠頭の内に抱えた苦しみと即日切腹のお仕置きには同情するけどね。
しかし悲しい話だよな。

341 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 13:44:32
浅野はやっぱり精神病?

342 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 16:45:27
>>341
医学的なことはわからないが、今で言うキレやすい人だったらしい。

343 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 16:51:15
歴史の偽造者ワースト4

1 中国人
2 朝鮮人
3 赤穂市民
4 ロシア人

344 :統合失調症の妄想型か境界性人格障害:2007/01/01(月) 16:57:14
浅野内匠頭(長矩 ながのり)は、かわいそうに幻聴と被害妄想
に支配されていた統合失調症の妄想型か境界性人格障害の可能性が高い。

345 :☆「殺してやると切りつけられ会社員軽傷:2007/01/01(月) 16:59:47
★「殺してやる」と切りつけられ会社員軽傷 東京・小平
19日午後4時40分ごろ、東京都小平市回田町の路上で、歩いていた男性会社員(27)が
後ろから「殺してやる」と叫びながら近づいてきた男に包丁(刃渡り約15センチ)で数回
切りつけられた。
会社員は背中や手首などに軽傷。男は近くの会社に逃げ込んだ会社員に包丁を投げつけて
逃走したが、現場から約600メートル離れた路上で警戒中の警視庁小平署員に確保され、
殺人未遂の現行犯で逮捕された。

逮捕されたのは、同市に住む、無職の男(21)。統合失調症で通院中だった。
会社員と面識はなく、「だれでもよかった」と供述しているが、動機については意味不明な
言動を繰り返しているという。産経新聞(09/19 23:11)


346 :【殿中速報】松の廊下で刃傷 :2007/01/01(月) 17:03:35
【殿中速報】松の廊下で刃傷

3月14日午前10時20分ごろ、千代田区千代田江戸城の松の廊下で男が小刀のようなもので男性を切りつけたが、
周囲に居合わせた人々がすぐに男を取り押さえた
男は多門伝八郎の説得に応じて小刀を渡したところを、殺人未遂・銃刀法違反などの現行犯で逮捕された。
被害に遭った男性は、高家筆頭・吉良上野介さんで、額と背中に傷を負ったが、命には別状はない模様。
勅使・院使の方々をはじめ、他の大名約40人と茶坊主は全員避難して無事だった。
男は播磨赤穂藩主・浅野内匠頭容疑者(35)。
浅野容疑者は「この間の遺恨覚えたるかー!」などと大声でわめいた後、小刀のようなもので吉良さんに切りつけた。
調べに対し、浅野容疑者は「むしゃくしゃしてやった。刃傷ならなんでもよかった」と語り、容疑を大筋で認めている。
現場に居合わせた伊予吉田藩主・伊達左京亮さんは「突然の事で何が何だか分からなかった。凄く怖かった」と語っている。
(22:30更新 江戸通信)


347 :精神異常説:2007/01/01(月) 17:20:44
浅野の精神異常説は、現代の精神医学の成果を、異なる文化環境に生きる
人物に適用する危険性をはらむ。そもそも狂気とは何かというフー
コー的関心を含め、話柄としては興味深いとしても、採用には慎重
であるべきだろう。

348 :聖路加病院は浅野家のお屋敷の跡:2007/01/01(月) 17:24:15
浅野内匠頭邸跡
永代橋を渡った赤穂浪士は、霊岸島を抜けて鉄砲洲に入ります。
鉄砲洲は、現在の中央区湊・明石町あたりで、一行は聖路加看護
大学の西側の道を築地市場の方に歩いたようです。
その聖路加看護大の敷地の角に、「浅野内匠頭屋敷跡」の石碑が
建っています。浅野家の屋敷は、当時、約9千坪あったといいま
すから、聖路加病院もお屋敷の跡。「松の廊下」事件後、3日目
には引渡しが申し渡されていますが、家臣はすぐさま畳の数から
障子の数まで詳細に記した帳簿をすばやく見事に作って引き継ぎ、
立ち退いたそうです。


349 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 17:41:51
>浅野内匠頭(長矩 ながのり)は、かわいそうに幻聴と被害妄想

違うだろ、短気なだけ。
前任者の亀井茲親も吉良から虐められてたし。
吉良の性質。


350 :フーコー『狂気の歴史』:2007/01/01(月) 17:43:55
『狂気の歴史』(1961) フーコーの処女作と位置づけられる。
 サンタンヌ精神病院での経験がもとになっている。
患者の心理学的な分析ではなく、医者と患者の関係がもつ意味を探る。
狂気が近代以降の西洋社会において、いかに〈精神の病〉と考えられる
ようになったか、精神病理学の成立条件そのものを解明しようとする試み。

351 :フーコー『狂気の歴史』:2007/01/01(月) 17:48:54
『狂気の歴史』が模範を示しています。フーコーはこの研究で、
狂気が何であるかを言わず、狂人が誰であるかを言わないで、
(それを定義していたのは精神医学と心理学でした)、
むしろ狂気の人たちに対して人々がどうふるまってきたかを
研究したのでした。そして、科学が狂気の本質としてわれわれ
に教えるものが、狂気の人を包囲する「道徳的サディズム」の
単なる結果に過ぎないことを示したのです。

352 :「忠臣蔵」から人権を考える :2007/01/01(月) 18:18:28
「忠臣蔵」から人権を考える
 教員 阿嘉野 清志(札幌市中央区 40歳)

 毎年、師走を迎えると、テレビドラマや芝居などで
「忠臣蔵」が演じられます。この時期になると、私は
日本人の人権意識の低さに憂うつになります。
 浅野内匠頭の吉良上野介に対する傷害行為は、当時
でも違法行為です。そのうえ被害者の吉良は「主君の
無念を晴らす」と称する赤穂浪士に殺害されました。
全く許しがたいテロ行為です。被害者の人権を重要視
する今、「忠臣蔵」を無批判に見ることはできません。
 吉良に何のとがめもないのは理不尽だという意見は
理解できます。それなら、テロの矛先は浅野に切腹を
命じた将軍徳川綱吉に向けるべきでしょう。日本人は
お上に弱い従順な民族です。赤穂浪士が綱吉を討った
ならば、私は彼らを評価したことでしょう。
 また、討ち入りに喜び芝居の題材にした江戸市民の
行動は、インターネットの「祭り」と呼ばれる騒ぎに
似ています。この軽薄さが、のちに極右ファシストの
石原慎太郎を東京都知事にさせたと言っても過言では
ありません。
 12月4日から10日は人権週間です。「忠臣蔵」を通して
改めて人権について考えてみてはいかがでしょうか。


353 :嘘のオンパレード:2007/01/01(月) 18:49:08
<忠臣蔵の真実>
四十七士の討ち入りの火事装束は嘘。
こんな物を作る金の余裕はなかったらしく、服装も武器もマチマチ。
各々、手持ちの黒っぽい小袖を着て、
合印には袖口に白い布を縫い付けて集まれ!と回状を回している。
内蔵介が打ち鳴らす陣太鼓もなかった。
また討ち入り当日は雪は降らず、寒かったが快晴と記録されている。……と嘘のオンパレードだが、
この作品だけは嘘で良いのだ!


354 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 19:29:42
桃太郎侍みたく、「死刑間違いなしの悪奉行邸に一人で乗り込む」ような嘘はイイ!
でも、フィクションでも吉良の嫌がらせ「死」に値するか?

おまけに大勢で不意打ち。吉良の家来とか浅野の切腹にカンケーないじゃん。
仕事人も不意打ちが多いけど、当事者しか始末してないぞ。

355 :清水義範作「上野介の忠臣蔵」:2007/01/01(月) 20:04:43
浅野内匠頭はもの知らずで面倒くさがり屋で“超”度ケチとして
描かれていました。

 そして、この小説では「討ち入り」が「暴徒の襲撃」「殺戮」
と表現されていました。人数の差と武装の差は圧倒的で、
まるでなぶり殺しにあっているようなものだったとか。
 清水一学の最後は、体のあちこちをさんざんに斬られ、
自分の血が目に入って敵の姿がよく見えず、思わずすべって転
んだところを、刀で胸を貫かれるという無惨なものでした。


356 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 23:51:37
浅野馬鹿頭長

357 :会社員バット殺人事件:2007/01/02(火) 09:23:25
昭和48年9月3日午後7時頃、東京・丸の内に本社がある世界有数の商船会社で残業中だった山上信男課長(当時49歳)は部下の青山建夫(仮名、当時28歳)にバットで一撃され即死した。

その後、青山は「課長を殺しました」と麹町署に出頭。麹町署は、すぐに管轄の丸の内署に連絡。丸の内署の係官が商船会社の現場に急行し山上課長の死体を発見した。

青山の身柄は丸の内署に移され、取り調べが始まった。青山は、そこで取調官に「課長が憎くてたまらなかった。課長のやること、なすことが我慢できなかった。会社のためにも、いないほうがいいと思った。」と犯行の動機を自供した。


358 :エリート社員の精神分裂:2007/01/02(火) 09:24:23
青山は東京都墨田区で出生。父親は中学校校長で地元では裕福で知識階級の家庭だった。このため、近所では青山を坊ちゃんと呼んでいた。

青山は地元の名門高校に進学したが、その頃から精神分裂の兆候があった。高校時代の友人は「彼は、自分の家が豊かであるが故に、みんなに嫉妬されていると思っていた。
いつか近所の人から襲われるのではないかと不安がっていた。革命がおきて、貧しい人達に殺されるという妄想に悩んでいたようだ」と証言した。

その後、一橋大学を昭和45年に卒業した青山は、商船会社に就職した。だが入社2年目の時、ノイローゼで約2ヶ月間入院し退院後も6ヶ月間休職をした。

359 :山上課長の遺族には何とも言いようの無い結末:2007/01/02(火) 09:27:26
山上課長は青山が心の病であることを理解して、心優しく接した。だが、青山は完全主義者で、思い込みが激しく、一旦言い出すと自説を絶対に曲げなかった。その結果、他部署とのトラブルが頻繁に起った。
更に、直接の上司である山上課長にまで意見が違うと言って殴りつけたこともあった。

同年4月末の日曜日、青山は山上課長の自宅に電話をかけた。興奮した声で「課長、明日殺すから必ず出てきてくれ」という内容だった。山上課長は月曜の朝、このことを上司に報告した。
上司は青山を呼び、事の真相を問いただした。だが、すっかり興奮が収まっていた青山は素直に詫びて職場に戻った。

それから半年後の同年9月3日、山上課長と青山の2人で残業していた午後7時頃、青山はロッカーからバットを持ち出して山上課長の頭部に全身の力を込めて一撃したのだった。

逮捕された青山は精神分裂症と診断され不起訴になった。2人の子供を残して、無残にも殺された山上課長の遺族には何とも言いようの無い結末となった。


360 :国内初のハイジャックによる死亡:2007/01/02(火) 09:37:16
西沢 裕司
1970(昭和45)年9月8日生
東京都出身
ハイジャック犯
私立武蔵中学校卒
私立武蔵高等学校卒
一浪して一橋大学に入学
 在学中は鉄道研究会に所属
 大学祭実行委員を務める
一橋大学卒
1994(平成6)年 日本貨物鉄道株式会社に入社
広島に配属される
同社の寮に入寮
1996(平成8)年 同社を退社
1999(平成11)年7月23日 全日空061便(羽田発新千歳行 ボーイング747-400型機)をハイジャック
 1125ごろ 客室乗務員を包丁で脅しコクピットへ侵入
 1154ごろ 長島直之機長を包丁で刺し殺害(失血死)
 国内初のハイジャックによる死亡
 事件当時、無職 東京都江戸川区小岩在住
 父(特許事務所勤務)、母、祖母と4人暮らし
 (兄(東京工業大学卒 大手化学メーカー勤務)は独立)


361 :精神鑑定結果(「アスペルガー障害」):2007/01/02(火) 09:38:26
事件前、運輸省、警察、新聞社等へ空港の警備上の不備を指摘する文書を送っていた
ハイジャック防止法違反などの容疑で逮捕・拘留される
 8月12日 捜査当局が簡易鑑定の結果刑事責任を問えると判断
 8月13日 東京地検が航空機の強取等の処罰に関する法律(ハイジャック防止法)違反と殺人などの罪で起訴
 12月20日 東京地裁(大渕敏和裁判長)で初公判
2000(平成12)年6月19日 東京地裁(大渕敏和裁判長)で公判
 12月11日 東京地裁(木口信之裁判長)で公判
2001(平成13)年2月26日 東京地裁(木口信之裁判長)で公判
 3月21日 東京地裁で公判
2002(平成14)年7月18日 全日空が約1億9400万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こす
 11月18日 東京地裁(木口信之裁判長)で公判
  精神鑑定結果(「アスペルガー障害」)が裁判長職権で証拠採用される

362 :アスペルガー症候群:2007/01/02(火) 09:49:20
アスペルガー症候群(あすぺるがーしょうこうぐん:AS)は発達障害の一種であり、一般的には「知的障害がない自閉症」とされている。精神医学において頻用されるアメリカ精神医学会の診断基準 (DSM-IV-TR) ではアスペルガー障害と呼ぶ。

対人関係の障害や、他者の気持ちの推測力、すなわち心の理論の障害が特徴とされる。特定の分野への強いこだわりや、運動機能の軽度な障害も見られる。しかし、カナータイプ(低機能)自閉症に見られるような言語障害、知的障害は比較的少ない。

1944年、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって初めて報告されたが、第二次世界大戦のため、その論文は戦勝国側では注目されていなかった。


363 :下関通り魔殺傷事件:2007/01/02(火) 10:08:32
1999年9月29日夕方,ちょうど学校帰りの学生でごった返す
下関の駅構内に一台の車が飛び込んだ.車は,7人をはねて止まり,
中から男が包丁を持っておりた.男はさらに,改札口からホームへ
と上がり,8人に次々と切りつけた.男は,車の中で笑っているよ
うに見えたと複数の人が証言した.また,改札口前の階段でも,振
り向きざま,にやりと笑ったところを目撃されている.

この事件で,3人が死亡,12人が重軽傷を負った.
逮捕されたのは,運送業上部康明容疑者(35).上部容疑者は,
事件直後の取り調べで「何をしてもうまくいかない.人を刺した.」
と話し,申し訳ないと謝罪したという.

上部容疑者は,九州大学工学部を出て,一級建築士の免許を取り,
設計事務所を開いたまさに,エリートといえる.その後,彼は事務
所をたたみ,実家に帰って運送業を始めた.建築物の設計をするた
めに図面を引く頭脳労働をしていた者が,肉体労働に職を変えると
いうことは,彼にとっての大きな挫折となったことは,容易に想像
できるのである.

上部容疑者は,精神科の医師のもとを何度か訪れているという.
その医師の話によると,人付き合いが苦手であって,そうしたメンタ
ルな部分でのサポートをしたものも,犯罪を犯すような要因は特には
見当たらなかったという.人付き合いが苦手という問題は,確かに一
人で仕事をしていく場合の重要な処世術である.これがないと,
人から信頼して仕事を任せてもらえる訳がない.彼にとっての挫折は
まさに,こうしたことが原因だったのだろう.


364 :妄想性障害(パラノイア):2007/01/02(火) 10:14:42
2001.1.25 下関通り魔事件の裁判長は、被告を「妄想性障害で、
犯行当時、心神耗弱の状態だった」とする福島章上智大教授の
精神鑑定書を証拠として採用した。つまり、責任能力はある
(罰することはできる)が、責任能力が弱っていた(責任能力
が完全にあるときと比べて減刑する)と判断した。

 妄想性障害(パラノイア)とは、妄想性人格障害の妄想より
は重いが妄想性精神病の妄想よりは軽い妄想をもつ障害。

365 :妄想症:2007/01/02(火) 10:32:22
妄想症は、根拠のない極端な疑い深さまたは不信を意味する精神医学領域
の人々に使用されている言葉です。この言葉は日常会話の中で怒りを込め
たときに間違って使用されることも多いようです。単に疑い深いだけでは
妄想症とは言いません。その疑いが過去の経験や他の人が経験したことに
基ずく予想であれば妄想症とは言わないのです。

 妄想症の程度は軽いことがよくあり、そのような人の社会生活は一見、
全く普通に見えます。そして、その程度がひどくなってくると社会生活に
破綻をきたします。多くの精神障害で妄想症の症状がみられるので、他の
病気との鑑別が困難であることがよくあります。妄想症を示す病気として、
妄想性人格障害、妄想性障害および妄想型分裂病があります。


366 :サイコパス:2007/01/02(火) 10:58:28
この頃、精神科通院歴のある者の凶悪犯罪の報道が目立って
いる。だからといって通院歴のある人の犯罪が増えているわけ
ではないだろう。精神病と犯罪の因果関係はない。犯罪はすべ
ての人が犯す可能性があり、精神障害者もそのうちに含まれて
いるというだけのことである。全人口の犯罪率と精神障害者の
犯罪率では精神障害者の犯罪率の方が低いと聞いている。資料
がないのでこれも推測だが、凶悪犯罪率も全人口に比べて大差
ないだろうと思う。その凶悪犯罪者の殆どはサイコパスだろう
と思う。
 サイコパスは昔は精神病質と言って、病気ではないが病気に
近い者というイメージであったが、今は人格障害、適応障害な
どと診断されるようだ。病院に来ない、診断を受けないサイコ
パスもかなり存在していると思われる。
 私はサイコパスを病気と呼ぶのに違和感を覚える。治療によ
って多少とも治癒するものを病気と呼びたい。サイコパスは薬
もカウンセリングも無効である。効果があるように見えるのは、
本人の演技に過ぎない。自分のシナリオ通りに悲劇を展開して
いく能力に長けている。勿論主役は自分である。どんなに人を
傷つけても、自分の方がもっと人や社会から傷つけられている
被害者である、と主張する。これは一例であって、いろんなタ
イプのサイコパスがある。自己中心的というところは共通する
かもしれない。自分の思い通りにならないと、破壊的破滅的行
動に出る。


367 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:07:30
 忠臣蔵の陰謀を暴く
 元禄14年江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという一大事件が起きた。
 刃傷に及んだ遺恨の原因で最もらしいのは、赤穂の塩と吉良で造る饗庭塩の江戸市場占有争い
の説であるが、良質で安値の赤穂の塩を市場が選んでしまうので、これも誤りである。いくつも
の説が出てくるのは、創作されて後で否定されて来た経緯があり本当の事は分からないのである。
 大石内蔵助の正体は4代将軍家綱の嫡男で、将軍継承争いで命を狙われ大石家の養子としてか
くまわれた。内蔵助の幼名は竹千代で、将軍後継者に付けられる名前である。
 3代将軍家光は光秀と春日局の子である。家康の家と光秀の光をとって家光と命名した。春日
局が後水尾天皇を退位させたり、養子堀田正俊が大老になれたのは、春日局が家光の生母であり、
天海(明智光秀)の後ろ盾があったからです。
 忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の中に暗号として隠された。幕府の目を誤魔化
す為に人物名を「太平記」に登場する人物名に替えている。
 大石内蔵助を大星由良之助で示している。大星は天皇の暗示で、光秀が聖徳太子の孫長屋親王
の子孫で正統な天皇の血筋だから、家綱の嫡男と読める。
 大石内蔵助は大星由良之助、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の名は
由良川と加古川を示し、福知山(光秀の御霊神社)を挟んで、両方の川が綱引きしている形に見
える。由良川の流域には春日局の生誕地春日町があり、加古川には北条市がある。将軍の継承争
いを春日局と北条側柳沢吉保が行い、権謀術数によって北条側が勝ち、綱吉を家光の4男と偽っ
て5代将軍に据えた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れている事を突き止め、浅野家を取り潰し
てから家綱の嫡男を殺害する陰謀を企てた。
 浅野内匠頭は切腹する前にいろはの歌を詠んだ。
  いろはにほへと
  ちりぬるをわか
  よたれそつねな
  らむうゐのおく
  やまけふこえて
  あさきゆめみし
    ゑひもせす     ん
 最後の語句を繋ぐと、とかなくてしす、と読める。浅野内匠頭は刃傷事件をやっていないと言
っている。浅野家取り潰しの偽の口実にされたのです。


368 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:55:33
家宣側室お喜世の方が播州浅野家に仕えていた・・・この俗説、
性懲りもなくドラマや小説のネタにされてるんだ。

369 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 15:00:54
>>367

おつかれちゃん




370 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 15:05:23
史実を無視した、珍妙な説ってもんに、
妄想厨はすぐ飛びつく。

371 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 16:59:36
近年、織田信長暗殺の背景に朝廷の介在を疑う説が流布さているが、
忠臣蔵にも、朝廷のドロドロした権力闘争を背景とする説がある。
ほんとかどうか定かじゃないけど。

372 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 17:30:35
ほんとかどうか定かだ。
ドロドロだかヌルヌルだか知らんが、朝廷に闘争するに足る権力なんてあった?

373 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:21:02
当時、上皇天皇・摂関家・後宮間で
皇位継承をめぐる凄まじい闘争があったね。


374 :霊元天皇:2007/01/02(火) 22:05:39
1654年長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。
1658年に親王宣下をおこなった。1662年12月に元服し、1663年1月、
兄の後西天皇から譲位されて踐祚した。

治世の最初は父である後水尾法皇に院政を敷かれていたが、1680年、
後水尾法皇崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は幕府と距離をとる
ことが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に干された。
特に1682年、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣で
ある近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼を「親幕派」
と睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条兼輝を越任させるとい
う贔屓の人事をおこなって京都所司代稲葉正往を驚愕させた。

その後、幕府と霊元朝の暗闘がはじまったが、幕府は、皇太子の朝
仁親王(東山天皇)や近衛基熙に接近をはかって霊元天皇に対抗し、
1687年に朝仁親王(東山天皇)への譲位にこぎつけた。東山天皇は、
即座に一条兼輝を解任し、近衛基熙を関白に就任させ、幕府との関
係改善をはかった。一方、退位した霊元天皇は、仙洞御所に入って
院政を敷いたが、以降もしばしば東山天皇、またその後の中御門天
皇の治世に掣肘をくだし、朝廷政治に重きをなした。1713年 落飾
して法皇となる。法名は素浄。1732年に崩御。


375 :霊元・一条兼輝と東山・近衛基熈の対立:2007/01/02(火) 22:08:08
一条兼輝は、東山帝即位後も約3年間、摂政・関白の任にあった。
霊元上皇の人事だからね。「即座に解任」は無理だよ。
霊元・一条兼輝と東山・近衛基熈の対立は、後光明天皇死後の皇位をめぐる
後水尾法皇・後西VS霊元に始まっている。
圧巻は、東山天皇の皇太子をめぐって、皇弟京極宮と藤内侍との不倫の子に
跡を継がせようと画策した霊元上皇・一条派と、これを阻止しようと必死の
東山天皇・近衛派の激しい争い。
近衛は、池田光政の娘を母とする一条兼輝の血統を露骨に蔑み、
零元は、基熈・家熈・家久の近衛三代を呪う願文を下御霊神社に掲げている。
一条兼輝の正室が、紀伊綱教の姉、近衛基熈の娘が甲府綱豊の正室、
というのも、当時の将軍後継争いと絡んで面白い。

376 :霊元天皇と後水尾法皇:2007/01/02(火) 22:09:14
霊元天皇が後水尾法皇による強い監督下におかれる中で、後水尾法皇
と霊元天皇の関係は強い対立となって顕在化していきます。
近衛基熙の様な、後水尾法皇の姻戚関係や昵近を持つ廷臣と、
霊元天皇の信任を得た一条兼輝を中心とする廷臣の対立はその顕著な
例といえます。この時期の朝廷内のシステム(摂家・武家伝奏・議奏)
は正常に十分機能したとは正確にはいえず、天皇への執奏に摂関が介
在せず、少数の廷臣によって行なわれるという事態も現出しました。
霊元天皇は自分の側近衆を積極的に利用し、独自の政策を展開してい
きます。
この霊元院による政策は霊元自己を中心とした朝廷の再編といえる
側面を有し、貞享三(1686)年の霊元上皇の院政の開始も、
後水尾法皇の院政の場合とは性格が若干異なり、「院政」の積極性を
面に押し出したものであるというのが現在の見解です。


377 :霊元天皇と後水尾法皇:2007/01/02(火) 22:10:40
しかし幕府はこのような霊元上皇を中心とした動きを警戒し、
院政の内容を制限、1690年、幕府との「協調路線」を取り、
後水尾法皇と昵近で、霊元天皇と疎遠であったといわれる近衛
基熙が関白に就任すると、「基本的」朝廷支配の体制を強化し
ていきます。このように霊元天皇期はその上皇期を含め、
朝廷内部で幕府親和志向の廷臣と、それから逸脱した志向を有
する廷臣層により、内部での確執が存在していたようです。
 そして、近衛基煕を中心とした朝幕の協調的姿勢の中で、
1709年、新井白石の提唱による閑院宮家創設が行われます。
将軍は家宣を経て、幼少の家継となります。将軍権威の補完
の為にも、朝廷権威の充実化、儀礼の充実化が行われました。


378 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:17:13
吉良邸は今でも残っていますか? どれくらいの広さがあったんでしょうか?


379 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:54:44
細川越中守あたりはえらく浪士達にいれこんでたみたいだけど
幕府側からみりゃ犯罪者そのものなのになんで?

380 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:43:00
細川綱利は赤穂浪士の討ち入りに、いたく感じ入っていたんだろうね。
大石内蔵助にも直々に目通りしているし。
彼は幕閣の権力者柳沢吉保にベッタリの一面もあって、中々の世渡り巧者だから、
公儀が赤穂浪士を罰したといっても、浪士たちを厚遇したからといって公儀の反感は買わないと
計算していたと思うよ。
ちゃっかり老中にお伺いを立ててるしね。



381 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:49:10
>>374-377
そのことと忠臣蔵とが
どう関係があるの?

382 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:49:49
>>374-377
そのことと忠臣蔵とが
どう関係があるの?

383 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:42:31
>>373
「権力」のない朝廷に「権力闘争」なんて無いって事。
闘争自体が無かったと言ってる訳じゃない。
んなものにインボー巡らすほど幕閣は暇じゃないだろ

384 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:48:18
「権力」って意味知らないんだ(藁)

385 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:56:06
じゃあ説明してくれないか。

386 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 02:04:00
ネットでも広辞苑でもいいから自分で調べるといい。
あんたの貧困なイメージがずいぶん啓発されると思うよ。

387 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 02:18:30
「瑤泉院の陰謀」
みんな見なかったのかなあ?
感想どう?
やっぱジェームス三木っぽい
ってのが俺の感想。

388 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 02:28:27
僕も同感。

そっから自分で説明出来なきゃただの「イチャモン」だと思うがね。ま2chだからね。
最も「権力」って言葉の意味をいじり過ぎて、かえって分かんなくしたってトコはあるな。

389 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 04:50:38
>>387
瑤泉院以外概ね良かったよ。
浅野の逆ぎれっぷりが拝める一部が特にね。


390 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 04:51:21
>>387
瑤泉院以外概ね良かったよ。
浅野の逆ぎれっぷりが拝める一部が特にね。


391 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 12:43:27
季節外れだし見んかった

392 :若い頃の吉良上野介:2007/01/03(水) 15:13:50
現在映画やテレビで描かれる吉良上野介たるや、
強欲で底意地の悪い爺となっているが、全く違う。
彼は若い頃から柳沢らと共に権力の中枢に身を置き、
様々な陰謀に加担した、いわば血脹れした権力の蛭のような存在である。

若い頃、侍従に任官した吉良は上洛して関白藤原光年とともに後水尾帝
の御愛子後西帝を京の擬華洞という名の芳屋へ閉じこめてしまうほど
の凄腕なのである。

393 :若干22歳にして従四位上に昇進:2007/01/03(水) 15:19:28
万治2年(1659年)から父とともに幕府に出仕するようになる。
まだ吉良家の家督を継いでいない部屋住みの身である義央には
父義冬の4200石の家督とは別に庇蔭料1000俵が支給された。
寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使と
して初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜った。
以降義央は、生涯を通じて年賀使として15回、幕府の使者として9回、
計24回に及び上洛する。寛文3年(1663年)1月19日、
霊元天皇の譲位にともなう院政の開始に対する幕府の祝賀の使者
として二度目の上洛をした際に、若干22歳にして従四位上に昇進し
ている。この計24回もの上洛は高家の中でも群を抜いて多く、
更に部屋住みの身でありながら使者職を行っていた事は、
義央の高家としての技倆が卓越していた事を表している。
また、その優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。

394 :天皇もまた吉良に含むところがあった:2007/01/03(水) 15:22:05
浅野内匠頭の事件が朝廷に伝わった時、吉良と何度も謁見した
事がある当時の東山天皇の嬉々としていた様子が関白近衛基熙
の日記に記されている。
幕府の方針を忠実に実行しただけとは言え、高家である吉良は
幕府による朝廷抑制政策の朝廷への通達役に立つことが多かった。
そのため、天皇もまた吉良に含むところがあった事が推測される。

395 :茶湯と吉良上野介:2007/01/03(水) 16:01:31
今日の茶湯を考えたのは彼である。
千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、
仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の
千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、
妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側
の茶道を作らせた。
 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ
入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃
へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉
良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創
立させたのも上野介である。つまり、このために、まだ知らぬ人も多
いが、 「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも
厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合
する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握って
いて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定
まっている。

396 :事件の発端「東山天皇」、大石家は天皇の縁戚:2007/01/03(水) 16:04:54
泉秀樹著『天皇の四十七士―元禄忠臣蔵の真実』によれば、時の関白近衛基熙(このえもとひろ)の日記・「基熙公記」には、
近衛が東山天皇にこの事件についての詳細を記した手紙を見せたところ、天皇は「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と、お喜びになられた旨が記載されている。
幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていた吉良を東山天皇や近衛基熙は憎んでいたのかもしれない。
この書では、内蔵助の4代前の良信が戦国織豊時代に活躍した近衛前久の娘を嫁に貰っているという事実を明らかにした。さらに、前久の2代後の信尋は後陽成天皇の実子で、
近衛家に養子に来ている。関白近衛基熙の娘は、次期6代将軍家宣となる第二部に登場する綱豊に嫁していたこと、基熙の妹が水戸光圀に嫁していたことも歴史的事実である。
明治天皇が戊辰戦争の最中、初めて東京に行幸した時、泉岳寺に使いをやり、勅書と金一封を届け、赤穂浪士を義士として顕彰(けんしょう=広く世間に知らせる)したと云う事実がある。


397 :事件の発端「東山天皇」、大石家は天皇の縁戚:2007/01/03(水) 16:22:22
申し送れましたが>>396は俺の自説ではありません。
ただのコピペです。あしからず。

398 :東山天皇:2007/01/03(水) 16:28:06
後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかか
わっていたであろう吉良義央を、東山天皇は憎んでいたのかもしれない。
また、帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ
何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのは
けしからんとして参内禁止の処分を行った。


399 :天皇が幕府より献上されていた石高はたったの1万石:2007/01/03(水) 16:38:04
江戸時代の京都は天子さま、お公家衆のおいやす(おられる)日本で一番雅風
情のある町でしたが、上は天子さまから下は庶民まで、生活するには大変厳
しい町だったようです。江戸幕府は天皇家、公家衆を押さえ込む政治を基本
としていた為、天皇が幕府より献上されていた石高はたったの1万石(家光の
時代より2万石となる)、徳川幕府は800万石、加賀は100万石等で大名から比
べると石高は極端に低く、日々の生活も大変ご苦労されていたようです。
公家にいたってはもっと厳しく近衛家で2800石、他の公家衆は200-800石程
でした、そのため公家衆は内職として、西園寺家の琵琶/冷泉家の歌/五条家
の相撲、行司の勧進元などで収入を補っていたとの事です。

幕府経済は江戸、商人経済の中心は大阪と、京都は物資、お金の流れから
取り残された状態でした。


400 :後西帝を二十二年の長きに渡って幽屏:2007/01/03(水) 16:47:55
「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、
「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」
棒杭みたいな標識があった。
北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、
この帝のみが畳十四、五枚の狭隘な、「凝華洞」に入れられ
給うた謎はなんであるのか。
「凝華洞」とは、恐れ多くも京所司代牧野佐渡守が、
二十七歳の帝を退位させ十歳の霊元帝を御位につけた後、
二十二年の長きに渡って幽屏(ゆうへい)し奉った獄舎だ
ったのである。
『京すずめ』が書かれた寛文五年は、御退位後三年目ゆえ、
作者は、先帝救出の悲願から。
「あみ張りの御小屋」と、竹矢来を張られた状況を、
謎かけのように書いたものであろう。
もちろん京所司代は躍気になって揉み消しを計ったらしい。

401 :事件の発端「東山天皇」、大石家は天皇の縁戚:2007/01/03(水) 16:49:04
>>398
じゃあ、霊元上皇や一条兼輝は?
一条前関白の正室が紀伊光貞の娘なら、吉良上野介の実子上杉綱憲の正室も光貞の娘
だよね。
それに霊元上皇の娘婿伏見宮邦永親王は?
上野介ゆかりの紀伊家と縁が深く、叔母が光貞の室、妹はのちに吉宗の正室になっている。
東山天皇や近衛と対立していたのなら、彼らはみな紀州派&吉良派かな?


402 :恫喝のために、洞の跡を故意に残していた:2007/01/03(水) 16:50:42
徳川体制は幕末まで、
「天皇さまと申せ公儀へ弓引かんとなさるにおいては、
かくのごとき目にあいまするぞ」
恫喝のために、洞の跡を故意に残していたのは酷にすぎる。


403 :江戸時代の天皇:2007/01/03(水) 16:53:53
後光明天皇 幕府が差し向けた医者による毒殺説有り。
桜町天皇 聖徳太子の再来。譲位した途端にあぼーん。
桃園天皇 カルト信者で崩御の四日前まで日記を執筆。追号の候補に後称光院。
仁孝天皇 便所へ逝く際に倒れてあぼーん。
孝明天皇 昔から毒殺説有り。

江戸時代の天皇でぁゃしぃのはこんなところかな?


404 :versus:2007/01/03(水) 19:16:18
霊元上皇〈法皇)―一条兼輝・兼香―綱吉―吉宗
            VS
東山天皇―中御門天皇―近衛基熈・家熈―家宣―尾張継友


405 :versus:2007/01/03(水) 19:16:57
霊元上皇〈法皇)―一条兼輝・兼香―綱吉―吉宗
            VS
東山天皇―中御門天皇―近衛基熈・家熈―家宣―尾張継友




406 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:51:43

上の段に柳沢吉保と吉良上野
下の段に水戸光圀を加えてもいいんじゃん。でも浅野はちょっとムリかな。

407 :吉良上野介を有名にし、恐れられた原因:2007/01/03(水) 19:58:05
「徳川家へ反抗なされば何様でもかくなるのである。見せしめとなさるが
よい」と若き日の吉良が思いきった前代未聞の暴挙をやってのけたので、
さすが豪気の後水尾帝もついに世をはかなんで延宝八年御崩御となる。
これが当時、吉良上野介を有名にし、恐れられた原因なのである。
その後吉良は「仏教興隆、神徒禁圧の大詔を出して頂くようにせい」と元
禄十四年に命じられると、(高家のため、江戸町奉行にも老中にも出世さ
せてもらえずのため)もう嫌気のさしていた吉良は、上洛したもののなす
処なく、京から戻って登城し、謝罪し、隠居願いを出した。
しかし柳沢は(御政道の裏向きを余りにも知悉している爺めをどうして野
放し出来ようか)と、最後の奉公納めとして、勅使饗応役を命じた。
そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて、吉良を憤らせ抜刀させようと
した。というのも、江戸時代というのは武士は矢鱈と刀を抜いてはいけな
いという定法があつたからである。


408 :水戸光圀(1628〜1700):2007/01/03(水) 19:59:00
光圀六十七歳、歯のもげた口で息が洩れるのを笑いものにされ、なぶりになぶられ、
「権現さまの血をひく徳川一族であるのに、この綱吉を除外し京より迎え
た者を五代将軍にすえ、己が補佐の名目で天下の副将軍にでもなり、
政権を私せんとなせし悪党めの、この哀れな老残の姿を見て、みなの見せ
しめとなせ」と散々に嘲弄されたあげく、また網かけ駕に施錠され常陸太
田へ護送され、その六年後に光圀は竹矢来に囲まれた張り番された芽屋で
朽木ように死んでゆく。

 実子や孫はみな処分され血筋は絶えていたから、水戸藩史でも高松より
の綱条の子孫が代々の主君となったので、幕末までは黙殺される存在でし
かなかったのが本当の処なのである。


409 :水戸光圀(1628〜1700):2007/01/03(水) 19:59:36
上洛してきた水戸光圀が,
「自作の短歌の添削をお願いしたし」と、室尋子の実家近衛信尋
を通して後西廃帝へ申し出たことを,京所司代より通達されるや
柳生者は、「・・・・・これは険呑、用心せねばなるまい」と、
従来は交替で一人だった見張りを倍加して用心した。
しかし辻斬りをしたり博奕までうって放蕩三昧のくり返しで、
水戸二十三万石の当主となった獅子王の光圀は、柳生者の警戒な
ど物ともせず、
「筆墨がご不自由ではござりませぬか」と奈良墨百挺に筆百本、
料紙十束を献上。もちろん、柳生の家臣は後西廃帝への差入れゆえ、
京水戸屋敷よりの使者を待たせ、料紙の一枚まで算えて厳重に検査
をした。なのに光圀は、自作の添削の礼として京を出発する際には、
朱墨五十挺と料紙百束という大量な進物をし、念入りに真綿で作ら
せた道服をも幽閉の廃帝に臆面もなく献上をした。


410 :水戸光圀(1628〜1700):2007/01/03(水) 20:02:45
今に残る「日本書記」や「続日本紀」などの『六国史』は、
この料紙と筆墨をもって、

「近頃は江戸を朝廷とよび、江戸城の閣老共が公家と自称。
よって京より下向きの御所の者は、徳川家へ気兼して官位をひとま
ず返上。前大納言とか前参議と無位無官になって東くだり。
戻ってきて官位を旧に復するなど言語道断。この国にありては平安
の昔から、京こそ体制であって正しいのだ」
 
なす事もなく後西廃帝は死ぬまで口惜しさに古文書を整理して御染
筆なさったものである。
 が、水戸光圀は柳生俊方の報告によって,ますますもって徳川綱
吉に睨まれ嫌われる結果となっただが、本人は獅子とよばれる程の
横紙破りの者ゆえ、当時はまだ無頓着だった。


411 :隠居閉門処分:2007/01/03(水) 20:07:22
「京所代小笠原や京奉行松前が、将軍家側用心柳沢吉保の送り込んで
きた吉良上野介と密談し、何かを策しているのが怪しい」と光圀は、
彼らの謀みが何かを探るため、貞享二年二月に後西さまが窮死された
後も京へは何度もいった。そして、
「京こそ体制である」との後西さまの意志を世に広めんと、湊川に楠
木正成の石碑もたてた。
 もちろん光圀の行動は、柳生俊方によって次々と江戸へ報告され続
けて行った。柳沢吉保は、
「あの方がいては吾らの企てが駄目になる」と将軍家の命令として隠
居閉門処分にした。
そして一歩も常陸太田より他出させぬよう跡目の綱条に言いつけ竹矢
来で囲ませ,番人をつけさせた。
 何故かといえば金をカネとみない銀貨幣制の京で、吉良上野介が柳
生に言われた通りに、従来の大判小判を強制的に通用禁止し集め蓄積
していたから、その秘密を匿し通すためであったらしい。

412 :TBSのドラマだけ :2007/01/03(水) 20:17:24
幕末に講談師の桃林亭東玉が「水戸黄門漫遊記」を創作してからポピュラー
になったようです。「この印籠が目に入らぬかぁ!」「ははぁ〜!」」とい
うシーンはTBSのドラマだけ。

もともと水戸家は幕末に「勤王の大本山」とされた藩で、水戸光圀が編纂さ
せた「大日本史(明治39年に完成)」は幕末の勤王志士の歴史観に大きな影
響を与えていて、光圀は幕末・明治の読書人に身近な存在でした。
光圀は、この「大日本史」に必要な資料を集めるために諸国に家臣を派遣し
ており、そうしたことも諸国漫遊話しの下地になっているようです。

また、光圀は徳川綱吉や柳沢吉保と時代を同じくし、「生類憐れみの令」
に反して牛や羊を平気で食べ、将軍へもずけずけものを言ったため、
庶民の受けも良く、名君とされる人です。

光圀自身は徳川家康の孫にあたります。当時の将軍の綱吉は家光の四男
で家康の曾孫。神君家康を基準とすればより近い尊い血になります。


413 :蛇足ながら:2007/01/03(水) 20:23:56
蛇足ながら、水戸家が「御三家」に加えられたのは家光の代の晩期頃からで、
家格も極官が権中納言と一段低いままでした。
建前上は御三家は平等に将軍候補を出せる家柄とされましたが、
実際には紀伊家、尾張家のどちらかから出すものと決まっていました。

414 :貨幣改鋳:2007/01/03(水) 21:01:35
新井白石が著書に中で、荻原重秀をボロクソに書いているから、
重秀の印象は概して良くない。このあたりは「文章に書いて残した者勝ち」
のような観さえある。
 貨幣改鋳にあたり、重秀はこう言っている。

 「金の量が問題なのではない。幕府に信用さえあれば、瓦だって貨幣と
して通用する。」

これは決して誤った認識ではない。日本の一万円札なんか、だだの紙切
れに過ぎない。
しかし、重秀の誤算が一点あった。

「幕府に信用がなかった」ことである。


415 :綱吉の浪費:2007/01/03(水) 21:03:03
綱吉の浪費は、例えば綱吉晩年では幕府収入80万両に対し
支出は140万両という恐ろしい数字が残っています。

416 :元禄バブル:2007/01/03(水) 21:04:23
従来金8割銀2割だったものを金6割にして、従来の2両分を
3両としたのです。
つまり、1.5倍幕府の収入を増やしたというわけです
元禄改鋳はある程度成功しました。
これは幕府権力などだけではなく、実際貨幣ニーズがあったために、
元禄改鋳の当初はスムーズに市場に受け入れられたというわけです。
一方で出目収入などにより幕府財政の破綻も防ぐことができました。

 また、副産物として経済成長が(一時期)うまくいったために
「元禄バブル」とも言うべき華やかな元禄文化が花開いたわけです。

417 :差益 1000万両(2兆円):2007/01/03(水) 21:11:43
萩原のとった政策は有名な金銀改鋳です。
簡単に言えば家康の作った金貨、銀貨を回収して貨幣を作り直し、
その時に金や銀の含有量を減らして貨幣を増やそうというものです。
増やした分が幕府の収入になりその時の出目(差益)が金貨450万両、
銀貨456万両でおおよそ1000万両(2兆円)というまさしくとてつも
ないものでした。その後も何度か改鋳を行い傾いた財政を打ち出の
小槌を振るように解決していきました。

418 :日本版ルネッサンス:2007/01/03(水) 21:51:43
元禄時代というのは、次々と金銀の含有量が希薄になる超インフレの
時代である。この波に乗り、柳沢に劣らず巧く立ち回って財をなした
傑物たち。「三井」の開祖八郎右衛門や「住友」の元祖吉左衛門、
鴻池の善右衛門などが輩出して壮観を示している。
しかし柳沢のインフレ政策で弱者は打ちひしがれ、江戸でも行き倒れ
が多かったと記録にあるが、こうした乱世こそ金儲けの時代だったのは、
三井や住友が今日なお健在なのでも解る。元禄時代は柳沢が古貨回収
水増し改鋳で利得をあげ、このバブル景気が彫金師や絵師に流れ、
歌舞伎や俳句の隆盛となり、日本版ルネッサンスとなったのである。

419 :荻原重秀:2007/01/03(水) 22:18:43
荻原家は、もともとは100石程度の石高で二条城詰めをしていた
家柄でした。
が、重秀は長男ではないので、家は、その兄が継いでいます。
だからふつうなら部屋住みと呼ばれ、どこかに養子にでも行か
ない限り、一生兄のすねをかじって暮らす身分でした。
しかし、幸運にも、1674年に分家を立てることが認められ、
幕府に召し出されて勘定方につき、その末席に位置すること
になります。
さらに幸運なことに、その後に綱吉の勘定所改革が始まっ
たため、彼は、その政策にしたがい、各地を転々とします。
その間、畿内における検地奉行としての功績や上州沼田の
真田氏の廃絶に伴う領地受け取りなど、様々な場面で能力
を発揮してその都度、昇格、昇級してします。
最終的に、96年に、柳沢吉保に登用されて、とうとう勘定
奉行にまで上り詰めます。
その後は、その有能さを買われて、次の家宣時代にまでま
たがって、30年間も、幕府財政を一手に掌握し続けること
になります。
 荻原重秀の生涯の不運は、家宣時代の重鎮であった新井
白石という優れた人物に、なぜかひどく嫌われたことです。
このため、30年間勤め上げた地位から追われ、その翌年に
憤死とも暗殺ともいわれる謎の死を遂げることになるとい
う悲運に合います。
そればかりか、今日に至るまで、悪名を残すことになってしま
ったのです。

420 :最後の奉公納め:2007/01/03(水) 22:43:11
柳沢は(御政道の裏向きを余りにも知悉している爺めをどうして野放
し出来ようか)と、最後の奉公納めとして、勅使饗応役を命じた。
そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて、吉良を憤らせ抜刀させ
ようとした。というのも、江戸時代というのは武士は矢鱈と刀を抜い
てはいけないという定法があつたからである。

武士が刀を抜くのは、その殿様が「抜いても良い」という許可を出し
たときに限られ、その禁を犯すと(身は切腹、御家は断絶)という厳
しい法があった。おそらく幕末になるまでの三百年間に、武士の斬り
合いなどは十年に一回もなかったろう。

だから刃傷さえしあえば吉良を切腹させられるからである。
余談になるが、現在大衆文学や映画テレビで演っているチャンバラは
全くの嘘と言うことになる。

421 :あまりにも不自然である:2007/01/03(水) 22:45:41
しかし利口な吉良は刀を抜かず、結局は逆になった。
江戸時代に千代田城刃傷は前後四回記録されているが、
浅野以外は皆相手を斬殺し、自分も突き殺されている。
刀を抜いたら何はどうあれ切腹、お家は断絶ということ
は解っているので、やむにやまれず抜く以上は、相手を
殺さねば何にもならぬ。見方を変えれば男の晴れ舞台な
のである。なのに浅野だけは三回も斬りつけて皆浅手で、
自分も無傷で捕らわれていて、あまりにも不自然である。

おそらく事前に柳沢の方から「お前は抜いても罪には問わぬ。
とにかく吉良に抜刀させるように致せ」ぐらいの内意があっ
たと思推される。だが失敗したので、浅野は有無を言わせず
口封じに即日バッサリである。この後、断絶した浅野の旧臣、
大石らに御家再興か他家への仕官をエサに、吉良を討たせて、
当初の目的を達成している。

422 :柳沢のマッチポンプ:2007/01/03(水) 22:48:02
これは完全に柳沢のマッチポンプである。ケネデイ暗殺にしろ、
文世光事件にしろ、必ず権力の強大な力が蠢いており、
元禄事件というのは、現在テレビや映画のような、あんなたあ
いのないものでは決してない。


423 :柳沢のマッチポンプ:2007/01/03(水) 22:55:12
呉服橋に上杉家より出させた一万両で建てた吉良邸が豪壮厳重で、討入りなどでき
るような建物ではないから、柳沢吉保大老は、私邸なのにお召し上げとし、代りに本
所の旧近藤登之助の古屋敷を与えた。官舎だから絵図面は今でも残っているが、いく
ら修理をしても辺鄙な場所で不便ゆえ、三姫は狸穴の上杉中屋敷に上野介を住まわせ
ていたが、米沢へ戻るのに上杉邸では出来ぬからと別れの会に本所へ行った。


424 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:56:43
確かに吉良の屋敷替えを見ても、幕府当局が赤穂に討ち入りさせることで
辻褄を合わせようとしたような意図は感じられる。

425 :柳沢のマッチポンプ:2007/01/03(水) 23:01:16
京の真似をして町木戸を、加賀爪甚十郎が町奉行の時に設けたが、本所から品川の
泉岳寺までは四十三ヵ所あると元禄江戸切絵図にもある。春闘とかゼネストのなかっ
た時代に、当夜に限って番太郎がみな錠をかけ忘れて、彼らを堂々と通した事は当時
としても考えられなかった。そこで、同時代の安藤広重の討入りの続きもの絵では、
往復ともに小舟に分乗している。
 が、実際は町木戸を監督する大番屋は十二月は南町奉行松前伊豆守の指揮下。松前
は牧野備後守が京所司代だった時の京町奉行から、勘定吟味役から勘定奉行に栄転し
た萩原重秀と共に江戸の奉行に昇進していた男。元禄版日本マフィアといってもよい
仕組みで、討入りの晩に本所二ツ目の紀伊国屋の小屋へ出かけてゆき、「殿よりの賜
物」と生卵を配ったのは、柳沢の三百石の家来の細野広沢であるし、また松前伊豆守
抱えの棒術指南の堀内源太左エ門も助太刀に赴いている。そのくせ討入りしたのは武
林唯七みたいな軽輩三名が五組ずつで、七十八歳の堀部弥兵衛や、その他は吉良上野
介が炭焼き小屋より邸前に曳き出され斬首される迄は、外にいて、
「寒うござる。火に温まらして下され」とか、
「白湯を一杯所望」
と、近くの旗本邸の番人にねだって邸外にいたにすぎないから、見張りをしていただ
けの話。


426 :柳沢のマッチポンプ:2007/01/03(水) 23:02:34
そこで、処分問題ではもめたが、萩生徂来として今も知られている儒臣が、柳沢の
命令どおりに公儀に対して進言している。
「みな賜死にすべきである」
と主張した彼は、細野広沢より上の五百石どりの柳沢吉安の臣。


427 :柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす):2007/01/03(水) 23:09:16
行政面での業績は評価されている。
また、側用人としてつかえた徳川綱吉の死去に伴い、
権力の座にしがみつくことなく潔く引退したことなども、
悪役説とはあまり整合性がない。

なお柳沢吉保は綱吉の文治政治に恭順するために儒者を多く
召し抱え、儒学の発展に少なからぬ役割を果たした。
有名な者には新井白石のライバル的存在として知られる荻生徂徠、
また忠臣蔵事件を裏から支援していたことで知られる細井広沢がいる。
細井広沢はのちに綱吉側用人の松平輝貞の不興を買い、
輝貞から柳沢家へ執拗に細井を放逐せよという圧力があったため、
やむなく放逐されたが、その後も吉保は浪人した広沢に年間50両
もの支援金を送って親交を持ち続けたという。


428 :柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす):2007/01/03(水) 23:26:25
柳沢は。大目付、寄合横目付、徒目付、勘定、寺社、江戸町奉行、
といった検察畑や裁判権まで一手に掌握。
宝永三年には隠匿されていた古金銀を国家権力によって強制供出させ、
銅や錫を半分以上混ぜた元禄通貨よりなお悪質な宝字貨を鋳造し流通
させ「初物配りである」と新鋳貨を人脈として繋がっている連中へ惜
しみなく配った、柳沢は宝永三年だけでなく、宝永六年にも京で新鋳の宝
永通貨を一人当たり現在の通貨に換算すれば十億にも相当する金額を
ばらまき、同七年には従来の二朱金を徹底的に回収し、倍額の「乾字
金」として放出。やはり十億見当の分配を幕閣の主立った者にしている。

賄賂というのは百両贈れば千両位の見返りを願うものだが、
それが思わしく行かぬと恨んで足を曳っぱりたがるものである。
だから賄賂を取らず、自分の方から金を撒いた柳沢は誰にも足を
曳っぱられもせず悠々として天下の権勢を独り占めにし、
表面では目立つようなことは避け、全ては蔭で仕切り、
晩年は駒込六義園で悠々自適しておられたのである。
その子孫は郡山十五万石で幕末まで続いている。

429 :柳沢吉保が仕組んだ:2007/01/03(水) 23:31:57
この事件の筋書きは柳沢吉保が仕組んだのではないだろうか。
出世願望の強い柳沢吉保は、徳川綱吉のお気に入り人間になっていた。
さらに、桂晶院を利用し朝廷まで手を伸ばし、従一位の位を狙って
いた。バブル経済を引き起こさせた柳沢吉保は、国の経済破綻を解
消すべく苦慮している時、吉良上野介と小判の改悪を図る。
この小判の問題が徳川綱吉に知れ渡るのを恐れ、吉良上野介を消し、
責任を彼に被せる計画を図ったのではないだろうか。赤穂の良質塩
と三河の塩が販売合戦をしている時、浅野内匠頭が勅使参向の饗応
正使役になった。饗応正使役の指南は高家吉良上野介が務める命令を、
柳沢吉保は徳川綱吉に薦めたのではないか。吉良上野介の性格と
浅野内匠頭の性格から浅野内匠頭の饗応正使役は失敗し、徳川綱吉
から両者に厳罰が与えられると目論んでいたのではないか。
勅使参向の登城時刻の情報操作も柳沢吉保ならできた筈である。
目論見通り浅野内匠頭と吉良上野介は上手くいかなくなる。
想わぬ展開が発生し、浅野内匠頭は殿中で刃傷に及んでしまう。

430 :柳沢吉保が説得したとすれば理屈が合う:2007/01/03(水) 23:33:54
これ幸いと喧嘩両成敗を主張し、両者切腹を願うが、
吉良上野介は許される。これでは計画は失敗してしまう。
そこで、浅野家、家臣の仇討ち計画を策定したのだろう。
仇討ちは即実施させず、世論が固まるまで待たせたと思う。
吉良邸の討ち入がスムーズに出来たのも、討ち入り後、
泉岳寺まで行けたのも、柳沢吉保が手を回していたなら可能である。
柳沢吉保は悪人では無い。吉良上野介を討ってくれた赤穂義士一党
を武士忠義の手本としてお咎め無しに努力する。
吉良上野介を討った赤穂義士一党が罪人であれば、即切腹なのに
1ヶ月半も審議している。さらに、2月4日の切腹後、亡骸は遺族に
引渡す筈なのに、主君の墓側に葬られたと言う事は、罪人でない
と幕府が決めたのに相違ない。
特異性格の徳川綱吉を説得したのは一体誰だったのか?
お気に入りの側用人・柳沢吉保が説得したとすれば理屈が合う。

431 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 12:29:03
ごくろーさん。
>そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて・・・
どーやって?
浅野=まとも、ならンナ話乗る訳ない。大目付とかに報告するだろフツー。
浅野=異常、ならンナ話持ちかける訳ない。
それに首尾良く生き残った吉良が、柳沢の陰謀に気づかないとでも?

インボー論て「動機」についてはくどい位にまくしたてるのに、
「実行」特に機密の漏洩をどうやったかについてはほとんどスルー。
いい例を見せてもらいました。

432 :日本@名無史さん :2007/01/04(木) 19:30:35
そもそも江戸城の刃傷事件で両成敗て
多賀vs川口のガチ切り合いの一例だけだし。
前例考えても吉良の切腹ありえねー

433 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 19:33:46
頭のおかしな奴に斬りつけられたら、斬られたほうが悪いのか?

434 :千代田城の刃傷:2007/01/04(木) 19:40:30
千代田城の刃傷は前後四回在った。整理すると以下になる。

一、豊島明重が井上元就を殺した。
二、稲葉正休が堀田正俊を殺した。
三、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけるが未遂。
四、佐野善左衛門の田沼意知殺し。

これら浅野以外は、どれも相手を一突きに仕留めている。
そして自分も滅多滅多に寄ってたかって斬り殺され、
白木桶に入れられ不浄門から出されている。
佐野の田沼殺しは、当時世直し大明神とされ
、評判になっているし、稲葉の大老堀田殺し
も江戸人には歓ばれたという。


435 :江戸城は権力者の私邸:2007/01/04(木) 19:49:51
江戸城の中と言えば、当時の権力中枢であると同時に権力者の
私邸でもあったわけで、そのような場所で「刃傷」
(にんじょう=他人を傷つけること、つまり傷害)事件を起せ
ばどうなるか=どのような処分を受けるか=は、子供にでも分か
りきったこと。

436 :乃木希典(のぎまれすけ):2007/01/04(木) 20:12:43
明治時代に軍人として活躍した乃木希典(のぎまれすけ)は、
山鹿流軍学を学んだ者として、次のように評価している。
「長矩に武人の心がけなし。なぜ突かぬのだ。斬るというのは
愚劣だ。」同様のことは、刃傷事件の頃にも世評があった。
浅野内匠頭長矩には、武士道の流れを引く教育はあったが、
彼の行動は感情的で、自制心に欠けるものであったと言えよう。

437 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 20:48:53
>>408凄い妄想だな

438 :越後屋との闘いは終わらない:2007/01/04(木) 20:52:26
小学校の低学年の頃だと思う。
学校から帰ってきて、おじいちゃんの家に行っては、おじいちゃんと
一緒に水戸黄門ばかり見ていた。主題歌である、「」を覚えるほどだ
った。小学校の頃の友達も友達で、私と同じで水戸黄門を見ていて、
一緒に「人生楽ありゃ苦もあるさ〜」なんて歌っていたものだ。
何が好きだったのか。小さい頃は、特に音楽が大好きだった。
「助さん、格さん、こらしめてやりなさい」と、黄門様が言った後に
かかる曲。「ここに居られるお方をどなたと心得る。
〜省略〜水戸光圀候にあらしゃられるぞ〜」と印籠を見せた後、
黄門様がアップになる所でかかる曲。最後の場面、ナレーションが
入って、道をみんなで歩く所にかかる曲。例えば越後屋が悪巧みを
しようとしているときにかかる曲。その音楽全てが大好きで、
それを聞くために見ていたっていう部分もあったりする。
特に好きな曲が、「こらしめてやりなさい」と言った後にかかる曲
である。その曲を分かってもらえないのは残念だけれど、
その曲がかからない限り、私の中で敵(例えば越後屋(笑))を倒
すことは出来ないのである。でも、たまに、好きではないものがか
かったりする。そうすると、「あ〜」とガックリしたものだ。
それは今でも思ってしまう。あの曲がかからない限り、
私と越後屋の闘いは終わらないのだから。


439 :水戸黄門印籠データ:2007/01/04(木) 20:53:20
2003年 3月17日 20時45分19秒 土下座人数約15人チャンバラ時間70秒
2003年 3月10日 20時45分51秒 土下座人数約15人チャンバラ時間90秒
2003年 3月 3日 20時44分34秒 土下座人数約55人チャンバラ時間45秒
2003年 2月24日 20時44分08秒 土下座人数約15人チャンバラ時間60秒
2003年 2月17日 20時45分05秒 土下座人数約20人チャンバラ時間110秒
2003年 2月10日 20時45分38秒 土下座人数約25人チャンバラ時間45秒
2003年 2月 3日 20時45分35秒 土下座人数約25人チャンバラ時間70秒
2003年 1月27日 20時46分26秒 土下座人数約15人チャンバラ時間105秒
2003年 1月20日 録画失敗のため計測不可。
2003年 1月13日 20時36分29秒 土下座人数約12人チャンバラ時間90秒
2003年 1月 6日 20時42分30秒 土下座人数約20人チャンバラ時間75秒
2002年12月16日 20時46分20秒 土下座人数約40人チャンバラ時間75秒
2002年12月 2日 20時45分40秒 土下座人数約20人チャンバラ時間50秒
2002年11月25日 20時46分39秒 土下座人数約20人チャンバラ時間90秒
2002年11月18日 20時45分47秒 土下座人数約20人チャンバラ時間72秒
2002年11月11日 20時46分51秒 土下座人数約20人チャンバラ時間100秒
2002年11月 4日 20時46分44秒 土下座人数約12人チャンバラ時間60秒
2002年10月28日 20時46分35秒 土下座人数約23人チャンバラ時間65秒
2002年10月21日 20時44分26秒 土下座人数約20人チャンバラ時間49秒
2002年10月14日 20時44分07秒 土下座人数約15人


440 :吉良のスケジュール:2007/01/04(木) 21:05:09
吉良上野介義央は多忙を極めた。
六一歳の年齢を考えると過酷と言われるほどのスケジュールである。
先ず、年が明けて、一月十一日に幕府を代表して年賀をおこなう
朝賀使として京に向かう。同行したのは、吉良上野介義央と同じ、
高家で接待役を命じられた畠山下総守基玄・大友近江守義孝・品川
豊前守伊氏。京について御所に参内し東山天皇と霊元上皇に将軍の
年賀を伝えたのが一月二八日。この時に吉良上野介義央は東山天皇
より盃を与えられたと言う。 京での仕事が終わり、吉良上野介義央
が江戸に戻り将軍徳川綱吉に挨拶をしたのが既に二月二九日である。
そして、勅使と院使を迎える準備に入ったのである。

441 :浅野内匠頭は、無類の女好き:2007/01/04(木) 21:12:26
浅野内匠頭は、無類の女好きで、家来たちはあちこちから
美女を捜し求めてきては殿様に差し出し、出世するのが当た
り前になっているという。大石内蔵助に対しては、女色に溺
れる主君を諫めないのは「不忠の臣」と非難している。
こういった評定がなされてまもなく江戸城松の廊下の刃傷事
件が起こった。「忠臣蔵」として、あまりにも有名だが、
それ以降大石は、忠臣の誉れ高い家臣として持ち上げられてい
るからおもしろい。ここで江戸幕府の大名掌握策の一つである
位階について説明しているが、人間の見栄や自尊心を見事に操
る徳川幕府のしたたかさを感じた。私にとっては目から鱗だ。

「殿様の通信簿」
著者;磯田道史 発行;朝日新聞社




442 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 21:22:58
不倫といえば真宗

443 :水戸黄門イデオロギー:2007/01/04(木) 21:24:27
水戸黄門イデオロギーということを前から言っています.
どういうことかといいますと,水戸黄門ドラマを全然見たこ
とがないという人はいますか?ほとんどの人は一回くらい見
てますよね,で,あれは一生懸命見ようとはとても誰も思い
ませんけども,しかし罪のない勧善懲悪ドラマくらいにはみ
なさん思っているかもしれないですね.ところが私は決して
そうは思わないんですよ.見たことがない人にはちょっと説
明しなければいけないんですけど,あれは要するに悪代官と
かいろんなものが弱いものいじめをするのですけども,その
ときに最後の段階で,助さん格さんが一生懸命がんばってそ
れでもどうしようもない,そのときに水戸黄門が現れて,悪
人の前で印籠を示す.そうするとどれだけ大勢いたとしても
全ての悪人がいっせいにひれ伏すわけですね.そして「この
方をなんと心得る」と印籠を出すとみんながひれ伏すという
パターンで終わるわけです.で,あのシーンにこめられてい
る暗黙のメッセージ,サブリミナルなメッセージというのは
何なのかということを考えてみると,結局「権力というのは
究極的には善である」というメッセージではないでしょうか.

444 :忠臣蔵イデオロギー:2007/01/04(木) 21:26:24
忠臣蔵イデオロギー.忠臣蔵もほとんどの人が見たことがあ
ると思うんですけども,これまた「お家大事」ということが
中心ですね.すべての価値基準はその集団,小さな集団の利
益が最優先である,現代に翻訳すると会社の利益が最優先で
ある,倫理的な規範というのは二の次であるということです
ね.それから連想するのは儒教.儒教のなかにあの直躬説話
というのがありますが,これはみなさん知っていますか.こ
れはどういうものかといいますと,自分の親が羊を盗んだ,
それを息子が当局に密告したと.それをこういう風に親の不
正でも見逃さないようにやっていますよと孔子にいったら,
孔子が「それはとんでもないことだ,親の間違いは隠さなく
てはならない」といったというのがあるんです.まあ,それ
は確かに家族の間ではそうかもしれませんけども,これが拡
大解釈されてですね,身内のものは,悪はかばうという風に
どこかで変わっているのではないかという気がします.私は
儒教に相当敵意を持っているわけですけども,いろんなそう
いう文化的な装置が非常に大きな影響を及ぼしている.


445 :いじめ問題:2007/01/04(木) 21:41:26
いじめ問題が叫ばれているが、忠臣蔵こそ、国民を上げての「いじめ」ではなかろうか。
江戸時代を題材にした物語として「水戸黄門諸国漫遊」がある。
こちらも、行く先々で、悪を懲らしめる勧善懲悪ものだが、フィクションである事は周知の事実である。
ドラマで懲らしめられる悪人どもは、実在のものではない。
しかし、吉良上野介は、実在の人物である。
例えば、善良な老人が、夜遊びの少年に注意をしたとする。
ここでその少年が「何を、しじい、喧しい」と殴り掛かったところ、警察に補導された。
その後、この少年の仲間数十人が、徒党を組んでこの老人を取り囲み、殴るケルの暴行を加えたとする。
さて、この少年たちは「仲間思いの良い友達」と称えられるのであろうか。
この老人は暴行を加えられるべき悪人なのだろうか。
「事実を認識し、的確な判断を」と言う観点からは、こういった日本人の感覚は、相当にずれていると言わざるをえない。


446 :日本@名無史さん :2007/01/05(金) 00:51:18
>>434
千代田城の刃傷は

一、猶村孫九郎が同僚を殺そうとして、止めに入った他の同僚を斬殺した。(即死ではない) →死罪。
二、豊島明重が井上元就を刺殺した。(即死) →死罪。その場で自害説もあり。
三、稲葉正休が堀田正俊を刺殺した。(即死)  →その場で斬られる。
四、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけるが未遂。 →死罪。
五、多賀主税と川口権平がガチで斬り合った。 →双方死亡。両家ともに改易。
六、水野忠恒が毛利師就に斬りつけるが未遂。 →流罪。水野家は改易。
七、板倉勝該が板倉勝清を殺そうとしたら、うっかり人違いで細川宗孝を斬殺した。(即死ではない) →死罪。
八、佐野善左衛門が田沼意知を斬殺した。(即死ではない) →死罪。
九、松平外記が同僚三人を斬殺した。(即死)  →その場で自害。

なんだけど

447 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 00:59:22
>>434
千代田城の刃傷は前後四回在った・・・・9回です。
>これら浅野以外は、どれも相手を一突きに仕留めている・・・・これもウソ。

参照
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/ikon.htm
これ以外にも、
1627年 御小姓組猶村孫九郎が西の丸で 一緒にいた木造氏、鈴木氏と口論の末に斬りつけた。
1716年 小普請奉行多賀主税と同役川口権平が詰所で口論の末、 刃傷。二人とも重症を負った。
・・・・で以上9件。

さらに殿中ではないが、
1680 家綱法要時に、増上寺で浅野内匠頭の叔父に当たる鳥羽藩主内藤忠勝が
     宮津藩主永井尚長を斬殺。
1709 綱吉葬儀の際、寛永寺で大聖寺藩主前田利昌が柳本藩主織田秀親を刺殺。


448 :日本@名無史さん :2007/01/05(金) 19:53:25
>>446-447
お前ら
江戸城内で刀抜いて
切りかかる前に取り押さえられて死罪になった水野伊兵衛のことも
ときどきでいいから思い出してやらないか

449 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:32:17

日本史板の常識

コテ=馬鹿




450 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:12:52
コテハンもセンスがいいなら、まだ許せる。
許せないのは、まんまコピペ。
もっと見苦しい。

451 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:35:51
殿中で刀を抜いたら、
それも鯉口を三寸抜いただけで、身は切腹、家は断絶って
よく聞くけどこの掟、なによるもの?
武家諸法度ではなさそうだけど。。。

452 :厠でご用中 間違われ 襲われた:2007/01/06(土) 05:45:04
厠でご用中は、裃の背中の家紋のみが人別の印です。
この様な訳で間違われ 襲われたと云われています。
また、厠でご用中は、全くの無防備な状態であるとこ
ろから致命傷を受けたと推定されます。
 諸大名が駆けつけた時、既に細川宗孝は絶命して
いたとも云われます。ところが、伊達家六代宗村公が
「あいやー まだ生きている 即刻 下城然る可し」
と絶叫。この機転によって細川家は御家断絶が免れま
した。宗孝が生存中に後継を弟の重賢(シゲカタ)に決
めた事にし、幕府に届け承認を得た後に宗孝の死が
公表されました。これで、重賢が細川家七代となり
細川家は御家安泰となりました。この謝礼を如何す
べきか細川家では困惑したそうです。

453 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 08:16:46
細川宗孝は負傷後かつぎこまれた城中焚火之間でまもなく死去。
熱心に介抱したのは松平兵部少輔。
死亡は大目付河野豊前守が確認し、将軍にも報告されたが、
大御所吉宗の内意を得て、生存のままという建前で、死体を駕籠に乗せ、
細川藩邸まで戻らせた。
判元見届という公儀役人による当主の生存と養子縁組の意思確認という手続きも
経てないのに、吉宗の意向で重賢の末期養子が認められた。

454 :日本史上最悪の犯罪集団=赤穂浪士:2007/01/06(土) 17:56:31
被告人等は、同人等の雇用主であり、昨年死刑を執行された故・浅野内匠頭長矩死刑囚の
「遺恨」ないし「無念」を晴らすために、本事件を惹起したるものと主張している。

しかしながら、当該事件については、浅野死刑囚が訳の分からないことを口走りながら、
かねて所持したる刀剣を振り回して、無関係の被害者・吉良上野介義央−同人は本件の
被害者でもある−に、背後から一方的に斬りつけ、負傷せしめ足るものであることが、
その死刑判決において事実認定されているところである。

法秩序をつかさどる裁判所が、凶悪犯罪を厳しく断罪するのは当然のことであって、
被告人等、ことに首魁であり、かつて浅野死刑囚を扶育するべき筆頭家老の職にあった
大石内蔵助良雄は、自らが一貫して浅野死刑囚を甘やかし、同人に人倫を尊重するように
教導することを怠った結果、かかる悲惨な結果を招いたことに対して、真摯な反省を示し、
被害者に謝罪するのが、人間として当然取るべき態度である。

しかるに、自らの責任を省みることもなく、死刑判決に不服を抱き、何の落ち度もない、
喧嘩の相手ですらなかった被害者を逆恨みして、ありもしない「遺恨」ないし「無念」を
呼号し、真夜中に徒党を組んで被害者宅に押し入り、就眠中であった被害者ならびに
その使用人を集団で惨殺するという、司法制度を侮り、踏みにじる暴力団顔負けの暴挙を
敢えてなしたるものである。しかも、事件の後も現在に至るまで、浅野死刑囚の「遺恨」
ないし「無念」を晴らすため、「喧嘩両成敗」などという、自分勝手な主張を繰り返し、
被害者に対する謝罪や反省の態度が微塵も見られないばかりか、厚顔にも「忠義」を
売り物に自らの利を図ろうとするなど、わが国の歴史上において、かつて類を見ない、
凶悪かつ独善的な犯罪であって、一片の理解も同情も寄せるすべのない性質のものであり、
もはや裁判所としては、極刑をもってこれに対処せざるを得ない。

主文、大石内蔵助良雄以下、被告人全員を死刑に処す。

455 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:16:32
幕府の公式記録である『徳川実記』でも、
浪士の討ち入りはかなり好意的(というより絶賛に近い)に書かれてあるんだよなあ。

456 :朝廷いじめ:2007/01/06(土) 20:32:25
朝廷いじめの先頭に立っていたのが上野介

457 :営中刃傷記:2007/01/06(土) 20:35:27
江戸時代の代表的な武家の刃傷事件を集めたものとして『営中刃傷記』という文献がある。
 異本もあって、それぞれ収録されている件数に食い違いがあるらしいが、活字化されているものでは
十四例の刃傷事件とその判例が報告されている。
 掲載順に紹介すると、

 寛永四年  猶村孫九郎事件
 寛永五年  豊島信庸事件
 亭享元年  稲葉正休事件
 元禄十四年 浅野長矩事件
 正徳六年  多賀高國・川口權平事件
 享保十年  水野忠恒事件
 延享四年  板倉勝該事件
 正保三年  高島左近事件
 寛文四年  一色直正事件
 延宝八年  内藤忠勝事件
 宝永八年  前田利昌事件
 貞享元年  小島正房事件
 天明四年  佐野政言事件
 文政六年  松平外記事件

 紹介されていない事件でも朝比奈泰申の刃傷とか池田長頼の刃傷とかいろいろあるけれども、
きりがないから『営中刃傷記』で紹介されている事件だけで限定する。


458 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:37:32
>>455
それって事件から100年後に書かれたんだよね。
その間の影響が大きいと思うな。

459 :不条理ホラー:2007/01/06(土) 20:40:48
忠臣蔵を今に置き換えると、礼儀にうるさい老人が、
若者に注意したら逆切れして殺されかけ、
それが原因で一家離散した家族に命を狙われ、
最後には世間も警察もその家族の行為を応援する・・・・・
ある意味、不条理ホラーだな。


460 :反政府民兵組織による集団テロ行為:2007/01/06(土) 20:41:41
赤穂浪士って
今で言うと反政府民兵組織による集団テロ行為だよな


461 :題名:2007/01/06(土) 20:48:41
「忠臣蔵」という題名自体、赤穂寄りの題名であって、

「本所事件」「1214事件」とかにせんと

462 :忠臣蔵通検定試験:2007/01/06(土) 20:53:29
<忠臣蔵>あなたの「通」ぶりは? 検定試験で認定します

 「真の忠臣蔵通」を認定する「忠臣蔵通検定試験」を、財団法人中央義士会(東京都台東区)が始める。
1702(元禄15)年の赤穂四十七士討ち入りから300年を越えたが、「日本の精神的文化の財産である
忠臣蔵を、改めて一般の人に知ってもらう」のが狙い。
第1回の検定試験は12月18日、地元・兵庫県赤穂市や東京など国内約10カ所で実施する。

中央義士会は1912年設立、19年に財団法人に認可された。
赤穂義士に関連する研究や講演会の開催、書籍の出版などの活動をしており、会員数は約300人。
これまで会員を対象に「忠臣蔵博士試験」を実施してきたが、「忠臣蔵通検定試験」は一般に門戸を開いた
初めての試験となる。

試験は四者択一と一部記述式の全50問。四十七士や歴史的経緯など忠臣蔵にまつわる一般的知識を問う。
1時間半の解答時間で、40問以上正解すれば合格となる。
合否の結果は試験日から1カ月以内に本人に通知される。
合格者には同義士会から合格証書と「忠臣蔵講師」の称号が与えられ、希望者には講演の仕事も紹介するという。
同義士会は「一人でも多くの人に受検してもらい、知識を深めてもらえれば」としている。

申し込みは11月30日まで。先着100人で締め切り。受検料1万円。
受検申込書の請求などの問い合わせは、同義士会。

ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050822-00000012-mai-soci


463 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:14:12
大量殺人事件で金儲けか・・・許せん。

464 :おれおれ:2007/01/06(土) 21:19:56
おれおれ内匠頭だけど、ああ大石か、
それでおれ、殿中で躓いて高価な壷蹴倒しちゃって、
それで弁償金100両だから直ぐ用意して、
一刻後に取立人が屋敷に行くから、そいつに渡してくれ。


465 :おれおれ:2007/01/06(土) 21:20:26
もしもし、吉良と申しますけど
浅野さんの御宅ですか、
そちらのご子息が、授業料をまだ入金されてないので
至急入金いただけませんでしょうか
入金いただけないと、ホント、とんでもない事になるので
よろしくおねがいします


466 :おれおれ:2007/01/06(土) 21:21:12
おれおれ内匠頭だけど、ああ大石か、
おれ殿中で吉良ってやつ斬っちゃって
それで切腹するところなんだけど
このままじゃ悔しいから吉良やっちゃってくれ。


467 :凶器準備集合罪:2007/01/06(土) 21:40:09
浅野内匠頭の家臣である大石内蔵助ら四十七士が吉良邸に浅野内匠頭の復讐として討ち入った事件。
まず、刀を持って本所の吉良邸に集合すると、刑法第208条の3の凶器準備集合罪が成立する。

刑法第208条の3第1項及び2項
「@二人以上の者が他人の生命、身体又は財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合において、
凶器を準備して又はその準備があることを知って集合した者は、
二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。 A前項の場合において、
凶器を準備して又はその準備があることを知って人を集合させた者は、
三年以下の懲役に処する。」


468 :騒乱罪:2007/01/06(土) 21:41:03
47人で暴行及び脅迫をしていれば、刑法第106条の騒乱罪が成立する。

刑法第106条
「多衆で集合して暴行又は脅迫をした者は、騒乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一  首謀者は、一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。
二  他人を指揮し、又は他人に率先して勢いを助けた者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
三  付和随行した者は、十万円以下の罰金に処する。 」


469 :建造物損壊罪 器物損壊罪:2007/01/06(土) 21:42:22
吉良邸の建物を破壊しながら、吉良を捜しているので、刑法第260条の建造物損壊罪ないしは同第261条の器物損壊罪が成立する。
ここで、問題となるのは、吉良邸の損壊がどの程度なのかということであるが、一応、現在の判例上、「障子、襖、雨戸、ガラス戸、畳」は「器物」にあたり、
器物損壊罪の客体と考えられている(東京高判昭和55年6月19日刑月12-6-433参照)ため、吉良邸の損壊程度によって刑が変わると考えられる。

刑法第260条(建造物損壊)
「他人の建造物又は艦船を損壊した者は、五年以下の懲役に処する。よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。」
刑法第261条(器物損壊)
「前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。」


470 :殺人罪:2007/01/06(土) 21:43:38
多数の吉良及び吉良の家臣などを殺害又は傷害しているので、先の傷害罪の他に、刑法第199条の殺人罪も成立する。

刑法第199条
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」


471 :住居侵入罪:2007/01/06(土) 21:44:35
吉良邸に不法(殺人)の目的に侵入しているので、刑法第130条の住居侵入罪も成立する(ただし、殺人との関係で牽連犯になると思われる)。

刑法第130条
「正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。」


472 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:50:37
>>458
たしかにね。
でも幕府の真意を推し量る公式見解としては、これしかないのでは?
まあ、後世の脚色ではなく、当時の柳営録や柳営日次記、続武家評林などを
根拠に書いているのだろうし。
ただ、『実紀』の元禄15年12月15日の記述――あれだけの肩入れはたしかに疑問。
元禄15年2月4日の記述にある輪王寺宮公辯法親王の意見が、当時幕府が最終的に下した
ほんとうの評価みたく思える。

473 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:53:10
>>467-471
あのな。
現在の刑法に照らして裁く意味あんの?
馬鹿みたい。

474 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:01:40
本当に忠義だというなら、江戸藩邸の家臣は知らせを聞いたらすぐに国元への使者以外は
全員で吉良邸に切り込むか切腹すべき。
知らせを受けた国元の連中も同様、東海道で心臓爆発させて死ぬくらいの覚悟が忠義。
首尾良くやろうなんて考えるだけでも不潤かつ姑息。
極論だけどね。

475 :予備行為が、未遂でも処罰:2007/01/06(土) 22:05:23
「喧嘩両成敗なのに、浅野内匠頭の方だけが処分されて、即日切腹城地没取は酷なり」
などいうが『営中刃傷記』にある三十四例の内では、刀の柄に手をかけ引き抜き掛け
ただけで、死罪になっている者もある。
 殺傷という結果論より、それを目的とする予備行為が、未遂でも処罰されたのであ
る。
 だから、刀を抜く時は、
「他意なき証拠」に白旗を立てるか、略して白紙を口に挟むような形式化さえ始まっ
た。
 講談では(口から吐く息を刀身に吹きかけぬ為)などというが、昔でも大抵の人は
鼻で呼吸したものだから、それならば鼻へも紙をねじって詰めねばならぬことになる。
だが、それでは刀をぬくと、誰もが息が詰まってみな卒倒してしまう。つまり講談の
嘘である。


476 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:09:38
本懐を遂げなければ、忠義は立たない。
ただの激情に駆られた猪武者の愚挙ってことに。
策を弄したり、用意周到になるのは当たり前。

477 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:13:25
>だから刀を抜く時は・・・
これって殿中では通用しないでしょ。

くどいけど、誰か鯉口三寸切ったら死罪って、根拠になる掟
が何なのか、ぜひ教えてほしいな。

478 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:20:23
史実、史実っていうなら、
よくわかんねーけど、瑤泉院ってお歯黒じゃないのけ?
稲森のお歯黒、見たくねーえ。

479 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:26:39
吉良は実子上杉綱憲の米沢藩にも金をせびりまくり、
綱憲以外の家臣から嫌われていたとか。

480 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:29:19
浅野長矩以前に、勅使饗応役だった亀井氏の記録を見ても、
上野介はケッコウ金の亡者らしい。

481 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:46:28
吉良は地元で名君扱いされてるらしいが、
高家でほとんど江戸と京を行き来して多忙。
城中の式事は年がら年中だしさ。
領国経営は家臣任せなんだろ。
あんまりあしざまに言われるから、地元が必死こいてるだけ。

482 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:46:47
高家は石高の割に家格が高いから、相対的に支出が多くなり大変なんだろ。
本家スジの喜連川氏なんて、かなりピーピーしてたみたいじゃん。

483 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 00:02:22
>>480
その話
いいだしっぺは蜀山人

484 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:02:25
浅野が清廉高潔な人物とはいわないけど、
考えてもみ、
若い頃から、官位ばかり高く、朝廷と交渉できるプライドが高じて、
幕府の権威を嵩に公卿たちにも言いたい放題。
だけど石高は、田舎大名にもかなわない。
プライドとコンプレックスが同居して、
そんな吉良がどれだけ傲慢不遜な男になるかを。


485 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:06:02
見当ハズレとは言わないけど
老中だって5〜10万石程度だろ?
田舎大名(加賀・薩摩・長州・阿波・秋田等)に全然かなわない・・・

486 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 13:43:17
いくら遠隔地にあるとはいえ、
ふつう官位も城中席次も高い国持や準国持を
田舎大名とは言わないわな。

487 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:13:38
結局のところ、刃傷に及んだ理由は何だったんだろ?
今、学界とかでは、どのような答えで落ち着いてるの?

488 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:29:32
>>487 いじめの説が有力らしいよ。結局は浅野長矩が精神的に弱かったと言う事だろう。

489 :忠臣蔵について:2007/01/07(日) 21:26:54
浅野は名君?
→名君なら殿中で刃傷沙汰に及ばない。
 やるなら饗応役終了後吉良をこっそりと殺る。
吉良は名君?
→大名ではないから、家臣団や兵隊を養う必要がない。
 また、役付きで幕府から別枠で色々あるし、形式としての指南料も入った。
 なにより上杉家から色々せびっていたらしい。
 そのため、領内の税率が低い=住民にとって名君。
吉良は金の亡者?
→上杉家は大変だったらしい。
 亀井さんの記録は>>247に仮名手本忠臣蔵以降書かれた可能性があるらしい。
 忠臣蔵の爆発的な人気により元禄赤穂事件関係は捏造した情報が氾濫しているため信頼性は薄い。
浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由
→正直わからない。記録に残っていない。
喧嘩両成敗では?
→口論しあっていて(特に鮒侍とか言われて)浅野が斬りつけたらな抵触するが、
 いきなり斬りかかってきたのでは喧嘩以前の問題である。
 刃傷の理由を内匠頭が言わない以上喧嘩でなく、片落ち決着ではない。
浅野は乱心?
→本人は否定している。乱心した人間は普通「俺は乱心している」とは言わない。
 そのため乱心扱いされなかった。
 乱心なら減俸の上浅野大学が継ぐ可能性はあった。
 最も綱吉が激怒していたからどう転んだかは不明。
即日切腹は非道いのでは?
→饗応している期間中に饗応役が現場監督と言うべき指南役を斬りつけた。
 綱吉が激怒するのも当然だが、配慮が無かったのも否めない。
 ただ、死罪以外の選択肢はなかった。

490 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:05:31
だいたい吉良が名君って、
生涯で一度しか国入りしてないそうじゃん。
塩田開発にしたって、吉良の領内ではなく近隣の上総大喜多藩の飛び地でのこと
らしいし、
「黄金堤」に至っては、「墨俣一夜城」と同じく虚飾に満ちてるし。



491 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 01:07:19
一般論の名君と領民から規定した名君は別物だろう。
一般論的には改革や政策で政権運営を建て直す者が名君。
領民にとって税金が安く生活に干渉しなければ名君なんだろう。

そういう意味では天領の領民が一番緩かったらしい。

492 :日本@名無史さん :2007/01/08(月) 09:49:50
新選組多摩メンバーが佐幕一筋だったのも
天領育ちだからだしね。
>そういう意味では天領の領民が一番緩かったらしい。

493 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:05:07
内匠頭ってはっきりと吉良を伐てって遺命を残してるんですか?
もしそうでないのなら、遺恨があって吉良をうとうとしたが失敗=無念までは事実しても、
だから吉良を伐ては必ずしもイコールではないのでは?
そうすると、大石たちの行動は仇討ちでないのは当然として、
それどころか勝手に行動を忖度しての全くの身勝手な行動な可能性もあるのでは?

494 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 11:36:37
年貢を低くするには、政策的に殖産興業や新田開発を行なわなければ無理。


495 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:01:26
>>494
大名じゃないから家運営の出費は少ない。
収入の面では上杉からせびるし役付きだし指南料も入る。
年貢からの収益だけでやり繰りする必要が無いでしょう。

496 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:29:07
江戸での生活は出費が多く、上洛以外ほとんど江戸定府だった吉良家は
華美好みな上野介の浪費癖もあって火の車。
石高が少ないのに官位ばかりは10万石以上並みで、その格式を保つのも大変。
だから一万両近い借金を商人にして、そのほとんどを上杉家に肩代わりさせた。
役料や役得みたいな指南料などで賄うなんて、桁が違う。
まして吉良の領地には塩田跡もなく、塩がらみの収入の記録もない。
(開拓したのは富好新田ぐらいか?)
いずれにせよ、それで年貢を低くしたって記録残ってるのかな?

497 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:40:04
>>493
残してないよ。
切腹に誰も立ち会ってなくて、遺体が返されるのにも時間がかかり、
時世の句が本人のものか疑わしい。
「刺殺された後、死に装束に着替えさせられて返された」と疑っても
おかしくない状況。
キチガイを見ても理解できず、馬鹿にされたと思った犬公方が成敗
しちゃったとの考えも成り立つ。
赤穂側の重臣は遺恨の有無より事件当日の切腹への疑念のほうが大き
かったはず。
主君の遺恨を晴らすなんて、あくまで大義名分。
大石にしてみれば、「公儀が事実を隠蔽して勝手に浅野家をつぶしたの
であれば、浅野旧臣もまた勝手に敵討ちと称して吉良を討つ」って思いな
んだろう。
誰かに刺殺された可能性があって、吉良じゃなきゃ幕府要職のものと
推察できるから、とりあえず一方の吉良を狙ったのだろう。
低い身分のものは、世間の風聞を信じ遺恨があったと思い込んでいるが、
重臣はそのようなことが無いことは承知していて、ただただ納得いかなかっ
たのが公儀の不審な態度。
それゆえに、公儀が実質的に過ちを認める形になる浅野家再興を最優先
に置き、討ち入りはそれがかなわなかった場合の最後の手段としていた。
遺命があったならば、優先順位があるはずが無い。

498 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:56:55
仇討ちに、そもそも遺言や遺命は必要ない。故人の無念を慮ってするもの。
但し公認されていたのは「君父の仇」だけで、荒木又衛門で有名な伊賀の仇討ち
などの兄弟親戚は、本来は非合法。
浅野については、蘇鉄の間で取調べを受けた際、目付多門伝八郎に吉良に遺恨があると
供述しているし、松の大廊下でも遺恨云々を叫んで斬りかかったと梶川与惣兵衛の日記
にある。
多門に虚言癖があるとか、梶川は事件後、周囲の悪評を気に病んで、浅野有利に脚色したとか
いろいろ言われるが、その場にいた稀有な当事者の証言を否定する確たる根拠もないだろう。

499 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:13:44
>>498
斬り掛かった→止めを刺すため吉良をキルするという論理は間違ってはいないと思う。
ただ斬り掛かるときの有名な「先の遺恨覚えたか」と書かれた梶川日記は原本は消失し、写本があるだけ。
そのうち一つには劇的な台詞が書かれていない・・・と、テレビでやっていた。
遺恨があったとの供述も理由が書かれていない。
もしかしたら浅野自身何で激怒したか解っていないのでは?

500 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:47:09
>吉良は名君?
>→大名ではないから、家臣団や兵隊を養う必要がない。
これはひどい

501 :日本@名無史さん :2007/01/08(月) 15:09:42
伊賀の仇討ちは池田の殿さまが病死する際に
「河合又五郎の首を打って俺の墓前に供えろ。池田家が潰れても構わん」と遺言したから主君の仇討ちが成立するのだよ。
池田家臣団はそれでも幕府に睨まれたくないんで仇討ちを止める側にまわったけど。

502 :日本@名無史さん :2007/01/08(月) 15:24:57
>その場にいた稀有な当事者の証言を否定する確たる根拠もないだろう。
梶川
・古い写本では「内匠頭声かけ切り付け」(内匠頭が何かいいながら切りかかった)

多門
・切腹直前に片岡源五右衛門がこっそり田村邸へやってきたと書いている。(当日田村邸は立ち入り禁止)
・切腹直前に浅野が辞世の句を読んだと書いている。(田村家の記録にない)
・切腹翌日に浅野本家が切腹に抗議したと書いている。(浅野本家の記録にない)
・年末に片岡が江戸城内の詰め所へ多門を訪ねてきたと書いている。(浪人がそう簡単に江戸城内へ入れるのか)

503 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:02:15
>>502
疑わしい記述の指摘であって、確たる証拠とは言えないだろう。
「多門筆記」は片岡源五との最期のお目見えにせよ、辞世の句にせよ、
昔から疑義はあった。

だが、すべてが脚色だとは言い切れない。


504 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:10:56
>>503
殿中で刄傷があったこと。
取り調べで遺恨の理由がないこと。
即日切腹。
この辺りは脚色ではないな。

505 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:21:15
そのとおり。
多門伝八郎の取調べの中で、浅野が「遺恨あり」と供述した。
だが、理由は語らなかった。
・・・しかし、この記述さえ疑う余地はあって、
それを言い出したら、他に裏づける史料がないってだけでなく、
反証となる史料の提示が必要になる。


506 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:49:25
伊賀の仇討ちは、本来は仇討ちとして成立しません。
・兄が弟の敵を討つのは、親が子の仇を討つのと同様、「逆敵討」になるので禁止。
・主君の仇討ち許可は領内に留まり、領外で行なうには、幕府の許可が必要。

しかし公儀は仇討ちを奨励していた節があり、厳密には君父の仇に限られたていたものが、
兄、夫、叔父の仇などにも許され、禁止されていた武士以外の仇討ちも寛大に扱われたりした。




507 :日本@名無史さん :2007/01/08(月) 21:52:38
多門?
ああ乱心を認められても殿中刃傷犯は改易なのに(内藤とか板倉とか)
乱心を認めたら浅野家までは罪が及ばないからとか
妙なこと浅野に吹き込んで断られた電波目付か。


508 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:53:18
各々方また年末に会おう

509 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 12:40:42
>>479
寛文の折りの
綱勝公変死に何かと疑惑のある爺さんの息子を
主君としてつかえることできるか。
ましてその爺さんの護衛に命かけるなんか
ばかばかしい。


510 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 21:16:20
年末は赤穂市役所からの工作がうるさいから、
歴史の真実の究明は年末までにゆっくりやろう。

511 :赤穂市 企画振興部 観光商工課:2007/01/09(火) 21:27:51
平成18年11月5日(日)に行われた「赤穂義士娘選考会」で、
11名の一般応募の中から、下記の3名の方々が「第22代赤穂義士娘」
に決定いたしました。(写真右から)
http://www.city.ako.hyogo.jp/section/kikaku/kankou/new/musume/index.html

512 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:08:36
市長が天の声で支持者の娘を選んだな・・・

513 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:24:40
>>511
チョ〜ッw
この面子はは義士に失礼だろw
選考した奴の好みの問題か?
それとも応募した11人が全員アレだったのか?

514 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 23:16:18
>>513
忠義の士は女性の容貌の美醜など問題にしません。
選考基準はそこらにあるのではないか?

515 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:04:09
赤穂は歴史を偽造する。

516 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 22:42:54
>>467-471
赤穂のテロリストは、吉良上野介の日記も盗み出している。
当初から日記を奪うつもりなら、強盗殺人罪が成立。
吉良家家臣の殺害後に簒奪の意思を生じたならば、殺人罪と窃盗罪が成立。



517 :日本@名無史さん:2007/01/11(木) 01:03:57
赤穂の工作員死ね

518 :司法はどう判断するか:2007/01/11(木) 21:32:55
ころは元禄十四年十二月十四日。言わずと知れた忠臣蔵だ。
主君の無念を晴らした赤穂浪士四十七士の物語は仮名手本忠臣蔵
をはじめ数々の媒体で語り継がれている。

 警察担当記者と忠臣蔵が平成十四年に”発生”したら司法はど
う判断するか話し合った。まず吉良上野介に対する殺人の共同共謀正犯。
吉良邸に乱入したことで住居不法浸入罪。抵抗した清水一学ら多数
の死傷者を出したことは殺意がないということで傷害致死罪か。
弓、刀など帯同には凶器準備集合罪、銃刀法違反。治安を乱したから
破壊活動防止法を適用されるかも知れない。

 しかし主謀者の大石内蔵助でも重くても無期懲役で死刑判決はない
との決論だ。不景気で企業のお家断絶(倒産)が続く。民主主義社会
でのお家断絶の恨みは選挙で?

519 :死体損壊罪:2007/01/11(木) 21:34:53
凶器準備集合罪(討ち入り前に、かねてより打合せておいた民家で喧嘩装束に着替えた)

住居侵入(無断で押し入った)

騒音防止条例違反(戦闘中の騒音、勝どきの声)

銃刀法所持違反(日本刀、槍、弓)

器物破損(門や灯篭、雨戸や襖、障子、畳その他)

殺人罪(17名)

傷害罪(23名)

死体遺棄罪(死体を放置)

死体損壊罪(吉良の首を切断した)

無届デモ(事件後、泉岳寺まで、徒党を組んで行進した。)



520 :日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:53:18
内乱罪を適用せよ。

521 :一地方の平穏を害するに足りる程度:2007/01/11(木) 22:03:03
内乱罪の行為は暴動である。 暴動は多人数を要するから当然本罪は必要的共犯の一種たる多衆犯である。 暴行・脅迫は最広義の暴行を意味する。

「暴動」とは
少なくとも一地方の平穏を害するに足りる程度のものでなければならない。
なぜならば、そういう事態に至らなければ憲法の定める基本秩序を壊乱する目的を遂げたとは言えないからである。
着手時期・既遂時期
本罪の着手時期は、暴動を行うための集団行動が開始された時とされる。
暴動が行われた結果、少なくとも一地方の平穏を害するに足りる程度に至ると既遂である。危険犯であり未遂犯は想定されていない。


522 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 04:09:28
今の法律で裁いたら、そもそも浅野内匠頭は死刑にならん。
つーか、ちゃんと許可を受けた仇討ちだって「殺人」になるじゃん。

523 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 06:28:36
>>522
浅野は傷害か殺人未遂かな。
弁護側は情状酌量や精神鑑定を要求してきそうだ。

524 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 17:49:11
きちがい判定で情状酌量しようとしたら本人がきちがいじゃねぇよって
言い張ったからから実刑がでたんじゃなかったっけ

525 :日本@名無史さん:2007/01/12(金) 18:36:54
前にも書いていた人がいたけど
その話は作り話っぽいよね。
きちがいと判定されてもたいして情状酌量にならんのがホントなのに
目付けがきちがいだったら罪が軽くなるなら認めろなんて勧めるわけないし。

526 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 17:00:24
だから、今の法律で裁く意味なんかねえーの!バ〜カ!!

527 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 18:55:10
武士は全員銃刀法違反。

528 :中川剛「日本人の法感覚」:2007/01/13(土) 20:49:48
忠臣蔵は、日本人にとっては永遠の当り狂言で、今後も変わることが
ないであろうが、法的な見方、 要するに野暮な見方に徹すれば、
この事件はじつに蛮行の連続である。江戸城中での、大名どうしのさ
さいなことからの私闘(けんか)に、集団で復讐が行われる。
討たれるのは一人の老人であり、しかも彼は切りつけられた側なのだ。
仇討ちは時間をかけて、恐るべき執念深さで行われる。
そうして、老人を討ち果たしたあと、浪士たちはことごとく切腹を命
じられる。しかしなによりも、この仇討ちは合法的な手続きを踏んだ
ものではなかった。それが許可されるはずはないのであって、
相手 に切りつけた当の大名は、すでに幕府によって処罰されているのである。

529 :中川剛「日本人の法感覚」:2007/01/13(土) 20:51:52
現代ならば殺人罪はもちろんのこと、住居侵入罪、騒擾罪、脅迫罪、
建造物器物破損罪のほか、凶器準備集合罪、死体損壊罪が適用され、
暴力団用の暴力行為等処罰に関する法律や破壊活動防止法にも抵触す
るかもしれない。浅野内匠頭自身がすでに、殺人未遂の罪をひき起こ
しているのだ。し かし十二月ともなれば、今なお忠臣蔵が、季節に
ふさわしいイメージとなっているのがわかるスポー ツならば野球に
相当する集団ドラマは、われわれの心性に合っているのかもしれない。
その夜は降らなかったはずの雪まで降らせ、鳴らしたはずのない山鹿
流の陣太鼓まで添えて、舞台効果が高められる。
事件は伝説化し、美学となっていった。

これを分析する角度はいくつも、無数といってよいほど考えられるが、
明白な違法行為が、それとは意識されないほどに自然に肯定されている
事実を中心に眺めてみたい。


530 :中川剛「日本人の法感覚」:2007/01/13(土) 20:52:49
浪士たちはなかなかの遵法家である。
むろん、こういう言い方が矛盾していることは認めなくてはならない。
法を犯し、裁判を無視した物がどうして遵法家たりうるのか。
これは親分の怨みを晴らした子分のやくざが、神妙に自首して出る
ことを遵法と言えるとしての評価である。忠臣蔵は、仇をひそかに
闇討ちするとか、殺して逃げるとかの常套手段に訴えることがない。
犯罪には違いないのだが、違法合法の論理が一貫しないのである。
喧嘩両成敗は戦国以来の掟であり、それではじめて封建杜会の平和
が保てたのであるから、浪士たちはこの法原理に挑戦したわけでは
ない。もしもかれらが、幕府による法の適用を不満としたのであれば、
暗殺と逃亡がとるべき手段でなくてはならなかった。
仇討ち行動に対する処罰を甘受したのでは、ことになるからである。

531 :中川剛「日本人の法感覚」:2007/01/13(土) 20:54:31
かれらは、法を破ることが正義に反するとは考えない。
しかし法を破ったことの責任は負わねばならぬと考えている。
ではいったい、法とはなんであるのか。ます第一に引き出せる結論は、
天下の大法といえども正義とは関係ないということである。
これは奇異に響くかもしれないが、普遍的正義を語るものとして法
が存在しているものではないという法感覚が暗示されている欧米の
法意識とは、ここに 根本的な相違が見出されるであろう。
第二に、法は秩序保持の手段であるという意識がそこにうかがわれ
る人間生活では、正義は大切だが、秩序もこれに劣らず重要である。
多少筋は通らなくても秩序の保持による安定を求める傾向は、
いかなる法制度にも認めることができる。
正義と秩序とは、つきつめると両立しないから、法文化のなかでは、
いずれかが優位に置かれている忠臣蔵の感覚は、法を秩序保持の機構
と見るものである

532 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:35:55
刃傷の原因が、乱心によるものかどうかなど、精神鑑定をしたわけでもないのに
断定できるか疑問。
刃傷に及べば、切腹、改易は不可避だが、個人の乱心となれば、係累へのお咎めも
最小限に留められるし、縁者による家名再興の道も残される。
多門伝八郎が言ったかどうかは別として、浅野一人の乱心として処理しようとする
動きがあったとしたら、その辺りが真意では?


533 :組織的犯行:2007/01/13(土) 22:19:36
今日未明、東京都内で一家惨殺の痛ましい事件が起きました。

 殺害されたのは、会社経営・吉良康介さんと、その家族、住み込み
のお手伝いさんなど、吉良さん宅に居住する人全員で、実行犯47人は、
その場で殺人の現行犯で逮捕されました。

 主犯格の無職・大石蔵助容疑者は、動機について「会社が潰れたのは
吉良のせいだ」と供述しており、他実行犯46人も同様の供述をしてい
る模様。
 大掛かりな組織的犯行とみて、当局は捜査を進めています。

 大石容疑者の勤務先であった(株)赤穂労働使役派遣(通称・赤穂
労使)は、吉良さんの経営する(株)キラキラと同系列グループ企業
の子会社同士であり、当局では怨恨の可能性も否定できないとしています。

 (株)赤穂労使の経営者であった、浅野匠受刑者は、同グループの総会
の席で、吉良さんに服装の乱れを注意された事に腹を立て、
持っていた刃物で斬りかかり、殺人未遂の現行犯で逮捕、服役中。
 そのあおりを受け(株)赤穂労使は、先日倒産しました

534 :日本法制史演習 :2007/01/13(土) 22:22:46
歌舞伎や時代劇の定番としてなじみ深い「忠臣蔵」のモデルとな
った「赤穂事件」(浅野内匠頭の刃傷事件を契機とする赤穂浪士
による吉良邸討ち入り事件)という江戸時代の一大事件は、江戸
時代の法や社会を考える上で重要な手掛かりを与えてくれる。
本演習は、赤穂事件の事実経過、事件についての同時代人による
論評、それらの背景にある江戸時代の国家構造、等について詳し
く検討することを通じて、江戸時代の法と社会について理解を深
めることを目指す。
なお、年度末にはゼミ論集を発行する。

535 :Well, gentlemen, are you ready?:2007/01/13(土) 22:25:46
Well, gentlemen, are you ready?

ここは討ち入り直前、有名なそば屋の二階に四十七士が集まるところです。
忠臣蔵のような封建的なドラマが、はたして国際的に通用するのかという議論がありますが、
日本人はともすれば自分たちの文化を特殊で普遍性を欠いたものだと
考えがちです。人情というものはどんな文化圏に住んでいてもさほど
異なるものではありません。特にあだ討ち(Avenge)というのは、
モンテ・クリスト伯爵の例にもあるように、非常に普遍的なテーマです。

さて、ではここにある台詞を英語でいってみましょう。
「おのおの方、お覚悟は宣しいか」
おのおの方というのは呼びかけですね。しかも侍同士ですから格式ばっています。
"Hey, you guys!"じゃあ駄目、学園ドラマになっちゃいます。"Everybody!"だとコンサートです。
"Gentlemen!"---いいですね。集まっているのが男性ばかりなので、これでいいでしょう。
「お覚悟は宜しいか」は、"Are you ready?"でいいでしょう。
"Are you ready, gentlemen?"これいきましょう。


536 :As soon as we get to Kira's mansion, I'll beat the drum:2007/01/13(土) 22:27:08
As soon as we get to Kira's mansion, I'll beat the drum.

「吉良邸に着くとすぐ、拙者は太鼓を叩き申す」

吉良邸というからには、大きなお屋敷で、こういうのをマンションといいます。吉良がマンションに住んでいるというと、何だかバリアフリーの3LDKのベランダで盆栽でもいじっているように聞こえますが、mansionは大邸宅のことです。

「着くとすぐ」はas soon asが使えますよね。As soon as we get to Kira's mansion...
そして、太鼓を叩くは"beat the drum"ですね。
"As soon as we get to Kira's mansion, I'll beat the drum."で行きましょうか。


537 :The sound of the drum will wake Lord Kira up.:2007/01/13(土) 22:29:04
The sound of the drum will wake Lord Kira up.

「太鼓の音に吉良殿は目を覚ます」

さて、ここで主語を何にするかがモンダイですな。
「吉良殿」が主語か、「太鼓の音」が主語か。
吉良殿が主語なら、「吉良殿は太鼓の音によって目ざめさせられるであろう」と受身にしないといけませんね。
吉良殿はLord Kiraがいいでしょう。
Lord Kira will be awaken by the sound of the drum.

「太鼓の音」が主語ならどうでしょう。awakeは他動詞ですから、そのまま、太鼓の音が吉良を起こすといえばいいですね。
The sound of the drum will awake Lord Kira.あるいはwake+誰か+up
を使って
The sound of the drum will wake Lord Kira up.


538 :a shed for storing charcoal bundles :2007/01/13(土) 22:32:16
...and then, through the underground passage, he'll go to a shed for storing charcoal bundles and hide himself there.


「...そして抜け穴を通って炭小屋へ行き、そこに隠れるであろう」

そんなことがわかっていれば最初から炭小屋を探すのですが、そこは漫画です。
さて、抜け穴ですが、法律の抜け穴は a loophole (legal loophole)ですが、物理的な抜け穴ですから、an underground passageがいいですね。
アンドレ・ジッドに『法王庁の抜け穴』という変な小説がありますが、あれはフランス語でLes caves du Vatican (caveは地下室)です。

「炭小屋」ふーむ、a shed for storing charcoal bundlesという風に説明しなければならないでしょうか。

...and then, through the underground passage, he'll go to a shed for storing charcoal bundles and hide himself in it.
長いですが、こうでも言わないと仕方がありませんね。


539 :A coward...:2007/01/13(土) 22:33:00
A coward...


「ひきょう者め」と、四十七士が憤慨しています。
 a coward...
とでもいっておきましょうか。ここはそんなに難しくありません。


540 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 22:44:04
まあ、現代の法に照らして(それも中坊並みの法知識で)
赤穂浪士を犯罪集団扱いするのは大笑いだが、
連中は、そもそも浅野の裁きが暗黒裁判であることを忘れてるな。

541 :法律破りでいながら、心情倫理的に支持を集めた:2007/01/13(土) 22:53:04
一世を風靡した桃中軒雲右衛門は、貧しい中から身を起し、
一種アナーキズムに近いラディカルな思想を持ち、自由恋愛によって
結婚しながら、やくざや右翼とも関係が深かった。中国革命を支援し
た宮崎滔天もまた雲右衛門に弟子入りして、浪曲師となった。

 その浪花節のなかでもっとも人気があったのは、忠臣蔵。忠臣蔵の
仇討ちがまさに、法律破りでいながら、心情倫理的に支持を集めたと
いう指摘は重要だ。忠臣蔵だけでない。国定忠治・清水次郎長など、
人気のあるやくざ者はみな、法律的にはアウトローでありながら、
倫理的にはまさにイエの規範に則る親分・子分的モラルを鼓吹するも
のであったことは指摘のとおりだ。その心情が拡張されると、親分で
あり親である天皇への絶対服従という心情的ファシズムが形成される。


542 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:06:56
江戸時代の法律がいかに厳しいかが解る物語だよな。忠臣蔵って!それと比べれば現代の法律は甘過ぎる。

543 :江戸時代の刑罰:2007/01/13(土) 23:12:51
江戸時代の刑罰は非常にややこしく専門家でない限りわかりにくい。
時代考証を充分なされたはずの池波さんですら作中では追放刑に期限が
定められている間違いを犯すほどの複雑である。死刑など正刑に加えて
闕所などの付加刑や特定の身分のみに適用される閏刑(じゅんけい)が
組み合わされる。刑は為政者に裁量に任していたが江戸時代の法律が整
理された「公事方御定書」(寛保二年1747年)が制定後はこれに基づき
裁判は行われた。

 現代では法律は公表され六法全書など調べようと思えば誰でも知るこ
とはできるが江戸時代の「公事方御定書」という法典を持つのは町・
勘定・寺社三奉行のみである。「犯罪を犯せばどのような刑罰に処せら
れるかわからない」という恐怖心を煽り犯罪を抑制する秘密主義を採っ
ていた。実際には執行される刑を覚えたのか誰かが意図的に漏らしたか
はわからないが「十両盗めば死刑」など案外広く知られていた。



544 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:16:40
法に基づいてとか、法律破りとかいうけど、当時成文化された法律なんて
ほとんどないの。強いて言えば慣習法。
法治主義じゃなく、人治主義。
浅野と吉良の処分も、赤穂浪士の処分も、将軍や幕閣が恣意的に決めたもの。
大石らの処遇も、参考にしたのは、諸侯の評判や、儒者や輪王寺宮の意見。

545 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:20:02
「公事方御定書」・・・元禄の頃にはなかったわな。

546 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:20:18
他の似たような事件も似たような判決なんだから
浅野の裁判はおかしくない。

547 :江戸の訴訟:2007/01/13(土) 23:23:37
江戸時代の人々は裁判を極端に恐れ、嫌ったこと。
 当時の人々は、犯罪や事故はできる限り内済(示談)ですまそうとした。
 というのは、いったん裁判に巻き込まれると原告、被告ともに多大の時間と金額を費やすことを余儀なくされ、周囲にも迷惑をかける。
 たとえば、裏長屋の住人が奉行所に出頭するときは長屋の大家や、親戚なども同道しなければならない。連座制が適用されたからだ。
 当時の裁判がいかに原告・被告に負担になったかは、『江戸の訴訟』(高橋敏著、岩波書店、一九九六年)を読むとよくわかる。


548 :身分制:2007/01/13(土) 23:27:30
当時の身分制では、下の者ほど過酷だった。
 たとえば、商家の主人や職人の親方が丁稚や徒弟をいじめて殺しても、たいていはうやむやに処理された。しかし、丁稚が主人、徒弟が親方を殺せば大変である。「主殺し」として獄門など極刑に処された。
 また、武家屋敷で、主人が女中や下女などを犯しても、それは「お手がついた」として許された。いっぽう、下男が主人の娘と情を通じれば、不義密通として死罪になった。
 かくいうしだいで、下々の人間はたとえ殺されても殺され損で、上の人間の罪科は咎められることはなかった。


549 :日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:42:41

殿中刃傷=切腹改易・・・当時ならそれでいい。
だが現代の法律を持ち出して馬鹿こいてる輩がいるから、暗黒裁判だと言ったまで。
被害者の吉良はは生存しているし、
梶川や多門ばかりでなく、『徳川実紀』にも書いてあるとおり、
「宿意あり」と浅野が供述していたとすれば、もっと詮議に手続きを踏むべき。
即日切腹の処分も異例。
同じ大名が当事者となる内藤、前田(以上は殿中ではないが)、板倉、水野の例では、
「狂気のいたす所・・・」とか「失心し・・・」と『実紀』にも記述があるが、
浅野の場合はそれがない。



550 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 01:37:34
基地外が刃物振り回して、その事件の裁判が不当だから斬られた被害者の老人を
集団で嬲り殺していいというのは、基地外でなければ赤穂市民しかしない主張やで。

551 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 04:20:07
綱吉がガチギレしたからね>即日切腹

552 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 05:05:19
武家政権の矛盾あるいは欠点、限界だね。
近現代にも通ずる官僚制、行政形態だった点からすれば幕府の措置は適当。
しかし武士が政治を牛耳り、武士道が行動規範となっていた側面からすれば仇討ちもやむなし。
大石も最初は合法的な上告・抗告(今風に言えば)をして、それが叶わないとなった時点で
実力行動に出ている。穏当なところだろ。少なくとも、すぐにテロに訴えるウヨサヨよりは。

553 :桃中軒雲右衛門:2007/01/14(日) 07:10:26
「赤穂義士伝」、つまり「忠臣蔵」を引っさげて、日露戦争の前後
に浪花節ブームを引き起こした桃中軒雲右衛門の場合、彼自身が国
士を気取って「武士道鼓吹」と銘打ち、その人気に関心を持った内
務省の官僚によって浪花節奨励会が作られています。浪花節は、国
民を『危険思想』から守る徳義教育の面において有用とされたのです。



554 :国本武春:2007/01/14(日) 07:36:58
忠臣蔵は国本武春のお家芸と言える。
国本が新たに創り上げたザ・忠臣蔵は、伝統芸の名台詞を現代の音楽
で磨き上げる。三味線の弾き語りで物語の発端(「殿中刃傷」吉良と
浅野“江戸城松の廊下での刃傷”)を力強いロックのリズムに乗せて
シャウト!続く「田村邸の別れ」は浅野内匠頭、片岡源吾右衛門、
今生の別れを哀切のバラードにのせて歌い語る。そしてラストを飾る
「吉良邸討ち入り」の場面前半はファンクのリズムにのせて大石内蔵
助以下四十七士の討ち入りを歌い、本懐を遂げ高輪泉岳寺までの道の
りを一転バラードで語る。この“ザ・忠臣蔵”のパフォーマンスで芸
術選奨を受賞。2001年より年末恒例となる公演「国本武春の大忠臣蔵」
がスタートし今日に至っている。


555 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 07:43:40
>>550
浅野が基地外なんて、ただの推測。
すくなくとも当時の幕府はそんな認定をしていない。

556 :精神分裂症「統合失調症」:2007/01/14(日) 07:53:58
精神分裂症が「統合失調」結局何だか分らないままに、逆に差別が広
がっています。精神分裂症は誰でもなる可能性があり、尚かつ、通常
の内臓疾患と同じで誰が何時、発症するかは分らないのです。
まず、幻聴が聞こえるために、「神の声が聞こえる」といって新興宗
教の教祖になったらりする例があります。今はテレビに出ていません
が、Mさんですがよく憑依する現象をテレビでやっていましたが、横に
精神科の医者がいて分らないのですからテレビを見た翌日大学病院の
先生とあれ分裂症ですよね。と話題になったぐらいです。歴史上の人
物では、私はかなり疑っているのが、忠臣蔵の浅野内匠頭です。
文献ですと、小さいときからかなり変わっていた子供だったようです。
ですから、吉良はご沙汰なしは、当時の柳沢吉保などの重臣としては、
どうも浅野殿は日頃どこか気が違っているのでと思っていたのではな
いでしょうか。浅野家の家臣はたまったではありませんが、吉良上野介
もたまったものではありません。

557 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 08:09:06
日頃からどこか気が違っている・・・なんて幕閣が思ってたら、
勅使饗応役なんて任せるわけないだろ。

558 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 08:20:10
柳沢吉保あたりになると、浅野長矩クラスなど、顔さえ知らぬかもな。
勅使饗応役の申し渡しや、年賀などでの白書院での披露など、老中が
やるしね。

559 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 10:36:33
浅野長矩に「痞え」の持病があったことは確からしいが、
今で言う心身症の一種なら、基地外などとは到底言えない。
忠臣蔵で有名になりすぎて、あれやこれや詮索されてわかったのだろうが、
大名なんて、生まれながらにして不自由を知らず、阿諛追従に囲まれ、
病的な自惚れが本性になっている。何事か気に入らぬことがあれば、すぐ逆上したりする。
その程度の患いは、大名の多くが持っていたのではないか?
症状が重いのなら、もともと綱吉時代の52件(54件)の大名廃絶のうち、
11件と多い「乱心・狂疾」を理由として、とっくに公儀に取り潰されるか、
家臣に押し込められて、長広あたりに家督を奪われていただろう。




560 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:06:59
「心身症」か。上でも羽田沖日航機墜落の「逆噴射」の例を挙げていたが、
原因がハッキリしない以上、無難な解釈だと思う。

脇差しで人を殺すなら、言葉通り刺すのが確実なのに斬りつけた辺り、まさに「逆噴射」って感じがする。
「浅野殿、何するんですか!やめて下さいっっ〜」

561 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:37:44
被害者の老人を集団で嬲り殺して(藁
被害者ヅラすんなよなあ。。。権柄づくの金の亡者が。
嬲り殺し。。。殺してよし。朝廷も幕府も上杉家も、庶民までもがみ〜んな喜んだ。



562 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 14:33:48
正室の富子さえ喜んだかもな。
一緒の墓に入るのも嫌がったんだから。

563 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 15:37:45
あんまり吉良批判に必死こくな。
吉良の肩を持つ連中は、
@通説とは違う珍奇な説にすぐ飛びつく珍しモノ好き(もう言い古されて、実は珍しくもなんともないんだが)
A世間の評価に何かと難癖をつけたがるアマノジャク(学校でも職場でも、理屈コキで嫌われ者)
B忠義って言葉に、生理的に反発するサヨ(政治的にはまったく影響力を失い、2ちゃんでストレス発散)
Cただの無知(映画や小説でネタ仕入れ、短絡的な批評をする)
D吉良町の住民(吉良が名君などと歴史捏造に躍起、商売もからんでいるから)
のいずれか、なんだから。



564 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:55:15
@の「通説」ってどんなんだ?
上にもあったが、「詳しい原因は不明」ってのが史料から得られる直接の結果じゃないの?
で「常識」で考えれば吉良は被害者となる。
学会での「通説」とやらを聞かせてくれないか?

565 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 17:33:31
学会って・・・あのな、ここは2ちゃんだぜ。
世間一般に受け容れられてる顛末って意味。
第一、学会って何の学会のことを言ってるか知らんが、こんなテーマに通説なんて
ありっこないのは、わかるだろう。読み違えもほどほどに。

それと、常識って・・・それ、現代の常識だろ。
当時、吉良が一方的な被害者なんて思われていない。
前にも誰か書いていたが、「徳川実紀」ですらそうだ。

566 :吉良温泉:2007/01/14(日) 18:00:44
以前、温泉でもないのに吉良温泉の名称を使用するのはおかしくないか
と吉良町役場に問い合わせたことがある。

その回答は下記の通りだった。
ご指摘の、吉良温泉の名称に関しましては、
従来より固有名詞的に使用されており、
県からも吉良温泉の名称使用についての指導は受けておりません。

オレ的には疑問だな。
非常識や輩の集合体みたいなもんだな。吉良。


567 :温泉偽装問題:2007/01/14(日) 18:01:50
吉良温泉(きらおんせん)は愛知県南部の三河湾岸、
愛知県幡豆郡吉良町(旧国三河国)に湧出する温泉。
かつて温泉偽装問題により、取り沙汰された温泉だが、
現在は法律上にも準拠した新たな源泉を利用している。
沿岸一帯は三河湾国定公園に含まれる風光明媚な地にある。



568 :1993年頃に温泉が涸渇:2007/01/14(日) 18:03:37
吉良温泉は蒲郡市の西浦と同様、周辺の自然風景と海の幸を
生かした近郊の保養温泉として発達した過程を持つ。
その頃の泉質は放射能泉であった。しかし、1993年頃に温泉が涸渇
する。だが、イメージダウンと観光客減少をおそれた観光協会は黙
って、温泉と偽り続け営業していた。その後、摘発されるまで実に
10年も掛かっている。

569 :赤穂のドキュン浪人よりはまし:2007/01/14(日) 18:05:38
温泉は知らんが、
仇討ちでも無いものを仇討ちといって、殴りこみをかける、
赤穂のドキュン浪人よりはましだろう。


570 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:10:04
赤穂は歴史を偽造する。

571 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:14:04
赤穂の土産物屋にも生活があるだろう。許してやれ。

572 :break into:2007/01/14(日) 18:18:57
We'll break into the mansion and kill those who resist us.Don't worry. The enemies will be off their guards.

「押し入る」はbreak intoです。「手向かう奴ら」は、「なになにする人々」すなわち those who +動詞を使うと、those who resist usとなりますね。倒すは、はっきりいって殺すことですから kill. ”We'll break into the mansion and kill those who resist us. "
心配は無用は"don't worry"としておきましょうか。敵は油断している=油断するは、be off one's guardという表現があります。
"Don't worry. The enemies will be off their guards."


573 :The most powerful antagonist will be killed by Yasubei.:2007/01/14(日) 18:19:54
The most powerful antagonist will be killed by Yasubei.

いちばん強い奴⇒もっとも強力な敵、と置き換えましょうか。
敵はenemy だけではなく、敵役だとantagonistという単語もあります。The most powerful antagonist will be killed by Yasubei.


574 :revengeとavenge:2007/01/14(日) 18:20:30
And we will avenge our master.

あだ討ちをするという語にはrevengeとavengeとがあります。revengeというと、復讐するという暗いイメージがあるのに対して、avengeには正義を行うというポジティヴなイメージがあります。

赤穂浪士は義士と呼ばれるように、幕府の不公平な裁きに大して義憤を覚えていた人々の気持ちを代弁したわけですから、avengeのほうが適切でしょう。


575 :心身症:2007/01/14(日) 18:25:50
当時浅野守はストレスによる心身症だった可能性が高いそうです。
逆恨みによる刃傷沙汰の可能性も否定できないんだとか!

しかもしかも、なんと浅野内匠守の叔父も20年前に
殿中での刃傷沙汰を起こし切腹の事態になっている。
(これは憶測ではなく事実)

刃傷沙汰を起こせばどうなるか身内の出来事で
重々わかっていたはずなのに
心身症と生来の気性の激しさでついつい、うっかり・・・
なんてことも考えられるんだそうですよ!


576 :心身症がこうじた逆ギレ:2007/01/14(日) 18:28:04
小林信彦の考証小説『裏表忠臣蔵』によると、浅野内匠頭の
松の廊下の刃傷沙汰は、吉良上野介の“いじめ”が引き起こ
したという定説とは裏腹に、一種の心身症がこうじた逆ギレ
だったのだそう。史実と大衆心理との興味深い齟齬をうかが
わせるエピソードだが、『忠臣蔵』の設定がそれだけ日本人
の判官びいきになじむ物語であった

577 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:30:21
赤穂は別に歴史捏造しなくても、
「忠臣蔵」のお陰で善玉扱い。
むしろ捏造に必死で、吉良弁護におおわらわなのは吉良の方。

578 :心身症:2007/01/14(日) 18:31:32
自律神経失調症、仮面うつ病、パニック障害、摂食障害、

心因性嘔吐、過敏性腸症候群、頭痛・肩こり、過敏性膀胱、

胃潰瘍、過呼吸症候群、社会不安障害、種々の心身症など

579 :こころの問題:2007/01/14(日) 18:35:06
心身症(しんしんしょう)は、こころの問題の関与が大きい身体疾患の総称。

精神の持続的な緊張やストレスによって発生する。
身体的な検査で実際に異常を認めることも多い身体疾患であるが、
症状の発生や、症状の増悪に心因が影響している疾患をさす。

身体的な治療と並行して、心理面の治療やケアも必要な場合が多い。


580 :誘因:2007/01/14(日) 18:36:28
心身症になりやすい人の性格傾向として、アレキシサイミアと呼ば
れるタイプが指摘されている。これは自己の感情を意識的に認知す
ることの苦手さや、空想力、創造力の欠如を特徴とする性格傾向で
ある。アレキシサイミアの人は、不満や不安などの感情を意識で認
識する代わりに、身体で表現してしまうのではないかというメカニ
ズムが考えられている。

また、例えば「攻撃的な性格の人は循環器系の疾患になりやすい」
など、その人のパーソナリティと症状が表れる身体部位が関連する
という説が一部にはあるが、明確に証明されているわけではない。

581 :天気が悪かった:2007/01/14(日) 18:41:14
内匠頭は、随分短気な人だったようです。
それに痞(つかえ)と言う持病を抱えていたのだそうです。
痞えとは、胸が痞えのつかえです。
内匠頭の痞えは、そんな生易しいものでは有りませんでした。
発作が生じると、顔面が蒼白になり、こめかみに青筋が立ち、
片方の顔面が痙攣し、特に天気の悪い日に発症傾向が強かっ
たそうです。松の廊下事件の日も天気が悪かったそうです。

582 :痞(つか)え:2007/01/14(日) 18:47:29
内匠頭には“痞(つか)え”という持病があったことは多くの記録があります。痞えと
は、胸の痞えの“つかえ”で、「餅がのどにつかえる」など、危険なものから、
「恋の思いで胸が苦しい・・・」といった、切ないものまでを意味しますが、早い話、
胸がスッキリしない状態をいいます。内匠頭の“痞え”は、そんな生易しいものではなく、
発作が生じると、顔面が蒼白になり、こめかみに青筋が立ち、片方の顔面が痙攣し、
特に天気の悪い日に発症傾向が強いなどが主な症状です。
厄介なことには、この病が今日の医学において、何の疾病に該当するかが不明なことです。
医学が科学として未熟であった頃の病名は、心の臓の患い、癪、などと、主として症状や
異常を感じる部位が病名になりました。内匠頭の“痞え”を解明することは、「刃傷松
の廊下」の謎解きの、重要なカギになると私は思います。解明への具体策の一つは、
藩医や御殿医などが残した“痞え”に関する詳細な記録を探し、精査し、現代医学的考察を
することでしょう。興味深いことは、「松の廊下事件」が生じた日は、天候がよろしくなかった
との記録があることです。私の推察では、事の善悪ができなくなり、発作的に常軌を逸した
行動にはしる心身症が、今のところ一番近い病名ではないかと思っています。
その証拠の一つとして、刃傷後直ちにお預けになった田村家で、内匠頭は、なんと酒と
食事を所望したとの記録があるそうです。

583 :赤穂市医師会:2007/01/14(日) 18:50:04
赤穂には忠臣蔵にまつわる名医達がおります。
赤穂藩筆頭藩医近松伊看(義士 近松勘六 奥田貞右衛門の祖父)
がおり、その後を継いだ口分田玄端(くもでげんすい)さらに浅野
長矩の痞(つかえ−胸がつかえ息が苦しくなる)の病のために京都
の名医寺井玄渓を大石内蔵助が招聘し、その後、内蔵助とは討ち
入りの詳細をうち明けられるまでになります。彼の要請から遺族
や遺児の放免に奔走します。一方、赤穂藩江戸詰藩医内海道憶は
曲直瀬道三(5、6代目か)の門下生であり、これまた良く義士を助
けたが、討ち入りには加わらず、事後処理に活躍した。


584 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:54:44
心身症って、現代のサラリーマン病といわれるぐらい。
心身症だから殿中刃傷?
果たしてどうかな?そんな偏見、みんな怒るよ。
それに浅野が言ってた遺恨は無視するわけ?


585 :日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:06:31
遺臣ですら把握していない遺恨だけどなww

586 :最初は内匠守が乱心:2007/01/14(日) 19:30:08
吉良上野介の傷を治療した栗崎道有のカルテが紹
介されていて、初見したときはとても感動した。しかし、
最初は内匠守が乱心だったので公傷として幕府が手
当てしたが、後に乱心ではないことがわかったので、
幕府は治療から手を引いたと概説的に述べている。

587 :乱心説:2007/01/14(日) 19:37:38
乱心説など(事実やっている事は気が狂っているとしか思えない)が有力な感じがします。

そして、殿中での刃傷事件において、過去に乱心による事例が存在していたのです。

そして、その時は「乱心」であった事を理由に「御家断絶は免除」されていたのです。

大石内蔵助は浅野の「乱心」を理由に過去の事例を出して、「御家断絶」だけは

避けようと考えましたが、取り調べの際に当の浅野が「乱心」を否定して「遺恨」を

主張していた事などもあって、「乱心」ではないという事になりました。

吉良は切り付けられた時に刀を抜いておらず、一方的に切り付けられただけで

あるので、お咎めが無いのは何ら矛盾がない。

が、大石は「乱心」でないのならば「喧嘩」ではないか、だとすれば「喧嘩両成敗」

でなければ筋が通らないと、全く筋違いな逆恨みを遂行するのです。

それこそが、「忠臣蔵」の事実です。


588 :この間の遺恨覚えたか:2007/01/14(日) 19:42:29
はたして本当に浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んだか
どうかは分からないが、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠
頭お預かり一件』にもその後、内匠頭が「遺恨あり」と証言してい
ることが記されているので、少なくとも内匠頭が吉良に遺恨がある
と思っていたことは間違いないだろう。

しかしながら奇怪なことにいずれの書物も内匠頭が遺恨を主張して
いることについては触れていながら、遺恨の細かい内容については
記していない。詳しく聞かなかったとは考えられないので幕府を憚
って削除されたのかもしれない。



589 :切腹最中:2007/01/14(日) 19:53:58
当店が「忠臣蔵」の起こりとなった浅野内匠頭がお預けにな
り切腹された田村屋敷跡にあり「忠臣蔵」にまつわる数々の
語りぐさがこの菓子を通じて、皆様の口の端にのぼればという
思いを込めた商品です。たっぷりあんは、結晶の大きな純度の
高い砂糖を使用し、求肥(ギュウヒ)入りの、甘さをおさえた
さっぱりした味です。

590 :お詫びに最適??:2007/01/14(日) 19:55:12
お祝いならお金だけでも・・・・
何かの不始末の時持っていくものに悩みませんか?
お茶・菓子折り等ございますが
そんな時には「切腹最中」
ちょっと怖いですが「詰め腹を切ってきたつもりでございます」
こんな使い道もあるのでは・・・・
お詫びの短冊をご用命下さいませ。

591 :大胆なネーミング:2007/01/14(日) 19:57:07
この大胆なネーミングを持つ菓子を打ち出した訳だが、
肝心の最中といえば、お値段は一個170円。箱売りも行っている。
名前が印象的なだけに、ただの最中じゃあねぇ…と思っていたら
大間違い。中のアンコがまぁ多いこと。外からハミ出んばかりの量で、
しっかりとしたつぶあんには牛脂が入り、
ほどよい甘さで大満足…らしい。実はまだ食ったことがない。

592 :相手が洒落の分る御仁ならば良いがのぅ:2007/01/14(日) 19:59:34
普通の最中と見た目で違うのは
パックリと口を開き、中の餡がはみ出している様は
あたかも切腹して内蔵がはみ出しているかの様…
少々、生々しい…

このボリューム満点の餡が少々くどいかと思いきや、
中には求肥(ギュウヒ)が詰められているので、
思いの他サッパリとして、なかなか美味い。

「詰め腹を切ってきたつもりでございます」

と、不始末の機に持参するのに最適とか…
まぁ、相手が洒落の分る御仁ならば良いがのぅ

593 :歴史の偽造ランキング:2007/01/15(月) 11:57:54
1 中国人   言わずと知れた中国四千年の捏造の歴史。
         司馬遷以来、嘘を嘘と思わせない捏造の巧みさに定評があるが、
         南京事件の捏造に見られるように、近年は著しく質が低下している。
2 朝鮮人   シュメール文明はウリナラ起源、古代大朝鮮帝国、従軍慰安婦など、
         一見して捏造と分かる質の低さを量でカバーする。
         「嘘も百回言ったら本当になる」を実践する存在。
3 赤穂市民 浅野家改易の際には赤飯を炊いて祝ったと言われるが、赤穂義士なる
         嘘が作られると積極的にこれに便乗して町興しをし、事件見直しには
         激しくファビヨるなど、日本人とは思えない反応を示す。
         中朝に次ぐ堂々の三位入賞。
4 露西亜人 北方領土問題は解決済みなど、居直り強盗的歴史観が随所に目立つが、
         基本的に人柄は悪くない。個人として付き合う分には、上の三者よりは
         よほどマシだと思われる。

594 :日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:01:12
>>593
3位だけ、違和感。
極端に話題が矮小。
前後との均衡を考えれば、本来その座は「亜米利加人」だろうな。

595 :日本@名無史さん:2007/01/15(月) 23:36:10
>浅野家改易の際には赤飯を炊いて祝ったと言われるが・・・
どうせソースはWikipeだろ。

596 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 09:33:42
>>593
長岡、会津はどうした?

597 :日本@名無史さん:2007/01/16(火) 13:55:37
赤穂は日本じゃないだろ。

598 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:12:59
浅野は、長矩の弟長広が綱吉死後の宝永7年に旗本に復帰して、家名を再興。
吉良は、義央の弟の東条義叔の系統が享保17年に吉良家を再興しているが、
高家には復帰できなかった。
かわって二家に分立していた吉良氏のもう一方が、江戸初期蒔田氏を称して
いたが、こちらが吉良氏に復姓し、高家として存続した。
冥土の上野介にとっては、これも屈辱だったろう。



599 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:45:08
基地外の通り魔事件がもたらした悲劇ですね。南無阿弥陀仏

600 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 07:24:24
軍ちゃんや尾崎ですか

601 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:16:03

上野介の弟の東条義叔には実子がなかったから、旗本柘植氏から養子を
迎えた。だから、吉良家を再興したといっても上野介との血縁はない。

602 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:57:58
真説忠臣蔵

赤穂四十七士の討ち入りは忠義の鑑と讃えられ、芝居や小説となって人々の喝采を受けてきたが、
その真相が淫靡なホモ事件とは気付かぬ脚色なのが残念だ。
浅野の家中は戦国の気風を残し男色が盛んで、男は一人残らずホモ関係で結ばれ、
その筆頭が殿様の浅野内匠頭と家老の大石内蔵助の恋愛だった。
幼い頃から念友の二人は人も羨むカップルで寸暇を惜しんでホモ行為に耽り、
殿様の江戸出仕の日が来ると特に激しいプレイで別れの名残とした。
恋男と相思相愛でも性欲が多情なのがホモの特徴だ。
江戸に着いた浅野はさっそくホモ遊びの浮気を始めるが、その頃江戸は軟弱文化がはびこり優男タイプがもてたから、
美男でも田舎出で芋臭い浅野は相手が少なく、無骨なプレイが陰間茶屋でも嫌われて欲求不満が溜まる一方だった。
他方、幕府の重役の吉良上野介はホモ通人として名を馳せていたもののマンネリを感じていたところに浅野に目を着けた。
女形タイプに飽きた吉良には毛深いガッチリ型の浅野が新鮮な魅力だ。
浅野が仕事の相談に来たのを幸い、誘惑すると吉良のダンディーさに浅野もOKしてたちまち関係が結ばれた。
ホモの世界は情報が速い。吉良と浅野のホモ関係の噂はすぐに赤穂に伝わり留守番の大石は嫉妬の涙だった。


603 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:58:38
浅野は吉良の性的魅力に夢中になったが、吉良は一時の遊びの積りだったから、
しつこい浅野が鬱陶しく、邪険に扱うようになった。
冷たくされるとますます燃え上がるのが田舎者のホモだ。
浅野は性欲が頂点に達し、ある日、御殿で勃起を振り立てて背後から吉良に迫った。
強引な誘惑に吉良もその気になりかけたところ、その場面を他の大名が発見し浅野は取り押さえられて、
殿中のSEXは御法度ゆえ切腹申し渡された。
SMマニアの浅野には切腹は苦にならぬが、二度と大石と寝られなくなる浮気心を悔いつつ腹に刀を突き立て絶頂を味わった。
浅野家は取り潰され、恋男を奪われた大石は悲嘆の涙に暮れ、大石程でなくても家来の多くが殿様のお手付きだったから、
このままでは魔羅の虫が納まらぬ。大石を頭に四十七人が徒党を組み、殿様が最後に果たせなかった吉良を代りに犯ることで意見が一致し、
互いを慰めつつ機会を狙った。
浅野の件で自重していた吉良は美少年を集めて憂さを晴らしていたところ、赤穂浪士が強姦に来るとの噂に狂喜し勃起し乍ら待ち焦がれた。
やがて浪士達は吉良邸に乱入し屋敷の美少年を片端から犯すが肝心の吉良が見当たらぬ。
吉良はすぐに見つかっては詰らぬと秘密のプレイ室で待っていた訳で、そこに踏み込んだ大石達は吉良をさんざんにSM責めし、
被虐の快感で全身が痺れる歓喜の涙の吉良は、興奮で血気の余り昇天してしまった。
浪士達は切腹処分を受けたが、強烈な暴力SEXを堪能したから思い残すことなく切腹の味に酔った。

604 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:10:30
侍の本質は「狂」だから、浅野はいかにも侍だな
戦国時代に生まれていれば大活躍していたことだろう
生まれる時代を間違えたな

605 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:13:01
じじい討ち漏らす奴ですけど

606 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 17:15:32
浅野の初代がこれならとても大名にはなれまい・・・

607 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:19:37
確かにどうせやるならきちんと吉良を討ち果たしていれば、
淡々と赤穂藩が取りつぶしになるだけだな。
その方が各方面に迷惑がかからなくて良かった。

608 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:34:07
江戸城三バカ
・60過ぎのじいいを殺そうとして、50過ぎのじじいに取り押さえられた浅野内匠頭
・若者を殺そうとして、先制攻撃くらって負傷した相手に逆に取り押さえられた水野隼人正
・同僚と喧嘩になって、一太刀も浴びせることなく取り押さえられた水野伊兵衛


609 :確実に殺したいなら刺殺を狙え:2007/01/20(土) 19:45:21
宝永6年(1709年)2月16日
大聖寺新田藩藩主前田利昌は大和柳本藩藩主織田秀親を上野寛永寺で殺害した。
その前夜前田利昌は家臣木村九左衛門に赤穂事件についてどう思うかと訊ねた。
木村九左衛門は「浅野はアホだから切り殺そうとして失敗した。
確実に殺したいなら刺殺を狙え」(要約)と答えた。
前田利昌はそのアドバイスに従って犯行を決行、織田の殺害に成功したのである。


610 :前田 利昌:2007/01/20(土) 19:52:15
前田 利昌 (まえだ としまさ) 1684〜1709

加賀大聖寺新田藩主。金沢藩の支藩である大聖寺藩第2代藩主前田利明の4男。
掃部または采女と称す。元禄5年(1692)、同母兄利直が大聖寺7万石を相続
した時、利昌は能美郡内の新田1万石を分封されて大聖寺新田藩を立藩した。
利昌は利直の領内に住み、1万石分の収入を与えられただけで、独自の行政
機構などは持たなかった。宝永6年(1709)2月16日、5代将軍綱吉の法会が
東叡山寛永寺で行われた際、利昌は中宮使饗応役(勅使の接待役)を務めた
が、吉祥院の宿坊において以前より不仲であった同役の大和柳本藩主織田
秀親を刺殺したため、山城淀藩主石川義孝に身柄を預けられ、2日後の2月18日
に切腹を命ぜられた。所領1万石は一旦幕府に収公されたが、のち本藩利直
に還付された。

611 :御家断絶:2007/01/20(土) 19:57:47
なお

前田利昌は翌々日に切腹、御家断絶。
主君を殺された大和柳本藩は何事もなく明治維新まで存続した。


612 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:01:03
どっちも自分の勝手で藩を潰したアホだけど、浅野の方が大迷惑だよな。
こうなってれば大石や堀部はどこかに再就職するなり、のたれ死になりしたわけだ。

613 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:26:36
前田利昌と織田秀親の刃傷事件は松本清張が、
板倉勝該と細川宗孝のそれは芥川龍之介が小説にしていたな。
前田利昌は眉目秀麗で、綱吉のお気に入り大名がなる奥詰・詰衆だった。
封地を返還されたのは、加賀前田家の威光か。

614 :厠に行った隙を突かれて刺殺されたという:2007/01/20(土) 21:26:20
織田 秀親(おだ ひでちか、寛文2年11月5日(1662年12月15日)
− 宝永6年2月16日(1709年3月26日))は、大和柳本藩の第4代藩主。
第3代藩主・織田秀一の長男。母は側室の某氏。初名は長昌。
通称は源七郎、監物。

1662年11月5日誕生。1673年5月11日将軍徳川家綱に御目見する。
1687年9月17日家督を相続した。1688年、数奇屋橋門番を命じられる。
1703年5月、駿府加番を命じられた。1709年1月15日、前将軍徳川綱吉
の葬儀に際し、朝廷からの使者の御馳走役を命じられる。
同役は前田利昌であった。同年2月6日(または2月16日)、
前将軍徳川綱吉の法会が寛永寺で行なわれているときに、
発狂した前田利昌によって殺害された。享年48。幕府は、
養子織田成純の家督相続を認めた。法号:祥光院殿椿岑宗久大居士。

秀親は体格が相当あり、武芸も達者であったと伝えられている。
厠に行った隙を突かれて刺殺されたという。

615 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:35:40
かつての主筋を家臣だった末裔が刺し殺す。

616 :天上の信長、利家は如何に思ったか:2007/01/20(土) 21:42:16
勅旨接待役となった前田利昌は同役の大和柳本藩主織田秀親に恥辱を
与えられたとして、刺殺してしまう。利昌は切腹したが、咎は大聖寺藩
には及ばず事無きを得た。織田秀親は体格優れ、剣も達者だったというが、
織田家の裔がかつての子飼いの前田家の裔に刺されるとは、天上の信長、
利家は如何に思ったか。


617 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:45:22
前田一族がいかに曲者かがよく分かりますね。

618 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:56:32
奥詰や詰衆で思い出したが、「仮名手本忠臣蔵」のネタにされたとか、
源氏巻の宣伝に蜀山人がデッチあげたとか、前レスで話題になった
亀井茲親も、儒学好きも手伝って、やはり綱吉のお気に入りだった。
息子とともに奥詰・詰衆になっている。
吉良との顛末が藩史に記録がない、という意見もあったようだが、
そんな裏話、今で云う社史みたい公式記録に、ふつうは書かないわな。

619 :なぜ突かぬのだ。斬るというのは愚劣だ :2007/01/20(土) 22:01:22
明治時代に軍人として活躍した乃木希典(のぎまれすけ)は、
山鹿流軍学を学んだ者として、次のように評価している。
「長矩に武人の心がけなし。なぜ突かぬのだ。斬るというのは
愚劣だ。」同様のことは、刃傷事件の頃にも世評があった。
浅野内匠頭長矩には、武士道の流れを引く教育はあったが、
彼の行動は感情的で、自制心に欠けるものであったと言えよう。


620 :相手を突き殺す一撃必殺:2007/01/20(土) 22:05:33
銃剣道・・・銃剣道は銃剣格闘とも呼ばれ、白兵戦技の中核を成すものです。銃剣とは
兵士が持つ戦闘用ナイフのことですが、これを自動小銃の先端に装着して、
一種の短槍として使用するのが銃剣道です。自衛隊の銃剣道はもともと旧軍
の銃剣術に、米軍の銃剣格闘術をミックスさせたものと言われてます。そして、
さらに溯ると、旧軍の銃剣術は日本の古流武術である「宝蔵院流槍術」をベース
に、明治初期に近代軍制の手本としたフランス軍のバヨネット術を組み合わせた
と言われてます。銃剣の技術は各国軍隊によって特色があり、米軍などでは、い
わゆる「棒術」のように台尻などでぶん殴る戦法を得意としており、一方、自衛隊
の銃剣道はもともとが古流槍術がベースのためか、相手を突き殺す一撃必殺を
極意としているようです。

621 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:10:15
この時期、加賀藩主前田綱紀は秀忠の娘珠姫の孫で、水戸頼房の娘大姫
(家光が義父)の子として、綱吉から御三家に準ずる待遇を得ていた。
家宣時代になっても重きをなし、一旦収公された封土を取り戻すことぐらい
朝飯前だったろう。

622 :銃剣術が剣道より強い:2007/01/20(土) 22:13:18
帝国陸軍では白兵戦の武技として、剣道(軍刀術)と、ヨーロッパ伝来の銃剣術(いわゆる剣付鉄砲、バイヨネット)を訓練していたが、国粋主義の台頭とともに剣道界から、日本の剣道こそ世界最強であり、
銃剣術など無用だという意見があがるようになった。剣道が強いか、銃剣術が強いか、軍人も巻き込んだ論争となった。
 そこで、では対抗戦をやってみようということになったのである。
大正13年5月、京都の大日本武徳会の道場で、剣道側と銃剣術側からそれぞれ19名の選手が出場して、剣道対銃剣術の異種格闘技戦がおこなわれた。もちろん、剣道は竹刀、銃剣術は木製の銃剣を用いた。
 結果、銃剣術側が12勝7敗で圧勝したのである。


623 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:23:51
突き刺すには、体当たりしなくてはならない。
大紋・長袴の正装では足許不如意(殿中で大名に長袴を穿かせた
幕府の意図は、そもそもそこにあったとか)、そこで腕をふるって
一太刀浴びせ、とどめに突き刺そうとしたところ、梶川与惣兵衛に
組み止められたという見方もある。

624 :必要最低限の護身用ともいえる剣:2007/01/20(土) 22:35:08
なんでもありの戦国時代から、様式美の江戸時代へと移行して、
人をいかに殺すかという殺伐とした武術から、体系化様式化思想化
が進んだ江戸時代の(ある意味で実用から遠ざかる流派も多くなった)
武道へと収斂していく過程で、奇妙な話ですが、戦闘能力や殺傷能力
が高い槍から必要最低限の護身用ともいえる剣へと武の中心が移って
いき、武技全体が剣の理論を軸に再編された事は少し歴史を見ている
だけでも分かってきます。


625 :薙刀に負け越している:2007/01/20(土) 22:37:19
男性の剣道の達人が、女性の薙刀の達人が明治以降に防具試合
を何度か行ってみて、完勝どころか負け越している現実が、
剣の限界の一つの側面を良く表しているのではないかと。


626 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:47:55
「長袴」と呼ばれる袴は、当時の武士の礼装の一種。殿中では走ってはならず、
刀を抜くことは切腹にあたる重罪、謀反・刃傷沙汰を防ぐために、
殿中差しと呼ばれる短い刀を差し、長袴をはいて歩きにくくしていた。
それと同時に長袴は戦意のないことを表すものでもあった。
この長袴のために殿中では自分の袴でつまづいたり、他人の袴を踏んでしまったり
という苦労は絶えなかったという。
ちなみに忠臣蔵において浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたのは、
殿中差しと長袴のためと考えられている。長袴の浅野に対して、吉良は「狩衣」という衣装で
逃げやすかったのだ。


627 :刃(やいば)を振るい体ごとぶつかる少年:2007/01/20(土) 22:49:55
昭和三十五年の浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件。
演説会がテレビ中継されていた。
画面に突然、壇上での刺殺シーンが繰り広げられた。
刃(やいば)を振るい体ごとぶつかる少年。
眼鏡が吹き飛び、崩れ落ちる浅沼さんの巨体。

十七歳の少年によるテロ。


628 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:50:56
>>626
当時に、斬りつけたのがそもそもの間違いで、抱きかかえて突けば良かったという論評もあったけど。

629 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:55:42
>>628
>>623参照。
抱きかかえること自体が難儀なのです。

630 :二矢は浅沼委員長にぶつかっていった:2007/01/20(土) 22:56:49
学生服の上にジャンパーをはおった二矢が演壇に駆け上った。短刀がにぶい光を放った。「国
賊!浅沼、天誅!」と叫び二矢は浅沼委員長にぶつかっていった。二矢は浅沼委員長の腹部
に短刀を二度突き刺し、さらに三度目を刺そうとした時、壇上の私服刑事に組み伏せられると
同時に浅沼委員長は舞台に倒れた。

631 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:04:22
>>629
だけど、切れる間合いには入ったわけでしょ? なら、突けば良かったという落ち。

632 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:04:46
「米帝は日中共同の敵」なんてほざいた浅沼は赤匪、殺されて当然。

633 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:09:10
>>631
斬るのと突くのとでは、間合いが違うでしょう。
↑の山口二矢とちがって。
なぜ?って、
そこで「長袴」と「殿中差し」がネックになってくる。

634 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:15:30
一旦、腕を伸ばし額に一太刀浴びせる。
トドメと、「長袴」をさばいて(しかも本来両手でさばく長袴を片手で)
弱った相手ににじり寄るが、
突こうとしても身軽な「狩衣」の相手は逃げる。
追い詰められず、腕をふるって肩へもう一太刀。
ってところかな。

635 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:21:36
>>633
だって、顔を突き出した物凄い及び腰になってるのでもないなら、大差ないでしょ。

636 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:25:45
額と肩のキズがいずれも浅手だったという吉良の具合が雄弁に物語っている。
突くとは体当たり。
斬る間合いと違うのは剣法の常識です。
斬った傷も浅手と云うことは、それだけ間があったということ。


637 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:29:35
まあ、内匠頭は刀を抜くタイミングを誤ったのは事実です。


638 :浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件:2007/01/20(土) 23:34:09
腕を両脇腹に付け、短刀の柄を自分の腹に当て、そのまま体当たりをした。

639 :豊田商事詐欺事件:2007/01/20(土) 23:38:48
昭和60年6月18日午後4時30分頃、ペーパ商法で巨額の
金を集金した「豊田商事」の永野一男会長(当時32歳)が、
大阪市北区の自宅マンションで工場経営の飯田篤郎(当時56歳)
と知人の建築作業員の矢野正計(当時30歳)に銃剣で刺された。
永野会長は病院に運ばれたが11ヶ所の傷を受け出血多量で死亡した。


640 :豊田商事詐欺事件:2007/01/20(土) 23:40:27
犯行当時、永野の自宅マンションの玄関前には約30人の報道陣やガードマンが居た。その人垣を掻き分けて飯田らは、「被害者6人(詐欺にあった)から、もう金は要らんから永野をぶっ殺せと頼まれて来たんや」
と言って報道記者が使用していたパイプ椅子を取り上げて玄関脇の小窓(50センチ四方)を破壊し室内に侵入した。

室内では争う罵声が聞こえたが、数分後に飯田らは返り血を浴びた格好で外に出てきた。飯田は、報道陣に向かって「殺した。俺が犯人や、警察を呼べ。法律は手ぬるい。わしらがやらんかったら、他にやる者おらん」と叫んだ。
飯田らは駆け付けて来た天満署の警官に現行犯逮捕された。

白昼堂々と、しかも報道陣の前で《殺人を犯した》のは前代未聞である。

641 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:49:59
「逆噴射」で発作的にやったんだろうから、自分自身何やったかよく解ってなかったんだろ。
上で、斬りつけて動きを封じとどめに一刺しのつもりだった、とか意見があったけど
理性的にやるんだったら、何食わぬ顔ですれ違いざま一刺し、が確実だろ?

642 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:01:04
>>641
そういうこと、だろうね。まさに発作で振り回した、という感じ。

643 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:19:32
>>641
そのとおりだと思います。
だから、逆に浅野が狂人とは思えないのですよ。
殿中で刃傷に及ぶ・・・その結果がわかっているからこそ、理性的?
というか計画的にそれを企むことなど、できなかった。
沈着冷静に「何食わぬ顔ですれ違いざま一刺し」なんてマネはね。

「遺恨あり、宿意あり」と浅野が言ったという記録が、徳川実紀や多門、梶川の日記などにあり、
「遺恨なし」と浅野が語ったとする記録がなく、当時幕府が狂気と認定していない以上、
何らかのいざこざがあり、それを松の大廊下のあの日まで、ずっと忍耐していたところ、
何かがキッカケとなって堪忍袋の緒が切れて、突発的に刃傷に及んだのでしょう。
今でも犯罪は、動機があるからといって誰でも犯すものではないですから、何かキッカケが?
問題は、浅野を基地外と一刀両断したり、吉良を悪玉と決めつけたりせず、
何があったかを探る(想像でもいいから)が、2ちゃんの醍醐味なのでは?


644 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:26:57
>>643
何と言っても、「斬りつけて倒せば合理的かつ円満に解決する問題」というものはあり得ない以上、
斬りつけたほうが何らかの意味で正常を失っていることは疑いの余地はないでしょう。

645 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:33:34
>斬りつけたほうが何らかの意味で正常を失っている。

今でもそうですが、人を殺そうとするのだから、当然でしょうね。
「狂気の沙汰」って殺人には慣用句的に使いますからね。
だからホントに狂人・・・って片付けられないでしょう。
心身症は、一種の大名病みたいなものとも見方もあるし。



646 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:35:01
殿中刃傷の結果が分かっていて冷静に襲えなかったというか
たんにアタマに血がのぼって処罰のことまで考えてなかっただけだと思うが。

647 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:40:54
>>646
> 殿中刃傷の結果が分かって
「・・・いるなら襲わない」のが正常だし。

648 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:44:02
「たんに」とか「だけで」って言い回しは、
今も昔も事件を矮小化してしまうから別として、
事実そうでしょうねえ。なぜ頭に血が昇ったか?を探りたいですね。
「痞え」という病気が影響しているにしても、なんらかの事象があってこそでしょうから。


649 :一撃必殺の極意:2007/01/21(日) 09:43:40
浅野内匠頭が吉良上野介を討てなかったのは何故か。

高家筆頭の吉良は狩衣姿であったのに対して、浅野内匠頭は第一礼装の長袴を着用していたのが第一の理由。

脚捌きに利のある吉良の方が遥かに逃げ足は速いわけです。

武器として使用したであろう「殿中差し」も今の小刀みたいな装飾品で、これが第二の理由。

これでは人は殺せません。

しかも、彼は上段に振りかぶって斬りつけている。如何にも感情的で、冷静さを欠いておりますな。

本当にやっつけたいなら、刃を上に向けて身体ごと相手にぶつかって行かねばならない。

これぞ一撃必殺の極意です。

650 :梶川与惣兵衛頼照の記録:2007/01/21(日) 09:49:45
浅野内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛頼照[かじかわ-よそべえ-よりてる]
(旗本。江戸城留守居役)の記録によると、事件の日、所用で大廊下
を通りかけた梶川は、茶坊主に吉良上野介を呼びに行かせたが彼は老
中と用談中だったため、その場にいた浅野内匠頭と立ち話で用件を伝

えた。その後しばらくして上野介が白書院から出てくるのが見えたの
で茶坊主に呼びに行かせて自分も歩いていき、打ち合わせをしている
と、何者かわからぬが「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野
介の背後から斬りつけてきた。驚いてその者を見ると、なんと浅野内
匠頭。「これは」と吉良が振り向いたところにもう一太刀(眉間に)。
上野介がうつぶせに倒れたところに、内匠頭がさらに斬りかかったの
で、梶川与惣兵衛は浅野内匠頭に飛びついて押さえつけた……。
 梶川は55歳と当時としては初老の域に入っていたが、武芸に通じた
大力の士であり、35歳の浅野を力まかせにねじ伏せてしまった。
与惣兵衛は内匠頭の小サ刀(脇差)を鍔[つば]ごと押さえつけ、
坊主の関久和がその手から刀をもぎ取った。

651 :江戸時代の男性衣装:2007/01/21(日) 09:57:13
徳川幕府の式 (礼) 服
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/18.htm

652 :運動神経がよくなく 体格も小さかった:2007/01/21(日) 10:17:10
浅野内匠頭自身は運動神経がよくなくお世辞にも武芸に秀でた
人間とはいえなかった。また、数々の芝居などで描かれたよう
な美形でもなく体格も小さかった。浅野内匠頭の三歳下の弟で
ある浅野大学長広はそんな兄とはちがい、眉目秀麗の背の高い
男で運動能力も高かった。

653 :最初の一撃は吉良上野介の後頭部:2007/01/21(日) 10:28:48
浅野内匠頭は振り返った吉良上野介が笑ったとおもった。
少なくても浅野内匠頭にはそう見えた。
(おのれ、私のことをまた笑ったな!) 
浅野内匠頭はおもわず小刀の鯉口を切ったが、
次の瞬間、我に返り刀を鞘におさめた。
しかし、それをお城坊主のひとりが見ていた。
浅野内匠頭は見られたとおもった瞬間頭の中が白くなった。

 吉良上野介と梶川与惣兵衛はなごやかに談笑していた。
「さて、お頼みしたいことは…」と梶川与惣兵衛が吉良
上野介に実際の用件を切り出したところに、うわごとの
ような怒号をあげ、卑怯にも吉良上野介に後ろから斬り
つけた男がいた。浅野内匠頭である。最初の一撃は吉良
上野介の後頭部を打ち付けたが烏帽子の金具にはばまれ、
吉良上野介の背中に浅手を負わせただけである。
次の一撃はおもわず振り返った吉良上野介の額を襲った。

654 :内匠頭殿はあまりに非力だ:2007/01/21(日) 10:30:14
梶川与惣兵衛は曲者の襲撃に迅速な対応をした。
額を切られた吉良上野介を横にかるく押しのけると浅野内匠頭
の両肩を両手(もろて)で突いて簡単に床に倒した。
すぐ正面から組み付き浅野内匠頭の小刀を叩き落とした。
組とめられた浅野内匠頭は意味のない唸り声をあげるばかりである。

 このとき五十三歳であった梶川与惣兵衛は、武士として必要な
武芸の心得はあるものの身体が特別大きなわけでもなかったので、
(こうも簡単に組みとめられるとは、内匠頭殿はあまりに非力だ)
と感嘆した。

 武芸の心得が少しでもあるものにとって、刃傷の際相手を確実に
しとめるには、小刀で刺すことが肝要であることは常識だった。
浅野内匠頭は小刀で吉良上野介を刺すことをせず、小刀を振り回した。


655 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 12:36:05
大名としてはもちろん、犯罪者としてもレベルが低かった。

656 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 14:08:02

さかんに浅野を弁護していたのもいたが、うなづける点が一つだけあったな。
浅野の装束のこと。
大紋は裃の肩替小袖と違って、袖の懐が深くて腕を揮いにくいし、
長袴だと、歩きにくいうえ肩を両手で突かれたりすれば、簡単にひっくり返ってしまう。
別に浅野が非力だなんて決めつけられんだろ。
一度、ダボダボで裾が足の長さの2倍近くもあるズボンはいて、床引きずりながら歩いてみるがいい。

657 :今日の結論:2007/01/21(日) 15:59:35
浅野はバカ

658 :浅野内匠頭の風聞文書見つかる:2007/01/21(日) 16:35:42
土佐藩主・山内家の史料から、忠臣蔵で知られる赤穂藩主・浅野内匠頭の、江戸でのよからぬ風聞を記した文書が見つかった。
 ◇「松の廊下」事件(元禄14年=1701)の14年前、21歳の内匠頭が放火容疑の母娘を幕府に無断で殺し、赤穂への帰国が差し止められたという内容。
 ◇御家取り潰しもあり得た不祥事だったが、家臣が幕府の追及を巧みに回避。この教訓を赤穂藩が生かしていれば、松の廊下事件はなかった?(毎日新聞2004-12-23)

659 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:42:47
>>656
だから、切り付けることに合理性が無いんだよw
刀と自分の腕のリーチを考慮して間合いを詰めて切り付けなければならない。
わけだから、最も切り付けづらい状態で切り付けることに合理性がない。
後先考えた上で、それでも尚許せない事情を持って殺意を相手に向けるので
あれば、と息がかかるまで刀を抜かずに近づいてから、、刀を抜き刺すのが道理。
論理的に行動できていたとして、どうしても殺したいなら、動きづらい状態で切りか
かることなんてしない。
相手は老人だから、急に近づいたって逃げられないし、「刃傷沙汰にならない」と
踏んで内匠頭を誹謗したのであれば、近づかれたって逃げない。
弱いものいじめの背景があって、内匠頭が敢えて刃傷に及んだのであれば、確実に
殺せていて当然なんだよ。

気が触れていないで殺せなかったのであれば、非力だったとしか考えられない。

660 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:45:06
大石が浅野内匠頭を押し込めてさえいれば、改易・集団的猟奇殺人はなかった。

661 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:53:41
逆上したうえのことだろ。
冷静に論理的に判断すれば・・・なんて言い草、矛盾だね。
カーッとなって逆上するなんて例は、基地外じゃなくたってよくある話。
だいたい戦国乱世の余燼も知らぬ「生まれながらの殿様」連中に、
武士たる者の心得云々を言ってもなあ。
殿様の免許皆伝なんて、どうせ多くは「本許し」じゃなく、
君臣などの義理にからまれての「義理許し」なんだろ。
まして当時は綱吉に迎合して、大名旗本は武芸よりも学問や能の嗜みが肝心だった。
なにも浅野に限った話じゃないわいさ。


662 :日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:43:23
結論

同じような条件で刺殺に成功した
内藤忠勝はネ申

663 :歴史の偶然か、それとも幕府の粋な計らいか:2007/01/21(日) 18:55:26
赤穂事件の当事者である浅野長矩の血縁に同じく刃傷事件を起こした者が居ることは良く知られている。内匠頭長矩の殿中、松の廊下での刃傷事件をさかのぼること二十一年前、
芝増上寺での三代将軍家光の追悼法要の席で長矩の母方の叔父内藤和泉守忠勝が相役の永井伊賀守尚長に切り付け、こちらはその場で討ち果たしている。
 内藤和泉守は翌日切腹、両家は共に断絶している。討たれた永井伊賀守家は禄高こそ高くはないがなかなかの名家で、京都所司代や、若年寄を勤める家柄であった。内藤和泉守は長矩の母の弟である。これも何かの因縁であろうか。
 両家の因縁はまだ続く。
 赤穂浅野家は再興の願いもかなわず断絶、城地は没収となった。その後に幕府は下野鳥山藩主永井伊賀守直敬に3000石を加増し赤穂への転封を決定する。永井伊賀守直敬は内匠頭の叔父に殺された永井尚長のいとこにあたる。
これは単なる歴史の偶然か、それとも幕府の粋な計らいか。

664 :背後から刺殺:2007/01/21(日) 18:58:53
延宝8年(1680)6月26日、前将軍家綱の法会が芝増上寺で行われた際、
忠勝は乱心して奏者番の丹後宮津藩主永井尚長を背後から刺殺すると
いう事件を起し、翌日切腹を命ぜられ所領も没収され、
鳥羽藩内藤家は廃絶となった。この2人は年齢が近く、屋敷も隣同士
で普段から感情的対立があり、忠勝が尚長に恨みを持っていたとされ
ているが、刃傷に及んだ直接の理由は、法会の日、忠勝は参詣口門、
尚長は出口勝手門の警備をそれぞれ分担したが、警備に関する奉書
を尚長が一人で見て忠勝に見せなかったため、手違いが生じて忠勝
が大恥をかいたためとも、また参詣者の饗応の事で忠勝が尚長に相談
したところ、「必要ない」と言われたので用意しなかったのに、
尚長が豪華な馳走を出したので忠勝が面目を失ったためともいわれて
いる。こうした陰湿な嫌がらせが実際にあったのかどうかは定かでは
ないが、日頃の鬱憤に加えて、当日の尚長の言動に忠勝を暴発させる
何かがあったのは事実であろう。

665 :士道不覚悟ということで改易:2007/01/21(日) 19:03:51
櫛羅永井氏は、徳川譜代の名門・永井直勝の嫡流である。
 延宝8年、丹後宮津藩主・永井尚長(永井尚征の子)は、増上寺での将軍・家綱の法要の際に、かねてから不仲だった志摩鳥羽藩主・内藤忠勝と口論となり、斬りつけられ絶命する。
 士道不覚悟ということで改易となった。
 しかし、情状酌量されて、尚長の弟・永井直圓(なおみつ)に名跡が認められ、大和新庄に1万石を得た。


666 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 00:45:49
浅野の持病といわれる痞えが、今で言う心身症かどうかも、
ほんとははっきりしていないらしいが、
はっきりしていることは、心身症なら、これが叔父から甥に遺伝する確率は
医学的には問題にならないって事。
内藤忠勝が浅野長矩の叔父って話題性だけで、よく結び付けられるけど。

667 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 01:20:35
実の親子が形式の上で叔父と甥になったのでもないなら、叔父から甥に遺伝することはありえないわけで、
共通の祖先からの代数が離れすぎている、という感じでしょう。

668 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 22:45:39
だいたい狂気によるとされる、ほかの刃傷事件でも、
ちょっとググッただけで、いろいろな背景があったことがわかる。
そりゃ、刀を抜いたその時は、尋常な精神状態ではなかったかもしれないが、
だからって、「気違いに刃物」みたいな言い方はひどすぎる。
浅野に対してというより、ものの見方として。。。

669 :日本@名無史さん:2007/01/23(火) 23:09:31
うっかり人違いで
五十万石の殿さま斬り殺しちゃったりとかね

670 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 02:20:37
細川家の殿様だね。
標的と家紋が似てたがために誤殺された。しかも便所で…

671 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 16:23:46
>>670
「しかも」ってことはなくて、風呂場や便所は昔から暗殺の定番の場所だぞ。

672 :日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:06:11
幡随院長兵衛、太田道灌・・・

673 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:15:56
特に風呂場は確実に丸腰になるからね。

674 :日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:25:28
便所なんぞで
うっかり人違いで切りかかられたら防ぎようがないな。

675 :太田道灌暗殺:2007/01/25(木) 08:46:17
1486年 7月26日、道灌は上杉定正の召しにより、相模国糟谷の上杉定正邸を訪れた。
このときすでに定正と本家の顕定との間に道灌暗殺の密約ができていることなど、道灌には思
いもよらぬことであった。上杉邸に入った道灌は、道中の疲れをいやすようにと風呂に案内さ
れた。やがて、入浴を終えた道灌が、風呂の小口を出ようとして首を出したところ、定正の家
来、曽我兵庫がとび出して斬りつけた。

 道灌はひと声「当方滅亡」と叫んで、そのまま息絶えたという。

 時に道灌55歳であった。


676 :風呂ではみな裸だから、武器をつけていない:2007/01/25(木) 08:47:18
大田道灌と言えば、最後はお風呂で暗殺され、非業の死を遂げました。「お風呂ではみな裸だから、武器をつけていない瞬間を狙われたのです」と小学校の先生に聞き、
「ふーん」と納得したのですが、すかさずクラスのKさんが「ウチのお父さんはドロボウ入られたら困るって、お風呂でもメガネかけてます」と言っていたのを思い出しました。
 道灌も、Kさんのお父さんくらい用心してたら、暗殺されずにすんだのでしょうか? ・・・そういう問題ではないでしょうね。


677 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 14:35:24
あれ?
忠臣蔵は?

678 :鯉口を切る:2007/01/27(土) 15:32:21
「鯉口を切る」とは鍔と刀身に挟まれた部分で
刀を鞘に留める役目のある「はばき」という金
属部分を左手の親指で鍔を押すことにより外し
刀を鞘から抜こうとすること。



679 :私用抜刀禁止の武家社会の「不文律」:2007/01/27(土) 20:03:32
「鯉口三寸抜いたらお家は断絶、身は切腹」というのは、大名といえども将軍
家の家来で、「刀架け」の立場だったから、それへの罰則だったが、その大名自身も
己が家来に課していた私用抜刀禁止の武家社会の「不文律」であった。


680 :女性器の呼び方 抜粋:2007/01/27(土) 20:18:18
鯉口こおまん股間故郷子猫ちゃんご本尊コン(フランス語con)コンセントコンノ(イタリア)細工場さえずり草逆さ富士桜貝ざくろ三寸さし込み口刺身鞘三角三角州汐吹き汐からいところジェニー(jenny)ジェーン(jane)しとしとぴっちゃんジェニー(jenny)ジェーン(jane)
しとしとぴっちゃん裂け目白い谷間シークレット(secret)獅子しし谷蜆(しじみ。少女)下口湿原湿地帯品物しも下の関シャー(フランス語)シャイデ(ドイツ語)羞恥の極点羞恥の亀裂羞恥の原点朱門女陰女性自身女性そのもの女性のシンボル
尻代物神秘神秘な花西瓜の棚落ち(老女)水源水田(若妻)水蜜水蜜桃すじ

681 :鯉口三寸抜いたら:2007/01/27(土) 21:44:13
「鯉口三寸抜いたら、お家は断絶、その身は切腹」というのが
千代田城内だけのことと今では考えられているが、あれは帯刀
する者全部ヘの掟だつたのである。警官が拳銃を佩用しているが、
持っているからと言ってバンバン撃てないないように、刀を差し
ているからと誰もがやたらに許可無くして抜刀は出来なかったのである。

682 :約9cm:2007/01/27(土) 21:49:13
鯉口三寸で改易 = 刀を約9cm抜いたら、お家断絶


683 :士道不覚悟:2007/01/27(土) 21:52:23
新撰組のような、本物の武士でない人達のせいで、
チャンバラが武士の仕事みたいに思っている人は大勢いますが、
実際の武士ってのは、農民の声にビクビクしていたんですよね。
往来で刀を抜いただけで「士道不覚悟」により、切腹、
「鯉口から三寸刀を抜けば、殺意が認められる」という有名な
判例もあります。農民が一揆を起こせば、天領なら、代官は
切腹モノですから、ストが起こらないように、庄屋や肝煎等
の名士達に示談交渉をお願いしていたんです。

684 :鯉口を切ったら死罪:2007/01/27(土) 22:02:06
殿中で刀を抜いたら (理由の如何にかかわらず)死罪、これはもうその時代の武士なら誰でも知っていることです。
もし直前に浅野と吉良が口喧嘩をしていたとしても、それは浅野の行為を正当化はしません。
鯉口を切ったら死罪なんです。
相手を殺しても殺さなくても、刀を抜いただけで死罪なんです。



685 :日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:26:31
丹念に史実を顧みない、メチャクチャな極論だね。

686 :士道不覚悟の極み:2007/01/28(日) 08:49:19
浅野内匠頭は、時と場所と場合を弁えず吉良義央に斬り付け、
あまつさえ止めを刺す事はおろか軽傷で取り逃がしたるは
士道不覚悟の極みである。

687 :日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:33:49
吉良よ。
オマエが武士らしくオロオロと逃げ惑わなければ・・・
士道不覚悟とは、爺ィ、オマエのことさ。


688 :日本@名無史さん :2007/01/31(水) 12:50:18
なんで忠臣蔵が仇討ちといわれるのかよくわからない
吉良に斬りつけられたとか返り討ちにあったとかいうなら仇討ちというのはわかる。
でも斬りつけたのは浅野だし、浅野は無傷だったんだろ?
切腹や御取り潰しも吉良がやったのではなく幕府の指示なわけで
吉良こそ斬られ損だろ
浅野家家臣の単なる逆恨みとしか思えない。
むしろ吉良の家臣がかわいそすぎる。


689 :日本@名無史さん:2007/01/31(水) 18:23:12
>>687 ナマ抜かすな!
パンパンパーン
    ∧__∧  ∩
  (,,`・ω・´)彡☆
   ⊂彡☆))Д´)
       ☆


690 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:10:44
>>687
赤穂市民の程度の悪さ丸出しですね・・・

691 :日本@名無史さん:2007/02/01(木) 09:21:33
どうせなら綱吉を切ってしまえば悪政に苦しむ天下万民のためになったのに。
やっぱり赤穂不逞士どもテロリストとしても小物。

692 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 12:19:14
吉良の悪口=赤穂市民
って単純な発想やめような。


693 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 17:57:35
そのとおりだ。泉岳寺の土産物屋も重要参考人だ。

694 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 19:03:56
忠臣蔵には大奥が絡んでるって聞いたんだけど?

695 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:23:49
>>694
TV東京の「大奥ミステリー」で取り上げられた
桂昌院への従一位贈位に綱吉正室の信子が嫉妬して、これを妨害するため
浅野をそそのかしたとか、
年末の「瑤泉院の陰謀」やいろんな忠臣蔵小説でネタにされる
阿久里の侍女だったお喜世は、のちに甲府藩の奥に上がって、家宣の側室左京の方と
なり、赤穂浪士をバックアップしたといった逸話・・・
発想は面白いけど、いずれもあり得ないでしょう。

松の廊下の刃傷事件が起きた元禄14年春の勅使下向では、もともと桂昌院への
従一位贈位の予定はなかったし、お喜世が浅野家に奉公した事実もなかったので。

696 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:03:14
>>655
乃木希典さん(職業:陸軍軍人)談「武人ノ志シナシ、ナゼツカヌカ、斬ルトハグレツ」

697 :日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:53:55
↑6万人余の犠牲を出した二百三高地で、
あまりにも有名な凡将。

698 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:24:21
>>697
小説か何かに書いてあることを鵜のみにして振り回すよくいるタイプ

699 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:27:07
少なくとも6万人殺してるだろ。
老いぼれ一人殺せなかった基地害よりはましだ。

700 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 00:51:49
>小説か何かに書いてあることを鵜のみにして振り回すよくいるタイプ
と、内容のないケチをつけるよくいるタイプ。

防衛研修所の分析です。

701 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:38:22
>>699
> 少なくとも6万人殺してるだろ。
小説か何かに書いてあることを鵜のみにする単純なタイプから聞いたことをそのまま信じ込む単純極まりないタイプ。




702 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:39:51
>>700
> 防衛研修所の分析です。
ありそうな嘘を書いて嘘を塗り固めようとする悪質なタイプ。


703 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:03:27
突かずに斬りかかった浅野の愚・・・確かだわな。
が、乃木が愚将なのも確かで、
西南戦争、台湾統治での失敗を見てもな。

>>700が触れた戦史分析をしている防衛研修所が、203高地の作戦を失敗と結論付けるってことは
ありそうな話だ。但し、凡将と乃木の個人攻撃はふつうしないわな。

>>698>>702
そこまで言う君は、乃木に関する文献を渉猟している研究家か?
それともフィールドワークで調べ上げた独自の見解でも持っているのか?
軍人としての乃木の評価は定まっているのだが、他人の揚げ足取りじゃない反証を
挙げるべきだな。
>>697が読んだかどうかは知らないが、まあ、小説といっても、芥川龍之介の「将軍」や
司馬遼の「殉死」ぐらいは読んでもいいわな。

704 :日本@名無史さん:2007/02/04(日) 20:05:09
>>703
> そこまで言う
つまり、「定説」に対する反論を見たこともないどころか、多少なりとも捜そうとしたこともない。
何かに書いてあることをそのまま鵜呑みにして鸚鵡返しにしているだけであることは明白ですな。

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