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坂東武者は本当に残忍だった?

1 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 12:50:58
資料によると坂東武者は戦の中にあって、例え身内が隣で討ち死にしても、その屍を踏み越えて敵を討ったとある。
関西勢は身内が討ち死にした場合、およそ一週間喪に服し悲しみに泣いたそうである。
本当か?

2 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 14:07:28
>>1
本当らしい
関東武士は肉食だからな

3 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 15:43:02
3げと

4 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:10:59
>>1 それで戦の機微を逃して負けてもいい。
生きてる人よりも故人を大切にしようというのが関西勢。
坂東は貧しいからそういう風な負け戦をしたら一族郎党死ぬしかない。
故人よりも生きてる人を重視するのが坂東勢。
残忍云々の前にそこは価値観の違いだね。
まあ、関西は豊かだからその辺が甘くても生きていけるというのも大きいから

5 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:11:21
???
関西では身内が討ち死にしたら帰って葬式始めるの?
関東でもそりゃ戦が終わったら喪に服するけど
戦の最中に騒いでたら負けちゃうだろw

6 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:14:40
関西人て朝鮮人みたいなんだね^^

7 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:18:10
ちょっと待て
一くくりに関西にするな
九州じゃそんな下手な戦しない
ヘタレ武士は畿内だけだろ

8 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:25:18
東と西の語る日本の歴史を読もう。
東日本と西日本は、貧しい豊か、送れている進んでいるではなく、
もともと違う社会。その中で九州は比較的東日本に近い。
父系社会の坂東が母系社会の関西よりも残虐で戦闘的なのは必然。
最近では京大中心に武士ヤクザ論があるが、これも関西の文化からすれば必然。

9 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:35:14
こういうトンデモが居るから困ったものだ。
九州、とくに薩摩は異民族の南方蛮族。

10 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:45:39
残忍ではなくて冷酷と言うべきだろう
残酷さで言えば関西の方が圧倒的
関東では関西のように大量虐殺を繰り返した歴史はない
関東人は他人に干渉せずが基本の為、見ようによっては冷酷である
関西人は情に厚いが
逆に感情が激すると、とんでもない挙に出る事がある
関東人は他人にさほど興味がないのですぐに冷めてしまう

11 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:54:45
わけ分からんな、どいつもこいつも。
坂東は渡来系騎馬民族と蝦夷の掛け合わせのいわゆる蛮族。
野蛮で残忍なのは当たり前だろ。

12 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:59:11
大阪がある関西人が言っても説得力ない

13 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:10:45
>>11渡来系は製鉄とかの技術がある近畿が多いんだけどw
蘇我氏が渡来系とかね。坂東とかは先住民がほとんどだよ。

残酷云々とかはその時々の倫理観が大きい。その上で近畿は残酷なこと多いよ。
源氏の一族争い、平家の一族以外への仕打ち、秀吉はじめ大坂・京都の騒乱

14 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:52:51
神奈川区HPの歴史年表には、なぜか1266年以前の事が記されていない。
神奈川県HPの歴史サイトには、758年に新羅郡が置かれた歴史的事実が記されていない。
神奈川区の歴史には、「神奈河」「狩野川」「かの川」「かな川」が古文書にあると記されている。
ほか、「神名川」「上無川」「寒川」など、「かの」「かな」の呼び名が幾つもあるということは、これらが本来の名の音写であるってことを意味している。
そうまでして忌避する必要がある文字は歴史的に観て「韓」以外に考えられず、 「神奈川」の語源が「韓川」であるということは、思想信条先入観を持たずとも、容易にたどり着く合理的な結論である。
朝鮮関連の史実を隠蔽しようとする神奈川県や横浜市の姿勢に嫌なものを感じた。


15 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/26(木) 19:33:39
>資料によると
なんてわざわざ書くまでも無く、『平家物語』の有名な斎藤実盛の発言でしょう。
あれは平家の滅亡を必然とする作者の張った伏線であって、実際には実盛はあ
の富士川の合戦の場には居合わせていません。
この創作された実盛の発言が、後の富士川における敗走の複線にもなっている
のですが、鴨の羽音で夜中に逃げ出したという事もありませんでした。
伏兵を察知して後退し、まともに戦わずに引き上げてはいますが。

16 :1:2006/01/26(木) 22:44:13
都が京都にあったのだから西のが技術・文化で進んでいたと言う事に関係などあるのでしょうか?
たしか平家物語の「わかりやすい」本で目にした記憶があります。

17 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:01:28
>>1
関幸彦 著
『武士の誕生 坂東の兵どもの夢』
でも読んだら。


18 :1:2006/01/27(金) 00:31:35
>>17
ありがとう。図書館で探して見ます

19 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 10:08:03
最新の遺伝子研究で、関東人は朝鮮民族であることが完全に証明されてます。

大和民族(=神奈川西部・新潟より西の日本人)→中国渡来系を主とした民族、大和政権を樹立した。
蝦夷民族(=関東人)→北朝鮮渡来の民族、征夷大将軍によって滅亡させられた。
               朝廷が後期渡来人(=朝鮮人)をそのまま関東へ移住させた証拠文献・遺跡多数あり。

@酒の強さは遺伝子で決まる
http://www2.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html
アジアにおいて、
大和民族と中国人は、N型遺伝子が少ない。
関東人と朝鮮人は、N型遺伝子が多い。

A国立科学博物館 日本人はるかな旅展 遺伝子によるルーツ研究
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-26.html
B44-DR13は韓国最大集団→蝦夷民族(=関東人)は、朝鮮渡来の民族
DNAでは西日本と中国との共通点が多く、関東は朝鮮半島との共通点が多い

BB型も朝鮮と関東に多い

関東人=朝鮮人。

20 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 13:57:51
>>1

その気持ち悪い研究に励むより
まず心療内科に行って来なよ。


21 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 15:30:40
武士は残酷さが生業の職能民だど

22 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 16:16:25
>>20は朝鮮人

23 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 01:24:42
「武士=職業的殺し屋」説ってどうよ?
http://mentai.2ch.net/history/kako/993/993371399.html

24 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 12:15:44
職能論マンセーは逆に古い

25 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 21:56:07
関東= 四角、白、馬、
これは朝鮮の文化。

26 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 13:37:53

もともとみんな首狩り族なんだろ。

27 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:33:59
       

28 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 12:12:55
>古墳時代から鎌倉時代に、日本人が長頭になったんじゃなくて、
>長頭の縄文系日本人が、渡来式の埋葬をするようになっただけ。

>つまり、縄文時代や弥生時代には、長頭の縄文人の埋葬方法が粗雑で、
>遺骨が、後の時代に残りにくい為、貝塚などのCaに富んだ土壌でのみ発見される。

>しかし、古墳時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代ともなると埋葬方法も、ちゃんと墓穴を掘って遺体を埋めるようになってきたため、
>後の時代に遺骨が発見される数が飛躍的に増えた。

>それと、弥生時代の骨の調査で、渡来人が居住した地帯からの骨ばかりカウントすりゃ、
>あたかも、その時代の日本人が中頭だったかのような誤解を招く。

>弥生時代だって、日本列島に居住してる人の大部分は、縄文系日本人なのであって、
>埋葬が粗雑だったがために遺骨が残ってないだけのこと。

>それと考古学的関心が持たれる遺跡(集落とかクニとか鏡・剣・勾玉なんかが出る)ばかり掘るので、
>そこから出る骨は渡来系が多いのは当たり前。


>鎌倉時代には、まだ縄文人の系統が、鎌倉周辺ではマジョリティーだったんだよ。
>関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、
>土着の地方豪族たちは、土着の農民らを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、
>ということは彼らが居住していたであろう鎌倉周辺は、14世紀になっても縄文人系が多かった。


>しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。それは何故か解るだろ?
>朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。

29 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 12:13:29
>78 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 23:20:26 ID:Uf/Cayc+
>>77
>え?基本的には縄文人は長頭だと思うが。

>ソースは、
>池田なにがしの古人骨の本(講談社新書か、中公新書か、岩波新書)
>だったと思うが。

30 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:33:28
「六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、懸合いて手柄の程をも
御覧ぜよ。」

坂東のほうが古風じゃないの。


31 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:43:45
兄が死んでも父が死んでも引くことを知らず、その屍を踏み越えて行進してくるらしいよ。

32 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:51:36
西も東も日本人は皆残酷って事で。

33 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:56:31
源氏は東国、平氏は西国。


イメージでは逆。

34 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:15:19
>>1
人の首刈ってたらしぞ。信じられん。

35 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:21:43
>>10
>関東人は他人に干渉せずが基本の為、見ようによっては冷酷である

いつの時代の話だよw
現代の関東人と古代の坂東武者は全然別。
戦国末以来、野蛮な坂東武者は負け組みとなって追放済み。
今の関東人は江戸以降に全国から集まってきた人々。

36 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 03:00:43
北条遺臣が徳川に追放されたなんて知らないぞ。

37 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 05:19:36
承久の乱のあと東国武士が西国へ移住したような
毛利氏も先祖は関東?

38 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 05:57:06
>>37
初代季光は大江の広本の四南。
だから京都

39 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:58:17
>>35
馬鹿w
関東各地に帰農してる。

40 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:37:55
北条氏(ほうじょうし)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。
また、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏ともいわれる。

時方のとき伊豆介となって伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に土着し、北条氏を名乗ったというが、
詳細はわかっておらず、平氏ではなく、東国から北条の地に移り住んだ豪族とする説が有力である。
その傍証として、伊豆の他の豪族と比べて地元に同族が少ないことが挙げられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F

41 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:38:49
承久の乱
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。
実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになった。
そして、1221年(承久3)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。
それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、
関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。


そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。


幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・天皇が流罪に処せられ、
朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。
当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される有様に大きな衝撃を受けた。
当時の社会における価値観は正反対に転換してしまった。
朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、
朝廷に対して優越することとなった(完全ではないが、少なくても幕府の決定を朝廷の決定が公然と破る事は出来なくなった)。

乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。
これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになった。決して幕府が望んだ結果ではないが、
朝廷と幕府の立場が逆転したことを物語る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C


承久の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

42 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:39:32
坂東英二みたいな侍に興味なし

43 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:41:08
関東武士は長頭で、その後頭部つまり後頭葉は視覚を司る部分。
空間把握能力に長けていた結果、弓や射撃の名人、騎馬や剣術の達人が多かった。
弓の達人といえば那須与一、剣術の達人といえば新選組の局長・組長クラスが有名だな。
長頭の白人や狩猟民族アイヌは武勇に優れていた。

短頭の民族(アジア系)は車の運転が下手として知られてる。
ハリウッド映画ではアジア女性の運転下手は揶揄されてる。
白人女性は運転はへただが、とくにアジア系女性は輪をかけて酷いらしい。
これは女の脳が空間把握する部分が足りないためだ。

アジアの農耕民族は、狩猟を必要としなかったために短頭化が促進され
白人は狩猟民族が長かったために視覚を司る後頭葉の拡大がすすんだ。
短頭のスラブ民族(スキタイ人)も農耕民族である。

つまり短頭の朝鮮人や関西人は車の運転がへた。


何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。
つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。
関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、
ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。

関東人は長頭、朝鮮人は短頭。
とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、
鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。それは何故か解るだろ?
朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。

44 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:58:09
日本人と朝鮮人の見分け方



※1
絶壁頭=短頭=朝鮮人

短髪・丸刈り頭にした時や、髪をゴムでまとめた時などに、
頭を横から見ると、
頭の前後の長さが上下間で、ほぼ同じで、
頭の後ろが、上下間で、ほぼ垂直に一直線になる。
頭を横から見ると、「□」形になる。
前←□→後ろ


非絶壁頭=長頭・長頭に近い中頭=日本人

短髪・丸刈り頭にした時や、髪をゴムでまとめた時などに、
頭を横から見ると、頭の後ろが、「つ」の字形になる。
前←つ→後ろ



※2
短頭=頭が左右に長く、前後に短い。頭を上から見ると正方形・正方形に近い・左右に長い長方形のどれかになる。=朝鮮人
長頭=頭が左右に短く、前後に長い。頭を上から見ると前後に長い長方形。=日本人
中頭=短頭と長頭の中間=日本人

45 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 19:00:05
うるさい、東日本人はダサい。
とにかく、日本ぽくて地味で
ダサい、。
以上!


46 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 19:10:55
>>38
武家の家系図なんて、ほとんどが、オレオレ家系図=自称家系図だよ。

東国武将・東国武士は、基本的に土着の東国人。

朝廷が関西にあった関係で、家系図で関西系になっていても、
朝廷の味方である、朝廷と関係が深い氏族などでないと、高い官位がもらえなかった為、
高い官位をもらう為の、家系図を偽造しての出身の自称が多かったし、
子供ができなくて、養子をもらう事も多かったから、必ずしも家系図が正しいとは限らない。


徳川家康=松平家康も、三河守の官位をもらうときに、松平姓で頼んだら、朝廷から断られたので、
得川氏の子孫を自称し、名字を松平から徳川に変え、三河守の官位を得た。

http://www2.harimaya.com/aoi/tokukeiz.html

甲斐・武田氏の出自も、よくは、わかっていない。

本物の源・平とかであっても、京都を追放され、各地方に土着しているんだから、混血して、遺伝子的には、各地方人。


戦国武将って、口ヒゲ・あごヒゲ・ほおヒゲが濃いだろ。

コーカソイドか、コーカソイドとの混血じゃないと、口ヒゲ・あごヒゲ・ほおヒゲは濃くならない。

モンゴロイド・朝鮮人は、口ヒゲ・あごヒゲ・ほおヒゲが薄いか、ほとんど、はえない。

47 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 19:17:00
あのねー東日本人なんかに興味なねーの
ダサい顔したデメキンデッパの東日本人
宣伝プロパガンダなんかうぜーからやめれ


48 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 19:44:00
承久の乱により、朝廷と幕府の立場は一変した。幕府は朝廷を監視し、時には介入するようになり、
朝廷は幕府に憚って国家の大事にも幕府に伺いを立てるようになった。

また、西国で多くの没収地を得、これを戦功があった関東武士に大量に給付したため、執権北条氏と関東武士との信頼関係が強固になり、

多くの関東武士が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

49 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 19:49:23
宇都宮とか古代渡来高麗人だろ、うぜーー!!!
東日本人なんたダサいし興味ねーのよ

50 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:27:53
>>49
ホロン部

51 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 03:02:15
スレタイは「平家物語」の影響が大きいと思います。一応は「文学作品」
ですから、客観的な一等史料としてはちょっと・・・。
>>17の著書は中々興味深いですね。

52 :日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:51:28
そんな事ないよ
結城の合戦ても幼い子を首切りするような奴らだし

53 :日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:53:16
>>49
ホロンだ。

54 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:12:39
ん?

55 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:37:43
>>51
滅んだ。

56 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 00:57:13
無敵

57 :日本@名無史さん:2006/07/18(火) 20:42:03
坂東武者

58 :日本@名無史さん:2006/08/26(土) 00:30:51
残忍じゃねえよ

59 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/09(土) 01:47:48
実盛の言葉にあるように、坂東武者が強弓を自在にあやつり、強馬を訓練して人馬一体に乗りこなし、
恐れを知らない騎兵であったことが『平家物語』の他、『源平盛衰記』、『保元物語』などの記述からも
推察出来るのである。(1995年、愛知大・福田以久生氏)


(東国の武士)狩猟民の系譜を引いている者が多く、東国は狩猟民の社会。
東国の武士団そのものも殺伐とした側面が存在。
弓を得意とし、馬を巧みに乗りこなす者たち。

(実盛の発言)東国武士団が西国の武士団のように田畑を支配の中心にすえた武士団ではなかったことを
多少オーバーに述べているのであるが、事実東国は「殺生」や「死」というものについて
重大視しない社会であった。日常的に殺生が行われている社会であった。
(2001年、福島大・伊藤喜良氏)


【平安期・駅馬価格】
陸奥467束、常陸・下野417束、信濃・出羽400束、近江250束、紀伊217束、河内200束

60 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/10(日) 01:57:59
>usi

渡来人の宝庫は大和国檜前とか。
中央貴種の血を在地豪族が取り込む。招婿婚。
秀郷流なら、母系・下野鳥取氏と父系・中央藤原氏(藤成)。

↓秀郷流平泉藤原氏


藤原魚名―藤成(伊勢守)―豊沢(母下野鳥取氏)―村雄(母下野鳥取氏)―秀郷(母下野鹿嶋氏)

秀郷流藤原氏は関東下野発祥。都に進出して鎮守府将軍も輩出してる。軍事貴族。
藤原兼光(足利,小山,平泉藤原祖)も鎮守府将軍。
坂東、都、それに俘囚勢力とも関わりがあった。
10世紀、坂東出身の軍事貴族が東北に進出してる。混血も進んだろう。
下野から都に進出、弓馬での狩猟から離れ、体も華奢になるかも。中央貴族の血も入るし。


・奥州藤原のミイラ(参考:富士大教授,七宮氏)
清衡⇒華奢な体型で手も小さい。父の藤原経清(都の軍事貴族出身)の血を受け継いだものか。
基衡⇒小太りでがっちり型。首の太い猪首。
秀衡⇒腹の出たがっちり型。首の太い猪首。母系の蝦夷の血か。

61 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/10(日) 10:11:33
>広島ウシ
近衛舎人は弓矢を具すといえども、武勇には及ばぬ者なり(『続古事談』)


↓都で騎射術を磨けなかった事がよく理解できるエピソード。

『今昔物語』の源頼光
若ク候ヒシ時、自然ヲ鹿ナドニ罷合テ、墓々シカラネドモ射候ヒシテ、
今ハ絶テ然ル事モ不仕候ハネバ、此ノ様ノ当物ナドハ、今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候

>鹿などの狩猟を行っていた若い頃と違って、今の自分は在京が長いため(都の武者だから)
>狩猟を行う機会がなく弓箭の技量が低下し、狐を正確に射る自信がない。

都で日頃行える馬上弓射は、馬場で行う制止的で単純な運動、流鏑馬や競馬などしかない。
つまり、京の都で騎射の訓練などは出来ないという事。

62 :白馬青牛:2006/09/11(月) 00:57:06
こっちに来い云うたけえ来たが、ここでも、白人崇拝厨が来とったんか。
過疎スレになっとるけえ、わしに書け云うんか。あえて乗っちゃっとるが
忙しいのう。また、他板であんたが書いとる事を繰り返しとる。
>>61
それが新ネタか?源頼光が宮仕えで忙しい故、狩猟する時間が無かったと
云うとるだけで、源頼光は西国の摂津源氏じゃないか。河内源氏に
支配された騎馬下手ロデオ関東人が、騎馬を論じること自体笑える。
公家が近隣で狩猟をせんかった根拠は、あるんか?
狐と云う特定動物を挙げとるが、当時の狩猟が狐狩り中心であった根拠も
述べてない。西洋の貴族の狐狩りを想定し、日本の狩猟形態に無理に
当てはめても、意味がないよ。日本史家に多い、狩猟文化のそれを、
西洋とだけ比較し、北アジアや東アジアの狩猟文化も考察せず、
自己満足に陥る、鎖国、井の中の「蛙」史観じゃのう。
越「蛇」に喰われたけえ、狭い「蛙」史観になるんかのう。

63 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:54:46
関東の影響はない

64 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 13:53:18
>1
都人(都会)と関東人(田舎)の感性の違い。


65 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 15:47:39
日本軍での捕虜の扱い

日露戦争
日本は、日露戦争、第一次世界大戦などで、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。

第一次世界大戦
詳細は板東俘虜収容所を参照。
(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)

第二次世界大戦
太平洋戦争中の日本軍による捕虜虐待事件として、
戦後に連合国の軍事法廷によって裁かれたバターン死の行進事件については、
行為当時の日本軍と米軍との間で大きな認識の相違があった。
日本軍側としては、同事件は捕虜虐待を意図したものではなく、
捕虜を護送していた日本兵自身も米軍捕虜よりも更に重装備を負いながら徒歩で同行しており、
日本軍として捕虜の保護になしうる限りの最善を尽くしていてやむを得なかったと考えていた。

太平洋戦争では、日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、
劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかった点があり、
戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国の軍事法廷で裁かれ、
処刑される者が多かった。
代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、
憲兵にも戦犯とされた者が多かった。



66 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/13(水) 00:06:24
>>62usi
あいぬ君を白人崇拝厨と言うなら、牛ちゃんは中華崇拝厨。

支配されてないんだが?出鱈目乙w
寝てる狐は屋根の上。
狐狩り???狩猟に最適な獲物は鹿。

67 :白馬青牛:2006/09/13(水) 00:16:49
>>65
近代日本軍の捕虜の扱いについては、時代による違い(軍政部や
指導者個人の資質)と、地域(郷土兵団)による違いも考慮する
必要があるけどね。
「支那兵をして捕虜になることは戦死と同様なことだと観念させ、
また荒らされた市民の恨みを買い、敵兵の抗戦意識と後方の兵站線の
不安とを大きくし、・・・」今村均将軍の云われるよう、日華事変、
第二次大戦の頃は捕虜の扱いはひどかった。
特に憲兵は、ひどかった。多くの日本兵士や日本国民からも嫌われ、
ましてや現地人から恨みを買った。
終戦後中国国府軍は日本兵に寛大な処置をとり、帰国させたが日本憲兵は、
軍事裁判で多数が処刑され、下士官、兵でも十年以上の重労働の極刑に
処せられた。
シベリア抑留でも、奴隷根性を持ち、簡単に共産ソ連の犬になり、
同胞の日本人を密告、虐待した。少数の方は別として、
多くの憲兵達は、思想より権力側に属し、甘い汁を飲む体質を持つと
云うべきか。

68 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/13(水) 00:21:18
うし来てるw
帝国陸軍スレ

69 :白馬青牛:2006/09/13(水) 00:40:30
>>66
何でわしが、中華崇拝厨ない。中華崇拝は、宋学の影響も強く、
中華的な宗族制を持つ東国じゃろう。西日本やアイヌは、末子相続制で
あるが、東日本の長子相続制は、儒教的な民俗性と云うべきか。
朝鮮半島の社会制度と東国は共通点が多い。
河内源氏に支配されてたことが屈辱なんかねえ。
狐狩り云うたんは、>>61を書いとる、あんたじゃろう。狩猟の獲物の
比重は東日本は鹿で、西日本は猪と云う傾向はあったろう。

70 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/13(水) 00:48:19
>>62
>今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候
この部分をスルーしちゃだめだろw

>>69
>畿内政権
ミニ中華思想
>河内源氏
お神輿みたいなもんだ。

狩りじゃない、弓を射ただけ。頼光と狐。
鹿狩が最高の軍事演習になるという。

71 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 00:55:02
東京男色博覧会

http://boyslove.co.jp/link1/dansyoku.gif




72 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/14(木) 23:57:38
牛ちゃんスレ見っけた。叩かれてるな。

73 :白馬青牛:2006/09/15(金) 00:11:43
>>70
スルーしとらんじゃないか。>>62の文を読め。
源頼信、頼義、義家ら、河内源氏に支配されたんがお神輿か?
鹿狩りの場合は初矢が重要で、猪の場合は致命傷を与えることが、
重要とされたのであろう。
何れにせよ、東日本は狩猟民の社会制度と共通性が薄い。
ツングース系狩猟民と比較すると、板東は東南アジアの越系農耕民習俗に
近いんじゃないか。坂東は、狩猟民を気取るど百姓と云えよう。

74 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 00:12:54
↑バカが必死になってる。滑稽滑稽

75 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/15(金) 00:24:46
>>73
頼光は狩猟から遠ざかった故に、弓の技量が落ちたと嘆いてる。
その部分に触れてないじゃん>>62

支配じゃないってのにw家人と朗等じゃ全然違うし。
農業先進地は畿内西国>>59
江上騎馬民族説w
畿内人と朝鮮半島人は、頭の寸法が2/3一致する。

76 : ◆pUs7fv/W/g :2006/09/15(金) 00:47:42
・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。
(上横手雅敬氏,京都大,2001年)


>うし
ところで、黒人ボクサーとかにケンカで勝てると戦国板で発言してたけど、
誰レベルになら勝てるんだ?
河内馬飼騎馬民族説とか出鱈目レス読んでる限り、逆の結果しか導き出せないが。

77 :白馬青牛:2006/09/15(金) 02:44:30
>>76
『平家物語』は編集時期が後世になるので、当時を反映したもの、権力が
関東側にあり公平とも云えんが、東国の源氏側が如何に戦闘儀礼を
無視したが解ろう。
黒人ボクサーをアリ氏じゃのうて、ハードパンチャーのジョージフォアマン
氏を挙げとったのう。まあ、相手の土俵のリングは別じゃが、
誰じゃろうと負ける気はないよ。あんたがボクシングやっとったけえ、
格上の相手にビビルだけじゃ。ボクサーは興行の上で強い訳じゃろう。
わしにゃは、関係ないことじゃ。どうも関東人は、劣等感が強いようじゃ。
そがんことじゃ黒人兵と白兵戦しても勝てりゃあせんよ。つまらんのう。
河内騎兵の末である大阪104D騎兵は異例の、同一年連続感状の武勲を
持つが、関東兵団に、そがん事例はあったんか?関東は、いにしえから、
近代まで、弱かった部類じゃろう。東北蝦夷にもやられとるしねえ。

78 :kawa1yasu4:2006/09/15(金) 18:45:06
>>77
別に『平家』だけじゃないし。
流鏑馬に戦闘儀礼もなにもない。都じゃ武芸は磨けない>源頼光

>相手の土俵のリングは別じゃが、誰じゃろうと負ける気はないよ。
( ',_ゝ`)プッ
広島の老牛がコーリースピンクスに勝てるの?その前にラッパーのNellyに負けると思う。
朝青龍にも勝つ自信ある??

師団スレで大阪最弱だとさ。広島より東北が強いんだって。最強じゃないじゃん。
東北蝦夷に不様に負けたのは京都人。もしくはだまし討ちで勝った気。
戦闘で東北蝦夷に勝ったのは坂東人。

79 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/15(金) 18:48:45
最悪・・・#忘れた
電波学者の名前だったのよwトリップ捨て替え。

80 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/15(金) 19:08:53
『今昔物語』の源頼光
若ク候ヒシ時、オノズカラ鹿ナドニ罷合テ、墓々シカラネドモ射候ヒシテ、
今ハ絶テ然ル事モ不仕候ハネバ、此ノ様ノ当物ナドハ、今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候

>鹿などの狩猟を行っていた若い頃と違って、今の自分は在京が長いため(都の武者だから)
>狩猟を行う機会がなく弓箭の技量が低下し、狐を正確に射る自信がない。

都で日頃行える馬上弓射は、馬場で行う静止的で単純な運動、流鏑馬や競馬などしかない。

81 :日本@名無史さん:2006/09/16(土) 22:27:18
>>77
本当に喧嘩したことあんの?w ヤクザ映画の見過ぎじゃないかいw
黒人ボクサー相手、しかもフォアマンクラスにビビル奴は劣等感が強いというなら
日本人みんな劣等感だらけだなw 広島人は違うのかい?w いいかげん虚勢張るの
止めなよ。

82 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/17(日) 00:25:04
フォアマンは人類史上最強の強打者だから、ビビって当然。
広島人はてーきょーにビビってたね。

83 :白馬青牛:2006/09/17(日) 00:44:12
>>78
都で武芸は磨けないじゃ、云うんなら、鎌倉幕府が「京畿に馴れたる輩」
に、坂東は実戦豊富で武芸を学ぶ必要がないと、云やあええんじゃ。
何で都の技術を学ぶんか?
あんたの感想は、どうでもええが、他人種に劣等感を持つ弱虫じゃと自負
しとんか。道理で東日本の兵団が弱かったんじゃのう。
師団スレとは、何処のスレか?大阪が最弱じゃ、実例を書いとるんか?
広島より東北が強い?笑うわい。そがーな実例が何処にあるんか?
広島が東北より強い云う逆例はあるがのう。蝦夷遠征軍の前線の中核は、
坂東兵じゃろう。
http://homepage2.nifty.com/rekikon/kaisou_touhhoku.html
の「21〜26えみしの社会」で坂東の兵が多く動員されたが、
坂東兵士の強さとやらは、さほど発揮出来んかったのう。
まあ、蝦夷との戦さは、東国に勢力を持つ、防人を引率させた大伴氏と
百済及び東漢氏との東北利権における、勢力争いで、百済系が勝利したと
云うこと。坂東人が東北蝦夷に勝った云う、前九年、後三年の戦闘じゃが、
人質の婦女子を殺害し、まさにこのスレのテーマである「板東武士の
残忍性」を発揮しとるが、残忍性が強いんか?

84 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/17(日) 00:58:33
>>83usi
馬じゃなくて形式的な流鏑馬だろ。
ルールとして洗練されてた都の流鏑馬を、都育ちで京にあこがれてた頼朝が
取り入れただけ。
坂東武士は毎日行う狩猟が訓練の場だから流鏑馬なんてお遊び程度でルールも適当。

サイト見れないよ。
前九年は凡将の頼義が清原氏の手を借りて勝てただけで、門客的な坂東武者が
多く参戦したと思われるのは義家の後三年。
残忍性=狩猟の風習も影響してるし、都人に軍事基盤としてこき使われた影響で
力こそ正義=自力救済の世界だったから。

85 :白馬青牛:2006/09/17(日) 01:33:59
>>80
在京が長いため云う文章がないじゃないか。捏造のこじ付け文を書くなや。
http://homepage2.nifty.com/rekikon/kaisou_touhoku.html
じゃったか。>>83の内容は。
>>81-82
あんまし、かばちたれよるけえ、喰らわしたことはあるよ。何で不思議がる
んか。関東じゃあ、異民族と遭遇したら、云いなりになる習慣でも
あるんか?そがーな劣等感を持つんは関東人の習性じゃろう。
関東人は、自身の価値観が、日本人の代表じゃ云うて、海外でも同胞の
日本人に価値観を押しつけるが、わしら大和系の日本民族にゃあ迷惑
じゃけえ、やめてくれいや。異民族にビビル軟弱者が、日本人の代表ズラ
すなや。フォアマンクラスと云うが、>>82の云う通り、相撲取りクラス
頭から突っ込むぶちかましに及ばんとしても、パンチ力は強力じゃろう。
まあ、相手のペース通りに、単純な殴り合いする馬鹿もおらんけどね。
数秒で決着する喧嘩と長時間闘う格闘技は違うが、闘う前からビビル
連中に、勝たにゃあ、つまらん云うても無理かのう。

86 :白馬青牛:2006/09/17(日) 02:07:34
>>84
残忍性が狩猟の風習?ツングース系狩猟民において病獣や傷ついた獣を
見逃すのは、彼ら狩猟民の特性じゃないか。
狩猟民は残酷と云う関東農民のど百姓の価値観で、狩猟民を根拠なく
残忍と愚弄するんは、とうてい許し難い。何であんたは自らの偏見で、
決め付けるんか。狩猟民は、生業から、モラル、自己抑制に、優れとる。
関東の習俗である旅行者や乞食を射って殺す連中と一緒にすなや。
農耕民の中国の江南は、旅人を殺し、嬰児を殺す習慣もあったろう。
赤ん坊を殺す習慣は、東日本の習俗で、西日本は、地域差もあるが薄い。
ツングース系狩猟民も、間引きの習慣は無い。東日本人は、持ち前の、
狭い視野(鎖国史観)で、自ら習慣が普遍的じゃと勘違いしとる。

87 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 02:19:20
>>85
広島人はみんなビビらないとでも?それに>81ではただの異民族にビビっている
とは言ってないし。もー少し読解力つけましょうね。オツムの弱い相手に相手に
説明しても無理かのう。

88 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 02:27:40
>>85
お前に大和系日本人代表ズラされる方がよっぽど迷惑


89 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/17(日) 19:38:59
>>85
源頼光と弓馬:近藤氏、元木氏の貴重な考察。
都の武者の頼光が、京の何処で狩猟するんだ?ねーだろ、そんな場所。
中央軍事貴族が狩猟を磨くなら、伊勢や大和・河内とか所領でするだろ。


・称徳天皇 『続日本紀』神護慶雲三年(769)年
この東人は常にいわく 額に箭(矢)は立つとも 背に箭(矢)は立てじ

・大伴家持 『万葉集』
あづまをのこは いでむかひ かへりみせずて いさみたる たけき軍卒

>>86
またツングースかw
つか、殺生を一番忌み嫌ったのが権門都市の畿内人だろが。
西国人は稲作農業と密接だったから。

90 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/17(日) 19:41:27
>牛ちゃんw
それはそうと、素手でヘビー級ボクサーに勝てると思ってるの?w

この罵倒にかけろ♪
気合で書き込めよ♪
誰もおまいをとめられない♪
青牛よつっぱしれ〜♪

91 :白馬青牛:2006/09/18(月) 01:41:29
>>89-90
また、同じコピーの繰り返しか。つまらん。中国南部の稲作民の「越」は、
間引きや旅行者を殺害する習俗等、関東と似とる。蝦夷の推結、魋結も
中国南部や古朝鮮の髪型で『魏志』に描かれる倭人の断髪と共に
南方の稲作民に近い。北方渡来系の近畿古墳人から視ると、異質な連中
じゃろう。殺生を嫌うんは、農耕民より、遊牧狩猟民の方じゃ。
チベットやモンゴル、満洲族が大乗仏教の信者であったこと、
江南系の「越」は、朱子学、道教等。仏教では、鎌倉関東政権は宋学の
影響を受け、「禅」か。
何でボクシングのルールに合わせて、素手で闘う必要があるんか。
道具が無い場合は、頭突きを食らわすか、拳を握っちゃあ駄目じゃが、
○で○部を撃つか、○を撃ち窒息させるか、相手の眼に、(特に○根部の
○側も重要じゃが、)指を突っ込んじゃるに決まっとろう。
もう、これ以上は、書けんよ。犯罪を煽るように誤解される。

92 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 02:01:34
大丈夫、牛の脳内喧嘩だれも信じないからw
そんな事してタダで済むと思ってんのw日本軍の白兵戦の本からのパクリだろww

93 :白馬青牛:2006/09/18(月) 02:49:40
>>92
信じる、信じんは、あんたの勝手じゃ。新興宗教じゃあるまいし。
タダで済もうが、済むまいが、勝たにゃ、意味がないよ。
日本軍の白兵戦の本のパクリじゃ云うとるが、日本軍の白兵戦闘は、
銃剣や、上の階級の連中は刀じゃ。
確かに現代の世界の特殊部隊のマニアル本には、素手での対処の仕方が
出とるよ。ほいで昔は、左翼側の学生運動やっとった連中も、マニアル
対処法を書いとった者がおったろう。
まあ、西洋者のマニアル本は、フットワークの様な、側から攻撃し止めは
内部を狙う云うスポーツに近い戦闘法で、一発に生死を賭ける日本人の
戦闘方法とは違う。全てが参考に云うわけにゃいかんよのう。
パクっても、役にたつか、たたんかは、自身の経験も考慮せんとね。

94 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/18(月) 07:55:23
>>91
現代の相撲だって素手。>93フットワークは一種の才能。
スピードの違いを考慮せよ。運動音痴の神戸史観せんせじゃあるまいしw

牛ちゃんはスポーツ馬鹿にしすぎ。真剣勝負なんだぞ。
武人や武士の戦争だって、遊びの要素が含まれてるんだから。
流鏑馬しかない都の武芸じゃ、子供のお遊び程度だがw

西国の「祓え」は中国江南由来、稲作文化と比例するものだろ。
殺生や死も嫌う「穢れ」。畿内中心に西国で浸透する思想。

95 :白馬青牛:2006/09/18(月) 23:53:37
>>93
フットワークじゃあ、間に合わんよ。わしが、ガキの頃、袋をこさえて
(作って)天井にヒモを吊るして、打撃練習をしとった時、
祖父から、目標を見て、構えて打つようじゃ遅い云われたもんじゃ。
眼が目標を捉えた時は、手も同時に到達しとらんと、相手と眼が会うた
時は、もう一撃食らわしとらにゃいけん。ごく普通に歩いとって、
通行人にも察知されんよう、対処せい云うことでもあるんじゃが、
容易じゃないんじゃけどね。柔道五段の方(戦前の柔道初段は戦後の三段
クラスの実力じゃったそうな)相手に、軽くあしらう事が出来た祖父や、
祖父が、喧嘩の名人じゃった云われた曾祖父から見たら、わしなんぞ
幼児のレヴェルじゃろう。ほいじゃが、スポーツ人クラスに劣るとは
思わんよ。まあ、格闘技より川魚を突いて捕る方が、練習になるじゃろう。
構えて、お互いに戦闘意思を出してのスピードなんぞ意味がない。
真剣勝負のレヴェルも下がるのう。それこそ子供のお遊びじゃないか。
江田島の海軍兵学校を視察した英国人が、日本人の最初から止めを刺す
銃剣戦闘法と母国の軽いジャブを出し、隙を見つけて強打を浴びせるような
銃剣の使い方と文化の違いを述べておったが、ほんま、向こうはスポーツ
じゃ。日本人なら、一瞬で勝負を決める。

96 :白馬青牛:2006/09/19(火) 00:24:20
>>93
続いて、まあ、相手を敵と確認した時は、眼と同時に手が出とらんと勝負の
間に合わん云うことじゃ。
>殺生や死も嫌う「穢れ」。が、江南、稲作?「出血供儀」や内臓の
供儀、動物の耳、鼻、頭を初穂として山神に捧げるんは、月神話圏の
東南アジアの農耕地帯に広く分布する。
一方、「無血供儀」は、北アジアの牧畜文化圏に見られる慣習である。と
岡正雄氏は云われる。確かにモンゴルでは、羊を殺し、解体する時も、
血を大地に流すのは穢れるとして嫌う。肉を焼くのも火の神が穢れるゆえ、
嫌う。モンゴルの羊料理は、茹でた羊肉が基本じゃろう。
北ユーラシアの牧畜民の慣習や、東南アジアの農耕ー狩猟文化を考慮せず、
また、日本国内しかも東国鎖国史観の思い込みで書いとる。

97 :白馬青牛:2006/09/19(火) 02:27:50
ほいじゃが、運動音痴でない関東ロデオ君が、真面目にスポーツに
励んでおった姿を想像すると面白い。普段わしに、ふざけた文を
書いとるんじゃに。
そういやは、わしゃは、カケッコ(徒競走)の位置について、ヨウイ・ドン
の時、隣の者が、ケツを浮かせるけえ、隣の者のケツが欲情しとるんかと
思い、瞬間、浣腸してやったら、前のめりに転げて、カケッコでドベ
(最後位のドンケツ)になりよった。真面目に走るより、そういう悪戯の
方が面白かろう。後ろから来る者にスタートから握っとった砂をかけて
邪魔したりせんかったか。もし全然ない云うとるんなら、余程、真面目な
スポーツマンじゃ。

98 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/19(火) 07:26:09
>>95
日本、いや世界最強は自分だと言いたいんだなw朝青龍よりも強いんだろ?
>>96
殺生禁断思想と西国。意味が違う。
>>97
・・・・。

99 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/19(火) 20:37:23
>>97
付け加えれば、そんな態度じゃ怪我する。

100 :白馬青牛:2006/09/21(木) 01:02:30
>>98-99
誰が最強じゃ云うたんか。>>95をよう読め。わしゃはその程度じゃ。
殺生禁断思想は、「遊牧民が、いくら屠殺に馴れているとはいえ、
殺すという事は余り気持ちのいいものでないらしく、」と西川一三氏が
書いておられるが、屠殺方法も遊牧民は出来るだけ、家畜を苦しめぬよう
殺害するが、「支那人はほとんど咽喉を切って殺している。この方法は、
羊は長く苦しみもがき大切な血をタラタラとこぼし、残虐極め余り感心した
方法ではない。」とも書いておられる。
関東は、血を穢れと思わず、しかも人間をも捕え殺害したことが、
勇敢としたいんじゃろう。残酷さと、勇敢さを混同しとる。
東国は、残虐農民で狩猟民の伝統を、余り受け継いでないね。
誰が怪我するん。わしゃは、怪我せんかったよ。まあやられた者も
大して怪我せんかったよ。ほいで、笑い話になるんじゃ。

101 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 04:07:37
ああ、八幡太郎はおそろしやおそろしや〜

102 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/21(木) 07:49:33
>>100
フォアマンに勝てると抜かして、「わしゃはその程度じゃ」はないだろw

穢れというのは多かれ少なかれ存在する。
だけど日本の貴族社会が生み出した畿内のそれは、度を越してるわけで。
羊は全く関係ないだろw

とりあえず、運動会と一緒にするなってこと。
高校野球板で叩かれるワガガッコカナシス

103 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/21(木) 21:56:43
>うし 
魚さえ食うのを忌んだ平安貴族もいたのに、比較が羊の屠殺とはw

コレ訂正。
競馬じゃ弓すら射てないから、静止的ですらない。
幅の狭い平坦な馬場で、都のお遊戯武芸w

『今昔物語』の源頼光
若ク候ヒシ時、オノズカラ鹿ナドニ罷合テ、墓々シカラネドモ射候ヒシテ、
今ハ絶テ然ル事モ不仕候ハネバ、此ノ様ノ当物ナドハ、今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候

>鹿などの狩猟を行っていた若い頃と違って、今の自分は在京が長いため(都の武者だから)
>狩猟を行う機会がなく弓箭の技量が低下し、狐を正確に射る自信がない。

都で日頃行える馬上弓射は、馬場で行う静止的で単純な運動、流鏑馬や笠懸などしかない。

104 :白馬青牛:2006/09/22(金) 02:02:18
>>102-103
よう読め。わしゃは、上の世代の人らほどじゃない云うたんじゃが、
格闘技者に劣るとも思わんよ。
最近コピーばっかしじゃのう。平坦な馬場でよう弓を射つことが出来ん
けえ西行に学んだとでも言い訳したいんか。関東は平野が広うて、
平坦な場所も多かろうに。平野が多いゆえ、山地の兵と違い、
近代の関東兵団は、行軍が苦手じゃったんかのう。

105 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/22(金) 23:03:53
>>104
朝青龍>白馬青牛>フォアマン>コーリースピンクス>その他
こんな図式に納得できるわけないだろw

源頼朝が西行から下野藤原秀郷以来の兵法の話を一晩聞いただけなのに
西行に学んだってw
流鏑馬での弓の持ち方だけだろが。
都の流鏑馬術なんて遡れば東国のパクリだろ。中澤氏が言うように。
馬場の平坦と、自然上の平坦の違いも知らないのか?

106 :白馬青牛:2006/09/23(土) 01:28:29
>>105
おいおい、わしゃは、朝青龍より下か?
秀郷が下野の豪族であっても、子孫の西行は西国武士じゃないか。
血統を云うんなら秀郷の末裔とされる奥州藤原氏は人種的に蝦夷や現代
東北人より現代京都人に近い(埴原和郎氏の多変量解析法による分析)。
秀郷の末裔、下河辺行平のような「京都に馴れたる輩」が関東武士の
弓馬の師匠であって、騎馬下手、関東ど百姓武士は、パクルほどの技術が
あったんかのう?

107 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/23(土) 02:00:09
うしは朝青龍より強いのかwww

平泉藤原氏は下野秀郷流だって言ってるだろ。
秀郷流は下野から京に進出して、都の軍事貴族になってるんだから。

何が関東武士だよ。頼家の師匠だろ。
下総の秀郷流下河辺行平は頭も切れた人物だろうし、頼朝のお気に入り。

百姓武士ってw田畑依存は西国人だろ。


(東国の武士)狩猟民の系譜を引いている者が多く、東国は狩猟民の社会。
東国の武士団そのものも殺伐とした側面が存在。
弓を得意とし、馬を巧みに乗りこなす者たち。

(実盛の発言)東国武士団が西国の武士団のように田畑を支配の中心にすえた武士団ではなかったことを
多少オーバーに述べているのであるが、事実東国は「殺生」や「死」というものについて
重大視しない社会であった。日常的に殺生が行われている社会であった。
(2001年、福島大・伊藤喜良氏)

108 :日本@名無史さん:2006/09/24(日) 17:55:38
>>104,106
あんたの云う強さならヤクザがいちばん強いな。力道山もドスでやられたしな。
でもあんた最近の奴ナメ過ぎ。報復とかされた事ないの?

109 :白馬青牛:2006/09/25(月) 01:28:03
>>107
下野藤原が京に進出?逆じゃないか。藤原秀郷は、京の貴族の左大臣、
藤原魚名の末裔じゃろう。更に昔の古墳期から関東は北方渡来形質の
新モンゴロイド系が流入しとるよ。西行の弓馬談に感心した北条泰時や
三浦義村は関東武士じゃないんか?
東国武士が狩猟民の系譜?相模系は漁撈民・海民系と思うが。
9世紀以降の気候温暖化で、関東の農業生産もかなり増え、農業社会じゃ
ろう。狩猟民らしさは関東武士に無いね。何しろ乞食や旅人を殺す残酷さ
で、温情に欠ける。狩猟民は傷ついた獣を見逃す温情に溢れておるよ。
残酷性を誇るのも、精神異常のサディストと思われる。東国人は、
精神異常者が多いんかのう。
>>108
格闘技者よりも、命のやり取りをするヤクザの方が強いんは当然の
ことじゃ。戦争体験者の世代が強かったんも、白兵戦で命のやり取りを
やっとるしのう。後方で行軍だけしとった部隊は別じゃが。
わしゃは、他民族に体格とやらで劣等感を持つ関東ロデオ君が
可笑しいんじゃが。まあ、最近の者じゃろうと、どがいな相手でも
ナメとらんよ。子供でも、武器を持ったら一発じゃけえのう。
ほいじゃが、最近の者は、睨んで威嚇だけする者が増えたんじゃないか。
昔じゃったら威嚇する暇がありゃあ、即攻撃しとった者が多かったよ。

110 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 11:02:50
太古の話を今の価値観でサディストとか精神異常者とかいうほうがアホ
西だって似たようなモンだろ。

それと関東の人にでも西日本に劣等感持ってますかって聞いてごらん
「頭大丈夫ですか?」って言われるよきっと




111 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:20:01
>>110
たしかにwww


てか俺は素人なんだが東西への人の行き交いがある程度盛んなれば違いなんてたいしてないんじゃないのかな。
違いがある地域てのは一部ではないのかなと思った

112 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/25(月) 19:07:03
>>109usi
×弓馬談
○(都仕様の)流鏑馬談

>相模系は漁撈民・海民系と思うが。
平安期の話のわけで。支配階級である兵、武士は弓馬狩猟を日常好んだ。
特に相模で漁業が盛んになるのは江戸時代。
江戸期末でも相模の農業生産性は低い。水田の少ない関東は概ね低い。

>残酷さ
都の公家でも残虐な輩は多いけどなw

身体能力の違いを理解できないあたり、底抜けの馬鹿牛。
朝青龍と牛ちゃん。朝の一撃であの世行きだな。

113 :白馬青牛:2006/09/25(月) 23:50:25
>>110
『奥州後三年記』でも、婦女子、降人を殺した関東化した義家と
「つはものの道、降人をなだむるは古今の例なり」と考えた都育ちの
義光との違いじゃろう。西国が違わんと云う根拠はどう云うもんからか。
だいたい、関東人は、狩猟民の蔑視、西国の蔑視が目立つね。
しかも世界の諸民族と比較もせず、妄想世界に閉じこもる何時もの癖か。
>>112
何で狩猟にこだわって漁撈を軽視するんかのう。関東マンセーの網野善彦氏
も、北条氏海民要素を指摘しとるんに。ふと、考えるに、佐原真氏が、
琉球やアイヌ人と違い本土日本人は縄文時代から狩猟民でなく、採集民で
あると云う主張の逆バージョンを云うとるんか?
農業生産率が低い場合、陸上動物の狩猟だけで、食糧を賄えるもんかのう。
アラスカやシベリアのイヌイット(エスキモー)は、海獣猟で栄養分を
捕っておるが、極北地域以外は、植物生産が主流じゃないか。
植物生産で糧量が賄えん地域は牧畜を生業とし、糧量を得る。
関東が狩猟で糧量を得た社会でもあるまい。縄文期から動物タンパク質は
内陸の集団より、海岸の貝塚民の方が摂取しとったらしいが。
飢饉の多かった西日本が稲作で食える時代が続いた訳もない。

114 :白馬青牛:2006/09/26(火) 00:09:15
>>112
残酷なことじゃは、関東ど百姓には勝てんよ。都の貴族に限らず、
西国武士も。戦闘は身体能力以前に勝負を決めんといけんよ。
相手を見て撃つような反射神経に頼るようじゃ遅いよ。
なるほど、近代でも関東兵団が華北で八路軍に遅れを取ったんが
理解出来るね。オーストラリア兵にさえ、ジャングルにおける白兵戦で
負けとったんか?関東人はシベリア抑留の時もロスキーの体格に
ビビッタ者が多かったんも、あんたの考えから、なるほどと理解出来るよ。
関東兵に白兵戦は無理か。

115 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:21:13
ふーん


116 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/26(火) 07:06:56
>>113-114
だから、関東は江戸期でも畑作中心。相模上野武蔵とか水田率低い。
粘質な河内は水田耕作の優良地で農業生産率が高い。農耕に牛を使役する。
気温が低く乾燥した東国の気候、地盤は馬飼育に適している。千葉には徳川幕府の牧が広がってたし。

平安末の武士、在地領主はど百姓じゃない。室町期の地侍と一緒にされてもな。
それを同じに考えてしまった電波学者が、1996年の川合康氏だが。
武蔵の河原兄弟は農民じゃないぞw

117 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 23:15:22
>>114
なるほどじゃねーよwお前何言っても関東の悪口返ってくるなw
広島人はデカくて格闘技やっている外人相手でも誰もビビらないのか?w
お前じゃねーぞ、他の広島人だからな。ビビっている奴らは奴隷根性持っている
って事なんだろ〜。まあどうせつまらん擁護して関東貶して終わりだろうけどな。
お前ワンパターン過ぎ


118 :白馬青牛:2006/09/26(火) 23:50:42
>>116
瀬戸内の島諸部も江戸期は稲作じゃのうて、畑作じゃったが、畑作は、
農業じゃないんか?武蔵野台地が畑作に適しておったろうが、武蔵の
荒川流域や下総の水郷低地は?気温が低く乾燥した東国?よりも
乾燥地帯である朝鮮半島も馬飼育に適してなかったね。馬飼育の中心は
現在に至るまで済州島じゃった。『新唐書』の新羅伝にも、島で牛馬を
飼うたことが、出ておるが、広島藩でも馬飼育は島じゃった。関東は
離れ島しかないんで、しょうがないか。
在地領主という上層部の人間が農民でないんは、当り前じゃないか。
室町期の地侍でも、先祖が農民よりも、狩猟、漁撈、芸能、宗教、
被差別民等、折口信夫氏の云われるこれらの集団から発祥した要素が強い。
徳川氏も、先祖は新田源氏じゃのうて遊民僧の徳阿弥じゃと、大久保
彦左衛門は、『三河物語』で暴露しとったのう。まあ三河は傀儡師の産地
じゃったし。定着農民よりも、自由移住民が征服者になる云うこと。

119 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 00:33:42
>>116>>118
議論がずれている希ガス。煽りあいでも議論はかみ合わせたいものだw
関東平野は畑作中心、というより畑作でも生産性は著しく低かった。
火山灰土はリン酸欠乏なので何を植えても実が付かないからだ。
(例外は木の実(ナッツ)で、栗の産地は関東のあちこちにある)
リン酸欠乏が最も酷いのは谷地で、小規模水田を開くことは非常に困難だった。
だから中世末になっても谷地の多くは湿地のままで放置されており、
谷地に突き出た舌状台地に各豪族が城を構えることになる。江戸城もその一つだな。

だが西国の花崗岩崩れの沖積土・新しい堆積土は稲作には最適で、
中国地方などはかなり山奥の谷地田(東国式の言い方だが)でも
生産性が著しく高かった。山や島嶼は戦国末まで常緑広葉樹の深い森だ。
西国で赤松が本格的に卓越するのは17世紀以降と言われる。

だからと言って、東国で馬の飼育が特に発達したことの論証にはならない。
関東平野は貧しくて何にも使えなかっただけかもしれないのだ。

120 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/27(水) 01:20:15
>>118
全体として見て水田率が低い。上田が少ない。
>在地領主という上層部の人間が農民でないんは、当り前じゃないか。
その在地領主が農耕馬で戦に出たと主張しちゃった電波学者。そりゃ違うってw
うしの事じゃないよ。

>>119
日本国内で牧が多く設けられるようになるのは7世紀(後半)頃以降だが、
それ以前の古墳時代後期、信濃上野など副葬物として実戦的な馬具が多く出土してる。

時代が下り平安初期、東国への馬牧依存度は更に高くなってるし、御牧は東国四ヶ国。
官牧の分布が古代牧の全てではないが、東国に馬牧、西国に牛牧が多い。
九州以外の西国は馬牧経営に適さない。歴史が証明してる。
虫の大量発生は馬にとって病気の原因となる大敵。
上野国は空っ風に代表されるように高地で乾燥してるし、広範な馬牧に適してる。
ところが上野だけじゃなく、安房はもちろん、伊豆も馬牧経営に適してたようだ。

『和漢三才図会』(江戸期)⇒関東には馬多く牛少なし。

121 :白馬青牛:2006/09/27(水) 01:53:00
>>119
煽りあいじゃないよ。東日本はヒエで西日本はアワと云う違いはあったが、
また気候の温暖期と寒冷期で違うが、農産物から得る食糧は、概ね雑穀が
中心じゃったろう。中国地方の山地の生産力は小寒冷期の江戸時代や
明治期でも少なかったよ。広島県の山地住民が、ホイトと軽蔑されても
海岸部へ移住したんは、生産量が低いゆえじゃ。
関東は標高の高い地域は常葉広葉樹林じゃが、平野部は照葉樹林地帯じゃ。
中国地方でも山地は広葉樹林(ナラ林)地帯で本格的な冷涼地帯は東北地方
からじゃろう。
>>120
あんたは、気候・地理の知識に乏しいけえ、もう一度勉強し直して、
書くほうがええど。

122 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 01:59:44
>>120
西国で牛飼育が盛んだったのは農耕に必要だったからだろうよ。
技術導入は古墳時代後期らしいが、畿内西国では
平安時代には牛を用いた犂の利用が広まっている。
貴族のための運搬用(牛車)もあるけどね。
だが当時の馬は農耕には全く役に立たなかった。(小さく非力だったから)
貴族の車を牽くことさえも出来なかった。
だから生産性の高い西国では馬を飼うような生産性の低いことに
費やせるような土地が少なかったため
馬飼育は専ら土地生産性の低い東国に「追い出されてしまった」ということ。
上野国、安房国、伊豆国と並べれば、気候も地形も土壌もバラバラで、
適地としての共通点など何も浮かばないことは明らかだ。
適しているのではなく、馬を放つくらいしか
土地の使い道が無いから仕方なくやっているだけ。つまり消去法。
だから、馬を本当に必要とした武士は消去法ではなく
積極的に東国だろうが畿内だろうが西国だろうが馬を飼っていた。

123 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 02:13:11
>>121
そりゃ近世まで全国最強の瀬戸内沿岸と比べれば、中国山地の生産性は低いよ。
でも、山地の中では伝統的には恐るべき高生産性を誇っていたように見える。
中国山地は老齢の花崗岩準平原で、縦横に比較的広い谷間が走っている。
同じような谷間は地質の近い朝鮮半島南部にもあるが、
朝鮮よりずっと気候も穏やかで洪水の心配も相対的に低い。
この谷間は、山岳地域の耕地としては、
おそらく畿内の高地準平原上(大和国都祁など)と並んで
全国で最も優秀なもので、おかげで中国地方は
全国でもっとも山地の奥深くにかなりの人口を抱える地域だった。
あくまでも日本の他の山岳地域と比較してという話であることに注意。
これが逆の意味で表れてしまったのが、20世紀後半から今に至る
中国山地での全国で最も極端な恐るべき高齢化だ。
これは、「昔は意外にも結構大勢の人が住んでいた」ということを意味する。

124 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/27(水) 07:56:08
>>122
前半部分の内容に較べて、後半部分はソースもない脳内妄想の世界だな。
消去法ってw

そりゃ西国の兵も武士も馬は当然飼育してた。
西国武士だって衛府のお飾り官人とは違う。実戦に臨む弓射騎兵なんだから。
でも総合的に、優秀な馬は東国に譲るしかない。畿内産の痩せ馬。
【平安期・駅馬価格】
陸奥467束、常陸・下野417束、信濃・出羽400束、近江250束、紀伊217束、河内200束

125 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/28(木) 01:09:39
>>122
畿内の牧が潰されてるのを文献で確認できるのは、8世紀末〜9世紀初。
ところが、それ以前より国内の馬匹生産でも東国が中心になっていたことは
かなり遡って、古墳時代後期(6世紀代)の副葬物からも指摘できるし、
実戦的な馬具も東国。

上野なら、火山地帯の裾野を背景とした広範囲な馬牧経営。
安房と伊豆、馬の印象も薄いだろうしあえて挙げてみた。
粘質の強い西国は生産性が高い。逆に馬牧経営に適さない。
適す土地と適さない土地。関東内部にだって当てはまるし、特に武蔵北西vs南部とか。
畿内において馬牧経営が積極的だった河内の牧でも、実態は小規模経営でしょ。
関東や信濃と比較して、畿内の牧は小規模。大阪の森浩一氏も指摘してる。

>土地の使い道が無いから仕方なくやっているだけ。つまり消去法。
関東は馬牧だらけか?w
平安初期の田数で、安房四千町・下総二万六千・上総二万二千あるけど。

それと馬はもちろんだけど、牛にも輸送用としての役割が。
軍事的には、関東の馬に対して瀬戸内の船になるけど。

126 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/28(木) 01:17:03
↑輸送を含めて軍事的

長文つかれた。
>>119
>煽りあい
牛ちゃんが出没するスレは、俺が行こうが行くまいがそうなってる。銅蘇ろんすれ

127 :白馬青牛:2006/09/28(木) 01:22:56
>>123
中国山地の生産性も低いが瀬戸内海沿岸部も海は狭く、漁場を求めての
争いがあったし、浄土真宗地帯は産児制限が罪悪で人口過剰現象から
出稼ぎが多かった。農業労働も他所の村の農作業を手伝い、相互扶助に
よったほどじゃ。東北の山地の様に農民が親方に属す隷属農民で、
縦型社会で横の相互扶助に乏しい社会とは違う。20世紀後半を例に
とっても意味がない。広島県山地の人達も江戸〜明治期は、社寺の
縁下を宿とし、海岸部まで出てくれば、物を貰って食べ、命をつなぐことも
出来た。これらの人達を広島沿岸部の人達は、○○ホイト(乞食)と
云うた。中国山地で労働しても食いつないで行けない者、貧窮の民が
如何に多かったか。云うことじゃ。

128 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/28(木) 01:28:28
>>127usi
今宵も元気だね。おやすみw

129 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 02:12:10
>>124>>125
結局「消去法」という単語にカチンと来ただけで、
実質的論拠は認めているじゃないかw
東国は生産性が低いので、馬を放つくらいしか使い道がない土地が多かった。
これは関東平野に卓越する不毛の台地だけでなく、
安房国のようなちょっと考えにくい土地でもやはりそうだったと言うことを考えれば
実際には農業技術水準の問題も大きかったのかもしれない。
安房国は山がちな隆起堆積岩地帯で高温多湿、普通に考えて牧には適さない。
畿内西国の開発は飛鳥時代前の段階でかなり進んでいたので、
もう「あまり役に立たない」馬を飼う土地など無くなっていたんだよ。
集約農牧を行う先進地域でメーン作物ではなく片手間に行う生産物は、
後進地域で粗放的にしか行えない生産物よりも質量共に劣るのが普通。
これは日本(北海道を除く)における麦や大豆の状況を見れば良く分かる。
だから、単位当たりの価値が低い農畜産物の生産は、
たとえ環境が適していなくても、粗放的な地域に「追い出されて」いく。
ブラジルなどは大豆の生産に本来なら適した土地では決して無い。

130 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 02:21:56
もう一つ、騎馬民族への勝手な類推をするヤシが致命的に忘れていることに、
「日本列島では『真に騎馬民族的な生活様式』が採られたことは一度も無い」
ということがある。
モンゴルやスキタイなどの騎馬民は、
馬乳を飲むなど馬からさまざまなものを得て暮らしている。
馬で調達できないものは羊を飼って補い(こちらのほうが価値は高い)、
遊牧以外から得るものと言えば、基本的には
穀物を農耕民から買う(略奪する)程度で暮らして行く。
だが、関東も含めて、日本人が馬から乗り物・運搬以外の
用途を導き出したことは、明治維新まで全く無いに近かった。
関東においてさえ、騎馬民には絶対不可欠の羊さえ全く定着していない。
人間が生き延びるという行為に対して馬が貢献できる程度が全然違うのだ。

131 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/28(木) 23:27:44
>>129
だって>>122の一部、今まで牛ちゃんに主張してきた事とダブるし。
カチンwとやらを主張すれば、

・馬も農耕に使う。近世の東国、農耕馬(駄馬)利用が盛ん。
・畿内でも平安期は馬の重要度は高い。農耕牛といっても富裕層だろうし。
・仕方なく?
 馬牧経営は財力も人も設備もないと。野馬とはいえ放っといて育つものじゃないし。

安房は諸国牧が2つ。白浜馬牧は南端白浜町。
安房の江戸期の幕府牧(嶺岡牧)だと、下総(佐倉・小金)より小規模で牛も飼ってたけど。
佐倉・小金牧は幕末で広さ一万町、馬頭数5100余。近世だし、馬の質は落ちるが。

・当然だが、関東は畿内より馬牧経営に適している。大規模な小野牧とか。
 甲斐、常陸行方の駒。

【平安期・駅馬価格】
下野・常陸は下馬でも350束。
安房⇒上馬400束、中馬350束、下馬300束。平均350束。
畿内⇒上馬250束、中馬200束、下馬150束。平均200束。

132 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/28(木) 23:35:48
>>130
俺は騎馬民族説、その類の支持者じゃないよ。
半島経由の受容だし、渡来人が持ち込んだのを含めて。
去勢(睾丸除去)もしない暴れ馬。騎馬民族なら去勢する。
とはいえ、川合氏が日本馬をロバとか書いてるけどアホかw大きさしか見てない。
羊はペットくらいか。

>日本人が馬から乗り物・運搬以外の用途を導き出したことは、
>明治維新まで全く無いに近かった。
戦争(弓射騎兵⇒打物騎兵)、農耕、ステータスシンブル

(対うしレス、6/20)
元が採集民だとか関係なし。馬が入ってきたのだって4世紀末〜5世紀だ。
生活習俗は変化するだろう。
富裕層(武士クラス)が馬を活かした狩猟を日常行なう。
この狩猟文化が、東国に色濃かったという事だ。西国なら九州。

133 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/29(金) 00:14:01
>usi 元気だね。江上スレも復帰。

134 :白馬青牛:2006/09/29(金) 01:29:49
>>130
「日本列島に、『遊牧民的な生活様式』が採られたことは一度もない」と
直すべきであろう。騎馬民族の定義は、江上氏の説から満洲も含むと
なると、範囲が広い。しかも古代遊牧民の家畜所有数内田吟風氏の考察
では、北匈奴一人に対し馬0,7頭、牛羊一頭とされ、現在のモンゴル人
より比較にならぬ程僅少であったとされる。
馬乳を利用するんは、外モンゴルのハルハ人はそうであろうが、内蒙古の
チャハル地域は馬乳より、牛羊乳を利用する方が多いんじゃないか。
羊飼育は遊牧化の指標にもなるけどね。
略奪は遊牧民と農耕民の非常時の関係であろう。日常はお互い交易相手で
あろう。
>>131
半農半牧のモンゴル人や古代の高句麗人に至るまで、農耕に馬を使うとは
考えられんじゃろう。漢人は農耕に馬を使うが、アルタイ系北方牧畜民は
牛を農耕に使う。また馬の価格とは馬借の駄賃の値段か。
狩猟文化が、東国に色濃いんなら、狩猟民の習俗と何で相違が多いんか。
関東の習俗で狩猟民的と考えられる部分は何か?
富裕層でも日常的に動物タンパク質に依存したと思えん。
四川省のチベット・ビルマ系牧畜民の黒彜族は農耕地帯を征服し、
上層階級になり、農耕と共に牛・馬・羊・豚を放牧したが、肉が
食べられる時は慶弔の儀式の時ぐらいで、普段エン麦を糧とする。
普通の麦は奴隷の食べ物であった。昔のヨーロッパも同じようなもんか。

135 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/29(金) 01:53:46
>132シンブルw
>>134
得意分野で江上氏好きは分るが、せっかく仲間出来たのに噛み付くなんて、さすが。牛いいよ牛w
お馬の値段だよ。
基本は玄米と味噌だろう。西国武士より動物淡白を多く摂取し、バランスも良い。

136 :白馬青牛:2006/09/29(金) 02:08:46
>>135
自分の意見、見解を云うのに、仲間意識じゃの、弱虫の群れる性質に
合わせる必要もあるまい。
それたァ西国武士より動物淡白を多く摂取した根拠も提示しとらん
じゃないか。動物淡白を日常的に獲れるんは、山地の狩猟民より、
海岸の漁撈地帯の方じゃろう。


137 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 02:12:29
>>131>>132
東国住民が古墳期以降狩猟民化したなどという頓珍漢説は
そもそも無理。どうみても無理。ただの願望。
なぜかと言えば、ガイシュツらしいが、
人口学の観点からどう考えても狩猟民の存立は無理なのだ。
狩猟民の成立には、少数の人口でも驚くほどの土地を必要とする。
半農半猟の北アジア諸民族でも人口密度は信じられないほど低い。
縄文時代の関東は既に狩猟民の人口限界をはるかに突破して
採集+漁労民となっていた。そして、縄文後期の人口崩壊?の後、
弥生以降は西国ほどではないにしてもやはり人口爆発が起きている。
どう見ても狩猟の幅は狭まるばかり。
古墳時代の関東の人口密度では、狩猟でカロリーを補うことはほぼ不可能。
これはいくつもの例から言えることで、東国の当時の遺跡から
狩猟で得た獣骨が西国と比べて有意に沢山出てくるわけでもなく
東国に伝わる民俗信仰においても狩猟ネタはほぼ皆無と言って良い。
(狩猟ネタが皆無というのは日本神道全体の著しい特徴でもある)
例外は諏訪大社上社のミシャグジ神に獣などを捧げる神事だけだが、
諏訪大社の直接的影響の無い関東東海の他の赤口神、石神井神などに
狩猟系の神事が残っているということは全く無い。

138 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 02:45:41
>>131
まあ牛さんが書いてくれているのでガイシュツになってしまうが、
日本で農耕馬が使われるようになったのは、
明治以降西洋種の馬と馬に牽かせる農具群が導入されてから。
現在の北海道の道産子のような太くて大きい馬は前近代には存在しなかった。
江戸時代に東北で馬を利用する農耕が試みられたことがあるらしいが、
「馬がボロボロになる」ことが分かって中止された。
ttp://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/kachiku_nousagyou.html
(このサイトには、東国の馬が優秀だとは書いていても
 乗りもの用以外何に活躍したのかはっきり書けていない。
 要するにそういうことだ。東国では明治まで専ら人力耕運だったという
 驚くべき話も書かれている。)
結局、前近代の日本馬は犂も車も牽けないわけで、
荷駄を運ぶにしても馬に直接載せる以外方法がなく効率が悪い。
華北の律令制を真似た奈良時代にはオーバースペックで駅馬と街道が整備されたが
平安以降は西日本の物資輸送は淀川・琵琶湖の舟運と瀬戸内海の沿岸海運が主流。

139 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/29(金) 07:28:59
>>137
ンッ??(つд⊂)ゴシゴシゴシ(;゚д゚)
そんなトンデモ話した覚えないんだけど?
>>138
何、そのトンデモw
農耕馬が近代から?エッ…何で?

140 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 22:44:55
>>139
農耕馬の話はリンク先を嫁。「牛馬」とごまかしているが、
江戸時代以前で農耕のための「馬」は全然出てこない。
岩手の馬は全国最大最強クラスのはずだが。岩手で無理なら全国で無理。
「東国の馬は優秀」はおまえさんの自論だろw
それに、関東の住民は狩猟民的で
「西国武士より動物淡白を多く摂取し、バランスも良い。」と言っているだろ。
だが、縄文以降ずっと、どう考えても栄養バランスに貢献するほどの「山の幸」は
東国の狩猟からは上がってこないんだよ。
今の猟友会のヤシが「ジビエを食べて栄養バランスがよい」
というのと同じくらいの馬鹿げた話さ。
現実には、明治の獣肉食の事実上の解禁以来、獣肉消費量は
一貫して「西高東低」なんだよ。東北日本は獣肉を長らく受け付けなかった。
全国的には肉類取り過ぎの生活習慣病が大きく問題視されているのに、
秋田県では「動物性脂肪摂取不足による脳溢血」が今でも問題とされていて
高齢者向けの「肉を食べよう」という講座がなんと今でも開かれている。
秋田県は言うまでもなく「マタギ」で有名なところだ。
だが秋田県民は獣肉を特に嫌うわけ。つまりそういうこと。

141 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 23:01:56
俺は牛ちゃんとは違って東国武士の優位性に関しては認めているけどね。
つまり、生産性が高く馬場用地確保も大変な畿内から「追い出されて」、
生産性の低い東国の広大な野原で馬に関する技能と馬の質を確保できた東国武士が、
平安後期から鎌倉期にかけての武士の台頭に大きな役割を果たしたことは認める。
だが、
これが関東の大昔からの狩猟民的体質が受け継がれただとか何だとか、
くだらない理屈をつけることには一切同意できないね。
この点では俺は牛ちゃんにも批判的だ。東国と西国の社会構造の差なども
実際には弥生文化が一旦九州から東北まで浸透した後で地域分化した話に過ぎない。
東国・九州的な「縦社会」と畿内・西国的な「横社会」の差異も、
これが畿内中心の蝸牛的分布をしていることから分かるように
文化と生産性の発達によって横社会的な互助がより強くなってきただけのこと。
こういうものを全部「東西対立」だの「縄文弥生対立」に結びつけるのは、
あの網野善彦唯一にして最大の汚点著作である
「西と東が語る日本史」と同じ、救いようの無い愚考だ。

142 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/30(土) 00:26:49
>>137>>138>>140>>141
つまり、近年の武士発生論研究を知らないんだな。
出鱈目すぎてどこから答えたらいいのやら…困ったもんだw
まず、近現代と直結して考えるの辞めないと。

>>137>諏訪大社の狩猟神事
御射山祭を壮大な祭礼として整備完成させたのは、鎌倉武士の北条氏なんだが?
日光=狩猟神。
>>139>リンク先&農耕馬
墓穴掘ったなw
そりゃ耕起は明治以降だろ。
でも近世以前の馬の農耕利用は、運搬と厩肥の役割があるからだ。牛も当てはまる。
>>140
つか、関東武士の狩猟は古代中世までなんだけど?
>>141
俺のは通説に従ってる。
そこまで言うなら、おまいさんの武士発生論を述べたらどうだ。

牛ちゃんが正統派に見えてきちゃったw

143 :白馬青牛:2006/09/30(土) 00:28:00
>>137-138-141
小山修三氏の人口推計では、縄文後期は16万人、弥生期に60万人、
古墳期に540万であり、埴原和郎氏は、三浦半島等、弥生期に
尖兵的北方渡来系が流入しても、関東に本格的北方渡来系民族が大量に
移住したのは古墳期とされる。人口爆発は古墳期じゃろう。
狩猟儀礼は皆無じゃないよ。狩猟の獲物(首〜内臓)を捧げるんは、
各地にあるよ。狩猟ネタが皆無とは云えんよ。
東日本は犂利用に乏しかったが、馬の農耕に使うとる。常畑を耕作し、
地力を維持する為厩肥を投入しとる。馬の糞は醗酵する時に熱を出すので、
耕地を保温する機能を持ち、冷涼なブナ林帯に欠かせん生産手段じゃ。
その事情が「東北日本の牛馬小作制度の要因となる」と市川健夫氏は
云われる。
西国武士(西行や平家降人)から弓馬を学んだ東国武士の何処が優位性が
あったんか述べとらんのう。九州の松浦党に東国的縦社会的なものが
あった云う根拠はあるんか。九州が東国に近い社会になったんは、
東シナ海文化圏としての儒教の影響も考慮せんといけんね。
『魏志』倭人伝の弥生人の習俗は古墳人より、蝦夷(文身・推結)に
近いじゃないか。じゃが、列島東西は、多少人種も違い、社会構成では
大いに違う。網野氏だけじゃのうて、宮本常一氏も指摘されとる事。

144 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/30(土) 00:43:25
>>143
今でも江戸後期の古い家見ると、馬小屋の名残はあるな。玄関とか近くに。
家の良い場所で大切に飼われてた。群馬は馬頭観音多いし。

×弓馬
○流鏑馬
後年になって、西行の秀郷流+都流儀の「流鏑馬」を作法を懐かしんだ。

145 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/30(土) 07:38:38
今週、熱入れすぎて寝不足になっちゃった。


平安時代後期における武士の発生は、農民・名主の自衛論とは別に
弓箭の芸に秀でた狩猟民を構成要素として、彼らが軍事貴族と結びつく形で武的集団へと
成長したとの考えが有力になっている。
東国が武士成長の基盤とされるのも、馬牧が多いこの地域が八世紀以来の蝦夷兵站基地としての
性格に規定されており、騎馬を基本とした東国武士の登場はかかる事情に由来した。

『国史大辞典』からで古くなるけど、2006年現在の定説もこれと同じ。この場合、地方武士を指してる。
兵站基地と狩猟。これが重要。
武士の狩猟は東西問わず軍事訓練としての意味合いを持っている。
『今昔』の頼光説話にもそれが反映されてる。

>今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候
狩猟を行う機会がなく弓箭の技量が低下し、狐を正確に射る自信がない。

146 : ◆26IT/WpOkg :2006/09/30(土) 08:00:11
兵站基地としての坂東を示す史料の一つ。
数字に誇張があるだろうけど、『続日本紀』神亀元年(724)四月。
「坂東九国軍三万人教習騎射試練軍陣」

147 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 15:46:54
>>145-146
俺は基本的にその説の最前段に否定的なんだけどね。あとは否定しない。
>弓箭の芸に秀でた『狩猟民』を構成要素として
ここだけ。もちろん畿内から下ってきた「貴種」ではなくて
地元の中下級武士ということだけど。
彼らにも大雑把に分けて「東国系(関東系)」「蝦夷系(北東北系)」があるが
蝦夷系であったとしても狩猟民という生活様式とは関係無いというのが俺の説。
(これは平安時代東北蝦夷の生活様式論とも深く関わるけどね)
ただ、関東は長く律令政府の兵站基地であり、東北は長らく戦争が続いていたので
地位住民の武装への親和度が高かったということは言える。
徴兵制の国では成年男子が皆当然に銃を扱えるというような話だな。

現代でも東北日本のほうが「古墳・律令大和的ライフスタイル」に
どういうわけか強く執着するように見えるというのは、
近代日本の民俗文化の不思議なところだが、
この起源は思っているより古く根深いのではないかと考えている。
主食は米ではなく稗だった可能性が高いが、
肉・乳の食用、革の利用と言った家畜の総合的利用から縁遠く
(勿論革などは使わなかったわけではない)
蛋白摂取は水産物にこだわる。サケが豊富だからというのもあるが。

148 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 15:59:38
>>147訂正
×地位住民
○地域住民

ちなみに、縄文時代、摂取カロリーの堅果(どんぐり)依存率が最も高かったのは
宮城県の縄文人だったという分析結果もある。異様な虫歯率がそれを裏付ける。
このような植物澱粉質依存の生活が今に至る「コメ原理主義」へ横滑りしたのか
それとも弥生系への住民と生活様式の全面入れ替えがあったのか
このあたりは微妙なところではある。どうもはっきりしない。

149 :白馬青牛:2006/09/30(土) 23:42:41
>>144-145
馬小屋の名残たあ、曲家のことか。曲家は、岩手県のそれがよう知られとる
が、群馬、栃木や広島県の山地にも見られる。安芸西北山地八幡高原地方
には、どこの家も馬を飼い、中門造りの中門の部分に厩がある。
流鏑馬と弓馬の技術は同じく。
武士の起源に狩猟民要素が強いことは、あんたが引用した五味文彦氏も
指摘されておられるね。豊後の「騎猟の児」、「平将門に率いられた東国の
狩猟民、藤原純友に率いられた西国の漁撈民、これらすべて狩猟民と呼び
たい。」「五衛府・軍団及び諸の帯仗の者、武となす。(中略)これらの
武士の供給源は、京都周辺の豪族、なかでも河内、摂津国の豪族で
あった。(中略)貴族の武力の基盤が衛府や馬寮などの官人となった
武士であったことがうかがえる。」「(源)頼信は、摂津国に基盤を持つ
武士であり、甲斐守となり、東国にやってきて勢力を広げていた。」
「(源)頼義朝臣の威風大いに行はれ、拒捍の類みな奴僕の如し。(中略)
会坂以東の弓馬の士は大半、門客となる。」武士の起源は山地土着系と、
渡来要素の強い漁撈民、河内、摂津の北東アジア、北方渡来系の要素も
あろう。武士の起源については様々な考察があるが、上層部の渡来系と
下士足軽の土着要素について書いてみた。じゃがあんたは、いっつも
「定説」云う新興宗教信者の様な言葉を使うのう。学説の時代の定説
なんぞ、学説の流行に他ならんよ。

150 :白馬青牛:2006/10/01(日) 00:54:26
>>146
兵站部で徴発された奴隷兵の要素も強いね。大伴家持が狩猟民だけ集めて
防人を構成したとは考えにくい。
>>147-148
東国系と蝦夷系という区別は何か?それたあ、山地民の文化は畿内から
蝦夷まで分布しとる。国巣、土蜘蛛、山夷。農耕民は蝦夷でも田夷も
おった。現在東北日本の方が「古墳、律令、大和的ライフ・スタイル」?
何じゃ、そりゃ。意味がさっぱり解らん。東北地方が縄文期から植物採集が
主で後世家畜文化に乏しいので、動物タンパク摂取は少なかろう。
(縄文期でも海岸地域は動物タンパクの摂取も多いが。)
反騎馬民族思考、自称農耕民族の佐原眞氏は、縄文期から現在まで
本土日本人は琉球、アイヌ人と違い草食民族とされるが、本土日本人の
山地の焼畑狩猟民は動物食(内臓や皮利用)が受け継がれたとされる。
被差別民の肉食文化や漁撈民の食文化まで及んでないんが残念じゃが。

151 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 22:49:09
>>150
「古墳律令大和式ライフスタイル」というのは妙な言い方だが、
要するに一般的な言い方をすれば「純和風(純日本式)生活様式」
ということだよ。
稲作・米飯にこだわり、稲藁を総合的に用いる生活様式を編み出し、
麻布(のちに木綿)の開放的な涼しい衣類とサンダル型の開放型の履物を履き、
エネルギー摂取を植物澱粉質「主食」に専ら依存して動物蛋白・脂肪の摂取が少なく
魚介は食べても獣肉は常食とせず、家畜を使った総合的生活文化に欠き、
高床式の涼しい家を最上のものとする(もちろん土間はあるが)
ただ、日本式というと「じゃあ日本って何だよ?」となるので
妙な言い方になったのさ。
この「文明プロトタイプ」は、間違いなく北緯33〜34度前後の
九州〜畿内の西日本の気候風土に適合するものだ。
(これは、土間式の家に住み、餃子をつくり、小麦粉食を食べ、獣肉を好み
靴を履く、と言った「漢族の文明プロトタイプ」が
北緯37度前後の華北平原の気候風土によるものであることと
比較すればよく分かる)

152 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 23:01:34
続き。
俺の目には今はやりの「狩猟民=武士起源論」は
前レスの「日本式生活様式一元論的」な伝統的民俗学・歴史学を打破するために
戦後さまざまな観点から主張された
「日本文化と言ってもいろいろ多様なんだよ」論群が、
やはり「敵と同じ隘路」に嵌ったいわば願望論の要素が強く見えるんだよね。
「日本は多様なはずなんだ」「狩猟要素はきっと大和から遠い東国に強いはずなんだ」
「山地民は狩猟的要素をかなり後世まで濃厚に持っていたはずなんだ」とね。
「日本も多様だ」って「確かにそうだ」とブレークスルーできた状況を
前提にしてみれば、意外なものが見えてくる。
東日本と西日本に分割してみたり、山岳民と平地民を分割して
「多様性」を考えて見たところで、現代に繋がる文化から忠実に遡ってみれば
そのような明確な断層は見えず、
むしろ妙な共通性や「モデルへの逆進性」が見えてくるようだ。

153 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 23:11:46
さらに続き。
家畜の総合的な利用に関しては、
むしろ畿内西日本の平地民に濃厚な伝統が見られる。
獣肉食の伝統は潜伏しながらもかなり明確に継承されたようだし
江戸時代にはモカシン型の革靴さえ広く使われていたくらいで
これは古い伝統であり、かつ現代まで文化の基本要素として継承されている。
だが、言うまでもなく、西日本に色濃い被差別民の職能問題と深刻に関連する。
西日本の一部では漁労民の職能さえ差別的色彩を持つ深刻な問題だ。
被差別民の社会構造に関してはいくつもの複雑な問題が絡むので
ここでは細かい言及を避けるが、
畿内では「被差別」とされた職能に含まれる文化要素について、
東国や山岳などはそれが大手を振って歩いているパラダイスなのかと言えば
決してそんなことは無いし、昔から無かったと言える。

154 :白馬青牛:2006/10/02(月) 00:22:12
>>151-152
衣服等も古墳時代の筒袖から、日本の気候風土により、袖の幅が広がった
んじゃろうが、採集植物食は縄文期以来の影響も考える必要はあるが、
獣肉を常食するんは、>>134に彜族の例もあるよう半農半牧民でも難しい。
文明のプロトタイプが緯度で判断出来るんか?華南、東南アジア、
オセアニアや琉球でも豚肉は重要なタンパク源になっとらんか。

狩猟民=武士起源論が戦後からじゃのうて、戦前、折口信夫氏も
指摘しておられること。狩猟要素は、平地民との差異、西日本、東日本の
山地文化を考察するのに必要なことじゃし、多様性を無視すると、
東南アジアの平地農耕民、山地の焼畑狩猟民等の区分せず、東南アジア文化
と一言ですませるんじゃ、文化類型や領域区分の設定も意味がのうなる。
民族学や文化人類学を否定しとる云うことか?現在に繋がる文化たあ何か?
そのような明確な断層が見えんと云う根拠は何か?最後は妙な共通性など
と、あんたは終始、抽象論を云うとるのう。

155 : ◆26IT/WpOkg :2006/10/18(水) 01:24:48
また戦国板でうし妄想が始まったw
面倒になって根負け、休止してたがw…仕方ないな。

>>149usi
自分から東馬西船と言ってるようなもんだねw
何度も言うけど、中央下級武官の主力は、地方富裕層で弓馬に堪能な連中を集めたもの。
まぁ、なんとか実戦集団としてみれたのは、その初期の頃だけ。
律令制自体は唐を模倣したものだけど、日本の軍団制は地方頼みで唐とは違ってる。
頼信のような中央貴種と坂東の地方武者の関係は、いわば利用しあう間柄。
河内摂津を言うなら、百済とか安羅だな。
>>151
穢れ観念に色濃く侵食されて差別社会、殺生も特に嫌ったのが畿内など西国。
墓制なんかみても、近畿人は墓を恐れてるだろ。屋敷墓とかないし。
東北や関東は縄文的な竪穴住居だな。
>>152
違う。アンチ網野って感じに読めるけど、武士=狩猟民(支配者層の狩猟)、
これはもっと前から指摘されてること。>>154のとか。
>>153
畿内の家畜利用=生産性の高い、狭い土地。
関東の山地農民と毛皮商人。
近世後期、関東各地の諏訪社で狩猟供犠も続いてた。農耕的。
元祖の諏訪大社の狩猟儀礼も鎌倉武士あってこそだが。農耕的。
皮革の材料は地方産だな。技術力の大坂など畿内都市だろう。
>>154usi
蜂須賀とか。

156 : ◆26IT/WpOkg :2006/10/18(水) 01:35:24
戦国板行ったよw

中世の史料、『田植草紙』(鎌倉,室町期の中国地方の小歌)にある。
「坂東殿ばらは弓は上手なるもの、空立つ鳥を射て落といたり、
さても上手や、空飛ぶ鶴を落といた」

157 : ◆26IT/WpOkg :2006/10/19(木) 00:18:15
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160583607/l50

158 :白馬青牛:2006/10/24(火) 01:33:30
>>155
東馬西船は、五味氏は、そう考えてじゃろう。まあ、農耕利用として、
東馬西牛。中国の南船北馬とは違う。北馬の華北はステップの延長の
乾燥地帯で、騎馬兵の比重が強い。西方オアシスの延長でもあるんで、
馬車文化、農業も牧畜要素が強い。華南や朝鮮は、歩兵と船文化じゃろう。
東西日本も後者に属する。
蜂須賀ら尾張系たあ、三河・美濃は傀儡子の産地じゃったし、折口氏の
云われる、漂泊芸能民の要素が強い。山陰も傀儡子の産地じゃった。
鉢屋賀麻党も芸能集団でありながら、遊撃戦部隊兵でもあったしのう。

159 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 02:59:40
>>155
>関東の山地農民

おいおい。全国で一番「山地」自体が少ない関東で
「山地農民」なんてギャグにも程があるよ。
中部山岳の甲信地方には確かに山地農民がたくさんいたが、
甲信は歴史的・文化的にはずっと中部地方であって、
いわゆる関八州とはかなり文化体質が違う。
鎌倉政権がかなり中部地方的なのは確かだけどね。
東京一辺倒の現在の甲信文化の指向性は、江戸時代後期以降のもの。

なお、遺体処理に関しては、遺体は伝染病の感染源なので
社会が発展して人口密度が上がるほど
処理に関する社会習俗が煩くなる一般傾向がある。
弥生以降20世紀に至るまで、常に西日本のほうが人口密度が高かったから
(さらに西日本のほうが平均気温が高い。もちろんこれは伝染病蔓延に直結する。)
西日本のほうが遺体を穢れ扱いする思考を持つに至るのは、社会衛生的に当然の話。
このような後世的な文化要素を、各地方の古来の伝統と結びつけるのは誤り。

160 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/01(水) 00:17:18
>>158
輸送手段として東馬西船の傾向が強いし、それが将門・純友にも反映されてる。
村井康彦氏がしゅう馬の党に対比させて、しゅう船の輩と表現してる。

>>159
近世末頃に毛皮を集め回ってた商人が、特に関東の山村の百姓から毛皮を仕入れてたという話(直良信夫)。
甲信と括る表現もどうかな?甲斐は関東でもあるよ。
中部地方的というより、信濃は鎌倉武士の勢力が浸透してる。諏訪社の狩猟神事もそう。

伝染病がどうとかは明治期のことだろw
衛生を気にするなら、鴨川から大阪湾まで死体が流れるかよw
中世までの庶民の葬送は、遺棄葬が多かったんだから。
鎌倉も蒸し蒸ししてるし人口密度も高い。死体も腐りやすいよな。
庶民は由比ガ浜に遺棄葬。

平安時代の都は、子供の死体や犬がくわえてきた死体の一部が多く転がってたし、
これらが自邸に侵入するのを病的に忌んだのが、都の貴族・官人層。
平安貴族ほど極端ではなくても、そういう思想が西国の庶民に色濃く浸透していく。

後世的な文化要素を結び付けてるのはどっちかな。

161 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/01(水) 00:20:15
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160583607/l50

162 :白馬青牛:2006/11/02(木) 02:46:59
>>160
また、関東史観のつまらんことを云うとるのう。伝染病が明治期じゃの。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/hikakukoukogaku.html
弥生後期(青谷上寺地遺跡)〜古墳期に結核菌の感染があったのに、
家畜飼育等、他文化要素が流入すると疫病が流行することを否定出来る
材料もない。あんたは、自らの妄想価値観で、疫病は明治期と断定しとる。
後世的文化要素で決め付ける。馬鹿じゃ云えるんはあんたの方じゃ。

163 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/02(木) 22:15:46
>>162
疫病が無かったとは言ってない。意味を汲み取って欲しかったな。
穢れの発生を、疫病・伝染病と直結させる見方に対して否定したんだよ。

今現在で一般的な葬法の火葬で言えば、衛生上の理由を含めて広まるのは近代以降だからね。
だから、衛生面の理由をはっきりと指摘できるのは明治時代。
火葬と穢れ忌避の関係は、柳田などが指摘してる。
1925年、関東は土葬が多い。南九州も土葬が多かった。

畿内に屋敷墓が無いわけじゃないけど、関東では多い。
田舎の方とか歩いてみれば多いから理解できるし、でも寺墓地の場合もあるけど。


嘉承元年(1106)、疫病、道路や河原に骸骨を積む(中右記)
安貞元年(1227)、疫病、河原に死体が雨脚のごとし(民経記)
寛喜三年(1231)、飢饉で洛中に死骸が充満(民経記)、藤原定家邸にも死臭が漂う(明月記)

・勝田至氏の説明
穢れは垣根などで囲まれた空間で感染するもので、道路や荒野など開放空間に穢物があっても、
それで天下が穢れるということはない。
ある家に死体などの穢物があるとき、そこにいって着座すると穢れに触れるが、
立ったままなら伝染しない。(←これが滑稽だなw)

穢れは他者にも感染するので、穢れが出た家では札を立てて外出を禁じる。
五体がそろった死体の場合は30日の穢、五体不具穢(体の一部)は7日の穢。

164 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:48:54
>>160
>後世的な文化要素を結び付けてるのはどっちかな。

残念だがおまえさんのほうだよw
おまえさんは無意識に19世紀ドイツ起源の公衆衛生学と、
近代細菌学を当然の前提として話をしている。
そんなものはそれ以前のヤシは当然知らない。
細菌の存在も感染ルートも科学的には知らない。
都市全体をパブリックな場所とする発想法も無い。しかし、
「伝染病死した遺体と関わり合いのあったヤシもまた同じ病気にかかるらしい」
というレベルの認識は一応経験則として出来上がる。
だから、死体を屋敷構えの外に駆逐する発想法くらいは生まれるし、
死体と関わるヤシには何かヤヴァイものが付くという発想法も生まれやすい。
「病気の素」が何で防げるかの科学的知識も無いから
屋敷構えという結界の中ではおkと考えられても不思議では無い。
祇園社の粽を門に飾ればおkなどという「非科学的習慣」は後世にさえある。
これは、世界中のある程度人口が密集した前近代社会にみられるもの。
なお、付け加えれば
鎌倉は、人口密集地として、たった百年程度の歴史しか持たなかった。
鎌倉幕府と共にスタートして、室町時代には既に都市では無い。
(考古学者が首をかしげるほど不思議な都市だ)
この程度の歴史の浅さでは因習は発達しないよ。

165 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/03(金) 00:24:55
>>164
で、なにが言いたいんだ?
伝染病への恐怖から穢れ観念が生まれた…と?
勝田・水藤氏らのマニアックなこの分野の研究成果を、全否定すると理解していいのかな?

166 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 00:55:31
>>165
別に全否定などはしていないだろうにw
俺が否定しているのは、「穢れが西日本古来の地域的文化体質だ」という話。
穢れ思想は被差別民の歴史とも絡んで、あまりにも複雑だが、
穢れ思想の生成と発展の大半は、
畿内西日本を中心に、温暖な気候と高い人口密度を持つ
都市生活または集約農業の農村生活のもとで現れた
「人の密集による社会的緊張」に因ると考えている。
ただ、西日本と東日本を雑に分ける粗雑なお国自慢理論に反論しているだけ。
ここに嵌ると、一流の学者が誰も彼も途端にお国板厨房に転落するw

167 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 01:07:57
それに、「甲斐は関東でもある」って
そんな網野の「個人的お国自慢」を真に受けなくてもいいのにw
鎌倉政権が中部地方的なのであって、伊豆や甲斐が関東なわけではない。
というのは、平安中期の東国武士の黎明期の活躍ぶりを見ていると
関八州のなかに特に何か断絶線があるようには見えないが、
鎌倉政権期になると、ほぼ古い利根川の流路を境に
東側と西側を分ける断絶線が現れる(房総は中間的だが)。
鎌倉政権はこの「西関東」を本拠地とする政権で、
さらに西側の中部地方と深いつながりをもっている。
同じ「関東」だが、東側半分との縁はかなり薄い。
この断絶線はその後、室町時代の関東大内乱状態の間もやはり持続し、
後北条氏、さらには徳川家康江戸入府になってもまだ持続する。
今でも特に方言上の決定的な断絶線となっているからね。
どうも、この断絶線は、西側の中部地方的要素が
関東の西半分に流れ込んで生まれたものであるように見えるのだ。

168 :白馬青牛:2006/11/03(金) 01:34:10
>>163
穢れの要素に、病や死等の忌諱は強いよ。シャーマニズムにも関わる
問題じゃ。シャーマンが祈祷して病気治療をするように、呪術と
治療技術が分離しとらん。病者が被差別民の集団に分類されたんも、
穢れの概念じゃろう。

169 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/17(金) 21:29:54
>>166-167
近畿より温暖な九州のが穢れ観念は薄いんだがな。死体が腐るとかは核心の問題じゃないね。
縄文時代は西国が後進地域。
伊豆・甲斐と関東管領。
鎌倉武士勢力が信濃各地に侵食してるわけで、うし風に言えば奴隷民・・
関東が信濃の影響を最も受けたのは、信濃の高句麗系文化を受け入れた5世紀前後だろな。
信濃の影響が強いのはむしろ上野では。
>>168
戦国板がんがれ

170 :白馬青牛:2006/11/21(火) 02:22:05
>>169
久しぶりじゃ。縄文時代に先進、後進を争うてものう、縄文期の人口の
大部分が東日本じゃった云うこと。鎌倉幕府は北条の伊豆政権じゃし、
伊豆、相模の漁民系と関東内陸部の農民系と違うとは思うけどね。
信濃・甲斐・関東西部は、高句麗系、あるいは百済系の影響が強いが、
上野は、新羅系の影響が強いんじゃないか。
戦国板のエールは、ありがたい。ほうじゃ、まだ戦国板に書いとらなんだ。

171 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 03:10:50
>>169
関東管領って、関東という言葉に騙されてはいけないよ。
今の「関東地方」とはかなり違うニュアンスの場合が多々ある。
鎌倉政権は、ハッキリ言えば信州より東海の影響が強い。
つまり有名な言い方で「木曽義仲」ならぬ『伊豆頼朝w』
もっと言えば「静岡政権」なんだよ。
400年後の徳川政権と政権の地域体質は意外にもかなり近いものがある。
それに、九州も北部を中心に穢れ観念と同和問題は今に至るまで極めて深刻だ。
福岡県の同和問題の歴史を知れば、>>169のようなレスはとてもできまいw
尚、九州でも南部まで行けば随分緩和されるが、
そもそも九州南部は弥生以降ずっと人口密度が低く、
穢れ云々の問題が先鋭化する前提がない。

それから、新羅だの高句麗だの言う話を中世まで持ち込むのは
俺はすべて完全な電波だと考えているw

172 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 03:39:16
縄文人を弥生人が駆逐したんだろ?北九州から関西にかけて。
関西の被差別部落の起こりは縄文部落だと言う説があるが、
動物解体などの技術や肌の色、顔つきなどからするとアイヌに親和性があるのは確か。

また薩摩や東北などの文化に近似性があったり、非常に武断的、情緒的で
扇動能力に長けるところなどは、それぞれの地域の地方政治見てても感じる。
小泉も元薩摩だったか。
ただIQが低いといったら語弊があるが(実際全国のIQテストは西日本が高い)、
長期的で綿密に計画を立てきるとかそういう能力は低く、行き当たりばったり。
狩猟民と農耕民との違いかもしれん。
関東はちょうど現代においては日本人の中庸ってところ?
太平洋戦争は結局のところ薩摩東北が仕切ってたからダメだったと京都人が言ってるが、
個人的にこの意見は間違ってないと思う。

173 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/21(火) 07:49:46
>>171-172
伊豆甲斐含めた十カ国に陸奥出羽を含めた範囲は鎌倉公方の統治範囲。
時代を遡ったり下れば、関東の範囲なんて一定してない罠。
>>159の甲信だけ括ってることへの反論として言ってるわけだよ。
静岡政権は言い過ぎだろw駿河だもの。

それで、人口密度がどうとかは思いっきり電波だろ。>>163
自然の実りに関しては縄文以来、東日本の方が恵まれてる。縄文人は東に偏る。
後世の東国武士が狩猟で武技を磨くにも恵まれてるな。

薩摩や東北の悪口言う前に、京都人の戦能力がダメダメだしw
狡猾さなら随一。その点の頭の良さはずば抜けてるか。歴史的な蓄積もあるしね。

174 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 09:10:33
京都人の維新以後の意見はアテにならん。悔しいだけだろ。未だに天皇行幸
させるとか言ってるしw 古い歴史に敬意は表するが見苦しい。

175 :白馬青牛:2006/11/21(火) 23:10:45
>>172
縄文人を駆逐云うより圧迫したんは、渡来系弥生人じゃのうて、
(弥生人は在来縄文系が多い、弥生期に渡来系が多数を占めるんは、
北九州、山口、山陰の地域に過ぎん。)、渡来系古墳人じゃろう。
アイヌ人の祖の北海道縄文人は、海獣や魚貝類をタンパク源としたが、
本州縄文人はドングリ・クルミ等の植物を主なタンパク源とした。
本州縄文人でも沿岸部は動物タンパク摂取が多くなるが。
同じ縄文人でも、北海道の狩猟漁撈民と本州の採集民とは食文化が違う。
東日本が狩猟民的とは思わんよ。
相続制、社会構成からも、東日本は、長子相続で縦社会。西日本は
末子相続で横社会。アイヌ人もモンゴル人も末子相続で、狩猟・漁撈・
牧畜民に多いが、長子相続は、宗族制が発達した形態で、朝鮮半島も
長子相続。東日本は、西日本の開拓団の影響の強い農耕民じゃろう。
関東が中庸と云うんは同意じゃが、東北人にも今村均将軍のように
立派な人もおられたよ。東北の指導者の多くが現実感覚より、
空想力に優れておった面はあるんじゃけど。

176 :白馬青牛:2006/11/21(火) 23:24:14
>>173
本土縄文人が、狩猟民より採集民と云うたんに、まだ狩猟民にこだわる
のう。しかも、関東も縄文系より渡来系が多いんじゃに。
京都人の戦能力がダメ?戊辰戦争で丹波(京都府)山国部隊に、幕府軍は
散々やられたのに。山国狩猟系に負けた関東農耕民と云う図式か。
近代兵団でも、関東諸部隊は、健脚や戦闘能力で丹波福知山聯隊には
かなうまい。どうも関東人は京都や上方に意地を張る傾向にあるのう。

177 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/22(水) 00:22:17
>>170usi
上野ー東山道ー信濃。
高句麗文化は信濃が断トツ、それで甲斐、そのあと坂東。
吉井連とかな。新羅人のメッカは京都だが。
>>175usi
またそれかw
>>176usi
東国の縄文文化も後期には衰退してくるけど、縄文中〜晩期の石器で見ると
関東中部は狩りの要素が強い石ぞく、畿内以西では石皿など植物採集への高さが読み取れるそうだ。

東国縄文人の食料の主体も植物採集だが、狩猟への関わりは三万年前から
北・東日本>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>畿内以西 
・・・だよ。

近代はここ
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐

178 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 01:10:20
>>173>>177
おやおや、ひどい電波だ。なんだ、格好つけて新説を挙げているように見えて
只の思い込み優先史観論者か。それこそ韓国国定教科書と変わらんよ。
縄文とて全く以って単純では無い。何しろ1万年近くある。社会が一定のはずが無い。
中央高地と関東平野の東日本縄文人が大繁栄したのは縄文中期。
縄文後期になると、おそらく寒冷化のためと言われているが、
関東と信州の縄文文化は壊滅的打撃を受け、縄文人は激減したことが遺跡から伺える。
土器の系譜から見て、彼らの生き残りのかなりの部分は、温暖な気候を求めて
本州南岸を西に進み、九州熊本あたりを中心に後期縄文文化を築く。
残りはなぜか北上したように見え、青森の亀ヶ岡文化の担い手になったらしい。
縄文後期と言うのは、「日本列島の中央部軒並みがら空き」となった状況であって
ここに九州北部で確立した弥生式農耕文化が一気に流れ込んで生産性を逆転させる。
弥生文化の担い手の人種構成というのは、これまた複雑なのだが、
真の第一波は板付に代表される土着縄文的人種、
第二波が遠賀川・土井が浜的北アジア的人種(いわゆる出雲系か?)
第三波が九州に比較的長くいて混交しエスニシティーを固めた弥生人で、
おそらく天孫族(つまり皇室)はここに属すると思われる。
記紀神話などは、先に先発の弥生人、それも渡来系人種の弥生系が存在しないと
説明できない記述が多すぎる。

179 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 01:21:29
まあ、古代史は誰が書いても多かれ少なかれ電波になるので
中世の話に戻すわけだが、
>>173であっさり奥州をひっくるめているが、
関東とりわけ西関東勢力と東北はかなり異質な地域なんだけどね。
これは、東京や神奈川などに残る大小の史蹟を見れば一目瞭然なのだが
関東から北上して「東北を征伐した」ことに関する史蹟で溢れている。
ヤマトタケル−源義家−源頼朝−徳川家康−明治官軍という2000年に渡る
「北上征伐」という「一貫した地域の記憶の連関」がある。
鎌倉にとっては、奥羽も畿内西国も等しく「征伐の対象」だった。
ただ平泉が早い時期に根こそぎアボンされたので、
初期の鎌倉政権にとっては、直轄感覚でもいいということになり
畿内西国への対策が際立って見える。
そりゃ平泉と京都ではいくらなんでも力の差がありすぎるからね。

180 :白馬青牛:2006/11/23(木) 00:47:18
>>177
甲斐は、百済人が多かったろう。京都は秦氏を新羅系に含んでの
解釈か?狩りの要素が強い石そくとは何か?縄文期から細石刃核も
東西で違うたようじゃが、関東は西日本型に属するんか、東北型に
属するんか明確でない。本土縄文人の植物採集は内陸民の特徴であり、
沿岸部の関東貝塚民は、動物、魚介類等の動物性タンパク摂取も
多かったんじゃが。
>>178
渡来系弥生人は少数で、渡来系は古墳時代以降に大量移住があったと
考える方が自然じゃ。土井ヶ浜や北九州は、北アジアと云うより、
華北人型じゃろう。鳥取の青谷遺跡の人骨は違うタイプじゃ。

181 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:11:13
みんなが縄文の末裔でありたいって思ってるのは理解した。

182 :白馬青牛:2006/11/23(木) 02:02:44
>>181
縄文の末裔でありたいのは、関東や東北の人達じゃないんか?
縄文人も篠田謙一氏によると、ブリヤートや雲南の遠い地域の遺伝子を
含むものの、朝鮮・遼寧・山東の近隣地帯に近いそうな。
縄文系でも、琉球人は北方系であるが、アイヌ人は確定してない。
北に住んでおったグループの方が南方系が残存しとったかも知れんね。

183 : ◆26IT/WpOkg :2006/11/24(金) 01:13:45
>>178
関東中部の縄文晩期は人口が激減した状況だが、それでも近畿より密度は高いぞ。
九州よりも(目糞鼻糞レベルだがw

>>180usi
『ぞく』
戦国板でまた西行に坂上とは、黙っちゃいられないよw

184 :(=゚ω゚)じゃないど ◆26IT/WpOkg :2007/01/07(日) 00:49:04
坂東殿ばらは弓は上手なるもの
空立つ鳥を射て落といたり
さても上手や空飛ぶ鶴を落といた
若い殿御が翔け鳥射たる弓手は
さても射たのふ見事や弓の姿は
(『田植草紙』晩歌一番)

重籐巻いたる弓のふりをしてな
坂東殿ばらの肩に掛からばやな
弓のふりして坂東殿御にほれたよ
何と言うても思うに寄らぬ我が身や
厳しいは坂東殿御の姿よ
(『田植草紙』晩歌三番)

田植草紙・・・鎌倉〜室町期の中国地方の小歌、広島県山県郡。

185 :日本@名無史さん:2007/02/08(木) 22:29:55
Y   Y
(・∀・) <hoshu

186 :日本@名無史さん:2007/02/14(水) 10:54:21
敵のことを必要以上に強い存在と
もちあげる(?)のは
古代大和王権の性癖ですよ。

187 :日本@名無史さん:2007/02/15(木) 18:21:40
そして講和の酒宴の席で攻撃するとか
武装解除のふりをして予備の弦で弓を張り直して攻撃とか
女装して敵頭領を暗殺とか
いかに自分達がヘタレで卑怯な勝ち方をしたかを
記録するあたりも大和朝廷の伝統だよね。

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